聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 5章 1~7節」
聖書朗読
05:01わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。/05:02よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。/05:03さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。/05:04わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。/05:05さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ/05:06わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。/05:07イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「ぶどう園の歌」
説教音声
(要旨掲載 準備中)
聖書:新共同訳聖書「ガラテヤの信徒への手紙 6章 11~18節」
聖書朗読
06:11このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。 06:12肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。 06:13割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。 06:14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。 06:15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 06:16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 06:17これからは、だれもわたしを煩わ
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「新しく創造される」
(要旨掲載 準備中)
聖書:新共同訳聖書「詩編 31編 2~19節」
聖書朗読
31:02主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。/31:03あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。/31:04あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き/31:05隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。/31:06まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。/31:07わたしは空しい偶像に頼る者を憎み/主に、信頼します。/31:08慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。/31:09わたしを敵の手に渡すことなく/わたしの足を/広い所に立たせてくださいました。/31:10主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。/31:11命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。/31:12わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。/31:13人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。/31:14ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。/31:15主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。/31:16わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。/31:17あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。/31:18主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく/神に逆らう者をこそ恥に落とし/陰府に落とし、黙らせてください。/31:19偽って語る唇を封じてください/正しい人を侮り、驕り高ぶって語る唇を。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「沈黙の神」
(要旨掲載 準備中)
聖書:新共同訳聖書「フィリピの信徒への手紙 4章 2~9節」
聖書朗読
04:02わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 04:03なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 04:04主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 04:05あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 04:06どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 04:07そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 04:08終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 04:09わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
礼拝メッセージ:和寺 悠佳 牧師「喜びのすすめ」
(要旨掲載 準備中)
聖書朗読
聖書:新共同訳聖書「アモス書 5章 18~24節」
05:18災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。 05:19人が獅子の前から逃れても熊に会い/家にたどりついても/壁に手で寄りかかると/その手を蛇にかまれるようなものだ。 05:20主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。 05:21わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。 05:22たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても/穀物の献げ物をささげても/わたしは受け入れず/肥えた動物の献げ物も顧みない。 05:23お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。 05:24正義を洪水のように
恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。
「ルカによる福音書 13章 10~17節」
13:10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 13:11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 13:12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 13:13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 13:14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 13:15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 13:16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 13:17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
礼拝メッセージ:宮岡 利明 牧師「イエスが目を注がれる人」
主はみなさんと共に。
本日は筑波学園教会の礼拝に用いられます光栄を感じている。以前、信徒の友に筑波学園教会が広告を出しておられた記憶がある。新しい土地で新しい教会をという、愛に燃える教会だと感心した。
わたしは今72才である。神戸で生まれた。人生の大半を関西で過ごした。35才で牧師の仕事を始め、香川県の多度津教会、広島南部教会、そして兵庫県の小野教会を担当した。小野教会は兵庫県内陸部にあり、財政的にも困難な小規模教会であった。小野教会では24年間、牧師を担当した。
視力に障害を得たことで牧師の道に導かれたのであったが、年齢と共にさらに視力低下が進み、教会を担うことが難しくなり、神さまにお願して66才で隠退させていただいた。隠退により個別教会の責任を負うことはなくなったが、福音を伝える務めは続いていると信じ、現在は1970年に洗礼を授けていただいた東京大田区の久が原教会に出席し、昔そうだったように教会学校のスタッフに加えていただいている。時に、他の教会の礼拝に用いられることもある。
さて、本日の福音書でのイエスさまを取り巻く様子をイメージしてみよう。イエスさまと会堂長、そして苦労してきた女性、男たち。騒動は安息日律法によるものである。
彼らは、イエスさまとしばしば安息日律法をめぐって対立してきた。その例は、ルカによる福音書の6章では「手の萎えた人の癒し」に、13章ではこの箇所、14章では水腫の人の癒し」に認められる。イエスさまは、それは律法違反ではないかと非難されておられた。
安息日律法とは、モーセによる十戒の第四番目にある。週の七日目、金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日であり、その間は、すべてのユダヤ人は一切労働をしてはならないとされていた。ユダヤ人だけではない。男女の奴隷、町の門の内にいる寄留者、家畜も仕事をしてはならないのである。理由は二つあった。一つは、神さまが天地万物を創造し、七日目に安息し祝福・聖別なさったからである。安息日は、神と人との契約のしるしであり、人が主を知るための日だと教えられていた。出エジプト記の31章15節では「安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる」と言明されている。仕事の内容は火を焚くことなど39の行為が定められていた。
ユダヤ人が律法を厳格に守るようになったのは、バビロン捕囚とその解放後からである。ペルシャによりバビロンが滅び、ユダヤ人は解放されてエルサレムに戻った。しかし、それはペルシャ国内部のことで、独立国としての再建ではなかった。武装蜂起による独立の回復は無理であった。神さまによることがないと、独立は無理だとわかった。神さまが契約を心に留めてくださるには、律法を厳格に守り、神さまの好意を得なければだめだと考え出した。律法を守ることは、祖国回復の手段となったのである。
安息日のもう一つの源泉は、エジプトでの奴隷労働からの解放という記憶である。安息日によって、イスラエルの人々は、祖先がかつての奴隷の民であったことを、辛い奴隷労働から救い出して下さったことを思い起こし、主への感謝と解放の喜びを喜ぶ日という趣旨である。
奴隷には、賃金も休日も、一日の労働時間の制限もなかった。それに対して一週七日間に、一日完全に休まなければならないという安息日律法は、世界最古の労働者保護法だと思う。七日に一日休むことで、人は自分が被造物であり、全能の神ではなく、主の民であることを確認し感謝し、人間性と自己の尊厳を回復し、神さまに深く感謝した。
イエスさまは、安息日を奴隷・抑圧からの解放の日、喜びの日という意味を回復した。18年間病で腰が曲がった女性がイエスさまのもとに来た。当時は、安息日の会堂は、男女別のはずであった。そこには、その女性の切羽詰まった様子が感じられる。イエスさまは旅の人であった。翌日は次の地に行ってしまう。彼女は必死だったのであろう。しかし、彼女は「癒してください」とは叫ばなかった。緊張で声を出せなかったのである。イエスさまは、その必死さを感じとった。イエスさまは、あなたの病気は治ったと宣言し、さらに女性の身体に触れた。彼女の腰は伸び、健やかになった。
この行為を治療行為だと見た会堂長は、治療行為は仕事であり、安息日には禁止されているといった。治療を受けたいのなら明日、ここに来ればよいといった。会堂長は、イエスさまを治療行為者と、会堂を診療所とみなしたのである。しかし、イエスさまは、ルカによる福音書の6章5節で「人の子は安息日の主である」と宣言した。自分は神の子であり、抑圧され苦しんでいる人を導き出す解放する神だといった。イエス様は、抑圧と罪と死からの解放者なのである。
安息日律法は、主の愛・憐れみの現れであった。しかし、規則が文字になると、人はすぐに抜け道を探し、利益を計る。アモス書は、商人たちが安息日を悪用して穀物価格を吊り上げているとの主の怒りを語っている。主が最も大事にしているのは「正義」と「恵みの業」、それを実際に行えとの主の言葉を預言した。イエスさまが女性の身体に直接触れたことは、この身体をもって「正義と恵みの業」を行うことに接続される。そして、その救いの身体性は、十字架の死につながるのである。
わたしは、32才の1月末に、突然髄膜炎で倒れ、意識不明になった。その時、左目が痛んだのを覚えている。髄膜炎であった。数日後に意識を回復した時には、左目は失明していた。左目には治療法はなく、いつか左目に再発作がくるとのことだった。数か月後にやってきた。医師は痛みを止める方法がないので、鎮痛剤がきいている間に目を取るしかないということだった。わたしは右目が弱く、病んでいる左目が頼りだった。それを諦めなければならないという、他に方法がないということで、受け入れた。失意で病室のベッドで横になっていたら、隣のベッドのオジサンが声をかけてきた。「お医者さんが話をしているのを聞いたんだが、目を取らなければならないそうだね。心配しなくてもよい。わたしも目をとり義眼なんだ。中国戦線で負傷し義眼をいただいた。」という。彼は、病室の外の洗面所に私を誘った。ついてゆくと、洗面器に水を張って、こういう風にして義眼を外す、そして装着する様子を具体的に見せてくださった。私はあっけにとられた。それまで義眼を使っている人と出会ったことがなかった。私にとって最もさし迫った瞬間に、そのような人が声をかけてくださったとは。まさに主は私と共におられると実感した。わたしは教会を通して「主はわれらと共におられるという福音」をいただいてきた。その御言葉が、絶対に今ここでなければならないという時に、実現したのである。そのことを信じ、心は喜びに満たされた。手術は視力の回復を断念する手術ではなかったが・・・。
わたしはこの「主はわれらと共におられる。最も重大な時にすぐ隣に来てくださる」という経験を伝えたいと思い、関西学院大学神学部に入学し、牧師への道を歩みはじめた。残された右目も、その後網膜剥離や視野が欠損するなどと厄介ごともあるが、なお役にたってくれている。
真の神であり真の人であるイエス・キリストは、18年間苦しんできた女性に、まなざしを注いだ。それは彼女にとって、もう先には進めないという時であった。共にいてくださる神さまとの出会いと聖書の言葉が、自分への言葉として迫ってくる経験は、私たちを解放する。私たちを抑圧している労苦、不安、恐怖、罪から解放し、次の希望へと導きだしてくれる。福音は具体的であるということを、教会はここに建物が建っていることによって証ししている。
主は、今日も告げてくださる。「わたしは、あなたを知っている。具体的にあなたと共にいる。だから柔らかな顔と心で進みなさい」と。ではゆこう。主の平和の裡(うち)に。
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 9章 1~6節」
聖書朗読
09:01闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。/09:02あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。/09:03彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。/09:04地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。/09:05ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。/09:06ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「終わりなき平和」
先日「たしか『愛の反対語は無関心だ』と言ったのはマザーテレサだと思う」と話してくださった方がおられた。無関心という言葉から、佐渡教会から届いた「佐渡たより」を思い出した。私は、小学校高学年の時に佐渡に家族で旅行に行ったのを覚えている。初めてサザエを食べたこと、海がとてもきれいだったこと、佐渡鉱山に行ったことを覚えている。その佐渡教会からの「佐渡たより」を読み、自分が無知であったこと、いや、無関心であったことを知った。佐渡鉱山は江戸時代からの歴史がある。1939年以降、日本政府は、企業や朝鮮総督府と共同して朝鮮からの労務動員を行った。私が知らなかったのは、佐渡鉱山にも朝鮮からの労務動員が行われていたということである。1939年時点では募集という名目だった。しかし42年に官斡旋、44年には徴用と呼び名が変わった。それは自由意志による移住労働ではなくなったことを意味する。彼らは警察の監視下におかれ、出来高制の低賃金で働かされ、食事、布団代、年金が天引きされ、貯金も強制された。しかも自分の貯金を下ろすのに許可が必要だったという。転職、退職の自由もなかった。1943年6月までに150人ほどが佐渡鉱山から逃げた。つまり朝鮮人労働者たちは、危険を冒してでも逃げ出したい状況のなかに置かれていた。もちろん、逃亡すれば指名手配され、逮捕され、処刑された。ある日、佐渡鉱山の町にある教会を、朝鮮の青年が訪れました。彼は「鉱山の契約期間も過ぎている上に、労働の条件は少しも改善されないし、抗議も取り上げられない。だから小船をやとって佐渡から脱出しようと思う」と心の底に秘めていた思いを牧師に語った。当時、教会は活動休止していた。クリスチャンだった彼は、友人を誘い夜の集会をはじめた。やがて日本人の信徒も礼拝に出席するようになってきた。一方、彼が逃亡することに牧師は同意できなかった。牧師は「逃げたいのは分かる。しかし、危険すぎる」、「ここは神を信じて忍耐してください」と言った。その後、朝鮮の青年たちは一人も集会に来なくなったという。
私はその牧師を、その時代の責任者を責めるつもりはない。ただ、佐渡鉱山において朝鮮の方に対して強制労働が行われていたことを、私はまったく知らなかった。自分の無関心さに懺悔したのである。また、この強勢動員も未だに和解がなされていない。
さてイザヤ書9章は、当時、勢力を伸ばしていたアッシリアによって支配を受けた南ユダなどパレスチナ地方の危機的な状況が背景にある。1~2節は、アッシリアによって撃たれた地域の人々に、再び光が輝き、解放され神から救いを受けたこと。そして救われた人々は、獲物を分配する時のように、神の前で喜びあうであろうという預言である。
