2017年 12月31日(日)降誕節第2主日礼拝
02:01兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 02:02なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 02:03そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 02:04わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 02:05それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
1 1節の前半に「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた知恵を宣べ伝えるのに」とあります。「神の秘められた計画」とあるのは、原文のギリシャ語では「神のミュステリオン」と書かれている。「ミュステリオン」とは「ミステリー」の原語となった言葉である。神のミステリーという言葉が指しているのは、十字架に付けられたイエス様が救い主・キリストであるという事柄である。それは、ユダヤ人をつまずかせるものであり、異邦人(主にギリシャ人やローマ人)には愚かなものだった。25節の「神の愚かさ・神の弱さ」という言葉で言えば、十字架のイエス様における神様の弱さと愚かさが私達に救いをもたらすという論理である。それを神様が私達人間を救うべく造られたミステリーだと言う。十字架が私達の救いであることは神様が造られたミステリーなのである。だから私達にとって、それがなかなかよく理解できないということがあっても、また、なかなかそれを信じることができなくとも当然だというのである。
十字架の出来事と比べれば、クリスマスの出来事は随分違っていたように感じる。イエス様が人として生まれたことの意義を、ちゃんと理解した人は少ないと思う。それでもクリスマスは、多くの人々にとって、つまずきや愚かなことではなかった。何か、おめでたく祝いたくなるような出来事と理解してきた。多分そこには、生命の誕生という喜びがあるからだと思うのである。12月4日から7日まで、インドネシアのスレべス島北部のミナハサ県にあるGMIMという教会を訪ねた。私達を3日間案内して下さったGMIMの若い牧師は、「このミナハサでは、クリスチャンが9割を占めているから何の心配もいらない。しかし、ジャカルタでは、表立ってクリスマスグッズを見せて歩くことはやめた方がいい」と忠告してくれた。ひとりの神様を厳格に信じるイスラムの人々にとっては、神が人として生まれるとか、その人間を神として信じることは、唯一無二の神を冒流する以外の何物でもないからであった。だからクリスマスに対して反感を持っている人が多いという。イスラムの人々にとっては、クリスマスでさえも愚かであり、つまずきであり、反感を覚えることなのであろう。しかし、私達の周りにいる多くの人々にとっては、少なくともクリスマスはそうではない。
十字架に付けられたイエス様が救い主であるということは、祝ってもらえるようなことではない。私達にとって、愚かであり、つまずきでしかないことなのである。しかし、私達がいただく励ましのメッセージは、それが神様の御心であり、神様が造られたミステリーゆえの、当然の特徴なのである。だから、このミステリーを宣べ伝えようとするときに、このつまずきであったり愚かであったり難しいという特徴を、薄めようとしたり取り除いたりしてはならないのである。
2 1節後半から2節に、パウロがこの神様のミステリーをコリントの人々に宣べ伝えようとしたとき、「優れた言葉や知恵を用いず」、「十字架に付けられたキリスト以外何も知るまい・語るまい」としたと書かれている。しかしパウロは、最初からこのようにできたかと言うと、実はそうではなかった。確かにコリントに行ったときにはそうだった。しかしコリントに行く直前に立ち寄ったアテネでは、ここに書かれているのとは全く正反対の宣べ伝え方をした。そのときの様子が、使徒言行録の17章16節以下に書かれている。
アテネの有名なアレオパゴスの丘でなされたメッセージは、「アテネの皆さん、あらゆる点において、あなたがたが信仰の厚い方である」という言葉からはじまっている。アテネの人々は、「道端のあちらこちらに『知られざる神に』と刻まれた祭壇を作っているほどに信心深い」とパウロは語りはじめた。そしてパウロは、神様は、決して知られざるような方ではなく「探し求めさえすれば神を見いだすことができる。神は私達から遠く離れていはいない」と語り、メッセージの最後の最後で、やっと「神はこの方を死者の中から復活させて」と言いはじめた。しかし、イエスという名前に言及することはせず、ましてや、その十字架の死などに決して触れることなく説教を終えたのだった。このメッセージ全体を読んだときに、私達が抱く印象は、「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした(1節)」とは、まるで正反対の感じがする。パウロは、彼が語り得る精一杯の優れた言葉や知恵を駆使して、しかし、語ろうとしたのは神様がイエス様の十字架の死を通して、私達を救おうとされた神様のミステリーではなかった。ミステリーなどでは全くなく、求めればすぐにでも出会うことのできる神様の存在を語った。アテネの人々から愚かだとかつまずきと思われたような十字架のことは、あえて語らなかったのだった。
では、この結果として、アテネの人々は、パウロのメッセージを受け入れてくれたのか。32節には「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうとしよう』」と言ったとある。パウロは、その場を立ち去るしかなかった。何人かは信じた人もいたようだが、神のミステリーを十字架のつまずきや愚かさを省いて語ろうとしたことは、ほぼ失敗に終わったのだった。
私達も、このアテネでのパウロと同じようなことをしようとする。先日、韓国の教会事情をお聞きした。何万人も会員がいるメガチャーチがある一方で、私達の教会よりも、もっと小規模の教会もあるという。メガチャーチの牧師は、大会社の社長のようなもので、そこに集まる人々は、どうしても教会の人脈を利用して立身出世を求めるような人が多くなってしまうという。そういう教会では、人々から愚かとかつまずきと思われるような十字架の出来事は、取り除かれてしまうのではなかろうか。神様・イエス様のことは、確かに語られるけれども、神様を信じれば出世できる・お金持ちになれる・強くなれるとのみ語られ、そこからは十字架のミステリーは省かれてしまうのではなかろうか。できるだけ多くの人々に神様・イエス様を信じてほしい、教会に多くの人が来て欲しいがために、私達もパウロがアテネでしたのを同じようなことをしてしまうように思う。
しかし、一見してうまくいったように見えたとしても、それは決して成功しない。その信仰は、人間の力によって与えられたものにすぎない。神様の力によるものではないからなのである。だから、何かがあるとすぐに消えてしまう。神様のミステリーの一端なりとも理解し、心をとらえられ、十字架の愚かさや躓きを乗り越えた信仰こそが、神様の力によるものなのである。
3 アテネでは、あのような伝道をしてしまったパウロが、どうしてコリントに行ったときには、1節から2節に書かれているような伝道ができるたのか。それは、3節に書かれていることが決定的に大きかった。「そちらに行ったとき・・・ひどく不安でした」とあった。アテネでの失敗を抱え、当時の言葉で「コリントする」と言えば「みだらなことをする」との代名詞になっていたようなコリントの町で、一体どうやって伝道したらよいのかと思ったとき、恐れに取りつかれ、ひどく不安にならざるを得なかった。
アテネで一言も語ることのなかった十字架のイエス様のことが、彼に迫って来たのではないかと想像する。使従言行録18章9節にはこうある。「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。・・この町にはわたしの民が大勢いるからだ』」と。「恐れるな」とイエス様が語りかけたのは、パウロが恐れを抱いていたことを物語っている。しかし、そんな彼だからこそ、語り続けることができた。そんな彼だからこそ、語る言葉があった。それは、十字架のイエス様が救い主だとの言葉なのであった。恐れや弱さを抱いているときにこそ、十字架の上で弱さを担われたイエス様からの支えをいただけたのである。それは強いイエス様からではなく、弱いイエス様からの助けである。十字架のイエス様が弱い自分と一緒にいて下さるとわかったのだった。弱い自分は決して否定されていないとわかったのだった。こうしてパウロには、語るべき言葉が与えられたのだった。そうであったらばこそ、たとえ、どんなに人々に愚かだと言われ、つまずきを誘ったとしても、これだけを語ろうと心に決めることができたのだった。神様のミステリーの一端がわかるようになり、十字架のイエス様の弱さや愚かさが自分を救うものなのだとわかるためには、私達もまた、パウロのように恐れや弱さを抱くことが必要なのである。
4 こうしてコリントでの伝道をしていたところ、思いがけず多くの人がイエス様を、それも十字架のイエス様を信じてくれるということが起きたのだった。アテネでは、精一杯のすばらしい雄弁をふるって、わざと十字架を省いて語ったのに、信じて欲しいと願った賢い人々は、ただあざ笑っただけだった。ところが、コリントに多くいた奴隷階級の人々が、十字架に付けられたイエス様に引き付けられたのだった。売り買いをされる商品だった彼らは、人々から要らないもの・不必要なものとして捨てられる辛さ・怖さを、誰よりも知っていた。イエス様が十字架へと追いやられ、捨てられた辛さというものが、我がことのようにわかったのであろう。だからイエス様に引き付けられ、なぜこの人は十字架に付けられたのかと、神様もまた、この世の主人が私達奴隷を捨てるように、この人を十字架の上に捨てたのかと、コリントの人々はパウロに問うたに違いない。この問いに答える言葉が、そのときのパウロにはちゃんとあった。「いや、人々には捨てられたが、神には、この十字架の死こそが必要だったのだ。十字架は、神がイエスという人を最も必要とするゆえのことだったのだ。その弱さや愚かさが、弱い私達を救うために必要だったのだ」とパウロは答えたに違いないのである。
こうしてコリントの人々は、十字架のイエス様が救い主だと信じることができたのだった。それが信じられたことによって、自分たちの辛い生涯の意義もわかったのだった。イエス様の十字架が、他の人々のために神様に必要とされたものだったように、自分たちの辛さも、誰かのために神様から必要とされているとわかったのだった。ただ辛いだけの奴隷の生涯が、イエス様を救い主として信じることができたことによって、意味あるものへと変えられたのだった。本当の救いとなり、励ましとなり慰めとなったのである。そこに彼らは救いをいただいたのだった。
十字架のイエス様から私達への救いがもたらされたという神様のミステリーは、本当にハードルが高く、多くの人を拒むものである。けれども、私達がその一端にでも触れたなら、もう私達をとらえて離すことのないものになる。十字架のイエス様への信仰は、神様の力によるものとなる。なんと力強いものであろうか。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 12月24日(日)クリスマス・イヴ礼拝
02:01三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 02:02イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 02:03ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 02:04イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 02:05しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 02:06そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 02:07イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 02:08イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 02:09世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 02:10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出す
1 この出来事は、この福音書を書いたヨハネにとって、特別に思い出深かった。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」とある。この出来事を体験したことによって、ヨハネはイエス様を救い主として信じるようになったのだった。ヨハネは、この福音書を書いたときには、もう100歳位になっていたと言われている。彼が30歳頃にイエス様を信じて、それから70年間、ずっとこの出来事を忘れることはなかった。もしもイエス様の生涯を記す福音書を書く時がきたら、その一番初めにこの不思議な出来事を書こうと、ずっと思ってきたのではなかろうか。
2 一体この出来事のどのようなところが、この福音書を書いたヨハネにとって、忘れられないものだったのだろうか。また、どうしてこの出来事によって、弟子たちはイエス様を信じるようになったのだろうか。それはまず何よりも、結婚式のお祝いになくてはならないぶどう酒が足りなくなったとき、イエス様がそれをとても不思議なやり方で補って下さったからに他ならないであろう。結婚式で、ぶどう酒が足りなくなるということは、象徴的に私達が生きてゆく上で、ぶつからなくてはいけない「不足」という困難を現しているように感じる。人間として、この世を喜んで祝いつつ生きてゆくために、どうしても不可欠なものをぶどう酒が指している。幼い子供たちにとっては、両親の愛情であろうか。大人になった私達にとっては、健康や、そこそこの経済的なものがそうであろう。今、私の知り合いに、末期ガンで、もう緩和ケアしか対処方法がないという状況に置かれている人がおられる。その方にとっては、肉体の命そのものがぶどう酒であろう。
この結婚式は、イエス様の母親のマリアの親戚にあたる人のものだったようである。だからマリアは、披露宴の責任者として精一杯その準備にあたってきたのかもしれない。しかし、お金が足りなかったのか、結果的に充分な量のぶどう酒を用意できなかった。このように、どんなに準備しても努力しても、私達には用意することのできないぶどう酒がある。私達人間は、悲しいかな、そのような不足に直面せざるを得ないのである。
ヨハネの心に70年間ずっと刻まれてきたこのことは、イエス様が、そういう私達の不足に向かい合い、その不足の中で、不思議なイエス様の姿をはじめて現して下さったという点なのである。イエス様は、私達の不足をそのままで放ってはおかない。無論、私達の抱える不足が、私達の希望通り満たされるとは限らない。私には今、こういうぶどう酒が足りないと訴えても、そのぶどう酒そのものが満たされるとは限らない。しかし、イエス様は決して、私達が人生を喜んで生きるのに必要なものが不足したまま、私達を放置されることはないのである。それがヨハネの、およそ30歳のときにイエス様を信じて、100歳まで生きてきた実感だったのだと思う。
3 ぶどう酒が足りなくなったことに気が付いたマリアとイエス様の、不思議とも思える会話が書かれている。母に対して「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」などと言うのは、なんとよそよそしい態度だろうか。イエス様の思いは、「私達が人生を喜んで祝いつつ生きてゆくために必要なものは、結婚式のぶどう酒以上に、もっともっと大事なものがあるのだ」、「その不足を私は補ってあげたいのだ」ということだと思う。「私が本来出る幕というのは、こんな場所ではなく、もっともっとあなたがたが私を必要とする場面があるのだ」という意図である。それはどのような時かというと、「ピエタ」と言われる場面である。多くの芸術家たちがこぞって描き、また彫像を刻んだ場面、マリアが十字架の上で殺されたイエス様を抱きかかえている場面がそれである。聖書には、おそらく、そのままの場面は書かれてはいないと思うが、ヨハネによる福音書には、十字架の上からイエス様がマリアに向かって「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と語りかける場面の記載がある(19章26節)。「婦人よ」という語りかけが、明らかに重なっている。母にとって実の子供が十字架の上で殺されることは、結婚式にぶどう酒がなくなることなど全くどうでもよいほどの、もはやその後の人生を決して喜んで生きることができなくなるような不足です。その不足を、イエス様は本当に不思議にも補って下さった。マリアとは、自分の子を殺されるというすべての母にとっての最大の悲しみ・不足を、不思議なぶどう酒をもって補っていただいた存在なのであった。
4 イエス様にとっては、「まだまだ私の本当の出番ではない」という場面ではあっても、結婚式の夫婦にとっては、人生でたった一度きりの晴れの舞台でぶどう酒が足りなくなったことは、とてもつらい不足だった。イエス様にとって、この不足を補うことは、決して自分の本来の役目とまったく違うものではなかったので、それをかなえて下さったのであろう。
この出来事が、ヨハネの心にずっと深く刻まれたもうひとつの大きな理由は、イエス様が足りなくなったぶどう酒を補われたその不思議な方法にあったように思う。その不思議な方法とは、そばにあった空っぽになっていた6つの水がめに水を汲ませるという方法であった。そしてその水がめに汲まれた水が、最上のぶどう酒に変わった。このことがヨハネの心にずっと残るものだったのである。そして彼の書いたこの福音書を読む私達にとっても、同様に心に残ることとなったのである。なぜイエス様は、ぶどう酒を与えるのに、わざわさ水がめに水を汲ませたのであろうか。
私は、「ぶどう酒を得るのに、一見すると全く無関係のように思われる空っぽの水がめに水を汲むことが、とても大事なのだ」とイエス様が教えておられるように思う。水がめに水を汲む行為は、ぶどう酒がなくなったことに対して、私達にもできる行為である。ぶどう酒がないのに、水を汲んでどうなるかと誰もが思っただろうが、それでもイエス様がそうしてみよと言われたことをすると、そこにイエス様の不思議な力が加わって、ただの水が最上のぶどう酒に変わったのだった。私達の周りにある空つぼの水がめとは、だれか私達の助けを必要としている貧しい人々や困っている人々のことかもしれない。19章26節のすぐ後には、イエス様が母マリアのそばにいた弟子(この福音書を書いたヨハネではないかと言われている)に向かって「見なさい。あなたの母です。」と言ったことが書かれている。そう言われて、この弟子は、イエスの母を自分の家に引き取ったと書かれている。空の水がめに水を汲むことが、どういうことかを教えてくれる言葉ではなかろうか。
私達のぶつかる不足を、必ずや補ってくださるイエス様がおられると信じて空の器に水を満たす者でありたいと思う。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 12月24日(日)クリスマス礼拝
03:22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。 03:23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。 03:24ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。 03:25ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。 03:26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」 03:27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 03:28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 03:29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
1 洗礼者ヨハネと、その弟子との間に交わされた問答が書かれた箇所である。洗礼者ヨハネは、だれよりも先に、また深く、イエス様が救い主、すなわちキリスト(メシア)であることを証しした人であった。その証しを聞いて、最初のイエス様の弟子となったのは、そもそもは洗礼者ヨハネの弟子の二人だった。その内の一人が、もしかしたらこの福音書を書いたヨハネではなかったかと、昔から言われている。しかしこのように、洗礼者ヨハネが、イエス様をキリストとして信じることができたがゆえに、それによって与えられた幸いが、どのようなものであったかが、つぶさに記された箇所だと思うのである。私達も同じプレゼントをいただきたいものだと、しみじみ感じるのである。
さて最初に、どのような場面だったかを、かいつまんでお話ししたい。まず、イエス様とその弟子たちとが、人々に洗礼を授けていたことと、洗礼者ヨハネがそうしていたこととが、同時に平行して行われていたことが書かれている。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、その働きを始めた。そういうことから言えば、洗礼者ヨハネの働きこそが、本家本元のものであって、イエス様とその弟子たちの働きは、分家・後発者のものであったのである。そのような中、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった(25節)。「あるユダヤ人」というのは、おそらくは、イエス様の弟子であった人だったのであろう。イエス様の弟子と洗礼者ヨハネの弟子たちとの間に、人を清めるのに有効なのはイエス様の洗礼なのか、それとも洗礼者ヨハネのそれなのかというような争いが起きたのであろう。本家と分家との間での争いが起きたようなものである。そこで洗礼者ヨハネの弟子たちが、師であるヨハネのもとに来て「ラビ、・・・みんながあの人の方へ行っています」と言った。洗礼者ヨハネの弟子たちにしてみれば「みんなが私達のもとを離れて分家であるイエスという人のもとへ行っています。これでよいのでしょうか、何か手を打たなくてよいのでしょうか」という思いだったのであろう。ヨハネの弟子たちの心には、嫉妬や自分たちの将来への不安がうずまいていたことであろう。普通であれば、師であるヨハネも同じ思いを抱いたとしてもおかしくない。ところが洗礼者ヨハネは、全く違った応答をしたのだった。
2 ヨハネはまず「天から与えられなければ人は何も受けることができない」と答えた。この言葉が、直接的に言おうとしていたのは、「あなたがたは、今までと同じように沢山の人々が私達のもとにやってきて、私達の働きがイエス様の働きに勝ることを求めている。しかし、神様が与えられるのでなければ私達は何も受けることはできない。私達の働きがイエス様のそれ以上のものになることはない。それは神様が与えるものではない」ということであった。このヨハネの言葉そのものには、否定的な意味合いが強く出ている。しかし私は、むしろ肯定的な意味を強く感じる。それは、「私達にも天から与えられているものがあるではないか、受けているものがあるではないか。みんなが、あの人のもとへ行ってしまうとなくなってゆくものだけに目を奪われるのではなく、今この状況においても、しっかりと神様から与えられ受けているものがあることに気づいてほしい」という語りかけのように思うのである。私達もヨハネの弟子と同じように、どうしても失われてゆくもの・なくなってゆくものにのみ目を奪われてしまいがちである。そうして人と比べてどうかと思い悩む。そのような私達にとって、そういう境遇におかれても、しかし神様が与えて下さるものがあると気づけることは、本当に大事だと思うのである。それに気づかせていただけるのが、クリスマスのプレゼントではなかろうか。
ここで改めて教えられるのは、天から与えられるものの特徴についてである。天から神様が私達に与えて下さるものと私達が自分で自分に与えたり、また人から与えられたりするものとの間には、ある決定的な違いがある。洗礼者ヨハネの弟子たちは「みんながイエス様の方へ行っています」と言って、自分たちの働きがイエス様のそれよりも勝ることを願っていた。人と比べて、自分たちを勝たせてくれるようなものが、天から与えられるものだと考えていたのだった。しかし、神様が天から与えてくれるものとは、そういうものではない。私達をして、お互いに比べっこをさせて、「みんながあの人の方へ行っている」とか「みんなが自分たちの方へやってくる」とか「私は彼よりも勝っている」とか言わせるようなものではない。もし、そのように私達を思わせるものであれば、それは決して神様から与えられるものではなく、この世が、また人が与えてくれるものに過ぎない。
天が私達に与えるものの特徴は、28節の最初に、洗礼者ヨハネの「私は『自分はメシア(キリスト・救い主)ではない』と言い」という言葉があるように、徹底して自らの小ささ・卑小さを感じさせるという点にあると思う。牧師として生きてきて、特に毎週毎週説教の備えに向かい合って来て、いつも思うのはそのことなのである。その御言葉を通して、私が受けることができたものは、天の神様、またイエス様の奥深さに比して、余りにも小さいといつも感じている。だから、到底誰かと比べて自分が勝っているなどど言えるものではないのである。そのように私に思わせしめるところにこそ、私がそれでも神様から何かをいただいているということがあるのだと思うのである。神様から、私が受けるものがどれほど小さなものであっても、それは無尽蔵である神様の下さるものの一部分である。無限大の一部はやはり無限大である。天から与えられるものを受けると、私達は自分の余りの小ささに打ちひしがれはするが、しかしまた同時にその無尽蔵の大きさに心を満たされ、人と比べることから解放されるのである。
3 さてそれでは、洗礼者ヨハネは、どのようなものを天から与えられたこととして受けとめていたのだろうか。それは、28節から29節の彼の言葉に言い表されている。「私は『自分はメシア・・・大いに喜ぶ」とある。彼は、自分はメシアではなく、また花婿ではなく、あくまで救い主の前に遣わされた者であり花婿の介添え人だと言ったのだった。彼が天から与えられたことは、イエス様が主人公であり、自分はその脇役であってよいということだった。「自分はただひたすらイエス様を指し示す証人であればよい、その引き立て役であればよい」と思えたのだった。イエス様に出会って、彼はひしひしとそのことを感じたのであろう。人々から「あなたがメシアではないか。主人公ではないか」と求められる重荷をやっと降ろして、一介の脇役に身をおける幸いをはじめて得たのではなかろうか。
私達が、イエス様の誕生からいただくプレゼントとは、こういうものなのだろうと思う。ヨハネが「自分はメシアではない」と言ったように私達も言うことができる。私達牧師や医療従事者や学校の先生などが「私がこの人を救わなければ。この職場を何とかしなければ」と思い詰めて燃え尽きてしまう症状をメシアコンプレックスと言う。30年間牧師として生きてきた私達の年代の者たちが集まると口にするのは、若い牧師たちが燃え尽きてしまっているという現実のことである。まさに「メシアコンプレックス」ゆえにつぶれてしまっているのである。無論「メシアにならねば」などとは誰も思わない。しかし洗礼者ヨハネの弟子たちが思ったように、常に人と比べて勝ることや、その場その場での主役にならねばと私達は思ってしまうのである。それが「私はメシアだ」という言葉の意味するところなのである。そうあらねばと思うことが、どれほど私達を疲弊させることであろうか。
しかし私達は、洗礼者ヨハネのように「私はメシアではない」と言える者なのである。私達は、主人公である必要はなく、では何になるのかと言えば、ヨハネがそうであったように、イエス様を指し示す証人になればよいのである。そして証人ということであるならば、私達はそのための賜物を天から沢山いただいている者ではなかろう。病人である患者は、自分自身では何ら主役的役割を果たせない。しかし病気を治していただいたという点において、主治医のすばらしさを証しする証人ではありえるのである。治していただいたということが、どんなことよりも雄弁に主治医の力を証ししているのである。たとえ牧師であっても、いや牧師であればこそ、誰よりも患者なのである。患者でなければならない。そのようにして私達は、人として生まれ十字架にかかってまで自分のすべてを費やして私達を励まし支えて下さったイエス様を証しすればよいのである。
4 最後に、洗礼者ヨハネは「あの方は栄え、私は衰えねばならない」と言った。この言葉を、何人もの人が、信仰者の語った言葉の中で、これほどすばらしいものはないと言っている。もちろん私も、そうだと思う。
「衰えねばならない」とある。ヨハネは決して悲壮な気持ちで「あの方は栄えるが、私は衰えねばならないのだ」と言ったのではなかった。直前に「私は喜びで満たされている」とあるように、自分が衰えてゆくことは、彼にとって喜びだったのである。衰えてゆくことが、どうして喜びだったのか。それは「あの方は栄え、私は衰えねばならない」とあるように、イエス様の栄えに自分の衰えをしっかりと結び付けることができたからだと思うのである。イエス様の栄えから自分の衰えを見ることができるとき、それは悲しみや苦しみではなく喜びとなってゆく。それまで、だれ一人として自分の衰えを喜びなどと受け取ることができた人はいなかった。衰えることが、天から神様がよいものを下さる時だとは受け取ることはできなかった。しかし、イエス様が人として生まれて下さったことによって、何よりも十字架の上で死んで下さったことにおいて、その十字架の出来事にイエス様の栄えというものを見ることができるようになると、私達は自らの衰えを喜びとして受け入れられるようになる。
いつもインターネットを通して私のメッセージを聞いて下さっておられるある方は、今末期のガンで、もはや治療のすべがなく、緩和ケアしかないという状況におられる。きっと今日のメッセージも、病床にてインターネットを通して聞いて下さることと思う。その方が衰えてゆくということを思わずにはおられない。その衰えがどうして喜びなのであろうか。それは、イエス様が栄えて下さったからなのである。しかしそのイエス様の栄えとは、文字通りの栄えではない。栄えるとは、上に昇る・上昇するという意味でもあるが、3章14節に「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とあるように、イエス様の栄えとは、十字架に上げられることに他ならなかった。十字架に上げられること、それは十字架の上で衰えてゆくことである。しかしその時こそ天からイエス様に無尽蔵のものが与えられる時であった。その証拠として十字架の死からの復活が起こったのである。イエス様の十字架を見るとき、私達は私達の衰えの中に栄えがあると知るのである。私達が最も衰えるときが最も栄えるときだと知るのである。洗礼者ヨハネは、このことをイエス様を信じて知ったのだった。そしてこの言葉を最後にして、彼はこの福音書から姿を消してしまう。この言葉が彼の遣言といえる。これほどの幸いはない。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 12月17日(日)待降節第3主日礼拝
22:09神はバラムのもとに来て言われた。「あなたのもとにいるこれらの者は何者か。」 22:10バラムは神に答えた。「モアブの王、ツィポルの子バラクがわたしに人を遣わして、 22:11『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面を覆っている。今すぐに来て、わたしのために彼らに呪いをかけてもらいたい。そうすれば、わたしはこれと戦って、追い出すことができるだろう』と申しました。」 22:12神はバラムに言われた。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。」 22:13バラムは朝起きると、バラクの長たちに言った。「自分の国に帰りなさい。主は、わたしがあなたたちと一緒に行くことをお許しになりません。」 22:14モアブの長たちは立ち去り、バラクのもとに来て、「バラムはわたしどもと一緒に来ることを承知しませんでした」と伝えた。 22:15バラクはもう一度、前よりも多くの、位の高い使者を遣わした。 22:16彼らはバラムの所に来て言った。「ツィポルの子バラクはこう申します。『どうかわたしのところに来るのを拒まないでください。 22:17あなたを大いに優遇します。あなたが言われることは何でもします。どうか来て、わたしのためにイスラエルの民に呪いをかけてください。』」 22:18バラムはバラクの家臣に答えた。「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。 22:19あなたがたも、今夜はここにとどまって、主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください。」 22:20その夜、神はバラムのもとに来て、こう言われた。「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない。」 22:21バラムは朝起きるとろばに鞍をつけ、モアブの長と共に出かけた。 22:22ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった。主の御使いは彼を妨げる者となって、道に立ちふさがった。バラムはろばに乗り、二人の若者を従えていた。 22:23主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見たろばは、道をそれて畑に踏み込んだ。バラムはろばを打って、道に戻そうとした。 22:24主の御使いは、ぶどう畑の間の狭い道に立っていた。道の両側には石垣があった。 22:25ろばは主の御使いを見て、石垣に体を押しつけ、バラムの足も石垣に押しつけたので、バラムはまた、ろばを打った。 22:26主の御使いは更に進んで来て、右にも左にもそれる余地のない狭い場所に立ちふさがった。 22:27ろばは主の御使いを見て、バラムを乗せたままうずくまってしまった。バラムは怒りを燃え上がらせ、ろばを杖で打った。 22:28主がそのとき、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。」 22:29バラムはろばに言った。「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう。」 22:30ろばはバラムに言った。「わたしはあなたのろばですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか。」彼は言った。「いや、なかった。」 22:31主はこのとき、バラムの目を開かれた。彼は、主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ちふさがっているのを見た。彼は身をかがめてひれ伏した。 22:32主の御使いは言った。「なぜ、このろばを三度も打ったのか。見よ、あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしは妨げる者として出て来たのだ。 22:33このろばはわたしを見たから、三度わたしを避けたのだ。ろばがわたしを避けていなかったなら、きっと今は、ろばを生かしておいても、あなたを殺していたであろう。」 22:34バラムは主の御使いに言った。「わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」 22:35主の御使いはバラムに言った。「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい。」バラムはバラクの長たちと共に行った。
1 この箇所は、民数記だけではなく、旧約聖書全体を通してみても、とてもよく知られた有名な物語が書かれた箇所である。細かい点では、なお今日においても、その意味がよくわからない部分も多くある。しかし、読む私達をどこか魅了してやまない物語だと感じる。
まず、ごく簡単に、その物語の粗筋を紹介したい。イスラエル人がエジプトを脱出して、約40年が経ち、いよいよ彼らは、現在パレスチナと言われている地に入ってゆこうとしていた。21章には、イスラエル人がパレスチナとアラビア砂漠との境界線あたりに住んでいたアモリ人の王シホンやパシャンの王オグとの戦いに勝利して、そこを占領したという出来事が書かれている。死海の東岸に位置するモアブの王バルクは、この様子を目の当たりにして恐れた。そこで、かつてモーセがエジプトから逃げて身を寄せたミディアン人に相談した。すると、当時の中近東一帯で知らない人がいなかったほど有名だった占い師・呪術師のバラムに頼んで、イスラエル人を呪つてもらえとの助言を得た。このバラムという人物は、5節に記載されているように、ユーフラテス川流域にあるペトルという町に住んでいた。注解書には、ペトルはモアブからは、およそ20日間位でゆける町だったと書かれている。
モアプの王バラクは、お礼を持たせてバラムのもとに使者を送った。しかし、最初は、神様はバラムに、「あなたは彼らと一結にいってはならない。この民を呪つてはならない。彼らは祝福されているからだ(12節)」と言った。なお、このバラムという占い師と神様との関係については、昔から読む人を悩ませている。いまだにはっきりとした答えが出ていない。一度は断られたものの、バラク王はあきらめず、前よりも位の高い使者を遺わして、再度自分のもとに来てくれるよう願った。すると、20節にあるように、神様はバラムに同行することを許した。ところが、これまた不思議で、その理由がよくわからないのは、神様自身が行くことを許したにもかかわらず、出発すると、なぜか神様の怒りが燃え上がり、神様の使いが剣をかさしてバラムたちの行く手を遮ったというのである。皮肉にも、当代随一の占い師であったバラムには、この光景は見えず、それが見えたのはバラムの乗っていたロバであったと書かれている。こうしてロバを通して神様の真意を知ったバラムは、「引き返します」と言った(35節)。しかし神様は、そのまま彼をバラク王のもとへと行かたのだった。
バラク王のもとへ到着したバラムは、王から再三再四イスラエル人を呪うように乞われた。しかし、どうしてもそれができなかった。逆に4度もイスラエルを祝福してしまった様子が、23章から24章に書かれている。こうしてバラムは、バラク王のもとを去った。なお、この物語には、後日談がある(25章に書かれている)。その後、イスラエル人は、モアブの娘たちと関係を持つようになり、モアブの人々が信じていたバアルという神(所有という意味)を礼拝するようになったために、神様の怒りをかってしまった。この事については、25章には何も記されてはいない。しかし、後の31章16節には、モアブの娘たちをそそのかしたのは、何とバラムであったとある。これを受けての新約聖書の言及もある(例えばぺトロの手紙2 2章15節など)。この後日談から言えば、バラムと神様との関係は、決して心からの信仰によるものではなかったことがわかる。
2 あらすじだけで随分長くなってしまった。かつて約40年前、エジプトを脱出して2年目にカデシュというところからパレスチナに向かって偵察隊を派遺したとき、彼らのもたらした報告にイスラエル人が恐れをなした。民数記13章31節以下には、次のようにあった。「彼らは我々よりも強い。我々が偵察してきた土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆巨人だった」と。こうして彼らは、パレスチナに入ろうとせず、以後40年間、荒れ野を彷徨うことになった。それから40年が経って、イスラエル人とパレスチナの人々と彼らとの関係は、どうなったか。端的に言えば、逆転していたのだった。モアブの王の方が、イスラエル人に対して恐れをなしていた。40年の間にイスラ工ル人は、本当に強くなっていた。彼らを強くならしめたものは何だったのか。立場を逆転させたものは何だったのか。
それは、40年間、荒れ野を彷徨う中で、一体どうやって身につけたのかはわからないが、前章に記されているような軍事力・武力だったとの受け止め方もある。今、アメリカの大統領のエルサレムに関する愚かな発言から、パレスチナ問題が再燃してしまっている。2WW(第二次世界大戦)が終わって、イスラエルの人々がパレスチナへと入植していったとき、それをなさしめたのは圧倒的な軍事力だった。今から3000年以上の昔の出来事が、2WW後にパレスチナで再現されてきている。モアブの王が、イスラエルに恐れをなしたのと同じように、今パレスチナの人々は圧倒的な武力・経済力を持つイスラエルに対し恐れを抱かざるを得ない。そういう今日のイスラエルのあり方を、聖書に基づくものとして正しいとする多くの人々もいる。しかし私は断固としてそうは思わない。
一体イスラエル人を荒れ野での40年間の歩みの後、今このように強くさせているものは何なのか。11節の言葉を、私はとても象徴的だと思う。「今ここに、エジプトを出てきた民がいて、地の面を覆っている」とバラク王が言っているとある。今イスラエル人がこのように強くなっている根源的な理由は、バラク王が言ったように、彼らがエジプトを出たからに他ならないと私は示されるのである。エジプト王と言えば、その当時隋一の、あれほどの巨大なピラミッドを建設することのできた権力者だった。その地は、みずみずしく潤い、食べ物には事欠かない場所だった。確かに奴隷ではあったが、そこに留まっていれば何とか生きてゆくには事欠かない場所だった。ところが、イスラエル人は、愚かにもそこを出てしまったのである。エジプト王に対峙したモーセが、開口一番口にした言葉は「わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい(出エジプト記5、1)」との神の言葉だった。エジプトを出ること、そして荒れ野の40年間の歩みのすべては、この言葉に凝縮されている。この世の王様の奴隷であることから決別し、またそこでの豊かな生活から決別し、ひたすら神様を礼拝する民として生きること、この歩みを曲がりなりにも何とか40年間続けてきたことこそが、荒れ野を生き延びさせ、地の面を覆うほどにイスラエル人を強くさせたものではなかろうか。
3 このようなイスラエル人のあり方を、神様は祝福したのだった。23章9節に書かれているバラムの最初のイスラエルへの祝福の言葉は、それを物語っている。「見よ、これは独り離れて住む民。自分を諸国の民のうちに数えない」とある。荒れ野の中でイスラエル人は何度も「エジプトに留まっていたら。肉なべも食べられた。魚はただで食べられた。きゅうりやメロン、葱や玉ねぎやにんにくが忘れられない(民数記11、5など)」と不平不満を口にし、エジプトを出たことを度々後悔した。しかしそれでも荒れ野を出ることはせず、日々神様が下さるマナによって生かされ続けたのだった。それは、周囲の人々の生き方とは全く違うあり方だった。自分たちの力や、その労働の生み出すものによってではなく、ただひたらすら神様の支えと恵みによって生きるあり方だった。このようなあり方が、独り諸国の民から離れて生きる者の姿なのだ。その姿をこそ、神様は祝福したのだった。
私達も、このようなあり方において神様から祝福を受け、この世において地の面を覆うほどに強い者であることを心に刻みたい。勿論私達は、エジプトを出て荒れ野で40年間を暮らしたイスラエル人のように、完全に周りの人々から離れて生きている者ではない。日本という国で、周りの人々と同じような社会的経済的な環境の中で生きてゆかざるを得ない者である。しかし、私達はこうして7日目毎の礼拝を守ることにおいて、周囲の人々と独り離れて住む民でもある。私達もイスラエル人と同じように、肉が食べたいとも思う。そしてエジプトでのおいしいものが忘れられないと不平不満を抱く者である。しかしなお礼拝生活をやめることはしない者なのである。その事こそが、私達が自分で知る以上に私達を祝福し、私達をこの世において強くして下さっているのではなかろうか。
歳言10章21節以下で、私がとても心を寄せられたのは、22節の御言葉である。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が労苦しても何も加えることはできない。」とあった。世の多くの人々は、苦労して苦労して豊かさを手に入れようとしている。苦労しなければ豊かさを手に入れられないという考え方に縛られ、そういうあり方がどんどん私達を長時間労働や心労へと追い込んでいるのである。まさにイスラエル人がエジプトで奴隷であったような姿である。これに対して、この箴言の御言葉は私達に、私達はすでに十二分に神様からの祝福をいただいている者だと語りかけてくれるように感じる。神様の似姿をもって造られ、この世に人間として生まれたときからすでに、またこうして礼拝を献げる者として生かされていることにおいてすでに、そしてイエス様が人として生まれ十字架の上で死に復活して下さったことにおいてすでに、私達は神様の祝福をいただいているのである。だとすれば、一体何をこれ以上豊かになろうとして、あくせくと思い煩い労苦するのか。神様から祝福をいただいている者なのだと知ることが、本当に私達を強くする。それが私達をしてエジプトでの奴隷的な生活から解放し、労苦することから解放するのである。
4 イスラエル人が、また私達信仰者が、このように神様から祝福され、強い者であるからこそ、それを恐れて私達をなきものにしようとするモアブの王がいる。神様からの祝福を失わせ、呪いをかけさせようとする王がいるのである。彼は武力や軍事力によってではなく、不思議な能力を持ったバラムという者を用いようとした点に教えられることがある。
彼と神様との関係は一体どういうものだったのかは定かではない。しかし、神様を心から信じるという関係ではなく、確かにある不思議な能力を持っていた者であったがゆえに、神様という目に見えない存在とのパイプを確かに持っていたようである。このような存在を用いてバラク王は神を動かし、イスラエルを呪わせようとした。バラク王が彼を用いてイスラエル人を呪わせようとしたから、神様も彼を用いてバラク王に対抗し自分の意志を表すことをなさった。だから、結果的には、バラムが、バラク王のもとに行くのを許したのであろう。しかし、それと矛盾するかのように、彼の行く道を怒りをもって剣で立ちはだかったのは、彼がイスラエルを呪う者として用いられることへの断固とした怒りの表明だったのである。
バラク王に用いられ、神様の御心を表す道具としてバラムが用いられたのはよいが、神様が祝福しておられたイスラエルを呪おうしたことに対しては断固として怒った。
神様から祝福を受けている私達だからこそ、このように私達を呪うとする者が必ず現れることに留意したいと思う。それがどういう存在であるかは何とも言えないが、信仰者として私達自身の中の神様とつながっている部分が私達にささやくのかもしれない。「お前は神様から祝福されてなどいない。呪われている。おまえがそういう生き方・境遇の中に置かれていることは、祝福などされていないことの現れではないか。」とささやくのかもしれない。しかし神様とのパイプを持ち、当代隋一の占い師であったバルムさえ、剣をもって立ちはだかる神様の使いの姿を見ることはできなかった。彼が会い、その言葉を聞いた神様の姿はすべてではなかったのである。むしろロバの方が神様の使いを見ることができた。ロバとは愚かさや、のろまさの象徴である。知らない者などなかった有名な呪術師バルムとは対照的に、愚かで役に立たない存在のロバこそが神様の真意を伝えて、31節にあるようにバルムの目を開かせたのだった。このロバとは何の象徴なのか。イエス様が子どものロバの背中にまたがって受難週を迎えられたことがそれを指し示している。神様のひとり子が人となり十字架にかかり復活したとは、まさにロバが示すようなことである。しかしそれがどんなこの世の賢さにもまさって、神様の私達への変わることのない祝福を教え示して下さるのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 12月10日(日)待降節第2主日礼拝
36:01ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。 36:02「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。 36:03ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」 36:04エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した。 36:05エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。 36:06お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。 36:07この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」 36:08そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ。 36:09ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。 36:10そのとき、バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ。彼は書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々に読み聞かせたのであるが、それは主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあった。
待降節第二の主日を迎えた。言うまでもなく私たちの救い主を迎えるための準備期間である。この期間に、救い主を迎えるにふさわしい私たちの信仰の備えをすることが、すなわちなぜ救い主イエス・キリストは、この世に来なければならなかったかを考えてみることが、求められている。私たちには、私たちの思考を越えて、また私たち人間の現実(失敗や挫折)を越えた所に、人間の力では生み出すことのできない大きな神の意志が働いているということに直面させられるのである。それが正にクリスマスの出来事である。
DorothyL.Sayers(1893-1957)という英国のミステリー作家がいた。この人の名前を私が知ったのは、偉大なる神学者カール・バルトの著作の中で紹介されていたからである。セイヤーズはキリスト教についても造詣が深く、キリスト教弁証の論陣を張っていた女流作家である。彼女曰く、クリスマスの出来事、イエス・キリストの降誕は世界最大のミステリーであると。キリスト教の信仰は、人間の想像力にショックを与える刺激的なドラマと言うべきだ。
さて、本日示された聖書日課によるテキストは、エレミヤ書36:1-10である。旧約聖書が定められているので、なぜここを読む必要があるのだろうかと思われたに違いない。この個所は、紀元前600年の昔のこと。イスラエル民族は南北2つの国に分かれ、北はアッシリアにより滅び(721年)、南ユダは周囲の強国にほんろうされながらも辛じて国を維持していたが、ユダの民心は乱れていた。つまるところ、神の言葉を預かった預言者エレミヤは神から命ぜられる。「イスラエルとユダ、および諸国につての言葉を残らず書き記しなさい」と。彼は弟子のバルクに預言の筆記をさせた。繰り返し厳しい預言をしたので神殿で語ることを許されなかった。
3節、7節に「悪の道から立ち帰るかもしれない」とある。「立ち帰る」とは、ヘブライ語でシューブ、つまり悔改めること、である。人心の乱れは、ドロシー・セイヤーズに言わせると、世の混沌である。人間は生きるためと称し、とんでもないことをやらかしてしまう。そこには秩序も、倫理も乱れ、何でもありの世となる。聖書の中には、神の救済の歴史が綴られていると言う。創られた世に展開されている人間の現実は、もはや救い難いものであるが、神はこれを見過ごしてはおられなかった。
私は待降節が来ると、あたり前のように、決まりきったようにろうそくに灯りを灯して、クリスマスが来るぞと喜びがちだが、そんなに何ごともなかったようにはいかない筈である。ここに私は、“アドベントの神学”とでも言うべきものが介在していると思う。その神学論を十分踏まえた上で、私たちのクリスマスが意義深いものになるのではないだろうか。
皆さん方はイエス・キリストが私たちの救い主としておいでになったとき、どんな姿で、どんな状況の中に、この世の人となられたかを知っておられる筈だ。母マリアが身重になり夫ヨセフと共に探しあてた宿は家畜小屋であった。そしてイエスの生涯は「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、われに枕する所なし」、その生涯はすべて他者のため、弱く痛みや傷を負った人々のために捧げ切ったのだった。挙げ句の果ては十字架の犠牲の死が待っていた。
私たちは“立ち帰るべき日”を知っている。立ち帰らなければ、わからない。すばらしい日が待っていることをこの礼拝で知っている。勇気を持って立ち帰ろうと心に決める時、神は私たちに、本物の大きな恵みをもたらして下さる。そして本当のクリスマスに出会えるのだ。最後に私が経験したエピソードを紹介したい。△もう40年も前になるが、ある教会学校での出来事。クリスマスが近づき教会学校では聖誕劇の準備が始まった。クラスの先生には一つの気がかりのことがあった。それは生徒の中に軽い知的障害の男の子がいて、その劇に参加させるため、台詞の最も少ない、宿屋の主人の役を与え、練習させた。いよいよクリスマス本番。劇が始まり宿屋の主人がヨセフとマリアに宿を断る場面だ。皆がかたずを呑んで待っていると、「NoRoom,NoBed!」と予定の短い台詞を言えたのだ。先生たちも、見ていた両親たちもホッとした。が、次の瞬間、彼は大きな悲痛な声でこう言いだした。「だけどね、僕の家においでよ。僕の家には部屋もベッドもあるよ!!」と。皆びっくりした。彼は劇中のことと現実を混同して思わず口走ったのだが、なんと優しい心遣いではないか。クリスマスはこのような心の持ち主に訪れるのである。
陣内 厚生牧師
2017年 12月3日(日)待降節第1主日礼拝
01:26兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 01:27ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 01:28また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 01:29それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 01:30神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 01:31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
1 31節に「誇る者は主を誇れ」とある。これはエレミヤ書の9章22節以下の引用である。主題は「誇る」ということにあると思う。なぜパウロがこのことを語ったのか。それはまず、ひとつの理由は、コリント教会の中に「エゴ・エゴ(この語からエゴという言葉が生まれた)』、すなわち「わたしは・わたしは」と言って自慢し合い、争っている現実があった。ある人は「わたしは教会の創立者であるパウロ先生から洗礼を受けた」と言って誇った。またある人は「いやわたしはパウロ先生よりもずっと雄弁でこの教会を大きくしたアポロ先生から受洗した」と言って自慢した。そしてまたある人は「わたしは教会の総本山であるエルサレム教会の指導者のペトロ先生から洗礼を受けた」と誇っていた。このように「わたしは・わたしは」と言って誇り合い、そのことが教会の中に対立をもたらしていた。そこでパウロは、「誇るなら自分を誇るのではなく、イエス様・神様を誇れ」と語ったのだった。
しかしパウロは、誇ることそれ自体を否定していたのでは決してなかったと私は思う。パウロの書いた手紙を読むと、あちこちに「わたしは何何を誇る」という表現が出てくる。パウロは、誇りをとても大切にしていた人だったことがわかる。自慢という意味での誇りは決してほめられるものではないが、プライドを持つとか気概を持つとかいうように、自分自身の貴さや価値というものに、揺らぐことのない確信を抱けるということ、すなわち「自尊感情」と言われるものは、とても大事なことだと思うのである。自尊感情をちゃんと持てなくなってしまうと、自ら命を断つといったことにもなるのである。コリントの人々にとってこそ、正しい意味での誇りを持つことは、とても大事なことだとパウロは思っていた。だからこそ、誇ろうとするならば、自分自身を誇るのではなく、イエス様を、神様を誇りなさいと勧めたのだった。
コリント教会の人々にとって、正しい意味で誇ることが大事であったとは、どういうことであったか。それは、彼らの社会的な立場を考えると、よくわかる。コリント教会の会員は、「人間的に見て知恵のある・・・見下げられている人を選ばれた」とあるように、多くは世の無に等しい人・身分の卑しい人々、つまりは奴隷階級の人々だったのである。法的にも彼らは物として扱われ、売り買いの対象だった。市場では、どれほど主人の役に立つかによって、常に値踏みされる存在だったのである。役に立たないと見なされれば、お払い箱にされ、どこにも行き場がなくなり、のたれ死ぬしかなかったような人々なのであった。
医者のような特殊な技能や知識を持っていた奴隷もいたという。しかし、多くの奴隷は、自慢するものなど何一つ持ちえない人々だった。そんな彼らだったからこそ、クリスチャンになって「わたしは誰某先生から洗礼を受けた」と自慢したいと思っていたという、そのような気持ちは、よくわかる。パウロ先生が、アポロ先生が、ペトロ先生が、自分を大事にしてくれたという点において、今までは味わったことのなかった自分の価値・貴さを感じることができたのであろう。それが、こうじてしまって「エゴ・エゴ」と、自分自慢をしあうようなところにまで行ってしまった。コリントの人々にとって、正しい誇りを持つことが、本当に大切なことだとパウロはよくわかっていた。
2 そのようなコリントの人々に、正しい誇りを抱いてほしかったがゆえにパウロは、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい」と語りかけたのだった。「あなたがたが召されたときのこと」とは、イエス様を救い主として信じ、クリスチャンとして受洗した時のことである。「あなたがたの多くは奴隷であり、この世においては無に等しい者・身分の卑しい者・見下げられている者でしかなかったであろう」と、パウロは、改めて思い起こさせたのであった。「そのようなあなたがたを、私やアポロやペトロが、貴い者として扱ったがゆえに、あなたがたは初めて、自らの貴さというものを味わうことができたのだろう。だからこそ、あなたがたは、私やアポロやペトロとのつながりを貴いものとして自慢するのはよくわかる」と。
もっと、もっと、よく思い起こしてほしいとパウロは間いかけた。「そのように私たちが、あなたがたを貴い者として扱った背後には、一体どなたがおられるのか。私たちの背後にあって、あなたがたを貴い者として扱って下さったのはそもそもどなたなのか。」と。1章13節でも、パウロは同じような問いかけをしていた。「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「わたしはペトロに」と言っていた彼らに、「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」と問いかけたのだった。
その答えは、「イエス様、それも十字架につけられたイエスというお方が、あなたがたを貴い者として扱って下さったと言う事です。あなたがたは、そのことを感じたからこそ、十字架につけられたイエスというお方を救い主として信じたのではないか。」であった。18節から25節まで、十字架につけられたイエス様が、救い主・キリストであるなどということは、当時の人々にとっては愚かなものであり、躓き以外の何ものでもなかった。ところがコリント教会の人々は、この十字架につけられたイエス様を、キリストであると信じたのだった。世にあって無に等しい者・卑しい者・見下げられている者でしかなかった自分たちのようなものを、神様はこの十字架のキリストにおいて宝物として下さっていると感じたのだった。そうであったがゆえに、十字架のイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けたのだった。このこを思い起こすならば、「あなたがたが誇るべきものはパウロでもアポロでもペトロでもなく、十字架のイエス様であり、また神様ではないか」とパウロは言ったのだった。そのことに改めて気が付いてほしいと。
3 一体なぜコリント教会の人々が、他の多くの人々にとっては愚かであり躓きでしかなかった十字架のイエス様を救い主として信じたのか。そのことをパウロは、ここでは何も語ってはいない。2章1節以下にも、ただ「そちらに行つたとき、わたしは衰弱していて恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず霊と力の証明によるものでした。それはあなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」と述べられているのみである。ただただ神様の知恵と導きによって、十字架のイエス様を救い主として信じるようになったとしか言いようがないのだが、これについて私なりに思い回らしてみたいと思う。
パウロは「神は知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれた」と言っている。知恵ある人や力ある人は、十字架につけられたイエス様を救い主と信じることはできなかった。しかし、コリント教会の無学な人々や無力な人々は、十字架のイエス様を信じることができた。そこが神様のなさり方・知恵というものの不思議なところである。なぜそういうコリントの人々こそが、十字架のイエス様を救い主として信じることができたのか。以下の事は、あくまで私の勝手な想像だが、次のようなことがコリントの人々の心の中で起きたように思う。
奴隷だった彼らは、この世において見下され、自分たちの貴さ・存在意義というものを何一つ見いだせないでいた。そのような彼らの目の前に、自分たちと全く同じように、いや自分たちよりも人々から見下され、唾棄され、嘲られて十字架の上で殺されていった人間の姿が、パウロによってもたらされた。自分たちと同じような境遇に置かれた人の姿だったがゆえに、コリントの人々は、心を引かれた。そして、なぜこの男はこういう死に様をしたのかと、彼らはパウロに問うたに違いない。それに対して、パウロは以下のように答えたのではなかったか。「この人は当時の為政者や偉い人々や、また一般の人々からも憎まれ、不必要で、生きていてはならない存在と見なされて、このように殺されてしまった。しかし驚くべきことに、神様は、この人を捨ててはおかなかったのだ。この人は神から捨てられてこうなったのではなかったのだ。むしろそれとは正反対に、神様はイエス様を愛するがゆえに、そして十字架の死によってしか果たすことのできない使命を成し遂げさせるために、このような慘めな死の中にこの人を置かれたのだ」と。「では、その使命とは何か」とさらにコリントの人々は問うたかもしれない。これに対してパウロは、こう答えたのではなかったかと思う。「それは同じような境遇の中に置かれる私たち、つまりそれぞれの十字架を背負い、この世で最後には周囲の人々から何の価値も貴さもない者として見なされる私たちを、そこでの絶望や惨めさから守るため、そして私たちの背負う十字架にこそ神様の愛が注がれ、大事な使命が果たす時なのだとわからせてくださるためだ」と。私たちはすべて十字架の中に置かれる者だが、そういう私たちが、その中にあっても正しい意味で誇りを持てるようにするため、イエス様は十字架につけられたのだと、パウロは答えたのであろう。
このようなパウロの伝道によって、コリントの人々は自分たちが奴隷として、世の無に等しい者・身分卑しく見下されている存在として置かれていたことの意味、その貴さということを悟ったのではないかと思うのである。「イエス様が人には・捨てられたけれども神様から愛され、その使命を果たすためにこそ十字架につけられたように、私たちもこの世の主人や世からは捨てられているけれども神様からは愛され、この境遇においてこそ果たすことのできる役割がある」と悟ったのである。それがどのような使命であったのかは、その後の信従たちの歩み・教会が積み重ねてきた歩みを見ると、それがよくわかる。奴隷であったからこそ、この世で不必要な者として捨てられてしまった人々の苦しみを我がこととしてわかり、そうした人々を助ける働きに遭進していったのである。
4 このようにパウロは、「あなたがたが最初に召されたときのその原点にある喜び・誇りをいうものを思い起こし、あなたがたを貴い者として下さったイエス様の十字架・神様の愛を誇るものになってほしい」と語ったのだった。私たちも、このことを誇りたいとしみじみ思うのである。
私は神学校で、その最後の講義を受けたが、吉祥寺教会の牧師であった竹森満佐一先生は、説教の終わりで、このように語っておられた。「自分は、何によって生きているのでしょうか。何かの自信がなければ生きられないと思います。ひとから見れば、まことに貧弱に見えるようなことにしがみついて、われわれは生きているのではないでしょうか」と。竹森先生も「自信」という言葉を使って、私たちが生きてゆく上では誇りが不可欠と言っておられた。そしてその誇りがどのようなものなのかが問題なのである。それは、人と比べての自慢であってはならない。人と比べて、この世の中でどのように有用かということに基づく誇りであるならば、それは人生の最後の最後には、なくなってしまう誇りといえよう。誇る根拠は、人生の最後においても、この世において何の有用さもなくなっても、神様・イエス様から貴い宝だと言っていただけることにしかないのである。
世の多くの人々が愚かであり躓きとしか思えない十字架の出来事を、たとえどんなに浅はかな悟りではあっても、また信仰であったとしても「わが救い」と信じられるということは、本当に貴いことだと感じる。神様はそれを信じることができる私たちをこそ、「私の宝物」と言って下さるのではなかろうか。このような神様を誇る者でありたいと思う。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 11月26日(日)降誕前第5主日礼拝
08:27神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。 08:28わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。 08:29そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。 08:30僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。 08:31もしある人が隣人に罪を犯し、呪いの誓いを立てさせられるとき、その誓いがこの神殿にあるあなたの祭壇の前でなされるなら、 08:32あなたは天にいましてこれに耳を傾け、あなたの僕たちを裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらし、善人は善人として、その善い行いに応じて報いをもたらしてください。 08:33あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、 08:34あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦し、先祖たちにお与えになった地に彼らを帰らせてください。
1 毎年、収穫感謝日の礼拝は、教会学校の子ども達との合同礼拝である。子ども達との合同礼拝の際には、教会学校の教科書から列王記の御言葉が与えられている。よく礼拝堂の献堂式のときに読まれる箇所である。私は、この御言葉は、神殿とは何かということを、私たちに教えてくれる。
私の手元にある聖書辞典には、以下のように書いてある。ダビデの子であったソロモン王は、紀元前952年に、エルサレムで神殿を建て、そのしるしとして契約の箱(中には十戒が刻まれた石の板と、マナを入れた壺と、アロンの杖が収められていたと伝えられている)を安置した。この聖書箇所は、その完成式でソロモンが捧げた祈りである。
この箇所を読むうえで、最初に触れておかねばならないことがある。それは、神殿を初めて建てたのはソロモン王だったが、実は、最初に契約の箱を安置する建物を建てたいと願ったのは、ソロモンの父のダビデ王だったということである。ダビデの願いは、神様に拒まれたのだった。大事なところなので、このことが書かれた聖書箇所を読んでみたい。サムエル(下)7章(490ページ)である。国内を平定したダビデは、まず王宮を建てたが、自分がレバノン杉の立派な家に住んでいたのに、契約の箱が天幕の中に置いたままであったことが気になって仕方がなかった。最初、預言者のナタンは、「何でも実行されるとよいでしょう」と言ったが、その夜にナタンに神様のお言葉があった。それが5節以下に書かれている。「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。・・・と言つたことがあろうか(7節まで)」と。神殿を建てたいと願ったダビデ王の願いに、神様は「そんなものはいらない」と拒んだのである。その神様の真意は、どういうところにあったのだろうか。
このことは、そもそもダビデが、なぜ神様の家を建てたいと願ったかを考えるとよくわかる。ダビデが、自分だけ立派な王宮に住んでいたことを、神様に申し訳ないと思っていたかもしれない。しかし私は、それだけではなかったと思うのである。国を平定し、立派な宮殿を建てたので、神様の箱を安置する神様のための家を作って、そこにいっまでも神様に住んでいただいて、この国や王位を守って欲しいと願ったのではなかろうか。ひとことでいえば、自分の建てた家に、自分が望むような神様を住まわせておきたい。閉じ込めておきたいというダビデ王の思いを、私は感じるのである。そういうダビデの思いを感じたからこそ神様は、それを拒んだのではなかろうか。
神様の御心の核心にあったのは、「わたしは常にあなたがたと共にあるが、そのありかたは自由だ・あなたがたが建てた家に閉じ込められることはない」ということのように思うのである。人々の側は、神様が自分たちを共にいて下さるあり方というものを、王国があり、そこに立派な神殿が建てられている中に求めた。けれども神様の御心は違っていた。王国の中に建てられた立派な家・神殿に『定住』するよりは、むしろテント生活で荒れ野を彷徨う人々と共にあることを望んでいたかのようである。「私があなたがたと共にあるありかたは私の自由であり、あなたがたの思いとは違う」との神様の心が感じられるのである。
2 このような理由で、神様がダビデの願いを拒んだのであれば、その御心を貫いて息子ソロモンが神殿を建てようとしたときにも「否」となったはずである。こう私はずっと思ってきた。神様はなぜ、あれほどにきっぱりとダビデには神殿を作ることを拒んだのに、息子ソロモンにはそれを許したのであろうか。この疑問にぶち当たってから、おりおりにその答えを探し求めてきた。私なりの答えを以下に述べたい。
神様がソロモンに神殿を建てるのを許した理由の第一が、27節にある。ソロモンが何度も何度も操り返し祈ったのは、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか・・・神殿などなおふさわしくありません」「どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け」であった。ソロモンには父ダビデにあったような、神様を人間の建てた神殿の中に、思い通りに閉じ込めておこうという傲慢さがなかったからではなかろうか。たとえ神殿を作つても、あくまで神様は天におられる。その住み方は自由であると、ソロモンはわかっていた。ソロモンは、神様のありかたの原理原則をちゃんとわきまえていたのである。
ソロモンについての、とても有名なエピソードが、列王記上の3章に書かれている。神様から『何事でも願うがよい。あなたに与えよう』と言われたソロモンが、長寿や富や敵の命ではなく、知恵を求めたことを、神様は大いに喜んだと書かれている(3章5節以下)。ソロモンは、神様を人間が作った家になど閉じ込めておけないことを知っていた。その上でなお、神殿を建てようとしたからこそ、神様はソロモンの願いを聞き届けて下さったのであろう。では一体、何のためにソロモンは神殿を建てようとしたのか。神様は天におられ、どこにでもあまねく存在しておられるのなら、あえて神殿など作ろうとしなくてもよかったのではないか。いや、そうではないと、やはりその知恵によってソロモンは知っていたのである。
ソロモンは、神様があまねく天におられることを承知の上で、しかしその天におられる神様と地上にいる人間との接点が人間には必要であることを、すなわち人間が神様との出会いと結び付きの場を必要としているということがわかっていたのである。神様は、そのような場所があることを常によしとされてきた。また人間も、それを不可欠としていたことをソロモンは知っていたのである。
神様のダビデへの言葉にあったように、出エジプト以来、神様は天幕にお住まいになって、荒れ野を歩むイスラエル人と共にあろうとされた。このことは、人間が天におられる神様と共にあり、結び付きをもって歩むのに天幕が必要だったということである。神様と私たちとの接点の必要性について、いつも思い起こすのは、家を出ざるを得なくなり、今後への不安で一杯になって野宿していたヤコブに、神様が天からはしごを降ろして下さった場面(創世記28章10節以下)である。そこをヤコブはまさに「神の家・天の門」と呼んだ。神の家とは呼び方から言っても神殿に他ならない。聖書全体を通して終始一貫しているのは、天におられる神様の側から、地にいる私たちのところへはしごをかけて下さるということである。私たちが神様と共にいることのできるよすがとして神の家・神殿が必要不可欠だということは、神様自身が認めていることなのである。この御心をソロモンは知っていて、神殿を建てることを願ったのだった。神様の許しをソロモンは確信し、「ここはあなたが『わたしの名をとどめる(申命記l2章11節の御言葉)』と仰せになったところです(29節)」と言うことができたのだった。
3 では、ソロモンは何のために、私たち人間にとって神様との接点を与えてくれるよすがとしての神殿が必要なのだと祈ったのであろうか。この祈りの中で、彼が何度も何度も口にしたのは、「天にいまして耳を傾け、罪を赦して下さい」ということだった。確かに、この祈りの中では、悪人・善人へのふさわしい報い(32節)とか、敵に打ち負かされたときでも故郷に帰れること(33-34節)とか、雨を降らせて下さることや飢館・疫病殼の救いなど、いわゆる御利益的なものが祈られていた。しかし、それらのことも根源には「罪を赦して」下さることの土台の上に求められているものなのであった。最も大事なものは、天の神様が耳を傾け、地にいる私たちの罪を赦して下さることなのである。それがなければ、私たちはすべての面で、この地上で生き続けてゆくことはできない。それほどになくてならないものが、神様だけが与えて下さる恵みであり罪の赦しなのである。
先ほどのヤコブのことを思い起こすと、罪の赦しとは何なのかが本当によくわかってくる。罪とは、決して私たちが何か悪いことをしたことを意味していない。ヤコブがずる賢い人間として成長し、余命いくばくもない父イサクが兄エサウに与えようとしたものを兄に扮装して奪い取つたのも、悪事と言えば確かにそうかもしれないが、双子の弟として、おそらくは母親の胎内にいたときからハンディを持って生まれたがゆえのことなのであった。それはヤコブ自身には、どうしようもできないことであった。言わば、生まれたときから背負わされた宿命のようなものであった。強い息子が好きだった父親に愛されずに育ったがゆえのことなのであった。それがヤコブをそうさせたのだった。私たち人間が、生まれた時から宿命として背負わされているもの、逃れられないハンディや弱さ、その結果として私たちが人間同士の関係の中で悪や混乱・マイナスを生じさせてしまうものが罪なのである。
もしヤコブがこの罪を、ただ人間同士の関係だけでどうにかするしかなかったとすれば、彼は世話になった伯父ラバンのもとで恐らく刃傷沙汰のようなものを起こしたに違いなかった。しかし、この罪が生み出す災禍から彼をガードし解き放ったのが、天の神様がヤコブにはしごをかけて下さったという体験だったのである。この体験において、ヤコブは彼の心の中に神の家・神殿を建てることができた。伯父ラバンのもとで、目に見える形では神殿を作ることができなかったが、心の中には神の家があった。そこにおいて彼は、天にいます神様に祈り、神はそれに耳を傾け、罪が生み出す災いからヤコブを守って下さったのだった。
このような罪の赦しが本当に私たちには不可欠である。天にあって、地上の私たち、罪を抱えている私たちが考えるのとは全く違った形で、天からはしごをかけ、そこに介入して下さる神様が不可欠なのである。それは天からの介入であるから、人間の介入とは全く違った形を取る。伯父ラバンのもとで苦労したヤコブへの神様からの介入は、20年の歳月の中でなされた。それがあって兄エサウとの再会・和解がなされた。兄との再会を迷って踏み切れないでいたところを、ヤコブと相撲を取り彼の足の関節をはずしてしまうような形で神様は介入された。人間だったら、こんなやり方はしない。一挙に短時間に解決しようとしたり、力によって解決してしまおうとしたりしたであろう。しかし、天にいます神が耳を傾け、私たちをその罪から解き放つやり方は、地にいる人間のやり方とは全く違う。
4 こうして、ソロモンが願った神殿を、神様は建てることを許た。しかし残念ながらソロモンの建てた神殿は、あくまで人の手の建てた神殿でしかなかった。それには、どうしてもダビデの抱いたような傲慢な思いが入り込んでしまう。いつのまにか神殿は、天にいます神がそこから私たちの罪を赦して下さるよすがではなくなり、そこに神様は閉じ込められ囲われ、到底天とは言えない本当に低いところから、私たち人間が考え望むのと全く同じレベルのようなところから介入するような存在になってしまった。神殿がこうなってしまったとき、一番困るのは神様ではなく、私たちのほうなのである。せっかく神殿にもうでて天にいます神様に祈ったとしても、それを聞いて下さるのは天にいますまことの神ではなく、人間の造った神殿に閉じ込められているいわば人造の神となってしまっている。このような人造の神がどうして私たちの抱えている罪の赦しを与えて下さることができるであろうか。
ここにこそ、イエス様が人の手によらない神殿としてこの世に建てられる理由があった。天にある神様がイエス様という神殿において、私たちに耳を傾け、私たちをその罪から解き放つそのなさり方は本当に驚くべきものである。人間の思いをはるかに越えたものである。神様が人として生まれるということ。そして何よりも十字架という悲惨さ・弱さ・惨めさを味わうということ。一体人間のだれが、このような神殿に神様がおられると考えるであろうか。しかし神様は、このイエス様において、私たちと共におられようとするのである。私たちが抱えざるを得ない様々なマイナスや災いに対し、天からのはしごをこのイエス様においてかけて下さる。イエス様こそ、人の手のよらないまことの神殿なのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 11月19日(日)降誕前第6主日礼拝
03:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 03:17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
1 この箇所は、古くから『福音書の中の福音』、『万人の聖句』と呼ばれてきた。16節は、聖餐式の際に式文の中の「招きの言葉」として、必ず読まれる。福音のエッセンスが記された聖書箇所と言ってよい。このようなすばらしい御言葉を前にして、どれほど十分な説き明かしをすることができるのかと私は恐れてしまう。しかし、私は神様に示されるままにお勧めができればと願っている。
15節までのイエス様とニコデモとの対話を受けて、そこでのイエス様の言葉に、著者のヨハネが書き加えた解説かもしれない。もしかしたら、彼なりの注解のような部分と言ってよいと感じる。ここは『福音書中の福音』と呼ばれてきた箇所である。前後の文脈と切り離して単独で愛誦聖句として読まれてきた。しかし、流れとしては、やはり直前のイエス様とニコデモとの間答の内容と密接に、つながっている。著者ヨハネが、ニコデモとイエス様との対話から、なぜ「神は世を愛された」と語ったのかを、また、どんな思いを込めて「一人も滅びないで」と言ったのかを、推し量ることができる。
2 そこで、こことのつながりにおいて、イエス様とニコデモとの対話を振り返ってみたい。3章1節にあるように、ニコデモはファリサイ派に属しユダヤ人たちの議員だった。そういう人が、直前の2章13節以下で、彼らにとっては、ものすごく大事であったエルサレム神殿を冒涜するようなふるまいをしたイエス様のところに、夜こっそりとやってきたのである。そこには、並々ならぬニコデモの切実な思いが滲み出ている。そしてまた、そういう舞台設定をわざわさしたところに、著者ヨハネの特別な意図がある。
ニコデモが、何を求めてイエス様のもとにやってきたのかは、その後の問答で徐々に明らかになってゆく。彼は、開口一番「神が共にいなければあなたのなさるようなしるしを誰もできない」と言ったのだった。イエス様から「人は新たに生まれなければ」と言われると「年をとった者が、どうして、もう一度母親の胎内に入って生まれることができようか」と問い返した。ニコデモは、年をとっていた。それゆえに、迫りくるさまざまな不安や恐れに捕らえられていたのであろう。彼は、可能ならば生まれたばかりの赤ん坊が持っているような、あふれるような生気と恐れや不安とは正反対の平安と喜びを得たいと願っていたのだろう。そして、神様と本当に近しい間柄にあって、それを得たいと願っていたのだと思う。ニコデモが願い求めていたものが、「永違の命」として表現されているのではなかろうか。
永遠の命とは、いつまでも死なないことや不死ということではないと思う。コリントの信徒への手紙2の4章16節に、パウロが、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えてゆくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされてゆく」と言ったとある。ニコデモが求めていたのは、まさにこの感覚ではないかと感じる。年を重ねてゆく私たちは、外なる体がどんどん衰えてゆくのを感じざるを得ない。そして悲しいことに、私たちの内なる心も、外なる人の衰えに連動して、どうしても衰えてゆかざるを得ないのである。そのような「内なる人の衰え」が、「滅び」の一つの意味ではないかと私は感じるのである。だから、それとは反対に、たとえ外なる人は衰えていっても、それに動かされずに、尽きることのない命の源である神様とつながって、内なる人の心が、いつまでも生き生きとした生気を保っていることが、永遠の命なのである。
箴言の4章20節に「何を守るよりも自分の心を守れ。そこにこそ命の源がある」とある。聖書全体を通して、これほど「心」の重要性を教えてくれている聖書箇所はないのではなかろうか。心とは、先ほどのコリントの信徒への手紙2の聖書箇所から言えば「内なる人」であろう。それが健やかであることに私たちの命の源があると、箴言のこの箇所は私たちに教えている。しかし私たちは、どのようにして心を守ることができるのであろうか。そのためには、心を守る砦が不可欠だとは思う。しかし私たちは、なかなかその砦を持つことができない。どうしても心は体と連動する。すなわち心が外なる人と連動してしまう。外なる人が衰えると、それに影響されて内なる人も崩れてしまうのである。それは「滅び」と言ってもよい。ニコデモはそういう滅びを感じていたのかもしれない。
3 一体ニコデモは、どうやって心を守ろうとしてきたのか。先ほどの箴言には「わたしの言葉を守れ」とか「曲がった言葉を遠ざけよ」とあった。ニコデモに限らず、イスラエルの人々は、伝統的に、神様の言葉である律法を守ること、そして曲がった言葉があふれている世俗を遠さけるということをもって、心を守ろうとしてきたと言ってよいと思う。その代表が、ニコデモの属していたファリサイ派だったのである。「ファリサイ」という呼び名は「分離」という言葉に由来すると言われている。ファリサイ派の彼らは、律法の行いを熱心にすることによって、自分を周囲の人々と分離し、そのことによって神様との緊密なつながりを得て、内なる人の元気さを手に入れ、心の砦を建てようとしたのだった。彼らが自分たちをそこから分離しようとしていたものこそが、「世」に他ならないのである。そして律法の行いをせず、世から自分たちを分離できないでいた人々は、神様によって当然裁かれ滅びてゆくと彼らは信じていたのである。この福音書が書かれた西暦100年頃のエペソに、ファリサイ派のユダヤ人がどれほどいたかはわからない。著者ヨハネが、この福音書を書くにあたって、イエス様を救い主として宣べ伝えたい相手として、常に念頭に置いていたのは、間違いなくそういったユダヤ人だった。その代表として、著者ヨハネはニコデモを登場させたのだった。
では、そのニコデモに代表されるようなユダヤ人が律法の行いを熱心に行って、周囲の人々、すなわち「世」から自分を分離させて、それで心の砦を建て、永遠の命を得ることができたかというと、そうではなかったのである。ニコデモが、イエス様のもとに来たというのは、それではだめだったということを表しているのである。どんなに律法の行いをしても、周囲の人々、すなわち「世」から自分を分離したとしても、歳をとり、日々衰えてゆく自分自身そのものからは、分離することはできなかったからである。衰えて行く「外なる人」と連動して、「内なる人」が萎えてしまうのは、どうしようもできなかったのである。
4 なぜヨハネが、このような言葉を使ったかが、よくわかるのではなかろうか。
この福音書が書かれた当時、著者ヨハネの周りにいた律法の行いをしていたユダヤ人は、「世を」愛することができないでいたのである。もっと言えば、世にいる自分たち、この世の営みの中で年を重ねて、さまざまなものが衰えてゆくしかない自分たちを愛することができなかったのである。何とかして分離するしかなかった。しかし、それは絶対にできないことだったのである。衰えて行く自分を嫌い分離することは、できなかった。そういう中でどうやって内なる人を、心を守る砦を築けるというのか。滅びない者でいられるのか。それに対する答えとして、「神は・・・世を愛された」と、まずヨハネは語ったのだった。「世を愛された」とは、もっと正確に言えば「世にいる人を愛された」である。ニコデモに限らず、おおよそ私たちは、世にあって、外なる人が衰え、それと連動して、内なる人も衰えてゆく自分を愛することができない。しかし神様は、そういう私たちを愛して下さると、著者ヨハネは言うのである。神様は、私たちが愛せない「世にある私たち」を、切り離そうしても切り離せない「世にある私たち」を、むしろ貴い者として扱って下さる。その愛は、イエス様が、この世に与えられたことにおいてだったのだと、ヨハネは言っているのである。それが「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」の意味なのである。「お与えになる」とは、言うまでもなく、イエス様が衰えてゆく体を持った人間として、この世に生まれたということを意味している。しかし、それ以上に、何よりも、イエス様が十字架という出来事に自らの身を置いてくださったことを指している。十字架の出来事は、私たちが最も忌み嫌う出来事である。私たちが、そこから自分を分離しようとする「世」の象徴である。十字架上のイエス様を、人々は嘲った。私たちの人生にあってはならないこととして、分離してしまおうとしました。十字架は、それに連動して、私たちの心が完全に壊されてしまうような出来事であった。それは、人間を滅ぼしてしまう出来事だった。このような十字架の中に、神様はその独り子を置いたのだった。
ではそれは、神様がイエス様を滅ぼすためだったのか。そうではない。十字架によってしか果たされ得ない使命を、イエス様が達成するためであった。イエス様の十字架の死によって、私たちに命の犠牲を与えて、それを「わたしたちのため」とすることが目的だったのである。イエス様は、十字架の時を、わざわざ過越の祭にした。十字架の上で与えられる犠牲が、出エジプトの際に、イスラエル人を『滅ぼすもの』から守った小羊の犠牲とするためだった。十字架の上で流される犠牲だけが、何らかの意味で、私たちを『滅ぼすもの』からガードするのである。滅ぼすものが、私たちを過ぎ越してゆくのである。神様は、十字架を、このような使命を果たすためのものとして、イエス様に与えたのだった。滅ぼすためではなかったのである。使命に生かすためだったのである。ここに、十字架上のイエス様への、神様の奥深い愛が現れているのである。
十字架の死という「世」の象徴であった出来事を、神様が、このように愛されたのだから、その愛は、世にいる私たち、イエス様と同じように、それぞれにとっての十字架を背負い、それによって外なる人が衰えてゆかざるを得ない私たちにも注がれているのである。神様は、私たちを衰えさせ、内なる心をも滅ぼすために、十字架を背負わせるのではない。そうではなく、私たちもまた、十字架を背負うことによってのみ、何らかの使命を果たすためにこの世に置かれている。私たちがそこで流す犠牲が、誰かをして『滅ばすもの』から守るのである。このことがわかれば、たとえ外なる人が衰えて苦しむことになっても、私たちの内なる人は、私たちの心は、しっかりと守られる。心の砦が築かれ、命が守られる。滅ぶことから救われる。イエス様の十字架の死という出来事に、このような神様の奥深い愛が込められていると信じることができるなら、私たちは、ひとりも滅びないで、たとえ外なる人は滅びても、すなわち内なる人が、心が強くされ、新たにされてゆくのである。それが永違の命をいただくということなのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 11月12日(日)降誕前第7主日礼拝
20:01イスラエルの人々、その共同体全体は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュに滞在した。ミリアムはそこで死に、その地に埋葬された。 20:02さて、そこには共同体に飲ませる水がなかったので、彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。 20:03民はモーセに抗弁して言った。「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。 20:04なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。 20:05なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。」 20:06モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主の栄光が彼らに向かって現れた。 20:07主はモーセに仰せになった。 20:08「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」 20:09モーセは、命じられたとおり、主の御前から杖を取った。 20:10そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」 20:11モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。 20:12主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」 20:13これがメリバ(争い)の水であって、イスラエルの人々が主と争った所であり、主が御自分の聖なることを示された所である。
1 「メリバの水」は、民数記のエピソードの中では比較的よく知られているものではなかろうか。12~13節に「主は・・・導き入れることはできない」とある。何が言われているのかすぐには理解できないと思う。しかし、この出来事があったために、モーセとアロンは、神様が与えて下さる地に入ることができなくなったのである。そういう意味で、民数記の中でもよく知られた事件と思ったのである。このことは、他の多くの箇所にも言及されている。たとえば申命記の4章21節には「主はあなたたちのゆえにわたしに対して怒り、わたしがヨルダン川をわたることも、あなたの神、主からあなたに嗣業として与えられる良い土地に入ることも決してないと誓われた」とある。神様が、モーセに対して怒ったというのは、この出来事を指している。どうして神様は、モーセに対して怒ったのか。この出来事の背景に、どういうことがあったのかを知るためには、書かれている文章だけを読むだけではなかなかわからない。注解書の助けを借りながら、まずその点について学びたい。
2 まず書き出しの1節に「イスラエルの人々、その共同体全体は・・・滞在した」とある。ここを読んだだけでは、前の章、あるいはアロンの杖の出来事から、どれ位の時間が経ってからのことなのかは、全くわからない。注解書によれば、前章との間には、何十年かの時間が経っているとされている。カデシュという地名が出て来くる。イスラエル人がエジプトを脱出し、荒れ野に入つてから2年目が経った頃、このカデシュにキャンプを張って、もう目と鼻ほどの距離に迫っていたカナンの地に、12人の偵察隊を送ったことがあった(民数記13章から14章)。偵察隊からもたらされた報告は、まことに厳しいものだった。確かに乳と蜜の流れる良い地ではあったが、そこに住んでいた人々は、巨人のように大きく強く、また堅固な城壁が築かれていて、とても自分たちが侵入できるようなものではないとの報告だったのである。これを聞いた人々は、3節以下に書かれているのとほぼ同じような嘆きを爆発させたのだった(14章)。そのカデシュにキャンプを張ったのが、かれこれ38年前のことであり、それから約40年の歳月が過ぎてやっと人々は、言わば、ふりだしの地点に戻って来たのであった。再び、約束の地がすぐ目の前にある地にたどり着いたのだった。
40年間、荒れ野を彷徨い、エジプトを脱出した第1世代の男性たちのほとんどが死に絶えてしまうような難儀な歩みをしてきて、神様が用意して下さったのは、希望にあふれた前途であったかと言うと、全くそうではなかったのである。1節最後と2節のはじめにあるように、まず指導者の一人であったミリアムの死、さらには、このカデシュとは荒れ野の中のオアシスのような地であったのだが、それが涸れてしまっていて、飲み水を得ることができなかったのである。40年間、苦心してきて、やっと振り出しに戻れたというのに、神様はなぜこのような報いを与えたのであろうか。いったい、それまでの40年の苦労は何だったのか。エジプトにいたほうが良かったのではなかったか。荒れ野に迷い込まない方がよかったのではなかったか。エジプトにそのままいたら、きっと多くの仲間たちも、死ぬことはなかったかもしれない。このように、人々は嘆きを爆発させたのだった(3節以下)。
3 このようなイスラエル人の姿に、私たち自身を重ねることができるように感じるのである。今、私たちの教会は、創立40周年の時を歩んでいる。私たちの教会は、創立から40年経って、幸いにも今、飲み水がないという状況には直面してはいない。しかし、これから40年後はどうであろうか。私は、教区内の小規模の教会が、経済的に苦境に立たされ、牧会者を得られない状況に陥っている現実を多く聞いている。私が代務者をしている諸川伝道所では、創立はまさに、ほぼ40年前の1976年。それから40年経って、今はどうか。一時は20人前後の信徒の伝道所であった。「信徒の友」という日本キリスト教団出版局の月刊誌に、かつて希望にあふれた教会として紹介されたこともあった。それが今や、現住陪餐会員は1名だけだという。全国に、このような教会が増えてきている。懸命にかかわってきた牧師や信徒たちの気持ちを思うと、察するに余りがある。
本日の説教の準備をしていて、会津の、ある伝道所のことを思い出した。そこの牧師は、ある日、行方不明になってしまった。訪ねてみると牧師館の中は、つい先ほどまで普段通りの生活が営まれていたかのようであった。炊飯器には、お米がこびりつき、洗濯物がぶらさがっていた。本当に、今でも忘れられない光景である。牧師の書斎の机の上には、教会の年度報告書が、書きかけのまま放置されていた。それを書いていて、たぶん、いたたまれなくなったのではなかろうか。心がプツンと折れてしまったのであろう。その伝道所は、一時はダム建設の関係者でにぎわっていた。アメリカからの音楽伝道団だったラクーア伝道によって、多くの人が来た。しかし、それからやはり40年ほどが経って、教会は火が消えたようになってしまったのである。
これまでの40年は、いったい何だったのかと思うときがある。イスラエル人も、いろいろと問題を起こし『病気』にもかかった。しかし、火の柱・雲の柱に導かれ、マナをいただき、レビ人を中心として礼拝を守る共同体として、荒れ野を生きてきたのだった。私たちもそうなのである。懸命に精一杯伝道し、礼拝を献げ、教会をたてあげてきた。その結果として、私たちに与えられるものは何か。教会のことだけではない。信仰生活を続けてきて、今与えられているのは何か。骨折したり、難聴になったり、まさに大切な何かを失い、飲み水も得られないというような状況ではなかろうか。これが40年の歩みへの神様からの報いなのかと私たちも思うのである。
しかし私は、ここに、なぜか、慰めのようなものも感じるのである。だれのせいでこうなったのでもない。モーセとアロンが至らなかったからでもない。人々は懸命に礼拝を守り、マナによって生かされてきた。それでも、40年後には、このような状態になってしまう。信仰共同体は、この世においては、どうしても荒れ野の中にあらざるを得ないのである。40年たってさえも、なお「種をまく土地も、いちじくもぶどうもざくろも飲み水さえもない」と言うしかない状況に置かれるものなのである。私たちの40年の歩みの結果とは、こういうものなのである。教会がこうであり、また私たちの40年の営みの結果がこうであるからと言って、自分自身を責めたりする必要はないのではないか。こんな語りかけを、私はまず聞くことができたのである。
4 このような状況、また人々の嘆きを前にして、モーセとアロンはどのようにふるまったかというと、実は二人は、人々に対して、また神様に対しても、怒っていたのだった。神様から命じられた通り、杖を手にとって岩から水を出したが、「反逆する・・・出さねばならないのか(10節)」と、怒りを込めた言葉を発したのだった。神様の命令は「岩を杖で打て」でなかった。ましてや2度も打てとは言われてはいなかった。しかしモーセは、岩を杖で2度も打ったのだった。ここに、モーセとアロンの怒りがあった。40年経っても、かつてカデシュで発したのと同じ嘆きや不平不満を爆発させてしまう民が、そこにはいたのである。また、そのような嘆きを40年の苦労の果てに、人々をしてロにさせてしまう神様がおられた。「いつまでこのような人々を導かねばならないのか」「そのような務めを神様から科されねばならないのか」という怒りであった。このような怒りを牧会者として抱いたがゆえに、二人はカナンの地に入ることはできないとされたのだった。このことには、象徴的な意味があると感じられた。約束の地に入ることができずに死に絶えた者たちとは、神様のみもとに行くのにふさわしくない者のあり様なのであった。また、信仰共同体にふさわしくないものを表していた。それは、エジプトにいたときのように、肉を食べること、人の上に立とうとすること、そして指導者が会衆に対して怒りを抱くことであった。会衆に対して怒りを抱く牧会者が約束の地に入るということを、神様はお許しにはならないということなのである。
二人は、このような怒りを抱きつつも、しかし最初にしたことは、嘆くこと、会衆から離れることだった(4節)。そして「臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏す」ということであった。これによって、牧会者として、この状況下で何をすべきかを教えられたのだった。怒りによって対処するのではなく、神様が示して下さった対処をすることができたのだった。このことは、牧師にとっては、とても強くその意味を知らされるものである。
それは、牧師は信徒たちの不平不満や嘆きに直面したとき、直接それに立ち向かってはならないということである。そうではなく、そのことから離れ、神様の前に立とうとすることが大事なのである。それをすることが、牧師の恵みだと思うのである。本当にそうであったと思い返す。前任地の郡山で、とても辛い時期があった。しかし、どんなに辛いことがあっても、牧師は説教の備えのために聖書に向かい、説教をしなければならない。その備えを通して、本当に不思議な恵みをいただいた。ちょうどヨハネによる福音書を読んでいた頃であった。復活されたイエス様がトマスに、あなたの指や手を十字架の傷痕に入れてみよと言われたこと、また、ぺトロに3度わたしの羊を飼いなさいと言われたことを通して、決して忘れることのできない貴い慰めをいただいたのを忘れることができない。嘆きや怒りを抱えた自分自身から離れて、神様の前に立つ機会があたえられるのである。それが礼拝なのである。そうすることで、今何をすべきかを神様から教え示されるのである。
5 このようにしてモーセとアロンは、怒りを抱えつつも、神様の前に立つことで、民の嘆きにどう対処すべきかを教えられたのが、杖をとって岩から水を出すということだったのである。「岩」というのは、象徴的にモーセやアロン、またイスラエルの人々が置かれていた現状を表していると、しみじみ感じる。しかし牧会者である二人が、神様の前に立つと、そのような状況であっても、神様が彼らに必要な水を与えて下さった。私たちには、固い岩から水を出させることのできる杖がある。その杖とは、他でもなく聖書であり聖書を通してイエス様・神様・聖霊に出会う礼拝ではなかろうか。
なぜ神様は私たちに、こうした「岩」にぶっかるような体験をさせるのか。それは、私たちを自分の力では水を得ることができない状況に置き、御言葉によって、礼拝によって、そこで出会う神様とイエス様と聖霊という杖によって水を得る体験を、私たちにさせるためなのである。つきつめれば、私たちの40年間の教会生活の報いとは、信仰生活の報いとは、こういう体験をさせていただくことにこそあると思うのである。「種をまく土地やイチジクやぶどうやざくろや(この世からの)飲み水」をいただくのが報いではない。神様が岩からでも水を出してくださること、そのために私たちには信仰という杖が与えられていることを、最後の最後に体験させていただくことこそが、まさに40年間の報いなのである。牧師として怒りを抱えつつも、神様から人々の嘆きに対処するすべを授かり、それを実践できたモーセとアロンであった。信仰共同体にとっての牧会者の存在意義を、改めて教えられた。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 11月5日(日)降誕前第8主日礼拝
15:35しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。 15:36愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。 15:37あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 15:38神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。 15:39どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 15:40また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 15:41太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。 15:42死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 15:43蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
1、昨年父が天に召され、私も召天者遺族という立場の者になった。昨年のこの召天者記念礼拝では、余りそういった気持ちにならなかったが、今年はなぜか、こうして説教を語る者ではなく、会衆席に座って御言葉を聞く側に身を置きたいという思いがとても強くある。皆さんが、とてもうらやましい。それほどに、大切な人を亡くした遣族とは、死者について、また死について、慰めとなるような言葉を聞きたいと願っている存在なのだと、我がこととしてしみじみ感じる。
ほぼ毎回のように、この召天者記念礼拝でご紹介する言葉だが、『生者中心主義』という言葉を忘れることができない。もう20年近くも前に、図書館で何げなく手に取った本で目にした言葉なので、その著者も、本のタイトルも覚えてはいない。その言葉の主は、奧様に先立たれて、その後を生きてゆく中で、自分を取り巻いている社会が、生きていること・生きている者だけが価値があるという考えに染まっているという思いを強くし、そういう社会のありかたを『生者中心主義』と言い表したのだった。そのような社会は、遣族となった私たちに、死について、また死者について慰めとなるような言葉を語ってくれることなどない。私たちは、何の慰めをも与えられず、放っておかれたままである。
そのような中にあって、教会がこうして死者を覚え、死について、ささやかではあるかもしれないが、何らかの慰めとなる言葉を語ってくれるのである。だから私は、会衆席に身を置いて語られる慰めの言葉を聞きたいと切に思ったのである。教会は、この召天者記念礼拝でのみ、死や死者を覚え、慰めの言葉を語ってきたのではなかった。教会が、こうして礼拝を献げることの土台には、イエス様が復活したということがある。弟子たちが日曜日に礼拝を守るようになったのは、その日に、復活のイエス様に会ったからであった。私たちが、毎週の礼拝を献げるということ自体が、十字架の死を覚え、イエス様の復活を覚えることなのである。そしてこの召天者記念礼拝は、特に召天者が、そのイエス様につなげていただいていることを覚えるときである。私たちは、毎週毎週の礼拝を献げることにおいて、今の社会の『生者中心主義』に抗して、死や死者のことを覚えることができるのである。それによって、慰めの言葉を聞くことができる。それは、どれほどありがたいことであろうか。
私は時折、若松英輔の『死者との対話』という本を手に取る。この人はカトリックの信者だが、先ほどの『生者中心主義』という言葉を言った人と同じように、ご夫人を亡くされた後、また特に東北大震災の後に、このような本のタイトルに現されているような思索を重ねておられる。この本の冒頭に、アランの『幸福論』から、こんな一文を引用している。『死者たちは死んではいない。・・・死者は考え、語り、そして行動する。彼らは助言することも、意欲することも、同意することも、非難することもできる。・・・(だから)しっかりものを見、よく耳をすますがよい。死者たちは生きようと欲している。あなたの内部で生きようと欲している。彼らの欲したものをあなたの生命が豊かに展開することを、死者たちは欲している』と。このアランの言葉から言えば、死者の側が私たちに、何ごとかを強く語りたい・聞いてほしいと願っているからこそ、遣族の私がそのように思うようになったのだと言ってよいのかもしれない。つきつめて言えば、十字架の死から復活したイエス様が、死や死人について大切なことを、生きている私たちに語りかけているのである。それが私たちにとって、どれほど貴重なことかとしみじみ思うのである。
2 コリント教会の信徒の中に「死者はどんな・・・来るのか」と疑問を抱いている人達がいた。少し前の15章12節には、もう少し詳しく、「キリストは死者の中から・・・と言っている」とあった。この疑問というのは、イエス様の復活そのものを否定したり、疑問視したりするものではないとされている。では、どういう疑問かと言うと、はっきりしたことはよくはわからないが、私はその疑問を、以下のように理解している。
洗礼を受けるときの式文のようなものとして、当時の教会で既に成立していた言葉として、ローマの信徒への手紙の6章3節以下にはこうある。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、その死にあずかるために洗礼を受けました。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。・・・もしわたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」と。洗礼を受けたなら、イエス様と同じように復活させていただけるということが、言わば受洗の時の約束のようなものだったのである。ところがどうか。コリントの教会へのこの手紙が書かれたのは、イエス様が復活して天に帰って20数年経った頃だったが、もう何人もの受洗した人々が召されていっているのに、イエス様と同じように復活し、残された者たちに何日にもわたって現れてくれたという事実はなかった。それに打ちのめされていたのだった。こういう事実が幾つも幾つも重なってゆく中で、イエス様の復活を否定するのではないが、それに結ばれて、私たちも復活させていただけることはないのだという失意へと至らざるを得なかったのではなかろうか。なぜ私たちは、イエス様と同じようには復活させていただけないのかというコリントの教会の信徒たちの思いに、パウロは精一杯答えようとしていたのが36節以下である。
3 パウロが答えとして用いたのは、種蒔きの比喩であった。神様は、私たちの死において、私たちを種として蒔かれる。朽ちるものとして蒔かれ、朽ちないものに復活し・・・と語っている。パウロは直接、コリントの教会の人々の疑問に答えることはできなかった。しかし、彼の言葉の背後には、神様は決してイエス様と私たちとを区別して、別な種として蒔かれてはいないという語りかけがあったように思うのである。イエス様に結ばれた者ならば、すべて神様によって死において蒔かれ、いつの時にか朽ちないもの・輝かしいもの・力強いものとして復活させていただける。そこに何ら違いはないのだとの心があるように思うのである。ただ38節に「神は、御心のままにそれに体を与え、ひとっひとっの種にそれぞれ体をお与えになります」とある。神様がいつどのような体を蒔かれた種にお与えになるかは、あくまで御心によるのである。
なぜイエス様だけが三日目に復活され、私たちはそうではないのかという深刻な疑問には、パウロは直接答えてはいない。聖書に何も書かれていないことを説教で語るのはよろしくないと言われるかもしれないが、牧会者として、この疑問はとても大事な事柄だと思うので、私なりの答えとして、ひとことで言うならば、イエス様の十字架の死という種は、どうしても三日目に芽吹き、40日間も弟子たちに何度も姿を現すという形で花咲くことが不可欠だったということである。
イエス様が十字架の上で、弱い者・惨めな者になる必然はどこにあったのか。それはただひとえに、私たちもひとりひとり十字架を背負わねばならないからであった。死に向かわねばならない者として、私たちも十字架から逃れることはできない。私たちが、その十字架を背負うためには、同じように弱さを背負い、惨めな者になって十字架を背負ってくれた先導者がいなくてはだめだったのである。十字架の苦しみの向こうに、どんなゴールが待っているかを示してくれる先導者が絶対的に必要なのである。もし十字架を背負う先導者たるイエス様が、その十字架の死の中で埋もれてしまったらどうであったか。雪の山道を先導する人は、ラッセルしながら道を作ってくれる。その人がそのまま深い雪の中に埋もれてしまったら、どうであろうか。後に続く者も、埋もれるしかない。そうであればこそ、後に続く私たちのために十字架にかかったイエス様は、どうしても三日目に復活する必然性があったのである。十字架の死の中に埋もれることは、できなかったのである。十字架の死をかきわけて、それを背負って復活して下さらねばならかったのである。そして、アランの言葉のように、十字架の上をくぐり抜け、なお生きている者として弟子たちに語って下さらねばならなかったのである。様々なことを教え励まさねばならなかったのである。このイエス様という先導者がおられることが、決定的に大事なのではなかろうか。そうであればこそ、私たち自身は、もはやイエス様と同じようにさせていただく必要はないのである。もうすでにちゃんと道ができているのだから、その道をたどって、いつかは芽吹き花が咲く時がやってくるのである。死んだ者が三日目に新しい体を与えられ、40日にもわたって残された者たちに姿を現し、一緒に食事さえしたというありかたは、特別なことなのである。普通はおこりえないものだったのである。イエス様だけに与えられたものだったのである。
4 イエス様の十字架の死と復活から、死とは神樣によって種として蒔かれてゆくようなことなのだとパウロは教えていただいたに違いない。この比喩から、私たちは死について本当に深い慰めと諭しをいただけるように思うのである。詩編126編の「涙と共に種を蒔く」という不思議な御言葉を改めて思い起こす。種を蒔くことには、なぜか涙が伴うという深い真理を。死において、種を蒔くことこそ、涙を伴うのである。蒔かれてゆくためには、種は私たちの手から離れてゆかざるを得ない。別れがある。別れて、死の中に、神様の御手という大地に理もれてゆかざるを得ないのである。私たちの目からは見えない者となり、大地において朽ちることが始まるのである。しかし、そういうことが起こってゆかなければ、発芽へと至ることはないのである。だからこそ、涙と共に種蒔くのである。
こういう言い方もできよう。イエス様自身が「一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの多くの実を結ぶ(ヨハネによる福音書12章24節)」と言われた。「一粒のままでもよいから、いつまでも死なないでそばにいて」と願った人がいたという。偽らざる私たちの本心であろう。しかし神様は、私たちを種のままでおらせることはなさらない。それは、農夫たる者のすべきことではないのである。農夫たる者は、必ずや種を蒔く。種を地面に委ね、そうであればこそ大地の力によって、固い種の殻は柔らかくされ、様々な土の中の微生物との相互作用や、栄養物の力を受けて発芽し、多くの実を結ぶようになるのである。農夫であれば、必ずそうするのである。神様もそうなさるのである。死に委ね大地に委ね、それによって私たちは、朽ちないもの・輝かしいもの・力強いものへと変わってゆけるようになるのである。
十字架の死から復活したイエス様、またそのイエス様と共に復活を芽吹く時を待っている召天者からのメッセージを、私たちは受け取ることができたであろうか。アランが語っていたように、彼らの欲したことが、私たちの生命の中で、豊かに展開できるようになったであろうか。ささやかでも、それがかなえられたなら幸いである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 10月29日(日)聖霊降臨節第21主日礼拝
01:18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 01:19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」 01:20知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 01:21世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 01:22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 01:23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 01:24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 01:25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1 コリントの教会には幾つかのグループがあって、互いに「わたしは(エゴー)」、「わたしは(エゴー)」と言い合って、争っていた。争いの旗印は、自分たちが誰先生から洗礼を受けたかであったようである。ある人は「わたしはこの教会の創立者であるパウロ先生から洗礼を受けたのだ」と言い、ある人は「いやいやわたしは、パウロ先生の後に教会の指導者となって教会をぐんと大きくしたアポロ先生から洗礼を受けた」と言い、またある人は「いやいやわたしは教会の総本山の一番偉い人・イエス様の一番弟子であったペトロ先生から洗礼を受けた」と自慢し合っていた。そこでパウロは彼らに問うた。「あなたがたのために十字架についたのはパウロですか、アポロですか、ペトロですか」と。「あなたがたのために十字架の上で血を流して下さったのはイエス様ではありませんでしたか」と。教会は「わたしが」や「パウロが」ということが声高に叫ばれるところではなく、「神様が」「イエス様が」私たちのためにすばらしいことをして下さったということが何よりも語られるところなのだとパウロはコリントの人々に語りかけたのだった。
2 このように前の段落で、イエス様の十字架のことが語られたので、ここではさらに、このことが深められてゆく。まず18節に「十字架の言葉は、・・・神の力である」とある。「十字架の言葉」とは、十字架の上で死んで下さったイエス様が、私たちの救い主・キリストであるということと、それが言葉によって人々に宣べ伝えられるという、二つの事柄を含んでいると思う。パウロが、単に「十字架は」と言わず、わざわざ「十字架の言葉」と言ったのは、21節に「宣教の愚かさ」とあるように、十字架の上で死なれたイエス様が、キリストであるということが、人間の言葉を用いた宣教という手段によって人々に語られたということをも指していたのである。十字架の上で殺されたイエス様がキリスト、すなわち救い主であるということが、多くの人々にとっては、まことに愚かなことであったという点に触れてゆきたい
さてまず、このことが具体的にどういう人々にとって愚かであったのか。19節以下には、旧約聖書のイザヤ書29章14節の御言葉が引用されている。「知恵ある人々」「賢い者」にとってと言われている。さらに22節以下には、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが」とあり、それを受けてそうした「ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなもの」だとある。このような人々にとって、十字架の上で殺されたイエス様がキリストであるとは、まことに愚かなことであったと、つまずきであったと言っているのである。
なぜ彼らにとって、そうであったのか。18節最後の「救われる者には神の力です」という言葉が力ギになろう。彼らも、自分達を救ってくれる神の力というものを当然求めていた。しかし、問題は彼らがそれをどんなものとして求めていたかということにあった。それは、十字架につけられたイエス様に、人々が投げつけた言葉によく示されていると私は思うのである。例えば、マタイによる福音書の27章40節以下には、こう書かれている。「神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば信じてやる。・・・神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」と。これは専らユダヤ人が、イエス様にあびせかけた言葉で、ギリシャ人の言葉ではなかった。しかし、ユダヤ人だろうとギリシャ人だろうと、要は多くの人々がイエス様に要求したものが何であったかを、このあざけりの言葉は如実に現わしている。多くの人々が求めたところの、私たちを救ってくれる神の力とは、十字架からイエス様を降ろしてくれる力なのであった。同様に、私たちをも十字架から降ろしてくれる力なのであった。「イエス様が、十字架から自分を降ろすことができ、私たちをもそうしてくれるなら救い主として信じよう」ということである。これが私たちの知恵であり、賢さなのである。だから、当然のごとく、「十字架の上で殺されてしまうイエスなど、どうして救い主なのか、私たちを救う神の力の現れか」ということになってしまう。「そんなばかげたことはない」となってしまうのである。
3 そのような人々に対して、パウロが問いかけたのは、「では、そのような知恵によって私たちを救う神の力というものを見いだすことができるのか」ということであった。答えは「NO」である。引用されたイザヤ書には「わたしは知惠ある・・・意味のないものとする」とあった。このような知恵によっては、私たちは、私たちを救って下さる神の力を見いだすことはできないということなのである。その知恵は、空しいものとされるのである。いや、かえってそのような知恵があることによって、私たちを救って下さる神様の力というものを見いだせなくなるのである。それが実は、神様の考えなのだ。神の知恵なのだ。これが20節から21節の前半までのところで語られていることであった。21節の最初には「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」とあった。このような私たちの知恵、つまりイエス様を十字架から救い、また私たちから十字架を取り除くような神の救いの力を求める知恵は、逆に私たちをして神様を見いだすことをできなくさせているというのである。
なぜ、そのような知恵によってでは、神様を見いだすことができないのか。それは、私たちから十字架─それは私たちひとりひとりが背負う苦悩をそれは意味している─を取り除くというところに、私たちを救う神の力はないからなのである。神様は、私たちから苦悩を取り除くということにおいて、私たちを救おうとはなされていないからなのである。神樣の私たちを救う力は、そういうものとしては現れてこないのに、私たちの知恵が、いつまでもどこまでも、そういう神の救いの力を求めるならば、そんなものは見いだせないのは当然なのである。
神様は、私たち人間のみを、自分の姿に似せて造ったのだった。しかしなぜか、その私たちを造る材料は、他の生き物たちと全く平等に土の塵から取られたと創世記の1章2章に書かれているのである。神様が、私たちに科せられた十字架、私たちが決して背負うことを逃れられない十字架とは、私たちが土の塵から取られ、同時に神様に似せて創造されたという、この奥深い矛盾にこそあると、私はいつも思うのである。もし私たち人間に、神様の似姿というものがなければ、そもそも知恵なるものはなかったであろう。私たちが、他の生き物と同じように、土の塵から造られたことを厭い、その十字架が取り除かれることを救いとして追い求めることはなかったであろ。他の生き物たちは、決してその十字架を取り除いてくれとは思ってはいない。私たち人間のみが、神様から与えられた神の似姿としての知恵ゆえに、土の塵という十字架が取り除かれることを願うのである。しかし、それを願えば願うほど、なおさら私たちは、十字架が取り除かれ得ないことに苦しむのである。ここに人間の苦しみがある。救われねばならない私たちの苦悩が存在するのである。
『夜と霧』の著者V.フランクルは、著書『苦悩する人間』の中で、「人間の本質は苦悩である、人間とは苦悩人(ホモパティエンス)」と言っている。長い間精神科医として多くの心病む人々に関わってきた彼が、こう言い切っているのである。私たち人間は、苦悩を取り除くこと、すなわち十字架を取り除くことはできないのである。十字架が取り除かれることにおいて、私たちを救う神の力を求めても、それは空しいのである。しかし、それでも求めてしまう私たちがいる。ここにこそ、私たち人間こそが救われねばならない存在だと言うことが、しみじみとわかってくる。18節の「わたしたち救われる者には」という言葉には、私たちは救われなければならない存在だという、パウロの叫びのようなものを感じる。知恵によっては、どうしても救われないのである。ホモパティエンスとしての自らを受け入れることができないのである。だすから、私たちの救いとは、私たちに十字架を科された神様の御心を知ることだと思うのである。自分に科された十字架を受容でき、ホモパティエンスとして生きる意義を悟ることなのである。
4 これをなさしめて下さるのが、イエス樣の十字架なのである。そうであればこそ、パウロは「十字架の言葉は・・・わたしたち救われる者には(救われねばならない人間にとっては)神の力です」と言うのである。
イエス様は、自身がなぜ十字架にかからなければならないかを、繰り返し教えてくれた。最後の晩餐のときの、弟子たちへの遺言と言ってもよいその言葉に、よく現されている。それは、私たちが2000年後の今も、聖餐式の際の「制定語」として必ず読んでいる。パウロがこの手紙の11章24節以下に記している言葉によれば「これは、あなたがたのためのわたしの体である。・・・この杯は、わたしの血によって立てる新しい契約である」とある。「杯」については「あなたがたのため」という言葉は直接にはないが、体について「あなたがたのための」と言われている意味が当然に含まれていることは言うまでもない。土の塵としての肉体であればこそ、それを私たちのための体・杯(血潮)として、それを与えることができうるのである。体であればこそ、痛みと犠牲を伴うがゆえに、何らかの意味で「わたしたちのため」のものになるのである。痛みの伴わないものは、誰かのためにはならない。またイエス様は、十字架の上で自身を犠牲とされる時を、他のどんな時でもなく、過越の祭の時を選んだ。十字架の上で殺される自分が、出エジプトの出来事においてイスラエル人をして「滅ぼす者」を過ぎ越させるために屠られた犠牲の小羊なのだという御心がそこにあった。体の犠牲を伴った十字架の死であればこそ、何らかの意味で私たちをして「滅ぼす者」からガードするのだという明確な意図が、そこにあったのである。このような十字架の出来事から、私たちが神様から科された十字架の意味、苦難の意義を深く悟らせていただくのである。苦難の中に置かれる私たちを救う神の力を見いだすのである。この救い・神の力とは、他でもなくこの十字架という苦難が良いものであり意義あるものであると知ることにある。私たちもまた、土の器・肉体をもって十字架を背負い苦難を味わい、血を流すからこそ、それは必ずや誰かのためになるとわかることにある。それは「滅ぼす者から」誰かを過ぎ越させるのである。
フランクルが、その著書の中でしばしば紹介しているエピソードがある。ある時、夫人に先立たれたフランクルの同僚の医師が、重い鬱病に悩んで、フランクルのもとに来た。彼の話をじっと聞いた後で、フランクルはこう語りかけた。「先生、もしあなたが先に亡くなり、奥様があなたなしで生きていかなければならなかったとしたら、どうでしょう」と。すると同僚医師は「そんなことになったら妻はとても大変だったでしょう。どれほど苦しまなければならなかったことか」と答えたという。そこでフランクルはこう言った。「そうですね、先生。その苦しみを奥様は経験せずにすみました。奥様が苦しまずにすむようにしてあげたのはあなたです。その代償として、あなたは奥様より長生きし、その死を悼み悲しまねばなりません」と。私たちが土の器として苦しむということは、必ずや誰かのためになるのである。その人を滅ぼす者から救い出すのである。このためにこそ、神様は私たちを土の塵から造られたと知るのである。
最後の21節に「神の愚かさは・・・」とある。パウロは、イエス様の十字架の中に「神の愚かさ」「神の弱さ」というものを見たのである。改めて思いめぐらすが、旧約聖書の中に「神の愚かさ」「神の弱さ」というような表現があったであろうか。私は書斎の机に、参照付きの聖書を置いているが、この25節には、どこにも旧約聖書の参照箇所はない。十字架のイエス様において、神様が愚かになり弱くなって下さったのである。それは驚くべき表現である。神様を冒涜するかのような御言葉である。しかし、このことこそが、神様が私たちの愚かさや弱さを本当に貴いもの・なくてはならないものとして扱って下さっていることの現れなのである。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」故に、神の愚かさは私たちの賢さを壊し、神の弱さは私たちの強さを打ち砕いて下さるのである。私たち人間の賢さとは、どこまでも強さを追い求めてゆくものであり、それが行き着く世界は、そら恐ろしい世界である。人間の賢さと強さが支配している世界を、イエス様の十字架における神の愚かさと弱さが打ち破って下さる。私たちの救いは、そこにこそある。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 10月22日(日)聖霊降臨節第21主日礼拝
03:01さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 03:02ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 03:03イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 03:04ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 03:05イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 03:06肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 03:07『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 03:08風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 03:09するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 03:10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
1 ニコデモは、ヨハネによる福音書に3回登場する。2度目は7章45節以下、3度目は19章38節以下。ここでは十字架の上で息を引き取られたイエス様の遣体をアリマ夕ヤのヨセフと一結に丁寧に墓に葬る者として。著者ヨハネは、このニコデモとイエス様との問答の場面を、他のところではなくここに置いた。宮清めとカナの結婚式の出来事の流れの中に置いたのだった。そこに、ヨハネのメッセージが滲み出ていると感じる。
ニコデモとは、どういう人物であったか。1節に、ニコデモは「ファリサイ派に属する・・・ユダヤ人たちの議員であった」とある。ファリサイ派とは、かつてパウロもその一員であった。ファリサイ派の人たちは、十戒を核にした律法を熱心に忠実に守り、また神殿に詣でることを、とても大切にしていた。このような人をここに登場させたところに、カナの結婚式や宮清めの出来事との流れが現れている。カナの結婚式における6つの水甕は、熱心に律法を守ることの象徴だった。二コデモは誰よりも熱心に律法を守る人だったのである。宮清めでは、神殿への熱心さということが言われていたが、ニコデモはそれも持っていた人物として描かれている。なお、紀元70年に、ローマ帝国によって、エルサレムは徹底的に破壊されてしまい、この福音書が書かれた西暦100年頃には、もうエルサレム神殿は存在せず、ユダヤ人は全世界へと散らばらざるを得ない歩みを余儀なくされていた。そうしたユダヤ人の信仰的な支柱の役を果たしたのは、実はこのファリサイ派であった。現在私たちが読んでいる旧約聖書を編纂する作業に当たったのも、彼らであった。この福音書が書かれた時代のユダヤ人の信仰のリーダーの代表として、著者ヨハネはニコデモを登場させたように感じる。
「議員であった」とあるが、サンヒドリンと呼ばれ、たった70人ほどしか、そのメンバーになれなかった議会の一員であったことを示している。彼は、当時のユダヤ人の名門中の名門だったのである。バークレーの解説によれば、紀元前63年に、ローマ人とユダヤ人が戦争状態にあったとき、ユダヤ人の指導者アリストプロスが、当時のローマ皇帝ポンペイウスのもとに送った使者の名前がニコデモだそうである。年代から言って、このニコデモとは別人であろうが、ニコデモ家とは、そういった名家だったのである。
2 このようなニコデモが、夜の闇に隠れてこっそりとイエス様のところにやってきたのだった。それがどれほど驚くべきことであったかは、言うまでもないことである。ファリサイ派がとても大事にしていた神殿を「壊してみよ」と言って、神殿を維持し、支えるために長い間営まれてきたものを蹴散らしたイエス様のふるまいが書かれている後に、このことが書かれている。それがファリサイ派にとって、どれほど怒りを招くことであったか。マ夕イ・マルコ・ルカによる福音書では、このイエス様の言動が、十字架への直接的な引き金だったと記されている。この出来事の直後に、そのファリサイ派の、しかも名家中の名家に属する人が、イエス様のもとにやってきたと、著者ヨハネは記したのだった。その意図は明らかに、そういう人であってもイエス様のもとへ、危険を冒してまでも訪ねざるを得なかったということを言わんとしたのだった。名家中の名家であり、律法の行いを熱心にした当時のユダヤ人の信仰の指導者のような立場にあった者であっても、何か満たされないものを抱えていたのだった。カナの結婚式の出来事から言えば、「ぶどう酒」が不足していたということなのである。
では、ニコデモが抱えていた満たされないものとは、どんなことだったのだろうか。それは、開口一番の彼のイエス様への「わたしどもは・・・神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできません」という言葉に現れている。ニコデモが言っていた「しるし」とは、文脈から言えば、他でもないヨハネがイエス様のなさった最初のしるし・奇跡として書いていたカナの結婚式での出来事であろう。ニコデモは、そのしるしに深く心を動かされたのだった。彼自身が同じことをしたいとか、自分も神が共にいて下さってイエス様と同じことをできるようになりたいと願っていたとか、そういったことではなかったと思う。そうではなく、彼自身、カナの結婚式の出来事にあったように、生きることを祝い、言祝ぐ(ことほぐ)ために不可欠なぶどう酒がなくなってしまっているということを抱えていたのだと思う。それが具体的に何かということは、この後のイエス様との問答の中で浮かび上がってくる。そのなくなっていたぶどう酒を、ファリサイ派として、どんなに熱心に律法の行いをしても、神殿に詣でても、手に入れることができなかったのである。6つの水瓶をすっかり空っぽにするほどに身を清めてもだめだったのである。ところがイエス様は、ただの水を汲ませ、それをぶどう酒に変えてしまった。ニコデモがイエス様に願っていたのは、わたしもそのような奇跡に出会いたい、わたしもぶどう酒が欲しい、どうしたらそれを手に入れることができるのかという思いだったのである。
3 これに対してイエス様は「人は・・・神の国を見ることができない」と、まず言われた。「神の国を見る」とは、死んで天国に行くという意味ではなく、神様の御業を見るという、要はニコデモが願っていたようなしるしを見るということであろう。イエス様のこの言葉の真意は、その後の問答から明らかになってくる。イエス様からこう言われてニコデモは「年をとった者が・・・できるでしょうか」と問い返した。イエス様から「新しく生まれなければ」と言われて思わず口をついて出たこの言葉に、ニコデモが抱いていた願いが、よりはっきりと出ていると思う。彼は年をとっていた。だから、できることならもう一度、母の胎内に入って生まれたいとさえ思ったほどだった。そう思っていたからこそ、イエス様の言葉を聞いて、このような応答をしたのであろう。彼が抱えていたぶどう酒の不足、律法の行いをしても神殿に詣でても手に入れることができなかったぶどう酒とは、端的に言えば、年をとることゆえのものだったと想像できる。
この思いは、年を重ねた人々には、本当に切々と感じられるものであろう。年齢を重ねることは、生きることを言祝ぐことを、できなくさせる。それまでは自分を喜ばせていた様々な意味での「ぶどう酒」が、次々と奪われてゆくからである。愛する人との別離、よりどころとしていた健康を損なうことなどなど。私たちは、何とかして、なくなってしまったぶどう酒を取り戻したいと思うのである。けれども、それは、あたかも6つの甕に無駄に水だけを満たすことのようなのである。どんなに水を満たしても、満たした水は、ただの水のままなのである。
4 ニコデモが抱いていた思いが、このようなものだと知り、イエス様はわざわざ「人は新たに生まれなければ」と言われたのであろう。直前の2章最後に「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」とある。ニコデモの心の中にある思いも、イエス様はお見通しだったのであろう。できることなら、もう一度、母のおなかに入って生まれ変わりたい、そうやってぶどう酒を得たいと願っていたニコデモだったのである。しかし、そのようなことは、できっこないのであった。不可能なのであった。そう思っていた彼に、イエス様がこう語りかけられたということの真意は、「あなたの願いはかなえられるのだよ」と言うことであろう。あなたは新しく生まれ変わることができるのだ、必要なぶどう酒を手に入れることができるのだと。
そんなことがどうしてできるのかと、ニコデモは猛然と反発したのだった。それがどのようにして可能なのかと言えば、5節以下に語られてゆくことによってなのであった。それは「肉から生まれるのではなく、水と霊によって生まれる」ことによってなのである。風が思いのままに吹くように、聖なる霊によって吹かれることによってなのである。ここでヨハネは語呂合わせをしている。原文のギリシャ語では「風」も「霊」も同じプニューマという言葉で言い表される。霊によって新しく生まれるとは、あたかも風に吹かれる者のごとくなることだというのである。
イエス様の言わんとしたことを汲み尽くすのは難しいが、まずイエス様は、肉の新しさ・肉において新しく生まれることを求めてはいけないと言われたのだと思う。年を取ったニコデモが、母の胎内に戻ってまでも求めていたものは何かと言えば、それは肉における新しさなのであった。肉とは、肉体と言い換えても間違いではなかろう。肉体において生きているゆえの内面、つまり願いや欲望をも指していたのである。いつまでも若くいたかったのである。ユダヤ人社会の超エリートとして、また信仰者のリーダーとして、これまで肉において持っていたものを持ち続けていたかったのであ。肉において豊かで大きくありたかったのである。そういう彼に対して、イエス様が言われたのは、「ニコデモよ、それを願っていては決してぶどう酒を与えられない。水を汲み続けるしかない」ということだった。ファリサイ派として、また名家中の名家であり議員でもあったことにこそ、逆説的に、彼が求めても求めても、ぶどう酒を得られなかった根源的な理由があったのである。
だから、「肉においてではなく霊における新しさを求めなさい。風に吹かれるがごとき新しさを求めなさい。そうすればぶどう酒は与えられる」とイエス様は言われたのだった。水と霊による新しさ、風に吹かれるがごとくの新しさとは、ニコデモが求めていたものとは正反対の姿である。それは、年をとれば議員をやめなければならないし、名家の中心人物としても役割を終えて、次々といろいろなものを手放してゆく有り様なのであった。水の持っている何よりもの特徴は「流れる」ということである。水によって新しく生まれるとは、洪水のように流れてくる流れに押し流されて行く歩みだと思う。風に吹かれるのも、思いのままに吹く風次第で、どこへでも吹かれてゆく姿である。そのように流され吹かれてゆく有り様こそ、霊によって、神様によって新しく生まれている姿なのだとイエス様は教えて下さったのである。
イエス様が何より伝えたかったのは、神様が与えて下さる「新しさ」に気づきなさいということであろう。年を重ねて多くのものを失い、洪水のような勢いに流され、自分の思い通りにはゆかない状況に、風に吹かれてゆく私たちである。しかし、それこそが、神様が与えて下さる新しさなのだとイエス様は教えて下さったのである。そうとわかれば、その状況のなかに、思いもかけない「新しく生まれる」有り様を見ることができるのである。そこに、すばらしいぶどう酒が汲まれていることに気づくのである。おいしいぶどう酒を汲むのとはまるで正反対の悲しい水を汲むしかない人生だとばかり思っている私たちだが、しかしそれが実は最上のぶどう酒を汲んでいることだと気づくのである。イエス様が、そのような新しい見方を与えて下さるのである。それこそが新しく生まれるということなのである。
ファリサイ派であり議員であったニコデモは、イエス様のところに来て、すぐにはその新しさに気づくことはできなかった。しかし3度もヨハネが彼を登場させたのは、彼が徐々にイエス様を通して、人は新しく生まれることができるのだと悟っていったことをほのめかしているのであろう。私たちも、新たに生まれるということの深い意味を悟りたいものである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 10月15日(日)聖霊降臨節第20主日礼拝
17:16主はモーセに仰せになった。 17:17イスラエルの人々にこう告げなさい。彼らのうちから、父祖の家ごとに杖を一本ずつ取りなさい。すなわち、彼らの父祖の家の指導者すべてから十二本の杖を取り、その杖におのおのの名前を書き記し、 17:18レビの杖にはアロンの名を記しなさい。父祖の家の長は杖を一本ずつ持つべきだからである。 17:19それを、わたしがあなたたちと出会う臨在の幕屋の中の掟の箱の前に置きなさい。 17:20わたしの選ぶ者の杖は芽を吹くであろう。わたしはこうして、あなたたちに対して続いたイスラエルの人々の不平を取り除こう。 17:21モーセがイスラエルの人々に告げると、指導者は皆、部族ごとに、父祖の家ごとに、指導者一人に一本ずつ、合計十二本の杖を彼に渡した。アロンの杖もその中にあった。 17:22モーセはそれを掟の幕屋の主の御前に置いた。 17:23明くる日、モーセが掟の幕屋に入って行き、見ると、レビの家のアロンの杖が芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた。 17:24モーセが杖をすべて、主の御前からイスラエルの人々のところへ持ち出したので、彼らは、各自々分の杖を見分けて取った。 17:25主はモーセに言われた。「アロンの杖を掟の箱の前に戻し、反逆した者たちに対する警告のしるしとして保管しなさい。そうすれば、わたしに対する不平がやみ、彼らが死ぬことはない。」 17:26モーセは、主が命じられるままにし、そのとおりにした。
1 イスラエルの12部族が神様に差し出した杖の中で、レビ族の代表だったアロンの杖のみに芽が出て、花が咲き、アーモンドの実がなったという。この出来事は、イスラエルの人々にとっては、非常に大切なものであったようである。へブライ人への手紙9章4節には「(契約の箱の)中には、マンナの入っている金の壷、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり」と記されている。契約の石板とは、言うまでもなく十戒が刻まれた2枚の石の板のことであり、マンナとはイスラエル人が荒れ野を彷徨った40年の間、ずっとそれによって命を養われた不思議な食べ物のことである。芽が出たアロンの杖は、十戒が刻まれた石板やマナと並ぶものとして、イスラエル人にとっての、言わば、三種の神器のようなものとして契約の箱の中に入れられていたという。ただ列王記(上)8章9節には「箱の中には石の板2枚のほかに何もなかった」ともある。確かなことはわからないが、アロンの杖から芽が出て、花が咲き、実が実ったという出来事は、荒れ野を歩んだイスラエル人にとってのみならず、その後のイスラエル民族にとっても、忘れられないものだったのは確かであろう。それは、今日の私たちにとっても、同じような大切な意義を持っている。
2 さて、神様がなぜこのような不思議なことをなされたかについて、その理由が20節と25節に次のように書かれている。20節後半には「わたしはこうして、あなたたちに対して続いたイスラエルの人々の不平を取り除こう」とあり、25節には「そうすれば、わたしに対する不平がやみ、彼らが死ぬことはない」とある。ここに記されている不平とは、16章にもあり、また17章6節以下にも書かれている。なぜこのような不平があったのか、改めて考えてみたい。
16章に書かれていたのは、モーセやアロンと同じレビ族に属するコラが、ルベン族のダタンやアビラム、またオンたちと組んで、モーセとアロンに反抗したという出来事であった。、同じレビ族なのに、なぜアロンやその子孫だけが礼拝や儀式において表舞台に立ち、自分達は裏方仕事をさせられているのかというものであった。コラの不平は、特にレビ族ゆえのものであったが、ルベン族タダンたちの不平も含めてまとめれば、それは16章3節にあるように「なぜあなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」というものであった。同じレビ族のコラにとってみれば、なぜモーセやアロンだけが祭司として上に立つのかという不満であり、ルベン族をはじめとして他の部族の人々にしてみれば、なぜレビ族出身の2人だけが指導者として選ばれるのかという不平だったのである。17章6節には「その翌日、・・・殺してしまったではないか」とある。レビ族のモーセやアロンが指導者になって、はたしてうまく行っているのか、自分達が指導者になった方がうまくゆくのではないかという不平なのであった。
3 もう少し、レビ族以外の人々が抱いていた不平を掘り下げて考えてみたい。イスラエルの12部族の中で、レビ族が与えられていた立場は、非常に特殊なものであった。民数記という書名の由来は、荒れ野を彷徨った40年の間に、2度イスラエルの成人男性の数が数えられたことにある。どうして成人男性のみの人ロが数えられたかと言うと、民数記1章3節に「イスラエルの中から兵役に就くことのできる20歳以上の者を登録しなさい」とあり、要は兵士になれる者を数えるという理由からであった。こうして各部族の成人男性の数が上げられていったが、一番多かったのは、ユダ族の7万4600人(1章27節)で、一番少なかったのは、マナセ族の3万2200人(1章35節)であった。では、レビ族は何人だったかと言えば、驚くことに、民数記1章47節以下には、次のように書かれているのである。「レビ人は父祖以来の部族に従って彼らと共に登録されることはなかった。主がモーセにこう仰せになったからである。『レビ族のみは、イスラエルの人々と共に登録したり、その人口調査をしたりしてはならない。むしろレビ人には、掟の幕屋、その祭具および他の付属品にかかわる任務を与え・・』」と。「レビ族だけは、兵士としてカウントしてはいけない。専ら礼拝や儀式に関わる務めのみに関われ」と神様は命じたのだった。
さて、「人口調査をするな」との命令と矛盾するようではあるが、民数記3章14節以下には「レビ人の人ロ調査」というタイトルが付けられた箇所がある。神様がレビ人の人口調査をしてはならないと言われたのは、兵士としてカウントするようなことをしてはならないということであろう。民数記3章にあるのは、兵士につくことのできる人口の調査ではなく、レビ人として、その役割を果たすことのできる人々を数えるという意味でなされたものだと思う。ここには、他の部族の人口調査が20歳以上の男性を対象としたものだったのに対し、レビ人のそれは、生後1カ月以上の男子の調査であり、その総数は2万2000人だった、と民数記3章39節に書かれている。私は、この数に、はっとさせられた。他の部族では、20歳以上の男性の数で、一番少ないマナセ族でも3万余だったのに、レビ族は生後1カ月以上の男の子から数えても、たった2万人余りだった。成人男性に限つたら、その半分位になってしまったのではなかろうか。レビ族は、最も数の多い部族と比べれば、その何分の一の人口しかない部族だったのである。
ヤコブの長男だったルベンの子孫であったタダンたちを先頭にしたレビ族以外の人々の不平不満には、こういった背景があったのではないかと感じるのである。イスラエル民族を率いて荒れ野を歩み、またこれからパレスチナへと入ってゆく難儀な歩みを導けるのは、先祖ヤコブの長男の子孫である者や、兵士を最も多く抱えた部族であるべきではないか。兵役にも就けず、ただ礼拝や儀式の務めだけを担うだけの、それも最も数が少ないレビ族から出たモーセやアロンが指導者となるべきではない。そこには、一体どういう存在が、今またこれからの自分達の指導者としてふさわしいのかということへの思いがあったのである。一体何が頼りになってゆくのかということへの判断があった。そういった流れの中で「杖」のことが出てきたのだとわかるのである。
4 「杖」とはまさに、荒れ野を旅し、また数多くの先住民が住んでいるパレスチナに入ってゆくときの支えとなり、よりどころとなるものの象徴であった。杖は、野獣と戦うときの武器にもなり、毒蛇をつぶす道具にもなった。ルベン族のタダンをはじめとしたレビ族以外の人々の不平不満とは、およそレビ族に象徴されるような存在は頼りにはならない、むしろ邪魔であり、重荷ではないかという不満に他ならなかった。ここが、いまの私たちに重なってくるところだと思うのである。私たちにとって、レビ族とは何を意味しているかと言えば、信仰の歩みを指しているのである。毎週の礼拝に出席し、教会において様々な役割を果たす生き方を指している。それは、世俗の世界を生きて行く上では、何ら兵力にはカウントされない、役に立たないものである。むしろ荒れ野を歩み、パレスチナに入ってゆく歩みの上では、礼拝や儀式に用いる様々な道具を運ぶことなど、かえって重荷である。そんなものなど、かなぐり捨てて、ただ武器だけを携えた兵士の数が多いことが頼りになると思われたはずである。これが、イスラエル人が常に捕らわれてしまった誘惑であり、私たちもまた抱いてしまう思いでもある。
モーセが、神様から遣わされて最初にエジプト王と対峙したとき、開口一番口にした言葉を忘れることができない。それは、「奴隷である自分たちにもっと休みをくれ」とか「給料を上げろ」とか「自由の身にしろ」といった言葉ではなかった。出エジプト記の5章1節によれば、モーセは神様から命じられた通り「主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのための祭りを行わせなさい』と」と告げたのだった。この言葉が、イスラエル人が神様によって自由を得ることの最初にあったものだった。だから、私たちがこの世において自由になってゆくことは、荒れ野で神様のために祭りを行うこと、すなわち礼拝を献げることにこそある。レビ人がレビ人としての在り方を失わないことにこそあったのである。信仰者としての生き方が上に立ち、私たちの中で『指導者』としてあることが肝要なのである。難儀な歩みをしてゆく上で、何が『杖』になるのかということを、神様は目に見える形で、レビ族のアロンの杖だけが芽吹き、花が咲き、アーモンドの実がなったという出来事を通して教えて下さったのである。
5 さて、この他にも、私は杖ということに意味を感じる。健康な人でも山登りをするような際には杖を使うが、普段は足の不自由な人しか杖を使うことはない。杖とは、弱さを背負っていることの象徴だと思う。15年以上前に、私がアキレス腱を切ったときに、松葉杖に何週間かお世話になったが、普通の人であれば難無く渡れる歩行者用の青信号を渡り切ることができなかった。杖を使うということは、走ることはおろか、健康な人のようには歩けないということを示している。神様が、他の物ではなく杖を私の前に持ってこいと言われたその御心には、何があなたがたの頼りになるのかという問いかけの他にも、あなたがたの抱えている弱さを私に差し出せということがあるのだと私は感じるのである。人口の多さ・兵力の多さに頼るのではなく、弱さを抱えていることが大事なのだという御心である。イスラエルの共同体の中で、レビ族こそが最も弱い人々だった。様々な意味で、イスラエル民族を走らせたり早く歩かせたりすることの邪魔になるような存在だったのである。そういった民族の存在こそが大事なのだと、それがあなたがたを支える杖となるのだと、神様は語たのだと思う。杖を使うような弱さを担っていればこそ、私たちは神様を頼る。杖に頼り、神様に頼る。兵力に頼るのではなく、神様に頼ることこそが、長い目で見れば芽を出し、花を咲かせ、実をつけることなのだと教えて下さっているのである。
さらにはこんなことも思うのである。杖とは、本当に不思議な道具ではなかろうか。それは、地面に落ちているときには、ただの棒切れに過ぎない。枯れた木、死んでしまった木、何の役にも立たない棒切れである。ところが、足の不自由な人の道具として用いられると、途端に生きたものに変わるのである。なくてはならない道具に変わるのである。これが、杖が芽吹き、花咲き、結実したことの含んでいる意味のひとつではなかろうか。このような杖とは、私たちにとって何を指しているのか。それは聖書かもしれない。また十字架のイエス様のことかもしれない。聖書は、神様を信じない人々にとっては、ただ文字を連ねた本でしかない。十字架の上で殺されたイエス様は、私たちがその信仰によって「手に取る」ことがなければ、ただの非業の死を遂げた人に過ぎない。しかし、信仰によって聖書が読まれ、イエス様の十字架の死が受け取られたとき、それは途端に私たちにとって、なくてはならぬ『杖』になるのである。そして、聖書を神様の言葉として読み、十字架を信じ、それを杖として手に取った私たちも、この杖のように芽吹き、花を咲かせ、実をつけさせていただけるのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 10月8日(日)聖霊降臨節第19主日礼拝
01:10さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 01:11わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 01:12あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 01:13キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。 01:14クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。 01:15だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。 01:16もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。 01:17なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
1 私たちの信仰共同体は、どうしても間題を抱えてしまう。たとえていえば『病気にかかってしまう』ように感じる。その病気を、神様・イエス様が、すぐれた医者として治療して下さるがゆえに、信仰共同体は死に絶えることがないという励ましをも教えられてきたように思う。
コリント教会は、11節に書かれているように、3つないしは4つのグループに分かれて争っていたのだった。そのような病気にかかっていたコリント教会だったが、10節に「心を一つにし・・・固く結び合いなさい」とパウロが言っているように、神様・イエス様によって治療していただけるのだとの希望も、パウロは教えていたのだと思う。
信仰共同体が、病気にかかってしまうということから私は、改めて感じさせられた。竹森満佐一先生は、「聖書は、余り名誉にもならないことを遠慮もなく書くものであると思います。ここでも、ピリピ人への手紙でも、教会の中に不和があり争いがあることが記されています。いずれもまだ若い教会ですが、それがこういう問題を抱えているというのはどういうことでありましょうか。若い教会であるために、十分な訓練がないためでありましょうか」と。教会の中に不和があり争いがあることを、私たちはどう捉えたらよいのかと改めて思う。使徒信条には「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり(を信ず)・・・」とあるが、この「聖徒の交わり」をいわゆる聖人君子の交わり・集まりと捉えて、そこには何の争いも不和もないのだと受け取ってしまうと、このコリントの信徒への手紙にも書かれているような信仰共同体の姿は躓きでしかなくなる。しかし、竹森先生が言われるように「聖書が余り名誉にもならないことを違慮もなく書く」のは、それが信仰共同体の偽らざる実態だからではなかろうか。信仰共同体には、争いや不和があるのが当然だからではなかろうか。勿論、病気にかからないに越したことはない。しかし、人間の集まりである信仰共同体が病気にかからないということはないのである。竹森先生が言われるように「まだ若い教会だから訓練が十分でない」から病気になるのではなく、それは信仰共同体の必然なのではなかろうか。だとすれば、病気であることに躓く必要はないと私は思うのである。
9/23の地区大会で掘肇先生は、教会の中にある通路のことであろうか、そこに砂利を敷くかコンクリートを敷くかで教会員が、ものすごいロ論をしていたのを見て、教会に通いはじめたばかりの人が、もう2度と教会には来なくなったという実例を話された。日本人が教会を見る目には、理想主義的なものがあるのではなかろうか。教会を言葉通り『聖徒の交わり─聖人君子の集まり』であってほしいと願い、そういうところであれば行ってみたい、属したいと思って教会に出かけてみても、実態がそうではないと知って離れてしまうのである。そういう私たちに、民数記にしても、ヨハネによる福音書にしても、コリントの信徒への手紙にしても、聖書が遠慮なく隠し立てすることなく信仰共同体が病気にかかっている姿を見せるのは、「これが信仰共同体の有り様なのだと。逃れることのできない現実なのだ」と告げてくれているということではないかと思うのである。
教会の驚くべきところは、病気にかかっていても死んでしまうことがないというところなのである。今、世相は、突然の総選挙が告げられ、かつては政権を取ったこともある野党第一党が、あっけなく雲散霧消してしまった。もともと政策にも理念にも一致のなかった政党である。遅かれ早かれこうなることはわかっていた。争いや不和が絶えない人の集まりとは、このように雲散霧消してしまうのが常なのである。ところが教会はどうか。できたときから、今に至るまで、争いや不和が絶えない。しかし、なぜか2000年間、消滅してしまうことがなかった。そこにこそ私は、教会のすばらしさがあると思うのである。教会のすばらしさとは、争いや不和がないという点にではなく、それがあってもなお消減しないというところにこそある。それは、争いや不和があってもなお一致する土台があるからなのである。「心を一つにし・・・固く結び合える」ゆえんがあるからである。病気にかかった共同体を治療して下さる医者がちゃんといるからなのである。
