聖書:新共同訳聖書「ペトロの手紙(1) 2章 1~10節」 02:01だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 02:02生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 02:03あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 02:04この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 02:05あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 02:06聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 02:07従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、 02:08また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。 02:09しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 02:10あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神のものとなった民」
ペトロの手紙(1)が記された時代、この手紙を読むキリスト教徒は社会的に苦難を受けていた。そこでペトロは、苦しみの中にあっても神を信じ、イエスに倣い正しいことを行おうと述べている。イエスの受けた苦難を、共に負うという恵みとして受け入れようと教えているのである。また、正しいことを行っていれば、いつか人々も理解し、結果的にキリスト教は社会に浸透し、社会を変革してゆくことになるだろうという希望を、著者ペトロはキリスト者に示している。
本日は、ペトロの手紙(1)の2章1節以下に心を傾けたいと思う。「石」という言葉が目に留まるのではなかろうか。パウロもローマ書9章33節で、イザヤ書を引用し「「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。(6節)」と記している。また、イエス自身も、マルコによる福音書の12章10節で、詩編を引用し「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。(7節)」と述べている。ペトロの手紙でも、同様に旧約聖書をその箇所引用している。そこでも「石」は両義的な意味を持っている。建築物において石は、土台などとして中心的な働きをなす。一方で、道にある石によって人はつまずいてしまうことがある。ユダヤ人たちはイエスを信じなかった。つまり、ユダヤ人にとってイエスは神へと導くものではなく、つまずきであった。
しかし、シオン、エルサレムにおけるイエスの十字架を計画した方こそ神であり、そこに救いがある。またイエスは、罪人として処刑されたが、十字架が救いとなり、信仰、救いの礎になった。そのように苦難を受けたイエスが、信仰、救いの頭石になったのである。神は苦難を通して、救いへと導いてくださる。だから、イエスを信じる者も「生きた石」としてイエスに倣いなさいと、ペトロは述べているのである。ペトロ自身、イエスから「ペトロ」すなわち「岩」と名付けられた。ペトロはイエスに述べたように、イエスを信じる者たちを信頼し、「生きた石」になるよう呼び掛けていると言えるであろう。
では、イエスに倣うとは、いかなることであろうか。10節にホセア書を引用し、この手紙を読む者たちや苦難にあっている者たちを、神は憐れんでくださると記している。「憐れむ」とは、相手の立場になって同情し、行動をすることである。つまり父なる神はその御子を、人と同じ肉をまとわせてイエスとしてこの世に与えたことによって、真の憐れみを示し、この神の御子イエスを受け入れることによって、同様にして神の子となり、「神の民」とされたのである。大変なことだが、神、イエスを信じる者こそ、イエス、神の憐れみに倣うべきであると言えるのではなかろうか。
一方、そのように苦難にあっている者に「イエスに倣い歩みなさい」という言葉は、厳しいように思える。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です(9節)」。この言葉は、王の系統、しかも祭司という特別な権威をキリスト者には与えられるということであろうか。そこでは特別な権威ではなく、神がイエスを信じる者の側にいてくださるということを意味しているのである。選ばれた民、苦難にあっている者たちにとって、それは励ましの言葉となる。神が選び、神の民として守り導いてくださるといえるであろう。
「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです(9節)」。神、イエスは、暗闇から光の中へと招き入れてくださった。暗闇、どのように歩むべきか分らない状況から、歩むべき道を光によって照らし、招いてくださったのである。つまり神は招いてくださる方であり、その招きに条件などはない。招くというのだから、一人ひとりをよしとし、肯定して下さってということに他ならないと思うのである。
そこでもう一度9節を見ると、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と書かれている。それはイエスの存在を表す称号として用いられる言葉である。イエスは、王、祭司、預言者、聖なる方、神の子などと呼ばれた。神を信じる者も、祭司、聖なる者、神のもの、つまりイエスと同じ称号が与えられる。イエスと同じ存在として、神はわたしたちを招き、受け入れて下さるということである。「わたしたちもイエスと同じ神の子とされる」といっても過言ではないと思う。しかも「神のものとなった」。神を信じる者は、神のものとして大切にされ、愛されていると言っていいであろう。