3節のミディアンとは、旧約聖書の士師記6~7章の出来事を意味している。昔、ギデオンがミディアン人の支配を打ち破ったように、アッシリアの軍隊を神は打ち破る。隷属させられた人々の苦しみ、外国支配の重いくびきが取り除かれるというのである。
5節に「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」とある。「うまれるみどりご、男の子」とは誰か。詩編の2編7節に「お前はわたしの子今日、わたしはお前を生んだ」とある。それは、王の就任の時に用いられたと考えられている。神は、王を養子縁組して自分の子どもとするという考えである。神こそがこの世を創り、この世の支配者である。王が神の子どもになるとは、そのことによって王が地上における神の正当な代行者となることである。王は、神によって民を導く役割を受け継ぐといえるであろう。詩編2編と同じように、本日の箇所の5節も王の就任を示しているのではないかと理解できるという。その理解は、現実的であるといえるだろう。当時の南ユダの王アハズの息子ヒゼキヤの即位、あるいは、新しい王の即位を意味しているのではないかという理解である。
次の「権威が彼の方にある。」の権威とは、神の子として神に基づく権威である。そして、新たなる王の名として4つあげられている。「その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる』」とある。「驚くべき指導者」とは「驚くべき計画者」とも訳すことができる。この「計画」という言葉は、歴史における神の計画を示すときに用いられる。また、「驚くべき」、「力ある」も、神の業に用いられる言葉である。「永遠の父」、「父」という言葉は、「創り主なる父」など神に関して用いられる。最後の「平和の君」、平和の根源は神にあるということ、平和を実現するために王は神から権威を与えられ、その業を行うべきなのである。
王のことを述べているのではなく、神のことを示していると思える。まさしくそうなのである。「力ある神」、人間を神であると述べるのは神に対する冒涜である。また、「永遠も」神以外には存在しない。旧約聖書では、神の名とは口に出すのも恐ろしいという考えがあった。神は畏怖すべき存在だったからである。しかし、この箇所で新たに生まれるという王は、神と同じ名が与えられているのである。これらのことから5節の預言は、人間の王ではなく、神から遣わされる救い主、メシア預言であるという理解がある。
6節に「平和は絶えることがない」とあるよに、ここで救い主が与える平和は永遠であるということが言われているのである。5節に救い主の名が4つ示されていたが、最後の「平和の君」こそが最も示したいことだったのである。そこで、6節で「永遠の平和」が約束されるからである。
本日は、招詞としてゼカリア書9章9節を用いた。救い主はロバに乗ってやってくる。ロバは、戦争では用いられない。平和を意味している。まさしく旧約聖書に預言されている救い主こそ、「平和の君」なのである。私たちの救い主イエスこそ、平和の君としてこの世に生まれた。イエスは、右のほほを打たれたら左を出しなさいとおっしゃった。それは無抵抗を意味している。また、最期は十字架刑によって天に召された。イエスの十字架にはいかなる意味があるのだろうか。イエスは今もなお十字架において私たちの重荷を負ってくださっている。そして、十字架は罪深い人間と神との和解の出来事なのである。人間の罪をイエスが代わりに負い、ありのまま受け入れてくださった。イエスは、神と人間との関係を修復してくださったのである。神との和解において、私たちは私たちとして神の御前にいることができる。
朝鮮の人々に対する強制労働によって、今も重い荷を負っておられる方がいる。もちろん、日本においても、原爆などの重荷は消えることはない。私たちができる和解とは、まず無関心ではなく関心を持つこと、イエスのように愛をもって隣人と共に歩むことなのではなかろうか。イエスこそ、今もなおすべての人の重荷を負ってくださっている。平和の君である主なるイエス、神が示してくださった愛による平和を私たちは求め、そのために歩む者になりたいと思う。救い主イエスは、終わりなき平和へと私たちをお導き下さるのである。そのことを確信し、神を信じ、救い主イエスに倣い、隣人を愛し、重荷を共に負う者になりたいと思う。
祈祷 この世の創り主なる神様 私たちはこの世の出来事において無関心になってしまうことがあります。先の大戦から78年となります。無関心ではなく歴史から学び、今もなお重荷を負っておられる方を覚えることができますように。武器を提供するのではなく和解を提供するよう指導者たちをお導き下さい。8月は6日、9日、15日。争いは悲しみしか生み出しません。私たち自身、隣人に対して関心を持ち、共に重荷を負うことができますよう強めてください。救い主イエスこそ「平和の君」としてこの世に遣わされました。神が終わりなき平和を与えてくださることを確信させてください。そして、神、救い主イエスによる真の平和を私たちが求め、そのため歩むことができますようお導きください。台風6号が沖縄、九州、西日本を襲いました。どうか、被災された方々をお支えください。また、台風7号が接近しています。その影響も懸念されます。被害が出ないようお守りください。また、今年は酷暑となっています。暑さで様々な被害が出ています。また、様々なウイルスも流行っています。すべての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、手術の準備の中にある友、治療後の経過を見られている友がいます。心身ともにお癒しください。不安、悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。お盆休みの中にある方々によきリフレッシュの時をお与えください。また、お守りくださいますように。先週の月曜日、清水なつ子さんが天に召されました。悲しみの中にあるご遺族をお慰めください。そして、なつ子さんが天において嘉重郎さんとまみえる時を与え下さいますように。なつ子さんに天における平安がありますように。教会に来ることのできない友、離れている友と主が共にありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 10章 25~37節」 10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 10:26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 10:27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 10:28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 10:29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 10:30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 10:31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 10:34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 10:35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 10:36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 10:37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「イエスの問いかけ」
ルカによる福音書の10章25節以下は、「よきサマリア人の譬」という題で知られている。とても分かりやすいと思うので、皆さんが感じていただいたとおりでよいと思う。
私は私の説教については、私のいうことを「聞け」というようには思っていない。私の言葉が、何かのヒントになればと考えている。したがって、私が語ったこととは違うことを心に受け止めていただいても結構である。大切なのは聖書の言葉が皆さんのものになること、心に刻まれることであると私は思っている。聖書の言葉が心の支えになる、導きになるということである。大切なことは、自ら考えることなのである。
本日の箇所は二つに分けられる。まず、ユダヤ教の律法の専門家とイエスとの第一回戦である。律法とはユダヤ教の教えである。律法の専門家は、イエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問うた。なぜ先ほど、第一回戦と述べたのか。それは律法の専門家がイエスを試そうとしていたからである。つまり、律法の専門家は答えを知っていたが、イエスが正しく答えることができるのか試したのである。イエスを「先生」と呼んでいたが、内心先生とは決して思っていなかった。律法の専門家はイエスを見下していたように思う。そこで、イエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言った。そこで立場が逆転した。逆にイエスが律法の専門家に問うたのである。律法の専門家は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えた。するとイエスは「正しい、実行しなさい」と言ったのである。
そして第二回戦が始まった。律法の専門家は「わたしの隣人とは誰ですか」と再び問うた。イエスは、次のようなたとえを語った。あるユダヤ人が旅の途中、追いはぎに襲われ、半殺しにされた。そこにユダヤ教の指導者である祭司が通りかかったが、何もせずに通り過ぎた。次にレビ人が通りかかったが、祭司と同じように通り過ぎた。そして、サマリア人が通りかかると、彼は追いはぎに襲われた人を自分のロバに乗せ、宿で介抱し、しかも宿の主人に介抱するようお金を渡し、足りないようだったら帰りに支払うと述べたという。イエスは、律法の専門家に次のように問うた。「三人の中で誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったのか」と。律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えた。するとイエスは「あなたも同じようにしなさい」と言った。そこでも律法の専門家が最初に問うたが、イエスの問いによって立場が変ったのである。
さて、このたとえ話の中で、で祭司とレビ人は通り過ぎた。なぜかか。祭司は、それからすぐユダヤ教の儀式を行うのであったか。死んだ人に触ると汚れると考えられていたので、儀式を行えなくなる。もし介抱している途中でその人が死んだら、儀式を行うことができなくなってしまう。レビ人も、祭司または祭司の下の位として働く者だった。そこで祭司と同じ理由で通り過ぎたと考えられる。
一方、サマリア人とはいかなる民であったか。イスラエルは、紀元前922年、北イスラエルと南ユダに分かれた。北イスラエルは、それから200年後、アッシリア帝国によって滅ぼされた。そこで北イスラエルにユダヤ人以外の異邦人が多く住むようになっていった。そして、北イスラエルは、ユダヤ教ではなく、独自のサマリア教となった。ユダヤ教は、サマリア教を見下し、ユダヤ教の中心であるエルサレム神殿にサマリア教を加えなかったので、サマリア教はゲリジム山に神殿を造った。それらのことで、サマリア人とユダヤ人との関係は悪くなった。そのような関係が、イエスの時代にも続いていたのである。それにもかかわらず、サマリア人は襲われたユダヤ人を助け、介抱し、しかも宿の主人に介抱するようにとお金を渡した。イエスはあえて祭司、レビ人、そして、サマリア人をたとえ話に用いたのだと私は思う。私たちにとって隣人とはいかなる者であろうか。アラブのことわざに「よい隣人を持つためには、あなた自身が良い隣人でなければならない」というのがあるそうだ。たとえ理由があっても、苦しんでいる人が目の前にいるなら、愛なる神はどうされるであろうか。イエスは、「隣人とは誰か」と私たちにも問うているのである。
さて本日は、もう少し考えたい。律法の専門家は「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と述べた。まず、永遠の命が欲しいという自己欲がそこにあるのではないだろうか。また、神は良いことをしたら救ってくださるのであろうか。神の愛に条件などない。律法の専門家は、神の愛を理解していなかったと私は思うのである。そして「受け継ぐことができるでしょうか」と述べた。「永遠の命を与えられるでしょうか」ではない。そこには選民意識がある。永遠の命が神から与えられるのは同じ神を信じ、同じ民族のユダヤ人であるという理解である。つまり、他の民族は永遠の命を受け継ぐことはない。ユダヤ人が神の救いを受け継ぐのである。そして、重要なのは「隣人」という言葉に対する理解である。実は、ユダヤ教における「隣人」は、「受け継ぐ」と同じように、同じ神を信じ、同じ民族であるユダヤ人のことを指している。だから、異邦人は隣人に含まれない。そして、二回目に律法の専門家は「彼は自分を正当化しようとして」とある。これは自己弁護、自分こそ正しいという思いがある。だから、再びイエスに問うているのである。
律法の専門家が考えている「隣人」は、神の思いとは異なっている。また、「救いを受け継ぐ」という理解も同様である。律法の専門家の理解と神の意志は異なっているということを、この出来事は示しているのである。そして、最も重要であると私が思うのは、イエスが問うていることである。なぜ、イエスは自ら答えを述べず、律法の専門家に質問して、答えるよう導いていたのか。立場を逆転させるためであろうか。そうではない。律法の専門家自身が考え、答えるよう導いたのである。律法の専門家は、ユダヤ教で伝統として言い伝えられたこと教わったことを鵜呑みにして、しかも自分たちこそ正しいと思い、イエスを試した。逆に、イエスは、自ら考えるように質問したのである。
最初のイエスの質問に対して、律法の専門家は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えた。それにイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言った。イエスは「あなたが本当にそのように考えているのなら、それは正しい」ということを言ったのではないかと私は思うのである。次に、律法の専門家は「私の隣人とは誰か」と問うた。イエスはたとえを語った後「三人のうち誰が襲われた人の隣人か」と再び問うた。答えは明らかだが、大切なのは律法の専門家が答えるということなのである。自ら考え答えるようにイエスは、導いたのである。そこにイエスの導きがある。イエスを試そうとした者をも、正しい考えへと導いてくださった。しかも自ら考え、答えるように導いたのである。
イエスは、教わったことが正しいというのではなく、神の愛はどうなのかを自分で考えてみなさいと導いてくださっているように思う。それは、私たちが能動的になるためである。そこで人間が考え、正しいと思ったことを、イエスは否定しない。イエスは行なってみなさいと述べてくださる。もし、失敗したなら、イエスは私たちをただ受け入れてくださるであろう。そして、私たちが再び立ち上がるよう力を与えてくださる。しかも、私たちが正しい道に歩むことができるようお導きくださるのである。イエスを試そうとする者であろうとも導いてくださる。それが私たちの救い主イエスなのである。私たちが誤ったとき、神、イエスの愛を基に、きちんと自ら考えるよう、そして、正しい道にイエスはお導きくださるのである。そのとき神、イエスの愛、救いが私たちの心に刻まれるのである。
祈祷 恵み深い神様 イエスは、愛なる方であると同時に、厳しい方であると私は思っています。イエスの行いを見て、神の独子イエスならどうするのか考え行うよう、イエスは導いているからです。一方、失敗したときには、私たちを受け入れ、正しい道に導いてくださいます。神、イエスは愛をもって私たちと交わり、接してくださいます。イエスは、イエスを試すものさえも導いてくださることからも分かります。もし、私たちが自己本位になり誤った道に行くときには、正しい道に導いてください。私たちもイエスを見上げ、イエスを規範として歩みたいと思います。また、イエスがそうされたように、隣人と共に歩む者となりたいと思います。どうか隣人を愛することができるよう強め、お導きください。台風6号が停滞し、沖縄では多くの被害が出、そして、九州、四国などにも上陸する可能性がります。どうかお守りください。被災された方々をお支えください。暑さ厳しい日が続いています。様々なウィルスも流行っています。どうかすべての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、手術の準備の中にある友、治療後の経過を見られている友がいます。心身ともにお癒しください。不安、悩み、悲しみの中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友をお支えください。本日は、広島で原爆が落ち78年となります。被爆された方は癒されることなく重荷を負っておられます。どうか原爆はもちろん争いがなくなりますように。神の平和がこの世におとずれますように。そのため私たちをお用いください。今週の後半からお盆休みになります。良きリフレッシュの時になりますように。教会に来ることのできない友、離れている友と主が共にありますように。この礼拝を通して一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 13編 1~6節」 13:01【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】/13:02いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。/13:03いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。/13:04わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え/わたしの目に光を与えてください/死の眠りに就くことのないように/13:05敵が勝ったと思うことのないように/わたしを苦しめる者が/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。/13:06あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「語りかけてみよう」
カウンセリングにおいては、まず相手を受け容れるということが基礎基本とのこと、私もそのように思う。それは1940年頃、カール・ロジャーズという人によって提案された。ロジャーズは、児童相談所に勤めており、裁判を受けた子どもなどを診療していた。それまでのカウンセリングは、患者のことを調べて患者に指示するという方法だった。ある時、ロジャーズは、母親に連れてこられた子どものカウンセリングを行った。けれども、それはうまくいかなかった。カウンセリングを終わらせると、その子の母親が「大人のカウンセリングはしていないのか」とロジャーズに申し出た。そして彼女は、結婚生活などの苦悩を話し始めた。そこから真のセラピィが始まったというのである。そのようにして患者の語り掛ける言葉を聞き受け容れるカウンセリングが始まったのである。
詩編13編は、嘆きの詩編である。その箇所において特徴的なのは、「いつまで」という言葉である。それは嘆きの典型的な表現である。2節と3節では、4回も「いつまで」と問うている。「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか」と。「神が私を忘れてしまっている」、「隠れておられる」、「神は私に対して無関心でいるのか」と叫んでいる。つまり、苦難の中にある自分に、神は何も救いを差し伸べてくださらないと嘆いている。3節の「敵」とは、争う相手ではなく、自分との関係が崩れた仲間と考えられる。そこでそれは、仲間の裏切りを意味している。