2 では、コリントの教会が、どういう病気にかかっていたか、その原因はどういうものであったかに触れてゆきたい。病因をどう分析しても、病気にかかってしまうことからは逃れることはできないが、こういうことが原因で、私たちは病気になってしまうということを知るのも決して無意味ではない。クロエの家の人からパウロが聞かされたコリントの教会の争いとは、彼らがめいめいに「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」・・・と言い合っていたということだった。アポロというのは、パウロがコリントの教会を去った後、この教会の指導者のひとりになった人である。このコリントの信徒への手紙の3章6節に「私は植え、アポロは水を注いだ」とあったが、使徒言行録18章24節には「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しい雄弁家」とある。「ケファ」とは、当時のキリスト教会全体の指導者であったろうペトロのことである。よくわからないのは最後の「わたしはキリストに」と言っていた人々のことである。前の3つのグループと同次元で争っていた人々なのかどうかは定かではない。
こうした争いの根本にあったのは、どのような思いであったのか。原文のギリシャ語を読んで、はっとさせられた。たとえば最初の「わたしはパウロにつく」は「エゴー・メン・エイミー・パウルー」。エゴーは「私」、「メン」は接続詞で「さて」、「エイミー」は「・・・である」、「パウルー」は「パウロのもの」というような意味である。新約聖書のギリシャ語では「エゴー」という言葉がはっきりと書かれることは余りなかった。ましてや、よほど「私」を強調する言い方でない限り「・・・である」の「エイミー」まで書かれるは異例と言える。ヨハネによる福音書では、イエス様が自身の存在を、とても強調して弟子たちにわからせようとされたときに「エゴー・エイミー」を使った。それほどにコリントの教会の人々が「わたしが・・・だ」と強く言い合って争っていたことが浮かび上がってくる。
どうしてこんなに「わたしが」と強く言って争わねばならなかったのか。それは、コリントの教会の構成員を考えると、何となく想像ができる。1章28節以下に「・・・世の無学な者を選び・・世の無に等しい者・身分の卑しい者や見下されている者を選ばれた」とある。コリント教会のメンバーとは、こういう人々だったのである。ふだんの生活では、何ら「わたしが」と誇れない分、教会の中では、自分と誰某先生とのつながりを誇ることで、そうしようとしたのではないかと想像できるのである。そのつながりとは、パウロが13節後半から洗礼のことを引き合いに出していることからわかるように、パウロやアポロやケファから洗礼を授けられたという関係ではなかったか。自分はコリントの教会の創立者、いや雄弁な先生、いやいや総本山の偉い人から洗礼を受けたのだと言い合い、「エゴー・エゴー」と言い合ってエゴを満足させようとしたのだった。
私たちは、このように露骨にエゴを満たそうとして「エゴー・エゴー」と言い合う例は少ないかもしれない。しかし、いろいろな場面で「私が」ということを主張しなければならない場面は、残念ながら私たちの教会にもある。会堂建築で、いずこの教会も、分裂したり会員が離散したりする理由が、ここにある。ある事柄を決めるためには、誰かが「わたしはこう考える」と言わねばならない。「わたしが」と言うときには、そこにエゴが入ってこざるを得ないのである。
3 このような病気に陥ったコリントの教会に対して、パウロはどのような治療の術を差し出したのか。いかなる点において「心を一つにできる」と言ったのか。13節にあるように、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロが、あなたがたのために十字架に付けられたのですか。あなたがたは、パウロの名によって洗礼を受けたのですか」と問うたのだった。洗礼が争いの引き金になっていたので、パウロはその洗礼を引き合いに出して、あなたがたが受けた洗礼とは、そもそも誰の名によるのかと問うたのだった。確かにあなたがたは、アポロやペトロによって洗礼を授けたが、それは彼らの名による洗礼を受けたのではなかったであろう。ただイエス様の名による洗礼を受けたのであろうと言ったのだった。
では、イエス様の名による洗礼を受けたということはどういうことか。当時の教会で、受洗のときに読み上げられていた式文のようなものとして流布していたと思われるローマの信徒への手紙6章3節に「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが、皆、またその死にあずかる為に洗礼を受けた」とある。洗礼とは、十字架のイエス様に結ばれることを意味していた。イエス様の十字架の犠牲をいただくことを意味していた。あなたがたは、イエス様が十字架の上であなたがたのために与えて下さった生命の貴い犠牲をいただいた者ではないか。それは、私たちの働かなくなった臓器のかわりに、イエス様が十字架の上から差し出して下さった心臓や肝臓や腎臓を移植していただいたようなものである。私たちは、それによって生きることができるようになった者なのである。誇るならそれをこそ誇るべきではないか。「わたしが」ではなく「イエス様がわたしのために」と誇るべきではないか。
そうせずに、コリントの教会の人々が「エゴー・エゴー」と言って誇っていたのは、言わば自分が病人として誰某先生の執刀によって手術を受け癒していただいたと誇っているようなものである。イエス様の職器を移植していただいてしか癒されえなかった病人が、一体何を誇るのか。こんな偉い先生から執刀していただいたのだと誇ることは、あるかもしれない。しかし何より誇るべきものは、病人であった私のために生命を犠牲にして下さったイエス様ではないのか。それを差し置いて「わたしが・わたしが」と言い、自分の執刀医との関係を誇るのは愚かなことではないのか。
私たちが、ひとえにイエス様の犠牲によって救われた病人の集まりなのだというところに、「心を一つにし・・固く結び合」える土台がある。病人とか病院の比喩を用いるとき、しばしば私の経験として思い起こすのは、私がアキレス腱を切ったときに入院した2カ月ほどの間に、感じたことである。病院というところは、この世の健常者の世界とは全く違った習慣や価値観がある不思議な場所なのであった。病院では、朝から晩までパジャマで過ごしても怒られることはない。病院の外にあるコンビニに行くときさえ、パジャマ姿で行っても奇異に思われない。一日中寝ていても誰からも何も言われない。ベッドの上で吐いても失禁しても怒られない。信仰共同体とは根源的にこういうところなのではないか。この世とは全く違った価値観が行き渡っているところではないか。パウロが勧めたのは、イエス様の犠牲をいただいて生かされている病人として、お互いを見てゆこうではないかということなのである。一日中パジャマでいてもよいではないか、寝ていてもよいではないか、吐いたり失禁したりしてもよいではないか、ということである。そういう病人として、病床の上にいながら、愚かにもエゴー・エゴーと争うかもしれない。教会の通路に砂利を敷くかコンクリートにするかで争うかもしれない。しかし、そのようなことは言わば、たわいもない争いなのである。根底に、お互いイエス様の十字架の犠牲をいただいた病人なのだとの共通の自覚があれば、そこで一致できているのである。教会とは、ひとことで言えば、イエス様という生命の点滴を毎週毎週、受けねばならない病人が来る所なのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 10月1日(日)聖霊降臨節第18主日礼拝
02:13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 02:15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 02:16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 02:17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 02:18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 02:19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 02:20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 02:21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 02:22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
1 いわゆる「宮清め」というエピソードは、4つの福音書すべてに書かれているエピソードとして数少ないものの一つである。ただし、マタイ・マルコ・ルカによる福音書と読み比べてみると、その置かれた位置が全く違っている。これら3つの福音書では、棕櫚の主日、つまりイエス様が子ロバの背中にまたがってエルサレムに入った直後になされたこととして書かれているのに対し、このヨハネによる福音書では、カナの結婚式での奇跡─それは身内の結婚式での出来事だから、いわば非公式の場のエピソード─の直後の、過越の祭が近づいた中、エルサレムでなされたこととして、つまりは公式の場でイエス様がなされた最初のものとして書かれているのである。
そこで昔から、ヨハネによる福音書と他の3つの福音書のどちらの記述が事実なのかという議論がなされてきた。イエス様は、2回宮清めをされたのではないかとの意見もある。また、このヨハネによる福音書の記述が事実だとの意見もある。しかし、イエス様のこのふるまいが引き起こした波紋は重大なものだった。イエス様が逮捕された最大の理由は、その裁判の様子を記した場面(たとえばマタイ26:61)でもわかるように、宮清めをしたことにこそあったのである。だから、公の場で最初にイエス様がこのようなことをして無事でいられたとは考えにくいし、2度も実行可能だったとも到底考えられない。従って、事実としてはマ夕イ・マルコ・ルカによる福音書が記すことが正しいものだろうと思われる。では、どうしてヨハネだけが、この出来事をわざわざここに置いたのだろうか。その心にこそ、著者ヨハネが私たちに伝えたかったメッセージが込められているのではなかろうか。
2 この福音書を書いた当時のヨハネは、すでに100歳位にはなっており、イエス様の弟子になって70年の歳月が経っていたといわれている。その70年を振り返って、イエス様の公の場での働きの中で、どのようなことを最初に記すべきかと考えたとき、おのずと、この宮清めの出来事が浮かび上がってきたのではないだろうか。この出来事こそが、イエス様が私たちの救い主であることを示すのに最初にあげるべきものだとヨハネは考えたのであろう。
もう一つ、ヨハネがこの出来事をここに置いた大きな理由として、12節までのカナの結婚式でのエピソードと深い部分で共通する流れがあるということがある。カナの出来事は身内でのもので、宮清めは公式の場での最初のふるまいだという違いがある。しかし、根幹に流れているものは同じなのである。深いつながりがあるからこそヨハネは、この宮清めをカナの婚礼での出来事の直後に置いたと思うのである。
そこでカナの結婚式でのエピソードを少し振り返ってみたい。いろいろなポイントがあるが、大事な、そして、とても象徴的なのは、空っぽになっていた6つの甕(カメ)だった。それはイスラエルの人々が律法に従って身を清めるために使う水をためていたものだった。結婚式だから、人々は特に念入りに身を清めたにちがいない。そのため、大きな6つもの甕(カメ)の水が空っぽになっていたのである。身を清めることを、それほど熱心にすることの思いは何か。それは言うまでもなく、人生の新しい門出を祝う結婚式に、一点の汚れも、マイナスのものを招き入れるようなことのないように、悪い要素をできるだけ取り除いて、神様から良いものをいただきたいとの願いからと考えられる。しかし、この思いが報われたかと言うと、そうではなかった。まことに不吉なことに、婚礼に不可欠なぶどう酒がなくなってしまった。これほど新婚夫婦の門出に暗い影を落とすものはなかったはずである。この暗い影を一気に払ったのが、イエス様であった。空っぽの甕(カメ)に水を注がせて、それを最上のぶどう酒に変えたのだった。6つの甕(カメ)を空にしても婚礼に不可欠なぶどう酒を得られないというそのマイナスを、そこにただの水を汲むという行為を通して天与の神様からのすばらしい祝福をいただくということに変えて下さったのであった。
空っぽになっていた6つの甕(カメ)というのは、1つを100年と数えて、およそ600年にもわたって、人々が熱心に守っていた律法の行いを示しているのではないかと感じる。イスラエル人は、それを通して、神様から良いもの、すなわちぶどう酒をいただきたいと熱心に行ってきた。しかし、それは与えられなかった。人生を喜んで生きるために不可欠なぶどう酒は得られなかったのである。それを与えて下さったのがイエス様だった。これが、ヨハネが何よりも伝えたかったことなのである。
3 6つの空っぽの甕(カメ)に相当したものが、神殿であった。神殿は、はるか昔、紀元前10世紀に、ダビデの子ソロモンに神様が、建てることを許したものだった。旧約聖書の列王記(上)8章に、ソロモンが神殿を建てたときの献堂式の様子が書かれている。8章27節以下でソロモンは次のように祈っている。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。・・・(しかし)ここはあなたが『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けて下さい。・・・どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて罪を赦してください」と。ソロモンは、神殿を地上における神様の住まいのようなものとして造ったのではなかった。神様は、人間の手で建てた地上の建物になど住まないことは、よくわかっていたのである。では何のために建てたのか。神様は、なぜ建てることを許したのか。人々が祈りを献げるとき、神様がそれを聞いて下さり、なによりも罪の赦しを得られる場所として、神様が建てることを許して下さったのだった。罪の赦しこそ、天与のぶどう酒に他ならないのである。
私たち人間は、土の器でありながら、しかし神の似姿である存在として、根源的に矛盾を抱えている存在である。それが聖書で言うところの罪であろう。この罪ゆえに、私たちは他の動物とは違って、様々な災いを引き起こすのである。罪の結果としての災いから抜け出すことができないのである。罪から災いが生じるという、この因果の法則から、私たちを抜け出させて下さるのが神様の赦しなのである。罪から災いしか生じない原因と結果の関係に、神様は赦しという恵みを作用させて、災いとは正反対の良い実りを生じさせて下さるのである。この神様の赦しと恵みこそが、ぶどう酒なのである。神殿で本来、そこに詣でた者に与えられたものは、この赦しであるはずだった。しかし、それが6つの空っぽの甕(カメ)のようになっていたのである。詣でても詣でても、赦しは与えられない。不可欠なぶどう酒をいただくことができなかったのである。それを与えて下さったのがイエス様だったと、ヨハネは告げたかったのである。
4 なぜ神殿が、そこに詣でる人に罪の赦しというぶどう酒を与え得ないところになってしまっていたのか。それは、イエス様の言葉で言えば、16節「わたしの父の家を商売の家としてはならない」とあるように、人々が神殿という父の家・神様の赦しをいただく家を、人間の商売をする家にしてしまっていたことなのである。弟子たちは、このイエス様がなさったことから「あなたの家を・・・食い尽くす」という詩編69編l0節の言葉を思い出した。解釈として、この熱意が誰の熱意だったのか、「わたし」とは誰を指していたのかが問題になる。神殿で商売をしたり両替をしたりしていた人々の熱意が、神殿におられるはずの神様の存在を食い尽くしてしまったという意味で、ここに引用されていると私は理解する。
6つの甕(カメ)に水を一杯にして、それをすべて空っぽにしてしまう熱心と同じように、神殿を思う人々の熱心さがあった。その熱心さは、神殿で様々な動物が売られていたり、両替人がいたりしたことに現れている。どうして神殿で、そのようなことが行われていたのかといえば、神様に献げる動物には傷があってはならず、人々が自分の家から持ってきた犠牲の動物は、たいてい難癖を付けられてはねられ、結局は法外な値段で売られていたお墨付の動物を買わされたのだった。また、献金も、特別な貨幣でなければ捧げることができなかった。、そのために、法外な手数料を取られて両替させられたのだった。それもこれも、確かに神殿を思うがゆえの熱心から出たことだった。神様を冒涜してはいけなかった。神様には最上のものを捧げなければならなかった。また、収入を得なければ神殿やそこに関係する祭司やレビ人を養うことができなかった。その熱心さが、神殿に詣でる人々が罪の赦しを下さる神様に出合うことを妨げていたのだった。すばらしいぶどう酒を飲ませて下さる神様を、これらの熱心さが食い尽くしてしまっていたのだった。神殿が、どんなに水を汲んでも、必要なぶどう酒を与えてはくれない空っぽの甕(カメ)のようになっていたのだった。
このヨハネの問いかけは、いつの時代においても教会に対する鋭い問いかけである。教会が商売をする家になってしまっていないかという問い、教会を思う私たちの熱心が、そこにおられるはずの神様を食い尽くしてしまっていないかという問いかけなのである。私たちは、いま教会で、このような商売はしていない。しかし、どこかで商売めいたことを考えざるを得ない私たちなのである。牧師を支え、この地に会堂をあらしめるためには、それを考えざるを得ない。教会は、いつの時代でも、この神殿のようになってしまうものなのである。私たちの建てる教会は、どうしても商売の家にならざるを得ない宿命を抱えているのである。これが、ヨハネがイエス様のなされたことから感じ取ったメッセージなのであった。
5 ヨハネは、イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言い、それが復活において実現したということが決定的に大事なことだと語りたかったのである。21節でヨハネは「イエスの言われる神殿とは・・・信じた」と言っている。これは、彼らが復活のイエス様に出合つたときにわかったことに他ならなかったのだと感じる。罪ゆえに、イエス様を見捨て、カギをかけて部屋に閉じこもるしかなかったヨハネたちであった。十字架の出来事は、後悔や憎しみや悲しみしか生じ得ないものだった。しかし、イエス様が復活し、そのイエス様と出合つたとき、弟子たちは、何よりも赦しをいただいたのだった。自分達では決して作れない、たとえ46年かかった神殿に詣でても得られない神様からのぶどう酒をいただいたのだった。それを飲ませていただいたことによって、ヨハネたちは、その後の生涯を、喜んで生きてゆけるようになったのだった。
イエス様こそが神殿なのである。人間の建てる神殿は、どうしても商売の家にならざるを得ない。6つの空っぽの甕(カメ)のようになってしまう。しかし教会が、たとえそのような場所になってしまったとしても、イエス様は、それを壊して下さるのである。私たちが天与のぶどう酒をいただき、罪の赦しをいただける神殿として、三日で建て直して下さる方がおられるのである。もしかしたらローマ帝国による迫害が徐々に激しくなってゆこうとする時代を、ヨハネは目の当たりにしていたかもしれない。この世に建てられた教会は、様々な理由で壊れ、維持できなくなってしまうことを、ヨハネは見ていたかもしれない。その彼にとって、このイエス様の言葉は、どれほど励ましと慰めに満ちたものだったであろうか。私たちの建てた教会が壊されることなど、恐れることではないのである。教会の今のありかたにしがみつく必要などないのである。いつだって壊されてよいのである。壊されても壊されても、イエス様が三日で建て直して下さるのである。最上のぶどう酒をいただけるイエス様という神殿は、決して壊されることはないのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 9月24日(日)聖霊降臨節第17主日礼拝
16:01さて、レビの子ケハトの孫でイツハルの子であるコラは、ルベンの孫でエリアブの子であるダタンとアビラム、およびペレトの子であるオンと組み、 16:02集会の召集者である共同体の指導者、二百五十名の名のあるイスラエルの人々を仲間に引き入れ、モーセに反逆した。 16:03彼らは徒党を組み、モーセとアロンに逆らって言った。「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。」 16:04モーセはこれを聞くと、面を伏せた。 16:05彼はコラとその仲間すべてに言った。「主は明日の朝、主に属する者、聖とされる者を示して、その人を御自身のもとに近づけられる。すなわち、主のお選びになる者を御自身のもとに近づけられる。 16:06次のようにしなさい。コラとその仲間はすべて香炉を用意し、 16:07それに炭火を入れ、香をたいて、明日、主の御前に出なさい。そのとき主のお選びになる者が聖なる者なのだ。レビの子らよ、分を越えているのはあなたたちだ。」 16:08モーセは更に、コラに言った。「レビの子らよ、聞きなさい。 16:09イスラエルの神はあなたたちをイスラエルの共同体から取り分けられた者として御自身のそばに置き、主の幕屋の仕事をし、共同体の前に立って彼らに仕えさせられる。あなたたちはそれを不足とするのか。 16:10主は、あなたとあなたの兄弟であるレビの子らをすべて御自身のそばに近づけられたのだ。その上、あなたたちは祭司職をも要求するのか。 16:11そのために、あなたとあなたの仲間はすべて、主に逆らって集結したのか。アロンを何と思って、彼に対して不平を言うのか。」
1 私自身のためにも民数記という書物は、どういう性格のものであったかを、まず振り返りたい。エジプトを脱出して1年後と、それから約40年弱過ぎた頃の2回にわたって、イスラエル人の人数(男性だけ)が数えられたということに「民数記」という呼び方の由来があるのだが、エジプトを脱出して40年程経ってみると、なんとエジプトを出た最初の世代の男性たちは、モーセとヨシュアとカレブという3人を除けば、一人も生き残っていなかったという。しかし人口そのものは、それほど減ってはいなかった(男性だけで約2000人いたという)。エジプトを脱出した第1世代の男性たちが、ほとんど死に絶えた理由は、もちろん寿命や自然死によることもあっただろうが、16章の最後には、地面が裂けてモーセに反抗した者たちを飲み込み、また神様の元から出た火によって焼かれたとある。11章には、うずらを貪欲に食べ過ぎたことによる疫病によって死んだということも書かれていた。そういう形で死んでいった人々も多かったのだと思う。こうして荒れ野を40年間も彷徨って、多くの人々が死んでいったにもかかわらず、イスラエル人は死に絶えることがなく、次の世代の者たちが起こされ、約束の地へと入ってゆくことができたのだった。
こういうところに、私たちの信仰生活や、教会の歩みというものを重ね合わせることができる。私たちの教会は、まさに創立40周年の歩みをしている。教会にとっても信仰者個人にとっても、40年というのは、ひと世代に当たる。その間に私たちも、教会も、荒れ野でイスラエル人が引き起こしたような問題を、絶えず起こしていった。しかし神様は、それに対して、まことにふさわしく対処して下さった。うわべだけで読んでしまえば、この箇所の最後に書かれているありさまは、恐ろしい神様のなさりようとしか思えないが、しかしそれは、非常に深刻な問題に陥った信仰共同体を、比喩で言えば、信仰的に重病にかかっていた彼らを、決して放置することなく、神様が良き医者となって、悪い部分を切除して下さったということなのである。それを、そのまま放置したら、共同体全体に病気が拡がり、死に至ったことであろう。そこには神様の深い配慮があったのである。こうして、私たちの信仰生活も、教会の歩みも、神様によって治療されて、約束の地へと向かう次の世代が起こされてゆくのである。
2 では、今の比喩で言えば、イスラエル人はどのような病気にかかってしまったのか。この16章には、レビ族の一人であったコラと、ルべン族のダタンとアビラム、そしてオンと彼らに同調した250人が、モーセとアロンに刃向かったという出来事が書かれている。注解書によれば、もともとは、この出来事は2つの違った事件が一つにされて書かれているのではないかとされている。コラがかかった病気というのは、特にレビ族であるがゆえのものだった。これに対してダタンとアビラム、そしてオンは、ルべン族として事件を起こした。ただ根っこにあった病根というのは、一緒だったので、こうして一つの事件として描かれたのであろう。
3節にあるように、彼らは従党を組んでモーセとアロンに逆らって、「あなたは分を越えている。・・・会衆の上に立とうとするのか」と言ったとある。この言葉は、250人の者すべてが言ったものとして書かれているが、その中心人物は、レビ族のコラであったに違いない。この言葉に、一体どのようなコラたちの病気が現れているのかを知るためには、そもそもイスラエル人の中で、コラたちがどのような役割を神様から託されていたかをまず知る必要がある。9節と10節で、モーセはコラに次のように語りかけている。「イスラエルの神は・・・そばに近づけられたのだ」と。3章6節以下には、次のようにも書かれている。「レビ族を前に進ませ祭司アロンの前に立たせ、彼に仕えさせなさい。彼らはアロンと共同体全体のために臨在の幕屋を警護し、幕屋の仕事をする。臨在の幕屋にあるすべての祭具を守り、イスラエルの人々のために幕屋を守り幕屋の仕事をする。あなたはレビ人をアロンとその子に属する者とせよ」と。
私たちの教会や、礼拝堂のことで言うならば、端的にはレビ族というのは、礼拝や教会に関することの裏方であった。これに対して、同じレビ族ではあったが、特別にアロンとその子孫は、礼拝や儀式の前面に立ってそれらを司る、表方の役割を担っていた。6節に「香炉」うんぬんということが書かれているが、これはレビ族のアロンやその子孫の祭司だけができたことを指している。これに対して、同じレビ族なのに、アロンの子孫以外の者たちは、裏方の役割を担わされ、「アロンとその子に仕え属する者」とされていたのである。ここがコラにとっては、不満の根幹であったはずである。彼の、モーセとアロンへの不満の言葉の最後は「会衆の上に立とうとするのか」である。会衆の上に立ちたいと思っていたのは、実はコラだったのである。しばしば抗議や反抗する人の言葉の中には、その人自身の欲望のようなものが滲み出ることが多いが、信仰共同体において「上に立ちたい」と思うことこそが、コラたちの陥った病気だったのである。
3 私たちの教会のことを考えてみると、教会や、そこでの礼拝において、祭司の役割を担い、もっぱら前面に立って、これを司っているのは牧師といえよう。その牧師に対して、信従が「どうして牧師ばかりが前面に立つのか。おれにも説教をさせろ」などとは言わない。長い間、教区の仕事に携わり、様々な教会の間題を見聞きしてきたが、いまだかつて、そういう信従の要求は聞いたことがない。では、教会において「おれを上に立たせよ」という要求がないか、だれが上に立つかという間題が出てこないかと言うと、決してそうではない。
いつも教会の間題というと、私の父のことを思い出してしまう。このような形で例に出されて、役に立つことを、父もきっと喜んでくれると思う。長く役員をしていた父が、教会の移転問題をきっかけに、20年近くも教会生活から離れてしまった理由は、つきつめれば、「自分が上に立てなかった」、「自分よりも後からやってきた年若い牧師や他の役員が上に立ってしまった」ということだと思うのである。信徒が「おれにも牧師をやらせろ。説教をさせろ」などと要求することはないが、例えば正式な役員会とは別に「第2役員会」のようなものが隠然としてあって、正式な役員会で決められたことが、平気でその第2役員会のようなところで覆され、牧師の知らないところでことが決められてしまっているという教会は少なくない。既に辞めにた牧師や、その家族が隠然として「上に立っている」教会のこともよく聞く。
信仰共同体と言えども人間の集まりである。「おれが上に立ちたい」という病気が出てきてしまうのは、仕方がないことである。しかし、しみじみ思うのは、はたして教会は、それを可能にする共同体なのかということである。コラたちは、モーセやアロンの姿を見て自分達もそうしたいと願うから、それは「会衆の上に立つ」姿だと見てしまった。しかし、これほどのモーセやアロンのあり方への誤解・思い違いはなかったのではなかろうか。モーセが会衆の上に立ちたいと願って指導者たろうとしたことがあったであろうか。
コラたちの言葉を聞いた直後の4節に書かれたモーセの反応が、興味深い。「面を伏せた」とある。「ひれ伏した」と訳されることもある。私は「頭を垂れた」ということではないかと受け止める。コラたちは、指導者として神様の前に立って、祭司として生きることを「上に立つ」ことだと思っていた。しかしモーセは、この自分の姿を見せつつ、問い返していたのではなかったか。「お前達は、私が指導者であることを、あなたがたの上に立つことだと理解しているのか。とんでもない。私は指導者として、ただ神様のみ前に立って、こうやって頭を垂れるしかない者として、あなたがたの前にいるだけなのだ。それがどうしてあなたがたの上に立つことになるのか。信仰共同体とは、私だけではなく、すべてのものが、こうして神の前に頭を垂れるところなのだ。ただ、そのありかたしかない所なのだ。」と。モーセは、頭を垂れる姿をもって教えていたように思うのである。
私も牧師として、目に見えるあり様としては、こうして教会では、上に立つかのような姿を取ってはいる。しかし、その根源にあるのは、神様の前に頭を垂れるしかない者の姿である。ひたすら頭を垂れて「語るべき御言葉を与えて下さい、無事に説教を備えさせて下さい」と祈るしかないのである。牧師がまず先頭に立って、神様の前に頭を垂れる姿を見せるところ、それが信仰共同体ではなかろうか。
4 さらに、コラたちへのモーセの対応が、5節以下に書かれている。香炉うんぬんということは、祭司が果たすべき役割である。それをコラたちにやってみよというのは、あなたがたが求めている祭司の務めをやってみるがよいということである。上に立ちたいとの思いを抱えたままで、それを神様の前でやってみるがよいということである。それを、どう神様が扱われるか、対処されるかを知りなさいということなのである。「やりたいというなら、やらせてみるがよい」と言うのである。「それが神様の前に立ってよしとされる姿なら、それは祝され実現されてゆくだろう」と。しかしそうでないのなら、結局は16章の最後に書かれているような結末になる。「コラたちの要求を止めることなく、黙ってやらせてみなさい。争ったりケン力をしたりするのではなく、神様がそれをどう取り扱われるか、時の流れに任せてみなさい」ということなのである。おのずと結果に表れてくるのが、神様が主であるところの信仰共同体の姿なのである。
コラたちには、大切な務めが託されていた。モーセが問うたのは、それなのに「あなたたちはそれを不足とするのか」、「その上祭司職をも要求するのか」ということである。ここにも信仰の歩みにおいて、また教会がしばしば陥る病気が示唆されていると思うのである。上に立ちたいという気持ち以上に、私たちが知らず知らずのうちにかかってしまう重大な病気が、ここに書かれていることではなかろうか。私たちは、すでにそれぞれに神様に託されている大切な役割を忘れて、他の人や周囲の教会と比べて「不足だ」と感じたり「もっと上を」を願ったりしているのである。それは、病気にかかっている状態であるにもかかわらず、そうは見えないというところが深刻なのである。信仰者として成長したい、教会をさらに発展させたいという善意から出たものとして、個人でも教会全体でも、受け止めてしまう場合がしばしばある。だから、これがしばしば私たちが陷ってしまう病気なのである。
詩編131編の1節に「主よ、わたしの心はおごっていません。わたしの目は高くを見ていません。大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを追い求めません」とあった。そして2節には、母の胸に抱かれている幼子のことが書かれている。大きすぎることとは何か。大きすぎることを求めない私たちの本来のありかたとは何か。それは、母の胸に抱かれた幼子が象徴的に示している。信仰共同体においては、上も下もないのである。あるのは、ただ神様の懐に抱かれて、その乳を飲ませていただく私たちのみなのである。そういう者で十分なのである。それ以上である必要はないのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 9月17日(日)聖霊降臨節第16主日礼拝
126:05涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。 126:06種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
1 詩編126編5・6節は、よく知られていおり、わたし自身も、折々に励まされることが多い。
「涙と共に種を蒔く」という表現は、とてもおかしな表現である。種蒔きや田植えの時とは、収穫の時と並んで、一年で最もおめでたい時なのではなかろうか。それを「涙と共に」とは、何か特別な意味が含まれているからではなかろうか。一体どういうことだろうか。私たちに、涙を流しながら労苦して生きることが、いつかは嬉しい収穫の時をもたらしてくれることを語ってくれていると思うのである。労苦することがなければ喜びの収穫を刈り入れることはできないとも言えよう。しかし私たちは、余りにも労苦を避けようとしているのではなかろうか。
私は、ここ数カ月、あるご家庭のために心を砕き析ってきた。その一家は、いろいろなことを抱えて労苦しておられる。昨年の12月に開いた「弱さを誇ろう会」を、8月の半ばにも急遽開催して、その家庭の一人の兄弟の語る機会を設けた。けれども、それも功を奏さず、彼は入院を余儀なくされた。その一家のこともあって、聖書研究祈祷会では、北海道の浦河にある教会をベースに、そこの信徒でもある向谷地生良さんが始めた「浦河べてるの家」に関する本を本棚から引っ張り出して読み返していた。それは『安心して絶望できる人生』という、まことに逆説的なタイトルの本だが、その中に『苦労を取り戻す』という一節を見いだして、とても励ましをいただいた。
私なりの言葉を補って内容を紹介したい。向谷地さんは、こんなことを書いている。「今の時代社会では、終始生活上のリスクを軽減し、不安や悩みを回避して生きることが安心をもたらす。また労苦を背負わない人生こそが幸福だと思われている。けれども、そういう考え方・生き方は決して私たちに安心や幸せをもたらさないということがわかった」と。なぜなら、労苦のない人生、涙のない人生など、あり得ないからである。べてるの家にかかわっている人々から労苦を取り除いてしまったら、それこそ、その人生すべてを切り捨ててしまなければならなくなる。そこで、べてるの家では『苦労を取り戻す』というスローガンを掲げて、労苦する人生の意義を見いだそうとしているのである。労苦すればこそ、お互いに助け合い支え合うことができるという点も強調していた。お互いに助け合い支えあえるということが、ささやかではあるが、喜びの収穫と言えよう。この一家のことがあり、また、べてるの家に関する本を読んでいたこともあり、「涙と共に種を蒔く」ということばを、まずは労苦して生きることとして理解した。
2 また、別の視点から捉えてみたい。注解者のバイザーは、以下のような解説をしている。これまた、私なりの言葉を補いつつ紹介したい。「それは、単に種蒔きと刈り入れが時間的な前後関係にあるとか、『苦あれば楽あり』のような格言を言っているのではない。また、その時代史的背景を見なければならない」と。種蒔きの時が不思議にも悲しみの時とみなされるのは、太古から諸民族に広く見られる考え方のようである。たとえばエジプトでは、種蒔きを、神々を埋葬する象徴として祝ったという。ドイツの格言に「種を蒔くときには笑うな。さもないと収穫のとき泣かねばならない」というのがある。イエス様の有名な「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ(ヨハネ12:24)」という言葉の根底にも同じような考え方があるというのである。バイザーは次のようにまとめている。「現在の苦しみと死の中に、この詩編の作者は、新しい生の来るべき栄光が示唆されているのを見、そればかりではなく、地中に蒔かれる種のように、死から生を作り出す神秘的な神の力がすでにそこに働いているのを見ている」と。
このような先生の解説に触発されて、私は「涙と共に種を蒔く」という言葉に、次のような意味を見いだす。それは言葉の通り、まことに深い意味で、悲しみの涙と共に蒔かれる種があるということである。涙を流すところには、必ず種を蒔くということが伴っているという深い真理がある。悲しい涙を流す機会の最たるものは、バイザーの解説の中にも、その言及があった。それは「死」と言える。文字通りの死だけではなく、例えば年齢を重ねるごとに、それまではうまく機能していた部分が働くなり、できていたことができなくなるというような、小さな意味での死を積み重ねてゆくのではなかろうか。そのようにして、以前は自分の手中にあったものを奪われてゆかねばならない。切り離され捨てさせられてゆくのである。そこに、悲しみの涙があるのではなかろか。年齢を重ねるということは、必然的にそういった涙を多く流すということなのである。
ところが聖書は、手中にあったものを手放し、別れてゆき、悲しい涙を流すことが、何と、種を蒔くことでもあるのだと語っているのである。逆から言えば、種を蒔こうとするなら、そこには悲しみの涙がなければならない、ということなのである。これは本当に驚きに満ちた、また慰め深い言葉である。私たちの見方、また価値観では、自分自身の死に直面し、大切な人と離別し、また小さな死を積み重ねて大切なものを奪い取られてゆくことを、ただただ悲しみの涙を流すときとしか受け取れない。しかし、聖書はそうではないと語るのである。涙と共に種があることを知りなさい。悲しみの涙をためるということは、また同時に、蒔くべき種を一杯に与えられることでもあるのだと。
3 種蒔きとは、本当に不思議な行為だといつも思うのである。イエス様が弟子たちに、しばしば語ったと思われる種蒔きのたとえ話を思い起こす。マタイ・マルコ・ルカの3つの福音書すべてに記されており、たとえばマルコによる福音書であれば4章1節以下に書かれてる。ある人が種を蒔いたが、蒔かれた種のあるものは道端に、あるものは石ころだらけの地面に、あるものはいばらのなかに落ちた。これらの種は残念ながら結実することがなかったが、良い地に蒔かれた種は、30倍・60倍・100倍にもなったという。
このたとえは、残念ながらポイントがずれてしまった形で人々に伝わったのではなかろうかと、私は解釈するのである。マルコによる福音書では、4章13節から、そのたとえ話の説明が、わざわざ記されているが、そこでは、このたとえ話のポイントは、種を蒔かれた私たちは一体どんな地面かというところに置かれてしまっていた。しかしイエス様が、もともと教えようとされたポイントは、そこにはないと私は捉えるのである。それは、私たちがどうかではなく、種蒔く人がどうかにある。種蒔く人は、たとえ蒔かれる種の多くが、そうやって無駄になったとしても、種を蒔き続ける。そして、うまく発芽した種が、ごくわずかであっても必ず沢山の収穫がもたらされ、種蒔きは決して途絶えることなく行われてきたのである。だから、このたとえ話が私たちが教えているのは、神様が私たちに、無駄を恐れず私たちに福音の種を蒔き続けて下さっているということであり、私たちもまた。無駄を恐れず種を蒔き続けなさいということなのである。
種を蒔くことには、このたとえ話が語るように、一見すると無駄が伴う。種をそのまま手元に置いておけば、少なくとも何日間かの食べ物にはなる。それを地面に蒔くということは、その多くは無駄になってしまうことを意味している。しかしそれを恐れていては、喜びの収穫を迎えることはできないのである。そのように、小さな死を日々積み重ね、手放したくはないものを手放してゆくことは、すなわち蒔くということには、涙が伴うのである。それをしなければ喜びの収穫はないのである。
4 こうして涙と共に蒔かれた種は、地面に埋もれ、腐り、固い殻が破られて、土や空気との相互作用の中で発芽し、成長し、結実してゆくのである。種を蒔いた後、私たちには何もできないが、大地、つまり神様の働きが、私たちの手から放たれたものを、そのように変えて下さるのである。涙の種が、いつの間にか喜びの収穫へと変えられるのである。6節には「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人」とある。収穫がもたらされるためには、泣きながらでも出て行かねばならないのである。出て行くとは、大切なものを失った悲しみを抱えた自分自身から、失うことが悲しいという見方しかできない自分から、「出て行く」ということなのである。
そして、失ったということを神様に委ねるのである。種蒔く人が種を大地に委ねるように、失ったこと、死を神様の御心に埋めるのである。出てゆかなければ、そのよう作用は始まってゆかない。家から出ずに、いつまでもいつまでも失われてゆくものにしがみつき、それを取り戻そうとし続けるなら、種を蒔くことはできないのである。悲しみの涙は、そのままである。殻が破られ新しいものへと芽吹いて行く機会を失ってしまうのである。
より多くの涙を流しているあなたこそ、誰よりも沢山の種の袋を背負っている者なのだと語りかけてくれているのである。だから、家を出て、あなた自身の見方や感じ方から出て、神様の御心という大地にそれを委ねよと、聖書は言っているのである。失われようとしているなら、死のうとしているのなら、切り離されようとしているなら、それを種として蒔かれる時として受け入れなさいと。神様の大地に委ねなさいと。そうすれば、あなたの手元から失われたものから、驚くべき喜びの収穫がもたらされるのだから。
そのような涙を伴う種蒔きからもたらされる喜びの収穫とはどのようなものであろうか。先日、それを聞いて本当に嬉しいと思ったささやかな出来事があった。やはり今、労苦や辛い涙を流すただ中におられるお二人、AさんとBさんがいて、AさんがBさんに「自分なんか生きていても仕方がない。死にたい」と言われたのだそうである。実は、そう打ち明けられたBさんにしても、その時は、とても落ち込んでいた最中にあったのだった。すると、それを聞いたBさんが「いや、わたしも今そういう状態にあるけれども、決してそんなことはない。教会の交わりの中で支え合ってゆこう」とおっしゃって下さったという。労苦がなくなるわけではなく、辛い涙がなくなるわけでもない。しかし、自分の家を出て、教会の交わりという神様の大地にそれが蒔かれてゆくとき、その涙の種はこのように変えられてゆくのである。コリントの信徒への手紙2の1章6節に「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります」とある。私たちの悩み苦しみ・悲しみの涙こそが、だれかのための慰めと救いという収穫へと変えられてゆくのである。126編の1節には「夢を見ている人のようになった」とあるが、労苦して涙を流しつつ、それでも信仰生活を歩んでゆくなら、「こんな時が来るとは夢みたいだ」と言えるときが必ず来るのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 9月10日(日)聖霊降臨節第15主日礼拝
01:01神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、 01:02コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。 01:03わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 01:04わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。 01:05あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。 01:06こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、 01:07その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。 01:08主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。 01:09神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
1 コリントという町は、聖書の巻末の地図にあるように、長靴の形をしたイタリア半島の東の、地中海を挟んで対岸にあるペロポネソス半島の先端に位置していて、陸路においても海路においてもアジアとイタリアを結ぶ道筋の要衝だった。このような重要な位置に目をつけたユリウス・カエサルにより、紀元前44年にこの町は再建され、以後どんどんと栄えていった。人口はおよそ60万人、しかしその2/3、約40万人は、売り買いをされる奴隷階級の人々だったという。
もう一つ、この町の決定的な特徴として、こうした地理的な要因から東西の神々の神殿が林立していたということがあった。様々な発掘が行われ、イシス、セラピス、などのエジプトの神々、シリアの豊饒多産の女神アシュタロテ、エペソのアルテミスの神殿などが、ギリシャ・ローマの伝統的な神々の神殿と共にあったことがわかっている。この町の南側にあるアクロ・コリント山頂にはアフロディトという女神の神殿があり、そこには1000人の巫女でもあり、しかし神殿娼婦でもあった人々がいたという。ギリシャ語で「コリンティオー(コリントする)」と言えば、そのまま「不品行・みだらなことをする」という意味だったと言われている。このような町に、パウロはローマ書で度々名前が出てきたプリスキラとアキラ夫婦と共に伝道をし、教会を建てたのであった。使徒言行録18章11節には、1年半にわたってこの町で伝道をしたとある。その後、エフェソで3年間伝道をしていた最中に、この教会で様々な問題が起きていると聞いて、何とかそれを解決したいと切に願い、この手紙を書いたとされているのである。
11節に「実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人達から聞かされました」とある。どういう争いであったかのか詳細はわかっていない。しかしそういった争い、また問題が生じていた背景には、いわゆるコリントの町の特徴が、根深く横たわっていたに違いないのである。人口の2/3が売り買いをされる奴隷階級の人々が占めていた町、また様々な神々を奉る神殿が林立し1000人もの神殿娼婦がいた町、アジアやイタリアのあちこちからコリンティオーするがために多くの人々が訪れた町、そうした町の特徴がそのまま教会の中にも入り込んでいたのである。
2 このようなコリントの教会と、そこに集う人々にあてた手紙の書き出しで、まずパウロがどんなことを語り始めたかという点に着目させられる。10節から教会の問題の指摘が始まっている。その前にパウロが、しっかりと記している事柄がある。それは、最初からきつい指摘をするのはやめて相手を少し持ち上げるようなことから書こうとしてはいなかったと私は思う。ここに記されているのは、たとえコリント教会や、そこに集う人々がどんな問題を抱えていようとも、まずこの点はしっかりと踏まえておいていただきたいという事柄なのである。これから教会の深刻な問題に触れてゆくけれども、しかし、たとえどんなに難しい問題が教会にあろうとも、この教会と、そこに集う人々が、このような存在である点を忘れてはならないというパウロの思いがそこには感じられるのである。
教会と、そこに集う者の様々な問題を指摘することは、9節までの立場というものを決して逸脱しないスタンスにおいて語られねばならないという示唆がある。これは教会だけのことではなく、私たち信者一人ひとりについても言えることだと思う。信徒としての自らについて、あるいは身近な人について、様々な問題を感じるということがあるかもしれない。これでもクリスチャンなのかと思ってしまうようなこともあるかもしれない。しかし、それでも私たちは、パウロが書いたような者なのである。その前提にしっかりと立つことから、決して逸脱してはならないのである。
3 10節から具体的な教会の問題が指摘されてゆく前に、パウロがこのコリント教会や、そこに集う人々について、まずしっかりと記している事柄はどういうことであったか。それは3つのポイントに集約することができると思う。
第一のポイントは、3節までのところで語られている点だが、パウロはこの問題百出のコリント教会を、はっきりと「神の教会」だと言ったのであった。そして、そこに集う人々はキリスト・イエスによって召されて聖なる者とされた人々だと言ったのだった。この手紙を読み進めてゆくうちに、こんな教会が、はたして神の教会と言えるのだろうか、そこに集う人々を聖なる者などと言えるだろうかと、私たちは感じるし、それはコリント教会の人々自身が抱く深い問いであったに違いないのである。人口の2/3が奴隷であり、奴隷として市中に林立する神殿に出入りし、どうしても神殿に関連した仕事について生計を立てざるを得なかった人々がいたであろう。自分達は、この世の主人の持ち物であり、様々な意味で汚れてしまっているのではないか、と思ってしまっていたであろう。また、そのように批判した人々もいたはずである。そのように悩み、また批判し合っていた人々に、パウロはこの手紙の書き出しで語ったのだった。「そのようなあなたがたであっても、キリスト・イエスによって聖なる者とされているのだ」と。
では、何によってコリントの人々は聖なる者とされたのか。2節はじめ「私たちの主イエス・キリストの名を呼び求める」ことしかないという。これは、イエス様を主として、救って下さる主人として、呼ぶということであった。イエス様を頼り、イエス様の名によって祈り、イエス様を主として礼拝を献げるということに他ならないのである。それが、2節最後にあるようにイエス・キリストを主とすることなのである。たとえこの世の生活においては、この世の主人がおり、神殿に関係して生きざるを得ないとしても、そんなことは聖なる者とされること─ 申命記7章6節に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。」とあるように、神様の宝物とされるという意味─において、何の関係もないのである。
「聖」ということが出てくるたびに教えられてきた。どうしても私たちは「聖」ということを英語で言うところのピュア・清いという意味で受け止めがちなである。自分自身がどういう状態であるかを現すこととして受け取ってしまう。しかし、聖とは決してそうではない。それはあくまで神様・イエス様との関係における事柄なのである。イエス様によって召され、イエス様を呼び求め、イエス様を主と仰ぐ。このことにおいて、たとえ私たちがどんなに汚れた者であっても聖とされるのである。神様の宝物として貴いとされるのである。このことがどれほど私たちにとってすばらしいことか。コリント教会の人々にとって嬉しいことであったか。私たちの多くは、ひたすら自分がどうであるかを問題にしてしまう。自分が、自分自身や周囲の人々から望むような宝物でありたいと願い、しかしそうなれない自分を切り捨ててしまいたいと苦しんでいる。こんな私たちを、神様はただイエス様を頼るということだけで宝物とし、貴い存在として扱ってくれる。教会とはそのようなところなのである。
4 第2のポイントは、4節から7節あたりまでに書かれている点である。私たちがイエス様により、イエス様に結び付いて神様からの恵み・陽物をいただいているということである。パウロは5節で、その恵み・賜物とは具体的には言葉と知識であると言っている。言葉というのは、一般的な意味での言葉という意味ではなく、原文のギリシャ語ではロゴスであるが、このコリント書においてロゴス・神の言葉とは、何よりも19節に「十字架の言葉」とあるように、イエス様の十字架の出来事において語られ、現れ、具体的な事実となった神様のロゴスを現していた。それはただ神さまの言葉だけではなく、そこに込められ現れた神様の意志でもあり、また神様の働きでもあり、力をも意味していた。従って知識とは、この十字架における神のロゴスを通してはじめて得られた知識のことを言っているのである。
18節を読むと「十字架の言葉は、滅んでゆく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とあり、23節には「(十字架につけられたキリストは)ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、・・・召された者には神の力・神の知恵」だとある。パウロはコリントに伝道に行ったとき、幸か不幸か、彼自身がとても弱っていたこともあって、十字架につけられた救い主のことを語ることができなかった。十字架の上で犯罪人として処刑された人間が救い主であるなどということは、普通は愚かであり、つまずきでしかないことである。しかし、コリントの人々は、それを神の言葉として、そこに神の救いの力が秘められた言葉として受け入れ信じてくれたのだった。
これがコリントの人々にとって、どれほど驚くべき言葉であり、また知識であったであろうか。それは、これまで全く聞いたことのなかった言葉であり知識であったに違いないのである。この町を紀元前44年に再建したカエサルは有名な軍人だった。しかしギリシャ・ローマの世界、またコリントの町に林立していた神々の世界は、強さをこそ救いとする世界ではなかったか。そういう世界の中で、奴隷階級の人が多かったコリントで、人々は悩み苦しんでいたであろう。そんな彼らが、十字架の上で殺されたイエス様が救い主だと聞かされた。神様は、そういうイエス様を通して、私たちを救うのだと聞きかされ。それはつきつめれば、弱さの肯定なのであった。人々はイエス様の十字架の弱さ、また私たちが背負っている弱さを、貴いものとして扱って下さると知ったのだった。イエス様の十字架を通して、このような神様を知ることができたということは、大きな大きな恵みだったのである。神様からの豊かな贈り物をいただけたのだった。教会として、また信徒して、どんなに問題があろうとも、この恵みや賜物をいただいているということは、素晴しいことなのだとパウロは人々に語ったのだった。
3番目の最後のポイントは、8節9節に書かれている。イエス様と信仰によって結び付けられた私たちは、真実な神様によって最後には、非の打ちどころのないものにされるということである。このゴールに着いたときに、はじめて私たちは非の打ちどころのないものにしていただくのである。そのゴールへの途上にある今は、非のある者でしかないのである。今はまだ完成の途上にあって、あちこち部品が欠けており、欠陥があって当然なのである。パウロが何よりも言いたかったことは、完成途上にあってまだまだ非のあるお互い同士を責め合うのは、おかしいということであった。また、完成させて下さるのは神様であって、私たちができることではないということでもあった。欠陥品である私たちでも、神様はただイエス様を信じることにおいて宝物として扱って下さるとは、何と素晴しいことではないか。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 9月3日(日)聖霊降臨節第14主日礼拝
02:01レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 02:02彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。 02:03しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。 02:04その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、 02:05そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。 02:06開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。 02:07そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」 02:08「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。 02:09王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、 02:10その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」
1 毎年9月最初の主日は、教会学校の暦にしたがって『振起日』の礼拝として、子どもたちと一緒に礼拝を献げている。子どもたちとの合同礼拝の際の聖書箇所は、教会学校の教師たちが使っておられるテキストに従って選ばせていただいており、今日は何カ月ぶりかで再び、出エジプト記である。
出エジプト記1章からの流れについて、聖書日課になっている新約聖書使徒言行録7章17節以下では、ステパノが次のようにまとめている。新共同訳でなく54年版訳で紹介したい。「・・・民はふえてエジプト全土にひろがった。やがてヨセフのことを知らない別な王がエジプトにおこった。この王は、わたしたちの同族に対し策略をめぐらして先祖たちを虐待し、その幼子らを生かしておかないように捨てさせた。モーセが生まれたのはちょうどこのころのことである。彼はまれに見る美しい子であった。三カ月の間は父の家で育てられたが、そののち捨てられたのを、パロの娘が抬い上げて自分の子として育てた。モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも力があった」と書かれている。
ヨセフのことを知らない王うんぬんとは、どういうことかと言いうと、兄たちの憎しみを買って、あやうく殺されそうになり、何とか助かって奴隷としてエジプトに売られたヨセフは、数奇な歩みの末にエジプトの大臣のような立場になって、父ヤコブを始め兄弟をエジプトに呼び寄せたが、実は外国人で奴隷でもあったヨセフが、このようにエジプト王に重用されたのは、このときのエジプト王朝が根っこをたどるとイスラエル人と同じヒクソスという民族が立てたものだったためとされている。古い聖書辞典には、紀元前1710年から1550年までが、この王朝時代だったとある。ところが、この王朝がエジプト人によって滅ぼされて、エジプト人による王朝が復活した。「ヨセフのことを知らない王がおこった」とはこのことを指しているのである。
そこで、このエジプト人の王朝は、ヒクソス時代に人ロを増やしたイスラエル人を警戒し根絶やしにしようとした。その理由は、出エジプト記1章9節10節には「イスラエル人という民は・・・この国を取るかもしれない」とある。恐れた理由は、この通りであったようだが、もっとつきつめれば、それは1章15節以下に書かれているエピソードこそが物語っていると思うのである。エジプト王は、ヘブライ人(イスラエル人の別名)の2人の助産婦に「へブライ人に男の子が生まれたら殺してしまえ」と命じたが、彼女たちは「神を畏れていたので王が命じたとおりにはせず」と17節にある。これこそが、エジプト王がイスラエル人の人口が増えてゆくのを恐れた最大の理由なのであった。つまり神様に従うことを優先して王の命令に従わない人間が国内に増えてのを恐れたのだった。
いつの時代でも、王や為政者・国家というものと信仰者は、この点でぶつかり、王や国家は王よりも神をおそれる信仰者を危険視し、時には根絶やしにしょうとすることがあったのである。出エジプト記の主題は、イスラエル人がこのような王に対して、どのように立ち向かい、どのように自由を得たかを記すところにある。イスラエルの人々は、常にこのような社会の下に置かれ続けてきまたが、それでも根絶やしにされることがなかったのは何故なのか。その一端を説き明かしてくれている。
2 イスラエルの人々は、強大な力を持ったエジプト王に立ち向かっていった。しかし彼らは、王に対して本当に無力だった。無力な彼らが、どうやって残酷な命令を下す王に立ち向かうことができたのか。2章1節の書き出しにはっとさせられた。「レビの家の出のある男が、同じレビ人の娘をめとった。彼女はみごもり男の子を産んだが」とある。結婚して子が授かっても、それが男の子であればナイル川にほうり込まねばならない暗黒の時代だった。こんな時代にあって、はたして私たちであれば結婚するであろうか。子を授かろうとするであろうか。しかし、この男女は結婚し、子を授かることを止めることはできなかった。愛する者同士が結び付き、子が授かるのを妨げるものは何もなかったのである。
この箇所のどこにも神様のことは出て来ない。しかし私は、そこにこそ深い神様の御心を感じる。神様が、直接的にイスラエル人を助け励まして王に立ち向かわせたとは、何も書かれていない。しかし背後には、見えないところで神様の存在がちゃんとあったと思うのである。その第一は、このような王の支配下にあっても、男女が結び付き、子を授かるということにおいてなのである。神様は、産めよふえよと祝福してくださった。男と女─それは文字通り肉体の性だけではなく、心の性・内面的な性をも現している─が一体となり、そこから子が授かり、また何か新たなものが生まれてくるということは、神様が私たちに刻んで下さった神の姿によるものなのである。だから、この世のどんな王の力も命令も、これを妨げることはできないのである。
時代社会がどんなにに暗いものになったとしても、神様が私たち人間だけに刻んだ姿は、壊すことができず、そこから新しい存在が誕生するのを妨げることはできない。そこにおいてこそ、私たちは王や国家や、さまざまな邪悪な力に立ち向かってゆけるのではないだろうか。神様が私たちに刻んだ似姿とは、ただ男女が結び合い子を授かるということだけではないと思う。創世記2章18節で、神様は「人がひとりでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」と言っている。そこから造られた助け手は、直接的にはアダムの肉体から造られた女性であり、二人は夫婦となってゆくが、ここで言われているのは結婚という関係だけではないと私は思うのである。同じ土の器を持った者同士が助け合い、弱さを受け入れあってゆく間柄も、神様が私たちに刻んで下さった似姿ではないだろうか。そうやって生きることこそが、王や国家、またそれが作り出す暗黒な社会に対して、私たちを立ち向かわせてくれるのである。
3 こうして神様が刻んだ姿としての夫婦から男の子が生まれ、「その子がかわいかったのを見て、三カ月の間隠しておいた」とある。この夫婦、特に母親をして王の命令に背かせたものは、王に刃向かってやろうなどという大それた思いなどではなかったのである。ただ「その子がかわいかったのを見て」ということなのであった。注解書によれば、この「かわいかったのを見て」という原文の言葉は、創世記1章で、神様が自分の造られたものを見て繰り返し「良しとされた」とあるのと同じ言葉だという。「かわいい」と思う心も、実は神様が私たちに刻んで下さった姿だということではなかろうか。王女の「ふびんに思い」も同じだと思う。赤ん坊を見たとき、私たちにごく自然に沸いて出る思い、それはたとえ血のつながった親でなくても自然に沸いて出る思いである。こうしたごく自然に沸いて出てくる思いが、王の命令に背かせる原動力となったのである。神様が与えて下さった心を、どんな王も奪うことはできないのである。神様が与えて下さったこの自然な心によって、私たちはこの世の王様に立ち向かってゆけるのである。
しかし、立ち向かったとは言っても、結局は3カ月隠しても隠し通すことはできず、ナイル川の葦の茂みに子を置いた─ステパノの説教では「捨てた」とあった─ことに変わりはないではないか。王女が全くの偶然から抬ってくれたものの、普通ならば川を流れさるか、ワニの餌食になってしまうだけだった。結局は3カ月命が伸びただけ、王女に拾われるという偶然がなければ死んでしまっていた。王の命令に刃向かうなど結局は無駄なことなのだ。私たちは結局のところ王や力ある邪悪な存在によって川に流されてゆくだけの者ではないか。そう言う考えもあろう。確かにその通りである。モーセの他にも、かわいい・ふびんという理由で必死になって隠されたけれども、とうとう隠し切れなくなって川に流されていった男の子たちがどれほどいたであろうか。モーセが助かったのは、何千分の一、何万分の一の幸運が重なっただけに過ぎないのかもしれない。結局は王に刃向かうのは空しいことではないのか。
しかし確かにその通りかもしれない。私たちは無力で、邪悪な王に刃向かうことは、多くの場合、川に流されて終わってしまう。けれども、必ずやその何万分の一かもしれないけれども、神様の似姿として刻まれた男女の結び付きから子供が授かり、これまた神から授かったその子を美しいと思う、ふびんだと思う気持ちは、決して無駄にはならないのである。すべてが川に流され、ワニの餌食になり、死に飲み込まれることには決してならないのである。本当に小さな部分かもしれないけれども、神様がその似姿から生み出して下さったもの、それを美しい・かわいい・ふびんだと思う私たちの思いは用いられ、隠され、助けられた赤ん坊をモーセとして成長させ、いずれは邪悪な王に立ち向かって私たちをそこから救い出してくれる指導者にしてゆくのである。この語りかけに、イスラエルの人々は大きな希望と慰めを得たはずである。
4 さて、葦の茂みの中に置かれた赤ん坊を、よりにもよって残酷な命令を出した王の娘が見つけた。もし王女が父と同じ心ならば、この子はそのままナイル川に投げ捨てられてしまうしかなかったはずである。しかし、なぜか王女の心は、父とは違っていた。それがヘブライ人の子だとわかっても「ふびん」と思い、おそらくは、乳母を見つけてくると言って連れて来られた女が、この赤ん坊の実の母だと、うすうす感づいていたであろうけれども、この申し出を受け入れ、手当さえ払って、乳離れするまで、この子は実母のもとで育てられた。その後、この子はモーセと名付けられ、王子としてエジプト王宮で育てられ、ステパノが言ったように「エジプト人のあらゆる学間を教え込まれた」のだった。
このこともイスラエル人に励ましと希望を与え続けてきたものに違いない。たとえ民族が違い、また血筋などつながっていなくとも、邪悪な命令を下す王様の最も近い所にいる存在であっても、「ふびんと思う」心を持っている者がいる。その心が、川に流されようとしていた赤ん坊を助けてくれたのだった。育んでくれたのです。本当にわずかな幸運かもしれないが、このような、驚くような幸いというものがある。邪悪な王に最も近い所にさえ、このような幸いは備えられている。ここに人々は神様の導き・恵みを見いだしたのだった。
こうして「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)」赤ん坊が、モーセとして成長し、イスラエル人を王から解放する救い手となった。私はここに、とても深い象徴的な意味を感じる。水の中から引き上げられた者が、救い手となってゆくのである。それはどういう意味を持っているのか。そのまま放っておかれたなら、川に流れ、ワニの餌食になり、死に飲み込まれてしまうような無力で小さな赤ん坊が、これまた無力な母や王女の「かわいい」「ふびん」だという思いによってのみ引き上げられたのであった。こうやって水から助けられた存在が、私たち人間を救ってくれる者となってゆく。それが、神様が私たち人間を救おうとされる手段なのである。私はそこに十字架の死から引き上げられたイエス様を見るように思うのである。洗礼とは、もともとは水から引き上げられる儀式だった。私たち信仰者ひとりひとりが、水から引き上げられた者という性格を持っているのではないかと強く感じるのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 8月27日(日)聖霊降臨節第13主日礼拝
02:01三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 02:02イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 02:03ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 02:04イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 02:05しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 02:06そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 02:07イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 02:08イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 02:09世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 02:10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 02:11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 02:12この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
1 1章35節から51節までに、著者ヨハネは、名前の記されていないある人(もしかしたらヨハネ自身だったもしれない人)とペトロの兄弟だったアンデレら5人の者たちが、イエス様に従う様子を描いた。そして2章からは、彼らがイエス様に従うようになり、最初に体験したイエス様の不思議な働きのことを記している。11節には「イエスは、この最初のしるしを・・・それで弟子たちはイエスを信じた」とある。「最初」というのは、文字通りには時間的に一番はじめという意味であるが、著者ヨハネがここで言わんとしたのは、時間的な最初というよりは、ヨハネをはじめとした弟子たちにとって最も大事で忘れることのできないイエス様のなさった多くの不思議な働きの中で、一番はじめに思いおこす出来事という意味ではないかと感じるのである。この福音書を書いたとき、ヨハネはもう100歳前後になっていたという。信仰者としての何十年もの年月をふりかえって、イエス様を救い主として信じるにおいて最も大事な体験、一番はじめにあげるべきことは何だったろうかと思いめぐらしたとき、この出来事がおのずと浮かび上がってきたのであろう。このことをこそ、この福音書が書かれた西暦100年頃の人々にも、聖書の言葉を読むことによってであっても、ぜひとも一番はじめに追体験をしてほしいと著者ヨハネが願ったからだと思う。
2 さて、その出来事とは、ガリラヤのカナで結婚式があり、イエス様とその母マリア、そして弟子たちも、そこに招かれていたときに、その宴において、ぶどう酒が足りなくなってしまったことを発端とするものである。昔からこの結婚式は、マリアの親戚筋の式であり(バークレ一の解説によれば、コプト語で書かれた聖書には、マリアは花婿の姉であったと書かれているとのこと)、マリアはその裏方の総責任者のような立場にあったのではないかとされている。イエス様は、母マリアから「ぶどう酒がなくなりました」と言われ、不思議なやりとりが交わされたことが記されている。イエス様が命じたのは、イスラエルの人々が体を清めるための水をためていた6つの大きな甕(かめ)─それは式に出席した人々が使ったため、全て空になっていた─ に水を一杯にくみなさいということであった。召し使いが、そのとおりにすると、何とその水が、おいしいぶどう酒に変わったという。味見をした世話役は、「普通は最初に良いぶどう酒を出し、酔いがまわった後は、劣ったぶどう酒を出すものなのに、良いぶどう酒を今まで取っておいたのか」と召し使いに言ったと書かれている。
このような出来事の一体何が、著者ヨハネたちにとって、イエス様を救い主として信じる上で忘れることのできないものだったのか。私はやはり、結婚式の席で、ぶどう酒が足りなくなってしまい、その不足を、イエス様が水をぶどう酒に変えるという形で切り抜けたという点にあるのではないかと思う。そこには、読むたびに新しい何かを感じさせる象徴的な奥深さがある。
結婚式とは、言うまでもなく新しい夫婦の門出を祝うための、生涯でたった一度きりのおめでたいものであったはずである。結婚式は単にその意味でのめでたいだけのものではなかったように思う。結婚とは、これまで全く生きるところを別にしてきた者同士が生きる場所を共にし、そこから新しい家族を作り出してゆく契機と言えよう。全く違う家同士が結び付くのであるから、ただ、おめでたいばかりではなく、そこには大きな危機もあり、また試練もあるはずである。現在では、結婚こそ最大のストレスだとも言われる。そうであればこそ、そこには『ぶどう酒』というものが不可欠だと思うのである。それは、単なる物としてのぶどう酒ではなく、神様が天から与えて下さる祝福、あるいは奇跡というお祝いといえる。新しい船の進水式の際に、酒ビンが割られるシーンを見ることがある。それは新しい船の船出に当たって、天から祝福があってほしいという気持ちから、ぶどう酒はなくてはならないものとしての祈りの現れなのである。そういうものがなくては、結婚もまた、うまく船出してゆくことができないのだと、しみじみ感じるのである。
このように考えたとき、それまで合わさったことがない二つのものが結び合わされ、そこから新しい何かが生み出されてゆく機会が、結婚以外にも私たちの生涯には幾つもあるということを改めて感じさせられた。母の胎に生を受ける前、私たちはどういう状態にあるのかはわからないが、誕生と共に私たちはそれまでは持っていなかった肉体という土の器の中に生き、また両親家族や時代・社会のただ中で歩んでゆかねばならない者とされた。命がさまざまな意味での『土の器』と結び付き、そこで新しいありかたを始めてゆかねばならなくなる。誕生は、ただ喜ばしい出来事だけではなく、大きな危機でもある。困難な歩みへの船出でもある。そうであればこそ、そこには神様からの天与のぶどう酒が不可欠ではなだろうか。
この土の器において、私たちは思いがけない大きな苦しみに出合い、そして最後には死に直面する。死もまた第2の誕生ということもでる。これまでの土の器を離れて、どのような器かはわからないが、神様が備えて下さる新しい器の中での歩みへと進んでゆく。この新しい船出においても、ぶどう酒は不可欠なのだ。神様からの祝福なくして、どうして私たちは、この死という、試練と苦難に満ちた船出を無事にやり遂げることができるであろうか。ぶどう酒が足りなくなったという状況は、こうした契機において、なくてはならない神様からの祝福が与えられていないという状況を表している。
3 さて、ぶどう酒が足りなくなった事態に対し、イエス様の母マリアは、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と告げた。するとイエス様は「婦人よ、・・・来ていません」と答えた。折角のすばらしいエピソードに、どうしてヨハネは、このような水をさすようなイエス様と母マリアとの対話を記したのか。勿論、実際にそういう会話がなされたからという理由もあろうが、著者ヨハネなりに、そこに大切なものを感じ取ったからに他ならないと思うのである。
イエス様が肉親に対して、同じような言葉を返されたことがあったのを思い起す。たとえばマルコによる福音書には、3章31節以下に、「母上と兄弟姉妹がたが外であなたを探しておられます」に、イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言ったとある。「婦人よ」との呼びかけに、私は同じようなイエス様のおを感じる。マリアは、身内の結婚式の大切なぶどう酒がなくなったという不足に対し、母として息子であるイエス様にそれを何とかさせようとした。当たり前のことだが、マリアが何とかしたいと願っていたのは、物質としてのぶどう酒の不足のみであった。またマリアは、このぶどう酒の不足を、母と息子という間柄の中でのみ解決してほしいと願ったのだった。
そのようなマリアの思いは、イエス様の心に反していたのである。それが「婦人よ、・・・・」という、つっけんどんとも思われるような言葉に現れているように思う。イエス様の心は、次のようなものではなかったか。「わたしが関わるのは単に物としてのぶどう酒の不足に対してではないのだ。私が関わり解消しようとする不足とは、人間が抱えているもっと根源的な不足なのだ。あなたがた人間が人として生まれ、結婚し、苦難に出合い、死に直面したときにも、それを無事乗り越えてゆけるようにするようなぶどう酒なのだ。神様が天から与えて下さる祝いのぶどう酒なのだ。それを、私はただ母だから子だからというのでするのではなく、私を救い主として信じるすべての者に対し家族の分け隔てなど全く関係なくしようとしているのだ。母よ、あなた自身もいつかは『すべての人の母』として、そういう意味での『婦人』として、人々が抱える不足に関わってゆくことになるだろう。わたしが、そのようなぶどう酒を人々に与えるのはまだ先のことだ。その時は他でもない十字架と復活の時なのだ。十字架において流される私の命の犠牲こそが、人々にとってのぶどう酒となるだろう。」イエス様自身が、この時すでに、このような思いを抱いておられたかどうかは定かではないが、少なくともこのとき100歳にならんとしていた著者ヨハネは、このようなイエス様の思いを、ここに込めているはずなのである。
4 イエス様には、十字架と復活の時はまだ来てはいなかったが、その時の「しるし」として、つまりそれを象徴的に示すようなこととして、イエス様はぶどう酒の不足を解消しようとしたのだった。それは、神様が私たちの抱えている不足を解消して下さることを示すためなのであった。
イエス様が、そのために取った方法は、とてもヨハネたちの記憶に鮮やかに残るものであった。ユダヤ人が清めに用いる大きな甕(かめ)を使われたというのは、あえてそうなさったのか、それとも、たまたまそこに水を汲むための器が、それしかなかったからという偶然なのかは定かではないが、少なくとも著者ヨハネは、そこに重大な意味を見いだしたということは確かだと思うのである。ユダヤ人が清めに使う6つの水ガメとは、一つが100年としてのバビロン捕囚以後約600年にわたって行われてきた律法の行いというものを象徴的に現していると感じる。律法の行いを代表しているのが清めなら、そこには勿論、人々の信仰があり、祈りがあったはずである。甕(かめ)に盛られたすべての水を使って体を清め結婚式を清めて、新しい船出をする夫婦に幸あれ、神の祝福あれと人々は祈っていた。そうやって天よりのぶどう酒を求めてユダヤ人は600年間、律法の行いをしてきたのである。
しかし、それでも婚礼に不可欠なぶどう酒の不足という事態が起きた。それは、「6つの甕(かめ)にためられた水で、清め律法の行いをすることによっては、神様からのぶどう酒をいただくことはできなかったのだ」「天与の祝福を受けられなかったのだと」の苦悩を現している。それが洗礼者ヨハネの弟子であったかもしれない著者ヨハネの実感ではなかったか。甕(かめ)の水は、あくまで汚れを洗い流し、清めるためのものでしかなかった。それは除去するという働きでしかなかった。誕生や結婚や死に際して、私たちに不可欠なのは除去することではないと思う。そこに含まれている試練や苦難を洗い流すのではなく─洗い流してしまっては、そもそも人として生まれ、結婚し、死ぬということができない─、それをも喜びとし受け入れ、まさしく喜んで『飲む』ことができるようにさせて下さるお祝いのぶどう酒なのである。甕(かめ)にためられた水では、それができなかったのである。律法の行いでは、喜んで生まれ、人として生き、結婚し、死んでゆくことができなかったのである。それをなさしめて下さったのは、イエス様が人として生まれ、十字架の上で苦しんで、そこから復活して下さったことなのである。イエス様は、その全生涯を、私たちへのぶどう酒として与えて下さったのである。イエス様を信じることは、イエス様をぶどう酒として飲むことなのだと、イエス様こそが私たちへの天与のぶどう酒であったのだと、100歳のヨハネは私たちに伝えようとしたのである。