今回この聖句を読み、なぜ食事、パンでなく、「乳(2節)」なのかと思った。皆さんは、どのように思われるであろうか。赤ちゃんのように、まず求めなさいということであろう。そのような解釈があった。「初歩的な教え」である。わたしは、そのように理解した。この手紙を読む人々は、ユダヤ人ではなく、異邦人が多かったと考えられる。つまり、神、イエスに出会ったばかりの人たちである。または、初心、神に出会ったときのように救いを求めるべきだということか。同時に、赤ちゃんには乳が必要なように、神はいま必要な栄養をお与え下さるということなのではないかと思ったのである。神を信じる者たちを憐れみ、いま必要な恵みを神はお与えくださる。恵みを求めなさい。神は、わたしたちを憐れみ、いま必要な恵みをお与えくだる。そして、神の民として導いてくださる。現代のわたしたちに対しても同様である。神は、神の民としてわたしたちを招き、憐れんでくださっている。神の恵みを求め、イエスに倣い歩みたいと思う。そのことによってこそ、すばらしい世となるのである。
祈祷
憐れみ深い神様、あなたは、御子イエスに苦難を与え、十字架にけられました。それは、今もなおわたしたちの苦難を共に負って下さっているということです。どうか、苦難の中にある一人一人と共にありますように。そして、その場においてイエスに倣うことができますように。また、そのため、いま必要な恵みを与え下さい。イエスに倣い歩むことにより、この世に神の栄光を表すことができます。それは神の愛がこの世に満ちることであり、この世はきっとよき方向へと歩むことができるようになります。どうか、わたしたちをそのためにお用いください。特に、この世の指導者の心に愛を満たし、争いを止め、手を結び歩むことができますように。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げ致します。アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネの手紙(1) 4章 13~21節」 04:13神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。 04:14わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。 04:15イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。 04:16わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 04:17こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 04:18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 04:19わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 04:20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 04:21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の戒め」
ゴールデンウィークは、祈祷会を休みにしていただいた。小学生3年生の息子が、東京の地下鉄メトロが大好きなので乗りに出かけた。つくばを8時頃に出て、5時40分に帰宅するまでの間、食事の1時間を除いてずっと路線を変えながら地下鉄に、ただ乗っていた。なぜ息子が地下鉄が、それもメトロが好きなのかは分からない。新幹線の方がかっこいいと感じるように思うが、息子は一番好きなのはメトロとのことである。それを本人も説明できない。神様が人間に与えてくださった賜物に、好き、好奇心、興味を持つということがあると思う。そこから学びが生まれる。賜物なのだから、好き、興味を持つことに理由などいらないと思う。小さな赤ちゃんを見たときに、ほとんどの人がかわいいと思う。そこに理由などいらない。かわいいと思える賜物を与えてくださった。神様は一人一人に様々な賜物をくださる。その創造の業は本当に素晴らしいと思う。ただ感謝するのみである。
さて、日本においてキリスト教、キリスト者は、一般的に良いイメージを持たれていると思う。優しいとか、隣人を愛するなど。一方、全ての人を愛することなどできない。だからキリスト者になれないという意見を聞いたことがある。
本日の聖書箇所のヨハネの手紙は、ヨハネによる福音書と同様に、愛という言葉が多く記されている。「神は愛です」。そのことから本日の箇所を好きな聖句としている方も多いと思う。13節に「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内に留まって下さることが分かります」とある。わたしたちの心というより、この世、そして、教会という共同体であると理解できる。それは、神から離れてしまうこの世的な中に、神が入ってくださるということであり、神の霊を通して神の愛、導きをわたしたちは知ることができる、気づくということに他ならないということである。それは、また、わたしたちの希望になる。
15節に「イエスこそ神の子であると告白する者は、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまる」と記されている。「その人の内」とある。12、13節には「わたしたちの内」と複数形で記されている。だから教会等の共同体、この世の内と理解できる。一方、15、16節は、単数形、ある人の内に神がとどまってくださるという。そこでは、キリスト者、人間と神との相互内在性を述べている。これは、2章18節以下に記されていた「反キリスト」が教会内部を惑わしているという背景があると理解できる。そして、18節の「恐れ」とは、世の終わり終末の到来が背景にある。「世の終わりに神の裁きがある。また、惑わす者たちが現れる。しかし神を信じる者は、心の内に神がいてくださるので恐れることはない」というのである。
16節に「神は愛です」とある。最初にキリスト教、キリスト者は一般に良いイメージを持たれていると述べた。神は愛であるから神を信じる者も愛なる人であるというイメージがあるのだろう。本当にそうであろうか。本日の箇所の最後にも「神を愛する人は兄妹を愛すべきです。これが神から受けた掟です」と記されている。神を信じるわたしたちは、その掟として「愛さなければ」ならないのであろうか。