4節に「わたしの目に光を与えてください」とある。目の病気に陥って嘆いているという考えもある。しかしそれは、目の病気ではなく苦難に陥って目の輝きを奪われるということであると理解したい。つまり、嘆きの中にあるとき、歩む道、そこから抜け出す方法を見ることができないと、進むべき道が闇となってしまっているということを意味している、と考えられる。そこで、「わたしの目に光を与えてください」、歩むべき道を教えてくださいと述べているのである。そして「死の眠りに就く」も、肉体の死を意味しているのではないと考えられる。それは神との関係が回復不可能なほど遠くにある状態を意味している。次のように言えるのかもしれない。苦難のなかにあり、神の助けも感じることができない。いや、神がわたしを見放してしまったという嘆きであると。そのように理解できる。神が見放すということは、救いを期待できない、孤独な状態といえるのではないだろうか。
詩編13編には、1節に「ダビデの詩」と記されている。ダビデとは、イスラエルを最も繁栄させた文武両道の、そして何より信仰者としての王であった。そのダビデが嘆いた。実はダビデが詠ったものではないと言える。では、誰がどのような状況で、この詩を詠ったのか。この詩編を見ていくと具体的な苦難は記されていないとわかる。4節に「わたしの目に光を与えてください」とある。目の病気であるという解釈もあろう。しかし、先ほども述べた通り、苦難の中、歩むべき道が見えないということを意味している。では、この詩編にどのような意味があるのか。
この詩編は、構成の点でも表現の点でも、嘆きと祈りの模範詩的な性格が強いという。つまり、詩編13編は、特定の個人によって一回的に詠われた詩ではないということである。特定の個人の詩ではない。逆に言うと、13編は、苦難の中にある信仰者たちがそれぞれの情況下で発せざるを得ない嘆きとこい願いを、それに託して詠えるように考えられ作られた詩であるというのである。祈りの一つの範例であるということである。
神を信じる信仰者は、すべてを神にお任せすることができるので、いつでも安心していられる。また、神が必ず救ってくださるから心配などしなくてよい。だから、いつも心穏やかにいることができる。神が必ず救ってくださる。神に嘆くことは、神を信じていないから、神を冒涜しているからということなのか。
詩編13編が嘆きの詩の範例であるとした場合、どのように理解できるであろうか。苦難にあえぐという言い方をしている。あえぐとは、息を切らすとか、はあはあと呼吸をするとか、そういう意味である。私たちは苦難の中で、言葉を発することができないことがある。また、神、イエスに嘆いてはいけないと、文句を言ってはいけないと思っているのではないだろうか。聖書には嘆きの詩がある。しかも、それは範例であるというのである。私たちは苦難にあえいでいるとき、何を言っていいのかわからない。言葉さえ出ないことがある。そのような時、詩編13編の嘆きの詩を、祈りとして詠むことができる。それが範例なのではないだろうか。つまり私たちは、神に「どうして、いつまでこの苦しみが続くのか。神は私を見放してしまったのですか。お答えください」と神様に祈っていいということなのである。いや、詩編に嘆きの範例があるということは、「神には何を吐露してもいいのだ、何を言ってもいいのだ。神に嘆きを述べるべきだ。神は嘆きの声を必ず聴いてくださる。」ということにほかならないのである。
また、そのような嘆きの詩は、ほかにもある。嘆きの詩は、元来、聖所において儀礼行為を伴っていたと理解できるというのである。つまり、祭儀を司る者が、人々の嘆きの祈りを神に届けるという儀式を行っていたと考えらえるという。神は畏れるべき存在であった。神の名を述べることさえできないと考えられ、特別に選ばれた者、つまり祭司が人と神との仲介をおこなっていた。だから、人間の嘆きも祭司による儀礼によって神に届けられていた。
しかし、嘆きの詩編は、いつしか祭儀的脈絡から切り離され、儀礼から独立して伝承されるようになったという。どのようにして脱儀礼となったのかは分からない。しかし、儀礼や、それを主導する祭司の介在がなくても、詩編を声をあげ読むことが可能となった。つまり、個人の嘆きの詩編は、いつ、どこででも、神にじかに祈る道を開くことになったのである。詩編13編の嘆きの詩が儀礼から切り離され、範例として理解されることによって、個人の嘆きを神に祈ることができるという道がひらかれたといえるであろう。つまり、神は私たち一人ひとりの嘆きを聴いてくださるということである。逆に、神に何も語らないと思ううことこそが罪なのではなかろうか。嘆きを祈ること、それは心を神に開いていること、神を信頼しているからこそ嘆くことができるのである。神に心を開き、語りかけることこそが大切なのである。私は、神こそ偉大なカウンセラーだと思っている。神こそが、私たちの嘆きを聴き入れ、正しい道に導いてくださるからである。
ところで私は、イエスのゲッセマネの祈りが大好きである。「わたしは死ぬばかりに悲しい。アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とある。私の言葉で言えば「父ちゃん、死にたくない。助けてくれ」である。この言葉の後、「それでも、神さまの意志の通りになりますように」と導かれている。そこにこそ神と人間との正しい関係、神の導きがあると思っている。心から神を信頼し、心を神に開いているからこそ、嘆くことができるのではないだろうか。神の前でかっこつける必要などない。神はありのあまの私たちを受け入れてくださるからである。
私たちは、神に語りかけたい。きれいな美辞麗句ではなく、ありのままの自分、心の内を神にぶつける、打ち明けることが許されている。そのために、神は私たちの傍らにいてくださるのである。だから神に語りけたいと思う。そこから、神と私たちの関係がはじまる。神は必ずその嘆きの声を聴いてくださる。そして6節には「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/『主はわたしに報いてくださった』」と書かれている。神は、最後に私たちを讃美、救いへと導いてくださるのである。
祈祷1 愛なる神様 私たちは日々の歩みの中で、嘆き、苦しむときがあります。詩編13編は、嘆きの範例の詩です。私たちは神に嘆きの言葉を述べていい。いや、述べるべきだと導いてくださいます。神に心を開くからこそ嘆きなど、なんでも述べることができる。神こそ私たちの声をお聴きくださり、そして、救いへとお導きくださいます。神に嘆きを祈ることができる。これこそ私たちの支えであり、希望、救いになります。どうか、主が共にあり、私たちの嘆きの言葉をお聴きくださり、お導きくださいますように。また、私たちも神に倣い、隣人の声を聴き、共にいるものになりたいと思います。そして、互いに支え合いたちと思います。今年は、まだ7月であるにもかかわらず猛暑日が何日も続き、大変な暑さとなっています。どうか、すべての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友、治療を受けられている友、手術の準備をされている友を心身ともに癒してください。自然災害で被災された方々をお支えください。台風の時期となります。お守りくださいますように。悲しみ、悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。争いで被害にあうのは弱者、子どもたちです。子どもたちに希望の未来を与えることができますよう指導者をお導きください。争いは悲しみしか生み出しません。どうか、この世が平和になりますように。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。この礼拝を通して一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました一週間、今週か原はじまる新しい一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
祈祷2 愛なる神様 パウロはイエスを信じる者たちを迫害する立場から、イエスの愛を述べ伝える者となりました。それは神、イエスの愛を確信しているからです。礼拝で起こった死からの蘇りの奇跡です。同時に、パウロは神、イエスが共にいてくださると確信しているからこそ、冷静に対処することができました。人々は、慰められて帰ります。神、イエスが私たちに呼びかけ、礼拝、讃美を通して生きる力、新しい一週間の糧を与えてくださるという話であると、私は理解しました。どうか、今日ここに集う友、Zoomで讃美している友、そして、事情により参加できない友にも、一週間の罪の赦し、また、新しい一週間の力、心の糧をお与えくださいますように。大雨となり災害が起きています。どうか被災された方々をお支えください。また、被害が出ないようお守りください。猛暑となっています。熱中症など懸念されます。また、様々なウィルスが流行っています。全ての人、特に年を重ねられている方、幼い者の健康をお守りください。病の中にある方々、治療を受けられている方、術後の経過を見られている方、手術を受けるじゅんびをされている方々に心身共に主の癒しがありますように。悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。人は愛し合うために命の息吹が与えられました。どうか互いを尊重し合い、支え合う平和な世となりますようお導きください。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。それぞれ散らされた場において、その人らしく歩むことができますようお導きください。この小さき祈り、主イエスの御名によっておささげします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 8章 1~3節」
聖書朗読
08:01すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。 08:02悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 08:03ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「イエスに従った女たち」
高校生の頃、TVで中性的な男性芸能人ピーターこと池畑慎之介さんとアイドルバンドのヴォーカル藤井フミヤさんの対談を見ていた。恋愛話になり、藤井さんが池畑さんに男女どちらが好きなのかと尋ねました。池畑さんは、女とか男とかではなく、その人を愛するということを言っていた。高校生の私には、ある意味衝撃的な言葉だった。異性という理解ではなく、一人の人を愛するという考えに納得したことを覚えている。本日の説教題を「イエスに従った女たち」とさせていただいた。じつは私は「女」という言葉を用いるべきか悩んだ。
さて、1節には「イエスが十二弟子と共に神の救いを町や村をめぐって伝えた」と記されている。イエスこそ、町や村をめぐって宣教活動をして、それぞれの地で人々と交わりを持ったのである。イエスの十二弟子については、6章12節以下に記されている。では、イエスの宣教に従ったのは十二弟子だけだったのか。そうではなかった。本日の聖書箇所の、8章2~3節には、マグダラのマリア、クザの妻ヨハナ、スサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒だったとある。マグダラのマリアは、復活のイエスに最初に出会った女性である(ルカによる福音書)。他の福音書には、イエスが十字架にかけられるまで従った敬虔な信仰者として記されている。本日の箇所によると、マリアは7つの悪霊をイエスに追い出してもらったという。次に記されている「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」も、ルカによる福音書によると、マグダラのマリアと一緒にイエスの復活に出会った女性の一人である。ヨハナは、当時、ユダヤのガリラヤとペレアという地方の支配をローマより任されていた領主ヘロデ・アンティパスの家令、クザの妻である。家令とは、皇族や華族の家の事務・会計、資産を管理する人だった。ヨハナの夫は、領主ヘロデの資産を管理していたのだから、高い地位にあったという理解が多い。一方、家令といっても様々な地位があるので、クザがどのような地位にいたのかは分からない。ただ、ここに敢えて夫の職が記されているので、高い地位であったと理解したいと思う。次のスサンナは、この箇所にしか記されていないので詳しいことは分からない。その他に、悪霊を追い出され、病気を癒された何人かの女性がイエスに従った。彼女たちは悪霊や病気から癒された経験を持ち、感謝の思いから自主的にイエスに従ったと考えられる。
このように、十二弟子以外にもイエスに従った人々がいたと、イエスに仕えていた人たちがいたと知ることができる。しかも、それが女性たちであったというのである。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。女性たちはイエスと、そして弟子たちと一緒に、神を述べ伝える旅をしたのであろうか。イエスと共に宣教の旅に出た女性がいたかもしれない。ただ、それは難しいことだったといえよう。人々には、家の責任を放棄したと見られたであろう。また、そのような女性は、律法で禁止されている不貞の疑いがもたれ、大変な逸脱をしていると考えらえてしまったであろう。だから、彼女たちが十二弟子たちのようにイエスに従って旅に出るということは、基本的には、女性にはあり得なかったはずである。そこで現実的には、女性たちは食事の用意など自分たちのできることを行ったと考える方が自然であると思う。
女性たちは、自分の持ち物を出し合った。ルカによる福音書は、「持っているものをいかに用いるか」ということを示していると考えられる。人間は欲を持ち、財産を持っていると、より増やしたくなる。また、それを自分だけの物にしようと欲っする。物欲とは、神の意思なのであろうか。持ち物やお金は、用い方によって尊いものとなる。「出し合って」というのは、すべての人に神の救いに与かってほしいという思いがある。そこで奉仕するため持ち物を出し合ってイエスを支えたといえるであろう。自分たちの欲に従ったのではなく、神、イエスの意思に従おうとした結果、持っているものを出し合ったのではなかったか。全ての人を救いに導くために、それは、愛の行為に通じると思う。女性たちは、自分たちのできることでイエスに従い、仕えた。重要なのは、イエスの宣教活動に女性たちがいたということである。
さて、ルカによる福音書では、男性の主人公やグループに言及するところで、しばしば男性に対応する女性の主人公またはグループを登場させている。1章11節以下には、洗礼者ヨハネの父ザカリヤと母エリザベト、イエスの父ヨセフと母マリアが、2章25節以下には、幼子イエスを見たシメオンはイエスを腕に抱き、神をたたえたとある。36節以下には、女預言者アンナが幼子のことを話したとある。4章26節以下には、サレプラのやもめとシリア人のナアマン、7章では、百人隊長の僕を癒した後、やもめの息子をイエスは癒した。15章1節以下、迷った羊の譬えで男性の羊飼い、8節以下は銀貨をなくした女性のたとえである。13章18節以下「からし種」と「パン種」のたとえは、種を蒔くのは男性、パン種と粉を混ぜるのは女性である。17章34、35節、寝ている二人の男性と臼をひく二人の女性、しばしば男女の登場人物が並行する形で記されている。
並行するという意味で、6章2節以下のイエスが十二弟子を選ぶ出来事と、本日の箇所の女性たちがイエスに従うという話は、先にあげたように並行する形で記されているという解釈がある。私自身は、次のように理解したい。イエスに従ったのは、十二弟子たちなどの男性だけではなく、女性たちもいた。ルカによる福音書は、男女を平等に記しているのではなかろうか。当時は、男性中心の社会であった。そのような社会において、男性のことだけを記すのではなく、同じように女性のことも記した。それは、イエスが女性というだけで一人の人格として扱われない当時の社会状況や差別を否定していたこと、イエスが女性を一人の人格として接していたこと、そしてそれは男女を区別せず接し受け容れ、神の愛を分け隔てなくすべての人と平等に分かち合ったといえるのではないだろうか。
本日の箇所の女性たちも、女性としてイエスに従ったのではなく、一人の人間として、一人の信仰者として、イエスに従ったのではなかったか。そして、イエスが神の愛を分かち合ってくださったように、イエスの愛に触れた者として、持っているものを出し合った。それは、金銭、持ち物だけではなく、自分自身を献げるということ、奉仕するということにおいて、すべてを分かちあったのだと思うのである。自分たちのできる仕方でイエスに従い、イエスの活動を支えた。イエスに従うのに女性、男性などまったく関係ない。いや、イエスこそ男性、女性という見方ではなく、一人の人格として一人ひとりと接したのではないかと思うのである。根本的に私たち人間の見方、区別の仕方で、イエスは私たちを見ているのではない。その人をその人として受け容れ、接している。だから「イエスに従った女たち」という説教題も、しょせん人間的な見方にしか過ぎないと私は思ったのである。大切なことは、その人がその人として認められることである。そして、イエスを信じ、従うこと、神の愛を多くの人と分かち合うという思いが大切なのである。
ルカによる福音書において男女を並行に記しているという理解は、神の前では男女平等であるという意図があるのかもしれない。それは当時においては、とうてい考えられないくらい革新的な理解だったであろう。また、クザの妻ヨハナがいたこと。クザは高い地位にいた可能性がある。ヨハナの説明に夫クザの職業を記したのは意図的だったと私は考える。イエスに従う者に地位の高い者がいた。イエスにとって、この世的地位など関係ないということも示しているように私は思うのである。つまり、イエスは、その人をその人として受け容れてくださったということである。だから、地位や、男女に関係なく接した。いや、地位、男女という分け方などしなかった。その人はその人なのである。イエスこそ、私たち一人ひとりをありのまま受け容れ、愛してくださっているということである。私たちも、互いの違いを認め合い、受け容れあい、愛し合うものになりたいと思う。そして、それぞれができることでイエスに従い、仕えたいと思う。私たちはイエスの許においてこそ、私として、私らしく存在することができるのである。
祈祷 この世の支配者である主なる神様 神はいつも私たち人間と共にいてくださり、見守ってくださいます。イスラエル・ユダの民は、神と契約を交わしたにもかかわらず、この世的な思いを持ち、神に背いてしまいます。そこでイスラエル・ユダは悔い改めるように、神に導かれます。神は、ただ罰する方ではなく、必ず新たなる希望の歩みをお与えくださいます。しかも神は創造の力をもって、つまり人間には思いもしない救いをお与えくださいます。また、神はどのようなことがあって、私たちを見捨てず、新しい希望の歩みをお与えくださいます。このことを確信させてください。私たちが神の前に立ち、神と正しい関係を持ち歩むことができますように。そして、多くの人とこの神の愛を分かち合うことができますように、私たちをお用いください。今年は、各地で大雨、突風などで被害が出ています。被災された方々をお支え下さい。被害がこれ以上でないようお守りください。一方、猛暑であり、様々な感染症も流行っています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、幼い者たちの健康をお守りください。病の中にある友、入院をされている友、治療をされている友、これから手術を受ける友、お一人おひとりに心身ともに主の癒しがありますように。悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。争いで被害にあうのは弱者、子どもたちです。武器を提供するのではなく、和解の手段を提供するよう指導者をお導きください。また、他者を誹謗中傷するのではなく、互いの違いを受け入れ合う平和な世となりますように。明日は、関東教区宣教部の集いがあります。良き交わり、学びの時になりますように。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 4章 2~6節」