6つの甕(かめ)に水をくむことは、決して無駄ではないともヨハネは語っているのだと感じる。汲まれた水こそが、ぶどう酒に変わったのだから。ユダヤ人として清められることを求め、結婚に神様からの幸あれと祈ったことは、決して無駄ではないのである。ただその祈りを成就して下さったのは、イエス様であったと語っているのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 8月20日(日)聖霊降臨節第12主日礼拝
01:24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。 01:25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。 01:26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 01:27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 01:28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 01:29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 01:30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。 01:31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
04:06「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。 04:07ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 04:08わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 04:09虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 04:10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
説教要旨の掲載はありません
東京神学大学 村越 ちはる 神学生
2017年 8月13日(日)聖霊降臨節第11主日礼拝
13:01主はモーセに言われた。 13:02「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」 13:03モーセは主の命令に従い、パランの荒れ野から彼らを遣わした。彼らは皆、イスラエルの人々の長である人々であった。 13:04その名は次のとおりである。ルベン族では、ザクルの子シャムア、 13:05シメオン族では、ホリの子シャファト、 13:06ユダ族では、エフネの子カレブ、 13:07イサカル族では、ヨセフの子イグアル、 13:08エフライム族では、ヌンの子ホシェア、 13:09ベニヤミン族では、ラフの子パルティ、 13:10ゼブルン族では、ソディの子ガディエル、 13:11ヨセフ族すなわちマナセ族では、スシの子ガディ、 13:12ダン族では、ゲマリの子アミエル、 13:13アシェル族では、ミカエルの子セトル、 13:14ナフタリ族では、ボフシの子ナフビ、 13:15ガド族では、マキの子ゲウエル。 13:16以上は、モーセがその土地の偵察に遣わした人々の名である。モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ。 13:17モーセは、彼らをカナンの土地の偵察に遣わすにあたってこう命じた。「ネゲブに上り、更に山を登って行き、 13:18その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、 13:19彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、 13:20土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい。」それはちょうど、ぶどうの熟す時期であった。 13:21彼らは上って行って、ツィンの荒れ野からレボ・ハマトに近いレホブまでの土地を偵察した。 13:22彼らはネゲブを上って行き、ヘブロンに着いた。そこには、アナク人の子孫であるアヒマンとシェシャイとタルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンよりも七年前に建てられた町である。 13:23エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取った。 13:24この場所がエシュコルの谷と呼ばれるのは、イスラエルの人々がここで一房(エシュコル)のぶどうを切り取ったからである。 13:25四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。 13:26パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。 13:27彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。 13:28しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。 13:29ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます。」 13:30カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」 13:31しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、 13:32イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。 13:33そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」 14:01共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。 14:02イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。 14:03どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」 14:04そして、互いに言い合った。「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。」 14:05モーセとアロンは、イスラエルの人々の共同体の全会衆の前でひれ伏していた。 14:06土地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、 14:07イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。 14:08もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。 14:09ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」 14:10しかし、共同体全体は、彼らを石で打ち殺せと言った。主の栄光はそのとき、臨在の幕屋でイスラエルの人々すべてに現れた。
1 12章の最後に「その後民はハツェロトを出発してパランの荒れ野に宿営した」とあった。パランの荒れ野とは、巻末の地図2『出エジプトの道』を見ると、今のアラビア砂漠の中央部分にあたることがわかる。13章26節に、「パランの荒れ野のカデシュにいるとき」とあることから、イスラエル人はこの荒れ野の北の端にあるカデシュ・バルネアという場所に滞在していたと考えられる。神様がイスラエル人に与えようとされていたカナンの地が、もう目と鼻の先だったのである。神様はモーセに「人を遺わして・・・遺わさねばならない」と命じた。この12人の中に、ヌンの子ヨシュア(8節のリストではホシュアとなっていた)とエフネの子カレブがいた。
彼らは40日間にわたってカナンの地を偵察し、その報告をした。そこは、確かに乳と蜜の流れるすばらしい所であったが、他方、「その土地の住民は強く・・・見かけました(28節以下)」、「我々が偵察してきた土地は、そこに住みつこうとする・・・ちがいない(32節以下)」。33節に出てくる「ネフィリム」とは、創世記の8章にあった巨人のことである。カナンの住民はこのネフィリムの子孫だと報告した。これを聞いたイスラエルの人々は、14章1節以下にあるような反応を示した。これに対して、恐れずに進むべきだと進言したヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしたと10節に書かれている。
この民の応答に神様が怒り、疫病で彼らを撃つと言ったが、モーセが懸命にとりなしたので、赦すということになった(20節)。けれども、カレプとヨシュア以外のエジプトを脱出した第1世代の者たちは、カナンに入ることはできないと言われたのだった。26節以下には、カナンの地について悪い報告をした値察隊の人々は疫病にかかって死んでしまったとある。25節には「今はアマレク人とカナン人とが・・・荒れ野に向けて出発しなさい」ともある。神様にこう言われたにもかかわらず、今度は、民は無謀にもモーセが止めたのも聞かずに、カナンに向かって、最初の侵入の企てをしたことが14章の最後に書かれている。その結果は、ホルマ(減亡)という地名が象徴的に示しているように、殺されてしまうということだったのである。
2 以上のことから、私達はどのようなメッセージを受け取ることができるのだろう。この民数記は、40年間の荒れ野の歩みにおいて、イスラエルの人々が、どのような問題を起こして死んでいったか、それでも民すべてが死に絶えることはなく、カレプとヨシュアの他には、第1世代の人々の子供たちが、カナンの地に入ることができた姿を描くものである。40年という期間は、私達信仰者の一世代であり、私達の教会が今年度が教会創立40周年であるのだが、そのように教会のひとつの世代をも示していると思うのである。民数記を通して私達は、私達信仰者ひとり一人また教会が、どのような間題を引き起こし、ある部分においては「死んでしまう」ということを教えられるのである。にもかかわらず神様によって、それでもなお信仰者として生かしていただいて、また信仰を引き継ぐ者が起こされて、新しい地へと入らせていただけると教えてくれるのである。私達は、私達の信仰のどのような部分が死んでゆかざるを得ないものなのか、反対にヨシュアやカレブに象徴的に示されているように、どのようなところが神様の御心にかない生き延びて約束の地へと入ることができるのかを教えられるのである。
さて、一体イスラエルの人々の、どのような部分が神様の怒りを買って死んでゆかねばならなかったのか、反対にヨシュアとカレブのどこが御心にかなったのかという点についての解釈は、様々なようである。一般的な解釈では、イスラエル人は、どのような報告が憤察隊からもたらされたとしても、カレブやヨシュアが勧めたように、そこは神様が与えると約束された乳と蜜の流れる地なのだから、恐れずに進んでゆくべきだったのだと解釈している。
また、そもそも神様が与えようとされた地について、偵察隊を遺わしたことさえ不信仰だったのだと、そうすべきではなかったのだという解釈もある。実はこれは、民数記よりも後に書かれたであろう申命記の立場のようである(申命記1章19節以下)。そこでは、モーセが「見よ、あなたの神、主はこの地を・・・恐れてはならない、おののいてはならない」と言うと、人々がモーセのもとにやってきて偵察隊を派遺するのを進言したということになっている。モーセも、これを名案だと受け入れ、結果として偵察隊がもたらした報告は「主が与えて下さる土地は良い土地です」だけだったとある。それなのに民は、それに逆らって神様が与えようとされた良い地について、ああでもないこうでもないと悪く言ったとある。この申命記の記述は、明らかに民数記に書かれていることとは違っている。申命記の立場は、偵察隊など送らずに神様の与えて下さる地なのだからそこがどんな地であっても、いや神様が与えて下さる地に悪い地などない、だから偵察などする必要はない、すぐに進んでゆくべきだという立場である。イスラエル人は、そうできなかったから神様の怒りを買い、反対にカレブとヨシュアは、御心にかなったという解釈である。
3 以上のような解釈に対して、私は、はたしてそうなのだろうかと感じるのである。神様がイスラエル人に求めたのは、どのような報告がもたらされても、ヨシュアやカレブが言ったように、恐れずに進むことであったのだろうか。もしそうであったならば、どうして神様が「今は・・・(14章25節)」と再び荒れ野に戻るように言ったのか疑問に思える。とことんカナンの地へ進むのが御心であったのなら、「赦す」と言った後に、神様自身の命令として「恐れずに進め」と命じてもよかったのではなかったか。最後の段落に書かれているような、向こう見ずに侵入を企てた人々こそが祝されてもよかったのではなかろうか。神様が民に望んでいたことと、彼らがそれに従えずに神様の怒りを買ってしまった理由は、もっと違うところにあるのではないかと私は思うのである。
申命記の立場とは違って、偵察隊を遺わされたのは神様自身であり、神様が与えようとした地について、正反対の報告をもたらされたのも神様であったと語っているのである。ここに私は心を寄せられるのである。神様がそのようにした理由は何であったのか。それは、神様が与えようとした地について、しっかりと事実を直視させるところにあったと私は思うのである。イスラエルの人々は、神様が与えて下さる地なのだから、それはバラ色で何の問題もない、戦う相手などどこにもいない平穏な地に違いないと思い込んでいたのではなかろうか。神様の御心は、まずはそのような幻想を打ち砕くところにこそあったのではなかろうか。
そして神様は、約束の地が乳と蜜の流れるすばらしい土地ではあるけれども、他方、そこには戦うべき巨人のような人々がおり、住民は強く、町という町は城壁に囲まれたようなところだという現実を突き付けたのだった。神様が望んだのは、イスラエル人がこの現実を直視し、自分達がなぜ約束の地で、そのような人々や現実と対峙しなければならないのかという意味を深く悟るということではなかったかと思うのである。イスラエル人としての使命の自覚とでも言えようか。私は改めてイスラエルの民とは何か、信仰者とはどんな存在かを思うのである。彼らは、神様によって導かれて、当時の世界で最も強い力を誇っていたエジプトの王様に対峙し、戦い、そこから脱出した希有な人々なのであった。おそらく当時の世界で、そのような歩みを実現した人々というのは他にはいなかったはずである。イスラエル人であるということは、このような存在であることから離れることはできなかったのである。カナンの人々に対しても、イスラエル人は、このような民として対峙し、戦い、プライドや誇りや気概をもってあらねばならぬ存在なのではなかったか。神様は、そのことを何よりも求めておられたのである。
13章22節に、カナンという土地について、とても興味深い記述がある。偵察隊が見たブロンという町は、「エジプトのツォアンよりも7年前に建てられた町」だとあった。カナンには、エジプトの王様のような強大な力を持った王はいなかったが、エジプトよりも古い町、文化や経済的な豊かさを蓄積してきた地域なのであった。エジプトの王様以上に手ごわい存在に立ち向かい、戦い、そこに住みながらも神様を礼拝することにおいて自由を獲得してゆかねばならなかった相手が存在する地域なのであった。エジプトを脱出してきたイスラエル人にとって、カナンとは、どうしても巨人や堅固な城塞が立ちはだかる地域なのであった。
そのような自覚を持たずに、神様の下さる地なのだから、やすやすと入ってゆけて、平穏な生活が与えられるであろうと思っていたのでは、そもそも入ってゆくことなどできないし、遅かれ早かれ滅ぼされてしまうだけなのであった。私達信仰者も同じである。信仰者として生きることは、ただ平穏に、おいしい果実が取れる乳と蜜の流れる地で楽しく暮らせることではないのである。そうではなく、エジプト王と立ち向かい、王のもとから神様によって脱出させられた特別な民の信仰における子孫として、この世の巨人や城壁に対峙しなければならない者なのである。この世は、信仰者である私達を食いつくしてしまおうとする世界なのである。そこで生きてゆかねばならないのが私達なのである。その覚悟を持たない信仰の歩みは、死に絶えてゆくしかないことが語りかけられているのである。
4 生き延びていったヨシュアやカレプに、そのような自覚や気概があったかというと、そこまでの深い思いはなかったのではないかと思うのである。指導者だったモーセには、民に対して、このようなアドバイスをしてほしかった。ただカレブとヨシュアが、疫病によって死んだ他の偵察者や死に絶えた第1世代の人々と対照的な点として、次のことが示される。二人は、ただただ神様が下さる地なのだから恐れず進めと、とにかく勇気一点ばりの者であったようにも思えるが、一番大事なのは、彼らもカナンの地が巨人のような者たちが住む恐ろしい場所だとしっかり見てきたにもかかわらず、それを見つつ知りつつも「我々が偵察してきた土地は、とてもすばらしい土地だった」と、あくまでその土地のすばらしさに立脚しようとした点が、何よりの違いではなかろうか。別の言い方をすれば、土地のすばらしさと言うよりは、そこに進ませて下さる神様の御心のすばらしさに立とうとしたと言った方がよいかもしれない。
これに対して、他の偵察者たちやイスラエルの人々は、ただ悪い報告のみに動かされたのである。14章2節と3節に、いみじくも表されてる。彼らは神様の御心を、ただ自分達を死なせるような悪意あるものとしてしか受け止められなかったのである。私達が進んでゆく現実には、必ずすばらしい部分とそうではない部分の両方があるはずである。どちらか一方だけという現実は決してない。それに直面したとき、ただ悪いことにのみ目を向け、そこに神様の悪意を見てしまうなら、信仰者としての私達の歩みは、減びてしまうしかないのである。大事なのは、悪い事実に直面しても、それを見ないようにすることではなく、それも神様の下さる地に起きることであり、必ずそれは良いものであり、私達を生かす出来事なのだと信じることなのである。ヨシュアとカレブが象徴的に示しているのは、そのような信仰者の姿なのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 8月6日(日)聖霊降臨節第10主日礼拝
16:17兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。 16:18こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。 16:19あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。 16:20平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。 16:21わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。 16:22この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。 16:23わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
1 ローマの信徒への手紙を締めくくるにあたって、パウロがまず語っているのは、17節にあるように「不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい」ということだった。この「不和やつまずきをもたらす人々」というのは、18節では「キリストに仕えないで自分の腹に仕えている」とされている。さらに「うまい言葉やへつらいの言葉によって、純朴な人々の心を欺いている」人々だと。このような人々が、具体的にいかなる人々であるかは定かではないが、それがどのような人々であったのか、またどういう事情がそこに横たわっていたのかが、だいたいわかってくると思う。
パウロがこの手紙をローマ教会に書き送らねばならなかった事情について、私なりに了解した事柄を端的に言えば、次のようになる。ローマ教会には二つのグループがあり、その対立・不和というものが激しくなりつつあった。パウロは、何とかしてそれを解決しようとして、この手紙を書いたのだった。その二つのグループとは、クリスチャンになったユダヤ人たちと、ユダヤ人としての背景を何も持たない異邦人からクリスチャンになった人々だった。ユダヤ人たちは、もう何百年も律法を守ることに神様とのつながりを見いだし、割礼を受け、安息日を守り、食物についての様々な夕ブーを大事にしてきた人々なのであった。クリスチャンになったからと言って、おいそれと、その先祖代々の習慣を捨てることはできなかった。かたや律法の「り」の字も知らない異邦人たちであった。そうした人々が、ひとつ教会で礼拝を守っていたのだから、何らかの軋轢や不和が生じないはずはなかったことは容易に想像できる。
紀元49年に、このような軋轢を、より刺激するような事件が起きた。ときの皇帝クラウディオによって、ローマからユダヤ人が追放されたのだった。西暦70年から140年頃まで存命だった歴史家スエトニウスによれば「クレストスの扇動によって騒動を起こしたユダヤ人たちをローマから追放した」とのことである。クレストスとは、イエス様のことと考えられ、要はイエス様をキリストと信じるクリスチャンと、ユダヤ人との間に起きた騒動のため、ローマにいたユダヤ人全体が皇帝の怒りを買って、言ってみればとばっちりを受けた事件だったと考えてよい。クラウディオが死んだ54年に、ユダヤ人はローマへの帰還を許されたのだが、この二つのグループの軋轢が、それまで以上に強まったのは、さらにそれより後ではなかったと私は想像する。
帰還した数万とも言われるユダヤ人たちは、二度とクリスチャンたちとのトラブルを起こすまいと考えたはずである。そこでどうしたか。異邦人クリスチャンに対して、自分たちと同じふるまいをすることを強く求めるようになったのではなかろうか。今流の言葉でいえば『同調圧力』を強めたということになる。異邦人クリスチャンと言えど、ユダヤ人となったのだから、律法の行いをし、割礼を受け、食べ物のタブーを守るようにと求めたのであろう。その根本にあった心は、不和を避けたいという思いだった。不和を避けるために同じようにふるまってほしい、違いは許容できないということになっていったのである。この同調圧力は、当然のこと、異邦人クリスチャンからの反発を招いた。たとえば私達が、突然律法の行いを強要されたり、イスラムの人々がしているような食物タブーを科されたりしたらどうかと想像してみていただきたい。また、異邦人クリスチャンたちもユダヤ人クリスチャンとの不和を避けようと願ったかもしれない。そうした思いや反発の結果として、いっそのこと、もう一切ユダヤ的なものとのつながりを絶ちたい、断絶をした方がよいのではとの主張も出てきたと考えられる。こうして、両方の側からの、もう騒動を起こしたくない・不和を何とか解消したいとの思いから生じた努力が、かえって逆に不和やつまずきを増大させることになっていったのだった。
2 何よりも深く考えさせられたのは、この点なのである。「不和やつまずきをもたらす人々」というのは、あからさまにそういうことをもたらすようには決して見えない人々のことなのである。すぐにそうとわかるならば「警戒しなさい」と言う必要などないのである。むしろ逆に、その人々というのは、不和とは正反対に、「平和を求める人々(20節)」だったのである。平和を求めるからこそ、お互いの違いを認めることができなくなり、平和を求めていたのに、結果として不和が激しくなってしまったのである。19節の最後には「善にさとく、悪に疎くあることを望みます」とある。何が善で何が悪なのかがすぐにわかれば、やはりこのように勧める必要はない。何が善で悪なのかが、とてもわかりにくいゆえに、パウロは、このように勧めたのだった。不和を解消し、教会の一致を保ちたいという動機は善である。しかし、その結果として、かえって対立や不和が生じたならば、それは悪なのである。どんなに動機は良いものであっても、結果として不和を増大させ、平和を破壊するならば、それは悪なのである。
このようなことが世々の教会にもあてはまり、また教会だけではなく、夫婦や家族という人間関係にも起こることのように思わせられる。皮肉にも、このような勧めをパウロから与えられたローマ教会が、その後、ローマ・カトリック教会の総本山となって、確かに違った信仰(異端)を退け、教会の一致・平和を守るためという動機からではあったが、どれほど恐ろしい悪を行ったかは、言うまでもないことであろう。しかし、それはカトリック教会だけではなかった。今年は宗教改革500周年の年なので、改めて宗教改革に関連する本を読み返している。ルターが口火を切った運動の中から、いろいろな動きが派生してきた。たとえば幼児洗礼というものを否定する人々が出てきた。彼らは、集まって再洗礼を自分たちに施した。こうした人々は「再洗礼派」と呼ばれた。プロテス夕ント教会が、彼らにあびせた憎しみは激しいものだった。何人もの人々が死刑にされていった。その動機も、信仰の一致・平和を保とうとする善なるものだったのである。しかし、結果として生じたのは、不和であり平和の破壊であり、悪だったのである。夫婦や家族の間でも、このようなことがしばしば生じるのである。夫婦や家族の和を保ちたいとの善なる願いから、ある人の思いのみが、他の家族に押し付けられ、強制され、結果として不和が増大され、平和が破壊されてしまうのである。平和を求めたのに、どうして不和がもたらされてしまうのかと、本当に本人たちは嘆くしかないのである。
一体なぜこうなってしまうのか。それは、パウロの言葉から言えば、18節にあるように「キリストに仕えないで自分の腹に仕えている。うまい言葉やへつらいの言葉によって」欺かれているからなのである。不和を避け、平和を求めているとは言っても、その平和とは、イエス様に仕えるゆえのものではなく、「自分の腹」つまり自分たちの欲得や利害に仕えさせられてのものなのである。キリストという神様の姿に従うのではなく、うまい言葉やへつらいの言葉、つまり「自分の腹」にへつらい自分にとって甘いと感じる言葉や意志に従おうとしているからなのである。どんなに平和を求めても、その根源に「自分の腹」がある限り、結果として生じてくるのは不和なのである。
3 私達が、このような状況から抜け出す方法はただ一つである。18節に「わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている」ゆえにこうなってしまうのだから、キリストを主として仕える以外に道はないのである。それがパウロがこれまでずっと教えてきた17節に書かれていることなのである。
では、キリストに仕えるとはどういうことでなのか。「主であるキリストに仕える」というのだから、ここで直接的に言われているのは、イエス様を主人とし、私達がそのしもべとなるという主従の関係である。主従関係と言われると、どうしても私達は、命令され強制されるような間柄を考えてしまう。しかし、まずそこにあるのはイエス様を信じる信仰によって生じた人格的な関係だと思うのである。主従の関係ではなく、夫婦と同じように、一生涯をイエス様と共に生きようとする関係なのである。当然、そこには、義務も責任も生じてくる。生涯を通じて、他の人を伴侶としない関係を結ぶのだから、強い拘束も縛りも生まれる。そういう拘束に着目したときに「主人としもべ」という比喩になるのかもしれない。しかし、そこにあるのは、何よりも愛するということなのである。喜んで拘束を受け入れる姿勢なのである。
イエス様とのこのような関係から、結果として生じてくる姿というものがあると思う。イエス様を生涯の伴侶として生きているのだから、おのずとそこに滲み出てくる姿というものがあると思う。夫婦は似た者同士だとよく言われる。長く夫婦という間柄にあることによって、自然に似た者にならざるを得ない。そうならなければ嘘なのである。その現れこそ、不和とは反対の平和があるのだと思う。
具体的にそれはどういう平和だったのか。14章に書かれていたことを改めて思い起こす。ここでパウロは、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に生じていた深刻な不和を取り上げた。それは食物のタブーを巡つての不和だった。ユダヤ人クリスチャンは、異邦人クリスチャンにも、伝統的な食物のタブーを守ることを求めた。これに対して、異邦人クリスチャンは、猛烈に反発し、もしかすれば愛餐会のような場で、わざと食べ物のタブーを犯すような食材を使って料理を出し、それを食べようとしない人々を批判した。こうした不和に対しパウロは、「他人の召使いを裁くとはいったいあなたは何者ですか。・・・食べる人は主のために食べる。・・・食べない人も主のために食べない。・・・わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです(14章4節以下)」と言った。ある人は主人であるイエス様との関係において食べず、しかしまたある人は主であるイエス様との関係において食べた。それぞれが主人であるイエス様との関係において、まことに多様で自由なありさまを選択した。主人を伴侶と言い換えてもよい。それぞれがそれぞれの主人・伴侶との間柄において、喜んであるものを食べ、また食べないことについて、他の人はあれこれ批判することはできないというのである。このように、キリストに仕えるということから生じてくるのは何よりも自由なのである。多様性なのである。キリストを愛し、仕えるということにおいて、バラバラであってよいのである。その自由や多様性を認めることこそが、平和をもたらすのである。相手のありかたに違和感を覚えるかもしれない。しかし、それはその人が、キリストを主とし伴侶として生きる自由な姿なのである。だから、それを受け入れることができるのである。そこに平和がもたらされるのである。
キリストに仕えることが、どうしてこのような自由をもたらし平和をもたらすかと言えば、他でもない主であり伴侶であるイエス様こそが、自由だったからなのである。「キリスト者の自由」という本を書いたルターであるから、彼も特別に愛した言葉だと思う。パウロは「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」と言っている(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)。イエス様こそ、主である神様を信じる関係において、まさに自由であった。だれ一人として、それを背負うことなど思いもよらなかった十字架の死を背負われたのだから・・・。イエス様が、私達に何よりも与えようとされたのは、自由だったと私は確信している。この自由こそが、私達に平和をもたらす。どこまで行つても、自分の腹に仕えさせられてしまう私達だが、それでもイエス様に仕えることができるとは、何とすばらしいことであろうか。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 7月30日(日)聖霊降臨節第9主日礼拝
01:67父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。 01:68「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 01:69我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。 01:70昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。 01:71それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。 01:72主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。 01:73これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、 01:74敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、 01:75生涯、主の御前に清く正しく。 01:76幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 01:77主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。 01:78これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 01:79暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」 01:80幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。
説教要旨の掲載はありません
東京神学大学 村越 ちはる 神学生
2017年 7月23日(日)聖霊降臨節第8主日礼拝
01:23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 01:24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 01:25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 01:26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 01:27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 01:28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。 01:29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 01:30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 01:31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 01:32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 01:33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 01:34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」 01:35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 01:36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 01:37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 01:38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 01:39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 01:40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 01:41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 01:42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。 01:43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 01:44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 01:45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 01:46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 01:47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 01:48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 01:49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 01:50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 01:51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
1 フィリポとナタナエルが、イエス様の弟子となった様子が描かれている。42節までは、アンデレと、名前の書かれていない一人(この人こそこの福音書を書いたヨハネではないかと言われてきた)、そしてアンデレの兄弟だったペトロという3人が弟子となった様子が書かれていたので、これで都合5人が、イエス様の弟子となったということである。ヨハネは、こうして、これら5人が、イエス様の弟子となった様子を描くことを通して(その中には自分自身が含まれていたのかもしれない)、西暦100年頃の時代においても、またそれから2000年後の今日においても、このようにイエス様の弟子となってゆく人々が起こされてゆくのだと語りかけようとしていたように思う。
この5人が、イエス様の弟子となっていったプロセスには、幾つかの共通する要素があったように感じた。第一に、最初にイエス様を証言する人が現れ、その証言を聞いたことがきっかけとなって、イエス様の弟子となってゆくというプロセスである。35節以下では、アンデレと著者ヨハネかもしれない二人は、洗礼者ヨハネの「神の小羊」という証言を聞き、アンデレの兄弟ペトロはアンデレの「わたしたちはメシア─『油を注がれた者』という意味─に出会った」という証言を聞いたのだった。フィリポについては、そういうことは書かれてはいないが、44節に「フィリポはアンデレとペトロの町、べトサイダの出身であった」とあることから、もしかすれば、同郷の知人だったアンデレとペトロ兄弟から、イエス様のことを聞いていたのかもしれない。そして、5人目のナタナエルは、フィリポの「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」という証言を聞いたのだった。
2 このように、ある人がイエス様について証言し、それを聞いて、次の一人、また二人が、イエス様のもとに行き、信じる者となっていったということから、私は様々なことを考えさせらた。それはまず、イエス様は、自分を信じる者が起こされる最初のきっかけを、私達人間の証言に委ねておられたということである。改めて気づかされたのは、洗礼者ヨハネの証言も、アンデレの証言も、フィリポのそれも、皆、同じではないということである。勿論、最初の洗礼者ヨハネの証言は大事だし、それがはじめにあったのである。イエス様が、神の小羊として、何らかの意味で、その命を私達のために犠牲にして下さるという証言は、核心になければならない。しかし、それが核にありさえすれば、証言する者ひとりひとりの多様性が許されているように思うのである。それぞれが出会い、捉え、信じたイエス様を、それぞれの言葉で証言してよかったのである。皆が、オウムがえしのように画一的でなければならなかったということはなかったのである。
その多様な人間の証言は、人間の証言であるがゆえに、浅はかなものであったり、イエス様の、ほんの一部分しか捉えていないものであったりしたのである。アンデレが「メシアに出会った」と証言したが、それはイエス様の十字架も、復活も、まだ知らなかった段階のものでしかなかった。フィリポが「わたしたちは、モーセが・・・」と証言したが、それがどれほど的を射たものであったかは、わからないのである。そのような、浅はかで、イエス様の、ほんの一部しか捉え得ていない、あやふやな人間の証言に、イエス様は自分を信じる者が起こされる最初のきっかけを委ねておられたのである。どのように浅はかで、つたない証言でも、その人が、自分と出会い、信じて、精一杯自分を語ってくれたのならば、それに委ねてもよいのだと、イエス様が言って下さっているように感じられる。牧師が、こうして説教をしているのも、ある意味では、証言と言ってよいのだが、これをこのように堂々とできる根拠は、イエス様が、それをよしとして下さったからに他ならないのである。
3 もう一点、「証言を通して」ということから示されることがあった。それは、一人の証言を聞き、それがきっかけになって、またひとり、あるいは二人が信じる者になってゆくということは、今の時代では、非効率で、回りくどいものだと思われる。短時間に、正確に、できるだけ多くの人に情報を伝えたければ、紙を配ったり、現在であれば、メールの一斉送信したり、といった便利な手段がある。では、そのようにしイエス様を証言すればよいかと言うと、それでは伝わらないのである。あくまで、ひとりの人が出会い、信じたイエス様を、不正確でもよいし、ばらばらでもよいから、また一人二人の人に伝えてゆくところに、ミソがあるように思うのである。イエス様は、そういう手段に、あえて委ねたのである。
35節からの箇所を読む限りでは、この5人が、イエス様に従っていったのは、35節はじめの「その翌日」からはじまって、その日は二人は、イエス様と一緒に泊まり、おそらく翌日、アンデレがペトロを連れて行き、そして43節の「その翌日」と、都合三日で起きたことのように書かれている。また、それぞれの人の証言を聞いた人々の100パーセントが、イエス様に従っていったように書かれているが、実際には、5人の背後には、証言を聞いても何ら関心を示さなかったその何十倍も何百倍もの人々がおり、5人がイエス様に従っていったのは、もっともっと長い時間がかかったのではないかとも想像できるのである。それでも、このようにして、イエス様の弟子となっていった人々は、起こされていったのだと、著者ヨハネは、かつての自分自身の体験を通して語りかけているのである。伝道とは、このようなものなのである。それでよいのである。これをイエス様は、よしとして下さっているのだと感じるのである。
4 さて、イエス様を信じる弟子たちが起こされてゆくプロセスにおいて、ふたつめの特徴は、このように証言によってイエス様のもとに連れられていった人々が、イエス様と出会い、その結果として、イエス様に従うものとなっていったということである。そのきっかけは、人間の証言であったが、出会って下さり、その人を信じさせて下さったのはイエス様自身なのであった。
だから私には、ここで改めて感じることがある。ここに書かれている最初の5人は、もしかしたら著者ヨハネも含めて、実際にイエス様に会えたのだが、この福音書の読者であった西暦l00年頃の人々、そして今の私達には、残念ながら、それはできないという点である。そのよう私達は、一体どこで、どうやってイエス様に出会えるのか。すばらしいイエス様と、どうやって出会えるのか。ヨハネは、それは福音書を読むことを通してできるのだと考えて、だからこそ、こうして自分がイエス様と出会った証言としてのこの福音書を書いたのだと思うのである。この福音書を書いたとき、すでに100歳になっていたと言われるヨハネを最後として、もうイエス様に会い、その言葉を実際に聞いたことのある証言者は、もういないのである。その後の証言者は、皆実際にはイエス様に会ったことのない人々だが、この福音書にある証言を通して、またそれを説き明かす礼拝説教を通して、イエス様に出会うことができたのである。聖書を読み、礼拝に集った人々は、イエス様のすばらしさに捉えられたのである。それが今も続いているのである。
ただ、どんなに言葉を尽くしても、イエス様のすばらしさを書き尽くすことはできない。この福音書の20章30節には、「このほかにもイエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさったが。それはこの書物に書かれていない」とヨハネは書いている。それは、「書こうとしても書ききれない」「言葉ではどうしても伝えきれない」というもどかしさの表現である。ましてやこの最初の証言である福音書を、牧師が説教しても、なお伝えきれないものがある。また、イエス様を信じる者が、ふたりまた3人集まって作る共同体が、キリストの体でありそこにイエス様がおられるとはとは言っても、それはどうしても人の集まりでしかない部分もあるのである。聖書を読み、牧師の説教を聞き、教会に集っても、どこにもイエス様などおられないではないかと失望する人もいるのである。
私は、たとえて言えば、聖書も牧師の説教も、教会も、月の光のようなものだと思う。月は、それ自体は光を発することはできないのだが、太陽の光を受けて、反射して輝くのである。しかし、月の光には、太陽の光が持っているような暖かさもエネルギーもない。また地球との位置関係で、新月になったり満月になったりと、光を放つことさえ全くできないこともある。これが、文字として書かれた聖書であり礼拝での人間による説き明かしであり、教会という共同体のありさまではなかろうかと思うのである。しかし、月であっても光を放つのである。本来は光など発し得ない月が、光を放てるようになるのである。はるかに私達の世界から遠く離れているのに、満月の時には私達を照らす光源になる。そのように聖書も、それに基づく説教という証言も、人の集まりに過ぎない教会も、光を放つのである。イエス様を記し、そのすばらしさを記し、またそれを語る説教がなされ、イエス様を信じ、慕って集まる共同体ゆえに、放たれる光がある。どんなに拙い証言でも、拙い集まりでも、それがイエス様に私達を出会わせて下さるものなのだと思う。イエス様は、それをよしとされ、そこに深い御心がある。
5 人の証言をきっかけとして出合ったイエス様のすばらしさとは、どのようなものだったのであろうか。ペトロには、イエス様は「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ『岩』と呼ぶことにする」と言った。ナタナエルに「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と言った。ナタナエルは、イエス様に対して「どうしてわたしを知っておられるのですか」と感極まって言ったが、ここに描かれているイエス様のすばらしさは、他の誰がどう言おうとも、ペトロを「岩」と呼んで下さる、またナタナエルを深いところで知っていて下さるものではないかと思うのである。ペトロは、到底自分が岩などとは思えなかった。そのような働きができる自分がいるとは、彼自身、露も知らないのであった。しかし、イエス様に出合い、従うことで、いつかは岩のような働きをするものにされていったのである。そのようなペトロを、イエス様はご存じだったのである。
ナタナエルもそうなのであった。フィリポからイエス様のことを聞いたとき、彼は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言った。彼自身、当時のイスラエルでは、地域的に差別されていたガリラヤの出身者であった。差別されていた彼が、今度はナザレ出身だと聞いてイエス様をさげすんだのだった。ナタナエルは、深く、こうした生まれや血筋などによる劣等感にさいなまれていた人ではなかったかと感じる。そういうことによる縛りを抱えていた人だったと思う。しかし、それでも彼は、誰よりもイスラエル人であろうとし、神様を信じて、偽りのない人になりたいと願っていた。ただ、どうすればそうなれるのかがわからなかったのである。ガリラヤ生まれの自分のような者が、どうしたらそうなれるのかがわかならなかった。その苦悩の現れが「いちじくの木の下にいる」ということなのではないだろうか。そのようなナタナエルが、たとえ誰からどう言われようと差別されようと「まことのイスラエル人になれる。偽りのない人になれる。私にはそれがわかるのだ。見えるのだ」とイエス様に言っていただいた。イエス様のすばらしさが、ここにある。私達には見えないし、わからないものを、イエス様はご存じなのである。イエス様を信じ従うとき、それが現れてくるのだと約束してくれるのである。
最後の54節で、イエス様は、創世記28章に書かれていた石を枕にして横たわったヤコブに神様が天からはしごをかけて下さった出来事を語っている。当時のイスラエル人は皆、切にこのヤコプの体験を待ち望んでいたのであろう。だれがそのような体験をさせてくれるかと待望していたのである。それをそうさせたのがイエス様だった。ヤコブが枕にした石とは、私達一人ひとりが自分ではどうしようもなく抱えてしまう『重し』を現していると私は感じた。ペトロも、ナタナエルも、そういう石を抱えていた。けれども神様は、イエス様を信じる者に天からはしごをかけて、そのような私達を導いて下さるのである。その導きによって私達は、イエス様に知っていただけるような存在になってゆけるのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 7月16日(日)聖霊降臨節第7主日礼拝
12:01ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言った。 12:02彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」主はこれを聞かれた。 12:03モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。 12:04主は直ちにモーセとアロンとミリアムに言われた。「あなたたちは三人とも、臨在の幕屋の前に出よ。」彼ら三人はそこに出た。 12:05主は雲の柱のうちにあって降り、幕屋の入り口に立ち、「アロン、ミリアム」と呼ばれた。二人が進み出ると、 12:06主はこう言われた。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば/主なるわたしは幻によって自らを示し/夢によって彼に語る。 12:07わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。 12:08口から口へ、わたしは彼と語り合う/あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか。」 12:09主は、彼らに対して憤り、去って行かれ、 12:10雲は幕屋を離れた。そのとき、見よ、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。アロンはミリアムの方を振り向いた。見よ、彼女は重い皮膚病にかかっていた。 12:11アロンはモーセに言った。「わが主よ。どうか、わたしたちが愚かにも犯した罪の罰をわたしたちに負わせないでください。 12:12どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来た死者のようにしないでください。」 12:13モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」 12:14しかし主は、モーセに言われた。「父親が彼女の顔に唾したとしても、彼女は七日の間恥じて身を慎むではないか。ミリアムを七日の間宿営の外に隔離しなさい。その後、彼女は宿営に戻ることができる。」 12:15ミリアムは宿営の外に七日の間隔離された。民は、彼女が戻るまで出発しなかった。 12:16その後、民はハツェロトを出発し、パランの荒れ野に宿営した。
1 民数記が民数記と呼ばれているのは、2回の人口調査が書かれていることに由来する。最初の人ロ調査がされたのは、エジプトを脱出して2年目のことで、2回日はそれから約38年ほどが経ったときだった。2回目の人ロ調査でわかったのは、1回目のときに生きていた人々の中で、2回目の時にも存命だったのは、モーセとカレブとヨシュアという3人のみということだった。このように、エジプトを脱出した第1世代というべき人々は、およそ40年間の荒れ野での生活の中で、ほとんど死んでしまったのだった。自然の寿命によらずに亡くなった人もいただろうが、民数記が特に記すのは、様々な間題が生じて、その結果として多くの人が死んでしまったということなのであった。肉が食べたいと不平を言った人々に神様は、うずらを与えたのだった。食欲にまかせてこれを食べた人々は、疫病にかかり死んでしまった。死んだ人々の墓は『食欲の墓』と呼ばれたと11章34節に書かれている。したがって民数記は、40年間の荒れ野の歩みにおいて、イスラエルの人々が、どのような間題を起こし、死に絶えてしまったかを記す書と言える。
他方、2回の人口調査から明らかになったのは、男性だけの数ではあるが、40年間の荒れ野の生活において、第1世代の人々は、たった3人しか生き残らなかったにもかかわらず、その人口は、わずか2000人しか減っていなかったということがある。次々と間題を起こして、多くの人が死んでいったにもかかわらず、40年の荒れ野の歩みでも、イスラエル人は絶減することがなかったのである。それはひとえに、神様の恵みゆえであった。幾度も問題を起こして危機に陥った彼らを、にもかかわらず神様が助けて下さったゆえなのであった。民数記は、人々の引き起こした問題の数々を語ると共に、神様の恵みの数々を語る書物でもあると思う。
40年とは、教会のひと世代の歩みでもあり、また信従ひとりひとりの信仰生活のひと区切りでもある。くしくも私達の筑波学園教会は、創立40周年の歩みを歩んでいる。教会や私達の信仰生活にも、民数記に書かれているような間題が生じるのである。しかし、それでも教会は途絶えることなく、またひとりひとりの信仰も新たにされ、次世代の人々も起こされてゆくのである。それを教えてくれるのが、この民数記だと言ってよいのではなかろうか。
2 さて、この12章には、どのような間題が起きたと書かれているのか。それは、まず書き出しの1節に「ミリアムとアロンは・・・“言った”」とある。ミリアムとは、モーセの姉で、出エジプト記の2章に、ナイル川に流されてしまいそうになったモーセをエジプト王女が見つけたときに、機転を利かせ、実の母を乳母として紹介した人だとされている。「言った」というヘブル語の動詞は、女性単数を主語にする形なので、ここでモーセを非難した中心人物はミリアムだと理解される。その非難は、モーセがクシュの女を妻にしていることだと言うが、れについてはよくわかっていないことも多い。
ミリアムとアロンの、モーセ批判の核心は2節に書かれている。それは「主はモーセを通してのみ・・我々を通しても語られるのではないか」という。問題は、この批判にどのような思いが込められているかということである。そもそもどういう経緯で、彼らのモーセ批判が始まったのだろうか。それは私達にとってはどういうことを意味しているのか。
聖書は、そのことにっいては明言してない。私は、11章の出来事が引き金になった違いないと思うのである。イスラエル人は、「マナだけではもう飽きてしまった、肉が食べたい」と不満を爆発させた。これに対して指導者であり牧会者であるモーセの対応には、確かに幾つも間題があった。何より問題だったのは、肉を食べたいという民の不満に、そのまま応えようとした点である。荒れ野を旅する生活は、肉を食べる生活ではなかった。ひたすら神が与えるマナによって生きる生活だったのである。だから指導者たるモーセは、この民の不満にきっぱりと否を突き付けるべきだったのである。しかし彼には、それができなかった。それは、彼の心に人々の要求に答えたいという下心があったからなのである。そういう下心があり、民の要求に答えようとしたとき、牧会は重荷になるのである。11章13節に「この民すべてに食べさせるべき肉をどこで見つければよいのでしょうか。・・・わたしには重すぎます」と泣き言を、さらに「(こんな重荷を背負うのなら)どうかむしろ殺して下さい」とさえ言っている。これは、牧師である私が、しばしば陥る姿である。教会員の歓心を得たいがために、牧師として答えるべきではない要求に応じようとするとき、牧会は重荷となるのである。
このように弱音を吐いたモーセに対して、神様のアドバイスはまことにふさわしいものであった。こうした問題が起きたときに、私達が大いに参考にすべきものである。神様は「このようにして肉を食べさせてやれ。協力者を集めて肉を食べさせよ」とは言わなかった。そうではなく「70人の長老・役人を集めて、臨在の幕屋にあなたの傍らに立たせよ」と言った。要は、あなたと一緒に礼拝を忠実に守る者、神様の前に立つ者を起こせということだった。教会に起きる問題の解決法は、ここにしかない。そうして、肉を食べたいとの人々の欲求には神様自身が応対したのだった。その結果が、食欲の墓となった。
3 ミリアムとアロンのモーセ批判の引き金となったのは、何よりもこの不幸な結果だったのだと思う。せっかくエジプトを脱出してきたのに、どれほどの人が疫病で死んだのかはわからないが、「大切な同胞を死なせてしまったではないか」という、それはつきつめれば、「牧会者としてのあなたの指導が間違っていたからだ」という非難なのであった。「そもそも、あなただけが神様の前に立ち、あなただけが神様と語らい、あなただけが神様の御言葉を語ることが問題なのだ」と。別の言い方をすれば、「あなたの神様の前に立つ根源的な姿勢・ありかたが間題なのだ」という批判でもあったのだと思う。「私達は、あなたとは違ったあり方で神様の前に立てるし、あなたとは違った神の御言葉を語ることができるのだ。私達がそれをすれば、人々の不満に対して別の対処ができ、ひいては神様も別のなさり方をされたに違いない。」このような思いだったのではなかろうか。
このような牧師への批判というものを、どれほど聞いてきたかと思うのである。7月号の『信従の友』には、「教会がうまくゆかないとき」という特集が組まれている。うまくいっている時はよいが、何人も教会を離れる人が出てくるというような事態が生じると、牧師に対して批判が噴き出てくる。ミリアムやアロンが言ったような「我々を通しても語らせよ」すなわち「あなたに代わって私を牧会者にせよ」との声は、さすがに出てこないだろうが、「あなたの牧会ではだめだから、私達のおめがねにかなう別の牧師を招聘したい。ついてはあなたには辞めてほしい」という批判には、なってゆくのである。私自身、かつて会堂建築をした際に、これに近い批判を受けたことがあった。また、神学生をしていたとき通っていた教会でも、そのような間題が起きた。教区の議長をしていたときに、何度もこのような問題が生じた教会に問安に行った。
4 さて、これに対して神様がどのような対処をされたかがとても大事な点だと思うのである。2節の最後から3節に「主はこれを聞かれた。モーセ・・謙遜であった。」とある。「神様の選び立てた指導者を批判するなどとんでもない、そんな批判などに聞く耳を持つ必要はない」とすぐに思ってしまいがちである。しかし「主はこれを聞かれた」とある。また、「モーセは謙遜だった」というのである。教会で牧師批判が出たときに、牧師がしばしばしてしまうのは、猛然とそれに抗い怒り、よりにもよって説教の中で信徒を批判してしまう。しかし、こうした応対でうまくゆくことは決してない。火に油を注ぐだけなのである。「主はこれを聞かれ、モーセは謙遜だった」ということは、どういうことを意味しているのだろうか。12章の全体の流れからは決して、神様がミリアムやアロンのモーセ批判をよしとされたとは思えないし、受け入れられたということではなかったと取れる。しかしそれを即座にあってはいけないこととして否定されたのではなかったのである。確かに牧会者であったモーセの対応には、幾つもの誤りがあったのは確かなことである。批判の余地があった。神様も、それは認めるところであった。モーセが謙遜だったというのは、彼自身がそれを認めたという意味であろう。教会において、良いことではない結果が現れるとき、それは確かに牧師に理由のひとつがあることは認めねばならない。
「聞かれた」上で、さらに神様は、ミリアムとアロンの言う通りに、モーセを非難したのか。いや、そうではなかったのである。4節に記されているのは、3人を神様自身の前に立たせたということである。ミリアムとアロンのモーセ批判は、モーセだけが神様の前に立ち、神様の言葉を聞き、それを人々に語っているということだった。だから神様は、この非難を受け入れて、「では、あなたがたもモーセと共に私の前に立て」と、2人にモーセと同じように私の前に立つようにと言ったのだった。実際、教会に問題が起きたときに、神様がこれを聞いて非難を受けている者と非難している者とを、共に神様の前に立たせるということは、具体的には、どういう場面なのだろうか。それは、すぐにどちらが正しいかの白黒を付けることではなく、じっと静かに非難をする者もされる者も、共に礼拝を献げ続けるということではないだろうか。批判された牧師も謙遜に主の前に立とうとし、批判した信徒も同じく謙遜に主の前に立つということではなかろうか。たとえ、その牧師を批判する者も、しばらくは、その牧師が語る説教を聞き続けよということかもしれない。共に礼拝を守り続ける中で、おのずから何かが現れてくるということなのであろう。
3人を前に立たせ、神様が特にミリアムとアロンに言ったことは、モーセは他の預言者のように、夢や幻によって神様の言葉を告げ知らせた者ではなかったことだった。神様と口と口を合わせて語り合い、神様の姿を仰ぎ見て言葉を語っていたことであった。モーセの、牧会者としてのあり方に間題がなかったとは言えない。しかし、それでもモーセは、神様と語り合い、神様の姿を仰ぎ見て牧会をした者だと神様は言われたのだった。
私は、牧師を絶対に批判してはいけないとか、その交代を求めてはならないとか、そのようなことを言うつもりはない。日本基督教団の教規にも、辞任勧告決議や解任の規定はちゃんと定められている。しかし、非難する者は、神様の前に謙遜にまず立たねばならない。そして、その牧師にいろいろな欠けがあり、教会の中に喜べない結果が表れていようとも、彼が主の姿を仰ぎ見ながら精一杯、聖書の言葉を通して神様・イエス様と語り合い、それを伝えようとしているのなら、それでもなお彼を非難することは「あなたたちは何故畏れもせず、わたしの僕モーセを非難するのか」とのお叱りを神様から受けることとなる。逆に言えば、日頃の牧会の姿勢が、精一杯「主の姿を仰ぎ見る」ことのないような牧師ならば、非難を受けるのは当然だということでもある。しかし、いずれにせよ、牧会者を非難することには、まずその人が謙遜に主の御前に立つことが求められるのである。そして、もしかすると、ミリアムがそうなったように、重い皮膚病を与えられるというようなことも起きるのである。ミリアムに起きたことを、私達はともすれば牧師批判への天罰のように受け取ってしまいがちである。しかし、私はそうではなく、何よりも神様の御前に立つということが、どれほど重いことなのかを教え示して下さったことなのだと思うのである。ミリアムは、あたかも神様の御前に立って語ることを偉いことのように、優越していることのように考えていた。しかし、それはどれほど重いことであろうか。時には、内面にあるいろいろなものが明らかにされ、あたかも重い皮膚病を背負うことにもなるのである。信仰共同体全体が、神様の御前に立つことの重大性を知らされて、新たな出発をしたのだった。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 7月9日(日)聖霊降臨節第6主日礼拝
16:01ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。 16:02どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。 16:03キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。 16:04命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。 16:05また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。 16:06あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。 16:07わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。 16:08主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。 16:09わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。 16:10真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。 16:11わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。 16:12主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。 16:13主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。 16:14アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。 16:15フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。 16:16あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。
1 2014年の9月からほぼ3週に一度のペースで耳を傾けてきた「ローマの信徒への手紙」も、いよいよ最後の16章に入った。1~2節は、ケンクレアイ(聖書巻末の聖書地図8によれば、コリントのすぐ南にあった町の)教会の奉仕者であったフィベという人を、ローマ教会の人々に紹介する文章である。おそらくは、このフィベが、パウロからのこの手紙を携えてローマを訪れたのだろうとされている。そして、3節から16節までは、ローマ教会の人々をひとりひとりあげてパウロが挨拶を送った文章である。
ここから私達は、どのようなことを読み取れるのであろうか。このよう性質の文章であるから高邁(こうまい)な教えが滔々(とうとう)と語られている箇所ではない。ただただ素朴に、ひとりひとりの名前が挙げられ、その人について、何か特筆すべきことがあれば、ごく短く申し添えられているだけである。しかし、そうであればこそ、まだ誕生して間もなかったごく初期の頃の教会が、どのようなことを大事にしていたかという息遣いとか特徴のようなものが素朴に伝わってくる感じがするのである。この名前のリストから幾つかの特徴が浮かび上がってくる。そのような特徴が、生まれて間もなかった教会に存在していたということは、そのような特徴を生じさせた本質というものが教会にあったということを物語っていると私は思うのである。そういった本質が、教会にあったからこそ、そのことをとても大事にし、それによって、ある特徴が生じていたのだった。
その本質とは、ひとえに教会が、イエス様を信じる二人または三人の者が集まってできた信仰共同体また礼拝共同体であったがゆえのものなのである。教会は、誕生したときから、このような本質を持っていた。そして今日まで持ち続けてきている。保ち続けているからこそ、この2000年の間に、数え切れない過ちや醜いことをし続けてきたにもかかわらず、存続することができているのだと思うのである。そして、これからも存続し続けてゆけるのではなかろうか。教会は、今のままでは消滅してしまうのではないかと昨今、危機感があおられることしきりである。しかしながら、私が思うのは、この2000年の間には、教会は、もっともっと存立の瀬戸際に立たされた時があったということである。ローマ帝国による追害の時期がそうであったし、宗教改革以前の教会指導者たちが富や権勢を誇った時期がそうであったし、宗教改革以後にペストが蔓延する中で力トリックとプロテスタント教会が何十年も戦争を続けた時期もそうであった。しかし、それでも教会は存続し続けてこられたのである。それはひとえに、教会が、イエス様を信じる二人または三人の者が集まってできた共同体だったからだと思うのである。その本質、その体を失わない限り、教会は消滅することはないのである。そして、その本質から生じてくるすばらしい特徴をも、失うことはないのである。私は、このような本質を持ち、そしてすばらしい特徴を持つ共同体の一員になれていることを、本当に嬉しく思う。この聖書箇所には、共同体の本質や特徴が滲み出ている。
2 さて、それではこのリストから浮かび上がってくる教会の特徴とはどういうものなのか。最初のフィベという人から数えて個人名だけが挙げられている人を数えると26人位になる。その中で、男性か女性かはっきりしない人もいる。およそ3分の1が女性であるという特徴を、まずあげることができる。フィベ、有名な夫婦であるプリスキラとアキラのプリスキラ、それから6節のマリア、7節のユニアス、12節のトリファイナとトリフォサ、13節のルフォスの母、15節のユリア、ネレウスとその姉妹。約1/3は女性であることは確かなのである。
今から2000年前のローマ帝国の社会が、女性をどのように扱っていたかは改めて言うまでもない。ローマ法の上では、女性は、男性家長の所有物に過ぎなかった。そのような時代社会にあって、教会においては、これほど女性が無くてならぬ位置を占めていたというのは、驚くべきことではなかろうか。勿論、女性だけが大切な役割を果たしていたわけではない。残りの2/3は男性なのだから、つまりは、男性と女性とがうまく協力しあって、それぞれの役割を果たしていたのが教会だったのである。当時の団体で、そのように男性と女性がうまく協力しあって、その中でも女性がなくてはならぬ役割を果たしていたようなものが他にあっただろうか。なぜ女性が、これほどまでに大事な位置を占めたかと言うと、そのような特徴を生じさせる本質が、教会という共同体に、もともと備わっていたからなのである。
もう一つ、この名前のリストから、はっきりとわかる特徴は、奴隷だった人々の割合がとても高いということである。これも正確なところはわからない部分もあるが、当時よく奴隷に付けられた典型的な名前があるので、そこから推測すると、半分までとはいかないが、3分の1を越える人々が奴隷だったと考えられる。私達の感覚では、奴隷という地位の人たちは、とても虐げられていて、自由のない人々と考えてしまいがちだが、医者など、相当に専門的知識を持った人々も奴隷であったと聞く。しかしながら、いかんせん奴隷であったのは確かなのであった。12章以降のパウロの文面には、奴隷だった人々が、ローマ教会に多くいたことゆえの、牧会的配慮に満ちた言葉が多く見受けられる。12章の書き出しの「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」との言葉は、奴隷としての信徒たちが、この世の主人に対して、自分をいけにえとして献げざるを得なかった現状が背景にあっての語りかけなのである。こういう人々が、女性と同じように大事な位置を占めていた特徴を持っていたのが教会だったのである。それは、とりもなおさず、この共同体が、奴隷の人々を多く招き入れ、大切な役割を果たさせるという本質を備えていたからに他ならない。
3 この2つの特徴に着目したい。このような特徴を生じさせた教会の本質が、いったい何であったのかということを考えさせられる。書き出しの1節「ケンクレアイの教会の奉仕者」という文章の中で「教会」という言葉が出てきている。またプリスキラとアキラについて述べた5節「彼らの家に集まる教会の人々」という言葉にも「教会」という言葉が出てきている。何げなく読み過ごしてしまう言葉であるが、フフィベという女性が奉仕者をし、パウロが挨拶を送った人々が属していたのは、「教会」という共同体なんだということが、まず語られていると思うのである。実は、この部分の注解書を読んで、私自身はじめて教えられたことだが、パウロが、このローマ書の中で「教会」─ギリシャ語の原文ではエクレーシアという言葉が─という言葉を使っているのは、ここがはじめてだという。エクレーシア、それは神様によって呼び集められた者の集まりという意味である。教会は、他の誰によってでもなく神様によって、またイエス様によって呼び集められ、呼び集めて下さった神様・イエス様を礼拝する共同体なのであった。
教会の本質がこのようなものであったからこそ、女性たちや奴隷たちが、特別に大きな割合で、この共同体に招き入れられた必然性というものがあったのではなかろうかと思うのである。女性たちにとっては男性家長が主人であり、奴隷たちにとってはこの世の主人が文字通りの主人であった。普段の生活では、彼らを主人とするところで生きるしかなかったのである。しかし、教会という共同体に、礼拝のために集まるときには、家長やこの世の主人の声によってではなく、神様・イエス様の呼びかけによって集められたのだった。礼拝を捧げているときだけは、この世の主人の支配から逃れて、神様・イエス様を主人として仰げる時なのであった。それがどれほどの喜びであったかは、想像に難くないのである。
パウロは、12章の書き出しで「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして神に献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」と語ったが、普段の生活においては、この世の主人へのいけにえとして自分を献げるしかなかった奴隷の人々が、唯一神様に自分を献げられる時が、礼拝だとの語りかけなのである。それを神様は、聖なる犠牲として大いに喜んで下さるのだと言うのである。他にどのような犠牲もいらないというのである。礼拝を献げるということを神様・イエス様が喜んで下さる。そのことが、どれほど奴隷や女性たちに嬉しいことだったかは、想像に難くないのである。
4 重ねて注目したいのは、神様・イエス様に呼ばれて、そこで作るのは、他でもなく礼拝共同体だという点である。それ以外のものを作るのではなかった。ここが大事だと思う。改めて着目すると、5節に「彼らの家に集まる教会」とある。礼拝共同体を作ることが主限であったのだから、プリスキラとアキラの家でもよかったはずである。恐らくは、彼らだけの家ではなく、ここに挙げられた人々の家の幾つかが教会でもあったのかもしれない。ローマ教会と言っても、今日のようにバチカンの壮麗な礼拝堂があったわけではなく、信者の何軒かの家が教会なのであった。とにかく礼拝共同体を作ることが主限だったのだから、そのような家でもよかったのである。だからこそ、ここまでリストに名前があがるほど、女性や奴隷の人々が大切な役割を果たし得たのではなかろうか。もしも今日のように大きな礼拝堂が不可欠というのなら、その共同体にとって、大きな役割を担うのは、どうして社会的・政治的・経済的に力を持っていた人だけだったはずである。女性たちや奴隷たちが、このように名前を挙げられることはなかったであろう。しかし、主眼は礼拝共同体を作り上げることなのであった。教会が、礼拝共同体であるとの本質から、女性や奴隷であっても、自分の住んでいる家を提供するというような形で、重要な役割を果たせたのであった。そこに、彼らは喜びを見いだしていたのである。
この本質と特徴を私達は今もちゃんと保っているのかと問われている。「このままでは、教会が消滅してしまう」との危機感には、たとえ家に集まるような教会であろうとも、礼拝共同体を作るのが主眼なのだという核心が見失われているように感じるのである。これまでと同じ規模の教会を維持しなければとか、大きな礼拝堂を持たねばと思ってしまっているのである。それは、教会が最初から授かっていた本質を見失ってしまうことなのである。家であってもよいのである。プリスキラとアキラが、転々と引っ越していった家が、いずこも教会となっていった。難儀な生活を強いられた夫婦が中心的な役割を果たし得たのが、教会であった。この本質と特徴を失ってはならないのである。
5、最後にもう1点、この名前のリストから浮かび上がってくる特徴についてであるが、これは、フィベをはじめとして特に女性について言われていることなのだが、1節には、フィベは「教会の奉仕者」とあり「援助者」だったとあった。プリスキラとアキラについても「命がけでわたしの命を守ってくれた」とあり、6節ではマリアという人が「あなたがたのために非常に労苦した」とあり、12節では「主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサ」、「主のために非常に苦労した愛するペルシス」とある。具体的にどういう奉仕・援助・苦労だったのかは分からないが、恐らくそれは、まず何よりも礼拝共同体を作りあげ、その場所を守るための苦労だったと思うのである。そして、礼拝共同体を大事にしたからこそ、礼拝に来ようとしても来られない人々の衣食住を援助するような奉仕・援助・労苦を指していたのではないかと感じるのである。そういった奉仕や援助を担ってくれたのは、女性が多かったのではなかろうか。また、そういった大変さを自分のこととして知っている奴隷たちが、それを熱心にしてくれたということがあったのではなかろうか。
こうして、礼拝共同体を形成しようとしたからこそ、教会は最初から、奉仕や援助や、そのことにおける労苦を、とても大切にしてきたことがうかがわれるのである。礼拝共同体を作ることと全く無関係に、広く不特定の人々にまで奉仕や援助をしたのではなかったであろう。そのような余力はなかったはずである。このように、教会が誕生して間もない時から、大事にしてきたことを、私達も失ってはいけないとしみじみ思うのである。これを失わないことこそが、教会という共同体を、いつまでも存続させてゆく秘訣なのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 7月2日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝
01:35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 01:36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 01:37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 01:38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 01:39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 01:40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 01:41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 01:42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
1 イエス様に従う最初の3人の弟子たちの誕生の様子が記されている。著者ヨハネは、西暦100年頃のエペソ周辺の人々にイエス様が救い主であると宣べ伝えようとして、この福音書を書いた。プロローグの部分では、その目的のためにどのような言葉を使つたらよいか熟考に熟考を重ねて、ロゴスという用語を用いた。どのようにしてイエス様を信じる者をこのエペソの町で起こそうかと熟慮していた著者が、いよいよイエス様の最初の弟子たちが誕生した場面を書くからには、どれほどの思い入れを込めてそのシーンを描いたか、想像に難くない
。さて、書き出しの35節には、イエス様の最初の弟子となる二人のことが書かれている。そもそも洗礼者ヨハネと一緒にいた(つまり彼の弟子)ことが書かれている。これは、他の3つの福音書には全く記されていない。このヨハネ福音書だけが記している。二人のうちの一人は、アンデレ。かのペトロの兄弟であったと書かれている。もうひとりの人の名前はかれてはいないが、この人こそ、他でもないこの福音書を書いたヨハネではないかと昔から言われている。