わたしは「掟」という言葉に躓きを感じる。「掟」には、行わなければならないというイメージがある。では、神は、愛することをわたしたちに強制しているだろうか。その言葉は「掟」のほかに「戒め、委託」と訳すことができる。「戒め」とは、罪を犯さないよう注意するという厳しい意味である。「委託」という言葉を聞くと、そこに信頼関係があるというイメージがある。神は、わたしたちを信頼し、愛しなさいと述べている。確かに信頼されていることは嬉しい。しかし愛さなければならないことには変わりない。そこで考えたい。「神は愛です」。つまり、愛の源は神である。その神が、わたしたちの内にいてくださる。その箇所を調べていると、「愛とは何か」との問いのこたえが「賜物」であるという解釈があった。愛される資格などない人間であるにもかかわらず、神はわたしたちを愛してくださっている。弱く、欠けのある人間を、ありのまま受け入れてくださっているのである。その愛ゆえに独り子をこの世にお遣わしになった。そして、神の前に立つことができるようにしてくださったのである。そのため独り子に苦難を負わせた。独り子イエスの苦しみ、痛みは神様自身の痛みである。痛みを負うほどこの世を愛してくださった。わたしたちは神にいやおうなしに愛されてしまっている存在なのである。それだけではなく愛を賜物として与えられてしまったのである。愛された者だからこそ愛することができる。「兄弟を愛する」の前提は、まず神によって愛され、愛がわたしたちの内に賜物として与えられているということなのである。先ほど、反キリストがヨハネの教会を惑わしていると述べた。それによって教会で分裂が起こりそうである。内部分裂こそが危険である。だからこそ「兄弟を愛しなさい」と記されている。この世、教会等共同体の内、それだけではなくわたしたちの心の内にも神がいてくださる。神に愛される資格もないわたしたちにも関わらず、神はわたしたちの内にいてくださる。わたしたちが愛するのではなく、愛する力を神がすでにわたしたちに与えてくださっているのである。争うこと、分裂することは神の意志ではない。なぜなら、神は愛だからである。愛こそ、和解する力、一つになる力なのではないだろうか。また、愛することによって神がわたしたちの内にいてくださることを実感することができる。わたしたちが愛するのではなく、愛なる神が共にいて、愛する力を与えてくださる。愛は神との共同作業であるといえるであろう。愛することから大きな力、働きが生まれる。神から愛という賜物を与えられていることを確信したいと思う。それほどに大きな支えは他にない。
祈祷
愛の源なる神様、神様は愛です。すべての愛は神様から出ています。わたしたち一人一人、神様から愛をいただいています。だからわたしたちは他の人を愛することができます。愛することは掟ではなく神様から頂いた賜物です。わたしたちは神様から愛されてしまっている存在です。そして、愛するということによって神様、イエスさまがわたしたちの内にいてくださることを気づくことができます。どうか、神様が与えてくださった最も大切な愛という賜物を用いることができますようにお導きください。そして、この世にも争いなど分裂ではなく、和解と一致が待たされますように。そのためわたしたちをお用いください。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この小さき祈り主の御名を通して御前にお献げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 10章 7~18節」 10:07イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 10:08わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 10:09わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10:10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 10:12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 10:13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 10:14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 10:15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 10:16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 10:17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 10:18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「私は良い羊飼い」
羊飼いに皆さんはどのようなイメージを持っておられるであろうか。のどかな牧草地で羊たちを見守っているほのぼのとした姿ではないだろうか。旧約聖書の詩編23編4節に「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」とある。羊飼いたちが持っている鞭と杖は、羊を強盗、また狼などの獣から守るための武器である。羊飼いは、羊の群れを毎朝牧場へ連れ出して草を食べさせ、水を与え、夕方には囲いに連れ帰るだけではなく、昼夜を分かたず、野獣や盗賊から群れを守っていた。それは危険が伴う仕事だったと考えられる。
本日のヨハネによる福音書10章7節以下でイエスは「羊飼いである」と述べ、また羊を守るために命をも惜しまないとも述べている。羊のために命を捨てるというのは、当時の羊飼いとしては、ありうる出来事と考えられる。羊飼いたちが、夜に焚き火をし、羊の番をするとういうのも、獣から羊を守るために、寝ずに番をしていたのである。羊の持ち主に忠実であればあるほど命をかけて羊を守る。それは羊に対して責任を果たすということである。
ヨハネによる福音書の10章7節でイエスは「わたしは羊の門である」と、そして11節では「わたしは良い羊飼いである」と自分のことを形容している。ヨハネによる福音書において特徴的なことの一つである。イエスは自分を証しするとき「わたしは……である」というふうに述べ、自分を定義する。その言葉の背後には、旧約聖書で神が自身を明らかにしたときの言葉があると考えられる。神は、出エジプト記やイザヤ書で、自身を明らかにするとき、「わたしは……である」といっている。イエスも神と同様の言い方で自身の存在を明らかにした。それは、わたしたち人間に対してイエスが、どのような存在であるかを宣言したといえる。