聖書朗読
04:02その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。/04:03そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。/04:04主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。/04:05主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。/04:06昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「悲劇から希望へ」
イザヤ書4章2節以下、それが記された時期は分かっていない。南ユダ王国がバビロニアに敗れ、ユダの地位の高い人々はバビロニアに連れていかれた。それをバビロン捕囚と言う。そのバビロニアは、ユダを滅ぼした約50年後にペルシアに敗北し、バビロン捕囚の民は解放された。それらの時代に預言されたと考えられる。神殿のあるエルサレムは荒廃し、ユダの主だった人々はバビロニアに捕囚として連れていかれた。また、バビロン捕囚の人々は自分の信じる唯一の神を讃美できない。神の民であるユダの人々は、国が滅び絶望の中にあった。また、もしかしたら、神の守りがなかったということが、ユダの人々をより絶望させたであろう。そのときユダの民に、どのような思いを持たせたのか。
2節に「その日」とある。それは裁きの日ではなく、救いの日であり、希望の呼びかけであると理解できる。「主の若枝」とは、イスラエルを最も栄えさせた王ダビデの子孫からなる救い主を意味すると考えらえる。一方で、救い主はなく争いに敗れ、町は荒廃していた。それは精神的にも経済的にも、荒廃していたということである。そこに「若枝」が生えるとは、希望の象徴としての若枝と考えられる。「若枝」とは、イスラエルの復興を意味していると理解したい。というのは、「この地に結んだ実は誇りとなり、輝きとなる」と記されているからである。若枝が萌出し、地の実りとなる。それは荒廃したイスラエル・ユダの復興の兆しを意味し、その日に神によって「栄光」と「誇り」が与えられるからである。
2節に「生き残った者」と、3節には「シオンの残りの者」「エルサレムの残された者」とある。同じ意味の言葉が三回も記してあるのは印象的である。「生き残った者」等は、バビロニアに敗れ、その困難の中を生き延びた者たちと考えられる。また、バビロン捕囚からエルサレムに帰ることのできた者たちを指しているとも考えられる。そのように理解すると、「生き残った者」は復興の希望という意味になると思う。その者たちは「聖なる者と呼ばれ」、「命を得る者として書き記されている」。聖書には、「生命の書」という言葉がある。「生命の書」と訳されていることもある。私は次のように理解したい。「生命の書」とは、神によって救われる者の名が記されている書である。そこでは「生き残った者」がバビロン捕囚から帰ってくる人々たちを指していると理解するなら、神の守り導きに与っている者たちといえるであろう。もしかしたら、バビロンからエルサレムに帰ってくるというのも神の御計画である。はじめからイスラエルの復興が用意されていたのかもしれない。
4節にある「裁きの霊と焼き尽くす霊」の「霊」とは、神の働きといえるであろう。一方、「霊」と訳されている言葉には、「息、風」という意味がある。聖書において暴風は神が現れる現象の一つである。そこで「霊」「風」両方の意味と取って「霊風」と訳されていることもある。私は両方の意味と受け取りたい。つまり神自身が、風のように感じ取れるように、ユダの民に働きかけてくださったということである。それは「シオンの娘たちの汚れを洗い」清めるためであった。「シオンの娘」とあるのは、女性たちが傲慢になり、罪を犯したということであろうか。いや「シオンの娘」とは、イスラエル、ユダ、全体を指していると私は理解したい。つまり、シオンの娘たちであるイスラエル、ユダの人々は神に背いた。ユダの民は繁栄すれば傲慢、贅沢になり、争いに負けそうになると神に頼るのではなく、他国と同盟を組むというこの世的な政治戦略によって苦難を乗り越えようとした。しかし、それは人間の思いであり、神により頼むことなく、神に背く行為であった。神はバビロニアを用いてユダの民を負けさせた。それはユダの破滅ではなく、悔い改めへの導きだったのである。神は決して、イスラエル、ユダに対して怒り、滅ぼしたのではなかった。それは神の民を生かす導きとなったのである。神はただ罰するのではなく、必ず希望の歩みを与えてくださる。
5節に「昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火」とある。神は昼間の陽の強いとき雲によって影を作って守り、そして、夜は火の柱によって暗闇を照らし導く。出エジプト記の13章21節には「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」とある。それは神の守りを意味している。5~6節は、出エジプトの出来事を思い起こさせるように記しているといってよいであろう。出エジプトは、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地に導くという救いの出来事である。また「集会を覆われる」とある。新たな集会には、讃美の場ができ、神によって守られる。しかも「すべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる」。天蓋はシナイ山で神の玉座を覆うものである。また、詩編から考えると、天蓋は花婿を迎える花嫁を示唆しているといえる。神と人間の契約を結婚の花嫁、花婿を比喩とすることがある。そこで、天蓋は花婿と花嫁が出会い、新しい歩みを始めるように、イスラエル、ユダの神との歩みの関係が持たれるということを、指しているのではないだろうか。そして、6節最後の「仮庵」は出エジプトで荒野を旅していたとき、神を讃美した聖所である。荒れ野の旅は危険である。旅をしているときに、聖所があるということ。つまり、旅という危険な中で神が共にいて守ってくださるということを意味しているのである。
神はバビロニアを用いて、神に背く民を罰した。しかし、それは新たなる歩みを始めるために必要な出来事だったのかもしれない。神はイスラエル、ユダの民と正しい関係を持ち、歩むことを望んだ。だからこそ、悲劇的な戦争の敗北の後に神は、希望の歩みを与えてくださったのである。荒廃した街に若枝が萌え出る新しいスタートである。
そして5節に「主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って」の「造る」という言葉がある。その言葉は創造を意味し、また、以前なされたことのない何かを主が行われることを示している。つまり、新しい希望の歩みは、それまで以上の救いの出来事なのである。
希望の歩みを「若枝」「雲、火」「仮庵」等の言葉を用いて示している。それは出エジプトの出来事を思い起こさせるように、記しているのである。出エジプトは、神がイエラエルの民に対して直接介入し、約束の地へと導いてくださった出来事である。神が直接手をくだし、救いへとお導きくださった。しかも、「造る」という言葉を用いて、神がこの世を創った力によって新たなるはじまりという希望の歩みが記されているのである。バビロニアによって滅ぼされ、まったく救いのない絶望的な状況に、ユダの民はあった。しかし、そのような希望のない状況においてこそ、神は新たなる救いを与えてくださった。神は、神の民を放っておかない。それは現代の私たちに対しても同様である。私たちは絶望に陥るような出来事に遭遇することがある。しかし、ユダの民に信仰と希望を与えたように、神は絶望、悲劇で終わらせることはない。私たちは、知らず知らずのうちに、神に背いてしまうことがある。人間は、弱い生き物である。この世の欲望に負けてしまうことがある。しかし、神は私たちには思いもしない出来事を通して、必ず希望の正しい歩みを与えてくださるのである。神は、弱い人間を愛し、どのようなことがあろうとも関係を切ることなく導いてくださる。そのことを確信し、新しい一週間を創造主なる神と共に歩みたいと思う。いや、私たちが神のことを忘れても、神は必ず私たちの傍らにいて共に歩んでくださる。そして、新しい希望の歩みを与えてくださるのである。
さて、「仮庵」とは「神の幕屋」のことである。最後にヨハネの黙示録21章3~4節を読んで終わりたい。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」
祈祷 この世の支配者である主なる神様 神はいつも私たち人間と共にいてくださり、見守ってくださいます。イスラエル・ユダの民は、神と契約を交わしたにもかかわらず、この世的な思いを持ち、神に背いてしまいます。そこでイスラエル・ユダは悔い改めるように、神に導かれます。神は、ただ罰する方ではなく、必ず新たなる希望の歩みをお与えくださいます。しかも神は創造の力をもって、つまり人間には思いもしない救いをお与えくださいます。また、神はどのようなことがあって、私たちを見捨てず、新しい希望の歩みをお与えくださいます。このことを確信させてください。私たちが神の前に立ち、神と正しい関係を持ち歩むことができますように。そして、多くの人とこの神の愛を分かち合うことができますように、私たちをお用いください。今年は、各地で大雨、突風などで被害が出ています。被災された方々をお支え下さい。被害がこれ以上でないようお守りください。一方、猛暑であり、様々な感染症も流行っています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、幼い者たちの健康をお守りください。病の中にある友、入院をされている友、治療をされている友、これから手術を受ける友、お一人おひとりに心身ともに主の癒しがありますように。悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。争いで被害にあうのは弱者、子どもたちです。武器を提供するのではなく、和解の手段を提供するよう指導者をお導きください。また、他者を誹謗中傷するのではなく、互いの違いを受け入れ合う平和な世となりますように。明日は、関東教区宣教部の集いがあります。良き交わり、学びの時になりますように。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 20章 7~12節」 20:07週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 20:08わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 20:09エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 20:10パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」 20:11そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。 20:12人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「受け継ぐ」
使徒言行録は、ルカによる福音書の続きとしてイエスの十字架以降の使徒たちの働きが記されてる。特にパウロの伝道の働きが多く記されている。パウロはイエスの12弟子ではなかった。パウロはイエスを信じる者を迫害していた。しかしパウロは、彼に現れた復活のイエスこそが唯一の神の独子であることに気づいた。それはイエスによる呼びかけ、パウロへの招きであった。そしてパウロは、ユダヤではなく異邦の地で神の救いを述べ伝えたのである。
使徒言行録20章7節以下に心を傾けたいと思う。パウロが礼拝で話していた。すると、夜中になってしまった。青年が眠りこみ、三階から落ちて死んでしまった。そこでパウロが青年をいやした。その出来事は奇跡物語といえるであろう。一方である学者は「そもそも著者自身が、これを奇跡として描いたわけではない。聖パウロがさわったら、死んでいた人間が復活しましたなどという話ではなく、他の人たちが慌てて騒いだけれども、パウロが見てみたら、ちゃんと息をして大丈夫だったというだけの話である。パウロという人は、あれだけ旅行してまわった人だったので、そういう場面で慌てずに対処する落ち着きは、人並以上にすぐれていたはずである」と記している。新共同訳聖書には「パウロ、若者を生き返らせる」と表題がついている。その太字の表題は、元来聖書にはなかった。その表題は現代の学者が付けたものである。学者によって異なる表題をつけることもある。
7節に「週の初めの日」とある。ユダヤ教では元来、安息日は土曜であった。その日に神殿で讃美を行った。初期キリスト教では、イエスの復活を記念する日という意味で日曜日が「主の日」と呼ばれるようになり、礼拝が行われるようになった。続く「パンを裂く」とは、聖餐式である。当時、食事としての愛餐式と聖餐式は、まだはっきりと区別されていなかったと考えられる。当時の聖餐式は、イエスの最後の晩餐をイメージして、遅い時間に行われていたかもしれない。そこでパウロが人々に話していたら、夜中になってしまった。パウロにはイエスや神について、話したいことがたくさんあったということが分かる。あまりにも夜遅くまでパウロが話したので、若者が眠ってしまい、三階から落ちて死んだ。それは騒ぎになったであろう。パウロは青年のもとへ行き、抱きかかえ、「騒ぐな、まだ生きている」といった。そこで、若者は息を引き返した。その一連の出来事は奇跡だったのか。
12節に「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」とある。そこから見ると、生き返ったという奇跡の話である。9節に「青年」とある。元のギリシア語をみても「青年、若者」という意味である。一方、12節の「青年」は、元のギリシア語からみると「少年、子ども」という意味である。どうして違う言葉を用いていたのか。旧約聖書の預言者エリヤとエリシャの奇跡が、そこで示唆されているのかもしれない。エリヤは偉大な預言者で、エリシャはその弟子であった。旧約聖書列王記上17章17節以下は、エリヤ、また、列王記下4章18節以下には、エリシャが死んだ子どもを生き返らせるという物語が書かれている。特にエリシャの「彼の上にかがみこみ」という振る舞いが、パウロの振舞と類似していると理解できる。そこで、使徒言行録の著者が12節で「少年」と記しているのは、エリヤとエリシャの子どもを生き返らせる奇跡とパウロの出来事を重ねて描写するためであると考えられる。イエスも、死んでしまった人を生き返らせた。そこで、パウロは預言者エリヤ、エリシャ、イエスの業を受け継ぎ、神の愛の業を行ったと理解できるかもしれない。そして、預言者たち、イエス、パウロが行ってきたように、私たちも、この世において神の愛を現わす力、役割が与えられていると理解できるのではないだろうか。パウロは、その役割を受け継いだ。イエスを信じる私たちも、私たちのできることで神の愛をこの世に現わす役割を、神から与えられているのである。
とはいえ、やはり私たちは奇跡を行えない。そこで、私たちは異なる見方をしたい。イエスを信じる者は、日曜日に礼拝を行った。それはイエスが蘇った日である。礼拝は、神を讃美することである。讃美は神との交わり、神の恵みを感謝する時である。また、聖餐式とはイエスとの食事、交わりを思い起こし、今もなおイエスが私たちと共にいて導いてくださっていることを確認する出来事といえるであろう。そこで注目したいのは、10節の「騒ぐな」という言葉である。パウロは、なぜ「騒ぐな」と言ったのか。最初に述べたように、パウロは宣教の旅で苦難に何度もあった。だからパウロは冷静に対処することができた。それだけではないと私は思う。いついかなる時も、神、イエスが共にいてくださること、祈りは聴かれるという信仰が、パウロにあったからではないだろうか。だからこそ、パウロは騒がずに冷静に対処することができたと私は思うのである。
12節には「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」とある。主の日の礼拝をおえ、彼らは大いに慰められ帰っていった。そこは青年が生き返ったので、大いに慰められたということか。「慰められた」とは、「呼びかけられた、招かれた」と訳すことができる。パウロの言葉、呼びかけを聞き、パウロの言葉を十分に心に刻んだとも受け取ることができる。パウロこそが、神、イエスに呼びかけられ、神、その独り子イエスを讃美する招きに与ったのである。その恵みをパウロは語ったのではないだろうか。
主の日の礼拝とはいかなることなのかということを、私たちに教えてくれているように思う。青年が生き返った。私たちは一週間をそれぞれの場で過ごし、歩む。この世における歩みには不安、苦難、悲しみもあろう。しかし、私たちは日曜日に、主イエス、神を讃美するため礼拝に集う。いや、実は、神、イエスによって私たちは礼拝に来ることができるよう導かれ、呼びかけられているのである。そして礼拝において、私たちはイエス、神をほめたたえ、祈る。それは神、イエスとの交わりである。私たちは、礼拝を通して神、イエスがいつも共にいて導いてくださっていることを確認して一週間を歩むことができたことを、神、イエスに感謝する。そして礼拝を通して、神、イエスがありのままを受け入れて下さり、新しい一週間をそれぞれ散らされた場において歩むことのできる力、心の糧を私たちは与えられるのである。その神の愛、恵み、祈りを聴いてくださることを確信しているからこそ、パウロは「騒ぐな」と述べることができた。そして、パウロは青年の上にかがみこみ青年に向き合い、抱きかかえたのである。パウロは青年を抱きかかえた。礼拝中に寝ていたこと、いや、すべてを受け入れ、神の恵みを分かち合ったのではなかったか。そして、青年に新たなる者となる恵みが与えられた。実は、礼拝に集う全ての人に恵みが与えられているのである。だから人々は大いに慰められ、それぞれの場に帰っていったのではなかろうか。それは奇跡の物語かもしれない。一方、主の日、日曜日の主日礼拝を通して新たな者として歩む力が与えられるということを、私たち自身が確認する。そして、この恵みを多くの人と分かち合うためにそれぞれの場に散らされるということを、この物語は意味しているのではないでだろうか。パンを裂くことこそがイエスの恵みが与えられていることを思い起こす出来事である。私たちは青年と同じように、この礼拝を通して新たなる者として新しい一週間を、騒がず恐れず歩むことができるのである。神、イエスが私たち一人ひとりに呼びかけ、恵み、祝福をお与えくださるから、そして、私たちの祈りを聴いてくださるからである。私たちは神の恵みを確信して、それぞれ散らされた場において祈ることを忘れず、神、イエスと共に歩みたいと思う。