この場面で洗礼者ヨハネと一緒にいた二人が、ヨハネのもとを離れてイエス様に従うようになったきっかけは何か。それは洗礼者ヨハネがイエス様のことを「見よ、神の小羊だ」と言ったことによる(36節、37節)。29節でも、ヨハネはイエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言って証しをしていた。「神の小羊」という証しを聞いて、もしかしたらこの福音書の著者のヨハネ自身が、もともとの師を離れて、イエス様に従う者となったというのである。著者ヨハネは、とても大事なこととして記したのではなかろうか。
紀元30年頃、洗礼者ヨハネは、超のつく有名人であった。紀元100年頃のエペソにおいても、洗礼者ヨハネは既に故人ではあったが、名が知れていたことは間違いなかった。超有名人と一緒にいた弟子は、その師にとても強い力で結び付けられていた人である。弟子と師とのそのような絆を解くことは本当に大変なことであり、そのためにはどれほど強い力や巧みな説得が必要であったかと考えられる。しかし、そうではなかったとヨハネは自分自身のこととして告げている。巧みな伝道でもなく、ただ「神の小羊だ」との証言を聞くことが、私とアンデレとを捕らえたのだと著者ヨハネは証ししたのだった。
これは、この福音書の読者たちにとっても、今の私達にとっても、本当に励ましとなる。開拓伝道や小規模教会の運営にかかわる苦労は並大抵のものではない。どのようにして信者を増やしたらよいかと、どうしても考えざるを得ないのだが、直面するのは伝道の困難さなのである。人々はそれぞれの絆においていろいろな人と一緒におり、その絆はとても強い。そういう人々を、どのようにしてイエス様を信じる者にできるのか。どのような巧みな方法があるのだろうかと、当時この福音書を読んだ人々も、私達も悩む問題なのである。これに対してヨハネは、いや、ただ「神の小羊」と言ったらよいのだと励ました。洗礼者ヨハネの証言を聞いた2人の弟子が、二人ともイエス様に従ったとある。実はこの二人の背後にはヨハネの証言を聞いても全く意にも介しなかった多くの人々がいたのではないかと想像できる。何千何万の人がこれを聞いたのに、たった二人の者しかそれに心を動かされなかったとも言えるのである。しかし、たった二人から始まって、その内の一人の兄弟がさらに弟子となり、今日の何十億人のクリスチャンが誕生したのだった。はじまりはいつも二人三人なのである。ごく僅かな者が、イエス様が「神の小羊」であることに心動かされればそれでよく、そのような者は必ずいるのだから安心せよと、ヨハネは告げているのである。
2 では、「神の小羊」という証言にどのようなことが込められていたのか。29節に「世の罪を取り除く神の小羊」とあった。「世の罪を取り除く」が省かれて、ただ「神の小羊」とされた点について、著者ヨハネにどういう意図があったのかは知る由もないが、今の私達にとって、ある示唆を与えてくれるように思う。
私達にとって、どうしても「罪」とは犯罪や、何か悪いことをするということとして受け止められてしまう。多くの人々にとって、イエス様が「罪を取り除く神の小羊」だと言っても、何のことかピンと来ないところがある。より人々にわかりやすくするために、「罪を取り除く」という言葉を削っても0Kだろうと、ヨハネは言ってくれているように感じる。必ずしも「世の罪を取り除く神の小羊」と、言葉通り証しする必要はないのである。要は、そこで言わんとする事柄・内容が伝わればよいのである。
私は、罪ということを、病気ということにたとえさせていただいている。「神の小羊」という言葉の典拠となっているイザヤ書53章4節に「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」とあることから、罪を病にたとえるのは間違いではない。イエス様が罪を取り除く神の小羊であるとは、何らかの意味で、イエス様が自分の生命を犠牲にして私達の抱えている病気を治して下さるということを意味しているのである。イエス様の健やかさが、達の病んでいるものと交換され、あるいは移植されて、私達の病いが神の小羊たるイエス様に背負っていただくことを意味しているのである。イエス様が神の小羊であることに、必ずや心を動かされるわずかな人はいるのだから、安心してこれを語ればよいのだと著者ヨハネは自分自身の体験をもって励ましてくれているのである。
3 こうして、洗礼者ヨハネの二人の弟子はヨハネのもとを離れてイエス様に従ったのだった。一方、イエス様は「何を求めているのか(これが記念すべきこの福音書におけるイエス様の最初の言葉)」と尋ねたという。この言葉から受ける印象は、せっかく自分に従ってこようとする者が二人もできたというのに、それをわざわざ突き返してしまうような感じを抱いてしまう。
自分に弟子ができたなどとは、イエス様は喜んではいなかった。むしろ改めて、あなたがたは何を求めて従おうとしているのかと、問い詰めたのだった。この福音書の6章66節以下に「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とある。もし間違ったものを求めてイエス様に従うのであれば、いずれ離れ去るしかないときが来る。だから、今そのスタートにおいてこそ、何を求めて従うのかとイエス様は再確認をしたのであった。イエス様が与え得るものは、あくまでも神の小羊としてのものでしかないのである。神の小さな小羊である存在が持っている小さな体や生命を犠牲にして、私達ひとりひとりを健やかにすることでしかないのである。ローマ帝国を滅ぼすとか、新しい王国を起こすとか、そういったことではないのである。
しかしまた、イエス様が「何を求めているのか」と最初の言葉として語ったということは、私達がイエス様に「求める」ということを大いにしてよいのだと言って下さっていると思うのである。イエス様に私達が従ってゆくという間柄のその始まりは、求めることにあると認めて下さっていると思うのである。「求めよ、さらば与えられん(マタイ7章7節)」とイエス様は言われた。私達がイエス様に従ってゆくのは、ひとえに何かを求めての関係なのである。もしかすれば、私達が求めているものは、神の小羊であるイエス様が与られないものかもしれない。しかし、その場合には、神様の側すなわちイエス様の側で、それを正してくださるのであろう。神の小羊である以外のものは、おのずと与えられることはないであろう。とにかく、求めることが大事なのである。求めることで始まってゆく関係なのである。信仰とは求めることなのである。
4 このように声をかけられて、二人の弟子は「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねた。すると、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」と言い、二人はついて行き「どこにイエスが泊まっているかを見た。そして、その日はイエスのもとに泊まった」と書かれている。「何を求めているか」との最初の問答の直後にどうして「泊まる」という会話がここまでなされたのか、そこに著者ヨハネがどのような思いを込めたのか汲み尽くすことはできない。しかし神の小羊としてのイエス様に従ってゆく人生とは、イエス様と一緒に泊まる人生なのだとの語りかけではないかと感じるのである。
ここで出来事そのものとして記されているのは、わずか一泊を共にしたということだけであるが、意図としてはイエス様に従ってゆく歩みとは、ずっとイエス様と一緒に泊まる人生なのだと思うのである。泊まるとは、いいところだけではなく、疲れた姿や丸裸になるときなど、要は自分のすべてを見せることを意味しているのである。「来なさい」とは、一種のプロポーズのようなものかもしれないと感じた。ここにこそ、洗礼者ヨハネの弟子の生活との決定的な違いがあったのではないかと感じるのである。二人の弟子がこれまで一緒にいた洗礼者ヨハネの生活は荒れ野の生活であった。厳しい生活であった。「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた(マルコによる福音書1章6節)」とある。普通の人が一緒に寝起きができる生活ではなかった。しかし、イエス様はそのような人ではなかったのであろう。普通の人が一緒に泊まれるような生活だったということであろう。私達のありのままの生活を共にして、その病むところ悪しきところをそのまま見せて、悪い部分や弱いところを肩代わりしていただいてよい歩みだったのであろう。長い一生をかけての、それこそ夫婦のような歩みではなかろうか。
一夜を共にして、どのようなことがアンデレにわかったのだろうか。恐らく翌日、彼は兄弟のペトロに会って「わたしたちはメシアに出会った」と言ったのだった。すると、ペトロは早速イエス様のもとにやってきた。イエス様は、彼を見つめて「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(「岩」という意味)と呼ぶことにする」と言われたのだった。神の小羊たるイエス様に出会って、長い生涯を共にするとき、私達は徐々に健やかにしていただいて、自らが神様からいただいている使命や可能性のようなものを実現してゆけるようになることを、イエス様はペトロに告げて下さったのであろう。おっちょこちょいでお調子ものの彼が、弟子たちのリーダーとなって「岩」のような働きをするものとなるというのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 6月25日(日)聖霊降臨節第4主日礼拝
11:01民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った。主はそれを聞いて憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を端から焼き尽くそうとした。 11:02民はモーセに助けを求めて叫びをあげた。モーセが主に祈ると、火は鎮まった。 11:03主の火が彼らに対して燃え上がったというので、人々はその場所をタブエラ(燃える)と呼んだ。 11:04民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。 11:05エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。 11:06今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」 11:07マナは、コエンドロの種のようで、一見、琥珀の類のようであった。 11:08民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった。 11:09夜、宿営に露が降りると、マナも降った。 11:10モーセは、民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた。主が激しく憤られたので、モーセは苦しんだ。 11:11モーセは主に言った。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。 11:12わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。 11:13この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。 11:14わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。 11:15どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」 11:16主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたが、民の長老およびその役人として認めうる者を七十人集め、臨在の幕屋に連れて来てあなたの傍らに立たせなさい。 11:17わたしはそこに降って、あなたと語ろう。そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。
1 民数記がそう呼ばれるようになったのは、この書の中に2回、イスラエル人の人口が数えられたという出来事が記されているからである。1回目の人口調査は、1章1節以下「イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第2の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった。『イスラエルの人々の共同体全体の人口調査をしなさい。』」とある。この結果、兵士となれる男性だけの人数が60万3550人だったと1章46節にある。「はたして男性だけでもこれだけの人が、エジプトを脱出してアラビアの荒れ野に入ることができるだろうか。また荒れ野で生活できるだろうか。」という難題はいまだに解決されてはいない。それはともかくとして、2回目の人口調査は、シナイの荒れ野に入ってから、ほぼ40年弱経った頃になされた。それについて、26章に書かれている。その最後によれば「その中には、モーセと祭司アロンがシナイの荒れ野でイスラエルの人々を登録したときに登録された者は一人もいなかった。主が、彼らは必ず荒れ野で死ぬと言われたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて、だれも生き残った者はいなかった」とある。人数は、26章51節によれば、60万1730人だったとのことである。エジプトを脱出した第1世代とも言える人々は、モーセとカレブとヨシュアの3人以外には、誰も生き残ってはいなかったということなのである。
このように、2回の人口調査が行われたということから、伝統的に民数記と呼ばれているのである。ユダヤの人々は、民数記の書きはじめの言葉そのものをとって「バミズバール」と呼んでいるとのことである。それは「荒れ野にて」という意味である。これらのことからすると、民数記とは、エジプトを脱出したイスラエルの人々が荒れ野の40年間をいかに過ごしたかを記した書物であり、特にエジプトを脱出した第1世代とも言うべき人々が、指導者のモーセ以外にカレブとヨシュアを除いてなぜ生き残ることができなかったかを記す書だと言ってよいと思う。神様はエジプトの国から、すなわち奴隷の家からイスラエル人を導き出した。神様は、二度と彼らが奴隷とならないために、その処方箋として十戒を与えたのだった。レビ記は、その処方箋を補うためのものだった。そうであるならば、イスラエル人は、病気にかかることなく、健やかに目的の地に至ることができたはずである。しかし、荒れ野の40年間は、たやすい歩みではなかったのである。いかにすばらしい処方箋であっても、すばらしい薬を与えられても、どうしても病気にかかってしまわざるを得なかったのであろう。そこで、荒れ野で、彼らがどのような病気にかかってしまったかを記したのが民数記なのである。
2 しかし、また別の捉え方もある。1回目と2回目の人口調査の人口の差に注目すると、1回目は60万3550人であった。それから40年弱たった2回目では60万1730人であった。その差はわずか2000人弱である。男性だけだが、第1世代がたった3人を除いてすべて滅びたにもかかわらず、荒れ野での苛酷な40年間の歩みの結果、たった2000人弱しか男性の人口が減らなかったというのは、驚きではなかろうか。一体これを可能にしたのは何だったのかと思う。確かに彼らは、病気にかかった。神様の怒りにふれて死んでしまったようなことが、たびたび起こった。それでもなお神様は、イスラエル人を見捨てなかったからだと思うのである。彼らは「マナしかない」と不平不満を言った。これに対して「そんな不平を言うならマナも与えない」と神様に言われたら、イスラエル人は荒れ野で滅びるしかなかったはずである。民数記は、40年の荒れ野の歩みの中で、イスラエル人がどのような病気にかかって死んでしまったかを記す書であるが、同時に、それでも神様が、彼らを守り、次の世代の者を起こして下さったこと記す書でもある。荒れ野の40年間で、たった2000人弱しか男性の数が減らなかった不思議を記す書物でもある。
この40年という数字に、私達は、この筑波学園教会の歩みや、ひとりひとりの信仰生活の年月を重ね合わせることができるのではなかろうか。ちょうど私達の教会は、来年の3月に創立40周年を迎える。それはまさに荒れ野の40年というべきものではなかったか。教会が分裂しかかったときもあり、赴任したばかりの牧師が2年目になったばかりのときに辞任を表明したこともあった。また無牧の1年も経験した。教会が創立されたばかりのときのメンバーは、わずか数人となってしまった。本当に、この40年は、いろいろな病気にかかってきた期間だったのである。それでも、この教会は、今日あるを得ている。一時期の頃と比べれば、確かに会員数や礼拝出席者は減ってきている。しかし、第2世代は起こされているのである。新しい人たち加わっているのである。民数記の学びを通して、私達の教会だけではなく、世の多くの教会が、どのような病にかかり、何が信仰共同体を危機に陥れるかを学ぶことができる。そして、そこから、私達を脱出させてくれるのは、どのような神様の導きなのかを学ぶことができる。神様は、それでも教会を愛して下さっていることを知ることができる。また、ひとりひとりの信仰の歩みにおいても、どのような病気にかかるものかを教えて下さり、そこから癒されるすべをも教えてくれているのである。
3 さてそこで、4節以下─11章以下は、イスラエルの人々がそれまで宿営していたキャンプ地を旅立って、いよいよ目的の地へと進みはじめた姿が描かれてゆくところだが─人々は、旅をはじめて、すぐさま「誰か肉を食べさせてくれないか」と不満を言い始めたとある。「エジプトでは・・・どこを見回してもマナばかりで何もない」と言ったのだった。
マナというのは、へブル語で「これは何(What)?」という言葉のもとになっている。不思議な食べ物である。最初に、これがイスラエル人に、神様から与えられたことが記されていたのは、出エジプト記の16章である。それは名前の通り、とても不思議な食べ物で、9節に「夜、宿営に露が降りるとマナも降った」とあった。夜露と同じような性質を帯びたものだった。イスラエル人は、毎日毎日、それを集めねばならなかった。翌日の分をためようとしたり、人よりも多く集めようとしたりしても、夜露と同じで、それはできなかった。ただ、翌日が安息日という日には、翌日分も集めることができた。
人々が食べたいと言った「肉」というのは、このマナとは対照的な性格をもっている食べ物を指しているのではないかと思う。マナと違って肉は、毎日集めずともよい食べ物なのである。蓄えることができ、また人よりも多く集めることができる糧なのだと思う。神様からいただいたうずらを、人々は食べて、それも食べきれないほど集め蓄え、食べて、激しい疫病が起こり、その場所は、貪欲の墓と呼ばれた(31節以下)。人々が求めていた食べ物とは、単なる肉やメロンやニン二クではなく、その食欲を満たしてくれるようなものだったのである。
信仰共同体である教会も、信者である私達も、どうしてもこのような肉を欲してしまう存在だということが記されているのである。教会において、また信仰の歩みにおいて、この世の王様のもとで生きているのと同じ食べ物を求めてしまうことがある。それはマナとは違って、蓄えたり多く集めたりできる。私達の貪欲を満たすような食べ物である。しかし、そうしたものを食べるなら、31節以下にあるように滅んでしまうのである。信仰がだめになり、教会生活がストップし、信仰共同体としての教会から離れてしまうのである。信仰者としての墓が建つことになるのである。私の父が、かつて会堂の移転を巡って牧師や他の役員たと対立し、10年以上も教会から離れてしまったことを何度か話したと思う。まさにそれは、父の食欲に由来していたのである。湯沢教会の創立当初から関わっていた父にとっては、皆が自分の考えに従って当然という思いがあったのであろう。
信仰共同体たる教会、また信仰の歩みにおいては、このような食べ物は糧となることは決していのである。肉とマナとは両立しえないのである。マナというのは、信仰生活において、神様から日々にいただく食べ物なのである。それは、日々聖書に親しみ、祈り、毎週毎週の礼拝生活によって、やっと与えられるものなのである。ためることはできない。露と同じように、本当にかすかなものなのである。教会生活において、また信仰生活において、このマナは決して私達の貪欲を満たすことはない。私達に、偉さを誇らせたり、豊かにならせたりということを成就するものではないのである。それを教会生活や、信仰生活の中で求めたとたんに「貪欲の墓」という墓ができるのである。
4 さて、肉を食べたいと不満を爆発させた人々に対して、指導者であったモーセが、とても苦しんだことが10節以下に書かれている。このモーセの受け止め方については、いろいろな批判がされている。私がまず、何よりも思うのは、モーセは、肉を食べたいとの人々の不満に対して「肉を食べさせねば」と応じようとして苦しんでいたということである。13節には「この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのか」と嘆いたことが書かれている。だから、モーセは、人々の訴えを満足させることは「重すぎる」と嘆いたのだった。
しかし私は思う。モーセは、決して民の不満をそのまま聞いて、その願い通りに満足させる必要はなかったのだと。むしろ、そうしてはいけなかったのである。荒れ野の生活は、肉を食べる生活ではなかったはずである。信仰生活は、マナによって生きる生活なのである。モーセが、このように民の不満に応えようとしたのは、彼自身が指導者として、民に気に入られたいという思いがあったからだと思うのである。そのような欲を、指導者自身が抱いてしまっからこそ、そこに人々は付け入ってきたのだった。
7月の『信徒の友』では、「教会がうまくいかないとき」という特集が組まれた。巻頭の文章には、「特に牧師などは、逃げ場がないというか『ここしかない』という思いになって、『とにかく何とかする』『自分がなんとかしなくては』『こうでなければ』となりがちです」と書かれていた。この「牧師としての自分が何とかしなくては」という思いの中には、教会で生じている人々の不満や間題に、そのまま真正面から「応じなければ」「応えなければ」という思いがある。そのように会員の不満をうまく解決して牧師としての評判を得たいということなのである。しかし、会員が抱いている不満とは、しばしば信仰共同体たる教会、すなわち荒れ野を旅する共同体としては、解決など、されえない問題であることもあるのではなかろうか。それを、解決すべき間題として取り上げること自体が、信仰共同体としては、おかしなことだと言えるるのではなかろうか。
5 神様は、モーセに、どのように応じなさいとアドバイスしたか。肉を食べたいとの不満には、18節以下で、神様が自ら応えた。そして、その結果は、病にかかって死んだ人の墓が建てられるという結末となってしまった。肉を食べたいとの不満には、モーセではなく、神様が神様のなさり方で応えて下さった。それは私達のできることではない。
モーセがなすべき対処は、肉を食べさせることではなかったのである。それとは全く別の対処を神様によって勧められた点に心を寄せられる。それは16章17節にあるように、70人の者を集めて臨在の幕屋に連れてきて、モーセの傍らに立たせたということである。するとモーセに授けてあった霊の一部が、その70人に分け与えられたという。これは、つきつめれば、どういうことなのか。「あなたと一緒に神様の前に立って礼拝をする者を起こせ」ということではなかろうか。肉ではなく、神様から与えらた聖なる霊を食べる喜びを味わう者をあなたと共に起こせということであろう。信仰共同体として、また荒れ野を歩む信仰者の歩みとして、礼拝を守り、聖霊をいただいて歩むこと、しっかりと立つことが、問題の解決となるのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 6月18日(日)聖霊降臨節第3主日礼拝
15:22こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。 15:23しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、 15:24イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。 15:25しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。 15:26マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。 15:27彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。 15:28それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。 15:29そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。 15:30兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、 15:31わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、 15:32こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。 15:33平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。
1 タイトルに「ローマ訪問の計画」とあるように、パウロが思い描いていた幾つかの計画や夢が書かれている箇所である。それはどのようなものであったのか。まず、パウロが何よりも強く抱いていたのは、イスパニア、つまりスペインに行きたいという夢であった。そしてその途中、これまで「何度も行こうと思いながら妨げられてきた」ローマ教会を訪問したいと願っていた。ただ、そのときパウロは「しかし今は(25節)」とあるように、エルサレム教会の人々に献げられた募金を携えて、エルサレムに行こうとしていた。27節に「義務」という言葉がある。夢や願いというよりは、目下のところ果たさなければならない責任として考えていたことなのかもしれない。それを果たし終えてからローマを訪ね、そこからスペインへと送り出してもらいたいと願っていたのだった。このような願いがかなえられるよう、自分のために祈ってほしいと書かれている(30節以下)。「ユダヤにいる不信の者たちから守られ」ること、つまりパウロを憎んでエルサレムで虎視眈々と彼を待ち受けていた人々から守られることを願っていた。また、エルサレムの人々への献金が歓迎されるように願っていた。そして「神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように」と願っていたのだった。
私達には、当時パウロが抱いていたこのような願いのうち、どれが実現し、また実現しなかったのかが、半分はかなえられたけれども半分はかなわなかったということがよくわかる。使徒言行録の21章以下に書かれていたことだが、弟子たちの反対を押し切ってエルサレムへと入ったパウロは、彼を憎む人々によって捕らえられ、ローマ総督のもとで2年以上にわたって未決囚として拘置された。だから「ユダヤにいる不信の者たちから守られ」という願いは、文字通りには実現せず、しかし殺されることから守られるという点では実現したのだった。ローマ総督の下で監禁されたからこそ、その命が守られたのだった。その後、パウロ自身がローマ市民として皇帝のもとでの裁判を望んだので、ローマへと護送され、使徒言行録の最後(28、30-31)によれば、「パウロは自費で借りた家に丸2年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」ということである。その後のパウロがどうなったかについては、諸説ある。一般的には、殉教の死を遂げたとされている。だから、スペインに行きたいというパウロの夢は、ついぞ実現することはなかったのである。「喜びのうちにそちらに行き、憩う」ということも、文字通りにはかなえられたとは言えないだろう。しかし、このような形でではあったが、これまで決して実現しなかったローマゆきと、ローマで福音を宣べ伝えるという願いは、かなえられたのだった。夢が破れることを通して願いがかなうということが、あったのである。別の言い方をすれば、夢が破れることと願いがかなうことは、組みひものように織り合わさっているものなのである。
2 私達は、このようなパウロの生涯に、私達のそれをも重ね合わせることができるのではなかろうか。マルチン・ルーサー・キング牧師の「汝の敵を愛せよ(Strength to Love)」という説教集の中に、「破れた夢」という題の説教がある。それは次のように始まっている。「われわれ人間の経験のうち、最もつらい問題の一つは、自分の一番大きな希望が実現するのを生きて見られる者は、いるにはいても、われわれのうちほんの少数の者にすぎないということである。われわれの子どもの頃の希望や成人してからのいろいろな約束は、いずれも未完成の交響曲ともいうべきものである。・・・どこか遠いスペインに向かって、またはある重大な目標や輝かしい希望実現を目指して出発しながら、最後になってあまりにも僅かな成果に甘んじねばならなかったという人が如何に多いことか」と。
私は、教団の教師委員会のメンバーとして、40人ほどの今年新たに教団の補教師達のための研修会を実施してきている。先週の月曜日から水曜日までの今回は、3回目となる。自分が教師になりたての者だった頃に、この会に参加したときのことを思い起こす。大した夢ではなかったが、私なりの夢を抱いていた。しかし30年経った今でも、それは実現されてはいない。むしろ、当時思い描いていた願いとは正反対の境遇に置かれているとさえ言わざるを得ない。帰りぎわに、耳に入った言葉にショックを受けた。私が関東教区の副議長になったことについて、「あいつはそんなにもやりたいのか」と言っている人がいるという。むしろ、私の願いはこうした重荷を背負うこととは無関係のところに身を置くということだった。茨城地区の地区長になることも、諸川伝道所の代務者を引き受けることも、ましてや関東教区の責任の一端を背負うことも、教団の委員になることも、私の夢には含まれてはいないことだった。それを背負うことは、私にとってはむしろ、夢破れることなのである。
しかし、このように夢が破れることを通して、かえって私達の願いが、かなえられてゆくということがあるのではないかということである。私達の抱く夢が、残念ながら破られることにこそ、私達の願いが実現しているという不思議な側面があることに気づきたいのである。夢が破れることは、決して悲しいことばかりではないのだと、聖書は語りかけてくれているのである。
3 では、パウロの夢が破られてゆくことを通して、どのようなことが実現していったのか。まず注目させられたのは、23節の「もうこの地方に働く余地がなく」という言葉であった。「余地」と訳された言葉は「トポス」という言葉である。この言葉には、可能性というような意味もある。具体的には、どのような事情を指していたのかはよくわからないが、とにかくパウロは、小アジアやギリシャ地方での働きに、もう可能性がないと見限って、だからこそスペインに行きたいとの夢を抱いていただった。パウロほどのすばらしい伝道者であっても、自分だけの勝手な判断で「この地にはもう可能性がない」と見限ってしまうようなことがあったのだった。そのような「見限る思い」から生じたスペイン行きへの夢なのであった。その夢は、かなえられることはなかった。夢破れることを通して、今の自分が置かれているところに可能性がないと勝手に考えてしまったことにより、神様から「違う」と言われることが実現したのであった。
私達も、自分自身の人生に対して、また置かれている境遇に対して「トポスがない」と見限ってしまうことがしばしばある。そこから、新たなトポスを求めてしまうのである。先日の新任教師オリエンテーションの2日目の朝礼拝で、ひとりの教師委員が説教を担当した。彼は、比較的短期間に、奉仕する教会を変わってきた牧師だった。その経緯を率直に語ってくれた。「教会に地獄を見た」とさえ彼は言った。その説教への感想は様々だった。しかし私は、彼とは正反対で、郡山教会に24年間居続けた。その間、私も「トポスがない」と思ったことは何度かあった。しかし、そのたびに「それは違うのだよ」ということを示された。そのおかげで24年間留まることができた。「もうここにはトポスがない」と私達が思ってしまうような境遇や人生であっても、神様は必ずトポスを与えて下さるのである。
4 もうここにはトポスがないと思って、ローマやスペインに行きたいと願っていたパウロに、神様が示して下さった道が25節以下に書かれている。パウロは、ローマやスペインに行きたいと願いつつも、「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」と25節で言っている。自分の願いを一旦止めて「しかし今は」果たせねばならぬことがあるからそれを果たそうと言ったのだった。そのことによりパウロは、スペイン行きの夢は、とうとう最後まで実現しないままになってしまった。しかし、それとは反対に、これまで何度も妨げられてきたローマ行きの願いはかなえられることになったのだった。「トポスがない」と言って、ローマやスペインに行こうとしていたら、ローマにゆくことさえもかなえられることがなかっただろうと思う。しかし、そのときパウロの目の前にあった果たすべきことをなすことで、結果的には、未決囚として護送されるという立場ではあったが、ローマ行きがかなえられたのだった。私達にもそういうことがあるのではなかろうか。
さて、まさにそのとき、パウロが果たそうとしていたのは、「聖なる者たちに仕えるためにエルサレムに行く」ことであった。エルサレム教会の人々は、地理的な特殊性もあり、またユダヤ教徒から度々迫害を受けて貧しい生活を強いられていた。27節に「異邦人はその人達の霊的なものにあずかった」とある。福音の根幹にあるイエス様の言葉やふるまいを伝えてくれたのはエルサレム教会の人々なのであった。彼らから受けた恩義を返すのは、自分たちの義務だとパウロは考えていた。パウロの手紙には、しばしばエルサレム教会の人々への募金のことが書かれている。「まず今はこれを果たさねば」とパウロは思ったのだっ。それを果たすことが、もしかしたら自分の身の上に災いをもたらすかもしれないとわかっていても、パウロは、そうせねばならないと考えていたのだった。このことが彼をして、「トポスがない」と言ってローマやスペインに行こうとすることから守ったのだった。結果的にはローマ行きへの願いがかなえられたのだった。
私達にも同じことがあてはまるのではなかろうか。トポスがないと思う人生ではある。しかし、そこにも「しかし今は」果たさねばならぬ義務というものがあるのではなかろうか。また、周囲にいる貧しい人々─それは経済的に貧しいというだけではなく、心の上で貧しさを抱えている人々をも指している─を、何らかの意味で援助するという働きがあるのではなかろうか。私は、地区や教区や教団の奉仕をすることは、これまで30年にわたって、私を牧師としてあらしめて下さった教会に対して果たすべき義務なのだと示された。来週もまた、週の前半を地区と教区の奉仕の為に費やすことになるだろう。身体が、あちこち悲鳴をあげている。しかし、このような思いで、このことに当たっているのだということを理解いただきたい。
そして、貧しい人々にに仕えるという点も大事である。かの新任教師オリエンテーションの3日目の朝に、牧会生活50年の大先輩牧師による「牧会講話」があった。最後のはなむけの言葉として、先生は「教会の内外にいる弱い立場の人々に心を向けてほしい」と言われた。心に響いた。この2000年の教会の歴史において、牧師や信従たち、そして教会が、どれほど「もうトポスがない」と叫んでしまうような状況に置かれてきたことか。そのような中で、教会や信従たちは、このパウロのように貧しい人々を援助することに仕えてきた。「貧しい人々」を聖なる者と呼び、彼らに仕えることに何か聖なるものを見いだしてきたのだった。そのようにして牧師も信徒も教会もトポスを見いだし、結果的には願いをかなえられてきたのではなかろうか。
パウロがロにした最後の願いは「神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができる」だった。スペインに行きたいという夢は破れたが、この願いはかなえられたと言ってもよいのではなかろうか。どんなに私達の抱く夢は破れても、神様の御心に沿い、それによって出合わされた人々と喜びを分かち合い憩うことは、できるのである。そこからかなうトポスは、どんなところにもあるはずなのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 6月11日(日)聖霊降臨節第2主日礼拝
06:25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 06:26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 06:27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 06:28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 06:29しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 06:30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 06:31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 06:32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 06:33何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 06:34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
1 私の世代は、文語訳聖書を読んだ世代ではないが、私自身は、比較的早くから文語訳の言葉に魅了されてきた。豊後訳聖書の26節には「空の鳥を見よ。蒔かず、刈らず、蔵に収めず、にもかかわらず天の父はこれを養いたまう」とあり、最後の34節は「明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩らわん。一日の苦労は一日にて足れり」とある。
このように多くの人々を魅了する、すばらしい言葉ではあるが、イエス様のおっしゃろうとするところを、私達が正しく受け止めることができているかと言うと、何十年と、この言葉に接しながらも、はなはだ心もとないという感じがするのである。「空の鳥・野の花を見よ」と言われても、結局は、我々は人間なのであって、鳥や花のようには生きられるわけがないと思うかもしれない。空の鳥や野の花を見ることに一体何の意味があるのだと思うかもしれない。蒔かず刈り入れず倉に収めな空の鳥のように私たちがすることなど到底不可能だと思うかもしれない。今の日本では、子どもたちの6人に1人が貧困状態にあると言われている。そのような境遇にあって、将来を思い煩うのは当たり前のことではないかと思うかもしれない。そういう状態に置かれた人々に、このイエス様の言葉は何を語りかけているのか。空の鳥が蒔かず、刈り入れずとも生きられるのだから、何もせずともよい、思い煩うな、ということなのであろうか。
2 イエス様は、決して私達人間が空の鳥や野の花と全く同じ存在であるとして、彼らのように在れと言うのではない。26節はじめには「空の鳥をよくよく見なさい」とあり、28節でも「野の花がどのようの育つのか、注意して見なさい」とある。彼らのようであれと言われるのではなく、あくまで「彼らのあり方をよく見なさい、観察しなさい。そして、そこから何ごとかを悟りなさい。あなたがたの思い煩いに対する処方箋を得なさい」と言っているのである。
イエス様が、彼らをよく見てそこから何かを悟れと言う前提には、言葉としては直接何も語られてはいないが、そもそも私達人間と空の鳥・野の花には、ある共通する部分があることが想定されているように思う。鳥も花も、人間とは全く違う生き物なのである。同じようにはなれない。しかし、根源的なところでは、どこか共通する部分がある。だから、彼らのあり方を観察することから、何かを得ることができるのである。
では、空の鳥・野の花と、私達人間の何が共通しているのか。25節に何度も「命」「体」という言葉が繰り返されている。空の鳥も、野の花も、私達人間も、皆、神様によって命を与えられ、土の塵から体を作られたものという点だと思うのである。イエス様は、岩や石を見よとは言っておられない。岩も石も神様によって造られた同じ被造物であるがゆえに、そこからも、何かを学べるということがあるかもしれない。しかし、岩や石に、そもそも命があるとは言えないし、石や土のままでは、神様によって造られた「体」とは言えない。これに対して、空の鳥や野の花は、人間とは決定的に違いながらも、神様に命と体を与えられたという点で共通項がある。
3 その上で、イエス様は、空の鳥や野の花のあり方について何を見よと言っておられるのか。空の鳥は「蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしないが、天の父は彼らを養って下さる」ことであり、野の花については「働きもせず紡ぎもしないが、神は彼らを装ってくださる」ということである。蒔き、刈り入れ、倉に収めるとは、実はすべて私達人間がしていることである。空の鳥や野の花は「しない」というよりも、そもそも彼らにはそのようなことはできないのである。彼らは、そういうことは全くできないけれども、彼らは生かされているのである。それは、彼らが天の神様によって養っていただいているからなのである。それをよくよく見なさいというのが、イエス様の御心なのである。
私達は、このような彼らを見て悟るのである。天の父である神様が、私達に命を与えて下さり、体を与えて下さって、この世に生まれさせて下さったからには、創造者として神様はちゃんと責任を取って下さるということを、私たちは悟るのである。たとえて言えば、神様が私達をこの世に送りだすにあたって、言わば持参金のようなものを持たせて下さっているのである。この世で生きるのに困らないようにして下さっているのである。
ふりかえって、私達はどうなのかと問われているのである。イエス様が、わざわざ空の鳥や野の花について、彼らが「蒔かず、刈り入れず・・・」と語ったのは、私達人間が生きてゆくためには、当然そうしたことをしなければならないと知っているからなのである。勿論、私達がおのずと為すべきところの「蒔くこと、刈り入れること」はある。しかし、それは神様が私達を命あるもの、体のあるものとして造り、そこに持参金をちゃんとつけて下さり、造り手として責任を果たして下さるという関係の下での「蒔き、刈り入れる」ことなのである。これに対して、私達が「生きて行くためには、これをやらねばならない」と考えてしている事柄というのは、命・体の造り手としての神様との関係を全く忘れ、ちゃんと持参金が付けられているのを忘れてしまったところでの蒔くことであり、刈り入れなのではなかろうか。それが思い煩いとなるのである。
4 25節に、2度にわたって「自分の命」「自分の体」という言い方がされている。しかし、「自分の」という表現が大事である。神様が与えて下さった命や体なのに、それを自分のものと思ってしまう私達の姿を現している。そう思って「何を食べようか、何を着ようかと思い悩む」とは、文字通り、単に食べ物や衣服のことで悩むというような表面的なことではなく、この命と体を己れのものだと考えて、その命のため体のために必死になって自分に何かを食べさせねば、着せてやらねばと思い煩う、私達の有り様を言っているのである。しかし、そう思っても、どんなに煩っても、「寿命をわずかでも延ばす」ことさえできないのである。できない努力ばかりをするのである。鳥や花はできないことはしない。できないことは、できない。私達には、そのあきらめがないのである。
そして、命と食べ物、体と衣服が対比され、「命は食べ物より、体は衣服よりも大切だ」と語られている。大切とは「大きい」という意味である。神様が下さった命と体、そしてそこにくっついている持参金は、私達がその命や体を「自分のもの」だと考えて、自分がこの命や体を維持するために、こうせねば、ああせねばと食べさせ着せようとするものよりも、本来はるかに大きく豊かだという意味なのである。ところが私達は、その大きさを忘れて、己れが蒔き刈り入れ倉に収めて、自分で自分に何かを食べさせ着せてやれねばと思ってしまうのである。私達のそのような思いが、大きくなってゆけばゆくほど、それと反比例するかのように、神様が本来私達の命と体に込めて下さっている大きさや豊かさが小さくなってゆくのである。折角の持参金が使われないままなので、どんどん萎縮してゆくのである。別の言い方をすれば、間違った努力に神様からの持参金を用いてしまっているのである。神様からの持参金とは、つきつめれば私達人間だけが、神様に似た者として造られた故の知恵に行きつくと思うのだが、私達は折角の知恵や創意工夫を、とんでもない間違った方向へ注ぎ込んでいるのである。今やコンピューターが世界最強と言われる囲碁棋士を易々と打ち負かしてしまう時代である。私達人間が神様から刻まれた知恵が、「この命、この体は、己れのもの。己れが食べさせ着せてやらねば」と思い始めたら、その努力は私達を何処まで至らせてしまうのか計り知れないのである。けれども、その行き着くところは、確実に思い煩いなのである。神様が私達の命と体のために下さった持参金を、逆に、思い煩いを増やすために用いているのである。
5 だからこそ大事なのは、そもそも神様が私達に命や体を下さったとき、持たせて下さった持参金を、ちゃんと使うことなのである。その命や体にそもそも備えられている大きな豊かさに気づいて生きるということだと思うのである。
空の鳥や野の花から学ぶことがもうひとつある。彼らは確かに、人間がするように蒔くことも刈り入れることも蔵に納めることもしない。ただ何もしないで天の父が養ってくださるものを、黙って何もしないで口をあけて待っているのかというと、そうではない。確かに彼らは、できないことはやろうとしない。蒔くことや刈り入れや倉に収めるのはできない。しかし、神様が与えた持参金を用いて、彼らなりに神様が下さる養いを手に入れる努力は不断にしているのである。神様は、空の鳥には飛ぶという持参金を与えて、空から獲物を探してそれを取って生きるという命や体の豊かさを与えた。野の花には、光合成をする能力を与えて、生きる糧を得るようにさせた。それらは、彼らなりの努力である。働きである。34節の言葉で言えば「労苦」ではなかろうか。ここになぜ「労苦」という言葉が出てくるのか、ここにきてやっと少しわかってきたように思う。
私達にも労苦がある。空の鳥や野の花は、彼らの命や体に神様が本来的に与えて下さった賜物持参金を用いて、日々労苦しながら生きている。彼らがそうであるなら、ましてや、私達はなおさらではなかろうか。私達を命と体のある者としてこの世に生まれさせて下さったときに、神様が私達に持たせてくれた持参金とは、神様が私達だけに刻んで下さった神様の似姿と言えるのではなかろうか。私達は、それを用いて生きねばならないのである。そこには、鳥や花と同じように、労苦がある。いや、彼ら以上の労苦がある。しかし、その労苦こそが、私達を生かすのではなかろうか。
神様が私達に刻んで下さった神様の似姿としての持参金を用いて労苦して働くことを厭わないなら、私達は安心して生きてゆけるのである。勿論、将来への心配はある。しかし、神様が私達に刻んで下さったことによる労苦を厭わずに果たせば、神様は私達をちゃんと養って下さる。創世記2章18節で、神様が「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃったことを通して、神様が私達に刻んで下さった神様の似姿とは、私達がだれかを助け、また助けられる存在として生きることにあるのではないだろうか。将来への心配がなくなることはなく、貧困はなくなることはない。しかし、神様からいただいた、人が助け助けられるというこの持参金を用い、その労苦を厭わなければ、私達は大丈夫なのである。33節、「何よりも、まず神の国と神の義を求めよ」の根本には、このことがあると思うのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 6月4日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝
14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 14:16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 14:17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 14:18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 14:19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
1、今日は聖霊降臨日(ぺンテコステ)と呼ばれる特別な礼拝の日である。ルカによる福音書の著者ルカは、使徒言行録という書物も書いた、その1章に、十字架の死から復活したイエス様は、40日間にわたって、たびたび弟子たちに現れて、いろいろなことを教えたり、一緒に食事したりしたという。同じく使従言行録の1章の記述によれば、イエス様は40日目に天に昇り、弟子たちの目からは見えなくなってしまったとある。それから10日後、つまりイエス様が十字架につけられた過越の祭から数えてちょうど50日目に当たる日─これがぺンテコステというギリシャ語の言葉の意味で、古くからイスラエルの人々は小麦の収種祭としていた─に、弟子たちもエルサレムのとある家─おそらくは最後の晩餐の家─に集まっていたとき、使徒言行録の2章はじめに書かれているような不思議な現象を伴って聖霊が弟子たちに注がれたというのである。これを機に彼らは恐れずに大胆にイエス様が救い主であると宣べ伝えるようになり、信者が誕生し教会ができていったので、代々の教会はこの日を特別な礼拝の日としたのだった。
2、さて、聖霊が注がれたということと無関係ではないが、その前の段階の出来事の復活したイエス様が40日間復弟子たちに現れたという出来事から特に新たに示された点があった。
5月21日の朝日新聞の書評欄に、『魂でもいいから、そばにいて─3.11後の霊体験を聞く─(奥野修司著、新潮社)』という本の紹介記事を見た。早速その本を買い求めた。著者の奥野氏は2006年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したライターであり、この本のまえがきは、以下言葉で始まっていた。「死者・行方不明者を1万8千人余を出した束日本大震災。その被災地で、不思議な体験が語られていると聞いたのはいつのことだったのだろう。多くの人の胸に秘められながら、口から口へと伝えられてきたそれは、大切な『亡き人との再会』とも言える体験だった。同時にそれは亡き人から生者へのメッセージとも言えた。・・・これから僕が書こうとしているのは、こうした『不思議な』としか形容できない物語ばかりである。だれにでもわかるという普通性がないから、それを信じようと信じまいと僕はかまわない。再現性もないから、それが正しいかどうかを証明することもできない。ただ僕は僕なりに、その人の体験がたしかであろうと判断したものをここでご紹介するだけだ。」
最初に紹介されていたエピソードに、夫人と娘を亡くした男性の「納骨しないと成仏しないと言われますが、成仏してどっかに行っちゃうんだったら、成仏しない方がいい。そばにいて、いつも出て来てほしいんです」との言葉があった。おそらく体験談のすべてがこのような遺族の思いで貫かれているのではないかと思う。
この本の紹介記事を読んでどのようなことを直感的に感じたかというと、これまで思ったことがないほどに、復活したイエス様が40日間にわたって、とても不思議な形で弟子たちに姿を現したことの持つ深い意味を感じたのだった。これまで数え切れないほどの多くの遺族が体験したことが、馬鹿げたことだとか、遣族が生み出す幻に過ぎないとかいうことで、片隅に追いやられてきたのだった。しかし、復活したイエス様の出来事は、このような体験を決して馬鹿げたことでも幻でもないと認めていると、おおいに肯定しているのだと感じたのである。
勿論、復活したイエス様が弟子たちに現れたことと、あまたの死者たちが残された者に現れたことを、全く同じだというのではない。例えば、ルカによる福音書の24章37節以下、復活したイエス様を見て弟子たちが何度も亡霊を見ているのかと恐れたとあるが、イエス様は、はっきりと「亡霊には肉も骨もないがわたしにはそれがある」と言って手と足を見せ、さらには一緒に食事までしたと書かれている。復活という出来事は、ただイエス様だけに起こったことなのであり、死者たちが亡霊としか言いようのない有り様でぼんやりと残された者たちに現れるのとは、どこかが決定的に違う。しかし、たとえそのような違いがあっても、イエス様が、どうかすると亡霊や幽霊と見誤られるような姿形で弟子たちに40日間も現れたのは確かなのだった。そのように現れて弟子たちのそばにいて弟子たちへのメッセージを残したということは、多くの遣族が体験したことと共通しているのである。復活したイエス様が弟子たちに対してそうしたということは、どれほどそういうことが、残された者たちにとって、また死んでいった人たちにとっても、無くてはならないことであるかを現しているのである。復活したイエス様の40日間の出来事は、これまで片隅に追いやられてきた遺族の不思議な体験を、正々堂々と白日の下に引き出してくれるものだと感じたのである。
だからといって、愛する人を亡くした遣族の皆が、すぐにイエス様を救い主と信じるというわけではないであろう。しかし、その入り口にはなるだろうと思うのである。大切な人を亡くして、その上で、このような体験をした人々は、おそらく誰よりも、十字架の上で殺されたイエス様が復活し40日間にわたって弟子たちに姿を現したという出来事の意味を、我がこととして感得することができるはずである。なぜそのようなことが起きねばならなかったのかを、それが弟子たちにもたらした意味が、わかるはずなのである。イエス様と弟子たちのエピソードを、自分たちのそれと重ね合わせることができるはずである。それはその人々を、イエス様を信じる入り口に立たせるものではなかろうか。
最初のエピソードを寄せた遣族男性の言葉は「もしかすると、こういう体験がなかったら生きられなかったかもしれません。妻と子ども特に家を根こそぎなくしたんです。なぜ生きているのか、ときどきわからなくなることがあります。」であった。この男性の気持ちは、19節「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」との言葉に重なるものがあるとひしひし感じる。弟子たちは、まず40日間にわたってイエス様が姿を現し、「私は生きている」と示したことで、はじめて生きることができるようになったのだった。このようなイエス様と弟子たちの間に起きた出来事を、私達は、同じように悲しい体験かつ不思議な体験をした人々に、おおいに語ることができるのではなかろうか。私達の信仰は、誰よりもそのような体験をした人々のためのものなのだと思った。
3、こうしてまず40日間にわたって、復活したイエス様が、弟子たちに姿を現し「私は生きている」と示し、それによって弟子たちも生きることができるようになったのだから、それで十分ではなかったか。そういう関係がいつまでも続くように神様もイエス様もしてくれればよかったのではなかろうか。しかし、神様もイエス様もそうはしなかった。40日で、そのような現れにピリオドを打ち、復活したイエス様は天に昇り、弟子たちの目には見えない存在になってしまった。そして、それから10日目に、聖霊が与えられたのだった。それが「別の(イエス様とは別の、という意味で)弁護者(ギリシャ語の原文では「パラクレートス」)」と言われている。
一体なぜ、復活したイエス様の弟子たちへの現れは、40日でピリオドを打たれねばならなかったのか。なぜ復活したイエス様ではなく「別の弁護者」が遺わされる必要があったのか。その真意は私達には知り尽くすことはできない。ただ、このヨハネによる福音書の20章の11節以下─それはこの福音書が最初に描いた復活のイエス様と残された者との出会のシーンだが─に、マグダラのマリアという女性とイエス様との出会いの場面が描かれている。目の前にいる人物がイエス様だとわかると彼女は「ラボニ」と言って、おそらくはイエス様に抱きつこうとでもしたのではなかろうか。これに対してイエス様は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言ったとある。先ほどの問いへの答えが、ここにあるといつも思うのである。いつまでもイエス様が目に見える姿で弟子たちの側に、この世の中にあれば、弟子たちは、そのイエス様に「すがりつく」ようになってしまうからである。それは弟子たちの、ひいてはその後に続く私達信仰者のためにならないとの神様の考えではなかろうか。
最初のエピソードの男性は、夢の中で失くした妻から、以下ように言われたとある。「2016年の正月明けでした。これからどう生きてゆけばいいのか悩んでいたとき、これまでと違ってはっきりした像で、妻はこう言ったんです。『いまは何もしてあげられないよ』『でも信頼している』と言い、その後で『急がないから、待っている』」と。この夢の結果として彼が得たものは何かと言えば、「『待っている』というのは私にとっては究極の希望です。みなさんの希望は、この世の希望ですよね。私の希望は、自分が死んだときに最愛の妻と娘に遭えることなんです。死んだ先でも私を待っていてくれるという妻の言葉こそ、私には本当の希望なのです」というこのなのである。希望についての聖書の言葉を彷彿させるような言葉である。
このような希望を抱かせるためには、亡くなった夫人は「今は何もしてあげられない」と、いつもよりはっきりと彼に告げねばならなかったのである。「わたしにしがみついてはいけない」と言ったイエス様と同じ心を感じる。この男性は「成仏なんかしなくてよいから、いつも出て来てほしい」と思っていた。しかし、そのように「成仏しないでいつも出てくる」ということは、亡きご夫人の夢の中の言葉でいえば「今何かをしてあげる」ことになるのだと思うのである。彼が願うような形で「今、この世の中で何かをして」もらうことを願わせるようになってしまうようになる。しかしそれは残された人々のためにはならないのだと思うのである。残された人々の思いや願いが、ただ今だけ、この世のみ、というものから離してあげて、未来へ、かの世へと向けさせることがふさわしいのである。勿論助けは必要である。みなしごにしてはいけないのである。何らかの形で「わたしは生きている」から「あなたも生きてゆける」と励ますことは不可欠である。しかし、それは残された者が、今・この世だけにしがみつくようになる助けであってはならないのである。
4、これが、復活のイエス様の弟子たちへの現れに40日でピリオドが打たれ、別の弁護者が遺わされなければならなかった理由だと思うのである。弁護者と訳されたパラクレートスという存在は、わかりやすく言えば弁護士である。弁護士は、勿論徹頭徹尾依頼者の側に立って依頼者の利益のために味方となってくれる存在だが、しかしあくまで法律の専門家として、依頼者の側に立つからこそ時には依頼者の希望や願いにノウと言うこともある。弁護士の持っている専門家としての知識、それがここで言うところの「真理」ということなのだと思う。復活したイエス様が、いつまでも弟子たちや私達と、目に見える形でいることは、どこか真理にたがうのである。「永遠にあなたがたと一緒に」とあるが、永違に私達がイエス様と共にいるというあり方は、復活のイエス様が弟子たちと共に40日間だけいたあり方とは違う。20節には「かの日には・・・」とあるが、生きていようと死んでいようと私達は等しく父なる神様の内にいるのである。これが究極の真理だと思うのである。この真理は、つまり弁護士としての専門的知識に則って聖霊が私達を支えるということなのである。私達をみなしごにはせず、イエス様が生きていることを示して、私達を生かして下さるのである。
このことは、「成仏などしなくても出て来てほしい」と願う人々に、大切な何かを語りかけてくれるはずである。大切な人を失った人々には、真に弁護者が不可欠なのである。弁護者がいなければ、みなしごのような状態に置かれてしまう。死んでもなお「わたしは生きている」者であることを示されてはじめて、遺された者は生きてゆけるようになる。しかし死んだ者たちは、何らかの意味で天に昇っていなければならないのである。直接死んだ者たちが弁護者となるのではなく、聖霊なる存在が弁護者なることが不可欠だと思うのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 5月28日(日)復活節第7主日礼拝
01:29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 01:30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 01:31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 01:32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 01:33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 01:34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
1 ヨハネによる福音書は、西暦100年頃に、今のトルコに位置するエペソという町で書かれたとされている。エペソ周辺の人々に、イエス様が救い主であると宣べ伝えようとするときに、まず著者ヨハネが最初に登場させたのが洗礼者ヨハネという人だった。なぜ洗礼者ヨハネを最初に登場させて、洗礼者ヨハネによるイエス様への証言を記したかについては、今の私たちには、よくわからない。何か特別な当時の事情があったのではなかろうか。当時のエペソには、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、彼を救い主として信じていたような人々のグループがいたのかも知れない。ちなみに、35節以下は、他の福音書には書かれておらず、ヨハネ福音書だけが記している、とても興味深い記述である。イエス様に従った最初の二人の弟子 ─その一人は、かのペトロの兄弟のアンデレであった─ は、何と、もともとは洗礼者ヨハネの弟子だったというのである。著者ヨハネは、イエス様が救い主であると宣べ伝える最初のターゲットとして、当時エペソ周辺にいた洗礼者ヨハネの弟子たちを考えていたのかもしれない。そのためにこそ、洗礼者ヨハネは、自分は救い主ではないと三度も否定した事実をまず掲げ、また、私の後に来る人こそが救い主だと語ったことを記して、満を持して、いよいよイエス様を登場させたのだった。そして洗礼者ヨハネがイエス様をどのように証言したかを語ったのだった。
2 そこで洗礼者ヨハネが、イエス様について最初になした証言は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」というものであった。洗礼者ヨハネが、自分の弟子を連れてイエス様と会ったときに為したイエス様についての証言も「見よ、神の小羊だ」であり、それを聞いて二人の弟子はイエス様に従ったことが、先ほどの35節以下のところに書かれている。洗礼者ヨハネがイエス様のことを「神の小羊」と証言したのは、このヨハネによる福音書にしか書かれていないことなので、果たしてこれが事実だったのかどうかはわからない。少なくとも著者ヨハネとしては、洗礼者ヨハネの弟子たち、ひいてはエペソ周辺の人々に、イエス様が救い主であると宣べ伝えるにはこの証言で十分であると、それ以外の証言は不要なのだと考えていたのではなかろうか。他のいかなる証言でなく、「罪を取り除く神の小羊」という証言こそが、人々をしてイエス様に従わせる得るものなのだと著者ヨハネは考えていたのであろう。
これは、西暦100年頃のエペソでなくとも、今日の時代社会にあっても、なお当てはまることではなかろうか。キリスト教会で、礼拝出席者や受洗者が減ってゆく中で、教会はどんどん先細りになってゆくのではとの危惧を、私たちは抱き、あの手この手を使って教会に人を呼び寄せようとの努力をしている。それは悪いことではないが、しかし、その核心には、イエス様が私たちの罪を取り除く神の小羊としての救い主なのだという、証言がなければならないと思うのである。もちろん、2000年前の人々と現代の私達とでは、「世の罪を取り除く神の小羊」という証言への理解度は全く違うであろう。今の人々は、罪と言われてもなんだかピンと来ないし、神の小羊といわれても、それはなおさらであろう。だから、それを今の人々にわかるように語る努力が不可欠なのである。しかし、罪という言葉を使ってしまうと、拒否反応を抱かれてしまうから、そのことを最初から語らないということであってはならないと思うのである。イエス様が「罪を取り除く神の小羊」である点に惹き寄せられていなければ、それはイエス様に従ったということにはならないのである。言い方を変えれば、イエス様が罪を取り除く神の小羊であるとの証言に惹き寄せられないのならば、それはそれで仕方がないということなのである。35節以下で、洗礼者ヨハネのもとから、二人の弟子がイエス様に従ったという。しかし、もしかすれば、洗礼者ヨハネが、数多くの人々にイ工ス様のことを宣べ伝えたのに、たった二人しかイエス様に従わなかったのかもしれないのである。しかし、その二人から今日の何十億のクリスチャンが始まったことはたしかなことなのである。たとえ、心惹き寄せられ信じる人は少なくとも、イエス様が罪を取り除く神の小羊だと宣べ伝えたことが、私たちの伝道にとって肝心なのではなかろうか。
3 では、「世の罪を取り除く神の小羊」という証言に、洗礼者ヨハネはどのような思いを込めたのか。まず、「罪」という語は、どうしても私たちは、何か悪いことをしたという意味に受け取ってしまう。だから、「自分にはそれを取り除いてもらうようなものは何もない」となってしまう。私は「罪」をしばしば病気にたとえる。イエス様も「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく罪人を招くためである(例えばマタイによる福音書9章12節以下)」と言って、罪を抱えている人を病人になぞらえた。だから罪を病気にたとえるのは、聖書にもかなっていると思う。病気であれば、決して当人が悪いことをしていなくとも、どんなに品行方正な人であっても、なってしまうのである。当人の行いや思いにかかわらず、心ならずも抱えてしまった心や体の障がいや欠けも同様なものなのである。
私たち人間は、悪いことをしたからということではなくて、存在の奥深いところに、ある種の病や欠けを抱えている者ではなかろうか。日本では、相変わらず毎年2万人に近い人々が自ら命を絶っている。先日、教会正面の花壇の花を植え替えた。花は、どこにも移動できない不自由さにもかかわらず、精一杯置かれたところで美しさを放ってくれる。そのような動植物に比べたとき、何と私達人間は病んでいる存在であろうかと、しみじみ思う。生きていることへの平安がないのである。喜びがないのである。思い煩うばかりなのである。
この病が一体どこから来るものなのか。創世記1章から2章にかけて、神様が私たち人間を創造されたところに書かれている。私たち人間だけが他の生き物とは違って、神様に似た者として造られたと創世記1章26節以下にある。ところが、創世記2章6節以下には、神様が私達を造るために用いられた材料は、他の生き物と全く同じ土の塵であったと書かれているのである。神様と似た者として造られたのであれば、私たち人間は、神様と同じように永違に生きたいと思ったり、全能でありたいと願ったり、創造的クリエイティブに生きようとする者であってもよいではないか。しかし、造られた材料は土の塵でしかなかったのである。土の塵から造られたことを記す言葉の直前には、「水が地下からわき出て土の表をすべて潤した」とあるが、土から造られたが故に、環境の影響をもろに受ける存在であることが見事に描かれていると改めて思う。そのような存在が、神と等しい者であろうとするのである。この根源的な矛盾こそが、私達を病ませる原因ではなかろうか。著者ヨハネは、そのような私たちのありさまを、1章14節に、「肉」というキーワードで表現したのだった。根源に矛盾を抱え、それゆえに病み苦しみ悩まねばならない私たちが、「肉」という言葉で語られている。「罪」がこのような意味でのものならば、何とかそれを取り除いていただきたいという思いは、私たちの切なる願いではなかろうか。罪が取り除かれるとは、何よりも私達が抱えているこの根源的な矛盾が受容されて、神の似姿でありながら肉なる者として生きる喜びや平安を回復できることなのである。
4 それを「神の小羊」であることによってかなえて下さるのがイエス様だと、洗礼者ヨハネは、そしてこの福音書の著者ヨハネは告げているのである。「神の小羊」という言葉の背後にある言葉として、二つの聖書箇所が引かれる。それは、出エジプト記の過ぎ越しの出来事とイザヤ書53章に記された「苦難の僕」と呼ばれる箇所である。2章13節に「ユダヤ人の過越祭が近づいた」とあり、洗礼者ヨハネあるいは著者ヨハネが、ここでイエス様を「神の小羊」と言っているのは、この時期にマッチしたゆえにこそのものだと考えられる。ただ、イザヤ書53章の4節には、「病気」という流れで「彼が担ったのはわたしたちの病」という言葉がある。
出エジプト記の12章に書かれた過ぎ越しの出来事とは、エジプト王が何度頼んでも、また何度災いが起きても、イスラエル人を奴隷から自由にしなかったので、とうとう神様が最終手段を用いざるを得なくなったことであるが、どういうものだったかはわからないが、「滅ぼす者」がエジプト人の家に入って子どもたちを死に至らせるというものであった。ところが、小羊を犠牲にして、その血を鴨居と入り口の2本の柱に塗った家は、滅ぼす者が過ぎ越していったというのである。これが原型となって、イスラエル人の正月の行事の過越祭となった。イエス様はわざわざ、この祭りの食事を最後の晩餐とし、それがひいては私たちの聖餐式の源流にもなったのである。
一体なぜ、犠牲となった小羊の血が、滅ぼす者から子ども達をガードし、過ぎ越させたのかは、神様の説明がないので定かではない。小羊の血を塗るということは、あくまで動物の命に過ぎなかったが、その犠牲となった存在の命をいただき、その命を家の入り口や鴨居に塗って「この家は小羊の犠牲をいただいて生きて行く家です」と表明することを意味していたと思うのである。「小羊の命という犠牲をいただかなくては、この家は生きてゆけない」というカミングアウトなのであった。はっきりと神様に対して白旗を掲げて、他者の命という救急物資をいただくということを意味していたのである。それをしないエジプト人の家というのは、自分の家だけで閉じ、満足していたのである。他者の命を必要としなかった家なのであった。そのような家には、なぜか逆に滅びる者が入り込んできたのだった。
イエス様が神の小羊として、私たちの罪を取り除いて下さるというのは、まず何よりも、病んでいる私たちが、神様が与えて下さった神の小羊であるイエス様の犠牲の命をいただく、ということを意味しているのである。私は、しばしばそれを、臓器移植を受けることにたとえてきた。病気の私たちが神の小羊としてのイエス様の命の犠牲をいただくとは、まさにこのようなことなのである。イエス様の存在、その命、その存在の力が、私たちに移植されて、病気である私たちのただ中で生きはじめ、機能しはじめることを意味しているのである。
イエス様が持つ存在の力とは何であったか。それは、肉なる者として生きるところに神の似姿としてのあり方を発揮されたということだと思うのである。イエス様にとって肉なる者であることと神の似姿であることとは矛盾することではない。むしろ、肉なる者であることこそが神の似姿を成就することなのである。そのピークに、十字架の出来事があったのである。肉なる者であるがゆえに、その血や体を犠牲として与えることができたのである。肉なる者でなければそうはできなかったのである。神に似た者であるということは、イエス様にとっては、決して全能であったり支配者であったりすることを意味してはいなかった。むしろ、様々な制約の中に置かれながらも、誰かを助け、誰かに大事なものを与え得ることが、神の似姿の現れなのであった。このようなイエス様の存在の力を、その命を、私たちは移植していただくのである。臓器移植を受けた人は、涯免疫抑制剤を一生飲み続けなければならないが、移植された臓器は、ずっと働き続け、その人を生かしてゆく。そのように、イエス様という神の小羊による罪の取り除きも、即座になされるものではないのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 5月21日(日)復活節第6主日礼拝
25:01主はシナイ山でモーセに仰せになった。 25:02イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。 25:03六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、 25:04七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。 25:05休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない。 25:06安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、 25:07更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる。 25:08あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。 25:09その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、 25:10この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。 25:11五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。 25:12この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする。 25:13ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。 25:14あなたたちが人と土地を売買するときは、互いに損害を与えてはならない。 25:15あなたはヨベル以来の年数を数えて人から買う。すなわち、その人は残る収穫年数に従ってあなたに売る。 25:16その年数が多ければそれだけ価格は高くなり、少なければそれだけ安くなる。その人は収穫できる年数によってあなたに売るのである。 25:17相手に損害を与えてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。
1 レビ記は、イスラエル人がエジプトを脱出した後に、神様が与えた十戒を補うものとして付与されたものではないかと、私は理解してきた。神様は、エジプトで奴隷だったイスラエル人を救い出した。十戒とは、彼らをもう2度とそのような境遇に置かしめないための10の処方義として与えられたものだった。神様の私たちに対する御心が、二度と私たちを奴隷的な状況に置かないことにこそあるというのは、旧約聖書だけではなく、聖書全体を貫くものだと言ってもよいのではなかろうか。ヨハネによる福音書8章32節には、「真理はあなたがたを自由にする」とある。パウロも、ガラテヤ書の5章1節に「自由を得させるためにキリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。・・・だから奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません」と語っている。
私たちは、二度と奴隷の軛につながれないためにとのことから、十戒やレビ記といった処方箋が与えられた。「安息の年とヨベルの年」を守るということである。1節には「主はシナイ山でモーセに仰せになった」とある。この処方箋は十戒を補うというよりは、十戒と同時に並列するほどに大切なものとして付与されたものとの位置付けがなされている。神様は、どのような御心をもって、私たちにこのような年を守るようにと教えているのか。また、それがいかなる意味で、私たちを奴隷の軛につながないようにするための処方箋なのか。それを学んでゆく。
2 まず安息の年というのは、7年目ごとに、土地に安息を与えるというものであった。端的には、休耕するということである。安息とは、ヘブル語で「シャバス」という。以前に、束北教区でともに宣教したアメリカからの宣教師は、7年目ごとに日本での仕事をいったん離れて本国アメリカへ帰っていた。また、私の母校、東京神学大学の先生らも、やはり7年目ごとに、丸1年とか丸半年とか(記憶が定かでないが)、普段の教務から離れる期間を与えられていた。正式には「サバティカル イア(Sabbatical Year)」とか「サバティカル シーズン」と言うのかもしれない。省略して「サバティカル」と呼んでいた。私は、今年で、この教会に赴任して7年日を迎えている。宣教師や母校の先生方にならえば、今頃はサバティカルを与えられているはずだったのかもしれない。しかし、残念ながら日本の牧師で、このようなシーズンを与えられているというのを聞いたことがない。
ヨベルの年というのは、8節にあるように、7年毎の安息の年の7回目の年、つまり49年目から50年目の1年間を指す。ヨベルとは、この年の始まりを告げる49年目の第7の月(私たちの暦ではだいたい9月から10月)の10日に吹き鳴らされた雄羊の角笛の「角(つの)」を意味するとのことである。この年にどのようなことが行われたかを、13節以下に詳しく記されている。「全住民に解放の宣言」がなされ、「おのおの先祖伝来の所有地に帰り家族のもとに帰る」ことのできる年だった(10節)。
先ほど、日本の牧師でサバティカルをもらっている例は聞いたことがないと申し上げた。イスラエルの人々の実生活においては、安息の年やヨベルの年が、果たしてほんとうに実施されていたのかどうかについては、疑間視されているようだ。残念ながら、私の手元にある神学書や辞典を調べても、実際はどうであったのかは、よくわからなかった。ネへミヤ記10章32節に「わたしたちは7年ごとに耕作を休み、あらゆる負債を免除する」ようにネへミヤが人々に誓約させたという場面が書かれている。バビロン捕囚から帰還した人々が、帰還から100年近く経って、やっとのことで城壁を再建できた記念の日(紀元前445年頃とされている)に、わざわざそのように誓約させて、実施を促さねばならなかったということは、逆に言えば、安息の年やヨベルの年というのは、現実には実施されてはいなかったことを物語っているのかもしれない。
けれども、実際に実施されてはいなかったとしても、この処方箋に何の意味もないということにはならない。医者は、専門家の立場から、様々な指導や処方箋を与えてくれる。それに従わなかったとしても、その処方箋に意味がないということにはならない。それに従わなければ重大な健康上の問題が出てくるであろうし、専門家からの処方箋は、おりおりに日々の生活を振り返る機会を与えてくれる。25章16節には「あなたたちはわたしの掟を行い、わたしの法を忠実に守りなさい。そうすれば、この国で平穏に暮らすことができる」との神様の言葉が書かれている。従わなければ、平穏に暮らすことができなくなる。重大な結果が生じる。再び奴隷に軛につながれるということが起きてしまう。たとえ従わなくても、厳然として存在し、私たちに対する強い影響力を持っているものなのである。