宣言するとは、どのような意味があるのか。ひとつに自分がどのようなものであるかを明らかにしている。また、イエスがわたしたちに自分を開いているといえる。そして、宣言したということで考えられるのは、責任が伴うということである。現代では、選挙のときには、立候補者は公約を宣言する。「わたしが当選したあかつきには・・・を行います。だから、皆さん投票してください」と宣言する。それは、公に宣言しているのだから、責任が伴うということであり、ある意味では契約であるといえるのではないだろうか。ところが、人間は弱いもので、公約をあやふやにし、守らないことがある。しかし、神、また、その一人子イエスは異なる。わたしたちに宣言したことを必ず成し遂げてくださるのが神、その独り子イエスである。イエスが「わたしは……である」と宣言したということは、イエス、神の救いが成し遂げられるということを意味する。神は、人間を創った。そこには人間に対する責任が伴う。神は、その責任として人間を導く。また、神はアブラハムと契約を結んだ。神は、人間との救いの契約に自ら縛られたともいえよう。神の側から契約を破ることはない。神は導き手である救い主の到来を人間に約束した。神は、神の権能を与えイエスによって約束を果たした。いや、それは、現在形で今もなお行われているのである。
イエスは、「わたしは良い羊飼いである」と宣言した。つまり、イエスこそ、神が遣わした人間を導く羊飼いであるということである。神の約束がイエスによって成し遂げられた。そして旧約聖書で、神が自身を明らかにした言葉と同じ言葉を用いてイエスは、自分こそ神が約束した救い主であると宣言しているのである。わたしたちにとって、これほど力強い宣言はない。
イエスは「わたしは…である」と、自分自身を定義している。それは、ヨハネによる福音書において、様々な場面で見ることができる。イエスは、命のパンであり、世の光であり、羊の門であり、良い羊飼いであり、復活であり、道であり、真理であり、命であると証し、宣言している。
なぜ、イエスは、そのように自分を明らかにしたのであろうか。「わたしは……である」というのは、偽者を前提としている。9節の「盗人」、12節の「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人」は、自分たちの思いによって神から離れている人々であると理解できる。「盗人」は、当時キリスト者を迫害していたユダヤ権力者たちであると考えられる。「自分の羊を持たない雇い人」とは様々な解釈があるが、私は誤った導きを行っているキリスト教指導者と受け取りたいと思う。つまり、門であるイエスをきちんと理解せず、自分たちの思いを中心に置いてしまった人々である。しかしこのわたしたちも、そのような過ちに陥ってしまうことがある。だからこそ大切なのは、イエスを通して神と向き合うことなのである。
決してイエスは人間を置き去りにはしない。イエスの心にあるのは、いかに人間を正しい道に導くかということに他ならない。13節に、悪い羊飼いは「羊のことに心をかけていない」と記されている。逆に言えばイエスは、常にわたしたちに心をかけてくださっているのである。
イエスこそ、わたしたち人間のために命をかけ、救いに導いてくださっている方である。わたしたちは、自分の命をも投げ捨て守ってくださるイエスを信じたい。イエスは、そのために自分を定義する言葉を用い、何をする者かを宣言してくださった。イエスこそ良き羊飼いなのである。イエスがわたしたちに心をかけ、自ら開かれたように、わたしたちもイエスに心を開き、善き羊飼いであるイエスの導きに従いたいと思う。
祈祷
ご在天の恵み深い神様、あなたは、人間と契約され、約束された救いを成就してくださり、今もなおわたしたちを救いに導いてくださっています。御子イエスは、ご自分を様々な言葉で言い表されました。あなたは、イエスとはどのような方であるか、救いに導いてくださる真の方とはいかなる方かをわたしたちに知らせるため導いてくださっています。わたしたちが、御子とわたしたちの関係をより深く考え、そして、その導きに気づくことが出来ますようお導きください。この世にあなたの愛が満たされますようにここに集うわたしたちをお強め用いくださいください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 20章 19~23節」 20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 20:22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「平和があるように」
19節にある「その日」とは、十字架につけられ死んだイエスが三日目に蘇りマグダラのマリアの前に現れた日のことである。それは日曜日の朝の出来事であった。弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、家の戸に鍵をかけていた。そのユダヤ人たちとはユダヤ教権力者たちで、イエスを迫害し十字架につけるよう扇動した者たちである。イエスの弟子たちは、イエスが迫害され十字架につけられたように自分たちも迫害されるのではないかとおびえ、不安を抱き隠れていたのである。彼らをわたしたちは批判できるであろうか。彼らに対し恐れずイエスの救いを述べ伝えるべきであるとわたしたちはいえるであろうか。弱いわたしはきっと弟子たちと同じことをするに違いないと思う。批判はできない。一方、彼らは最も偉大な力を忘れていた。つまり、鍵をかけていたというのは、この世の力に対しおびえ不安になってしまったということ、そして神とその独り子イエスの力を理解していなかったということである。彼らは、闇の中にいたといえるであろう。
そこにイエスが入ってきた。イエスにとってこの世の鍵など何の効力もない。イエスは闇の中にある弟子たちのもとに来てくださった。それこそが、わたしたちにとっての希望である。そこにイエスを信じる共同体、すなわち教会とはいかなるものであるかがよく表れていると思う。教会に、わたしたちの真ん中にイエスはいつもいてくださるのである。同じようにイエスは、わたしたちの心の鍵を解き、心の真ん中に入ってくださるのである。イエスは「あなたがたに平和があるように」と述べた。そのことばは、イスラエルの日常の挨拶である。イエスは十字架で釘打たれた手、槍で刺されたわき腹を弟子たちに見せた。イエス自ら、十字架につけられたイエスであるとことを明らかにされた。弟子たちの心を理解し、自ら弟子たちの不安を取り除いてくださった。イエスこそ、わたしたち人間より先に声をかけ、自身を開いてくださるのである。そして、神の救いを述べ伝える責任を与え、息を吹きかけたのである。ヘブライ語で聖霊は、もともと「息」という意味を持っていた。宣教へと派遣するため、聖霊を弟子たちに注いだ。つまりそれが、ペンテコステの出来事である。そこで宣教の業として罪の赦しを弟子たちに委ねたのである。それはすばらしいことである。そのように言えるであろう。弟子たちにイエスの持つ罪の赦しの権能を与えた。逆に弟子たち、そして、イエスを信じる者は、隣人を赦すことができるのだとイエスがいってくださっている。そこにあるのは、無条件の信頼である。弟子たちは信頼されている。嬉しいと同時に重要な責任である。イエスは、鍵を閉めた弟子たちを決して叱ることなく、ありのまま受け入れてくださった。弟子たちは既に赦されていたのである。救いに与っていた。赦された者こそ赦すことができるのである。