祈祷 愛なる神様 パウロはイエスを信じる者たちを迫害する立場から、イエスの愛を述べ伝える者となりました。それは神、イエスの愛を確信しているからです。礼拝で起こった死からの蘇りの奇跡です。同時に、パウロは神、イエスが共にいてくださると確信しているからこそ、冷静に対処することができました。人々は、慰められて帰ります。神、イエスが私たちに呼びかけ、礼拝、讃美を通して生きる力、新しい一週間の糧を与えてくださるという話であると、私は理解しました。どうか、本日ここに集う友、オンラインで讃美している友、そして、事情により参加できない友にも、一週間の罪の赦し、また、新しい一週間の力、心の糧をお与えくださいますように。大雨となり災害が起きています。どうか被災された方々をお支えください。また、被害が出ないようお守りください。猛暑となっています。熱中症など懸念されます。また、様々なウィルスが流行っています。全ての人、特に年を重ねられている方、幼い者の健康をお守りください。病の中にある方々、治療を受けられている方、術後の経過を見られている方、手術を受けるじゅんびをされている方々に心身共に主の癒しがありますように。悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。人は愛し合うために命の息吹が与えられました。どうか互いを尊重し合い、支え合う平和な世となりますようお導きください。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。それぞれ散らされた場において、その人らしく歩むことができますようお導きください。この小さき祈り、主イエスの御名によっておささげします。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 22編 25~32節」
聖書朗読
22:25主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。/22:26それゆえ、わたしは大いなる集会で
あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。/22:27貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。/22:28地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。/22:29王権は主にあり、主は国々を治められます。/22:30命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得/22:31-32 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「語り伝える」
毎月、私が尊敬する先輩牧師が、通信を送ってくださる。その封筒にはいつも手書きで「祈っています」と記されている。誰かが私のことを思い、祈ってくださっている。それは喜びであり、支えとなる。
さて、、新約聖書マタイによる福音書の27章46節に「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とある。その言葉は、イエスが十字架の上で述べた言葉である。衝撃的な言葉である。その言葉が、詩編22編2節の冒頭の言葉と同じである。イエスは、この詩編の言葉を述べたという理解がある。本日は、そのことには言及しない。私は、イエスが十字架上で嘆きの言葉を発したということに大きな意味があると考えている。イエスは、神の独子であっても、十字架は苦難であった。人間として苦しみ、重荷を負った。だからこそ、現代の私たちの悩み、嘆きを理解し、共に負ってくださっている。実は、このイエスの嘆きの言葉にこそ救いがあると思うのである。同じように詩編にも、嘆きの詩がある。本日の箇所、詩編22編がその一つである。私はそこに神の支えがあると思っている。私たちは、綺麗ごとを神に語り掛けるのではなく、ありのままの自分の言葉を神に語り掛けることが許されている。嘆き、叫び、不安、喜び、すべてを神に語ってよい、祈ってよいのである。そして神は、私たちの言葉を聴いてくださるのである。
詩編22編は、前半と後半に分けることができる。本来、後半は23節からだが、本日は聖書日課に従って詩編22編25節以下とした。25節に「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます」とある。「なぜわたしをお見捨てになるのか(2節)」と個人の嘆きを述べ始めている。それに対して神は、その嘆きを聞いてくださるというのである。26節の「大いなる集会」とは、神殿礼拝に集う人々のことである。讃美をささげ、満願の献げものをささげる。そのことによって貧しい人は食べて満ち足りる(27節)というのである。神に嘆き祈ることによって、その祈りが聞き届けられた。つまり、神が救ってくださった。そこで、感謝の捧げ物をする。それが、食べ物として捧げられ、神殿に来る人々に食事として振舞われることもあった。そのささげ物は祭司にだけではなく、神殿に来る人々にも振舞われた。そこで神殿に来た貧しい人は満ち足りたのである。
28~29節は、唯一の神は世界の王であり、全ての民族が神に立ちかえり、神を讃えるという。30節で注目したいのが「塵に下った者」である。それは陰府に下さったもの、即ち死んだ者を意味している。神の支配はこの地上のみならず、死者の世界にまで及ぶということである。そして、最後の31~32節に「子孫は神に仕え」「代々に語り伝え」「告げ知らせるでしょう」とあるように、神と共に歩むこと、讃美するよう神に仕え、神の御業を伝える。唯一の神を信じるということを子孫、代々に受け継いでいくべきであるということが示されているのである。
神は、私たちの苦しみ、嘆きを聴いてくださり、導いてくださるのである。そして、神こそ、世界の王であり、死後の世界にもその支配は及ぶのである。つまり、神は、何時いかなる時も、そして、永遠に私たちと共にあり、導いてくださるのである。その神の業こそ私たちの支えであり、恵みなのである。前半最後の22節に「わたしに答えてください」とある。また、他の聖書では「応えてくださった」という訳もされている。そこから転換するのである。神が救いへと導いてくださる。25節に「助けを求める叫びを聞いてくださいます」とあるように、神が救ってくださり、そして、大いなる集会で神に讃美をささげる(26節)というのである。
詩編22編は、2節の「わたしの神よ、なぜ私を見捨てるのか」と個人の嘆きから始まる。前半部分は個人の嘆きが記され、神が答えてくださるというのである。では、後半はどうなのか。
23節に「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。」とある。「兄弟たち」にとあるように、個人や一人ではなく、兄弟が共にいた。この兄弟とは、血族としての兄弟ではない。次の「集会の中であなたを賛美します」、26節で説明したように「集会」とは神殿礼拝に来る人々を意味している。そこで「兄弟たち」は「集会」に集う同胞であると分かる。詩編22編の後半は、個人から集団になっていることが分かる。そこにどのような意味があるのか。前半は個人の苦難が記され、神に救いを祈り求め、神が聞いてくださる。後半は苦難から解放された者の救いの感謝となるが、個人ではなく「集団」という具体的な讃美の場所が設定されるのである。そして最後には、「私」は退き、神こそ死者の世界を含めたこの世の支配者、王であるという讃美へと拡大するのである。
最初の個人的な苦難や信仰体験から、後半は集団、全体の願い、救い、讃美に変わる。私は次のように理解したい。それは、個人の祈りが集団の祈りとなるということである。故人の悩みや苦しみは、個人だけに留まるのではなく集団の苦しみでもある。それは、集団の中のひとりの人の苦しみや悩みを集団全体で担うということであると理解したいのである。そして、神はその苦難の祈りを聞き、救いへと導いてくださる。そして、それが喜びの讃美に変わってゆく。ひとりの人が苦難から救われたということは、同様に神を讃美する者の励ましとなる。26~27節こそが、まさにそのことなのである。満願の捧げ物を神殿に集う人にも食事として分かち合う。それは喜びを分かち合うという出来事である。喜びを分かち合われるとその人には、励みになる。なぜなら、自分の祈りも神に聴かれるという希望になるからである。喜びを分かち合うことはとても大切である。そして、神による救いの喜びは、分かち合いとして受け継がれていくのである。
牧師として説教を語る者として、詩編22編の言葉の意味を伝えているが、この詩編の著者の思いに、私たちの思いを重ねることが一番大切だと思うのである。イエスが十字架上で詩編22編を思って最後に述べたのか、または著者のマタイが詩編22編を通してイエスの十字架を見たという理解もできるであろう。どちらにしてもイエスが十字架の上で嘆きの言葉を発したということが重要なのである。それはイエスの嘆きであり、私たちの嘆きでもあるからである。先ほど述べたように詩編22編は、個人の嘆きが集団の嘆きになり、個人の救いが集団の救いとなっていくのである。人の嘆きを、集団である教会が分かち合うべきである。また、その中心にいてくださる神、イエスこそが共に分かち合ってくださるのである。イエスの十字架の苦難の叫びは、私たちの重荷を担ってくださった叫びといえるであろう。同じように私たちも、隣人の苦難を共に負うべき、分かち合うべきであると思うのである。共に祈るといってもよいであろう。また救いも、個人の救いが集団の救いになっていくのである。互いの嘆き、重荷、そして、神による救いの喜びを共に分かち合いたいと思う。それこそが私たちの生きる支えとなるのではなかろうか。32節に記されているように私たちは、神による救いの喜びを告げ知らせるべき、語り知らせるべきなのである。それは他の人の励ましになる。神はすべての者の神であり、嘆きを聞き受けてくださり、救いへと導いてくださる。その喜びと支えを、多くの人に、子どもたちにも告げ知らせたいと思う。
祈祷 主なる神様 詩編22編の著者は、苦難にあり神に嘆きを述べています。イエスも十字架で嘆かれました。私たちは神に対してきれいごとだけではなく、願い、嘆きなどなんでも述べてよいということであると思います。また、あなたは私たちの言葉を聴いてくださいます。そして、私たちも友の嘆きを聞き、共に嘆き、また、喜びたいと思います。一人の嘆きは、多くの人と分かち合いことによって支えられます。イエスこそその中心にいてくださいます。神は私たちの嘆きを聴き、受け入れお導きくださいます。私たちは、この支え、生きる力を多くの人、また、子どもたちに伝えたいと思います。どうか、そのため私たちを強めてください。天気の変化が激しくなっています。大雨、突風などで被害に会われた方々をお支えください。また、被害が出ないようお守りください。風邪などが流行っているようです。また、暑い日々がこれから続きます。どうか、全ての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある方に心身共に主の癒しがありますように。悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。今月誕生日を迎える方々に主の愛による導きがありますように。争いでは何も解決しません。悲しみ、憎しみが残るだけです。どうか平和な世となりますようお導きください。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。 この礼拝を通して一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました一週間、一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 15章 1~7節」
聖書朗読
15:01徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 15:02すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 15:03そこで、イエスは次のたとえを話された。 15:04「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 15:05そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 15:06家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 15:07言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「一人ひとりがユニーク」
迷った一匹の羊と羊飼いのたとえ話は、神の愛をよく現わしているといえる。迷った1匹をさがしに行くのに他の99匹を置いていくという話ではなく、迷った1匹と同じように99匹も愛しているということを意味している。
神は、人間一人ひとりを掛け替えのない存在としてみている。才能を持っている人も、持っていない人も、人間は人格としては、一人ひとりがユニーク、唯一である。神は、そのような存在として私たち一人ひとりを大切に思ってくださっている。いや、そのように命の息吹を与えてくださった。このユニークな人格は、誰にもまねることができない。
人はその人生を、この長い人類史の中で、たった一度だけしか生きられない。逆に、この人類の歴史の中で、その人はその人しかいない。同じ人は、永遠に現れない。また、他の人の人生を代わりに生きることもできない。永遠の過去から永遠の未来に至るまで「私」という、この特定の人格は「私」であり続ける。この私自身は、凡人であって秀でた人物ではないが、この取るに足りない「私」にも、永遠に「私」であり続ける特権が与えられている。それは、その人しか生きられない人生を生きられる、神によって生かされているということである。だからこそ、神は独子イエスが苦しみを受けても、私たち一人ひとりを救いたいと願っておられるのである。
さて、イエスは、徴税人や罪人のもとに行った。徴税人とは、税を集める人である。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあった。その状況下で徴税人は、ローマ帝国に仕える人々であった。ユダヤ人にとって自分たちの国を奪ったローマ帝国は憎い存在であり、また、そのローマ帝国に税を払うことは屈辱だったであろう。そこで人々は、ローマ帝国に仕えていたユダヤ人の徴税人を罪人と同じように扱ったのである。そして、さげすんでいたのである。また罪人とは、律法を破った者である。契約の応答として神から与えられた教えの律法を破ることは、神との関係が維持されないことを、神の守りから外れることを意味し、罪人は疎外されていたのである。イエスはそれらの人々と交わり、社会から疎外されていた人々こそを招き、救いを語った。イエスは「いや、そのような社会的に弱い立場にある人々こそ救われるのだ」と述べたのである。
イエスは羊飼いのたとえ話を語った。旧約聖書には、羊飼いのことがよく記されている。一方、新約聖書の時代には、羊飼いは差別を受けていたと考えらる。というのは、羊飼いは羊に草を食べさせるため場所を移動しなければならなかったため、勝手に他人の土地に入った。羊を見守るため、家族と離れて生活していた。つまり、羊飼いは、家族を守ることができない者と考えられていた。また、羊を見守るため礼拝に出席できなかった。そのような理由である。しかし、イエスは、さげすまされていた羊飼いを、たとえ話に用いた。そのことは注目に値すると思う。そして、この羊飼いこそが神、イエスなのである。
では、ファリサイ派や律法学者たちは、イエスの言動をどのように感じたのか。ファリサイ派とは、律法を厳密に守ることを大切にし、また、自分たちは律法をきちんと守っていると自負していた。律法学者も律法を解釈する者として権力があり、自分たちの信仰こそ正しいと自負していたであろう。
イエスは、「100匹のうち、逃げ出した1匹を探し、助ける。その1匹とは罪人であるが、悔い改めた者である。この悔い改めた者こそが天に迎えられる。」と。一方で、極端にいうと、残りの99匹は正しい人だが、天に招かれないと受け取れる。自分は律法を守り、悔改めなど必要ないと思っていた人々と理解できる。ルカによる福音書は、悔い改めを強調しているのである。
それを聞いてファリサイ派の人々は、律法学者は、どのように思ったであろうか。自分たちこそが正しいと自負している人々が天に迎えられず、救われないと言われた。そのように言ったイエスに対して、怒りを覚えたであろう。
だからこそ、彼らは不平を言った。「イエスは罪人を招いている」「イエスたちは律法を破った者だ」「そのような者が神の救いに与るはずがない」とファリサイの人々は考えたであろう。だからイエスを批判した。
一方、次のような思いがあったのかもしれない。「イエスは、私たちファリサイ派、律法学者に対し、時に救われないと言っている」と。当時、病気は罪の罰であると考えられ、病人は罪人と同じように扱われていた。しかし、イエスは病人と共にいて癒しを行った。イエスは奇跡を行っていた。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスのことを悪魔の頭だと批判しつつも、自分たちにはそのような力はなかった。神は律法を大切にしないイエスを罰しないのかと、ファリサイ派の人々は考えていたのかもしれない。そこで、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神の代わりにイエスを罰しようと思ったのかもしれない。
ユダヤで、次のような話があるという。幸運を手に入れた勤勉な農夫の話である。あるとき神がこの農夫に現れて、彼に三つの願いをかなえると述べた。ただし、神が農夫のために行うことが何であれ、その隣人に二倍にして与えるという条件が付いていた。農夫は、最初に百頭の牛を望んだ。すると、すぐに彼は百頭を手にした。彼は狂喜したが、隣人が二百頭の牛を手にした。それを見て、喜びは消えうせた。次に彼は、1200坪の土地を望んだ。今度も彼は、隣人が2400坪の土地を手にしたのを見るまでは、喜びで満たされた。農夫は、神の恵み深さに感謝するどころか、自分の隣人が自分より一層多くのものを受けたために、屈辱の思いにかられたのである。最後に彼は、自分の片目が見えなくなるよう目を打ってほしいと第三の願いを神に伝えた。それを聞いた神は泣いたという。
人間の欲望には終わりがない。いや、次のように言えるのではなかろうか。他の人と比べることによって、本来、自分に与えられた喜び、恵みを忘れてしまう。自分より幸せそうに見える他者の喜びを共に喜ぶことができない。
ファリサイ派や律法学者の人々はイエスの癒しの業に対し、癒された人々のことを考え、共に喜ぶべきではなかったか。また、ファリサイ派や律法学者たちにも、神の恵みが十分に注がれていたであろう。しかし、イエスの奇跡を見て、自分たちになぜそのような業ができないのかと、嫉妬したのかもしれない。そこで、彼らが行ったことは、イエスを十字架に掛けることだった。隣の芝生が青く見えたなら、その芝生を刈り取ってしまえばいい。そうすれば、自分たちは屈辱を感じなくて済む。もしそのように考えていたなら、なんと短絡的な発想であろうか。
そして、神がそのことを悲しむということに、気づいていなかった。神の愛に気づいていなかったといえるのかもしれない。神はファリサイ派の人々、律法学者の人々、一人ひとりを愛していた。一人ひとりをユニークな存在、唯一の存在として永遠に導いてくださっていた。律法学者たちの働きを、神は十分に祝していたであろう。そのことに気づいていなかったのである。律法を守れば、神の守りの内にあると、律法を守ることに専念することを否定しなかった。神に対する信仰の表し方はさまざまである。しかし、自分たちが唯一正しいと考えることは、イエスと自分を比べることは、神の意志ではないと思う。自分を正当化するのではなく、ただ神という規範から自分の行動を確認すべきだからである。おごり高ぶってはいけないのである。そして、神は、すべての人が救われるために、一人ひとりを、はぐれてしまった一匹の羊として導いてくださっているのである。神は、そのために独子イエスを人間としてこの世に遣わされたのである。