3 安息の年というしきたりは、私たちに何をなさしめようとするものなのか。神様のどのような御心から、私たちに与えられた処方箋なのかを改めて考えてみたい。
私たち人間が農耕を始めるようになって、土地をある一定期間ごとに休ませてやらないと作物が採れなくなるということは、随分早くから見いだされた普遍的な事実なのではなかろうか。そうだとすれば、神様がここで言わんとしているのは、改めてそのようなアドバイスをイスラエル人に与えるためではなかったと思うのである。ここで注目すべきは、2節と4節にある「主のための安息」という神様の言葉である。休耕するのは、土地のための安息ではないのである。また、土地が再び地味を回復し人間に収穫を与えるための安息でもないのである。人間のための安息でもないのである。「主のための安息」には、どのような意味が込められているのか。つきつめれば、「あなたがたが耕している土地は主のものなのだ」ということだと思う。主のものなのだから、創世記1章で神様が、7日目には創造の御業を休んで安息されたように、7年日には主の土地にも安息を与えねばならないということなのである。安息が必要なのは、土地のためでもなく耕作をする人間のためでもなく、神様が安息を求めておられるからなのである。
そうすることによって、どのようなことが生じるのか。そうすることによって土地が、一旦は人間の手から離されることになる。土地が、人間の利用や収奪の対象から切り離されるということが起こる。そこにこそ神様の御心がある。7年日ごとのこの年がなければ、私たち人間は、目の前の土地がいつまでもどこまでも自分たちのものだと思い込んで、好き勝手に使うであろう。思うがままに用い尽くすであろう。それこそ、骨の髄まで吸い尽くして、土地を荒廃させてしまうであろう。また、土地を自分だけのものとして囲い込んで、他の人を締め出してしまうであろう。だから7年目には、所有はそのままであるとしても、利用の形としては、主のものとするのである。それによって、その年には奴隷や雇い人もまた動物たちもその土地を利用することができ、そこで自然に実ったものはすべての人が食べることができるようになるのである(6節)。普段、豊かな実りを享受していた人々も、その年だけは自然に実ったものしか食べることができない。「法の下の平等」という法律の基本原則があるが、安息の年が守られることで「主の土地の前における平等」というものが出現するのである。
こういうわけで、安息の年を守るという処方箋は、私たちをして二度と奴隷の軛につながないためのものになるのである。出エジプト記の20章1節の十戒の、はじめの言葉を思い起こす。神様がイエスラエル人をそこから導き出した「エジプトの国・奴隷の家」こそが、象徴的に私たちを奴隷とするものなのである。王こそが、土地は我がものと言って独占しょうとする存在なのである。あるいは、私たち自身が王となってしまいがちなのである。私たちを土地に縛りつける王がいるのである。また、家、つまり家族という血のつながりもまた、土地を先祖代々からのものだと思いがちなのである。それが私たちを土地の奴隷にするのである。領土や先祖代々の財産の奴隷となってしまおうとする私たちのために、神様は7年目ごとに戦って下さろうとしているのである。
4 以上のことから、私たちにとって安息の年が、何を意味するのかがわかってくる。レビ記19章にある「刈り尽くしてはならない」という処方箋と重なるところがある。私たちにとって「土地」とは、人生のフィールドのことなのである。これを自分だけのものと思ってわがままに用い尽くしてはならない、味わい尽くしてはならないのである。神様のものとして、7年目(7という象徴的な数字である)にはお返しし、神様が生じさせて下さった食べ物だけをいただく時とするのである。だから、それは文字通りの意味での休み期間を意味してはいないのである。たとえば、生涯には必ず何度か、人生というフィールドが思い通りにならない時がやってくる。病気になったり、自分の願いとは反した事を担わせられたりという時期が来る。毎年毎年あったのでは倒れてしまうが、7年に一度なのである。わたしの牧師としての歩みを振り返ってみると、不思議なことに7年位に一度、自分の思いに反したことを担わせられるように感じる。この地に赴任して今年で7年目なので、もしかすると、そのようなことが近々生じるかもしれない。
もうひとつ、7日目ごとの安息日の意義としては、イスラエル人が荒れ野を彷徨ったときのことを思い起こす。5日目までは日々その日のマナを集めねばならず、次の日の分まで集めても腐ってしまった。しかし6日目だけは、次の日の分まで集めることができた(出エジプト記16章)。この出来事の意味は何か。自分が食べ物を集めねば生きて行けないという毎日の思い煩いや労苦から、7日目だけは切り離すことにこそ、その意味がある。安息日の最も深い意義は、私たちが生きることを私たち自身が働かねばならないということから切り離すところにこそある。安息の年にも、同じ意味があるのだと思う。25章21節に出エジプト記のマナの出来事とぴったり重なる事が書かれている。
私たちにとって、これはどのようなことを意味しているのか。それはたとえば、年金を受給できる年齢になれば、自分が働いて自分の生活を支えねばならないということから解放されることを意味しているかもしれない。そのようになったときに神様が、私たちの人生というフィールドに実らせて下さる食べ物がある。その食べ物は、6節にあるように、奴隷や寄留者といった貧しい人々、また動物たちの食べ物ともなるのである。私に例えれば、60歳になって、30年間牧師として培ってきたことがあるので、その余裕でもって、後輩たちを支えたり無牧の教会を支えたり、地区や教区・教団での奉仕を担えるということでもあるかもしれないと思う。いずれは現役の牧師という立場を離れて、一層そういう奉仕ができる時が与えられるということかもしれないと思うのである。
49年、50年というのは、まさに私たちの人生のフィールドの時間そのものだと思うのである。私たちは、その間に、様々な負い目・負債を重ねてきたのではなかろうか。その結果として手放してしまった「先祖伝来の所有地」があると思うのである。それは本来、私たちのあるべき姿なのである。神様に似た者として創造された私たち本来のあり方なのである。ヨベルの年に、負債を負っているあり方から私たちが解放され、帰るべきところに帰れる日とは何を意味しているのか。神様の似姿であり、私たちのように負債を抱えてしまう人間ではないイエス様を信じて歩む生括こそ、このヨベルの年へと向かう歩みなのかもしれない。地上の生涯を終えて神様の御許へ召される時こそが、ヨベルの年なのかもしれないのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 5月14日(日)復活節第5主日礼拝
15:14兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。 15:15記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、 15:16異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。 15:17そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。 15:18キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、 15:19また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。 15:20このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。 15:21「彼のことを告げられていなかった人々が見、 聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。
1 タイトルに「宣教者パウロの使命」とある。伝道者としてのパウロの基本的なスタンスのようなものが改めて述べられている箇所である。
パウロは、伝道者としての基本的なスタンスを繰り返し語った。パウロは、自分の働きをもっぱら異邦人―もともとユダヤ教とのつながりを持たないギリシャ・ローマの人々―のためのものと考えていた。そのことを、16節では2度、18節でも「異邦人を神に従わせるためにわたしの言葉と行いを通して」とあり、3度にわたって繰り返した。何げなく読み過ごしてしまうところだが、わたしはここにまず心を引き寄せられる。
しかしパウロが、はじめから自らの働きを、そのようなものとして納得して受け取っていたかと言えば、決してそうではなかったと思うのである。パウロがもともとどのような人物で、どのような経緯でイエス様を信じ、イエス様の伝道者になったのか。フィリピの信徒への手紙の3章5節以下で、彼自身が「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」と語っている。パウロはかつては、律法の行いをすることによって、自分たちは神様に義としていただける―神様に結び付けていただける―と誰よりも信じ、熱心に律法の行いに励み、だからこそ律法の行いなどしなくとも神様に義とされると教えたクリスチャンや教会を迫害していた人だったのである。その彼が、復活のイエス様に出会い、ただ信者になっただけではなく、自分が敵対していた教えを宣べ伝える伝道者として選ばれたのである。
伝道者とされた時点で、最初にパウロが抱いていたのは、かつてファリサイ人であり、誰よりも律法の行いを熱心にしていた自分だからこそ、律法の行いなどなくとも神様に義としていただけるという福音をユダヤ人に宣べ伝えるのに誰よりも最適な人間であろうとの思いではなかったか。たとえて言うなら、もともと仏教の僧侶が、クリスチャンになり、牧師になっって、そのような経歴の自分だからこそ、仏教徒にキリスト教を宣べ伝えるのには自分が最適だと考えるようなものである。このようにパウロは考えて、使従言行録を読み進めると、必ずユダヤ人が集まっている会堂に行って伝道をしていた様子が書かれていることに気づく。ところがそれは、うまくゆくどころかかえってユダヤ人からの猛反発を招いたことがわかる。ひと言でいえば、パウロは裏切り者として見られていたということなのであろう。熱心なユダヤ人であればこそ、かつての熱心な仲間の裏切りは許せなかったに違いない。
2 こういう経緯があって、心ならずもパウロはその伝道の対象を、同胞ユダヤ人から異邦人へと変えなければならなくなったのだと思うのである。パウロがもっぱら異邦人のために働く伝道者となったのは、いわば不本意ながら、そのようになって行ったのだった。パウロ自身の望みではなかったのである。彼が自らの伝道者としての基本的スタンスをもっぱら異邦人のためのものと語る姿には、伝道者として最初に思い描いていたものがうまくいかなくなって挫折した苦い体験が込められていると思うのである。
しかしここで何よりも大事なことは、伝道者パウロが、その挫折や自分の思い通りにはいかなかったということを乗り越えて、なおも伝道者として歩んできたという点にある。「わたしの伝道の対象は、かつての仲間である熱心に律法の行いをするユダヤ人にこそあるのだ」とあくまでそこにしがみついて伝道者としてのスタンスを変えなかったならば、後のパウロはなかったのである。そのような方向転換ができたのは、もちろん神様でありイエス様であり聖霊の導きであったのだが、しかしそれをパウロが受容できたということも大きなよういんではなかったか。
パウロをして、このうまくゆかない状況を受け入れさせ、また神様・イエス様・聖霊からの導きを受容させたものは何であったか。私たちもしばしば、願い通りにゆかない状況にぶつかる。そのようなときに、私たちをして、それを乗り越えさせ、なおも私たちがなすべきことをなさしめるところの神様の導きがある。しかし、それをどうやって私たちはキャッチできるのであろうか。思い起こしたのは、使徒言行録16章6節に書かれていたことである。パウロは、アジア大陸で伝道をすることができなくなってしまった。その結果、アジアの西の端のトロアスという港町にゆかねばならなくなった。パウロは、自分の望みから考えれば、どんづまりの状況にまで追い込まれてしまっていた。パウロは神様に幻を見せらた。それは、海を渡ったヨーロッパのマケドニアに住む人が「わたしたちを助けて下さい」と願う幻だった。このことからパウロは、アジア大陸を離れて海を渡り、ヨーロッパへと伝道をすることになったのだった。
福音がヨーロッパへ渡ることになったのは、パウロの挫折からのことだったのである。思い通りゆかないことからもたらされたのだった。もしかしたら、実際に当時、マケドニアの人からS0Sの声が届いていたのかもしれない。聞こえていたけれども、アジアを離れて海を渡ってヨーロッパに行くなどどいうことは、到底考えられなかったので、全く耳に入ってこなかったのかもしれない。しかし、この幻を見たことを機に、その声を聞くことができるようになったのである。その声に応じようという気持ちを抱かせてくれたのである。こうしてパウロは、伝道者としての働きを、もっぱら異邦人へと向けてゆくこととなったのだった。神様の導きを具体的に表してくれるのは、現実の中での、ある人からの具体的なS0Sだったり、願いだったりするのである。挫折や、自分の思い通りにはうまくいかないという現実にぶつかったとき、それを乗り越えさせて下さる神様からの導きは、しばしば具体的な出会いから与えられるのである。そのような歩みを重ねて、パウロのように「私の働きは専ら異邦人のためのものだった」と述懐できるようになるのである。
3 このような、もっぱら異邦人のためのパウロの働きの中で「キリストがわたしを通して働かれたこと以外はあえて何も語らなかった」とパウロは語った(18節はじめ)。またその後に続くところでも「キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉を行いを通して・・・働かれました」と語っている。端的に言えばパウロは、自分を通し、自分の言葉と行いを通し、その働きを通して、それがイエス様の働きだと言っているのである。何と傲慢な、何と不遜な言葉かとも思える。自分という人間を通して、またその言葉や行いを通して、そこにどうしてイエス様の働きが現れるなどと言えたのであろうか。そのようなことは、パウロが特別な伝道者だったから言えるのであって、到底私たちのような者に言えることではないと思えるかもしれない。しかし、そうではないと私は思う。伝道者も信徒も、このパウロと同じ言葉を大胆に言える者なのであって、そうであればこそ、私たちは、それを誇りに思えるのである。
パウロは「キリストがわたしを通して働かれたこと以外はあえて何も申しません」と語った。自分がこれまで異邦人たちに語ってきたことは、イエス様がわたしを通して働いたと、言い方を変えれば、パウロが実際に自分のこととして体験し、体得したイエス様の働き以外のものは何もなかったと言ったのだった。そこにはかつて、パウロが信仰者となり、伝道者として召された復活のイエス様との出会いの体験があった。迫害者であった者を信者とし伝道者として立てられる驚くべきイエス様の選びということが根っこにあったのである。それがあったからこそ、律法の行いはいらないのだと、このイエス様に出会い捕らえられることで十分なのだと異邦人に語ることができたのである。
パウロは自分の伝道者としての働きを16節では次のように語っている。「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり・・・祭司の役を務めているからです。それは異邦人が・・・なるためにほかなりません」と。それは何よりも祭司という働きをさしている。異邦人を神様へと導き、彼らが異邦人であるにもかかわらず神様の聖をいただいて聖なる者とされ、神様に喜ばれる存在となる仲介役が祭司の働きである。それは大変に難しい務めだが、それをする上で、何も特別なことを語る必要はなかったとパウロは言ったのだった。このわたしを通してイエス様がなして下さったこと以外を語る必要はなかったというのである。そうすることによって、それまで異邦人の祭司としての働きを十分にやってこれたと、伝道者としてイエス様の働きを表すことができたと。これは、同じ伝道者である私たち牧師にとっては、本当に励ましとなる御言葉なのである。
私は、30年前に伝道者になったとき、毎週毎週の説教の準備を前にして「一体自分には何を語ることができるのか」と気が遠くなるような思いを味わっていたことを思い出す。今でも月曜日に次の主日の説教の準備を始めるときには、そのような思いを抱くことがしばしばである。しかし、これまで一度でも語るに窮したことはなかった。それは、1週間の精一杯の準備を通して、イエス様が私を通して働いてくださるからなのである。誠実に準備をすれば必ずそれを通してイエス様は働いてくださる。だから、率直にありのままに語ればよいのである。背伸びして語る必要はないし、自分の中を「通っていない」ことを語る必要もない。その、まことに足りない私たちの言葉であっても、また行いであっても、それがおのずと人々を神様のもとに誘い導くところの祭司の働きになるとパウロは告げてくれたのである。
4 パウロも私たち牧師も、そのようにして祭司としての働きをしてきた。しかし信従もまた、その周囲の人々を神様へと導く仲介役としての働きを委ねられているのである。18節の後半では「(その祭司としての働きは)わたしの言葉と行いを通し、またしるしや奇跡の力、神の霊によって」なされたとパウロは語っている。「わたしは、到底周囲の人々を神様へと導くようなすばらしい言葉など言えないし行いもできない。」「まして奇跡などとんでもない。」「むしろ私の言葉や行いは、祭司とは反対に、伴侶や子どもたちを神様から違さけるものでしかない。」そう思う人も多いかもしれない。しかし、奇跡の力というのは、私たちがすばらしい言葉や行いをするということによってもたらされるものではない。パウロをして、誰よりも異邦人を神様へと導き、祭司としての役目を果たさせたのは、追害者であったパウロを伝道者へと選んだイエス様の驚くべき働きであったに違いないのである。「この私が義とされたのだから、異邦人であるあなたがたも義とされるのだ。」と何よりパウロは語ったのだった。私たちが語り、行い示す奇跡とは、そのようなものなのである。つまり「私のような者が」と思う者が信仰者とされており、「私のようなものが」と思う者が牧師として30年間奉仕し続け、「私のような者が」と思う者が毎週教会の礼拝へと出席していることこそが奇跡なのである。何よりも「私のような者が」と思う者が信従であり礼拝に通っているということが、どのような言葉や行いよりも雄弁にイエス様の働きを語り、祭司としての務めを私たちにさせているのである。
私たちのような祭司がいなければ、そのそばにいる一人を神様へといざなうことはできないのである。ある人を神様へといざなうイエス様の働きは、その人のそばにいる私たちの言葉と行いによってこそ現れるのである。直接のイエス様の働きではなく、他でもない私たちの言葉と行いを通して働くのである。その私たちの働きは、パウロの働きがそうであったように、かつては迫害者でありユダヤ人からは受け入れられず、かえって騒動を引き起こしたように、すぐにはうまくゆかない働きなのである。パウロが、決して誰にでも受け入れられる伝道者ではなかったように、私たちもまた同じような者なのである。しかし私たちの言葉と行いを通してイエス様の働きが現れ、私たちは祭司として用いられるのである。それを私たちは、誇ろうではないか。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 5月7日(日)復活節第4主日礼拝
01:19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 01:20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 01:21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 01:22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 01:23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 01:24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 01:25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 01:26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 01:27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 01:28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
1 著者ヨハネは、1章1節から18節までのプロローグの部分で、私たちに命や光をもたらす神様の創造の御業の核には「ロゴス」というものがあると語った。ロゴスという言葉は、この福音書が書かれたとされるエフェソ周辺に暮らすギリシャ・ローマの人々にとっては、特にギリシャ語を話すユダヤ人にとっては、とても馴染み深い言葉だったようである。そして、このロゴスが、体となり肉となったのが救い主であるイエス様であるとヨハネは語った(14節)。「イエス様が肉となって、私たちの中に宿って下さったことを通して、神様はその創造の御業を私たちの肉においてなされるのである。それによって肉なる私たちに、命や光がもたらされるのである。だからこそ肉となられたイエス様が、私たちの救い主なのである。」とヨハネは語ったのだった。
そして19節からが、いよいよ、イエス様が救い主であるとの本論なのである。その宣べ伝えの最初として、著者ヨハネが登場させたのが、洗礼者ヨハネであった。1節から18節までのプロローグの部分にも2度、この洗礼者ヨハネについて言及されていた。6節から8節と、15節である。著者ヨハネは、このプロローグ部分を書くのに、壮絶ともいえるような精力を傾けていた。その部分に洗礼者ヨハネを2度も登場させたということは、熟慮の末にロゴスという用語を用いたように、じっくり考えて洗礼者ヨハネの証言を用いたのだということが想像されるのである。エフェソ周辺で暮らす人々にイエス様のことを宣べ伝えようとしたとき、「まず洗礼者ヨハネの言葉を用いるのが有効であろう」との事情があったに違いない。
その事情をうかがわせる指摘を注解者がしている。使徒言行録の18章24節から19章7節にかけて興味深い記事が書かれているとのことである。19章の記述を紹介したい。パウロが、この福音書が書かれたとされるエフェソに行ったときに「何人かの弟子に出会い」、彼らに「どんな洗礼を受けたか」と尋ねたところ「ヨハネの洗礼です」と答えたというのである。そこでパウロは「ヨハネは自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」と言って、主イエスの名によって洗礼を授けたと書かれている。これはヨハネの福音書が書かれたよりも、かなり前の出来事であるが、エフェソの町には洗礼者ヨハネから洗礼を受けた人々が多くいたことがうかがわれる。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたけれども、まだイエス様を信じるには至っていなかった人々が、おそらくこの福音書が書かれた時代にも多くいたのではなかろうか。彼らは、洗礼者ヨハネが救い主なのだと信じていたのかもしれない。そういう人々に、洗礼者ヨハネが、イエス様こそが救い主だと証言したこと、そして自分は救い主ではないと強く語ったことを、ヨハネはこの福音書でまず描くことによって、─次の1章35節以下には、イエス様の最初の2人の弟子が何と、洗礼者ヨハネの弟子であったことが書かれているが―洗礼者ヨハネから洗礼を受け、またヨハネを信じていた人々の中からイエス様を信じる人々をまず、起こそうとしたのだと考えられる。
この福音書での、他の3つの福音書と比べて洗礼者ヨハネの描き方の大きな違いは、他の3つの福音書がすべて記しているところ誰もが知っていた事実であるところの、イエス様が洗礼者ヨハネにより受洗されたことを著者のヨハネは、あえて書かなかったという点にある。その理由が、エフェソの町における特別な事情ということなのである。ヨハネは、もしそれを書いたならば、洗礼者ヨハネを信じて彼から受洗した人々に余計な混乱を与えるのではないかと危惧したのであろう。
2 さて、そこで著者のヨハネが描いた洗礼者ヨハネによる証言の第一は、自分はメシア(救い主という意味)ではなく、またメシアが来られる時の先触れとしてやってくると信じられていたエリヤでもなく、またそれ以外の預言者でもないとの三度の否定によるものであった。この三度の否定を記した意図は、洗礼者ヨハネをメシアと信じていた人々に「洗礼者ヨハネ自身が三度、はっきりと否定したではないか」ということをまず思い起こさせる点にあったのである。しかしそれ以上の意図も込められていたと感じられるのである。
洗礼者ヨハネとは、エルサレムから当時の宗教的・政治的な指導者層であったユダヤ人が、わざわざ祭司やレビ人を遣わして、このような質問を何度もさせるほどの有名人であった。そこには、彼らの切実な期待も含まれていたのである。「あなたがメシアであって下されば、たとえそうでなくてもメシアの先触れとして到来するエリヤのような預言者であってくれたなら、どんなにかすばらしいだろうか」という願いが込められていた問いかけなのであった。指導者層の人々は、洗礼者ヨハネほどに人々への影響力を持つ有名な人であったならば、もしかすれば救い主ではないかと思ったのだった。人々への影響力や有名であることを救い主であるということの判断基準としたのだった。それは、指導者層だけではなく、当時の人々がみな、そのような見方をしていたと考えられる。しかし洗礼者ヨハネは、これを三度も否定したのだった。著者のヨハネは、ここに、どのような人を救い主とするかについての洗礼者ヨハネからの教えを語ろうと意図たのだった。
紀元1世紀のパレスチナや小アジアには、自称メシアという者が幾人も登場したようである。たとえば使徒言行録の5章33節以下には、当時の有名な律法学者であったガマリエルの言葉として、「以前にもテウダが自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数400人くらいが彼に従ったことがあったが、彼は殺され、従っていた者は皆散らされて跡形もなくなった。その後、ガリラヤのユダが立ち上がり・・・ちりぢりにさせられた」と書かれている。ヨハネによる福音書が書かれた西暦100年頃のエフェソでは、どのようだったのかは知る由もないが、要は、「影響力を持つ人や有名な人だからといって救い主だと信じてはならないのだよ」との語りかけを著者ヨハネはしたのである。26節には「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」との洗礼者ヨハネの言葉が書かれている。「十字架の上で殺されたような人が、どうして救い主なのかわからない」ということがあるかもしれない。しかし、「ただ有名だからという理由で、あるいは、救い主に違いないと目に見えてわかるからと言って信じてはいけない」と言っているのである。
3 この洗礼者ヨハネの三度の否定の箇所を読むたびに、考えさせられる点がある。人々への大きな影響力を持ち、当時の指導者層からも期待され注視されていた洗礼者ヨハネであった。彼が、使徒言行録に記されているテウダやガリラヤのユダのようになってしまう危険・誘惑が強くあったと思うのである。指導者層から何度も何度もこのような問いかけや期待が投げかけられたときに、否定せずに「私はそうだ」と言わせてしまう誘惑があったに違いないと思うのである。しかし、それを肯定してしまったなら、洗礼者ヨハネは、まさにテウダやユダのように跡形もなく消えてしまうしかなかったのである。洗礼者ヨハネは、滅びてしまうしかなかったのである。
私たちも、このような危険や誘惑の中にしばしば置かれる者ではないかと感じる。勿論、私たちは、人々からメシアだとかエリヤだとかという期待をかけられる程の者ではないかもしれない。しかし、「あなたにはこうあってほしい」、「あなたはこうではないのか」と私たちのそれぞれが置かれたところで、様々な期待をかけられることがある。それに対して「わたしは違う」ときっぱりと言うことは本当に難しいことなのである。誰も期待などかけてもいないのに、勝手に自分でそういう期待を作り出して「わたしはそうならねばならない。そうならない自分には価値がない」などと思ってしまうことすらある。
「メシアコンプレックス」という言葉を聞いたことがあるだろうか。医療従事者や福祉従事者、また宗教家に多い症状だという。自分がその場所においてメシアにならねば、つまり人々の期待に応えねばらないと張り切るあまりに燃え尽きてしまう症状を言う。洗礼者ヨハネは、今まさにこのメシアコンプレックスの中に呑み込まれようとしていたのであった。しかし彼は、それを脱したのだった。彼は三度も「私は違う」と言うことができたのだった。人々の期待をはっきりと拒むことによって、彼は飲み込まれる危険から脱したのだった。私たちが周囲の人々からの期待に対して、間違った応えをして滅びてしまうことに対して、洗礼者ヨハネの姿は、とても大事な示唆を与えてくれると思うのである。
4 このように洗礼者ヨハネが周囲からの期待をきっぱりとはねのけて「自分は違う」と言うことができたのはなぜかと言うと、それは洗礼者ヨハネには、神様が彼に与えた務め・使命は何かということが、しっかりとわかっていたからだと思うのである。
祭司やレビ人からの質問に、23節で彼はイザヤ書の御言葉を引用しつつ、自分の務めは「主の道をまっすぐに」するものだと答えた。自分の後からやって来る救い主が行なうであろう道づくりの、自分はあくまでも準備のための道を作る務めに過ぎないと言ったのだった。洗礼者ヨハネは、自分が備えるのは、救い主が神様へと人々を至らせようとする同じ道ではないことを認識していたのである。洗礼者ヨハネは、自分の作る道と自分の後に来られる救い主が作る道が、どれほど違うかをしっかりと悟っていた。その思いが「その人はわたしの後に来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」との言葉に現れていたのである。
洗礼者ヨハネは、そのような道を備えるために、自分は水で洗礼を授けているのだと語った。彼が作る道とは、水で洗礼を授けることによって設けられる道なのであった。ユダヤ人は、昔から水で体を清め、汚れを洗い流すことをしていた。またユダヤ人ではない人々が改宗する際に、そのような儀式をしていたといわれている。洗礼者ヨハネが作った道の特徴は、この儀式、すなわち洗礼を、ユダヤ人すべてに施したことにあったのではないかと私は思うのである。ユダヤ人であっても水で洗い清めねばならない汚れを持っているとして、すべての人に等しく洗礼を授けたのだった。すべての人が汚れを持っているゆえに神様によって清めていただかなくてはならないとの宣べ伝えが、洗礼者ヨハネがイエス様の先駆者として備えた道ではなかったか。しかし、どうやって実際に人々が抱えていた汚れを洗い清めていただけるのか。それは洗礼者ヨハネには、本当のところはわからなかったのである。「自分の後にこられるメシアこそがそのことを成し遂げて下さる。自分がやれるのは、自分の後に来る方のなさることの先駆け、あるいは、それを模するだけのこととして水で洗礼を授けることしかできない」と考えていたのだった。
洗礼者ヨハネは、人々に水で洗礼を授ければ授けるほど、その限界に気が付いたのではなかったか。それはあくまで水による洗い清めにすぎなかった。水による洗い清めがどうして私たちが根源から抱えている汚れを洗い流すことができるであろうか。その限界に気づいたからこそ、誰よりも強く、またはっきりと、それができるでろう自分の後から来る方を求めるようになっていったのであろう。
こうして著者ヨハネは、罪を清められることを求めて洗礼者ヨハネから洗礼を受けた人々や、また洗礼者ヨハネを救い主として信じていた人々に、また広く自らの汚れというものをきれいにしていただきたいと願っていた人々に、それをして下さるのはイエス様だと語ろうとしたのだった。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 4月30日(日)復活節第3主日礼拝
10:01アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。 10:02すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ。 10:03モーセがアロンに、「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」と言うと、アロンは黙した。 10:04モーセはアロンのおじウジエルの子、ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せて、「進み出てきて、あなたのいとこたちを聖所から宿営の外に運び出せ」と命じた。 10:05彼らは進み出て、モーセの命令に従い、祭服を着たままの二人を宿営の外に運び出した。 10:06モーセは、アロンとその子エルアザルとイタマルに言った。髪をほどいたり、衣服を裂いたりするな。さもないと、あなたたちまでが死を招き、更に共同体全体に神の怒りが及ぶであろう。あなたたちの兄弟であるイスラエルの家はすべて、主の火によって焼き滅ぼされたことを悲しむがよい。 10:07しかし、あなたたちは決して臨在の幕屋の入り口から出てはならない。さもないと死を招くことになる。あなたたちは主の聖別の油を注がれた身だからである。彼らはモーセの命じたとおりにした。 10:08主はアロンに仰せになった。 10:09あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。これは代々守るべき不変の定めである。 10:10あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、 10:11またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである。
1 私は、レビ記というのは、イスラエル人が出エジプト直後に神様から与えられた十戒を補うものではないかと理解してきた。神様は「エジプトの国」や「奴隷の家」といった言葉が象徴的に示している奴隷というようなものに、イスラエル人が二度とならないために、その具体的な処方箋として十戒を授けたのだった。そして十戒で示しきれなかったものが、このレビ記で補われていると受け止めてきた。
このレビ記には、3つの柱がある。すでにその二つを学んできた。1つ目は神様に献げ物を献げるということであり、2つ目はあなたがたも聖なる神様のように聖なる者であれという教えであった。そして3つ目が祭司についての定めである。3つの柱の中で、中心的な柱と言ってよいのは「わたしは聖なる者であるからあなたたちも聖なる者となりなさい(レビ記11章45節)」という教えだと思う。イエス様が山上の説教の中で「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者でありなさい(マタイによる福音書5章48節)」と言った。この言葉は、レビ記にあるものが言い換えられたものである。だから、この柱はレビ記だけ、また旧約聖書だけを貫いているものではなくて、聖書全体を貫いている大黒柱と言ってもよい教えなのである。レビ記における他の2本の柱も、この大黒柱を建てるためにこそ必要なものだと言ってよいであろうし、祭司という存在も、要は神様が聖であるように、わたしたちも聖なる者となるためにこそ必要なものなのである。
2 さて、そもそも聖なる神様と同様に私たちもまた聖なる者となるということはどういうことなのか。また、なぜそのことが私たちをして「エジプトの国」や「奴隷の家」といった言葉で象徴的に示されるところから導き出される処方箋となるのかということは、聖書全体を貫く大黒柱のようなものなので、何度学んでも学び過ぎるということはないのである。
10節に「聖と俗、清いものと汚れたものを区別する」という文言があって、私たちはどうしても神様の聖ということを「清さ」と同義語だと考えてしまいがちである。また、1節以下に書かれているような出来事があり、その出来事を受けての3節には「わたしに近づく者たちにわたしが聖なる事を示そう」とあることから、どうしても私たちは、神様の聖とは恐ろしいこと、つまり不用意に私たちが神様の聖に触れると、それによって滅ぼされるようなこととして受け取ってしまうのである。「神聖にして犯すべからず」という言葉のように。しかし、神様の聖とはそもそもそういうものであろうかと、神様が聖なるお方だから私たちも聖なる者となれとは、そのような恐ろしい教えや処方箋なのだろうかと私はいつも思い、それを繰り返し申し上げているのである。
エズラ記9章6節以下で、エズラは「(自分たちがバビロン捕囚を生き延びることができたのは)あなたの聖なるところによりどころを得るようにさせられ」たからだと語っている。「こうして、私たちの神はわたしたちの目に光を与え、奴隷の身にありながらも、わずかに生きる力を授けて下さいました」と彼は祈った。このエズラが祈ったことこそが、神様の聖をよりどころとして捕囚だったイスラエル人が聖なる者とされたゆえのことだと私は思うのである。では、それは捕囚だった彼らが、いわゆる清いとされる者となることだったのであろうか。神様の神聖さに近づかず犯さないということを意味していたのであろうか。いや、そうではなかったと私は思うのである。もし清さを保つというのであるならば、そもそもバビロニアで捕囚状態にあったことこそが、もはや汚れていたとしか言いようがないと私は思うのである。ローマの信徒への手紙には、汚れているとされる食べ物を食べてよいかどうかということが、教会の中で大きな問題となっていたと書かれていた。バビロニアで捕處状態にあったイスラエル人が汚れていない食べ物など手に入れることができただろうか。そのようなことにしがみついていたならば、50年以上続いた捕虜状態において、彼らは到底生き残ることなど決してできなかったと私は思うのである。
3 では、神様の聖をよりどころとし神様が聖であるように私たちも聖なる者となるとは、いったいどういうことなのだろうか。150ある詩編の中で、私自身が最も好きな103編の5節まででは、まず1~2節に「私の魂よ、わたしの内にあるものよ、こぞって聖なる御名をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と書かれている。「聖なる神様を忘れるな、その御計らい・御業を忘れるな、ひとつ残らず数え上げよ」というのである。では、聖なる神様の御業とは何かというと、3節以下にそれが数え上げられている。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出して下さる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにして下さる」と。
ここには、私たちが「清さ」ということで理解しているようなことは書かれてはいない。私たちが不用意にそれに近づくと滅ぼされるような恐ろしい神様の御業が、神の聖として数え上げられてはいないのである。むしろ私たちを滅ぼすのとは正反対の神様の御業が数え上げられているのである。ここでの私たち人間の有り様は、普通に考えられている神様の聖によって拒まれ遠さけられ近づくのを許されないようなものばかりである。汚れ・破れ・病・老いをかかえて死んで墓に行くしかない状態である。神様はそのような私たちを決して滅ぼすことをしないのである。その反対に、神様だけが持つ良いもので赦し、癒し、繕い、覆い、くるんで下さるのが聖なる神様の御計らいだと語っているのである。これこそが神様の聖なのである。神様の良いものをいただくということ、それに包まれくるまれることが、私たちも聖なる者となるということに他ならないのである。それは、私たち自身が、いわゆる清いものになることなどは、決して意味してはいないのである。私たち自身が神様と同じょうな性質を持つようなことなど意味してはいない。ただただ神様のすばらしい御計らいをいただくことなのである。
このことが私たちをして、「エジプトの国」とか「奴隷の家」とかの言葉で象徴的に示されている状態から解放して下さるのである。「家」というものは、つまり血のつながりをさしているが、国や血のつながりが、ここにあるような神様の聖なる御業というものをしてくれるであろうか。国や血のつながりをよりところにして生きることが、わたしたちを長らえる限り良いものに満ち足らせてくれるであろうか。血のつながりであっても、そうなった私たちをいかんともできないのである。ましてや国はそうなった私たちを切り捨てるしかしないであろう。もちろん国も大事である。血のつながりも不可欠である。しかし国も家もどうしようもできないことを、聖なる神様だけがして下さるのである。そのように国や家を見ることができるということが、私たちをそこから自由にするのである。
4 このようなことから神様は、祭司という存在が不可欠だと言っているのである。祭司のなすべきこととは、10節と11節に「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、また・・・教えることである」とある。
一体何が神様の聖なのか、そして日々の生活の中でその神様の聖にあずかって生きるとは具体的にどういうことなのかを、祭司は教えてくれるのである。私たちだけでは、それがどういうことなのか、わからないからである。しばしば私たちは「神様が聖であるように私たちも聖である」ことを全く間違って受け取ってしまう。私たちは、聖などではないことを聖なることと受け取ってしまう。国や血のつながりに縛られて、いつのまにか国や家が聖なることだと思ってしまう。逆に、神様がその聖によって与えて下さったことがわからず、それを俗なることだとか汚れとして受け取ってしまうのである。だから、それを祭司から教わる必要があるのである。ではそれができる真の祭司は誰なのか。牧師であろうか。いや、そうではないのである。イエス様だけが本当の祭司なのである。
1節以下に書かれている出来事は、人間の祭司がしばしば神の聖を間違って作り出してしまうことを象徴的に描いていると思う。アロンの二人の息子のやったことのどこが、「主の命じられたものではない、規定に反した炭火」であったかは定かではない。1節のはじめに「それぞれ香炉を取って」とあるので、祭壇に置かれていた香炉からではなく、私物の香炉から炭火を取って香をたいたということなのかもしれない。このように、いかに正式な祭司と言えども、神の聖を間違ってしまうのである。「それぞれ」の自分勝手な神様の聖を作り出してしまい、それを人々に示してしまうのである。
レビ記の多くの部分は、出エジプト直後に語られたというよりは、ずっと時代が下った、祭司が中心になって神様の聖とは何か汚れとは何かをかなり強固なものとして定着させた時代に書かれたものである。けれども、その祭司の教えが、果たして神様の御心にかなっていたのか、神様の聖を正しく教えていたと言えるのかは、はなはだ疑間なのである。1節以下の出来事というのは、このようなレビ記の文脈においては、祭司による正しい聖と汚れの教えこそが大切との教訓を引き出すためのエピソードとして語られているのだろうと思う。しかし私には、もっと根源的に、おおよそ人間でしかない祭司の教えには間違いが潜むということ、本当の神様の聖を必ず踏みにじる危険性を持っていることこそを示唆する出来事として理解したいのである。
であるから、私たちにとっての本当の祭司はイエス様ただお一人なのである。イエス様が十字架の上で「わが神・・・見捨てられたのですか」と叫んで息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことを思い起こす。イエス様の十字架の出来事こそが、何が神様の聖であり何が汚れであるかを明らかにして下さったのである。それまでの聖と汚れの間違った区別が破棄されたのである。間違った区別を教えられて神様の聖さが怖くて近づけなかった私たちを、そのようにできるようにして下さったのである。それまでは、苦しむこと、十字架の上で殺されること、また神様が自分を見捨てられたのではないかなどと口にすることは汚れでしかなかったのである。しかしイエス様は、それが聖なる神のひとり子の有り様であり、故に聖なる出来事なのだと教えて下さったのでる。復活の出来事によって、死んでしまうことや、遺体となって墓に葬られてしまうこともまた、聖なるものだと教えて下さったのである。
私たちは、イエス様というただ一人の真実な祭司によって立てられた祭司なのである。牧師は何よりもそういう存在であるが、しかし信従であっても、それぞれのところで祭司として遺わされているのである。モーセが神様から最初に言われた言葉は「あなたの立っている場所は聖なる土地だ」であった。しかし、それを告げるのが祭司たる私の務めです。「あなたの立っている場所は聖なるところなのだよ、すばらしい場所なのだよ」と告げることのできる祭司でありたいと思う。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 4月23日(日)復活節第2主日礼拝
14:13従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。 14:14それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。 14:15あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。 14:16ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。 14:17神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。 14:18このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。 14:19だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。 14:20食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。 14:21肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。 14:22あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。 14:23疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
1 信仰共同体のあり方について、大切なアドバイスが与えられている。14章1節以下から、ローマ教会の中に対立が起きていたことがわかった。13節に「もうお互いに裁き合わないようにしましよう」とある。14節と15節には、食べ物が汚(けが)れているとか汚れていないという文章が書かれている。ある食べ物を巡って、それを「汚れたもの」として食べなかった人々と、「いやそれは汚れている食べ物などはない」と言って何でも食べていた人々との対立があったことがうかがえる。その対立の根っこには、この福音書がずっと扱ってきたところのローマ教会の根深い問題、即ちギリシャ・ローマ人からクリスチャンになったいわゆる異邦人クリスチャンと、先祖伝来のユダヤ人からクリスチャンになった人々との対立が関係していただろうと思わざるを得ないのである。そういう背景があったがゆえに、この問題を扱った最後のまとめというべき15章7節以下のところで「福音はユダヤ人と異邦人のためにある」とのタイトルがつけられたのであろう。
このような対立は、世俗の人間の集まりでも起こることであろう。しかしそれが13節にあるように「お互いを裁く」というところまでは発展しないだろうと、私は思うのである。「裁く」という言葉は、もともとの意味は「裁断する」「切る」という非常に強い言葉で、相手の人格をばっさりと否定するというような意味を持った言葉である。「何でも食べてよい」という人と、「野菜しか食べない」という人との間で、お互いを揶揄しあうというようなことはあるかもしれない。しかし、相手の人格を否定するというところまで発展することはないだろう。ところが、信仰共同体では、往々にしてそうなってしまうのである。それが信仰共同体ならではの難しいところかもしれない。
なぜそうなってしまうのか。要は、その食べる食べないという判断について、それぞれの信仰がからんでくるからなのである。それぞれの信仰において、食べること、また食べないことが、あたかも神様からの絶対的な指示・命令・物差しのようになってしまっているのである。本当はそうではないのに、そうなってしまい、お互いにその絶対的と信じる物差しを当てあって、お前は神様が示した基準に合わないと言って「裁く」の言葉通りに相手をばっさりと切り捨てるのである。
2 このようなローマ教会の対立に対して、パウロが語ったアドバイスは、信仰共同体において「神様が与えて下さった本当に絶対的な物差しは何か」ということだった。それがクリアされれば、逆に相対的であってよいこと、つまり各人がそれぞれの信仰において多様でありバラバラであり自由であってよい部分がはっきりしてくるのである。そのようなバラバラであってよい部分については、多様性を認めて、たとえ違っていても裁くことはせずともよいのだということがわかってくるのである。
では、信仰共同体において神様が与えて下さっている絶対的な物差しは何なのか。14章の前半に、ずっと繰り返されていることだが、神様がイエス様が主人であり私たちはその召し使いなのだということがそれである。そして私たちが召使いとして生きる具体的なあり方は、11節で引用されている旧約聖書の箇所(これはイザヤ45章と49章からの引用)に、「すべての舌が神をほめたたえる」とあるように、要は礼拝を献げる姿なのである。礼拝を献げることが唯一の神様からの物差しであり、それ以外は、どうでもよい事柄だということである。神様をイエス様を主人として礼拝を捧げているのなら、日々の生活において何を食べるとか食べないとかはどうでもよい問題なのである。
しかし、信仰共同体としての教会は、ただ礼拝に関する事柄だけを扱っているというわけにはゆかない現実がある。本日のこの礼拝後の教会総会では、いつもの議題に加えて2年ほど前に召天された姉妹が教会に遺贈して下さった家と土地を、現在管理人としてお住まいになって下さっている兄弟に買っていただくという特別の事柄を議さなくてはならない。教会は、この世にあっては、信仰共同体・礼拝共同体であるだけではなく、財産を持ったりお金を扱ったりしなければならない組織でもある。それもまた教会にとって無視できない大事な事柄であることは確かなのである。そこでしばしば意見の対立が起こるのである。私の父は、教会の移転問題を巡って牧師や他の役員たちと対立して、教会を離れてしまった。このよう私たちに、聖書が語りかけているのである。そのような事柄を巡って、どうしても意見のぶつかりあいは避けられず、批判の応酬もあるかもしれない。しかし、それは信仰共同体にとっての根幹の事柄ではない。神様から与えられた絶対的な物差しを当てて裁き合うべき事柄ではないのである。神様をイエス様を主人として礼拝を献げるということだけが根幹なのであるから、これ以外の点では、意見の一致をみることがなくてもよいのである。同じにならなくてもよい。それがないからと言って信仰共同体に失望し、私の父のように礼拝共同体から離れてしまうということではいけない。礼拝を共にしていれば、あとはバラバラであってよいしバラバラでしかありえない事柄がある。
こういう事柄について教会が事を決しなければならないからこそ、総会という会議を開くのである。そこでは、誰かが主人にならないため、神様が主人であることが目に見えて現れるため、多数によって決するのである。また普段の意志決定は、この総会の場で選挙によって選んだ役員・長老・執事たちに委ねるのである。その決定は、それぞれの思いとは違うかもしれない。しかし、それが、信仰共同体にとっては、いわばどうでもよい事柄であれば、安々と受け入れればよいのである。自分と違う判断であってもよいのである。大事なことは、礼拝を献げることなのだから。信仰共同体が礼拝共同体であるかいなかこそが、その共同体を計る唯一の絶対的な神様からの物差しなのである。
3 パウロは、このようにローマ教会において生じていた間題へのアドバイスを語ってきたが、なお足りないものを感じ、さらに書き加えたのだった。一緒に礼拝を守っているのだから、ある者が肉を食べようとも、別のある者が食べないことがあったも、そのようなことなどどうでもいいことじゃないかとパウロは勧めたのだったが、それだけでは対立が解消しないだろうと感じたのであろう。
ローマ教会で起きていた対立が典型的に生じていたある具体的な場面として、私はこんなシーンを想像してしまう。私たちも月に一度、愛餐会を行なっている。初代の教会では、礼拝の中で愛餐会をよく行なっていたようである。聖餐式と愛餐会の区別ができないほどであった様子が、コリント人への手紙に描かれている。そこであるとき、先祖伝来ユダヤ人が食べてはいけないとされてきた食べ物が出された。もしかしたら、ある者たちが、わざと出したのかもしれない。食べようとしない人々―おそらくはユダヤ人からクリスチャンになった人々―に対して、わざとそういう食材を出した人たちは、14節にほのめかされているように、イエス様の言葉を持ち出したのであろう。たとえばマルコによる福音書7章15節には「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものはない」とあある。また、ペトロが異邦人に伝道するきっかけになった使徒言行録10章に書かれている出来事もそれである。「神様は、どのような食べ物も汚れてなどいないと言っているのに、どうしてあなたたちはいつまでもユダヤ人の枠を出られずにタブーにとらわれているのか」と責めたのだった。確かに一理ある主張である。だからこそ、こう言われて食べざるを得ない心境に追い込まれた人も出てきたであろう。そのような様子が22節以下に書かれている。自分の決心にやましさを抱き、疑いを持ちながらも食べてしまったが、それが苦になって、結局は教会から離れてしまった。そのような人が続出して、礼拝共同体が、何か冷え冷えとしたものになっていってしまっていた。そのような様子が想像できるのである。
ローマ教会における異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンとの間には根深い溝があって、多様性を受け入れ合うことができなくなっていたのだった。そのような彼らに対して、さらにパウロが語ったアドバイスの中心が、この17節から19節ではないかと感じた。まずパウロはここで「神の国は飲食ではない」と語った。「神の国」とは、ここではそれを先取りして幾分なりとも地上で味わうところとしての教会や信仰共同体と言い換えてもよいのである。信仰共同体において根幹となるものは飲食ではないとパウロは明言した。確かにイエス様の言葉、また使徒言行録10章に書かれた出来事から言えば、いまだに食べ物のタブーに縛られているのはおかしいと言うことはできる。しかし、それをこのローマ教会で取り上げること、それも、わざわざ相手をやり込めるため、無理やり自分たちの主張を受け入れさせるために、あえて取り上げるようなことではないのである。
では、信仰共同体における根幹は何か。それは飲み食いの問題ではなく「聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と言うのである。イエス様を信じる信仰によって、聖霊を通して与えられる義、つまり神様に受け入れられ、つなげていただいたことによる平安と安心と喜びを味わうということなのである。それを礼拝でいただくのである。その同じ食べ物を礼拝で神様からいただけているなら、この世の食べ物を食べるか食べないかといった問題は、全くどうでもよいではないかとパウロは言うのである。まして、それをわざわざ問題にして、せっかく神様から義と平和と喜びという糧を礼拝で共にいただいている兄弟姉妹をやり込めて、礼拝共同体から離れさせてしまうなど、全くの本末転倒だと言っているのである。
さらに、「キリストに仕える人は・・・追い求めようではありません」とある。ここでもまた「キリストを主人として仕える」ということが語られている。そして、その後に描かれている事柄というのは、イエス様に仕えている信仰共同体におのずと現れてくるありさまではないかと感じるのである。それが現れていれば、その信仰共同体がちゃんとイエス様を主として仕えている指標のようなものというわけである。いわば信仰共同体の健康診断の数値基準のようなものである。それは、その共同体が神様に喜ばれて人々に信頼されていることだとある。信仰共同体が神様に喜ばれているか否かは、私たちにはわからないが、教会が周囲の人々によって信頼されていれば、それをもって神様に喜ばれていると言ってよいのである。私が赴任して早くも7年目に入るが、着任以来ずっと教会がこの地域にあってなくてならない存在となることを目標として掲げてきた。この教会がこの地域の人々に信頼されるようになったといってよいのである。それが神様からこの信仰共同体が喜ばれているという証拠となるのである。
また、その共同体が平和であり、「互いの向上に役立つことを追い求め」ているかどうかも、その証拠といえよう。「互いの向上に役立つ」とは、原文では経済・エコノミクスという言葉の語源となったオイコノメーという言葉が使われている。もともとは建築用語で、建て上げられてゆくという意味である。信仰共同体が何よりも平和なところ、安心があふれているところとして建て上げられているかどうかが大事だとパウロは言っているのである。信仰共同体がこのようになるためには、この共同体の根幹にあるべきことが何か、絶対的な物差しが何かを見失わないことなのである。信仰共同体は「飲食ではない」とはっきりと言い切れることなのである。この飲食にあらずという言葉には、様々な事柄をあてはめることができる。私たちは一昨年、会堂改修を行った。それでも「会堂にあらず」と言うことができる。本日この礼拝後の総会で、この教会が財政的に、なかなか大変である事実にも日を向けなければならないが、それでも「お金にあらず」とも言えるのである。「根幹にあらず」ということについては、あえて大きな問題とはせず、対立があっても裁き合わず、根幹であるところの礼拝共同体として神様に仕え、ひたすら義と平和と喜びを大事とする信仰共同体でありたいものである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 4月16日(日)イースター(聖霊降臨日)礼拝
16:01安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 16:02そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 16:03彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 16:04ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 16:05墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 16:06若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 16:07さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 16:08婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
1 イエス様が十字架の上で、神様が自分を見捨てたのではないかと口にしたのは、他でもないイエス様の弱さの現れだったのである。しかし、イエス様が弱さを担って下さったからこそ、私たちも弱くてもよいのだと言っていただけるのである。イエス様のこの弱さは、多くの人の躓きの石となり、嘲りの対象となったのである。しかし、最初に福音書を書いたマルコは、たとえどれほど多くの人が躓き嘲ったとしても、イエス様が十字架の上でこのような弱い者になって下さったことが、それ以前には、私たちと神様とを隔てていた壁を崩し、私たちをして「この人こそ神の子であった(15章39節)」と言ったローマの百人隊長のように信じさせて下さる姿なのだと確信を持っているのである。私たちも、神様と特別な間柄にある神の子どもとして、ひとりひとり十字架を背負わざるを得ずに「神様は私を見捨てられたのか」と言ってしまうことがある。それを抜きにしての信仰生活はあり得ないのである。その中で、私たちが「神様は私を見捨てられたのか」と叫ぶことは、決して私たちが神の子ではないということの現れなどではない。むしろ、百人隊長が言ったように、本当に神様の子どもであればこそ、このように呻(うめ)くのである。
2 このような弱さの肯定とでも言ってよいこのマルコの福音書の結び部分が、他の3つの福音書の結びと比べていかに異なっているか、独特なものであるか。この福音書の最後の言葉として「婦人たちは・・・恐ろしかったからである(8節)」と書かれている。他の3つの福音書は、復活したイエス様と女性たち、また弟子たちとの再会の場面が書かれ、彼らが福音を信じそれを宣べ伝える者とされてゆくシーンが描かれている。他の3つの福音書が、喜びの知らせである福音の結びとしていかにもふさわしい、いわばハッピーエンドで終わっているのに対して、マルコはそのようには書き記さなかったのである。
16章9節には、[ ]の印が付けられている。この部分は、定説として-もともとあったのに紛失してしまった部分だとの異論もある-後の人々が書き加えた箇所であり、もともとマルコが書かなかった部分であるとの考えが一般的である。よりにもよって福音書の結びがこのようなものではあってはならないと考えた人々が、他の福音書を参考にして書き加えた部分なのである。
では、なぜマルコがあえてこのような終わり方でこの福音書を閉じたのか。勿論イエス様の復活はなかったとか、復活のイエス様と女性たちや弟子たちとの再会がなかったなどと主張しようとしたのではなかった。マルコは、逃げていった女性たちが最初の復活の証人となり、最も初期の教会において、なくてはならぬ役割を果たしていたことをよく知っていたのであった。この福音書を読んだ当時の人々も、当然によくわかっていた。マルコは、このような人々が最初は、恐れ逃げてしまうような人たちだったと言っているのである。「そのような人々が、最初の復活の証人となり、教会の重要な指導者になっていったのだから、あなたがたも安心しなさい。」というメッセージなのである。つまりは、弱さの肯定なのである。十字架上でイエス様が「わが神・・・」と叫ばれた弱さが、なくてはならない意味を持っていたように、女性たちが逃げてしまったように、弱さを持っていたこと、ひいては私たちも同じような弱さを持っていることに意味を見いださせ肯定しているのである。
マルコはおそらく、多くの人々が復活したイエス様に、もはや会うことができず、ただ自分の記す福音書を通して、それを知るしかないという状況をおもんばかったのだった。そういう中で、愛する人の死、その遺体、墓に行かねばならないこと、また自分自身の死に向かい合わねばならない人々のことを考えていたのである。この女性たちが一体何を恐れ震え上がっていたのかは、はっきりとは書かれていないので、想像するしかないが、最愛の人が十字架の上で殺され、よくわからないがその遺体もなくなってしまうという、とんでもない状況に恐れを抱いたのではなかろうか。不思議な若者から、イエス様の復活のことを聞いても、そのようなことは到底受け入れがたく、十字架の死と、その遺体がなくなってしまった事実に自分たちだけでは立ち向かうことなどできない弱さが、彼女たちをそうさせてしまったのだった。私たちも、みなそうであろう。イエス様の復活に、また、死んだ人がよみがえるという出来事に、だれひとり出会えない。私たちは、ただ福音書を通してそれを知るだけなのである。それなのに、愛する人の死、また自分自身の死に向かい合わねばならない。それは、いろいろな意味で震え上がるほど恐ろしいのである。逃げ去りたいのである。
3 しかしマルコは、このような女性たちだからこそ、最初の復活の知らせがもたらされたと暗に語り、彼女たち、ひいては私たちの弱さを肯定しているのである。別の言い方をすれば、悲しみを抱えて墓に行き、そして悲しみにさらに恐れを加えられ、逃げ帰るしかなかった女性たちがいなければ、復活の証言はもたらされることはなかったのである。墓に赴くこと、そもそも私たちが死人を抱えること、死について様々な恐れを抱き震えあがり正気を失い逃げてしまうしかないこと、それは普通の見方からすれば、とてもネガティブなことである。しかし、マルコはそのことこそが、そこに置かれた女性たちに最初の復活の知らせがもたらされ-当初は受け入れることができなかったとしても-福音が宣べ伝えられてゆく場所・機会になったのだと肯定したのだった。
愛する人の葬儀をきっかけに教会に足を運ぶようになり、受洗にまでいたったという人は、多くおられる。私の前任地でも、当時、礼拝出席者が40名弱の会員の内の5名ほどがそういう人たちであった。それはなぜか。ひとことで言えばキリスト教という宗教が、キリスト教の信仰が、死を、また墓を肯定するものだからと言えるのである。残された人々の悲しみや辛さを肯定するからなのである。死や墓が否定されては、残された者はいたたまれない。仏教という宗教が根源的に持っている制約がここにあると私は考えている。「仏ほっとけ」という言葉がある。仏教という宗教は根源的には生老病死という私たちのありさまを、否定的にしか捉え得ないのである。そもそも死に価値を置かないのである。仏教には根源的に、死に対して語る言葉がない。しかし、キリスト教にはある。死は否定されるべきものではないし、墓もなくてならないものである。それは、イエス様が、そこから復活したということがあるからなのである。イエス様の死を悲しみ、悲しみを抱えて墓に赴いた女性たちが福音を宣べ伝える者とされたからなのである。
大切な人をなくし、その墓に赴き、また悲しみを深くするという歩みを続けている人々が、そういう歩みの中で教会の礼拝においでになった。本日、転入会なさるご夫妻は、2年ほど前に、与えられたばかりのお子さんを召されるという悲しみを体験された。お子さんが召されたその日の夕拝においでになったことを覚えている。それ以後、ご夫妻はしばらく私たちの教会の礼拝にはおいでにならなかった。今こうしてイースターの日に転入会されるのを不思議な導きと感じている。このマルコ福音書のこの箇所を読んで、悲しみに留まり震え恐れるということに、ある逆説的な貴さのようなものを深く感じるのである。神様は、女性たちのそのような悲しみを、大切な器として用いらられたのだった。悲しみや恐れに留まっていてもよいのである。それを神様は用いて下さるのだから。
4 さて、墓に赴いた女性たちが見聞きした事柄はどういうものだったのか。女性たちが最初に見たのは、墓の入り口に置かれていた大きな石が転がされていたということだった。おそらくは盗掘のようなことを防ぐために、また死人が墓から彷徨い出て悪事をしないようにとの理由から、大きな石が置かれて墓の入り口を塞いでいたのだろうと思う。私は、この石がとても象徴的な存在だと感じる。死んだ人は、死の世界、地下の世界、ただ腐ってゆき骨になり何の希望もない世界に閉じ込められてしまうのだという、生きている者がどうしても抱いてしまう見方というものを表している。イエス様こそ、十字架の上で殺された者であったから、死人の中でも一番呪われ、それこそたたりを起こすのではないかと考えられるような存在として、何よりも誰よりも閉じ込めておかねばならないと思うのである。しかし、そのような石はすでに転がされてしまっていたのだった。これは、死んだ人をそういう地下の希望のない世界に閉じ込めておける石などどこにもないということの現れなのである。イエス様は、そのような世界に閉じ込められてしまうとされる死人の先駆者として、この石をはねのけて復活されたのである。
第二には、女性たちが、十字架に付けられたイエス様は、復活し、ここにはもうおられないと聞かされたことである。「十字架に付けられたイエス」とは、人間の悪しき力によって、生命をはじめ様々なものを剥ぎ取られ奪われた存在としてのイエス様のことを指している。女性たちは、イエス様を墓の中に、そのような存在としてしか探すことができなかった。私たちも同じである。残された者たちは、死んでいった人を、いつまでもどこまでも、病気や突然の事故や災害によって生命を剥ぎ取られた存在としてしか探すことができないのである。しかし、神様の使者は、「あの方は復活してここにはおられない」と告げたのだった。イエス様はもはや、人間の悪しき力によって剥ぎ取られた者として墓に留まっているのではなく、神様の良き力によって永違の生命を与えられた者となっておられるとのメッセージなのであった。
そして第三は、女性たちが、復活したイエス様がペトロたちよりも先にガリラヤに行って、そこで彼らと再会することを告げられたことである。ペトロたちが赴くガリラヤとは何を意味していたか。それは、彼らがイエス様の弟子であることをやめて、昔のガリラヤの漁師に戻ろうとしていたことを表している。これまた弟子たちの弱さと言える。しかし、その弱さの典型であったような場所に、イエス様はわざわざ先に行ったのだった。弟子たちの強さが至らせた場所で待つというのではなく、弱さが至らせた所で待っていて下さるというのである。
私たちは、以上のような出来事やメッセージを、不思議な若者からも、ましてや復活されたイエス様からも直接聞くことはできない。知ることができるのは、この福音書からのみである。これだけでは、愛する人の死や、その墓や、また自分自身の死に向かいあうという恐れを克服することはできないかもしれない。しかし、それでもよいのである。この女性たちもそうだった。そこにいたからこそこの知らせを聞き、最初は逃げ帰ってしまったけれども、そこから変えられてゆき、復活の証言者となったのだから。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 4月9日(日)棕櫚の主日礼拝
15:33昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 15:34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 15:35そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 15:36ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 15:37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 15:38すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 15:39百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 15:40また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 15:41この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
1 受難週が始まる主日を特別に「棕潤の主日」と呼んでいる。この呼び方の由来は、「子どものロバの背中にまたがってエルサレムに入ってこられたイエス様を、人々がなつめやしの枝を持って迎えた」とヨハネによる福音書の12章13節に書かれているからである。十字架の上でイエス様が口にした7つの言葉のうち、ルカによる福音書には3つが記されていた。
それは、「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」という言葉だった。この言葉は、旧約聖書の詩編22編の冒頭に書かれている。マタイによる福音書の27章46節には、1文字だけ違う「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という言葉が記されている。、注解書では、マルコによる福音書のものは、当時のイスラエルの人々が普段、話し言葉として使っていたアラム語によるものであり、マタイによる福音書のものは、当時もっぱら礼拝や儀式などでしか使われなくなっていたヘブル語によるものだと解説されている。この言葉の意味は、34節に書かれている通り「わが神・わが神・なぜ・私を・お見捨てになったのですか」である。イエス様が、十字架の上で、このような言葉を口にしたということは、多くの人々の躓(つまづ)きになってきた。
10代の頃の私は、このイエス様の言葉を読むのが怖かった。神様の計画における受難の必然というものを何度も何度も語り、迷うことなく十字架へと進んだはずのイエス様が、ここに至って、神様が自分を見捨てたのかと問うたということは、あたかもイエス様が信仰を失ってしまったかのように思えた。イエス様でさえそうであったのならば、いわんや私たちはと、恐れを抱くのである。「このような言葉を口にする者が、どうして救い主でありえようか」と人々は嘲(あざけ)ったのだった。
2 このような躓(つまづ)きを回避するために、様々な手段が取られ、解釈がなされてきた。ルカによる福音書とヨハネによる福音書では、当然、最初に書かれたマルコによる福音書のこの記述や、それを下敷きにして書かれたマタイによる福音書の記述を知っていたはずである。それでも彼らが、そのことを記さなかったのは、この躓きを避けようとした意図からであっただろうと思う。聖書は、写本として後代に伝えられてきた。写本が作られてゆく途中で、様々な異読、すなわち違う読み方が、あえてなされてきたのである。たとえば、「わが神・・・なぜわたしを嘲るのですか」とか「わたしの力は私を見捨てた」とかである。詳しくはわからないが、「エリ・・・」の言葉のどこかの文字を違う文字に置き換えると、おそらくこういった意味の文章になるのだろうと思う。そのようにしてイエス様は、神様に、なぜ自分を見捨てたのかと問うたということの躓きを避けようとしたのだった。
また、イエス様は、ただ詩編22編の最初の言葉を口にしただけだったのであって、その本心は詩編22編の全体で語られていることを語ろうとしたところにあったのだと解釈されることも、しばしばであった。しかし、これには無理があると私は思うのである。詩編22編の最後には「わたしの魂は必ず命を得・・恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」とある。今まさに死の際にある人が、どうしてもこのことを言いたかったとしたら、わざわざ詩編の冒頭の言葉を口にするよりも、この最後の言葉を言ったであろう。そもそも神様を讃えるのならば、もっとふさわしい言葉が詩編の他の箇所に沢山あり、あえて詩編22編の最初の言葉を口にする理由がない。やはり、この詩編22編の最初の言葉をロにしたというところに、大きな意味があったのである。
3 福音書を最初に記したマルコは勿論、隠しようのない事実だったから、このことを書いたのであろう。それ以上に、たとえこれを書くことによって、多くの人がイエス様が救い主であるということに躓き、イエス様をあざ笑うことになったとしても、ここになくてはならぬ意味があるという明確な意図をもって、この事実を記したに違いないのである。
その意図は、38節に記されている「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と、39節にあるローマ軍の隊長である百人隊長が「イエスがこのように・・・『神の子だった』」と告白したことが記された点に如実に現れていると思う。「神殿の垂れ幕」が、どこの垂れ幕だったかは定かではないが、要は神殿の聖なる場所とそうでないところを隔てている幕であった。特定の人々だけが神様に近づけるようにし、そうでない人々を神様から隔(へだ)てるための幕だった。この隔ての幕が真っ二つに裂けたということは、それまで人々を神様から隔てていたものがなくなったということを意味している。だからこそ、それまで神様から隔てられていた最たる者であったローマ軍の隊長が「この人は神の子だった」と言えるようになったのだった。
パウロが第1のコリントの信徒への手紙の1章23節で「(十字架につけられたキリストは)ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなもの」だと言ったが、十字架につけられたイエス様が「エロイ・・」と口にしたことこそが、躓きや愚かさの最たるものなのである。しかし神様は、ある人には躓きであり、また、ある人には愚かな事実を示して、これを信じる者を救おうと考えたのだとパウロは、この第1のコリントの信徒への手紙の1章21節で言ったのだった。イエス様が十字架の上で「エロイ・・・」と叫んだことは、確かに多くの人を躓かせたに違いない。しかし他方では、それまで神様と私たちの間にあった隔てを切り裂くものでもあったのである。それまでは到底、神様に近づくことができず隔てられていた人々を、この百人隊長のように、神様を信じることのできる者へと変え得る出来事となったのである。それは、躓きや愚かさを信じる者を救おうとした神様の御業なのである。
4 それでは、イエス様が十字架の上で「我が神・・・」と叫んだことによって、それまで私たちと神様との間にあった、どのような隔ての幕が取り除かれることとなったのか。
この幕とは、神様を信じる者は決して「神様は私を見捨てたのではないか」などど思ってはいけないのだと、決して口にしてはいけないことばだと思い込んでいる私たち自身の中にあるということである。そのような者は、神様に近づくことはできないと、神様を信じる者とは言えないと、そして神様から隔てられていると私たちは思っている。信じるということと「神がわたしをお見捨てになったのではないか」と疑うこととは、決して相容れない事柄だと思い込んでいる。疑う者は、神様から隔てられ、聖なる領域に入ってはいけない者として排除されると思っている。これが私たちと神様とを隔てている幕なのである。
このような私たちに対して、マルコは驚くべきメッセージをもたらすのである。他でもないイエス様が十字架の上で「なぜ私をお見捨てになったのか」と口にしたではないか。このイエス様を見て、異邦人のローマ軍の隊長は「本当にこの人は神の子だ」と告白したではないか。イエス様がこのように口にしたことは、神様を疑うことや信仰が揺らいでしまうことと、神様の子であることとは、決して矛盾しないということの現れなのだ。むしろ、神様の子だからこそ疑うしかないこともある。神様を信じることの中には、疑ってしまうことも含まれているのだ。そういうメッセージなのである。
なぜ、神の子、つまり神様との深い間柄を生きる者の歩みの中に、疑いや動揺も含まれているのであろうか。私たちの親子関係においても、子どもは親の心がすべてわかるわけではない。親がなぜこのことを許してくれないのか、なぜこのように厳しいことをやらせるのか、わからないのである。親子であるからこそ嘆くし、ぶつかりあうこともしばしばなのである。しかし、それが親子の間柄なのである。神様と誰よりも深い間柄にあったイエス様は、受難の必然性をよく分かっていたであろう。だからこそ、最後の晩餐で、自分自身の与える命の犠牲が、人々の救いにとって不可欠だとの遣言を残したのだった。
しかし、そのイエス様でさえも、十字架上のあまりの苦しみの中では、その必然性を見失なってしまった。なぜ、この苦しみなのかと呻(うめ)いたのだった。イエス様でさえ、父なる神様の御心のすべてをわかっていたのではないと言わざるを得ないのである。ましていわんや、私たちは、なのである。