さて、本日わたしは、イエスが弟子たちに述べた「あなたがたに平和があるように」という言葉に注目したい。それはヘブライ語で「シャローム」である。確かに、古くからイスラエルの民が用いている挨拶である。一方、イエスはそこで二度もその言葉を述べている。ヨハネによる福音書で「シャローム」は、イエスと深いかかわりのある言葉なのである。弟子たちとの別れの告別説教といわれる箇所がある。14章27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」、16章33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。そこに平和、シャロームが用いられている。既に弟子たちはイエスから平和、つまり、支え、力を受けているといえるのではないだろうか。そしてイエスが弟子たちに、そしてわたしたちに対して与える平和は、一時的なはかないものではない。いついかなる時も与えられ、かつ、永遠にかかわるものなのである。イエスは、弟子たちに息、聖霊を吹きかけた。つまりイエスが世に勝っているように、弟子たちもイエスにより既に世に勝ち、心を騒がせることもおびえる心配もないと聖霊の働きを通して導かれている。イエスがいつも一緒にいてくださるということを示しているのである。聖霊とは目に見えないイエスの働きといってよいであろう。
実は、当時の教会の人々も、ユダヤ教からの迫害を受けていた。だからそれらのイエスの言葉は、当時の教会の人々にとっては、たとえ迫害にあっても信仰をもって歩むための勇気づけ言葉だったのである。それはわたしたちにも与えられている。そしてそれは、闇から光へと導いてくださるイエスの導きでもある。創世記、天地創造で人が息吹を吹きかけられ生きる者となったように、闇から光に歩むことができる新たな創造、新たなる者としての歩みの力をイエスが弟子たちに与えてくださったということなのである。そして、弟子たちがイエスから罪の赦しの権能、述べ伝えられた福音、救いを現代のわたしたちも与えられている。つまり、わたしたちも復活のイエスに赦され、救いを述べ伝える力、新たなる者とされ闇から光へと歩むための息吹、祝福が与えられているということなのである。いまのわたしたちも様々な状況にある。喜びの救いを知らされ、ありのまま受け入れられた者として、その喜びを多くの人と分かり合いたいと思う。その喜びの救い、福音を多くの人と分かち合うことによってこそ、この世に真の平和が訪れるのである。
祈祷
愛なる神様、あなたは独り子をこの世にお遣わしになり、私たちの罪を赦し、不安、おびえ、重荷を共に負ってくださいます。それだけではなく闇から光へと希望の道を示し、新たなる者としての力をお与えくださっています。どうか、復活のイエスが、真ん中に立ち、全ての人と共にありお導きくださいますように。そして、この喜び、平安を多くの人と分かち合うことができますよう私たちを神の御用のためお用いください。また、世界では争いが起こっています。指導者に真の愛を示し、真の平安へと歩むことができますようお導きください。
地震がありました。不安の中にある方々をお支えください。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリスト御名を通して御前にお献げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(1) 15章 1~11節」 15:01兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 15:02どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 15:03最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 15:04葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 15:05ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 15:06次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 15:07次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 15:08そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 15:09わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 15:10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 15:11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「復活の証人」
コリントの信徒への手紙はパウロによって記された。パウロはユダヤ教の教えである律法を厳守するファリサイ派に属していた。キリスト教は律法をないがしろにすると考え、キリスト者を迫害していた。しかし復活のイエスがパウロに現れたことにより、パウロはイエスこそが唯一の神の子、救い主であると信じイエスの救いを宣教する者となった。
1節に「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」とある。福音とは良き知らせであり、パウロにとって良き知らせである救いは、イエスの十字架と復活にあった。4節などから十字架と復活は、神によってなされた救いの業であること理解できる。