私たちは、この迷い出た一匹の羊のように神に愛され、導かれている。それは、残りの99匹も同様である。誰か一人が特別なのではなく、すべての人が神にとって特別なのである。そして、一人ひとりをユニークな人格として、よしと受け容れてくださっている。そのことを私たちは確信したいと思う。同時に、私たちも互に異なるユニークさを受け入れたいと思う。それが豊かさなのではなかろうか。
ファリサイ派の人々は、イエスと自分を比較してしまったのかもしれない。しかし、他者と比較しなくてもよいのである。この世において苦難を負っていない人、迷わずにいる人などいない。だからこそ、神は私たちを迷い出た一匹の羊のように愛してくださっているのである。私たちは神の愛を信じ、すべての人が神の愛のもとにあることを互いに認め、互いに受け入れ会い、神へと歩む者となりたいと思う。
祈祷 愛なる神様 あなたは私たち一人ひとりをこよなく愛し、お導きくださいます。一人、迷い出たときには探しだし、喜んでくださいます。ルカによる福音書では悔改めが強調されています。確かに神、イエスに心を向けることこそ大切です。同時に、自分が正しいとおごり高ぶるのではなく、ただ神のみを見上げ、謙虚になり、イエス、神が愛してくださるように互いに愛し合う者になりたいと思います。そのため、一人ひとりがユニーク、唯一の存在であることを認め、互いに支え合う者としてください。また、神、イエスの愛を多くの人と分かち合うことができますよう、私たちを強め、その業に用いて下さりますようお願いいたします。梅雨、天候の悪い日が続き、また、各地で雨が降っています。被災された方々をお支えください。また、これ以上、被害ができないようお守りください。体調の崩しやすい時でもあります。全ての人、特に、年を重ねられた方、幼い者たちの健康をお守りください。病の中にあるとも、治療を受けられている友、これから手術を受けられる友のことを覚えます。心身と共に癒しの御手を差し伸べてくださいますように。苦しみ、悩み、不安、また、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。争いは人の欲でしかないと思います。どうか互いの命が、唯一であることを覚え、尊重し合うようお導きください。指導者に争いを止める勇気をお与えください。平和の世となりますようお導きください。教会から離れている友、集うことのできない友の上に主のお導きがありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 3章 1~15節」
聖書朗読
03:01見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。/03:02勇士と戦士、裁きを行う者と預言者/占い師と長老/03:03五十人の長と尊敬される者/参議、魔術師、呪術師などを取り去られる。/03:04わたしは若者を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。/03:05民は隣人どうしで虐げ合う。若者は長老に、卑しい者は尊い者に無礼を働く。/03:06人は父の家で兄弟に取りすがって言う。「お前にはまだ上着がある。我らの指導者になり/この破滅の始末をしてくれ」と。/03:07だがその日には、彼も声をあげる。「わたしにも手当てはできない。家にはパンもなければ上着もない。わたしを民の指導者にしてもだめだ」と。/03:08エルサレムはよろめき、ユダは倒れた。彼らは舌と行いをもって主に敵対し/その栄光のまなざしに逆らった。/03:09彼らの表情が既に証言している。ソドムのような彼らの罪を表して、隠さない。災いだ、彼らは悪の報いを受ける。/03:10しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる。/03:11主に逆らう悪人は災いだ。彼らはその手の業に応じて報いを受ける。/03:12わたしの民は、幼子に追い使われ/女に支配されている。わたしの民よ/お前たちを導く者は、迷わせる者で/行くべき道を乱す。/03:13主は争うために構え/民を裁くために立たれる。/03:14主は裁きに臨まれる/民の長老、支配者らに対して。「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者から奪って家を満たした。/03:15何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」と/主なる万軍の神は言われる。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の審判」
私の出身地の群馬県には「上毛かるた」というのがある。県の名所や偉人、産業などが、かるたの文句になっている。それは群馬県民なら、誰でもそのかるたのことばを覚えている。「へ」のかるたのことばは「平和の使い新島襄」である。新島襄は、京都の同志社大学を創設した人物である。10年前のNHKの大河ドラマ「八重の桜」では、新島襄のパートナー(妻)の八重が主人公となっていた。湯浅次郎は新島襄と出会い、キリスト者となり、安中教会創設に尽力し、県会議員となった人物である。また、安中教会牧師の柏木義円の名前も、お聞きになったことがあるかもしれない。二人は、平和運動や廃娼運動などを行った。本日は甘楽教会の牧師就任式が行われる日である。新島襄と出会い、献身した人物に斉藤寿雄という人がいる。群馬の地方新聞、上毛新聞日曜版2012年6月17日の記事「全国の給食導入、廃娼運動展開生涯をかけ健康を願う」と題し、斉藤寿雄さんが紹介されていた。斉藤さんは、新島襄と出会い、甘楽教会創設に貢献した。新聞記事冒頭に「医師でありクリスチャン、教育家、政治家と様々な顔を持った斉藤寿雄。初代県医師会長など医師としての功績はもちろん、栄養改善のための給食制度導入や全国に先駆けた廃娼運動の展開など“全国初”となる偉業も多い。生涯をかけて人々の健康を願い、よりより社会の実現を目指した。」とあった。斉藤さんは、貧しい人から治療代を取らず「情け深いひげ先生」と呼ばれていた。また、富岡製糸場の嘱託医として工女の健康管理にもあたっていた。斉藤寿雄は、県会議員になり給食制度導入、廃娼運動、また、幼児教育、女性への教育をも行った。
なぜ、本日そのような話をしたのか。本日の聖書箇所、イザヤ書3章1節以下を読み、ある本を思い出した。それは、20世紀最も偉大な神学者のことを記した本である。著者は、使徒的人間とその神学者のことを表現している。イエスの弟子の12使徒からである。私はこの本を読み、使徒的であると共に預言者的人間であると思ったのである。預言者とは、神から預かった言葉を民衆に述べ伝え、正しい方向に導く役割を与えられた者のことである。その内容には、時の権力者に対する批判もある。そこで命を奪われそうになった預言者もいた。つまり預言者であることは、とても過酷な働きだったのである。神から言葉を預かり、責任をもって述べ伝え、導く。それは重荷である。特に、イザヤは当時の社会状況を把握し、その中で一番大切なことは神に従うことであると、必ず神の導きと守りがあると述べ伝えたのである。
イエス以降、預言者はいないと私は思っている。しかし、イエスに出会った者は、イエス、神の言葉を通して今何を語り、何を行うべきか考えるようになると思うのである。私が預言者的と理解したのは、私自身預言者と同じ重荷を負い、ただ神のみを見て、その状況において神の導きに従い歩むべきだと思ったからである。そのように歩んだ人物こそ、新島襄であり新島と出会いキリスト者なり、活動を行った柏木義円先生、湯浅次郎さん、斉藤寿雄さんのことを本日の箇所を読んで思い出したのである。
さて、イザヤ書の3章1節以下に心を傾けたいと思う。この箇所がいつ記されたのかは難しいところである。南ユダ王国のヨタム王の治世、紀元前739年頃という理解がある。しかし内容としては、578年のバビロンによって南ユダ王国が崩壊した前後が背景になっているのではないかとも考えられる。どちらにしても、南ユダ王国が他国と争い、困難の中にあることが前提になっていると思う。
1節に「イスラエルの支えとなる者、また、生きるのに必要な水さえも、神は取り去られる」とある。2、3節には、戦士、律法の守り手たち、長い人生経験を通して知恵を持つ年を重ねられた者たち、そして、50人の長のことが書かれている。50人の長とは、50人隊の長であり軍事的指導者である。参議とは、政治的指導者である。それら社会的地位の高く、ユダ王国を導き、支える人々が取り去られた。それらの人々がバビロンに連れていかれた。魔術、占いは、申命記では禁止されていた。戦いの準備を神が取り去るというのである。4、5節には、政治的混乱が記されている。指導者たちが奪い去られ、経験のない若者たちが国を治めることになった。しかし、若いゆえに自分勝手な判断をしてしまった。このように、南ユダは混乱した状況になった。6、7節には、信頼する指導者がいないということが書かれている。8、9節には、エルサレムとユダの破滅を先取りされている。それは罪の結果であるというのである。12節は、幼子や女性が支配することを、混乱とみている。現代では、そのような考えはよくないとは思うが、当時の考えがあるのでお許しいただきたい。14、15節は、支配階級の横暴を述べ、ユダの民を神のブドウ畑と呼んでいる。
そこで、神は長老者たちと支配者である君主たちを、自分の民のぶどう園の雇い人であるとしている。彼らはぶどうを摘み尽くしてしまうというのである。それは、貧しい人々の保護と福祉のためにその職に任ぜられた支配者らが、ありとあらゆる手段を用いて、貧しい人々を経済的に圧迫し、弱い立場の人々の人間としての誇りを奪い取ってしまった。権力の濫用によって社会秩序が解体し、民族の破局をもたらすということである。そこで神は、告発者であり、ひきつづき実力行使を行う。神は預言者イザヤを用い警告し、また、敵国を用いてユダ王国を滅亡させるということである。
預言者イザヤが神から預かった言葉は、支配者に対して行いの過ちを指摘している。南ユダ王国は、滅亡する。それは、指導者が自分たちの欲望によって民を苦しめたからというのである。その結果、貧しい民衆はより貧しくなり、生活することさえ困難になる。大切なことは、神はこのことを見て、知ってくださっている。だから審きが下る。その審きは、他国から攻められ、国が崩壊してしまうことであるというのである。
支配者とは、強盗ではない。民を苦しめ、物を奪う者ではない。支配者は、そこに住む民が安全に、健やかに、そして、神を共に讃美することができるように守り、導く者である。つまり、民が民らしく生活できるように統治することが神から与えられた支配者の責任である。しかし、そうではなく、支配者は民から多くを奪ってしまった。イザヤは支配者に対して、その行いを反省するよう導いたのである。しかし、そのことによってイザヤも苦難にあう。支配者にとって預言者は邪魔になるからである。
預言者の役割は神の言葉を語り、民が神を信じ、安全に過ごすことができるよう導くことである。そこで支配者の悪業に対して、否を言わなければならないときがある。とても過酷な仕事である。しかし、預言者は神から与えられた役割を全うするのである。イザヤこそ預言者としてそのことをなした。私たちも預言者に倣いたいと思う。・・・と言いたいところだが、それはとても難しい。しかし私たち一人一人も、神から役割が与えられている。それを神からの委託といえるであろう。しかし、なかなか行うことができない。私自身牧師として預言者的人間になりたいと思っている。しかし、難しい。では何もしなくてもよいのか。
私たちは、イエス、神、つまり、聖書から考えることが大切である。冒頭で述べたように、私たちキリスト者の先代こそが、それを行ってきたことが分かる。そして、預言者のようにはできないと諦めるのではなく、祈りから始めるべきだと考える。祈りは歩み方を教え、力を与えてくれる。イザヤを通して、神は指導者の不正・不義を戒めた。指導者の不正・不義は神を侮辱する行為だからである。それゆえに、ユダに危機が訪れることが示された。しかし、どんなことがあっても、最終的には神が守ってくださる。それは神との契約の故である。つまり神こそ、いつもユダの民を見てくださり、不義・不正を暴き、正しい道へとお導きくださるということである。祈るとは、神との会話であり、そこで神の意志を聴くということである。神の御心、意志を常に尋ねることが大切なのである。預言者的人間といっても、私にはなかなかなれない。しかし、なれないのではなく、まず祈りを通して神と話し、神の意志をたずねる。そして、自分ができる小さなことに目を向けたいと思う。必ず神は正しい道へとお導きくださる。そのことを確信すべきである。そして、神が役割を与えてくださるということは、支え、必ず守ってくださることを意味する。預言者たちは神の守りの中にあった。なぜなら、神が民を正しい道に導くためである。それは、私たちに対しても同様である。神は必ず支え、正しい道に導いてくださる。そして、守ってくださるのである。私たちは自分の思いではなく、ただ神、イエスの導きを信じ、聖書、祈りを通して、神の御心をたずね歩みたいと思う。必ず神、イエスは共にいて正しい道にお導きくださる。
祈祷 導き主なる神様 預言者は神の言葉を預かり、民に語り、導く者です。神の言葉は、時にこの世の権力者の不義・不正をあばくものでもあります。そこで、預言者は厳しい立場に立たされる時もあります。一方、神は預言者を任命するのですから、預言者を導き、守ります。現在、預言者はいません。しかし神、独子イエスと出会った者は、その声に聴き従うという意味では、預言者的な責務もあると思います。一方、私たちはなかなか預言者のようになれません。そこで、祈りを通し、力を与え、お導きください。神に従い、全ての人が救いに与ることができますように、互いに愛し合い、支えあう世としてください。梅雨に入りました。体調の崩しやすい時です。全ての人、特に年を重ねられた方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある方、治療を受けられている方、経過を見られている方、心身共に癒しの御手を差し伸べてください。苦しみ、悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。大雨など自然災害によって被害が出ないようお守りください。教会から離れている者、集うことのできない者の上に主の導きがありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 14章 15~24節」
聖書朗読
14:15食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。 14:16そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、 14:17宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。 14:18すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 14:19ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。 14:20また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 14:21僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 14:22やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、 14:23主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 14:24言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神からの委託」
イエスは、食事をするためにユダヤ教の一派ファリサイ派の議員の家に入った。ファリサイ派とは、ユダヤ教の教えである律法を厳格に守ることによって救われると信じていた一派である。一方でファリサイ派の人々は、イエスが律法を守っていないと理解し、イエスに敵対していた。ある人が多くの人を食事に招いたが断られ、そこで他の人々を食事に招いたというたとえ話である。神は最初、イスラエルの民と契約を交わしたが、ユダヤの民は神の独子イエスを受け入れなかった。そこで、神はユダヤ以外の人々を神の食卓に招いた。つまり、イスラエルの民は神を裏切ったので、神は異邦人を救いへと導くということがこのたとえに示されている。ルカによる福音書の著者の理解といえよう。
他方、イエスはこのたとえで、何を私たちに示してくださっているのか。当時の食事は、同じ地位や立場にあった人々が共に食卓についていた。その食事の席は、ファリサイ派の議員、つまりユダヤ人の社会でも高い地位にあった者がイエスを招いたと考えられる。そこでファリサイ派の、律法学者のなかでも地位のある者が同席したと理解できる。彼らはイエスに敵対していたので、イエスの言動から何かを見つけ、指摘しようとしていたと考えられる。
さて、食事の客の一人がイエスに「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」と言ったとある。そこで、イエスはたとえを述べた。ある人が宴会を催そうとして、大勢の人々を招いた。しかし、招かれた人々は次々と断った。畑を買ったので見に行かなければならない。牛を買ったので調べに行く、そして結婚したばかりなので行くことができないという。どの人も招きよりも自分の事を優先した。土地を買う人、牛を買う人、おそらく裕福な人々だったのであろう。結婚したという断り方があった。旧約聖書の申命記には、律法が記されている。そこには新しい家族のために一年間兵役や公務を免除されるという規定が書かれている。しかしここでは、食事への招きであり仕事ではないので、この律法には該当しない。どれも自分のことばかり考え、断ったといえるであろう。招かれた人とは、神に選ばれた民であるユダヤ人、特に権力者たちを示していたと言えるであろう。
神は、独子イエスをこの世に遣わし、すべての人を救いに招いた。しかし、ユダヤ教の権力者たちは、イエスを神の独子だとは、救い主であるとは受け入れなかった。一方、イエスは奇跡や、教えを通してユダヤの民衆に支持され、やがて王になると期待された。そのことに対して、ユダヤ教の権力者たちは嫉妬した。また、イエスが律法に忠実でないと考えていた。そこで、ユダヤ教の権力者たちはイエスを敵視するようになっていった。
たとえ話に戻ると、宴会を催す主人は、広場や路地に出ていき、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来なさいと僕に命じた。そこにあげられた人々は、宴会の招きを断った人々と対照的な人だと言えるであろう。土地を買う人に対しては、貧しい人。貧しい人は土地を買うことなどできない。体の不自由な人は、買った牛のもとに行くことができないし、目の不自由な人は、自分の目で見て牛を確認することもできない。そして、当時、病は罪の罰であると、律法を破った神の罰として病気になると考えられ、病人は罪人と同様に扱われていた。つまり、差別を受けていた。だから、結婚することなどできなかったであろう。また、食事の席は、同じ社会的地位の人々と共にしていた。しかし、食事に招いた主人は、社会的に差別を受けていた人々、弱者を招くようにと僕に命じたのである。