神様は、私たちを苦しみになど合わせることはなさらないと信じて、そういう神様に近づこうとするなら、十字架上のイエス様の姿は、新たな隔ての幕となる。また、神様のなさることの意味がすべてわかるのだと信じて神様に近づこうとしても、そうなるのである。しかし、イエス様のこの姿は、私たちに、父である神様のすることが、私たちにはわかり得ないものなのだと語りかけているのである。なぜこれほどの苦しみをと呻くしかなく、なぜ私を見捨てたのかと叫ばざるを得ないこともあるのだと教えて下さる。それでも、父として、それがどうしても必要だから、子である私たちにその苦しみを与えるのである。父だからこそ、それは辛(つら)いのである。親として子の苦しみを見るのは、自分の苦しみ以上に辛いことなのである。代わってやりたいと思うほどなのである。しかし、どうしても必要なことなのである。イエス様の十字架の姿は、それまでの神様と私たちとの浅はかな間柄という隔ての幕を打ち破って、本当に深い深い間柄へと導き入れて下さるものなのである。
5 神様を疑ったかもしれないイエス様を、神様はどのように扱ったか。私たちの固定観念は、なぜと問うような者は、まず神様から遠ざけられ、そしてそのまま捨てられてしまうと思ってしまう。それこそが、神様と私たちとを隔てる幕なのである。しかし、「エロイ・・・」と叫んだイエス様を、神様は見捨てたか。けしからん子どもだと言って捨てたか。そうではなかった。復活こそ、その証(あか)しである。「もしかしたら、神様は私を見捨てられたのだろうか」と問うたイエス様を、神様は見捨てることはなかったのである。その間柄は決して断絶することなく、しっかりとつながっていたのである。これも、私たちを神様との間を隔てていた、これまでの幕を切り裂くものであった。たとえ私たちは神様を見失っても、神様は私たちを見捨てることはない。私たちが神様を疑ってしまう時は、いつまでも続くものではない。神様と私たちとの関係は、疑って終わりという間柄ではなく、その向こうにまた新しい間柄が待っているのである。イエス様と神様との間柄は、それは、決して一定不変のものではないということがわかる。何の疑いもなく十字架へと向かう時もあれば、「エロイ・・」と口にする時もある。それが私たち肉なる者の信仰のありさまなのである。しかし、その私たちをしっかりと、子どもとしてつかまえていて下さる神様の愛は、決して変わることがないのである。
十字架の上で死んでゆかれたイエス様を、遠くから、何人もの女性たちが見守っていたことが書かれている。ここには、12弟子や男性への言及がひとこともないことに心引かれる。「エロイ・・・」と叫んで死んだイエス様を、ローマの隊長以外の男たちは、だれひとりとして見守ることができなかったのである。私は、またここに、マルコの思いを感じるのである。男性は、「なぜ私を見捨てるのか」などと、弱い言葉を吐く者への拒否感を持つ。十字架の上で「わが神・・・」と叫んでしまったイエス様は、(もしかしたら差別用語かもしれないが)女々しい存在として映ったのである。そのようなイエス様が神の子であるとは、常に強さを求める男性たちに対しては、ますます高い隔てを作るものであった。しかし、女性たち -それまでのユダヤ人社会では、まさしく女性たちは、隔ての幕によって聖所に近づくのを許されていなかった- は、このイエス様によって神様に近づく者とされたのだった。このような女性たちだったからこそ、復活の報せがもたらされ、そこからキリスト教が始まっていったのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 4月2日(日)受難節第5主日礼拝
14:01信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 14:02何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 14:03食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 14:04他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。 14:05ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 14:06特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。 14:07わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 14:08わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 14:09キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。 14:10それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
1 ローマの信徒への手紙の12章と13章には、ローマ教会の信徒が抱えていた悩み、とくに奴隷階級だった人々が抱えていた切実な悩みに対し、パウロが語りかけた懇切丁寧なアドバイスが記されていた。14章1節から15章13節までには、ローマ教会の中で生じていた対立への助言が語られている。
その対立とはどのようなものであったか。まず2節・3節には、「何を食べてもよいと・・・食べない人は食べる人を裁いてはなりません」とあり、また5節には「ある日を他の日よりも・・・人もいます」とある。何を食べてもよいと考える人と、野菜しか食べない人がいて、何を食べてもよいと考える人々は、あるものを食べない人を軽蔑し、その反対に野菜しか食べない人は、何でも食べる人を裁いていたというのである。また、ある特定の日を重んじるか否かで、考え方の対立もあったようである。
背景に、どのような事情があるのかは、わかっていない。14節に「汚(けが)れたもの」という言葉がある。ユダヤ教における食べ物の「汚(けが)れ」ということが影響しているのかも知れない。あるいは、コリントの信徒への第1の手紙の8章に「偶像に供えられた肉」というタイトルが付けられた文章があるが、当時は、ギリシャ・ローマの神々に犠牲として献げられた動物の肉が市中に出回っていて、そのような肉を食べることについてのためらいが、ある人々には、強くあった。同じようなためらいが、ローマ教会の人々の中にもあったのかも知れない。また、「ある日を他の日よりも尊ぶ」ということについては、たとえば、ガラテヤの信徒への手紙の4章9節10節に、「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸力の下に逆戻り」することとして、「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」とある。これも、ユダヤ教の影響を受けてのことかも知れない。
2 このような対立があったということから、まず考えさせられるのは、通常の人の集まりであれば、このような事柄というのは、単なる好みや趣向、また習慣の違いで終わってしまうようなものであったであろうということである。野菜しか食べないベジタリアンもいれば、何でも食べるという人もいたはずである。1年の中で、特別な日を重んじるか否かも、単なる習慣の違いで終わった事柄であろう。世俗の人の集まりでは、お互いが、好みや習慣の違う相手を「批判」したり「軽蔑」したり、ましてや「裁く」などといったことには決してならない。ところが、信仰共同体では、往々にして、このようなことが起きた。なぜ信仰共同体ではこのようなことが起きるかというと、それは、その好みや習慣が、それぞれの信仰において絶対的な確信になっているからなのである。神様から与えられたと信じられる絶対的な基準が、「ねばならない」という物差しになっているのである。その物差しを相手にあてて「あなたのやっていることは間違いだ。神様が与えて下さった基準に当てはめると、それは間違っている」とやり合ってしまうのである。
5節の最後に、パウロは「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです」と書いている。この言葉の意味は、何を食べてよいかとか、ある日を重んじるべきか否かとかは、各自がその信仰において決めてよいということである。すなわち、一人ひとりが、めいめいの物差しをもって計ってよい相対的な事柄なのだということである。神様からの絶対的な物差しで計らなければならない事柄ではないということである。めいめいが各自の物差しで計ってよい事柄と、そうではなく神様からの絶対的な物差しをもって計らなければならない事柄を、この二つの事柄をきちんと区分けすることが、ごちゃまぜにしないということが、信仰共同体においては何よりも大事なのである。この二つの事柄がまぜこぜになり、曖昧にされときには、ひっくりかえされてしまうことが、信仰共同体ならではの問題なのである。ローマ教会においては、この二つの事柄があいまいになり、ゆえに、このような対立が生じていたのであった。これは常に、代々の教会でも生じてきたことなのである。この筑波学園教会においても、そのようなことがまったくなかったとはいえないように思う。
3、では、一体、信仰共同体において、何が「各自がその確信において」めいめいに計ってよい事柄であり、反対に神様によって絶対的に「こうあらねばならぬ」と決められた事柄なのであろうか。信仰共同体たる教会において、神様が私たちを計る絶対的な物差しとして与えて下さっているものとは何か。それをパウロは、3節の最後から4節で、そして7節以下で語っている。
ここには、召使いと主人という言葉が繰り返されいる。つきつめれば、信仰共同体においては、神様・イエス様・聖霊が主人であり、私たちはその召し使いであるということこそが、神様から与えられた絶対的な物差しだといえよう。そして、召し使いたる者が、主人に対して取るべきただ一つの「ねばならぬ」態度とは、6節から8節に何度も繰り返し出てくる言葉「主のため・主人のために」生きるということなのである。主人のために生きるということが果たされているなら、その召し使いが野菜だけを食べようと、肉でも何でも食べようと、それは、どうでもよい枝葉末節の事柄なのである。
ただ、ある人が「主のために生きようとしているか否か」を他人が、外見から判断するというのは、なかなか難しいことだと思う。そこで、6節に書かれている「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べない。そして神に感謝しているのです。」が、そのことの一つのヒントとなる。これには、私たちが「主のために生きる」姿と、「神様に感謝している」有り様とが、密接に結び付けられている。主人である神様に感謝を捧げている姿こそが、召し使いとして主人のために仕え生きている有り様だというのである。
では、神様に感謝を献げる姿とは何か。150ある詩編の中で、おそらくただ一つ、92編だけがタイトルに「安息日に」とあり、「いかに楽しいことでしよう。主に感謝をささげることは」と歌い始めている。この詩編の言葉から言えば、神様に感謝をささげるとは他のどんなことでもなく、私たちが安息日に礼拝をささげることなのである。礼拝をささげて、神様を喜び歌うことなのである。7日ごとに礼拝に時間と身体を献げ、そこで神様に感謝することは、この世の他の人々からすれば、信仰者たる私たちがなしている最大の無駄だと見えるものであろう。その時間に休息し、その時間に働けば、どれほど有益か。それなのに、愚かにも教会に出かける私たちである。讚美歌を歌い、献金を献げ、牧師の話を聞くために礼拝に出かける。「それが一体、何になるのだ」と。しかし、世の他の人々が何と言おうとも、私たちは礼拝を献げるのである。それこそが、私たちが神様の召し使いであるとの、最もはっきりとした現れなのである。神様という主人のために生きる姿なのである。
4 信仰共同体において、私たちが、主人である神様・イエス様・聖霊の召し使いとして生きるということは、端的には、礼拝を献げる者として生きるという絶対的な基準がはっきりと立てられるときに、4節の後半に語られていることが、教会の中に現れてくる。「召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」とある。
私たちが信仰共同体において立つか倒れるかは、ひたすら、神様が主人であり、私たちはその召し使いとして礼拝を献げるということが、この共同体における唯一の絶対的物差しになる点にかかっているのである。このことが暖味にされ、それ以外の枝葉末節的な事柄が絶対的物差しになるとき、召し使いたる私たちは倒れてしまうのである。
郷里の湯沢教会で、その創立から深くかかわり、熱心に礼拝に集っていた私の父が、あるときから、ぷっつりと礼拝に出席しなくなった。そのきっかけは、市の道路拡張工事計画を巡って、私の父が、牧師や他の役員と対立したことだった。まさに父は、倒れてしまったのである。私の前任地の郡山教会でも、会堂新築をきっかけにして、何人かの信徒が教会を離れて行った。それもまた、倒れてしまったということになる。どこの教会でも、このようなことが起きるのである。どれだけ立場や意見の違いがあったとしても、信仰共同体における唯一つの絶対的な物差しは、神様が主人であり、私たちは、たとえ牧師であっても、役員であっても、長老であっても、神様の召し使いにすぎないという絶対的な基準である。そして、礼拝を献げることこそが、召し使いとして、主のために生きる姿なのである。このことが、しばしば、会堂建築という事業がなされることの中では、暖昧になってしまう。いつの間にか、神様ではなく、別の誰かが主人になってしまう。それは、牧師であったり、有力な役員であったり、一部の信徒であったりするのである。それに連動して、礼拝生活が乱れてしまうのである。
そうであるから、こうしたこととは反対に、神様を主人とするところの礼拝生活がきちんと貫かれていれば、どんなことがあっても、召し使いたる私たちは立つことができる。神様によって立たせていただけるのである。この世の中の様々な物差しによって計られ、倒れていた人も、信仰共同体においては、神様を主人とし、自身を召し使いとして生きるならば、立たせていただけるのである。私たちが、その信仰共同体において立たせていただいているか、倒れていないかというところに、その共同体が神様を主人として生きているかということが現れてくるのである。
5、どうして、神様を主人として、私たちがその召し使いとして生きるときに、私たちは立たせていただけるのか。その理由が7節以下に書かれている。ここにあるような素晴しさを味わうからこそ、神様を主人とできた私たちは立つことができるのである。
7節に「だれ一人自分のために生きる人はなく」とある。「ために」という言葉は、いろいろな意味に解釈される。「自分のために生きない」とは、これまでの流れからは、自分が自分の主人になって自分自身を支え養い守る必要がないという意味に取れる。神様が私の良き主人なのである。召し使いである私を、すべて心配し、取り計らって下さる。だから、召し使いである私は、身体のことも、老後の住まいのことも、お金のことも、衣食住一切を思い煩う必要がないのである。私は家族から、特に妻からは、健康診断に行くようにと言われるが、もう20年以上も、健康診断を受けていない。私は病院で、精神的な緊張をほぐす薬をいただいている。先日読んだ週刊誌では、この薬は、飲まない方がよいという薬のナンバー2とされていた。私は持病の頭痛のため。頭痛薬もよく飲む。
しかし、牧師という仕事をするためにはどうしても必要な薬なのである。飲まない方がいいと言われても、飲まさるを得ない。それでどうかなっても、私には後悔はない。不養生をしたわけではないし、精一杯、召し使いとして主に仕える生き方をしようとした結果としてどうにかなってしまうのなら、何の後悔もない。そう思えるのである。だから、立たせていただけるのである。
8節に「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」とある。召使である私たちは、ひたすら主人である神様のために小さな働きをする者である。だから、その評価は、神様がしてくださる。だから私たちは、この世的な評価は、全く意に介する必要がないのである。私が牧師として、これまで果たし得たことは、まことに小さい。しかし、精一杯、主のためにと思ってなしてきたのである。だから、それを主人たる神様は評価して下さるにちがいない。そのように思えることこそが、どれほど私たちを力強く立たせて下さることか。この言葉によれば、死ぬことさえも、主のためになるのである。死ぬことも決して無駄ではなく、主人である神様・イエス様・聖霊のすばらしさを表す機会になるのである。きらきらとして、死の時にも、力強く立つことのできる私たちである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 3月26日(日)受難節第4主日礼拝
01:09その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 01:10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 01:11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 01:12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 01:13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 01:14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1 ヨハネによる福音書が書かれたのは西暦100年頃、今のトルコにあるエペソという町とされている。著者は、イエス様の12人の弟子の一人であったゼベダイの子ヤコブの兄弟だったヨハネが、彼の弟子であった長老ヨハネと呼ばれた人と共に、またそのまわりにいた弟子たちも加わって、言わば、彼らの共同作業で書かれたものである。
5節までに、この福音書のキーワード「言」・「命」・「光」が出てきた。さらに14節には、「肉」というキーワードが書かれている。著者は、なぜこのようなキーワードを用いて、この福音書の冒頭部分を書いたのか。また、このキーワードにどのような思いを込めていたのか。
2 ヨハネたちは、エペソ周辺の人々に、イエス様が救い主であることを教え宣べ伝えるためには、どのような用語を使うことが、最も効果的であるかを考えた。イエス様のことを宣べ伝えようとしていた人々とは、まず、ギリシャ・ローマの人々であった。特にエペソという町は、紀元前6世紀には、ギリシャ哲学の祖ともいわれるヘラクレイトスという学者を輩出した町であり、それから700年位経った紀元100年頃にも、おそらくは哲学の香り・伝統が色濃く残っていた地ではなかったかと想像する。そういう人たちが、まず一方にいて、もう片方には、ギリシャ語しか話せないユダヤ人もいた。この両方の人々に、イエス様が救い主であることを説き明かすのに最も有効な手法は何かと捜し求めたときに、見いだしたのが「言」であった。それは、ギリシャ語の「ロゴス」であった。
まずギリシャの人々は、ヘラクレイトス以来、このロゴスという概念にずっと引き付けられてきたのだった。バークレーの解説によれば「ギリシャ思想はロゴスの中に、創造的・支配的・指示的な神の力、また宇宙をつくり、宇宙を保持している力をみた」とのことである。ギリシャの人々が何百年間も魅了され続けてきたこのロゴスという概念は、同様に、ギリシャ語を話すユダヤ人にとっても不可欠なものであった。ユダヤ人にとって、十戒は、何より大事なものであった。出エジプト記20章1節を見ると、ギリシャ語に訳された聖書では、必ずそこにロゴスという言葉が入ってくる。
さらに、創世記1章にも、このロゴスが深くかかわっていることを、ヨハネは見いだしていた。「はじめにロゴスがあった」とは、創世記1章1節の「はじめに神は天地を創造された」とぴったりと重なる。具体的に、神様がはじめに創造されたのは光であったが、それは「神は言われた。光あれ」と創世記1章2節にあるように、他でもなく神のロゴス・言葉によって創造されたものなのであった。ロゴスとは、神様の創造的・支配的・指示的な力であると、バークレーの解説にもあったが、その創造的・支配的な力の根源にあるのは何よりも創造であり、それも第一に光が創造されたというこtなのであった。だからこそ、このロゴスには、命があり光があるとヨハネは1章4節で言っているのである。創造の中には、破壊や死もあろう。しかし、それは命を生み出すがゆえの死であり破壊である。春に新しい芽がふきでてくるためには、冬に枯れがなければならない。神様による創造も同じである。どんなに闇、すなわち破壊や死が覆う世界があっても、それを貫いているのは、命を創造する神様のロゴスであり、それこそが闇を生きざるを得ない私たちにとっての光明なのである。
3 さて、この「『ロゴス』が肉となって、わたしたちの間に宿られた(14節)」とは、バークレーによれば、この一文を言いたいがために、ヨハネはこの福音書を書いたとさえ述べている。では、どうしてヨハネは、これを言いたかったのであろうか。それが当時の人々にとって、どのようなメッセージだったのであろうか。
「肉」とは、原文のギリシャ語では、サルクスと言う。「肉体」とは、ギリシャ語でソーマと言う。これらは同義語のように使われることもあるが、全く同じではない。14節の直前、13節に「肉の欲・人の欲」という言葉がある。ソーマ(肉体)をもった私たちに、様々な欲を抱かせ、いろいろな悪を行わせてしまう部分を特にサルクス(肉)と言うのである。ギリシャの人々は、サルクスや、そのサルクスに動かされてしまうソーマを毛嫌いしていたのだった。彼らの古くからの諺「ソーマ・セーマ(ギリシャ語の辞書に載っている有名な諺)」は、「肉体は墓場である」という意味で使われるという。
このような長い闇の思想の積み重ねがあって、この福音書が書かれた一つの大きな理由ともなったグノーシス主義という思想が生まれ、当時の教会に入り込んできていたのである。「イエス様は、墓場であるソーマ(肉体)をまとって生まれた。それが救い主であるなどとは、とんでもない。」と考える人々が、教会に大きな影響を及ぼすようになっていた。教会の中で、大きな影響を及ぼしていた人々に対して、また、ソーマ(肉体)やサルクス(肉)を毛嫌いしていた多くのギリシャの人々に対して、ヨハネは真っ向から「ロゴス(言)がサルクス(肉)となって、イエスというサルクス(肉)となって私たちの間に宿られた」と大胆に語ったのだった。
そこに込められたメッセージは、つきつめれば、セーマ(墓場)と言われたソーマ(肉体)の肯定なのだと私は思う。確かに、ソーマ(肉体)は、サルクス(肉)の欲を抱かせて私たちに悪しきことをさせる。怪我や病気や加齢とともに墓場へと私たちを追いやるものである。しかし、だからといって、ソーマ(肉体)を毛嫌いし、全否定してしまったなら、人として生きることに何の意味があり喜びがあろうか。イエス様がサルクス(肉)となった必然は、私たちがソーマ(肉体)をもって生きることに喜びや意義を見いだすためなのである。ソーマ(肉体)として生きることに光を見いださせるためなのである。ソーマ(肉体)がサルクス(肉)において欲を抱き、悪しきことをさせるところから、私たちを解き放つためなのである。イエス様がサルクス(肉)になることを通して、私たちのソーマ(肉体)が、全く新しい働きをするように再創造されようとなさったと言えよう。そこに、神様のロゴスがあるのだと語りかけているのである。
4 14節の最初に「わたしたちの間に宿られた」とある。「宿られた」とは、単に人としてイエス様が私たちのところに来られたとか、生まれられたとかいうだけの意味ではないと私は思うのである。「宿る」とは、子どもが母の胎に宿るということと同じで、イエス様が私たちと切っても切れない間柄になることである。もしも無理やりそれを引きはがしたりしたら、大出血を引き起こすほどに密接なつながりを持つことを意味していると感じるのである。母にとって、子を宿すとは、どれほどの喜びであろうか。それと同じように、イエス様が、ソーマ(肉体)となりサルクス(肉)として生まれてくださったのは、それほどに私たちと切っても切れない間柄になって、イエス様を宿した私たちに深い喜びを与えるためなのであった。胎内に子を宿した母は、宿した子から様々なホルモンの影響を受けるとも言われる。そのように、私たちの中に宿って下さったイエス様から、私たちは決定的な影響を受けているのである。
このようなイエス様と私たちの間柄こそが、12節と13節で語られていることではなかろうか。「ロゴス(私たちの間に宿って下さったイエス様のこと)とは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は・・・神によって生まれたのである」と。それは、ヨハネの思いの中にもあったことだとわかる。私たちの間に宿って下さったイエス様を信じた私たちは、イエス様と、切っても切れない間柄になり、それは、あたかも私たちが神様の胎内に宿された者のようになることであり、神様の子どもとして新たに生まれる者とされたとヨハネは訴えているのである。墓場に向かうソーマ(肉体)を抱え、欲に引っぱられるサルクス(肉)を持つ者であることには何ら変わりはないが、それでも宿って下さったイエス様からの多大な影響を受けて、私たちのソーマ(肉体)やサルクス(肉)は、全く違うものとなれるのである。そして、墓場の向こうにはすばらしい神様の世界が待っているのである。
ローマの信徒への手紙の6章3節に「洗礼とはイエス様に結び付けられることである」と書かれている。イエス様に結び付けていただくことこそ、「イエス様を宿す」ことに他ならない。そうして私たちのサルクス(肉)、ソーマ(肉体)は、イエス様のすばらしいサルクス(肉)、ソーマ(肉体)と切っても切れない間柄とさせていただき、新たなものへと変えられてゆくのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 3月19日(日)受難節第3主日礼拝
08:20万軍の主はこう言われる。
更に多くの民、多くの町の住民が到着する。
08:21一つの町の住民は他の町に行って言う。
『さあ、共に行って、主の恵みを求め
万軍の主を尋ね求めよう。』
『わたしも喜んで行きます。』
08:22多くの民、強い国々の民も来て
エルサレムにいます万軍の主を尋ね求め
主の恵みを求める。
08:23万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』」
1、筑波学園教会は、来年の3月21日に、ちょうど創立40周年の日を迎える。本日は、39回目の創立記念礼拝である。創立記念礼拝における聖書箇所はいつも、その年度に主題聖句として掲げた聖書箇所である。
この、ゼカリヤ書8章23節は、私にとっては、愛誦聖句のひとつと言ってよい。この教会がここにあるように「あなたと一緒に行かせてほしい」と言っていただけるようになれたらと心から願って、改修工事が終わった今年度は、この聖書箇所を掲げさせていただいた。しかし現実は、その願いとははるかに遠く、わが子たちには「お父さんと一緒に礼拝に行きたい」とは言ってもらえずに、正反対のありさまである。
今は、来年度の教会定期総会の準備の時期である。その備えの大事なもののひとつに、定期総会に出席する資格を持つ「現住陪餐会員の範囲を定める」ということがある。私たちの教会では、会員のうち、過去2年の間に一度でも礼拝出席があったか、礼拝出席がなくても何らかの献金を献げて下さったかどうかを現住陪餐会員の基準としている。今年度は、残念ながら7、8名を現住陪餐会員から不在会員へと異動させなければならない。
「10人の人が1人のユダの人に対して『あなたたちと共に行かせてほしい』と願ったのは、神があなたたちと共におられると聞いたから」とあった。そうだとすれば、家族や会員が教会に来てくれなくなり離れてしまうのは、神様の「わたしたちと共にいる」ということが、その人たちにわからないからだとも言えるのである。その理由を、私たちがいけないからだと思ってしまうのである。けれども、この言葉が書かれた背景を知ると、そう語られた意味が分かってくる。
2、まず、このゼカリヤ書のこの言葉が、どのような歴史的な背景のもとに語られたものかを学びたい。ゼカリヤ書が書かれた年代については、1章1節に、はっきりと「ダレイオスの第2年」とあり、7章1節には「ダレイオス王の第4年」とも書かれている。ダレイオスの第2年というのは、紀元前の520年である。この年代がイスラエルの人々にとってどのようなときであったかと言えば、おおよそ以下のような状況が考えられるのである。
イスラエルの人々の祖国は、紀元前の586年にバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々は、バビロニアに捕虜として連れて行かれ抑留された。その期間は約50年、半世紀も続いたのだった。世界史においては、このように祖国を滅ぼされ、征服者のもとに捕らえられ、移動させられ、その期間が長く続けば、その民族の固有の歴史は終わってしまい、その民族が抱いていた信仰も消滅し、征服された国の中に呑み込まれてしまうのが常である。ところがイスラエルの人々 -ここでは象徴的に「一人のユダの人」と言われている- は、このような中にあっても、その固有の歴史も信仰も失わなかったのである。むしろその困難な境遇の中で、かえって民族としての固有な性格を確かにし、その信仰を新たなものとしたのである。
そして、紀元前538年にバビロニアを滅ぼしたペルシャのクロス王によって、イスラエル人は思いがけず故郷への帰還の許しが与えられ、それどころか瓦礫の山になっていたエルサレム神殿の再建への援助もいただけるようになったのだった。その様子は、エズラ記に詳しく書かれている。抑留生活が50年も続くと、人々はその場所の生活に根を張って、わざわざ帰還しなかった人々も多くいた。いっぽう抑留生活から帰還した人々の生活は、困難なものとなったはずである。そういう中で、帰還した人々が、まず何をしたかというと、自分たちの住む家を建てるよりも先に、エルサレム神殿の再建に着手したのだった。イスラエル人が帰ってきたことを喜ばない人々がいた。イスラエル人が50年間、バビロニアに抑留されていた間に、彼らの家や田畑を自分たちのものにしてしまった近隣の人々がいた。そうした人々のいやがらせもあり、とうとう神殿の再建工事は中断してしまったのだった。20年弱の中断が続いた。そして神殿再建工事が再開された時期こそが、このゼカリヤ書が書かれたときだったのである。だから、23節にある「その日」というのは、端的には、幾多の困難を克服してエルサレム神殿が再建された時を指しているのである。さらには、神殿を中心にして祖国が再建され、続々と人々が帰還してきただろう時をも指しているのである。
3、以上のような事情を知ると、10人の男が1人のユダの人に、なぜ「あなたたちと共に行かせてほしい。神があなたたちと共におられると聞いたから」と言ったかの理由がよくわかってくる。
「1人のユダの人」と「10人の男」というのは、祖国を滅亡させられたあとのイスラエル人とそれを取り巻く諸国の人々とを、見事に象徴的に表している表現だと思う。10とは完全数である。それは祖国を滅ぼされない立場にあって、捕虜として抑留されていったイスラエル人をながめてあざ笑っていた周囲の人々を指しているのである。また、帰還したイスラエル人をいじめた近隣の人々をも指している。これに対して「1人のユダ」とは、祖国を滅ぼされバビロニアに50年以上も抑留され、やっとのことで故郷に帰ってきたのに、さらに難儀な生活を余儀なくされていた孤立無援の圧倒的少数者を表しているのである。いつの時代社会にも、このような「10人の男」と「1人のユダ」の対比があるのではなかろうか。
この「一人のユダ」という言葉に、私は原発事故以後に、避難や離散を余儀なくされてしまった人々を重ね合わせてしまう。1人のユダは、10人の男に取り囲まれ呑み込まれ消えてしまうのが通例である。なぜ消えてしまうのか。それは自分たちの存在の存在意義を、すなわちその固有性を見失ってしまうからだと改めて思うのである。福島の人々もそうである。どこか肩身の狭い思いを抱え、自分たちは今の時代社会のやっかいもの余計者であるかのように感じてしまっているのである。何不自由なく、豊かな生活をしている人々にとっては、見たくない汚点のような存在だろうと、自分たちのことを感じているのである。今の日本の中で、自分たちの存在意義を見失ってしまっている。それが「1人のユダ」が置かれている立場である。
このような境遇に置かれながら、イスラエル人という「一人のユダ」は消えることがなかったのである。それどころか、半世紀の抑留時代に、自分たちがなぜこのような苦難に合ったのかの意味を見いだし、信仰を新たにしたのだった。信仰を失うどころか、信仰のよりどころとして礼拝を献げる場所をまず作ろうとしたのだった。困難にあって20年近く中断したにもかかわらず、またそれをはじめようとしたのだった。そのことに驚かされ、そこに神が共にいると感じさせられるのである。だから、あなたがたと共にいかせてほしい、一緒にあなたがたを支えてきた神という存在に私たちも出会わせてほしいと願うのである。
4、「1人のユダ」であるイスラエル人に、その存在意義を見いださせ、その信仰を深め、新たにさせたものは何であったのか。勿論それは神様が共にいて下さったからなのだが、具体的には、どういうことだったのであろうか。
まず決定的だったのは、自分たちの先祖が、はるか昔に、エジプトを脱出して難民状態として荒れ野を40年間も彷徨ったということがある。王国があり、立派な神殿が信仰生活のよりどころとしてあった時代には、遠い昔の荒れ野の出来事など、何の意味も持たなかった。しかし、祖国を失い、神殿もなくし、バビロニアという荒れ野で難民のように過ごさざるを得なくなったとき、このはるか昔の出エジプト以後の歴史が、意味のあるものとなってきた。その境遇の中で、先祖をして生き延びさせたものが何であったのか。そこで見いだしたものこそが律法であり、その核にあったのが十戒だったのである。十戒の最初には、ロゴスつまり神様の言葉があった。たとえ祖国がなくなり神殿がなくなっても、神様のロゴスは変わることなく自分たちに与えられているということがわかったのである。たとえ捕虜として抑留されていても、現実には、バビロニアの王様をはじめとした支配者のロゴスが自分たちを支配していたとしても、それでも神様のロゴスに導かれて生き得る生活があるとわかったのであった。それが、安息日を守り、十戒に従った日々の生活を営むことに他ならなかった。これを発見した故に、抑留生活の中でも、信仰を深め、新たにすることができたのだった。
苦難の意義の発見について、捕囚の時代に語られたイザヤ書53章に記された『苦難の僕の歌』が、如実に語ってくれている。古くからイエス様の苦難の意義を預言したものとして読まれてきたが、53章5節にはこのように書かれている。「彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって私たちはいやされた」と。「1人のユダ」であったイスラエル人は、10人の男たちからどれほどあざ笑われても、自分たちの受けた苦難こそが人々の平和やいやしになるとわかったのだった。いま福島の人々が、自分たちが受けている苦難を、このような意義を持つものとしてとらえることができたならば・・・と思うのである。イスラエル人とは、「1人のユダ」としての先駆者なのである。後の時代に「1人のユダ」的な立場に置かれた人々に励ましを与える先駆者なのである。
5、私たちクリスチャンは、この「1人のユダ」につながるものだと、改めて思わされた。私たちを見て、身近にいる子どもたちや家人は「神がこの人と共にいる」とは思ってはくれない。だから今は、一緒に礼拝に連れていって欲しいとは言わないかもしれない。しかし、「神があなたたちと共にいる」ことが、必ず見えてくるのである。それは私たちが「1人のユダ」のような者とされ、それが何十年も長く続き、その中で、かえって信仰を深め、苦しみの意義を悟り、神様を礼拝する場所を何よりも第一に建てようとしたときなのである。
それからすれば、今はまだ順境の時にすぎないのである。私たちは「1人のユダ」たる存在には、まだなっていないのである。私たちが「1人のユダ」となり「神が共にいる」ことが10人の男たちに見えるようになるのは、逆境の時、それも何十年もの年月を経ることが不可欠なのである。もしかすれば、そういう中でも、神様への信仰を深め、苦難の意義を知り、神殿を再建しようとする人は、文字通り「たった1人」しか残らないのかもしれない。このたった1人のユダとは、つきつめればイエス様なのかもしれない。しかし、イエス様がたったひとりおられれば、必ず10人は与えられるのである。私たちがたったひとりのユダになれれば、そこから「一緒に行かせてほしい」という10人が起こされるのである。たったひとりのユダから教会ははじまってゆくのである。ひとりのユダがいるかぎり、信仰共同体はなくならない。つきつめれば、やはり教会は数ではないのである。数ではなく、ひとりのユダがいるかどうかなのである。そのひとりのユダとして、イエス様がおられるのだから、教会は決して滅びることはないのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 3月12日(日)受難節第2主日礼拝
13:08互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 13:09「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 13:10愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。 13:11更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 13:12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 13:13日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 13:14主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
1、8節の書き出しに「互いに・・・借りがあってはならない」とある。ここを読んだだけでは、どのように前の段落とつながっているのかが、よくわからない。しかし、ギリシャ語の原文では分かるように書かれている。7節に「自分の義務を果たしなさい」とある。「義務」と訳されたギリシャ語は「オフェイラス」という言葉であり、8節の「借りがある」と訳されているのは、このオフェイラスが動詞に変化した「オフェイロー」という言葉である。この言葉が使われていることから、7節と8節がつながっていることがわかるのである。
内容的には、どうつながっているのか。ローマ教会の信徒、とくにギリシャ・ローマ人からクリスチャンになった人々の中には、奴隷階級の人が多かった。彼らにとっては、この世の主人や自分たちが奴隷となる原因を作ったローマ帝国(奴隷にされる一番の大きな原因は、ローマ帝国による征服であり、征服された地域の人々が奴隷にされた)に対して、どういう態度を取ったらよいのかが、とても切実な問題であった。ギリシャ語のオフェイラスという言葉は、他でもなく、彼らがこの世の主人や皇帝に対して背負っていた義務や負担を意味していた。12章の最後に「悪に負けることなく」とあった。しばしば悪をなす皇帝や主人がおり、彼らにいやがおうでも仕えねばならなかった。憎いと思う心、こんな奴らにどうしてオフェイラスを抱けるのかとの、やり切れない怒りが心を占めていたであろう。もしも怒りや憎しみのままに動かされるのであれば、文字通り身も心も彼らの奴隷になってしまったはずである。だから、たとえ身は奴隷であったとしても、心は自由でなければならないとパウロは語ってきたのであった。心までも奴隷になってはならない。パウロが伝えたかったのは、そのための秘訣というべき事柄だったと思うのである。
13章1節から7節には、「このような悪をなすことのある皇帝や上に立つ者の権威ではあっても、何らかの理由で神様によって立てられたものであり、その恩恵をあなたがたも受けているのだから、その思意に対しては納めるべきものを納めたらよいではないか」とのパウロの勧めが書かれている。「上に立つ者の権威を、神様からのものとして受け止め、オフェイラスを果たして行きなさい」とパウロは語ったのだった。パウロは、オフェイラスを納めることに意義を見いださせることで、内的な自由を得させようとしたのであった。
パウロがずっと語ってきたのは、単にこの世の主人や皇帝に対しての義務を果たせということではなくて、おおよそ私たちが制約の下に置かれ不如意で思い通りにならない境遇に置かれたときに、どうしたら内的な自由を持って生きられるかということであったように思う。これは私たちにとっても、とても切実なことかも知れない。現在の私たちは、奴隷ではない。皇帝に仕えさせられている者でもない。しかし、私たちは、それぞれ、多くの制約の下に置かれ、思い通りにならない不如意な状況に置かれている。それが私たちの抱えているオフェイラスなのである。
7節までの、上に立つ者の権威に対し税金や貢ぎ物を納めるという直接的な問題から離れ、もっと広く私たちがオフェイラスを支払わねばならない状況へとパウロは思いを向けさせているのである。そこから8節の「互いに・・・借りがあってはならない」という勧めが語られたのではなかろうか。
2、では、パウロは一体どういうことをここで勧めているのか。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはならない」という文章は、その意味を理解しにくいものに感じる。これを文字通り解釈すれば、「愛し合うことが最大の借金だ、オフェイラスだから、それを支払え」というような意味になってしまう気がする。しかし、愛することがオフェイラスであり、負債や義務として、あたかもお互いに払い合わねばならない借金のように受け取られてしまうのは、決してパウロの本意ではないと感じるのである。
私たちはそれぞれ、健康が思い通りにならないことや、家族の不如意さ等のオフェイラスを抱えている者である。その負債に苦しんでいる者である。パウロが何よりも言いたかったのは、そういうオフェイラスに苦しむ者であっても、互いに愛し合えるということだと思う。そして、そのように互いに愛し合って生きることが、私たちをして、この様々なオフェイラスを抱えて苦しんでいる境遇の中から内的な自由を与えてくれるということではないかと思うのである。互いに愛し合って生きることが、オフェイラスを抱える難儀さを減らすとパウロは勧めているのだと思うのである。
なぜここでパウロが、律法のことに言及しているのかは定かではない。ユダヤ教の背景を持った信者が、皇帝や主人へのオフェイラスを納めることと律法を守ることの板狭みになっていると聞いたからかもしれない。だから、たとえ律法を守ることをしなくとも、愛することをするならば、律法を果たすことと等しいのだと慰めたのかもしれない。また、十戒の意味のように、それが私たちをして再び奴隷の状況に置かせないための処方義だとパウロが考えたのかもしれな。愛することこそが、私たちをしてオフェイラスを抱えた奴隷的な状態から自由にしてくれる神様からの処方箋だと語ろうとしたのかもしれない。
3、愛することが、どのようにしてオフェイラスを抱えた私たちに内的な自由を与えてくれるのか。先日私は、改めて教えられた。私は先週、東北大震災後、はじめて仙台を訪れた。教区センターエマオに寄り、手に入れたいと思っていた本を買い求め、帰りの新幹線の車内で読んでいた。『ロゴセラピーのエッセンス ―18の基本概念― 』というタイトルの本であった。著者は、フランクルである。この本は『夜と霧』という有名な著作の英語版に付録として付けられた論文をの初訳とのことである。強制収容所に収容されるという状況ほど、オフェイラスを背負う境遇の極致はないかもしれない。そこをどう生き延びてきたかを、フランクルは、ずっと語り続けてきたと言ってもよいと思う。
確か『夜と霧』の中にも書かれていたエピソードであるが、紹介してみたい。あるとき重いうつ病で悩んでいた同僚の医師が、フランクルのもとにやってきた。彼は深く愛していた妻を2年前になくし、その喪失感を克服できずにいた。フランクルは、この同僚医師にこう尋ねた。「先生、もしもあなたが先に亡くなり、奥様があなたなしで生きていかなければならなかったとしたらどうだったでしょう」と。すると彼はこう答えた。「そのようなことになっていたら、妻はどれほど苦しまねばならなかったことか」と。そこでフランクルは、「そうです。その苦しみを奥様は経験せずにすんだのです。奥様が苦しまずにすむようにしてあげたのはあなたなのです。しかし、その代償として、あなたは奥様より長生きし、その死を悼み悲しまなければならなくなりましたが・・・」と言った。すると彼は何も言わず、フランクルと握手して静かに診察室から出て行った。
フランクルが同僚の医師に語ったアドバイスは、いつの時代でも、大切な人に先立たれて残された人にとって、本当にふさわしい慰めの言葉であると感じた。私たちは、いつか愛する人を失う。その悲しみを味わわざるを得ない。それがオフェイラスなのである。私たちは、悲しみや嘆きという負債を無理やり払わされている。しかし、その状況が、残された者から愛するということを奪っているかというと、決してそうではないのである。むしろその反対なのである。残された者が、そもそもなぜそのように嘆き悲しむかと言えば、それは愛するからこそのことなのである。大切な人に先立たれるというオフェイラスは、愛するという心までを奪うことはできないのである。むしろ愛するからこそ嘆き悲しむのである。
そして、フランクルが問いかけたように、その残された者が先に召されていった者に抱く愛は、先立っていった者が、もしも逆に残された者となった時の悲しみを肩代わりしているのである。愛には、そのような意味がある。残された者として背負わされている嘆きや悲しみというオフェイラスに意味がある。私たちは、どんなに体が不如意な状況に置かれても、死の際にあっても、だれかを愛することを妨げるものは何もない。その心の働きを奪うものは何もないのである。そして、その愛には必ず意味がある。愛することがオフェイラスを背負うことに意味を与えてくれるのである。そこに内的な自由が生じるのである。
パウロは12章の9節以降に、愛することの具体的な姿を記している。ここには愛する姿として、特別に立派なことは書かれていない。貧しい人の貧しさをわがものとして助け、旅人をもてなし、喜ぶ人と共に喜び、泣く者と共に泣けばよいと。私たちは、日々の生活の中で、このような機会にこと欠くことはない。残された者は、その愛を、死んでいった者に注いでいる。だからこそ、その愛は、死んでいった人のみならず、この世で出会うところの、嘆く人々や苦しむ人々にも注げるようになるのではなかろうか。悲しむ者であるからこそ、悲しむ人と共に悲しめるようになるのである。オフェイラスを背負うことは、私たちをして愛に豊かな者とするのである。愛は、オフェイラスを抱えることに意味を与え、内的自由をもたらすのである。
4、11節から14節までの箇所は、一読した印象としては、これまた前節までと全く無関係のように見える。どのようにつながっているのか。13節の最後には「酒宴と・・・捨て」とあり、14節最後には「欲望を満足させようとして・・・用いてはなりません」とある。ここには、おそらくは、ローマ皇帝の支配の下で生きていた人々の姿が、とくにクリスチャンではなかった奴隷であった人達の日常の生きざまが描かれている。12節には「夜は更け」とある。しばしば悪をなす皇帝が支配した世界は、ますます闇が深まって行くように感じられたであろう。そのような時代社会において、皇帝や、この世の主人へのオフェイラスを背負って生きる辛さに、人々はあえいでいたのだと思う。だから人々は、どうしてもここに描かれているような生き方になってしまっていたのではなかろうか。欲望を満たし「肉」と呼ばれる自分を喜ばせる生き方しか思い浮かばなかったのであろう。しかし、そうすることによってオフェイラスを背負う辛さから逃れることができたかというと、そうではなかったに違いないのである。
フランクルも、「自分自身に関心を持っているかぎり悪循環は断ち切れません(同書、67ページ)」と言っている。だからこそ、自分から関心を離して、他の人に注意を向けることが大事なのである。自分から関心を離して他人に注意を払うこと、これがすなわち愛なのである。9節の「隣人を自分のように愛する」とは、まさにそのことではなかろうか。オフェイラスを課される社会にあっては、自分自身に関心を抱き、おのれの欲望を満たそうとして生きるのでは、決して内的自由を得ることはできないのである。それとは正反対の方向性を持って生きなくてはならないのである。そのための支えとして「主イエス・キリストを身にまとえ」とパウロは勧めたのである。
十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだとき、もしかすればイエス様でさえも、自身のみに目を向ける危機に置かれていたのかもしれない。そのイエス様の目を自分から他者へと転換させたのは、イエス様と一緒にはりつけにされた一人の犯罪人からの願いだったのかもしれない。彼の願いに耳を傾け、それをかなえようとする中で、イエス様は十字架というオフェイラスを背負う意味を見いだされたのかもしれない。私たちは、このイエス様を身にまとい、励まされて、さまざまなオフェイラスを課される中を喜んで生きてゆけるのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 3月5日(日)受難節第1主日礼拝
01:01初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 01:02この言は、初めに神と共にあった。 01:03万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 01:04言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 01:05光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1 ヨハネによる福音書が書かれた執筆事情として様々な説があるが、ほぼ定説となっているのは、この福音書が西暦90年から100年頃に、今のトルコにあったエフェソという地で書かれたということである。著者については大きく二つの説がある。ひとつは12弟子の一人であるゼベダイの子ヤコブの兄弟のヨハネだとする説。もう一つは、「長老ヨハネ」だとする説である。長老ヨハネとは、第2・第3のヨハネの手紙の冒頭に出てくる人物である。この福音書に私は、哲学的・思索的な感じが強いという印象を受ける。もし著者が12弟子のヨハネだとしたら、執筆当時、すでに100歳位にはなっていただろうとされる。彼がイエス様の昇天以後、様々な経験や学びを積んだとしても、はたしてガリラヤの漁師だった彼に、このような文章が書けただろうかという率直な疑問がわく。
このあたりの事情を説明する有力な資料が幾つかある。その一つ・・・これはしばしば紹介することの多い、バークレーの注解書から得た知識だが、西暦180年頃に編纂された新約聖書の簡単な目録のようなものが見つかった。これは、発見した人の名前にちなんで『ムラトリ経典表』と呼ばれているのだが、この中でこの福音書については、次のような文章が添えられている。「弟子仲間と監督の依頼によって、弟子の一人のヨハネはいった。『今から三日間、私と断食をして下さい。そして、わたしの執筆に賛成のものであろうとなかろうと、私たちひとりひとりに示されたものは何でも、お互いに語り合いましょう。』皆の者に直してもらいながら、ヨハネがすべてのことを口述する・・・」と。
この場面についてバークレーは、「紀元100年頃のエフェソには、ヨハネを指導者とする一群の人々がいた。彼らは彼を聖人として尊び、また父として愛した。彼は100歳になっていたに違いない。この年老いた聖なる使徒が、イエスと一緒にいた頃の記憶を、死ぬ前に書き留めておいてくれるならすばらしいことだと、彼らは賢明にも考えた。・・・一人が『イエス様がどのように言われたか、覚えていらっしゃいますか』と言うと、ヨハネは「覚えている。それに、今になってイエス様の言葉の真意が理解できる・・・」と書いている。
ヨハネによる福音書は、12弟子の一人のヨハネが直接書いたものというよりは、その弟子団が皆で書いたものといってよい。話し合いながら疑問を出し合って、これがイエス様の言葉の真意であろうと皆が納得できるものを記していったのだった。この福音書を読んで、しばしば、まわりくどいような、冗長な印象を受けるのは、このためなのである。
2 この福音書が書かれた動機となった事情はどういうものだったのか。バークレーによれば、大きくは二つの事柄が作用しているとのことである。
まずひとつ目として、紀元100年頃のキリスト教会が、圧倒的に異邦人とよばれた人々が中心をなす教会となっていたことを挙げている。たとえば、純粋にユダヤ人の人々を相手にイエス様が救い主であると宣べ伝えるならば、マタイによる福音書のように、最初にイエス様の系図を掲げるということが有効だった。しかし、ヘレニズムと呼ばれるギリシャ・ローマ文化の中で育った人々には、もはやそれは何の意味も持たないものとなっていたのである。勿論エフェソを中心とした小アジアの諸教会には、ヘレニズムの中で育ったユダヤ人もいた。彼らにとっても、もう既に、最初に系図が掲げられても、それは意味がなかったのである。そこで、この福音書を書いた人々は、その両方の人々にイエス様が救い主であると宣べ伝えるために最適なキーワードは何であるかを捜し求めたのだった。やっと探しあてたのが「言」、すなわち原文で「ロゴス」という言葉だったのである。
二つ目は、当時の教会の中に、ヘレニズムの強い影響を受けてグノーシス主義という思想が入り込んでいたことを挙げている。グノーシスとは「知識」という意味である。ひとことで言えば、物質を非常に毛嫌いする考え方である。3節に「万物は・・成った。成ったもので・・・」とあるが、成った万物とはこの物質世界を言い表しているのである。また4節に「言は肉となって」とあるが、この肉も物質を表している。グノーシス主義者は、神様が物質からなるこの世界を創造し、そこにイエス様が肉を持った存在として生まれたことを毛嫌いしたのだった。このようなグノーシス主義に対して戦わなければならないという動機が、ヨハネ一群に、このような福音書を書かせた理由だったのである。そこで有効だと考えられたキーワードも、また「ロゴス」という言葉だったのである。
3 執筆側の事情をこのように考えると、この福音書の書き出しが、なぜこのような独特な文章になっているかが理解できるのである。さらに、なぜロゴスなのか、なぜロゴスという言葉がキーワードとなったのかが分かってくる。
バークレーの説明によれば、この福音書が書かれたであろうエフェソに、紀元前6世紀にギリシャ哲学の祖とも言われるヘラクレイトスという哲学者がいたことが重要だという。ヘラクレイトスの言葉としては「万物は流転する」というのが有名であるが、バークレーによれば、「(万物はかくのごとく絶えず流転する状態にあるのならば)人生はなぜ完全なる混沌ではないのか。不断の絶え間ない継続的な流転と変化がある世界に、どうして何か意味がありえようか。ヘラクレイトスの答えはこうであった。このすべての偶然と流転はでたらめではなく、支配され、秩序だてられたものである。それは常に継続的なパターンに従っている。パターンを支配しているものは、ロゴスである。」とのことである。このロゴスが、すべての出来事に目的や計画を与えるのだと、また、私たち人間に善悪の判断や正しい選択を行わせる基となるのもこのロゴスなのだと、ヘラクレイトスは考えたというのである。
ヘラクレイトスが発見したこのロゴスを、ギリシャの人々は決して手放そうとはしなかった。ヘラクレイトスから700年も経った紀元100年のヘレニズム社会に生きる人々にとっても、ロゴスは、もう決して手放せない大切なものとなっていた。混沌や無秩序が支配するかのように見える世界にあって、それにもかかわらず生きてゆく勇気や希望を与えるものであったに違いないのである。5節でいわれている暗闇とは、このような混沌や無秩序を指すものであろう。その中に光が輝いているとは、まさにロゴスのことを指しているのである。だからこそ、このロゴスというキーワードを使ってヨハネの弟子たちは、イエス様が救い主であることを宣べ伝えようとしたのだった。
4 さらに、このロゴスなる言葉は、異邦人にとって、よくわかるキーワードであっただけではなく、ユダヤ人にとっても同じように大事なものだったのである。
イスラエルの人々が、言葉を、それも神様の御言葉というものを、どれほど大事にしてきたかは、言うまでもないことである。十戒を人々に与えるにあたって、まず書かれていたのは「神はこれらすべての言葉を告げられた(出エジプト記20章1節)」であった。この「言葉」とは、ギリシャ語にすると、ロゴスになる。ヘレニズム社会に育ったユダヤ人であっても、十戒を聞くときに必ず耳にしたのがこの「ロゴス」という言葉だったのである。神様は、人々が再び奴隷とならないための具体的な生き方の処方箋を、他のどんな手段でもなく、ロゴスによって与えたのだった。それは人々が聞いてわかる媒介であった。パウロは、神様がこうした処方箋を、聞いてわかる言葉によって与えて下さったことを喜び、ローマの信徒への手紙の10章8節において、申命記の30章14節を引用して「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、心にある」と語ったのだった。十戒という神様の言葉こそが、混沌や無秩序の中に生きざるを得なかったイスラエル人に、神様の御心という秩序・原理・光を与え、人々がそれに導かれて生きられるようにしたのだった。それはまさにロゴスそのものの働きなのであった。
このようにイスラエル人にとってなじみ深いロゴスを、さらにヨハネの弟子たちは、ひと工夫をして、この福音書の書き出しに使ったのだった。書き出しの「初めに言があった」を読んで誰もが思い起こすのは、創世記1章1節の書き出しであろう。明らかにヨハネたちは、創世記の書き出しとオーバーラップさせようとして、わざわざこのような書き出しにしたのである。その心は、異邦人にとってもユダヤ人にとっても大事なキーワードであるロゴスということばが、はじめに天地を創造された神と共にあったものだという、天地を創造された神の本質はロゴスなのだという思いなのであった。「ロゴスは神であった」とは、よく誤解されるのだが、「ロゴス=(イコール)神」という意味ではない。神様にはロゴス以外の性質もある。ロゴスが神様のすべてではない。しかし、少なくとも神様が天地を創造されたとき、その神と共にあり、その神を何よりも満たしていた性質は、まさしくこのロゴスなのであった。
このように創世記1章1節に重ねあわせてロゴスという言葉が理解されるとき、ロゴスの本質は何かということも、さらによくわかってくる。原理や秩序と言っても様々な原理原則がある。しかし、それが天地を創造された神様と共にあり、その神の本質であったとされるとき、ロゴスの原理とは創造にほかならないということがわかるのである。創造こそが、ロゴスに込められている原理原則なのである。
創造の中には、破壊も含まれている。いみじくも創世記1章2節には「地は混沌であって闇が深淵の面にあり」とあった。創造と混沌が切っても切り離せない関係にあることが、ここにほのめかされている。しかし、なぜ破壊や混沌や闇があるかと言えば、そこには創造があるからなのである。創造と混沌、創造と闇は別物ではないし、混沌や闇を貫くのは、あくまで創造なのである。それが創造であるから、ここに何よりもあるのは、命ということになる。命の営みには、常に新たな命が創造されるプロセスにおいては、破壊や混沌も生じるのである。しかし、創造を貫くのは命なのである。
「万物はロゴスによって成った。成ったものでロゴスによらずに成ったものは何一つなかった」との文章に込められている思いがよくわかってくる。何より、戦うべき相手はグノーシス主義ということになる。物質を悪いもの・汚れたものと毛嫌いする考え方に対して、ヨハネたちは「いやそうではない、物質は神のロゴスによって成ったものだ。そこには命がある。」と言っているのである。「創世記の1章に繰り返されているように、神は創造されたものを見て良しと言われたではないか。その神のロゴスが響き渡っているのがこの世界ではないか。そのような世界としてこの世を生きてゆこうではないか。神様の創造のロゴスが響き渡っている世界であるならば、どんなに闇が深くてもそこに私たち人間を照らす光があるではないか」と。そのロゴスが、目に見える存在として私たちのところに来て下さったのがイエス様だと語るところに、この福音書の主眼があったのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 2月26日(日)降誕節第10主日礼拝
11:44わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。 11:45わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。
10:09翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。 10:10彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、 10:11天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。 10:12その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。 10:13そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。 10:14しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」 10:15すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 10:16こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。
1 レビ記は、出エジプト記で与えられた十戒を補うという性格を持っていて、3つの柱がある。レビ記が十戒と密接なつながりがあるということは、45節に如実に現れている。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導いた神である」とあるが、これは十戒の最初の神様の言葉とほぼ同じである。十戒は、「エジプトの国」という言葉が象徴的に表している奴隷的な状態から、私たちを常に導く神であろうとして与えてくださった処方箋というべきものであり、そこで語りきれなかったことを教えているのがレビ記なのである。
その3つの柱の第一は、神様に献げるというである。第2の柱が、8章から10章までに書かれている祭司についてであり、第3の柱が、「わたしは聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者であれ」という処方箋である。「わたしが聖なる者であるからあなたがたも聖なる者であれ」という処方箋が、なぜわたしたちをして「エジプトの国」という言葉が象徴的に示しているところの奴隷的な状態から私たちを導き出すものとなるのであろうか。そこにはどのような意義が込められているのであろうか。
2 「わたしが聖なる者であるから・・・」とは、このレビ記ではおよそ6回にもわたって、21章まで何度も何度も繰り返されている。新約聖書においても、たとえばぺトロの手紙(一)の1章15節には、レビ記のこの言葉がそのまま引用されているし、それ以外の箇所でも、「聖なる者となりなさい」と、何度も語りかけられている。また、「聖なる」という言葉が「完全」という言葉に置き換えられてはいるが、イエス様が山上の説教の中で「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい(マタイ5、45)」との言葉の元にあるのも、レビ記のこの言葉である。このように、「わたしが聖なる者であるから・・・」という柱は、聖書全体を貫いている太い大黒柱のようなものであると言ってよいと思いう。しかし、この言葉ほど誤解され、本来の意味とは全く違ったものとして読まれてきたものはないだろうと私は感じている。
11章以降を読むと、よくその捉え方がわかってくる。11章では、汚れているとされる食べ物のリストがずらりとあげられている。それは今日でも、ユダヤ人やイスラムの人々に受け継がれている。12章では、そのタイトルにもあるように、出産した女性についての汚れについてが、13章から14章の中ほどまでには、皮膚に生じた汚れについてが、最後の21章17節以下では、障碍のある人々が汚れているものとして列挙されている。ここに上げられたリストに該当するとされた人々は、ユダヤ人社会において長く、汚れていると見なされて隔離され差別されてきた。障碍ある人やハンセン病の患者が、この聖書の言葉を読んだなら、どれほど傷つくかは、言うまでもない。レビ記の記述は、たとえ聖書の言葉ではあっても、今日では明らかに差別的であると認定されるであろう。
このようなレビ記の記述は、出エジプト直後に神様自身が語ったものというよりは、時代がかなり後になってから、聖と汚れの捉え方がしっかりと定着した時代の考え方が、出エジプトの時代にはめ込まれたものと理解されていたのだが、ここでは、神の聖について、また「わたしが聖なる者であるから・・・」との言葉についてどう理解されていたかと言うと、概観したところからも明らかなように、人間のある状態を汚れているかそうではないかを選別し、差別し、排除し隔離するような働きをなすものとして理解していたのである。神の聖とは、つきつめれば、人間の側の聖と汚れを差別し区別する隔ての壁を作るための働きをしていたのである。そして、44節に「あなたたちは自分自身を聖別して聖なるものとなれ」とあるように、人間の側がひたすら自分たちの状況を常にチェックして、聖なる状態を獲得しなければならないと理解されていたのである。私たちが聖であるとは、要は清さと同じものである。それは私たちの清めの努力によって手に入れられる状態だと受け止められているのである。今に至るまで、神の聖と人間の聖とは、このようなレビ記の線に沿って理解されてきたのではなかろうか。神の聖は、差別や排除を作り出すためのものとして理解されてきたのである。私は、「わたしは聖なる者であるから・・・」という神様の言葉に対する本当に悲しい誤解としか言いようがないと思うのである。
3 それでは、神の聖とは、そもそもいかなるものなのか。「私が聖であるから、あながたも聖なる者であれ」とは、どのような神様の御心を言い表す言葉なのか。
使徒言行録10章9節から16節に、そのヒントがある。ぺトロも、ユダヤ人として、このレビ記に表されているような汚れ意識を持っていた。そのために異邦人とよばれていたユダヤ人以外の人々と接触することができず、伝道が妨げられていたのだった。しかし、あるとき彼は、幻を見た。天から吊り下げられた入れ物には、レビ記で汚れているとされていたものが入っていた。それを食べよと言われて、ぺトロは「とんでもない。それはできない。」と断った。それに対して神様は「神が清めたものを、清くないと言ってはならない」と言ったのだった。
ここにこそ、神の聖とはそもそも何なのかが明らかにされていると私は思うのである。神の聖とは、人間が汚れていると考えているものを神様が清いものとして下さることなのである。人間の側が勝手にその価値観や様々な尺度から区別し差別し排除し隔離しているものを、神様が「清い」として下さることなのである。天から吊り下げられた入れ物が、神の聖を象徴的に見事に表していた。人間が区別し差別してきたものが、このかごにはごっちゃに入っていた。神の聖・清めとは、私たち人間がする区別や差別とはまさに正反対の御業を意味している。一緒にし、壁を壊し、人間が排除してきた状態を肯定し、食べ・受け入れるに良き物として下さるものなのである。
イザヤ書の6章に、イザヤが預言者として選ばれてゆく場面が記されている。神殿じゅうに「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という声が響いていて、それを聞いたイザヤは、普通のユダヤ人祭司(イザヤはレビ人の子孫の祭司だった)としてごく当たり前の反応をした。「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住む者」と言った。神の聖はイザヤに、まず汚れた者としての自分の否定、汚れた自分の排除という応答を引き起こしたのでした。
これに対して神様は、そのイザヤの応答を、よしとはしなかった。神様がなさったのは、神殿の祭壇から燃える炭火を取って、それをイザヤのロに触れさせたのだった。「見よ、これがあなたの口に触れたので、あなたのとがは取り去られ、罪は赦された」と言った。そして「誰を遣わすべきか」と言った。「わたしがここにおります。わたしを遺わしてください」というイザヤの言葉を引き出したのだった。神の聖がなさったことは、自分を汚れた者と断じたそのイザヤを清くすることであった。そして、神様の言葉を語るにふさわしい者だと自らを肯定してゆく姿勢をイザヤに授けたのだった。
神が聖であるからあなたも聖であれとは、神の聖が私たちにふれて下さることで、汚れたところをもっている私たちであっても、そのすべてが肯定されることにほかならない。弱くとも、汚れていても、死にゆく存在であっても、貴く聖なる存在であると肯定していただけることなのである。神の聖とは決して私たち人間の側の、ある状態を選別したり差別したり隔離したりすることを意味しない。むしろ、それとは全く逆の方向性の働きなのである。神の聖に触れて、私たちが聖なる者とされるとは、決して清さは何の関係もないのである。たとえ清くはなくとも、汚れたものを持ったままでも、私たちは神の聖によって聖なる者としていただき、その存在を肯定していただけるのである。
4 「わたしは聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となれ」という神様の言葉は、このような意義があるからこそ、「エジプトの国」から、つまり私たちを奴隷的な状態に縛る様々な存在から、私たちを導き出して下さる神様の働きをなす大切な処方箋となる。
私たちが、その時々の価値観や尺度で自分自身や周囲の人々を汚れているとか、好ましくないとか、幸いではないといって区別し差別し排除することこそが、私たち自身を縛る「エジプトの国」なのである。このような私たちに、神様はぺトロに語りかけたように「神が聖としたものをあなたがたが汚れているなどと言ってはならない」と力強く語りかけるのである。自分は汚れていると自分自身を排除したイザヤに、燃える炭火を触れさせて「あなたは聖なる者とされた」と言って下さる。そうやって私たちを肯定して大切な働きへと遺わして下さるのである。
私たちに触れる神の聖とは、私たちを聖とする神の炭火とは、イエス様、それも十字架の上で死なれたイエス様に他ならない。十字架の上で殺されたイエス様こそ、最も汚れているとされた存在であった。事実、ユダヤ人は木の上で殺された者を最も呪われた存在として忌み嫌った。ユダヤ人だけではなく、ローマやギリシャの人々も、十字架の上で死刑にされたイエス様を、そのように見たに違いない。しかし、ルカが自身の福音書の中で、ずっと目をこらしてきたように、この最も汚れたイエス様が、たった一人の、誰も共にいない絶望の中で死んでゆくしかなかった死刑囚に、「自分のような者もこの方と共に神のみもとに行けるのだ」という希望を抱かせて下さった。イエス様の十字架は、この一人の犯罪人の人生を肯定して下さったと私は感じる。このような聖なる働きをなすものとして、神様は十字架のイエス様を肯定しておられるのである。聖なるものとされているのである。だからこそ私たちも、十字架のイエス様を信じ、信仰においてイエス様に触れることで、私たちが差別し排除し汚れていると切り捨ててしまいたいような人生をも、肯定できるようになるのである。聖なるものとして受容できるようになるのである。
このレビ記の記述は、神の聖への根源的な無理解と誤解に満ちいている。しかし私は、このレビ記には、これほどまでして神の聖に触れたいと願ったイスラエル人の熱い心があると感じる。そのことは認めてゆきたいとと思う。彼らには一体どうすれば神の聖が自分たちのようなものに触れて下さるかがわからなかったのである。だから、精一杯の努力をして神の聖に触れていただくにふさわしい者となろうとしたのだった。それほどまでに神の聖に触れていただいて聖なる者になるということがイスラエル人には不可欠だったのである。しかしその努力は、いつのまにか神の聖の最も大事な根源的な性格を見失わせてしまった。汚れた者をも聖なる者とし肯定して下さる神の聖が、いつのまにかそれとは全く反対に、汚れのない者をも汚れていると断じ、人間を差別し排除する恐ろしい働きをするものに変わってしまったのだった。だからこそ、イエス様は、命をかけて私たちに神の聖を、今一度示す必然性があったのである。イエス様は、自身の十字架の死を通して、私たちが神の聖に触れる道を開いて下さった。イエス様を通して神様から聖としていただけるようになった私たちは、何と幸いであろうか。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 2月19日(日)降誕節第9主日礼拝
13:01人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 13:02従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 13:03実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 13:04権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 13:05だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。 13:06あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 13:07すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
1 新約聖書の信徒向け注解書全集を書いたバークレーは、この箇所の解説の冒頭で「初めて読むと、これは非常に驚く箇所である。すなわちキリスト者の側に、公的権力に対して絶対的服従を助言しているように思われるからである。」と書いている。さらに、これを肯定する立場に立って「しかし事実これは新約聖書全体を通して流れている戒めである」とも書いている(バークレー著、聖書注解シリーズ8『ローマ』P220)。ただ、このようなバークレーの見解がすべての研究者や専門家と同じかと言うと、そうとも言えない。そもそも、この文章を記したパウロの本意が、公的な権力への絶対的な服従を助言するものかどうかは意見が分かれるところである。さらにそれが新約聖書全体を貫く戒めかというと、これまたそうとは言えないと思うのである。
公的権力と信仰者との関係を考えるとき、私たちが一番のより所としてよいのは、イエス様の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」との有名な言葉だと思う。イエス様の時代のパレスチナにおいては、占領者として上に立つ権威であったローマ帝国に税金を納めてよいかどうかは、本当に切実な問題であった。これに対してイエス様は、「皇帝に納めるべきものならば納めたらよかろう」と、まず言った。上に立つ者に権威があることで、それによって下の者が受ける恩恵があり、それに対しては納めるべきであるということである。しかし、「神様に納めるべきものは神様に納めよ」ともイエス様は言った。皇帝ではなく、ただ神様だけが私たちに下さるものがあり、それへの感謝を献げるとは、神様を礼拝することであろう。イエス様の言葉は当然、もしも私たちが神様だけに納めるべきものまでも皇帝が私たちに要求することがあれば、それには従ってはならないということに、おのずからなるわけである。イエス様のこの言葉は、公的権力への絶対的な服従を勧めているとは決して言えないのである。
2 まずは、パウロがこの箇所で、そもそも何を本心として言いたかったのかを、できる限り読み取ることからはじめたい。この手紙の12章以降は、パウロがローマ教会の信者たちに、クリスチャンとしての具体的な生き方を教えてゆくところだが、それを語った理由は、ローマ教会の人々が抱いていた切実な間題というものがあったからであった。そういう問題が背景にあって語られたのである。
では、彼らが抱えていた切実な間題は何であったのか。それをほのめかしているのが、3節の中ほどの「あなたは権威者を恐れないことを願っている」との言葉だと思う。ローマ教会の人々は総じて、権成者つまりローマ皇帝やその下にあった権力を持つ人々を恐れていたということがある。なぜ恐れていたのかと言えば、いろいろな理由が想像できるが、その一つには、ローマにいたユダヤ人たち(クリスチャンとなったユダヤ人も含む、そこには有名なプリスキラとアキラという夫婦もいた)が、紀元49年に、時の皇帝クラウディオによってローマから強制的に退去させられたという事件があったことである。クラウディオが死んだ54年には、帰還が許されたが、いつまた皇帝の命令によって立ち退きを余儀なくされるかを恐れざるを得なかった。恐れだけではなく、皇帝への恨みや憎しみもあっただろうと私は想像する。ローマ教会には、奴隷階級の人が多かった。奴隷となった原因は様々だったが、最も大きな原因は、ローマ帝国が征服した地域の人々を強制的に奴隷にしたことであろう。その子孫は、奴隷として留まらざるを得なかった。親や自分たちを奴隷とした帝国への憎しみは消えることはなかったであろう。
こういった恐れや憎しみを抱きつつ、しかし現実としては、ローマ皇帝の下で生活してゆかざるを得なかった。奴隷から解放されるのはなかなか難しかったであろうし、皇帝の権威の及ばないところで生活することも非現実的であった。恐れや憎しみを抱きながら、その下で生きざるを得なかった彼らは、本当に難儀であったろう。辛かったであろう。だから、このような中で、どのように生きたらよいかということが、切実な問題だったのである。
3 こういう状況の下で、どうやって生きたらよいか。恐れを抱きつつ、また憎しみや恨みの感情を抱きつつ、上に立つ権威のもとで生きるということは、恐れや憎しみや恨みといった感情を長く抱いて、そこに留まるという生き方は、決して健やかにはしない。長く抱いた恐れや憎しみの感情は、それを抱く者をボロボロにするのである。だから、そうした境遇の下にありながらもなお、そこから逃れられないからこそ、恐れや憎しみという感情に支配されて生きることから解放される必要があったのである。それは内面的な自由を持つことである。強制収容所を生き延びた精神科医であるV.フランクルの著書『それでも人生にYesという』を思い起こす。まさにそのタイトルが言うところである。あるいは、渡辺和子シスターの著書『置かれた場所で咲きなさい』を思い起こす。
どのようにしたら、この状況にYesといい、そこでも咲けるのか。それが13章の書き出しでパウロが語るところだと思うのである。その根本には、その状況にも神様の御旨があるのだと受け止めることがある。「神に由来しない権威はなく・・・すべて神から立てられたも」との言葉の本意は、その権成の存在にも神様の御心があり神様が与えた何かしらの存在理由があって立てられたものだという思いである。だから、その権威の下で生きることにYesと言うことができるのである。そこでも花を咲かせることができるのである。その状況でも神様が、天から降らせて下さる雨も光もあると知ることなのである。
詩編57編には、ダビデがサウルに追われて洞窟に逃げ込んでいたときに作られたものとのただし書きが付けられている。どれだけの年月であったかは、正確にはわからないが、サウル王の後に王となるべき者として選ばれたはずのダビデは、先に王となったサウルから執拗に命を狙われ逃げ続けなければならなかった。長い間ダビデは、サウルからの憎しみと敵意にさらされたのだった。そのような状況で、私たちであればどうであろうか。どのような洞窟に逃げ込むであろうか。とにかくサウルを恐れるか、あるいはひたすら憎み返し、機会をみつけてサウルを殺そうとするかであろう。しかし、ダビデがそのような洞窟へ逃げ込んでいたとしたら、おそらくダビデは、長く抱いた恐怖や憎しみゆえに、心も体もボロボロになっていたのではなかろうか。また憎しみにまかせて反撃し、サウルを殺してしまったとしたら、決して王になることはなく、ましてや詩編の中に、彼の詩が幾つも載るようなことにはならなかったと思うのである。