では、イエスの復活は、本当の出来事なのか。3節以下が復活の証拠、根拠である。聖書とは旧約聖書のことである。そこでパウロが、どの箇所を示したのかは明確でなく、旧約聖書全体であるといえるであろう。また、3節はイザヤ書53章、4節はホセア書6章などからの引用と考えられる。十字架、復活の出来事は旧約聖書に預言され、イエスによって成し遂げられたとパウロはいう。5節以下に、復活のイエスと出会った人の名前が記されている。ケファとは、使徒ペトロのことである。復活のイエスは、ケファ、12弟子に現われ、その後500人以上の兄弟たちに同時に現われた。また、イエスの兄弟ヤコブ、全ての使徒にも現われたとある。そして8節、パウロは復活のイエスと出会ったと自分のことを付け加えている。「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現われた。」「月足らずで生まれた。」それらは西洋語諸訳の伝統としての日本語訳である。その言葉は「早産」あるいは「流産」と二つの説がある。ある学者は、「月足らずで生まれた」ではなく、流産、死産を支持し「生まれそこない」と訳している。それは現代では差別語だが、古代人のパウロには差別語という感覚はなかった。もちろん、神はすべての人を祝福し命を与えたので、生まれそこないなどいないのである。パウロは、ひどい言葉を用い自分を表した。つまり、パウロは自分を卑下し、罪人であると自覚していたということである。
復活のイエスがパウロに現れ、パウロは本当の救いを知った。それはイエスの十字架による罪の赦しであった。律法を守らなければ救われない、律法を守るという自分の行為によって救われるという考えから離れ、パウロはありのままを受け入れてくださる神の恵みのみによって救われることを知った。つまりパウロは、復活のイエスによって変えられたのである。新たなる者とされたのである。
10節に「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです」とある。パウロは、自分の力でイエスの救いを述べ伝えたのではなく、すべてが神の働き、恵みであると述べている。復活のイエスに出会ったパウロは、決して自分を誇らない者となったのである。
コリントの教会の人々は、パウロを通して復活のイエスに出会い、救いに与り、新たなる者とされた。コリントの教会の人々もまた、神ではないものを神と信じていた。パウロの宣教により誤った道から引き出され、真の道へと導かれたのである。
4節に「復活した」とある。これはキリストが復活した状態であるということを意味している。つまりそれは、過去の出来事が今も継続しているということである。復活のイエスは、今もパウロと共にあり、パウロに恵みを注ぎ、復活の証人として用いている。また、キリスト教徒を迫害していたという罪を、重荷を、十字架のイエスがパウロと共に負ってくださっている。それと同じようにわたしたちは、パウロを通して復活のイエスと出会い、復活のイエスによってありのまま受け入れられ、新たなる者とされ、そして、復活のイエスの証人として用いられているのである。
パウロは以前、自分こそ律法を完全に守り、救われると確信していた。しかし、復活のイエスに出会ったことによって、その根底が崩された。律法を守るという自分の力によって救われるのではなく、神の恵みによって、イエスの十字架によってのみ救われるということを知らされた。自分は生まれそこないであると自覚したパウロだからこそ、神ではないものを信じ、誤った道を歩んでいる人々の心を理解し、真の道、神へと導くことができたのではないだろうか。キリスト者を迫害した者であるにもかかわらず、いや、そのような者であったからこそ神は、パウロを用いた。そこにあるのは神の大いなる愛、神の一方的な恵みに他ならない。なぜなら、パウロが欲したのではないから、復活のイエスがパウロに現れ、罪の赦しを知らしめたからである。わたしたちも自分の力ではなく、神の前で謙虚になりたいと思う。復活のイエス、神は、わたしたちに思いもよらない恵みを一方的に注いでくださる。神の恵みこそわたしたちを生かす力であり、救いである。イエスが復活したように、わたしたちも復活の恵みに与り新たな者として神の、イエスの恵みの証人として歩みたいと思う。
祈祷
いつくしみ深い神様、復活のイエスは、キリスト者を迫害していたパウロに現れました。そこにこそ神の一方的な恵があります。パウロは、自分の力ではなく、神の恵みによって救われると気づきました。わたしたちは、パウロを通して復活のイエスと出会い、罪赦され、新たなる者とされます。わたしたちもパウロのように復活のイエスの救いを多くの人と分かち会うことのできる者としてください。争いで悲しみの中にある方々を覚えます。特に子どもたちの上に主の豊かな恵みがありますように。指導者が横暴ではなく神に生かされている者として謙虚になりますように。また、新型コロナウィルスが収束しますように。主の復活の恵みがすべての人にありますようにお願いいたします。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリスト御名を通して御前にお献げいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 14章 32~42節」 14:32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 14:33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 14:34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 14:35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 14:36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 14:37それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 14:38誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 14:39更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 14:40再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 14:41イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 14:42立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「祈り」