ルカによる福音書の7章21、22節には、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの弟子たちが、イエスこそ救いい主なのかと尋ねた時のイエスの答えが書かれている。「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。『行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』」。そこにはイエスの、神の招きがある。
本日の箇所のイエスのたとえは、神の国、すなわち神の完全な支配、完全な救いの場に、誰が招かれるのかどうかということを示しているのである。目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病の人、耳の聞こえない人、貧しい人、すなわち差別を受け、この世において苦難を負っている者、つまり最も救いを必要としている人こそ神の国に入ることができると、救われると、イエスは言ったのである。
一方、皆さんは、このたとえで、主人は最初になぜ救いを必要としている人を招かなったのかと思うかもしれない。しかし、それは神に選ばれたユダヤの民に対して述べたのである。つまり最初、神はユダヤの民を選んだ。しかし、彼らは神の独子イエスを受け容れなかったということを、ルカによる福音書の著者は示しているのである。
さて、イエスの活動について考えたい。イエスは病人や、貧しい人と共にいた。神の国では、この世の価値観が逆転されるのである。この世は社会的地位や、権力を求める。しかし、神の国には、この世的地位や、権力などない。いや、弱い者こそ招かれる。つまりイエスの活動は、神の国を現わしている。神の国の光をこの世で照らしているともいえるであろう。そこで、神の独子イエスがこの世に遣わされたことにより、神の国の扉が開かれた。神の国は始まりつつあるといえるのである。そこで、15節「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という客の言葉から、神の国はまだきていないが、自分は律法を守っているので神の国に入ることができると考えていることが分かる。だからこそ、イエスはたとえを述べたのではなったか。
そして、本日の箇所で私が注目したいのは22、23節である。「やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ』」とある。主人とは、神と言ってよいであろう。そして、この祝宴とは、神の国である。神の国は、多くの人が招かれても席にあまりがある。主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と述べたというからである。そこで記されている「小道」の直訳は「石垣」であり、21節の「広場や路地」と対称となっている。21節も「広場や路地」ではなく「大通りや路地」という訳がある。いや、「大通り」という訳の方が多いのである。そこで大通りは町の中であり、石垣は町の外を意味する。貧しい人々、差別を受けている人は、町のはずれに住んでいた。そのような人々こそ「無理にでも連れて来なさい」と主人、つまり、神は述べているといえるのではなかろうか。
私は次のように理解したい。神は人間を無理にでも、特に救いを必要としている人を無理にでも、神の国に招いておられる。そのために、神は独子イエスをこの世に遣わされた。イエスによって神の国はすでに開かれ始めている。イエスの活動こそ神の国の扉である。イエスは病の中にある人々と共にいた。それは、この世的な人間の考えを否定し、穢れとは何か、それは人間が造り出す差別であることを示し、病人などをありのまま受け入れ、いやしたのである。社会が造り出す差別から解放したともいえるであろう。私はここに神の国の現れを見る。
私たちは、すでにイエスによって無理に神の国に招かれている。つまり、救いへと招かれている。そのことに気づくことによってこそ、私たちは神の愛を知ることができる。同時に、イエスを通して神の国に招かれているからこそ、愛されているからこそ、わたしたちはイエスを信じ、イエスに倣い生きようとするのではないだろうか。イエスを通して、私たちも神の国に招かれている。それほど喜ばしい事はない。こんな私でさえ神は愛し、受け入れ、救いに招いてくださっているという喜びである。その喜びをすべての人と分かち合うことによって、神の国が現れるのである。私たちはイエスの招き応えたいと思う。
祈祷 ご在天の恵み深い神様 神の国とはいかなる場でしょうか。それは、神の愛に満たされ、神の愛による支配の場です。神の国は、この世的価値観とは異なります。救いを必要としている者こそが招かれます。もちろん、神は全ての人を神の国に招いてくださいます。そのために、イエスはこの世に遣わされました。そして、イエスの到来によって、神の国の扉は開かれました。私たちは神の愛を確信し、互いに受け入れ合い、支え合い生きたいと思います。このことによってこそ、神の国が近くなる、到来するのです。イエスに倣い、歩むことができますようお力をお与えください。先週、そして、今週も季節外れの台風が近づき大雨となっています。被災された方がたをお守りください。これ以上被害ができないようお導きください。戦争においては自分たちの正当性ばかり並び立てます。しかし争い、人の命を奪うことに何の正当な理由はありません。どうか、神から与えられた命を互いに尊重し、守ることができますように。梅雨になりました。体調を崩しやすい時です。すべての人、特に高齢の方、幼い者をお守りください。病の中にある方、治療を受けられている方、手術後の経過を見られている方など、心身共に負いやしください。苦しみ、悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。敬愛する清水嘉重郎兄の前夜式、告別式が行われました。嘉重郎兄が天において安らかな時が与えられますように。悲しみの中にあるご遺族をお慰めください。教会から離れている者、集うことのできない者の上にも主の導きがありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。
聖書:新共同訳聖書「詩編 8編 1~10節」
聖書朗読
08:01【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】/08:02主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます/08:03幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。/08:04あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。/08:05そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。/08:06神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/08:07御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
08:08羊も牛も、野の獣も/08:09空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。/08:10主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神からの委託」
私の連れあいの父は、肺線維症という難病で天に召された。肺線維症とは、肺胞が機能しなくなる病気である。体に酸素を取り込めなくなる。酸素吸入器で、肺に酸素を送るという対処しかできない。義父の病気が分かってから2年半の頃、夜に発作が起こり、義父は救急車で病院に運ばれた。連絡をもらい、私たちも急いで病院に行った。そこで医師からの説明を、義母から聞いた。またすぐに発作が起こる。次は助からないだろう。義父は、発作で苦しむのではなく、酸素吸入器を外した方が安らかに天に行けるという医師の言葉に従うことにしたという。義母と義弟が見守るとことになった。吸入器を外すのは、その日行われていたサッカー・ワールドカップの試合を見終わった後にということになった。私たち家族は、まだ長女が幼かったので義父との最後の別れの挨拶をして、家に帰ることにした。集まった他の親族も、義父と最後の別れをした。義父の私への最後の言葉は「二人を頼む」だった。それから数時間後に、息を引き取ったという連絡があった。義父との約束、委託は、いつも心なかにあるつもりでいる。無口な義父だった。結婚の挨拶をしに行った時、緊張していた私が話しだしやすくしてくれたのは義父だった。そのことを今でも覚えている。
さて、本日与えられた聖書箇所、詩編8編に心を傾けたいと思う。1節に「ギティト」とある。現在も意味が分かっていない。2節以下を見ると「わたしたちの主よ」とある。イスラエルの主であり支配者であった神こそ、この世の創り主、全被造物の主であることが示されている。神の偉大さと力強さを語っている。また、「全地に満ち」、「天に輝く」とあるように、この詩には宇宙的規模が設定されている。この地だけではなく、天も神の支配の領域であるということが示されているのである。
3節には、敵対するものに対して神は滅ぼすとある。神の絶対的な力が示さえていると言ってよいであろう。その敵とは、旧約聖書に出てくる海の怪獣レビヤタンなどが想定されているのではないかと考えらる。どのような敵も神の前では何もできないのである。
3節の最初に「幼子、乳飲み子の口によって」とある。マタイによる福音書の21章16節にも「幼子や乳飲み子の口に」という言葉があり、「幼子、乳飲み子」という慣用句があったのではないかと考えられる。では、ここではどのような意味なのか。「幼子、乳飲み子の口によって」、神に敵対するものに何か行うのであろうか。いくつか理解はあるが、神は偉大な業を行うために、人間の常識では無力と思われる「幼子、乳飲み子の口」から発せられる声を用いるという意味として受け取りたい。それは、新約聖書コリントの信徒への手紙(一)の1章26節にもあるように、神は神の威光を現わすために、弱く小さいものをあえて用いられるということである。つまり、神の偉大さ、神の愛を表現しているといえる。
そして、4節以下は創世記の天地創造の業を具体的に示している。「指の業」は、神の手の業と同じである。「指」としているのも、神の偉大さを示しているのであろうか。神にとって「指」ほどの力で十分だと。そして5節は、人間のことである。「人の子」は、ここでは人間を意味する。神は、人間を神にわずかに劣るものとして造ったというのである。それは、創世記1章の天地創造で、神は人間を神にかたどり、似せて造ったと記されていることと同じと考えられる。そして、7節に「御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」とある。これは、創世記1章28節「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と同じ意味であると言ってよいであろう。そこで重要なのは「治めるように」「支配せよ」は、言葉のままではないということである。つまり、人間がこの世界を治める支配者になるようにという意味ではないということである。治める、支配とは、管理をするという意味であると言える。それは、この世に対して人間が想い通りに好き勝手にしていいということでは決してないのである。
そこで5節、「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは」とある。神は、いつも人間を心に留めてくださっている。そのような人間とは、何者なのか。神は「顧みて」くださる。「顧みる」とは、神が人間を引き受け、責任を持って面倒を見てくださっていることを意味する。もちろん、イスラエルの民だけではなく、神が創った全人類に対してのことである。
私は次のように理解したい。人間は、利己的である。だからこそ、神は人間を御心にとめ、そして責任を持って面倒を見てくださっている。しかも、欲深く、弱い人間であるにもかかわらず、「この世を管理しなさい」と神は私たちに大きな委託をして下っているのである。神の偉大な愛を思わずにはいられない。人間を信頼してくださっていると言ってよいであろう。
6節には、人間は神にわずかに劣る者として人を造られたとある。人間讃美をしているのではない。神と人間は絶対的に異なるということが言われているといってよいと私は思う。こんなにも弱く、どうしようもない人間とは、いかなる存在なのか。それでも。神は良しとし、信頼し、用いてくださる。つまり、神の偉大さ、神の大いなる愛が、そこに記されていると言えるのではなかろうか。人間は、この偉大な神のもとにおいてしか生きることができない。神に生かされていいる存在なのである。
神は、弱い人間を用いてくださる。神は、人間一人一人を用いてくださるとも言えるであろう。3節の「幼子、乳飲み子の口によって」の説明をした。人間も、この世に対して取るに足りない、ちっぽけで無力な存在と言えるであろう。人間にできることはたかが知れている。しかし、神はそんな人間を用いてくださる。そこで、人間はこの世を管理する役割が与えられている。管理するとは、そこにいる存在がそのものらしく生きることができるようにということであり、そのためすべてのものと共に生き、共に歩むということが意味されていると言えるであろう。しかも最初に述べた通り、神はこの地、天をも支配しているように、人間にこの地、世界に対して管理するよう責任を与えたのである。弱く、欲深い人間だからこそ、神は、この世を管理するよう責任を与えたのだと私は思うのである。つまり、人間は神の前で謙虚になり、この世のすべてのものと共に歩むということを、常に心に置き生きるべきであるということが示されているのではなかろうか。
人間は、この地球上、天において、本当にちっぽけな存在にしかすぎない。また、人間の命は、はかないものである。それにもかかわらず、神は人間に「栄光と栄誉」を与えてくださった。また、弱く小さい人間であるにもかかわらず、神は管理という重要な役割を与えてくださった。そのような意味で、人間は神に必要とされている存在であると言えるのではなかろうか。神は私たち人間一人一人を、こよなく愛してくださっている。人間とはいかなる存在なのか。そのことを問うことによって、神の偉大さ、愛を私たちは知ることができるのではなかろうか。神が人間とは全く異なるからこそ、偉大な力、愛によって人間を導いてくださっているのである。神は、人間を生きるに値する存在としてくださった。私たちは、神の前で謙虚な思いを持ち、神が与えてくださっている役割を、責任をもって全うしたいと思う。
祈祷 この世の作り主なる神様 人間とは何者なのでしょうか。神様はこの世を創られ、すべてを良しとしてくださいました。そして、神にわずかに劣る者として人を造り、この世を管理する大切な役割をお与えくださいました。だからといって、人間は特別な存在というわけではありません。欲深く弱いからこそ、管理する役割が与えられ、この世に生きるすべての者と共に生きるよう、神が導いてくださっているのだと思います。また、それは神の前で謙虚に生きるための教えであるように思います。そして、神は私たち一人一人に賜物を与え、役割をお与えくださった。存在の根拠を与えてくださったと言えるのかもしれません。神の大いなる愛を感謝し、すべてのもの、人と共に歩み、神からの委託を、責任をもって行いたと思います。そのための力をお与えください。季節外れの台風の到来などで、日本各地で大雨となりました。梅雨の季節、体調を崩しやすい時です。どうかすべての人、特に高齢の方、幼い者をお守りください。病の中にある方、治療を受けられている方、手術後の経過を見られている方など、心身共に負いやしください。苦しみ、悩み、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。日本各地で地震が起こっています。被災された方々を支え、また、不安の中にある方をお守りくださいますように。今月、誕生日を迎える方々の上に主の祝福がありますように。6月1日、敬愛する清水嘉重郎兄(シミズカジュウロウ)が天に召されました。嘉重郎兄のこれまでのお働きを、心より感謝いたします。嘉重郎兄が天において安らかな時が与えられますように。悲しみの中にあるご遺族を覚えます。お慰めください。今週は嘉重郎兄をあなたの元にお送りする式を行います。御心に適うものとなりますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心、新しい月の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 2章 1~11節」 02:01五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 02:02突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 02:03そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 02:04すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 02:05さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 02:06この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 02:07人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 02:08どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 02:09わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 02:10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 02:11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「共に歩んでくださる」
グリーフケア(欧米ではブリーフメントケア)とは、天に召された方との別れは段階的に乗り越えていくイメージですが、順調に目標に達することは簡単ではない。心の中に故人との継続する絆を持ち、日々の生活の中で揺れる気持ちを支えるための支援を考えることが大切だという。悲しみはすぐにいやされることはない。イエスこそグリーフケアを行ってくださった方だったと思うのである。
本日は、ペンテコステ、聖霊降臨日である。ペンテコステとは「第50の」を意味する。ペンテコステは過越祭の安息日の翌日から7週を数えたその翌日、すなわち50日目に行われるということに由来している。五旬祭ともいう。五旬祭は元来ユダヤ教の、イスラエルの三大祭の一つである。申命記によるとこの祭りは元来、小麦の収穫の初穂を神に捧げる日だった。しかし後に、出エジプトのシナイ山におけるモーセの十戒、律法授与を記念する祝祭日として位置付けられるようになった。キリスト教でペンテコステは教会の始まりであるといわれる。それは神が、イエスの救いをすべての人に知らせるための力を、イエスの弟子たちに与えた宣教の始まりの日だからである。
使徒言行録は、ルカによる福音書の続編である。イエスが天に上げられてから後の弟子たち、パウロの伝道の出来事が記されている。
五旬祭に、弟子たちが集まっていた。すると突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったというのである。「風」は聖霊をも意味する。3節には「炎のような舌」がそこに集まる一人一人の上にとどまったとある。「炎のような舌」こそが聖霊である。聖霊は神の、イエスの、目に見えない働きと言ってよいであろう。「炎」、「火」は、神、あるいは神の救いが現れることを意味する。例えば、出エジプト記は、神がモーセに指導者となる使命を与えた出来事であるが、「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現われた」と記されている。また、詩篇50篇3節には「わたしたちの神はこられる。黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き御許には嵐が吹き荒れている」と記されており、神が現れることを示している。