ダビデが逃げ込んだ洞窟は、神様を避け所とすることであった。それはどういうことであったか。ダビデが隠れていた洞窟に、偶然サウルが用を足しに入ってきた。ダビデの部下は、今こそサウルを殺すチャンスだと言った。ダビデもそれに心を動かされてサウルの衣服の端をちょっと切り取つてしまった。しかしすぐさまダビデはこれを後悔したのだった。ダビデは「主が油を注がれた方(サウル)に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを主は決して許されない。彼は主が油を注がれた者なのだ(サムエル上24、7)」と言った。これこそ、ダビデが神様を避け所としていた有り様なのである。自分を殺そうとしていたサウルさえ、神様が選んだ者だと受け止めて、ダビデはサウルの敵意や憎しみに、同じものを返すことはしなかったのである。ダビデは、サウルへの恐れや憎しみに支配されることがなかったのである。この状況にも神様の御心があると受け止めて、この状況でも自らのなすべき事を果たしてゆこうとしたのだった
ダビデのサウルへのこの態度は、バークレーが言うような絶対的服従と言えるものであろうか。絶対的服従というなら、それはサウルの命じる通りにサウルのもとに投降し命を取られてしまうことである。しかしダビデはそうはしなかった。サウルの命令に反して逃げ回り、隠れ続け、不服従を続けたのだった。そしてダビデは、サウルが神様から選ばれた者であることを認め、自から剣を振るうことをしなかった。服の端を切り取ったことさえ後悔した。パウロが勧めるところの「従う」とは、このようなダビデの態度を言うものではなかろうか。
4 それでは、パウロは上に立つ者の権威、具体的にはローマ帝国にどのような神様の御心というものを見ていたのであろうか。3節には「悪を行う者には恐ろしい存在です」とあり、4節には「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく・・・怒りをもって報いる」とあり、6節には「あなたがたが貢を納めるのも・・・そのことに励んでいるのです」とある。パウロが言わんとしたのは、要するに、上に立つ権威は特に悪を行う者を恐れさせ、それを抑止し、時には剣の力をもって悪に報いるために、神様から立てられ仕えているということだと思うのである。上に立つ者の権威が、そのような働きをしてくれているからこそ、税金を払うのだと、パウロは勧めたのだった。
これは、冒頭に書いたイエス様の言葉とも相通じるものがある。イエス様は皇帝に税金を納めることは是か非かと質問した人に対して、『デナリ銀貨を見せなさい』と言った。ローマからはるか遠くに離れたパレスチナにさえローマ皇帝の像が刻まれた貨幣が流通していた。それは曲がりなりにもローマの権威によって貨幣が信用をもって流通している社会が成り立っていたということである。『パックス・ロマーナ(ローマによる平和)』という有名な言葉がある。時には悪しきことも為し、そのために剣をふるうこともあった権成だが、社会の秩序を法によって保ってくれていたのである。そうであるならば、その恩恵に対して納めるべきものは納めたらよいではないかとのイエス様の言葉なのであった。パウロが言うのも同じである。上に立つ者の権威としての帝国は、何よりも悪を抑え、悪に報いたのであった。人間の持つ権威であるから、悪を抑え悪に報いるはずの剣が、時には自ら悪しきことに手を染めるために使われたであろう。これが人間の権威の限界といえる。しかし、そこにも神様の御心を認めてYesといって生きる。
しばしば悪しきことを為す権威や権力にも存在理由があるのだと私は改めて教えられた気がした。アメリカをはじめとする国々の攻撃によってイラクのフセイン政権が無理やり崩壊させられたがために、ISというそれ以上の悪が生まれてしまった。専制的な政治を崩壊させた「アラブの春」が、嵐のように起きた後、かえってシリアの内乱が生じてしまった。私自身、とにかく上に立つ者の権威を嫌い敵視してしまうが、しかしそこにも人間が持っているどうしようもない悪を抑えるという神様の御心がある。勿論、上に立つ者の権成がそうした神様から与えられた役割を逸脱して、常に悪をなし、また、私たちが神様にのみ献げる感謝や礼拝をも自分たちに向けるよう要求するようになるなら、私たちはそれに対して不服従の態度を取るしかないのである。それはダビデがサウルに対して取ったような態度であろう。私たちに難儀を強いるような上に立つ者の権威に事欠かないこの社会である。その社会から離れて生きることなどできない私たちである。そのような社会を、ただ嘆き敵視するだけでは、私たちに生きるすべはない。そのような権成にも神様に由来する何かがあることを認め、納めるべきものは納め、しかし神様に献げるべきものは献げて生きることは、私たちにもできるのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 2月12日(日)降誕節第8主日礼拝
23:50さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、 23:51同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。 23:52この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、 23:53遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。 23:54その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。 23:55イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、 23:56家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。
1 十字架の上で息を引き取ったイエス様の遺体を、アリマタヤのヨセフが丁重に葬ったという出来事が記された箇所である。使徒信条の「死にて葬られ」の「葬られ」の部分に相当する出来事である。この使徒信条という信仰告白はとても簡潔な信条で、特に福音書に書かれているイエス様の生涯については何も語られていない。「おとめマリヤより生まれ」の後は、一気に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と受難の出来事へ飛んでいる。それなのになぜわざわざ「死にて葬られ」と葬られたことに言及するのか。これについて、宗教改革が生み出した有名な信仰問答(受洗志願者が学ぶ信仰に関する問答集)であるハイデルべルグ信仰問答の第41問は、「なぜ彼は葬られたのですか」という問いに対し「それによって、彼が本当に死んだことが証言されたのです」と短く答えている(『ハイデルべルグ教理問答講解』登家勝也著による)。なぜイエス様の葬りの出来事を告白するかというと、それはイエス様が確かに死んで遣体となって葬られたことを証言するためだと言うのである。使徒信条ができた時代には、神であるイエス様が人となり十字架の上で殺され遺体となって墓に葬られたのは幻に過ぎないという教えが広まりつつあり、これをはっきりと退けるために「死にて葬られ」という告白がなされたとよく言われる。ハイデルベルグ信仰問答も、この線に立った理解であろう。
しかし、私としては、他の3つの福音書も含め、イエス様の葬りの出来事が記されたのは、単にイエス様の死が確かなことであり、イエス様が確かに遺体となって墓に葬られたことを記すためだけのものではなかったと思うのである。また、単にアリマタヤのヨセフが、イエス様の葬りをしたことが事実だったから書かざるを得なかったという理由からでもないと感じるのである。そこにはもっと何か深い意味が込められているような気がしてならないのである。
2 イエス様が死に向かい合い、また十字架の上でつらい死を味わわれたからこそ、そこから、私たちに語りかけられ、与えられたものがあった。最後の晩餐での言葉は、死を直後にひかえた遣言だからこそ、真実味をもって私たちに迫るのである。イエス様を殺そうとした者への赦しの言葉は、殺される立場にあった十字架の上からのものであるからこそ、真実味があり、十字架の上におられた故に同じように十字架につけられた一人の犯罪人に「私はあなたと共にいる。あなたを楽園へと連れて行く」との言葉をかけることができ、十字架の上の姿がローマ軍の100人隊長をして「この人は正しい人だった」と神様を賛美せしめたのだった。総じて言うならば、イエス様の十字架の死がたたえている何とも言い難い意味深さ、思いがけない働きというものを感じるのである。十字架の上で殺されるということは、むごたらしい、呪われたとされる死であった。何の価値もないと見られる非業の死にすぎなかった。しかし、イエス様の十字架の死は、何とも言えない意味を持ち、驚くべき働きをしたのだった。
十字架の上で殺された犯罪人の遺体は、大抵は、だれも引き取る者などなく、そのまま野さらしにされ鳥や獸の餌食になるばかりだったと言われている。それらは、だれもかかわりを持ちたくなかった遺体であった。ところが、このときばかりはその遺体は、アリマタヤのヨセフに、驚くべき行動を取らせたのであった。51節には「同僚の決議や行動には同意しなかった」とあるが、しかし、はっきりとした反対を表明することは、とうとうできなかったのであろう。だから、同じ場面を記したヨハネは、19章38節で「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」と随分厳しい書き方をしている。そのようなヨセフが、勇気を出してピラトのもとに行き、イエス様の遣体の引き取りを申し出たのであった(マルコによる福音書15章43節)。イエス様が存命中の時には決してできなかった、いわゆるカミングアウトといえるかもしれない。ヨセフは、自分がイエス様に心を寄せた者であったことを公にしたのであった。それは、70人議会の一員としては、仲間たちを真っ向から敵に回してしまうことだったであろう。一挙にこれまで築いてきた立場や地位を失わせることになったであろう。イエス様の遣体を葬るということは、このような大それたことだったのである。惨めなむごたらしい遺体が、ヨセフに、そのような行動をさせる力を持つていたのである。その遺体には、そのような力があったのである。
3 こうした一連の、イエス様の十字架の死の出来事、またその遺体の葬りが持っていた深い意義と働きが記されたことは、私たちにも次のようなことを語りかけてくれている。それは、私たちの死にも、また葬りにも、そのような意味があり働きをすることがあるということである。勿論イエス様の死は、特別の死であって、私たちの死とは全く別のものであった。私たちの死が、イエス様のそれと同じような意味を持つとか働きをするなどとは、到底言えないことはわかっている。しかし、イエス様の死や、その葬りが、そのようなものであるならば、私たちの死やその葬りにも、何かしら同じような意義があり、同じような働きをすることがあるのではなかろうか。死は、人生の終わりであり、もはや何の意味も持ち得ない状態ということはないのである。生きておられたイエス様が、隠れキリシ夕ンのような者だったヨセフを、その状態から前へ進み出させることができなかったのに、イエス様の遺体がそうさせたように、私たちの死が、またその葬りが、残された人々に大きな一歩を進み出させることがある。
イエス様の遺体を葬ることの何が、ヨセフをしてこのようにさせたのか。イエス様が命をかけて、「わが神、わが神何ゆえ私をお見捨てになったのですか」と叫びつつも、最後まで神様を信じて生きたその姿に、心を動かされたということもあったであろう。しかし、私が感じる理由は、もっとシンプルなものである。十字架にかけられた犯罪人の遣体は、だれも引き取り手などなく、野ざらしにされていた。ヨセフには、このことが、到底受け入れがたかったのだと思うのである。自分が心を捕らえられたイエス様の遺体が、墓にも納められず野ざらしにされて鳥や獸の餌食にされるなど、彼には我慢がならなかったのであろう。だから、後先も考えず、自分でも思いがけず取った行動がここに書かれたのであろう。勇気というよりは、いたたまれずに取った行動なのではなかったか。私にはそのように感じられる。
4 だからこそ、私たちの死が、またその葬りが、残された者たちに思いがけない大きな一歩を踏み出させることがあると言えるのである。また逆に、こういうことも言える。私たちがだれかの死に直面し、その遣体を葬る中で、私たちがそれまではどうしても越えることのできなかった一線を越えて、ある重大な一歩を歩み出すことがあるのではなかろうか。その機会は、文字通りの死や遺体を葬ることでないかもしれない。誰かが死に瀕するような、あるいは遺体と同じように布にくるみ手厚く介抱してあげねばならないような状態になること、それは、たとえば現在ヨーロッパに押し寄せている難民たちがそうであるかもしれない。私たちが身近に出会うところの何らかの助けを必要としている人々かもしれない。そういう存在に出会うことが、私たちをして思いがけない一歩を踏み出させることとなるのだと語りかけられているように思うのである。このことから言えば、死人になること、葬られる者となること、また逆に、死人を葬り、それと等しい状態になった人と出会うことは、どれほど私たちにとって、幸いであろうかと思うのである。
昨年の暮れ近くに、これまで私たちの教会員の葬儀の際には専属の係のようにお手伝いして下さった葬儀社のFさんが牧師館を訪ねてこられ、今度その葬儀社を退職するのだと言われた。理由を尋ねると、ひとつには介護が必要な障がいを持った夫人のためには24時間態勢の仕事は無理とのことであった。しかし、それだけではないと言われた。葬儀の手助けをする意義を感じなくなったというのである。最近では、病院で人が亡くなると、すぐに火葬場へ直行し、あっという間に納骨が済んでしまう。あたかも死が、その遺体が、さっさと片付けてしまいたいもののように扱われてしまうのである。その手伝いを、たとえお金をもらってでも、つらい気持ちになってしまったのかもしれない。この時代の中にあって、勿論事情があって一日で葬儀を終えたいということもあろうが、しかし、私たちは何日何日もかけて、納棺・出棺・前夜式・葬儀・火葬・埋葬としてゆきたい。なぜそうするかと言えば、その源にはヨセフがイエス様を葬ったということがあるのではなかろうか。
田川健三の『キリスト教思想への招待』という本に、このようなことが書かれている。キリスト教を国教としたコンスタンティヌス大帝の甥に、背教者ユリアヌスという皇帝がいて、彼はキリスト教が大嫌いで、何とかして再び帝国を昔ながらの神々を信じる国に戻そうとした。しかし、なかなかそれがうまくゆかなかった。そこで、何を思ったか大嫌いなキリスト教を見習えと地方の役人たちにおふれを出した。キリスト教が大嫌いな皇帝が見習えと言っていることなので、信憑性が極めて高い。ユリアヌスが見習えといったことは3つあった。その中に「死者の埋葬に関する丁寧さ」があった。なぜ私たちの先達たちは、死者を丁寧に埋葬したのか。そこにはイエス様がヨセフによって丁寧に理葬されたという事実が横たわっていると思うのである。あくまで伝説ではあるが、このできごとの後、アリマタヤのヨセフは、今のイギリスに渡って伝道をしたと言われている。その際、イエス様の十字架の血を入れた最後の晩餐の時に用いられた杯を携えていたといわれ、それが有名な『聖杯伝説』の基となっているという。
5 こうしてイエス様の埋葬が終わって安息日が始まっていった。イエス様の遺体には、安息日などに何のかかわりもなくなってしまった。死んだ者には、安息などもはや必要ではないのは、確かにその通りである。しかし私は、イエス様がヨセフの用意した墓に葬られた後に安息日がやってきたということから、死んだイエス様にも安息は必要だったのだと感ぜずにはおられない。ヨセフがいてもたってもいられずに、多くのものをを失ってまでなした行動、それによって墓に葬られて、イエス様はやっと安息を迎えられたのではなかろうか。
そして、このヨセフの備えた墓が、やがて空の墓となり、イエス様がそこから復活をなさったところの、いわば卵の殼のような存在となったのである。神様がなさしめたイエス様の復活と、ヨセフがイエス様のために墓を備えたこととは、何の因果関係もないように思える。ヨセフの行為がなくとも、神様はイエス様を復活させたであろう。しかし、ヨセフが備えた墓であったればこそ、神様もそれを器として、イエス様の復活の場所として用いたのではなかろうか。死んでしまった者を丁寧に葬ること、十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない新しい墓に納めたこと、死んだ者にも安息をとの思い、それらすべては無駄と言われることかもしれない。しかし、このような関わり方こそが、生きている者にそれまで踏み出せなかった新しい歩みを始めさせるものとなるのである。私たちクリスチャンの生き方の根源的な特徴が、このヨセフの姿に現れているように思うのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 2月5日(日)降誕節第7主日礼拝
07:37以上は焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物、任職の献げ物、和解の献げ物についての指示であって、 07:38主がシナイ山においてモーセに命じられたものである。主はこの日、シナイの荒れ野において、イスラエルの人々に以上の献げ物を主にささげよと命じられたのである。 08:01主はモーセに仰せになった。
1 レビ記には3本の柱があると思う。1本目の柱は7章まで。2本目の柱は、祭司のあり方。3本目の柱は犠牲を献げるイスフ工ル人のあり方である。
1番目の柱である献げ物について。38節の最後、これは「主はこの日、シナイの荒れ野において、イスラエルの人々に以上の献げ物を主にささげよと命じられた」とある。出エジプト記と同様、果たしてここに書かれている通りのことを荒れ野において実行すべきこととして神様が命たかということがある。エジプトを脱出して荒れ野をさまよう難民状態にあった人々が、ここに書かれている通り実行できたとは、到底考えられない。多くの学者たちも、そのように考えており、献げ物だけでなく、このレビ記全体は、実際にイスラエル人において定着して行われるようになったよりもだいぶ後の時代にまとめられたものだというのが定説である。
しかし、レビ記に書かれていることがすべて後代のものかと言うと、そうとは言えないと思う。幕屋が建てられたことも、その基本的な部分については、出エジプト時代になされたものであるように、その幕屋において何らかの献げ物が捧げられ、儀式を司る役割の者が立てられたということはあったのではなかろうか。出エジプト記の3章18節、モーセがはじめてエジプト王に面会して語るべき言葉として神様から託されたのは、「荒れ野に行かせて、私たちの神、主に犠牲をささげさせてください」との言葉であった。出エジプト記の5章には、その指示通り、モーセはエジプト王に語っている。エジプトを脱出して荒れ野を歩むこと犠牲を献げることは、密接不可分なものとして結び付いていることが感じ取れる。レビ記に書かれていることは、実際には行われなかったとしても、犠牲を献げるという神様から示された大切なものとして行われていたのではなかろうか。
2 エジプトを脱出し、荒れ野をさまよったイスラエル人にとって、なぜ献げ物を献げることが大事だったのか。献げ物を献げることの意義はどういうものだったのか。それは、十戒を振り返ることで、よくわかる。
神様は、エジプトで奴隷だったイスラエル人を救い出し、もはや2度と奴隷となってはいけないと十戒を与えたと言ってよいと思う。だから、十戒の扇の要は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」との言葉であった。これは過去形で訳されているが、そもそもの意味は、未来永劫、繰り返し、神様は私たちをエジプトの国や奴隷の家から導き出し続けるというニュアンスなのである。神様が私たちに与えて下さった具体的生活の指針、いわば処方箋のようなものが十戒なのである。そして、レビ記というのは、この十戒という処方義をさらに具体的に実行してゆくための細則のようなものだと理解してよいのである。
いつの時代でも、私たちを奴隷のような状態に置くエジプトの国のようなもの、また家がある。わたしは、この十戒の最初の「奴隷の家から」という言葉に強く心を惹かれる。私たちを縛り拘束するのは、決して国とか権力とか言われるものだけではなくて、むしろ家とか家族関係こそが、しばしば私たちを拘束する。家や家族が、私たちを縛るという。私はこの「エジプトの国、奴隷の家から」という言葉にそういう意味を感じ取る。神様の私たちに対する御心・かかわりの根源には、私たちを奴隷状態から導き出すということがある。そのための根本的な十の処方箋が十戒だとすれば、レビ記で記されているのは、その細則だと言ってよい。そして、その細則たるレビ記で、最初に教えられているのが献げ物を献げるということなのである。神様に献げ物を献げることによって、私たちはエジプト王や家の奴隷となることから導き出される。
3 では、なぜ献げることが、国や家やこの世の関係の中でしばしば奴隷にされる私たちを、導き出して下さることになるのか。その献げ物の最初にあげられているのが、「焼き尽くす献げ物」である。それは文字通り、献げられた動物が、だれのものともならずに煙となって焼き尽くされてしまうものである。つまりは無駄に浪費されるのである。この献げ物と、イスラエル人が、エジプト王の下で献げさせられていたであろう献げ物を想像し較べてみて欲しい。エジプト王のもとで献げさせられていた献げ物とは、具体的に言えばレンガであった。レンガを生産する労働であった。出エジプト記の5章で、モーセから「荒れ野で犠牲を献げさせて下さい」と言われたエジプト王は、「お前達はなぜ彼らを仕事から引き離そうとするのか。お前達も自分の労働に戻れ」と言った。神様に犠牲を献げることと、王のためのレンガを焼く労働が鋭く対立していたのがわかる。イスラエル人にしても私たちにしても、要は、どれだけレンガを焼き、どれだけ王や国に貢献したかで、その価値を計られる。雇用関係の中でも、そして家族関係の中でも、突き詰めればそうであろう。目に見えて会社や家族に貢献するものをどれだけ生み出したかで、私たちの価値は決まる。そして、それこそが私たちを奴隷にしてしまう根本的な価値観なのである。
ところが、焼き尽くす犠牲を献げるとは、どうであろうか。それは、文字通り燒き尽くして煙りにしてしまう。全くの無駄であり浪費である。それを評価するのは誰か。それを喜ぶのは誰か。それこそが神様のみなのである。37節にあげられている6つの献げ物のうち、焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物と任職の献げ物と和解の献げ物の4つについて、次のような注目すべき言葉が語られている。焼き尽くす献げ物については、1章で3回(9、13、17節)、穀物の献げ物については2章で9回、和解の献げ物については3章で7回、任職の献げ物については6章で14回、「なだめの香り」という言葉が出てきている。
これは非常に誤解を招きやすい表現であるが、決して神様が献げ物によってなだめすかされて、ご機嫌を良くするというような意味ではない。残念ながら、周囲の国々の影響なども受け、しばしば献げ物がそのような意味を持つものとして受け取られてしまうようになった。詩編50編13節では「わたしが雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むとでも言うのか」と神様からの痛烈な皮肉が語られた。「なだめの香り」とは、ただただ神様が私たちの献げる献げ物を大いに喜んで下さることを言わんとするものである。この世の王様のためでなく、国家のためでもなく、会社や家族のためでもなく、ただただ神様のためにのみ、それもこの世的には全く無駄になってしまうような形で献げられるからこそ、神様は大いにこれを喜ぶのである。この神様だけが下さる評価、神様の眼差しこそが、私たちをエジプトの国から、奴隷の家から導きき出すものなのである。
ローマの信徒への手紙の12章のはじめで、パウロが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして神に献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」と語っていた心は、まさにレビ記が勧めるものと一緒なのである。この世の主人の文字通りの奴隷として、主人からの評価に悩み苦しんでいた信徒たちに、パウロは「あなたがたには自分の体を神様に献げる領域があるではないか」、「あなたがたの献げるものを神様は喜んで下さるではないか」、「そこに、たとえ奴隷であっても、自由でありうるあなたがたの生き方があるのだ」と勧めていた。そして、パウロは「献げる」ということは、礼拝にほかならないと言っていた。
本当にそうだと思う。私たちが献げる礼拝こそが、焼き尽くす献げ物にほかならない。礼拝で棒げられるものの中で、唯一形として残り、この世的にも貢献する献げ物としては、献金があるかもしれない。教会を支え牧師を支えるものとなりる。しかし参席者が日曜日の大切な時間の半分近くを献げること、牧師が1週間精一杯備えてする説教、奏楽者の奏楽、参席者の賛美、そうしたものは本当に煙のように消えてしまう。目に見える形ではどこにも残らない。モーセに対し「労働に戻れ」と言ったエジプト王と同じように、この世の王たちも家族さえも、私たちを見ているであろう。「あなたがたは、何と無駄なことをしているのか」と。「あなたがたは、日曜日の折角の時間を浪費しているのか」と。しかし、私たちは神様が喜んで下さる献げ物を捧げているのである。それによって、エジプト王や家に対峙しているのである。彼らとは全く違う価値観の下で生かされているのである。神様に喜んでいただける者として、私たちの意義を肯定していただいているのである。これこそが、私たちを奴隷の家から導き出して下さるものなのである。
4 さて、37節にあげられた6つの献げ物の中で、先ほどあげた4つのものとは性格の違う献げ物がある。前の4つには「なだめの香り」が付随していたのに対して、贖罪の献げ物と賠償の献げ物には、その言葉がない。この2つは、他の4つとは明らかに性格が違うことが示されている。
どうも贖罪の献げ物と賠償の献げ物との違いが今一つよくわからないが、要はどちらも神様との間柄においてふさわしくないことをイスラエル人がしてしまったとき、そのふさわしくなさを動物の命をもって償う、理め合わせをするというものなのだと思う。なぜ動物の命なのか。犠牲として殺される動物の身としては、たまったものではないが、本来ならふさわしくないことをした当人が償い理め合わせをしなければならない。
しかし、それができない。なぜかと言えば、病気でたとえるなら、その人自身が病んでいるからである。ふさわしくないことをしてしまったその人自身が健やかではない。だから健やかな存在の命-それは動物に過ぎないのだけれども-の犠牲をいただいて、病いを埋め合わせしてもらう。健やかさと病いとが、交換され移植されると言ってもよい。
なぜ神様はエジプトを脱出し荒れ野を歩むイスラエル人に、奴隷にならないための処方箋として、このような処方箋を与えたのか。なかなかうまい説明が見つからないが、それは、この世の王様や家の奴隷として生きるのではなく、神様との間柄に生きる者であるがゆえの独特の倫理観のような感覚を身につけて生きることが大事だからだと思う。そういう独特の備理観を身につけて生きることが、王や家の奴隷にならないように私たちをさせてくださるのである。
王や家の奴隷であるならば、その利益になるのであれば、何をしても構わない。たとえ人を殺しても奪っても、それが王の利益になるのであれば許され、むしろ大いに評価される。しかし、神様との間柄に生きる者としては、そうではない。たとえ王の利益になろうとも、家の為になろうとも、してはいけないことがある。それをすることがふさわしくなく、私たちを根源から汚すことがある。神様との間では汚れてしまっているとの感覚の大事さがある。そして、その汚れを、汚れてしまった自分ではなく、他の汚れていない生き物の命によって清めていただくことの不可欠さ。これが、贖罪の献げ物と賠償の献げ物の意味するところなのである。私たちは、この感覚を受け継いでいる。動物の命ではなく、イエス様の命によって、汚れたところを清めていただこうとする存在が私たちなのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 1月29日(日)降誕節第6主日礼拝
05:01このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 05:02このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 05:03そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 05:04忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 05:05希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 05:06実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 05:07正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 05:08しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 05:09それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 05:10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 05:11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
説教の音声配信はありません
説教要旨の掲載はありません
シャローム伝道所 牧師 小形 泰代
2017年 1月22日(日)降誕節第5主日礼拝
12:09愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 12:10兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 12:11怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 12:12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 12:13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 12:14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 12:15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 12:16互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。 12:17だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 12:18できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 12:19愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 12:20「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 12:21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
1 この聖書箇所のタイトルには「基督教的生活の模範」とある。「愛には偽りがあってはならない」に始まり「善をもって悪に勝ちなさい」に至るまで、ざっと数えても25ほどの「・・・しなさい」「・・・してはならない」という模範が、これでもかこれでもかと畳み掛けられている。ここから私たちは、喜びとは正反対の「クリスチャンとはこうあらねばならない」という義務感や重圧を感じてしまうかもしれない。しかし私たちが、そのような思いを抱いてしまうとしたら、それは、この文章を書いたパウロの本来の意図ではなかったであろうと思うのである。
パウロがローマ教会に、このように書き送るに至った当時のローマ教会の事情として、異邦人から信者になった人たちの中に奴隷階級の人が多かったのではなかろうかということがあった。12章1節の最後に「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして神に献げなさい」と書かれている。パウロはなぜ、こういうことを書かざるをえなかったのか。それは奴隷だった人々が、文字通り主人に喜ばれるいけにえのようなものとして自分を献げなければならない境遇に置かれていたからなのである。このような境遇に置かれていた彼らは、日々悩んでいたに違いない。「このような境遇にある自分たちが、はたして神様に喜んでいただけるのだろうか」と。そのような信者の悩みを知ったからこそ、パウロは「たとえこの世の主人の奴隷であったとしても、神様に喜んでいただける生き方ができるのだよ」と彼らに伝えたかったのである。神様に喜んでいただける生き方は、おのずとクリスチャンに喜びをもたらす生き方といえる。その具体的な生き方を教えようとしたのが12章以降である。パウロの本来の意図は、奴隷として主人から数多くの強制や重圧を科せられていた信者たちに、さらにそれを上乗せするよなこと科すようなものでは決してなかったはずなのである。そうではなく、たとえ奴隷の境遇であっても、神様に喜んでいただける生活ができることを具体的に示し、それがクリスチャンとして生きる喜びになるということを語る点にこそ、パウロの本意があったのである。
2 パウロのこの語りかけ全体の扇の要として書かれたのが、9節最初の「愛には偽りがあってはならない」という一文であった。日本語に翻訳されたものはこのように長い文になっているが、ギリシャ語の原文では、わずか2語で書かれている。ギリシャ語で「愛」は「アガペー」という語である。「偽りがあってはならない」は「アンヒュポクリトス」という語である。アンヒュポクリトスという言葉は、もともとは演劇の舞台などで、役者が仮面をつけて演技をする様子をさす「ヒュポクリトス」という語に「アン」という否定の言葉が付いたもので、「仮面をかぶっていない状態」、すなわち「偽善ではない状態」を意味している。
「私たちの愛が、いかに仮面をかぶった偽善的なものであるか」 私の手元にある何冊かの注解書のどれにも(しばしば紹介する内村鑑三の『ローマ書の研究』にも)、そのことが延々と書かれ、パウロの意図を、そのようであってはならないと勧めるものだと書かれている。これらの解説書の批判をしては申し訳ないとは思うが、そのような解説をいくら読んでも、私はどうしても喜ぶことができない。クリスチャンである私たちの抱く愛が、とうていアンヒュポクリトスではありえないとするのならば、一体どうすればよいのかとこれら解説書の著者らにお聞きしたくなる。私には、パウロの本意は、決して私たちの愛が仮面をかぶったものだと暴き立てて批判をするところにはないと思えるのである。普段この世の主人から様々な要求を科されて苦しんでいる信者たちを「私たちの愛が、いかに仮面をかぶった偽善的なものであるか」と責めたてて、「アンヒュポクリトスな愛を抱け」と、到底不可能と思えるようなことを要求するのでは、さらに無理難題を押し付けることになる。
そもそもパウロは、なぜここでアンヒュポクリトスという独特な言葉を使ったのか。想像してみると、当時、主人の下で奴隷であった信者らが、どうしても仮面をかぶって生きざるを得ない生活を送っていたからではないかと私は思うのである。だからこそ、クリスチャンになったからには、もはや仮面をかぶった生き方はせずともよくなるのだとパウロは励ましたのであった。本音で、心底から、晴れた思いで生きることができるようになる。それが神様に喜ばれ、私たち自身の喜びにもなる。だからこそパウロは、わざわざ「アンヒュポクリトス」という独特な言葉をここで使ったに違いないのである。
3 では何が、私たちをしてアンヒュポクリトスにさせるのか。何が、アンヒュポクリトスな愛を抱かせ、それに基づいた生き方をさせてくれるのか。そのすべての要は「愛」にある。そして、その愛とは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではアガペーという語である。新約聖書においては、アガペーという語は、もっぱら神様の愛・イエス様の愛を語る言葉だというのは基本中の基本である。注解書には、ほとんど言及がない(そこが私には大きな不満なのだが・・・)。その基本中の基本にじっくりと足場を置いて捉えずに、なぜこのアガぺーをすぐに私たち人間の愛と同じものとしてとらえ、それがアンヒュポクリトスでないと指摘するのか。愛がアンヒュポクリトスであるとは、ただただ神の愛・イエス様の愛についてだけ言えることなのである。そして、そのようなアガペーに心を動かされてはじめて私たちは、周囲の人々とアンヒュポクリトスな関係を作り、アンヒュポクリトスな行いをすることができるようになるのである。神様の愛・イエス様の愛に動かされて、この世の主人の下では否応にもかぶらざるを得ない仮面を脱ぎ捨てて、心底から出てくる思いで生きることができるようになる。これこそが、クリスチャン生活の喜びなのだと、パウロは語っているのである。
この神の愛は、イエス様において現れたものだと、パウロは繰り返し語ってきた。イエス様の姿こそが、アンヒュポクリトスであり、9節後半にあるように「悪を憎み善から離れない」ものなのである。本当に苦しんでおられたイエス様の姿に、仮面をかぶった存在を感じ取ることなど、到底私にはできない。自ら弟子として選んだわずか12人の者の中から裏切る者が出てしまったこと、ぺトロが3度も否んだこと、そして何よりも十字架の死を背負わねばならなかったこと、「できることならこの杯を取りのけてほしい」と祈られたこと、「わが神わが神、何ゆえ私をお見捨てになるのですか」と十字架の上で叫ばれたこと、そこに仮面はなかった。そこにあったのは、悩みつつ苦しみつつも、弟子の裏切りも否認も十字架もすべて神様の御心と受け止め、それを背負われたイエス様の真実の姿のみなのであった。
パウロは、このイエス様を貫いていたものこそが、「悪を憎み、善から離れない」という強い御心だったと言わんとしたのではなかろうか。イエス様にとっての悪とは何であり、善とは何だったのか。最後の晩餐での弟子たちへの遺言の中で、イエス様は「異邦人の間では王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。私がそうであったように、あなたがたは仕える者・給仕する者でありなさい」という言葉を残した。イエス様が十字架にかかってまで憎んだ悪とは、突き詰めれば王のように力を振るって人々を支配することや、剣を振るうことではなかった。誰もそのことを悪などとは思わず、当然にそうしていた時代にあって、イエス様はそれに悪を感じたのである。だからイエス様は、自らは決して剣をふるわず、その反対に剣を自らの身に受けた。自らの身を剣を振るわれる側に置いたのだった。「悪を憎む」の「憎む」とは、ギリシャ語では「忌み嫌う・ぞっとする」という意味の言葉なのだという。人はいろいろな理由を付けて「剣を振るわざるを得ないときもあるではないか」と言う。剣を振るって誰かを傷つけたり殺したりするときの感覚はまさしく「ぞっとする」ものである。どうしても受け入れることができない感覚、それが悪というものなのである。イエス様にとっては、王のように権力を振るい、剣の力に頼って人々を支配することは、自分の命を失ってでも遠ざけたい悪だったのである。
そしてその一方には、命を失っても離れることのできない善があった。それが、神様に仕え、人に給仕する者のごとく自分の大切なものを与えてゆくことだったのである。それは最後の晩餐に如実に現れていた。イエス様が、給仕する者として私たちに与えて下さったものは、イエス様の体であり血であった。必要とした者には、イエス様は自分そのものを与えた。イエス様は、自分と一緒に十字架に付けられた一人の犯罪人を一緒に神のみもとへ連れていった。このことこそ、イエス様が最後の最後になした善ではなかったか。それをしてしまえば自分の命を失ってしまうことをわかっていても、決して離れることのできない善が、イエス様の中にたしかにあったのである。
4 パウロは、このようなイエス様の姿に心揺さぶられて、「私たちも仮面をかぶった姿ではなく、偽善でなく、心底から悪を憎み、善から離れない生き方ができるのだよ」と勧めるのである。その具体的なあり様を10節以下に書いている。まず、善から離れないあり方としてあげている事柄から気づかせられるのは、奴隷であった人々でも実行可能なことを教えたという点である。善から離れず善い事を行うと言っても、何か特別に立派なことをせよとは、パウロは語ってはいなかったのである。「主に仕え祈る」とは、礼拝を献げ、祈りの時を持つことである。「聖なる者たち」というのは、特に福音を宣べ伝える伝道者をさしているが、その人たちを覚えて支えることだと言っている。また旅人・寄留者・よるべなき人々をもてなすこと、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣くこと、また身分の低い人たちつまり奴隷だった彼ら以上に貧しく困窮していた人々にかかわっていくことだと言っている。信者たちが奴隷として生きる日常の中で当たり前にできること、それが善から離れず善を行うことだとパウロは勧めたのだった。イエス様に現れたアガペーに心動かされた私たちが心底からなすことであれば、それはみなアンヒュポクリトスなのである。私たち自身、それをなすことにおいて、少ししんどいとか辛いとか思いながらやるときも、そうしたいと思うからやるのである。イエス様もまた、悩みつつ苦しみつつなさったのだから、私たちもそれでよいのである。悩みながら善をなすのを、ヒュポクリトスだ偽善だとして責められることなどないのである。
10節から16節までには、おもに「善から離れないありかた」が列記されていた。いっぽう、17節以降には、悪から離れるあり方が書かれている。当時の世界では、悪に悪を返し、復響し報復することは、ごく当たり前のことであった。それが善であり正義であると疑いなく思われていたのである。奴隷だった信者たちは、自分たちをいじめた主人や周囲の人々への憎しみや復響心を当然に抱いていたであろう。さから、チャンスがあれば、いつかそれを実行したいと思っていたであろう。そのようなことが悪だとは、誰も考えない時代だったのである。そのような時代のただ中でパウロは「悪に悪を返すな、悪を憎み悪から離れよ」と勧めたのだった。
パウロは、なぜそのように語ったのか。勿論、そこにはイエス様の姿があった。いかに正義であり当然であり正当な行為であったとしても、復警し報復をすれば、またそれに対して報復がなされ、繰り返されてゆくことになる。そこには何か「ぞっとするもの」が感じられる。パウロは「復讐・報復」という言葉を、申命記を引用しつつ用いた。迫害し悪をなす者がいる現実の中で、信者たちが復警心や報復したいと思う心をなくすことはとても難しいことであると、パウロはよく知っていた。それを受け入れた上で、それでもなお、復讐は神様にゆだねなさいと勧めたのであった。私たちがそれをしてしまったなら、私たちは身も心も魂も、ぞっとするような悪に染まってしまうのである。憎む心や復響心は、私たちにとって、恐ろしいほどに破壊的なのである。だからパウロは「善をなす機会が日常の中で沢山与えられているのだから、それをしてゆきなさい」とローマの人々に、そして私たちに勧めているのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 1月15日(日)降誕節第4主日礼拝
23:44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 23:45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 23:46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 23:47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。 23:48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 23:49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
1 イエス様の死に際して「太陽は光を失い」「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」と45節に書かれている。同じ場面を記したマタイによる福音書の27章51節以下には、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と書かれている。ル力は、マタイのような大袈裟な書き方はせずに、ただ「神殿の垂れ幕が裂けた」とだけ記した。私は、イエス様の十字架の死に際して、このようなことが起きたと書かれている点に、深い意義を感じる。
真ん中から裂けたと言われている垂れ幕は、おそらくは神殿の中に作られていた幕屋の、聖なる領域を覆っていた幕のことだろうと思う。この垂れ幕が裂けたという記述には、とても深い象徴的な意味が込められている。かつて神様は、荒れ野を歩んでいたイスラエル人のためには聖なる場所が必要だとして「人々の手によって、彼らが喜んで捧げる物をもって聖なる所を造らせなさい」と言われた。そこに行けば神様に会える場所、あたかも神様がそこに住んでいると信じてもよい場所、そういう聖なる場所が必要だということから、それを人間の手で、またこの世の材料で造ることを許したのだった。
聖なる場所を人間が造るということには、大きな矛盾を感じてしまう。本来ならば、聖なる場所なのであるからから、神様自身の手で造られるのが、道理ではないかと思う。しかし、もし神様が自身が造ったならば、それは私たちの目に見えないものとなったか、あるいはごくごく特別な者だけが入ることのできるような場所になったのではなかろうか。現に、シナイ山はそうであった。モーセしか登ることを許されなかった。そうであればこそ神様は、人の手によって、この世の材料で、私たちの目に見えるものとして、聖なる場所を造ることを許されたのだった。
いかなる材料で、どのように聖なる場所を作るか、神様は詳細な指示を行った。それは、人間が勝手に聖なる場所を作って、そこに勝手に自分たちが神だと信じる存在を住まわせないためであった。器は中身を現す。だから器は大事である。重要なポイントがここにあった。イエス様の時代に、イスラエル人はいかなる幕屋を作り、そこにどのような神を住まわせていたか。それは、時のイスラエル人の指導者たち、また民衆がなぜイエス様を殺そうとしたのか、なぜバラバの釈放を望んだのか、十字架上のイエス様をどのようにあざけったかに、よく現れている。23章35節以下には、十字架上のイエス様を、人々が「もしメシア-救い主-なら、自分を十字架から降ろして自分を救うがよい」とあざけったと書かれている。人々にとって、イエス様が神様から遺わされたメシアであるか否かは、つきつめれば十字架からイエス様が自分を解放できるか否かにかかっていた。それが、ひいては、自分たちが科されていた十字架、すなわちローマ帝国の支配からの解放に結び付くからであった。それぞれに科された十字架から自分たちを降ろしてくれるのが神であり、そういう存在が神殿の中に作られた幕屋という聖所に住んでいると人々は信じていたのである。
2 だから、聖所の垂れ幕が上から下まで真つ二つに裂けたということは、イエス様の十字架の出来事が、その聖なる場所を壊したという意味だったのである。それはもはや聖なる場所をなしていないという意味なのである。このとき聖なる場所は、イエス様の十字架によって取って代わられたのである。人間が勝手に作り出した聖所を神様が破棄し、十字架のイエス様を神様自身の手による幕屋として、私たちの目に見えないものとしてではなく、私たちの目に見える聖所として建てたということなのである。
神様が十字架のイエス様を以って建てた聖所とは、まことにまことに驚くぺきものといえよう。それは、私たち人間には、決して建て得ないもの、到底それが聖所などとは思えないものであった。いったい私たちの誰が、十字架の上で殺されてしまった存在に、たった12人の弟子からも裏切られ見捨てられた者に、何の成功も何の業績も残さずに無残にも殺されていった哀れな人間に、神様自身を現す聖なる場所があるなどと考えることがきるであろうか。人々の目には、イエス様の十字架の死は、神様の聖からは最も遠い出来事として見えた。人々に救いをもたらす神様がおられる場所とは真逆の場所と思えた。しかし神様は、この十字架のイエス様こそが、神様自身が私たちのために建てえる聖なる場所であると、そして「私は、そこにいるのだ」と神様は言うのである。この神様の御心は、到底私たちには知り尽くすことができない。私たちは、ただ十字架の周りをぐるぐると巡って、そこに満ちている神様の聖とはこのようなものではないかと、そのごく一部分だけを切り取るのみである。しかしたとえその一部分でも知ることができれば、それは幸いなのである。
私たちにとっての神様の聖とは、つきつめれば罪の救しと同じなのである。私たちの人生を、本当に深い所から肯定して下さるものなのである。バテシバを我がものとし、その夫を死に至らしめたダビデを、神様の聖は肯定した。それは、ダビデのしたことが不問に付されるということではなかった。なかったことにされるというのでもなかった。責任は問われ、償いも求められたのである。神様はそのダビデを聖とし、その罪を赦して、そういうことをなしたダビデだからこそ、その人生は意義があるのだと肯定して下さったのであった。イエス様を3度も知らないと言ったぺトロもまた神様の聖によってその人生を肯定された。クリスチャンを迫害したパウロの人生もまたしかりであった。罪を犯し悪をなした人間の人生を、それにもかかわらず肯定して下さるというのは、神様の聖だけがなし得ることなのである。人間には決してできないことなのである。神様だけが、その聖をもって、なして下さるのである。
イエス様と一緒にはりつけにされたひとりの犯罪人に対して、十字架の上のイエス様がなされたことが、まさにそのことではなかったか。その犯罪者は、イエス様が自分と共に十字架についてくれていたことに、一筋の光を見いだしたのであった。そして、その彼こそが、十字架上のイエス様を救い主として見いだすことのできた最初の人となったのである。そのことにおいて彼の人生は肯定されたのであった。意義のあるものとされたのだった。十字架の上のイエス様だからこそ、さまざまな十字架を科された私たちひとりひとりの人生を肯定して下さるのである。どうしても十字架から降りることのできない私たちの、この十字架を科された人生を、十字架によって肯定して下さる。それが神様の聖がなして下さることなのである。
3 46節に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」とイエス様が大声で叫び、そして息を引き取られたと書かれている。このイエス様の言葉が、十字架上で口にした7つの言葉の最後とされる。このイエス様の言葉は、詩編31編6節に記された言葉であった。イエス様の十字架上の7つの言葉の中で、息を引き取られる直前の言葉は4つと考えてよいと思うが、マタイとマルコは「わが神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を最後の言葉としている。これも詩編22編の最初に記された言葉である。またヨハネは、2つの言葉を記している。1つ目は「掲く」である。これも詩編22編16節からのものと考えられている。もう1つは「成し遂げられた」である。これには、旧約聖書の参照箇所が示されていない。ということは、イエス様が最後に口にされたとされる言葉4つのうち3つが詩編からのものだったということになる。「成し遂げられた」も詳しく見ればどこか詩編に引用箇所と考えられるところがあるのかもしれない。
十字架上でのイエス様の最後の言葉が何であったかについては、マタイが記したように、ただ大声をあげた叫びのみだったのか、それともルカやヨハネが記したようなものだったのかは定かではない。しかし私は、そのほとんどが詩編の言葉だったという点にとても心を引かれる。絶命するほどの苦しみの極みにおかれたイエス様が口にした言葉が、またその言葉をもってして何らかの支えが得られるような言葉が、詩編の言葉だったというのである。そのような聖書の言葉があるということを、イエス様は身をもって私たちに教えて下さったのではなかろうか。私たちは「聖書の言葉がいったい私たちの何の力になるのか」と疑ってしまうことがある。しかしもしも、ルカが記したように、イエス様が詩編31編の言葉を口にされたというのなら、イエス様はこの言葉をもって、苦しみの極みにあってばらばらに引き裂かれようとしていた霊を、神様にゆだねることができたことになる。聖書の言葉にはイエス様の時代から、そのような力があったのである。聖書の言葉こそが、十字架上のイエス様にとっての、いわば幕屋だったのではなかろうか。十字架の死を肯定してくださった神様の聖への入り口となる幕屋が、詩編の言葉だったのである。
4 さて47節にルカは、イエス様を十字架につけた実行部隊であったローマ兵士の百人隊長が、「この出来事を見て、『本当にこの人は正しい人だった』と言って神を讃美した」と書いた。同じ場面をマタイとマルコは「本当にこの人は神の子だった(マタイ27章54節、マルコ15章39節)」と記している。どちらが本当なのか、またそれがどのような気持ちからのものであったのか、それがどの程度の信仰といえるものだったのかは知ることは出来ない。しかし、幕屋の垂れ幕が裂けたということから言えば、ユダヤ人だけが入ることができた聖なる場所に、何と異邦人が、それもユダヤ人が忌み嫌っていたローマ帝国の兵士の隊長が招き入れられて、神様に会うことができていたというのは確かなことなのであった。彼は、十字架にかけられるまでのイエス様の姿をずっと見ていたのであろう。そしてそこから、神としか言い得ないものを感じ取ったのであろう。それまでの彼にとって神とは、ローマ皇帝に体現されていたような存在であった。「正しい人」と書かれているが、それまで彼が知っていた正しさとは、皇帝が現し、皇帝が実行していたような正しさ、つまり剣をふるい、結局のところ強いものイコール正しいとされるようなものであった。しかし彼は、十字架のイエス様を見たことで、そのような正しさとは全く違う正しさがあることを感じ取ったのだった。それは、剣をふるわず、力によらず、悪を引き受け、その犠牲となる正しさであった。彼は、自分たち人間には決して現し得ない神の正しさを、そこに見たのであった。この異邦人の兵士の隊長(伝承によれば、この百人隊長の名前はロンギヌス、後にカパドキアの司教となって最後は殉教の死を遂げたと言われている)もまた、イエス様と一緒にはりつけにされた犯罪人のひとりと同じく、十字架上のイエス様を通して神様に出会うことができた最初のひとりだったといえよう。
イエス様を救い主と信じ、イエス様を通して神様を見る人々はこうして、ひとり、ひとりと起こされていったのである。それはあくまでも十字架のイエス様を見ることによってなのであった。たとえ数は少なくとも、このようにして、ひとり、ひとりと起こされてゆくのだから、私たちがなすぺきことは、ただただ十字架につけられたイエス様のことを忠実に語ることではなかろうか。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 1月8日(日)降誕節第3主日礼拝
25:01主はモーセに仰せになった。 25:02イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。 25:03彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、 25:04青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、 25:05赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、 25:06ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、 25:07エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である。 25:08わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。 25:09わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。
40:34雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。 40:35モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。 40:36雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。 40:37雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。 40:38旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。
1 出エジプト記は40章あるが、その内の25章から31章まで、さらに35章から40章までの、あわせて13章が、幕屋建設についての記述である。全体の1/3ほどが、この記述に当てられたことが、どれほどエジプトを脱出したイスラエル人にとって、幕屋建設が重要であったかを物語っている。
素朴な疑問が生じる。25章3節以下に、幕屋の材料となる献納物のリストが書かれているが、はたして政治的難民が着の身着のままで脱出してきて、食べ物にも事欠く状態で荒れ野をさまよっていたのに、これだけのものを捧げることができたであろうかという疑問である。幕屋建設についての詳細はわからない。たとえば材科として使われた金の総量は、38章24節に「29キカル730シュケル」だったと書かれている。度量衡表に1キカルが約34.2キロとある。、使われた金を約30キカルとすると、何と総量は1000kgにもなる。果たして1トンにも相当する金を、荒れ野をさまようイスラエル人が捧げることができたであろうか。注釈書でフレットハイムは、次のように述べている。「出エジプト記の幕屋に関するテキストは、イスラエルが中心聖所を失った時代に書き記された」と。つまりイスラエル人が、バビロニアによって祖国とエルサレム神殿を滅ぼされてバビロン捕囚とされた最中、幕屋建設の重要性を再発見したイスラエルの人々が、時代をさかのぼらせてこの出エジプト記の多くを書いたと考えられる。
では、出エジプトにおいて慕屋が建てられたことは、全くのフィクションなのであろうか。やはり、何らかの史実がもとになったのではなかろうか。エジプトを脱出して荒れ野をさまよう中で幕屋を建てたという伝承は、イスラエル人の中にしっかりと根付いていたのである。たとえば、ダビデが契約の箱を置く神殿を建てようとした時に、預言者ナタンを通して神様がダビデにこう告げた。「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトの家から導き上った日から今日に至るまで、家には住まず、天幕すなわち幕屋を住処として歩んできた。これはサムエル記(下)7章5節以下の記述である。金を1トンも使うような幕屋は建てられなかったかもしれないが、十戒を収めた箱を安置し、そこに人々が集まって礼拝を捧げた聖なる場所、神様があたかも住みたもう家として精一杯の捧げ物をして幕屋を建てたということは、十分に考えられると思うのである。そのことは、今日の私たちにとって、どのような意味を持つことなのか。私たちにとって幕屋を建てるとは、どういうことなのか。
2 さて、25章8節「わたしのために聖なる所を被らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むだろう」との幕屋建設について最初に神様が述べた言葉が書かれている。「わたしのために」とは、文字通りには神様の住むための場所という意味だが、言うまでもなく神様の住むための場所として幕屋が必要だということでは勿論ない。幕屋がなければ神様が私たち人間と同じように住む家がなくなるということはありえない。では、幕屋は誰のために必要かと言えば、それは他でもなくイスラエル人のためなのであった。荒れ野をさまよっていた彼らが、そこに神様がお住まいになり、そこに行けば神様にお会いすることができ、聖なる場所に身を置くと信じられた。そういう場所が、イスラエル人にとって不可欠だったのである。
エズラ記9章8節後半を、また思い起こす。そこには「わたしたちの幾人かが捕囚を免れて生き残り、あなたの聖なる所によりどころを得るようにされました。こうして、わたしたちの神はわたしたちの目に光を与え、奴隷の身にありながらもわずかに生きる力を授けて下さいました。」とある。「あなたの聖なる所」とは、捕囚から故郷にもどってやっとのことで再建できた神殿だった。そして、その中に幕屋があったのである。それをよりどころとすることによって、生きる力が与えられたと言うのである。このように、私たちには聖なる所が必要なのである。私たち人間の世界とは全く違う原理や法則がゆきわたり、そこに足を踏み入れることで、卑俗な世界で生きている私たちをもその聖なる神様の原理原則によって引っ張って下さる場所が必要なのである。
よく、日本人は無宗教だと言われる。しかしクリスマスイブには、普段は全く教会に足を向けない多くの人が礼拝に集い、正月には初詣をする。それは、無節操というよりも、1年の終わりのクリスマスに、また1年のはじめの初詣に、聖なる存在に触れることが必要だとの思いが確かにあるのである。神様は、荒れ野を歩むイスラエルの人々のためにこそ聖なる場所が必要だと、それを造れと言われたのである。
3 そこに行けば神様にお会いできると信じることのできる場所を、「彼らに造らせなさい」と神様自身がおしゃって下さった。「私が住まう聖なる所を、どうして人間ごときがこの世の材料で造ることができようか。決して許さない。」その方が合理的である。しかし、神様は「聖なる所を人間の手で、この世の材料によって造らせよ」と言われた。
もしも、神様自身が人間に手によらず、この世の材料によらずに、聖なるところを建てたとしたら、残念ながらそれは私たちの目には見えず、そこに聖なる場所があるとは、私たちにはわからないのではなかろうか。或いはそれは、モーセが十戒をいただくために上ったシナイ山のようなところで、ごくごく特別な者だけが足の踏み入れられる場所になってしまうであろう。それでは、誰もがそこに行って神様の聖を生きるよりどころとすることなどできない。だから、人の手で、この世の材料で造ることが肝要だと神様は言われたのである。
私たちクリスチャンにとってはイエス様が、神様のこの世における住まいであり、私たちがその聖に触れさせていただける幕屋なのである。イエス様という幕屋は人の手によらないし、この世の材料によるものでもない。しかし、もしイエス様の存在が、それだけであれば、私たちにはイエス様を見ることはできないのである。イエス様という幕屋に具体的に足を踏み入れることができないのである。だから、イエス様という幕屋を見えるものとしてあらしめるため、神様は「人間の手で聖なる所を造らせなさい」と言って、教会を形作らせて下さっているのではなかろうか。それが「二人または三人がイエス様の名によって集まるところにわたしはいる(マタイによる福音書18章20節)」とのイエス様の言葉の意味である。ローマの信徒への手紙12章5節には、私たちはこのイエス様の体の一部であるとあった。私たちのような者の集まりである教会が、イエス樣という幕屋を具体的にこの世に現すための聖なる所とさせていただいているのは、この出エジプト記25章8節が根拠となっているのである。
4 しかし、神様がお住まいになる聖なる所を人間が造るというのには、大いなる矛盾がある。本来ならばありえない葛藤が含まれていよう。だからこそなのである。どのような材料によって建てるか、どのように建てるか、そして、そもそも根源的に、そこにお住まいになる神様を、どのように理解するのかということが何よりも肝要な点となる。
どのような材料によって建てるかについては、25章1節以下が指示している。「あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい」とある。この「心から進んで捧げられ」という言葉は、材料だけでなく労働を捧げることにおいても慕屋建設を語る13の章に何度も何度も繰り返されている。人間が棒げるこの世の材料に過ぎない。しかし、心から進んで喜んで捧げるものならば、それがどんなに粗末でも、また汚れていても、神様はお住まいになる聖なる所を造る材料としてお喜びになって下さる。教会は本当に文字通りそのどれをとっても、決して強制された捧げものではなく、私たちが心から進んで棒げるものによって建てられている。それが、イエス様という聖なる幕屋を世に現すのにふさわしい材料だとされるのである。
また、どのように作るかについては、25章9節に「わたしが示す作り方に正しく従って・・・すべてを作りなさい」とある。これもまた、13の章にわたる幕屋建設についての記述において、何度も何度も繰り返されるものなのである。最後の40章をざっと読んでいただいたでけでも、19、21、27、32節と4度も書かれている。なぜこれほどに、どのように作るかが大事なのか。それは、幕屋の形や姿、また使う材料というものが、おのずとそこにどのような存在がご臨在なさるのか、いかなる聖なるお方がおられるかを現すからなのである。器が中身を現すと言ってもよいのである。初詣にお参りする神社仏閣の建て方を見れば、参拝する人々が、そこにどのような神様を見ているかがわかる。その中心には、時に動物であったり、時に人間であったりしたものが神様として祭られており、その神様を祭るにふさわしい建物となっているのである。
では、幕屋とはそもそもどのような建物であったのか。どのような建て方が命じられたのか。つきつめれば、それはまず何よりも、言葉の通り「幕屋」なのだという特微がある。幕屋とは、つまりテントのことである。いつでも移動可能な天幕である。日本の寺社仏閣、また私たちの会堂とも、それは対照的である。このような聖なる所の特徴こそが、そこにお住まいになる神様の本質と深くつながっているのである。この幕屋に臨在され、そこにお住まいになるという神様の姿、すなわちその本質が如実に描かれている。それは、ひとことで言えば「出発」である。旅路にあるということである。神様自身が、旅装を解かないのである。したがって、このような神様が、私たちに下さる恵みや祝福というものも、旅装を解かない旅の途上にあるということと切り離すことはできないのである。
イエス様が人としてこの世に生まれ、十字架にかかられ、復活をなさって、また天に帰られたという歩みこそ、旅装を解かずひとつの所に留まらない幕屋そのものである神様の姿ではなかろうか。そのように改めて思うのである。イエス様がそのようであることにおいて、私たちのこの世における旅する歩みを支えて下さっているのである。旅する歩みをこそ祝し、この出エジプト記の最後に描かれているように、旅する歩みをこそ導き共にいて下さるのである。パウロもまた幕屋という言葉を使って、コリントの信徒への手紙(二)の5章1節以下に「私たちの歩みとは、地上の幕屋が滅びてゆき、天の幕屋を目指すものだ」と語っている。
地上の幕屋が滅びてゆくということには、さらに加えて、この幕屋が粗末であり、みすぼらしく、旅路において段々と劣化してゆくということも含まれているように思う。そのような幕屋に、神様がお住まいになるとは、それが聖なる所であるとは、本当に意味深いものと感じる。神様自身が、そのような幕屋にお住まいになるからこそ、滅びて行く幕屋である私たちと共に、神様がいて下さると信じることができるのである。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
2017年 1月1日(日)降誕節第2主日礼拝
12:03わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。 12:04というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、 12:05わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。 12:06わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、 12:07奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、 12:08勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
1 この12章以降は、パウロがローマ教会の信徒たちに、世にあって、いかにクリスチャンとして生きたらよいかを教え勧めたところである。1~2節の部分は、12章以下全体の総論的な箇所といってよいと思うが、パウロはこの勧めを、決して一般的なものとして語ったのではなかった。パウロの手紙のすべてがそうであるが、そのような文章を書き送らざるを得ない事情があった。パウロは、信徒たちがその問題でとても悩んでいるのを知って、何とかしてそれを解決したいとの一心から手紙を書き送ったのだった。12章以下の部分もしかりである。
では、この12章以下の部分を書き送るにあたって、パウロの念頭にあったローマ教会の信者たちの悩みとはいったい何であったのか。それは1節の最後の「自分の体を・・・献げなさい」という言葉に滲み出ている。バウロがこのように語りかけねばならなかったのは、ローマ教会の、特に異邦人からクリスチャンになった人々に、奴隷階級の人々が多かったことが背景にある。当時、奴隷というのは主人のまさしく所有物であった。売り買いも、殺すことさえも主人の意のままだったのである。言葉通り主人に喜ばれる「いけにえ」に他ならなかった。「私たちは奴隷の身分でありながら、一体どうやって神様に喜ばれる存在として生きていったらよいのか。」「そもそも神様に喜んでいただくことなど可能なのか。」これが、彼らが抱えていた切実な悩みだったに違いないのである。
そのような彼らに対して、パウロは「いや、あなたがたは神様に喜んでいただける者として自分を献げることができる。それが礼拝なのだ。」とまず語ったのだった。そして、それに続き、キリストの体である教会に属して、6節以下にあげられているような、具体的な働きにおいて、奴隷のままであっても神様に喜んでいただけると励ましたのだった。神様に喜んでいただけるなら、それは私たちの喜びともなる。そのような生き方を喜びとして歩んでゆけるのだとパウロは励ましたのだった。
このようなパウロの励ましは、現在の私たちにとっても、決して無関係なものではない。私たちは幸いにも、文字通りの意味での奴隷ではない。しかし、働く人々の4割が非正規労働者との状況下にあって、もしかしたら、2000年前の人々が今の私たちを見たら「あなたがたは奴隷ではないか」と言うのではないかと思えるような働き方を余儀なくされている人々が、どれほど多くいることか。また、自分ではいかんともしがたい身体的・精神的要因のために思うようにならない生活を強いられている人々も多いのである。
2 さて、このように、たとえ奴隷ではあっても教会の一員となって、6節以下にあげられている7つの具体的な働きをしてゆくことを語る前に、3節で「評価」という言葉を口にしている点に、私は心を引き寄せられた。なぜ評価ということを書いたのであろうか。それは、やはりローマ教会の信徒、特に奴隷であった人々が、そのことにとても心を悩まされていた事情があったからではなかろうか。奴隷とは、主人の所有物である。したがって、主人の評価次第では、他の主人に売り飛ばされてしまうこともあったはずである。プロ野球のトレードのように交換されたり、ある日突然、お払い箱にされる、すなわち殺されてしまうということもあったかもしれない。仲間の奴隷と比べての評価も、当然気になったはずである。
そのような信者たちの事情を知っていたからこそ、パウロはクリスチャンとしての評価、すなわち教会という共同体で生きることの評価が、どれほど、この世の主人の下で奴隷として生きることとは違うかを語ったのだと思うのである。3節に、「自分を過大に評価してはなりません・・・慎み深く評価すべき」とある。字面だけを読めば、パウロが語ったのは、もっぱら自分を過大に評価しないようにとの勧めのように読める。しかし、原文のニュアンスには過大評価だけではなく、過小評価を慎む意味もある。
内村鑑三の『ローマ書の研究』に、内村も同じことを書いている。内村は原文を「自己について正当に思い得る以上に思い過ごすなかれ」と訳している。正当に思い得る以上に思い過ごさないとは、一方では過大評価もあるが、他方では過小評価も戒めているのである。
むしろローマ教会の信徒たちの悩みから言えば、過小評価こそがパウロの戒めようとしていることではなかったか。ローマ教会の信徒たちの多くは、主人からの評価に戦々恐々としていた。障害を抱えた人々は、常に周開の人々からの過小評価にさらされていたであろう。私たちは皆、周囲の人々からの評価を気にし、それを基準にして自らを過小評価している。このような悩みを知っていたからこそ、パウロは、クリスチャンとしての評価、教会に属する者としての評価はいかなるものかを勧めたのである。
3 では、その評価はいなかるものであったか。大事なのは評価の基準なのだと思う。それについて、パウロは3節はじめで「わたしに与えられた恵みによって」とまず語り、6節では「与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」と語っている。また、3節後半には「神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて」とも書かれている。この3節後半の理解は、なかなか難しいものがある。しかしこれも、字面だけを読むと、あたかも信仰が評価の基準であるかのように読めてしまう。神様がそれぞれにどれほどの信仰を与えて下さっているかで、クリスチャンの評価が決まる、すなわち信仰の強さや弱さが、そのままクリスチャンの評価基準であると言うのなら、信仰の世界の評価もこの世と変わりがないことになってしまう。
パウロが言わんとしたのは、神様が私たちを信じて、信頼して、それぞれに預けて下さっている賜物を基準にして評価しなさいという意味だと思う。ここでの「信仰」とは、私たちが抱く信仰ではなく、神様の私たちへの信頼と理解すべきである。神様は、私たちを信頼し、ただ恵みにおける賜物として、具体的には6節以下に揚げられている7つの働きをするようにして下さるのである。神様が恵みによって賜物として授けて下さるものを以って、評価基準とするのである。
では、神様が恵みによって賜物として与えて下さるとは、何を意味しているのか。コリントの信徒への手紙Ⅱの12章に、パウロはイエス様から「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という言葉を与えられたと書いた。肉にトゲを、つまり障がいを与えられたその弱さゆえに、神様の賜物を十分に与えられたと。神様が私たちを信頼し、恵みにおいて与えて下さる賜物とは、弱さにおいて与えられる何かなのである。それが、クリスチャンが自分自身を評価する基準なのである。
これは、この世の奴隷である人々が、世の主人のもとでなされる評価とは決定的に違っているのである。この世の評価基準は、強さにおいて私たち自身が発揮する能力におけるものである。しかし、クリスチャンにおいてのそれは、弱さにおいて神様が与えて下さるものなのである。恵みをギリシャ語では「カリス」と言い、賜物をこのカリスの複数形である「カリスマ」と言う。カトリック教会では、この「カリス」を杯や器を意味すると言うと聞いたように思う。器は凹でありくぼんでいる。だからこそ、そこに水を盛ることができる。そのように、神様が下さるカリスは、くぼんでいる私たちにこそ盛られるのである。マイナスを抱えていない者にはカリスマは与えられない。弱さを持った私たちにこそ与えられる賜物なのである。このことにおいてこそ私たちは、自分自身や周囲の人々を適切に評価できるのである。
4 こうして、神様が与えて下さった賜物を用いて、私たちは、具体的には6節以下に上げられている7つの働きをしてゆくのである。この働きについてパウロは、4節と5節でイエス・キリストの体の一部分をなしている働きなのだと教えている。わたしは、この「部分」という言葉に大きな慰めを受ける。パウロは、神様からの賜物をいただいた私たちの働きが、目立つものや大きなものである必要はないと語ってくれていると思うのである。
この世の主人の奴隷として、信徒たちは、常に目立つ大きな役割を果たすことを求められている。ある若者が入社試験の面接で「あなたがこの会社に入ったら何ができますか? 何をしてくれますか?」と尋ねられ、絶句した場面を思い出す。牧師の場合、そのような面談で、このように尋ねられたら、私はどう答えることがでたであろうか。私たち牧師が会員の皆さんから常にこのような働きを求められたらどうか。そういうものを要求されている人がどれほど多いことかと思う。
これに対してパウロが求めたのは、キリストの体のごく一部分である働きでよいということなのであった。復活されたキリストは、全世界にあまねく存在し、私たちは遣わされた所で、そのごく一部を構成し、キリストの働きのごくごく一部をさせていただくだけなのである。体の一部がすることなので、目が何をした、耳が何をした、手や足がなにをしたとは言われない。部分が何をしても、それが目立つことはなく、トータルな体としての働きとして現れるだけである。むしろ目が、耳が、手が、足が何をしたかと問われ、評価対象とされるなら、それはおかしいのである。
「部分であってよい」ということは、慰めである。たとえば、夫婦という単位において、また家族という人間関係において、私たちは部分であることは許されない。だからこそ、お互いを責めてしまうのである。どうしてもっと働いてくれないのかと、もっと大きな役割を担わないのかと責め合うのである。麗しいと思われる夫婦や家族だからこそ、逆に病んでしまう側面がここにある。しかし、教会という共同体の中では、私たちは夫婦や家族という関係から一旦離れて、キリストの体の一つの小さな部分であってよい機会を得るのである。ある意味では、私が何の働きもしなくてもキリストは存在して下さる。私が怠けてもキリストは存在するのである。ただ黙って礼拝に出席することが奉仕となるのである。
そのような余裕をもって、弱さにおいてこそ与えられた賜物を活用して、小さな働きをするのである。その働きが7つあげられているというのは、象徴的な意味を持つ。7という数は聖書において完全数である。それほどに多様であることを意味している。夫婦関係や家族においては、求められる働きは決まったものでしかない。その働きをしなければならないという限定があり、義務がある。それをせねば評価されない。奴隷も、社会人も同じである。しかし、教会という共同体では、キリストの体の構成部分としては、そうではない。一人として同じ働きはない。こうでなければという働きもない。キリストの体として生きることの多様性、そこには喜びがある。
筑波学園教会牧師 福島 純雄
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