本日は棕櫚の主日といい、イエスがエルサレムに入城し、十字架へと向かったことを覚える日である。マルコによる福音書の14章32節以下は、ゲッセマネの祈りと呼ばれる箇所である。その祈りの後すぐ、ユダの裏切りによってイエスは捕らえられた。イエスは病人を癒し悪霊を追い払うなどの奇跡を行って、人々からはユダヤの王となると期待されていた。そこでユダヤ教の権力者たちは嫉妬し、また自分たちの地位が脅かされていると思い、イエスを捕え、殺そうと計画したのである。それが十字架の出来事である。
最後の晩餐を終えたイエスは祈るために、ゲッセマネという場所のオリーブ山に弟子三人を連れて行った。そこでイエスはひどく恐れ、もだえ始めた。そして弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と語った。
イエスは、これから起こる拷問と十字架という苦難を「無くしてください」と3回以上祈った。しかもイエスは弟子たちから離れ祈っていた。それは、静かに誰にも邪魔されずに神に語りかけ、神と一対一で向かい合った。わたしたちはそこから少しでも、イエスの苦しみを理解しようとすることができるのではかろうか。拷問、そして十字架という苦しみの中で死なねばならない、しかもそれが間近に迫っていた。苦しみを受け、死ぬときを知っていたという恐ろしさ。そのようなことが、わたしたちに耐えられるであろうか。
そこにはイエスの弱さが記されている。拷問と死刑を前にした者の死に向かう姿であるともいえるであろう。人間は弱く、死に対して恐れと不安を感じる存在だと思う。神の子であるにもかかわらず、イエスは人間として死を受け入れなければならない。人間にとって絶対といえるのは、神は全知全能であるということと、わたしたちは死ぬべき存在であるということである。神の独り子であるイエスでさえ死に対して恐れを感じ、死を受け入れるため何度も祈っている。わたしは、ゲッセマネの祈りのイエスの姿をそのように受け取りたい。イエスは、わたしたちに弱い姿を見せることによって、苦難のときに何が大切なのかを示してくださっている。
イエスは拷問と十字架に対して「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈った。御心、神の意思とは、イエスの死を指しているのであろうか。そうではないと私は思う。人間の死を神が求めるであろうか。イエスは、人間の罪をその身に負い十字架に掛けられた。神は、殉教をわたしたちに求めておられるのであろうか。そのようなことはない。神は、天地を創造し、一人ひとり人間に命の息吹を注いだ。命を与える神が、人の死を望むはずがあない。そこでの御心とは「人間を救いへと導くこと、愛に生きること」ではないだろうか。イエスの「御心に適うことが行われますように」との祈りは、「神の愛に従い生きる者としてください、わたしを神の御用のために用いてください」ということであると受け取りたい。イエスは、どのような状況にあろうとも神、その愛に従って生きた。神の愛に従い生きる者としてイエスは、弱さをわたしたちに見せてくださっているといえるのではなかろうか。イエスは、弟子たちに「死ぬばかりに悲しい」と弱音を吐き、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」と悩み祈った。そしてその場に、弟子たちを連れて行ったのである。それは、人間に弱さを隠さず見せてくださるためであると思うのである。「わたしは、神の独り子であるが、わたしイエスは人間として弱さを持っていて、拷問、十字架という苦難を恐れる存在なのだ」と、わたしたちに示してくださっていると受け取りたいのである。つまり、人間は弱い存在なのだと。まさにそのような重要なときに、弟子たちは寝てしまった。イエスは、寝ていた弟子たちに「心は燃えても、肉体は弱い」と語った。それは、イエスが弟子たちを叱ったということなのであろうか。弟子たちを励ましたのではないかと、わたしは思うのである。「人間は、弱い存在であるが、弱いことは悪くない、だから自分の弱さを知り、弱さを受け入れ生きていけばいいのだ」と。イエスご自身も自分の弱さを人間に示してくださった。そして、イエスがその弱さの中で行なったのが、神との会話、祈りだったのである。イエスは、ご自身の弱さを隠すことなく神に向かい、ありのままを述べた。そして神は、嘆きを受け入れてくださっていたのである。
「人間は、決して強い存在ではない。だからこそ神に祈ること、語りかけることが許されているのだ。苦難、悩みに襲われるとき、いやどのような時も神に祈りなさい。それほどの支えは無い、神は祈りを通してわたしたちと共に居てくださるということを確信させてくださり、そして、力と支え、すなわち、前に歩くよう導いてくださるのだ。祈りによって神の意思、愛を知ることができる」と、このゲッセマネの祈りを通してイエスは教えてくださっているのではないだろうか。
イエスは、十字架へと向かうその苦難の中で自らの弱さを隠すことなく、ありのままわたしたちに示してくださることによって、「わたしも弱さを持っているのだ」と、眠ってしまう弟子たち、そして、弱いわたしたちを受け入れてくださっているのではないだろうか。イエスは、わたしたち人間の弱さを受け入れてくださり、弱いからこそ神に祈ることの大切さ、いや、神に祈るという力を教えてくださっている。イエスは、その祈りを通して神への祈りに招いてくださっているのである。
祈祷
慈しみ深い神さま、御子イエス・キリストは、あなたの御心に従うため、祈りのときを持ちました。そこで人間としての弱さを見せています。人間は弱い者であるとわたしたちを受け入れると共に、祈りこそ人間を支える大切なものであると教えてくださっています。わたしたちは祈ること、あなたに語りかけることを許されていますことを感謝します。また、自分のことだけではなく他者のことを思い、祈ることのできる者とならしめてください。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。アーメン
聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 10章 32~34節」 10:32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 10:33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 10:34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「決断」
マルコによる福音書10章33節以下でイエスは、自分の苦難と復活を予言している。その苦難の予言は、三度目になる。イエスは自分が受ける苦難を知っていたのである。しかも、そこでは十字架のことは言っていないが、他の箇所で詳しく苦難の出来事を述べている。イエスはユダの裏切りによって、ユダヤ教の祭司長たちや律法学者たちに売り渡されることになる。ユダヤ教の権力者の祭司長、律法学者たちは、イエスが人々から王になると期待されていることをねたんでいたと考えることができる。そしてイエスは、当時ユダヤを支配していたローマから派遣されていたユダヤ総督に引き渡され、鞭打たれ、裁判の結果十字架にかけられた。
弟子たちは、イエスの十字架の予言を既に聞いていた。イエスがなぜエルサレムに向かうのかを、少しでも弟子たちは理解しているべきだった。しかし32節で、イエスが先頭に立ちエルサレムへ向かおうとすると弟子たちは、驚いたというのである。そこに弟子たちの無理解が示されている。弟子たちにはイエスの行いがまったく理解できていなかったのである。
一方、32節には「従う者は恐れた」と記されている。驚く弟子たちに対して、恐れ従う者たちがいたということである。そこでは敢えて驚く弟子と恐れ従う者を区別していると考えることができる。従う者たちは、イエスがエルサレムに向かうことが悪いことだと察知できたのかもしれない。というのは、エルサレムはユダヤ教の中心地であり律法学者や祭司たちの活動の中心地でもあった。それまでイエスを陥れようとエルサレムから律法学者、祭司たちがイエスの元に来た。今度は、逆にイエスがエルサレムに向かうというのだから、恐れたというのは当然のことと考えられる。推測にしかすぎないが、この恐れた者たちは女性であると考えることができる。イエスが十字架にかけられるその場にいたのは、弟子たちではなくイエスの母マリア、マグダラのマリアなど女性たちだった。そこでイエスがエルサレムに向かうことが恐ろしいこと苦難であることに気付いたにもかかわらず、イエスに従った者たちがいた。その人々は、どんなことがあろうともイエスに従うということを決断した人々であったといえるであろう。イエスに従うことこそが、神の思いに適うことであると考え、決断したといえるのではないだろうか。
さて、32節の前半には「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」とある。イエスは、先頭に立って進んだのである。指導者として、人々を導くイエスが先頭に立つのは当たり前のことと思われるかもしれない。しかしここでは、あえて「先頭に立って」と記されていることに意味があると思う。イエスは、「エルサレムに行けば苦難に会う、そこには十字架の死刑という苦しみが待っている」ということを知っていた。それにもかかわらず、先頭に立って進んだ。そこにイエスの固い意志と決断が表されている。つまり、十字架という苦難を受けることが神の意志であり、イエスは神の意志に従う。神の求めていることが何か考え、知り、決断した。その背後にあるのは、十字架によって全ての人の罪を共に負うという神の愛の業である。イエスは、神の愛、思いを理解し、決断したのである。
一方、「イエスが先頭に立って」ということにこそ意味があると思うのである。イエスは先頭に立ち、弟子たちをイエスの苦難の場に連れて行った。それは、イエスがこれから行うことを、弟子たちが理解できるよう導いている。それは、イエスと共に歩むことの意味を知るということ、そして、苦難を共に負うことの意味を知るということである。イエスは、十字架を通して人間の重荷、苦難を共に負ってくださった。イエスは弟子たちに、隣人の苦難を共に負うことの意味を伝えようとしていたのではないかと思うのである。つまり、イエスの愛の業の意味、それに倣うということである。
わたしたちも、このイエスの決断に倣うべきだと思う。何が神の意志、何が神の思いなのか考え決断をする。決断することの一つに信仰を告白する、洗礼を受けるということが上げられると思う。もちろん神は、愛をわたしたちに注ぎ、導いてくださっている。同時に神は、人間に自由を与えてくださっている。人間には、神を信じない、神に背くという自由もある。そこで、神の愛を知っている者としてわたしたちは、どうするかの決断をするときがあるのではないだろうか。洗礼を受けるということだけではない。日々の生活の中で、何が神の思いなのか考え、決断すべきなのである。その決断の判断の基準こそ、イエスの愛の業なのである。わたしたちはイエスの愛に倣い、決断をしたい。
最後に一つ加えさせていただきたい。神は、わたしたちが考え、決断したことを否定しない。それはわたしたちを信頼しているからである。もしそれが善い結果を生み出さなくても、神は叱りはしはないであろう。きっと、そのときわたしたちを受け入れてくださる。だから、わたしたちはまた前に歩むことが出来るのである。それこそが、神の愛であり、イエスの十字架の業こそ、誤りを犯してしまうわたしたちを受け入れ、新たに歩むよう導いてくださる出来事なのである。無理解であり、十字架を前に逃げ出した弟子たちも、その後、イエスの愛の業を述べ伝える決断をした。神、イエスは、失敗した弟子たちを受け入れ、歩む力を与えてくださる。わたしたちは、神、イエスに愛されている者として、神の思いは何かを常に考え、イエスに倣い決断する者となりたいと思う。
祈祷
愛なる神さま、御子イエス・キリストは、苦難が待ち受けていることを知っているのにも関わらず、決断しエルサレムに向かわれました。イエスが受ける苦難は、神の意思であり、人間を救いに導く神の業です。イエスこそ、神の意思に従い、愛の業を行われました。わたしたたちは、イエス、神の愛を理解できない時があります。しかし神の思いを考え、イエスに倣い決断することができますようお導きください。そして、もしわたしたちが失敗した時には、どうかあなたが受け入れ、再び歩む力を全ての人にお与えください。4月になり新しい歩みが始まりました。それぞれの歩みを祝してくださいますように。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。アーメン