「舌」とは「言葉」を意味する。6節以下の「自分の故郷の言葉」とは、他の国々の言葉を暗示している。弟子たちは、他国の言葉を話すことができるようになった。
「炎」について旧約聖書をもう一箇所見たい。エジプト記19章、シナイ山で十戒、律法を授与される場面において「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである」とある。ここでも火は、神が現われることを表している。十戒が与えられた出来事は、神とアブラハムとの契約に基づいた神の救いに与る出来事である。五旬祭とは、出エジプトを祝う祭りであり、十戒を神から与えられたことを感謝する時だった。しかし、キリスト教では、出エジプトを祝うのではなく、弟子たちに聖霊が降った出来事を祝う時となった。弟子たちに聖霊が降る出来事を通して、神の救いの約束を新たに更新する時となったと私は考える。その在り方は、それまでの律法という信仰から、イエスが教え、十字架で示された愛の業を感謝し、それに倣うという信仰になったと私は思う。
また、イエスは、使徒言行録1章8節で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と語っている。つまり、イエスはペンテコステの出来事を預言し、そのことが起こったのである。4節には、そこに集まった人々は神の霊が満たされ、語らせるままに他の国々の言葉で話しだしたとある。
それまで、神はイスラエル民族にしか契約を結んでいなかったのだが、それからは全ての民と契約を交わしてくださるのである。旧約聖書で神は、イスラエルの民を導いた。しかしそのとき神は、弟子たちに聖霊を与え、全ての人に救いを与えた。世界中の言葉を話すことによって、全世界に神の恵みを知らす。そのため集った人々に聖霊を満たし、様々な言葉を語る力を与えたのである。それぞれの国の言葉が話せるようになったということも重要だが、大切なのは、聖霊によってイエスが示してくださった神の愛、神の恵みを告げ知らせることができる言葉、賜物が聖霊によって弟子たちに与えられたということであると私は思う。
ではそのとき、どうして弟子たちは集まっていたのか。それは、イエスが天に召されてから何をすべきか弟子たちが戸惑っていたからではなかろうか。そして、イエスが預言した聖霊が降るのを待っていたのかもしれない。指導者が天に召されたらどうするであろうか。特に、弟子たちにとって、イエスがいなくなったということは、もっとも心が弱くなってしまう状況であったと思うのである。イエスに「魚を取る漁師にしよう」と招かれた。しかし活動の僅か3年ほどでイエスは突然、天に召されてしまった。しかも、イエスはユダヤ教権力者から裁かれ、十字架に掛けられた。もしかしたら弟子たちもイエスの救いを述べ伝えたという罪でユダヤ教権力者たちに捕らえられ、裁かれてしまうかもしれない。実際、その後に、イエスを信じる者はユダヤ教から迫害を受けることになった。本当に心細い状況だった。イエスが再び復活するという期待が弟子たちにはあった。だから集まったのであろうか。一番の希望は、イエスが預言した聖霊が降るということだったのではなかったか。
親しい人が天に召された悲しみは、すぐになくなることはない。裏切り者のユダの代わりにマティアが選ばれたという出来事が、すぐ前に記されている。弟子たちの新たな歩みが順調にはじまっていたように思い。しかし、弟子たちは不安や、悲しみの中にあったのではなかったかと、私は思うのである。だから聖霊が下るとイエスは預言したのではなかろうか。それは、新たなる希望である。イエスは十字架の後、復活し、40日間弟子たちと過ごし、天に上げられた。そして、その後、炎のような舌の聖霊を弟子たちに注いだ。炎は神が現れることを意味する。そして、舌、言葉が与えられる。その出来事には、モーセが十戒を与えられた出来事と重ねることができる。十戒は、神が与えてくださった教えである。その教えを守れば救われるということではない。神はこのように恵みを与えてくださるということを覚え、十戒を実践することによって神が共にいてくださること、恵みを与えてくださることを実感し、神を信じて歩むことができるのである。イエスが預言した聖霊が降るという出来事こそ、イエスは天に上げられてもいつも見守ってくださり、言葉、人々に語る言葉を与えてくださる。つまり、イエスは目に見えなくても聖霊を通して恵みを与え、いつも見守ってくださるということを弟子たちは実感したのではなかったか。弟子たちは、不安の中にあっても聖霊なるイエスの支援を得ながらイエスの救いをイエスに倣い、イエスと共に告げ知らせるのである。
弟子たちと同じようにイエスは今もなお私たちと共にあり、見守り、言葉を与え、導いてくださっている。そのことを確認するのが、ペンテコステを祝うことに他ならない。神は、旧約の時代から、十戒、律法などを通して民を導き、共に歩んだ。そのもっとも大いなる恵みこそが、イエスがこの世に遣わされた出来事である。そして、イエスが天に上げられた後も、弱い私たちに聖霊を注ぎ、言葉を与え、宣教の業を共に歩んでくださる。いや、イエス、神は、私たちを信頼しイエスの宣教という業に私たちを招き、絆を持ってくださるのである。それがペンテコステの出来事である。私たちが不安、悲しみの中にあっても聖霊によって、いつも神が、イエスが共にいてくださることを覚え、神、イエスの救いを多くの人と分かち合いたいと思う。
祈祷 導き主なる神様 本日はペンテコステです。弟子たちに聖霊が注がれ、イエスの救いを述べ伝える力が与えられた出来事を祝う時です。今もなお、イエスは天から私たちを見守り、聖霊を注ぎ、お導きくださっています。そして、イエスの宣教の業に私たちを招き、共に歩んでくださっています。それは絆を持ち歩んでくださるということです。現代の私たちにも聖霊が注がれていることを確信させてください。そして、神の恵み、イエスの愛を多くの人と分かち合うことができますようお導きください。平和を求めるとはいかなることでしょうか。争いを止めること、そして、この世に武器がなくなることであると思うのです。どうか武器のない平和な世となりますように。そのため互いの違いを受け入れ合うことができますようお導きください。沖縄では台風が到来します。また、梅雨に入ります。体調の崩しやすい時です。どうかすべての人、特に年を重ねられた方、子どもたちをお守りください。病の中にある方、治療を受けられている方、手術後の経過を見られている方など、心身共に癒してください。苦しみ、悩みの中にある方、介護看病をされている方、一人で暮らされている方をお支えください。日本各地で地震が起こっています。被災された方々を支え、また、不安の中にある方をお守りくださいますように。先週の金曜日は、関東地区教会婦人会連合総会をあなたが共にあって行うことができましたことを感謝いたします。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 2章 1~5節」
聖書朗読
02:01アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。/02:02終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい/02:03多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。/02:04主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。/02:05ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「恵みに対する応答」
日本では、防衛費を大幅増額するのではと言われている。他にかけるところがあるように思う。ニューヨークにある国連ビルの広場の壁には現在、「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国と国は向って剣を上げず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」という言葉が英文で刻まれている。私たち、そして、政治に対して、鋭い警告を発していると受け止めるべきであろう。
イザヤ書2章1以下に心を傾けたいと思う。1節は表題だが、奇妙である。表題は、既に1章1節にあった。2章1節に表題があるということは、イザヤの預言が別にあり、後に編集されたときに、ここに入れられたと考えられる。いろいろな意見があるが、2章~12章が一つのまとまりだと考えられる。本日の言葉は、イザヤの後期の言葉ではないかと考えらる。
1節に「エルサレムについての幻に見たこと」とある。以前の口語訳聖書のように「示された言葉」の訳の方が原文に近いといえるであろう。ギリシア語の七十人訳聖書でも「言葉」とある。それは「託宣」という意味である。
2節に「終わりの日に」とある。終末思想だと言えよう。しかしそこでは、世の終わりよりも「未来における約束」との意味が強いと考えられる。未来の希望を示しているといってよいであろう。「主の神殿の山」、3節の「主の山」、「ヤコブの神の家」は、どれもエルサレムを意味する。エルサレムは、モーセが神から与えられた十戒の刻まれた石板を置く神殿、アブラハムが息子イサクを神にささげようとしたとき神が現れた場所、つまり、神が現れ、神がおられる聖所である。そこに、多くの民が集まるというのである。そしてシオン、つまりエルサレムに神の言葉が出る。エルサレム、聖所は、神の裁きが下される場でもある。そこに多くの人が集まり、神の裁きが下るのであろうか。しかし裁かれるというより、紛争解決のために、調停を求めにくると理解できるというのである。神の言葉、また、主の示される道こそ、争い解決のための方策を示してくれるのである。つまり、神の言葉こそ、私たちの希望であると言えるのではないだろうか。
そして、現在ニューヨークにある国連ビルの広場の壁に刻まれているのが、4節の言葉である。この言葉は、ミカ書4章3節にも預言されている。どちらが先かを問題とするのではなく、この言葉が神の言葉として預言されていることこそが大切であると思う。「剣を打ち直し鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」。争いで使う剣、槍を、畑を耕すための鋤、鎌とする。死ではなく、生きることを神は導かれる。人間は生きていくためのものを神から与えられている。神から与えられているものを、いかに用いるのかという問いかけであると私は考える。火薬はとても危険である。火薬は多くの人を一瞬で殺す爆弾として用いることができる。一方、花火となり打ち上げれば、人間の心をなごますこともできる。私たち一人一人、神から豊かな賜物が与えられている。私たち人間に与えられた賜物、知恵、心を、いかに用いるかによって、人を傷つけることも、隣人を支えることもできる。私たちは神から命を与えられ、生きていくために様々な恵みを与えられている。私たちはそれをどのように用いるべきなのであろうか。
一方、聖書に次のような言葉もある。旧約聖書のヨエル書の3章10節には「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え」とある。本日のイザヤ書とは全く逆である。聖書には矛盾していることが記されていると思われたのではなかろうか。解釈として、最後の戦いのハルマゲドンが、この言葉を用いた辛辣なパロディで叙述されているというのである。また、戦争の危機において、全く武装していない農民を徴兵する時に、応急の武器を調達するためのものであったことを示しているという理解もある。さらには、ヨエルは皮肉を込めて語り、神の裁きがくだることを示している。そして、ヨエル書の言葉をイザヤが逆転して用いているという理解がある。どの理解が正しいのかは難しい。イザヤがヨエルの言葉を逆転して用いたという理解は、とても興味深い。というのは、最初に述べた通り、本日の言葉は、本来イザヤの後期の言葉であると考えられるからである。
イザヤは、北イスラエル王国が滅びるのを見た。また、南ユダ王国も争いによってエルサレム陥落寸前までの危機を経験した。つまり、イザヤは争うことの無意味さを十分理解し、知っている。また、イザヤこそ、どんなときであっても神により頼むべきであると、人々に解いたのである。人と人とが争うことに勝利などない。どちらも多くの人が死に、また、そこでは弱者こそが被害にあう。そのことを十分知っていたからこそ、イザヤは「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と民に述べた。もちろん、預言であるから、それは神の言葉である。イザヤ自身も実感をもってその言葉を語ったのではなかろうか。特に「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という言葉は、平和は聖戦による神の勝利によるのではなく、神の教えを信じ、従うことによってもたらされるのであるという意味があるからである。そこで、人間が自分から戦争を止めるようにと神が恵みを通して人間を導いてくださるのだとイザヤは信じ語っていると理解できる。神を本当に知る人間は争いを止めるという期待が、そこにはある。そして、戦争はひとえに人間の罪の帰結であると定義している。預言者イザヤが示しているその言葉には、深い意味がある。私たちがいかに生きていくのかを問われているのではないだろうか。
そして、5節の言葉こそ大切であると思う。「主の光の中を歩もう」とある。先ほど4節の言葉は、ミカ書にあると述べたが、この5節の言葉はミカ書には記されていない。主の光、神が示してくださる道を神と共に歩もうということであろう。神は、争いを求めない。神は、この世を創り、この世にあるものを一つ一つ、一人一人愛してくださっている。そこで、この世にあるものが互いに受け入れ合い、愛し合い、調和して歩むことを神は望んでおられ、また、導いてくださっているのである。
最初に述べたが、2節の「終わりの日に」という言葉は、終末というイメージより、「未来における約束」との意味が強く、将来における希望を示している。また、解釈としては強引だが、現代のイエスを知っている私は次のように理解したい。1節の「幻に見たこと」は「示された言葉」であり、この「ことば」、そして5節の「主の光」こそ、神の独子イエスである。イエスこそ無抵抗であった。「左のほほを打たれたら右のほほをも向けなさい」。そして、イエスがエルサレムに入られたときに、ロバに乗ってやってこられた。それは平和の主を意味する。まさしくイエスこそ平和の主として、この世に遣わされた。そして、私たちが歩むべき道を光によって照らしてくださったのである。私たちはその光の中を歩むべきなのではないだろうか。それは、平和に至る道である。
一方、私たちは弱く何もできないと思ってしまうかもしれない。しかし、国連の壁に本日のイザヤ書の言葉が刻まれていることを知っている。それだけでも、とても意味があると思う。また、私たちには祈ることができる。そして、隣人を愛すること。この地道な業こそ大切である。きっと広がっていくであろう。
本日のイザヤの預言は、平和に共存するようにと定められていること、この世的に生きるのではなく、イエスに倣うということ、また、イエスの苦難、十字架を負ってキリスト者は生きるべきであるということが示されているのではなかろうか。隣人の痛みを自分の痛みとするといってもよいであろう。神、イエスを信じる者は、新しい神の民として、その預言の下に立つべきなのである。私たちは神に愛され、神から一人一人異なった賜物を与えられている。神の恵みに応答し、平和へと歩みたいと思う。神の言葉にこそ希望がある。そして、神が預言として私たちに示してくださったということは、平和へと歩むことができるという、神の人間への信頼であると思う。神の言葉に応答したいと思う。
祈祷 ご在天の恵み深い神さま イザヤは、神の言葉として「剣を鋤に、槍を鎌に。争うことを学ばない」と述べ「主の光の中を歩もう」と述べました。私たちは神様から様々なもの、そして、一人一人賜物が与えられています。神から与えられた恵みをいかに用いるのか。そして、恵みを用いるためには神と共に神が示してくださった光のうちを歩むことによって用いることができると示してくださいました。神は、争いを求めていません。その人がその人らしく生きること、そのため互いに愛し合うことを求めておられます。私たちが違いを理解し合い、受け入れ合うことができますように。そのため主イエスが示してくださった光のうちに歩むことができますようお導き下さい。世界の指導者たちが真の平和を求めることができますようお導きください。今、日本中で地震が起こっています。不安の中にある方を支え、特に大きな地震で被災された方々をお守りください。 すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友、介護看病をされている方をお支えくださいますように。 今週は、関東教区教会婦人会連合総会が筑波学園教会で行われます。準備をされている方々を支え、また、集うとされている方々の健康をお守りください。そして神の御心に適う会となりますように。 この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 34編 1~11節」
聖書朗読
34:01【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】/34:02どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。/34:03わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。/34:04わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。/34:05わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。/34:06主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。/34:07この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。/34:08主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。/34:09味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。/34:10主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。/34:11若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「寄り添ってくださる」
出産は命がけだと思う。それは母子共にである。長女の出産の時には、連れあいが家で破水した。事前に教会のある方から破水の経験を聞いていた。そのため慌てずにタクシーを呼び、病院に行った。入院したが翌日になっても陣痛が来ない。母親に熱がでたということもあってなのか、陣痛促進剤を使った。すると看護師さんたちが慌てて部屋を訪れ「お父さんは部屋から出てください」と言う。お腹の子どもの心拍数が下がり、危険と判断したようだった。あっという間に分別室に行ってしまった。お腹の子どもの心拍数が安定したので、出産を試みたが、陣痛がおきない。再び陣痛促進剤をいれると、子どもの心拍数が下がってしまった。なかなか生まれてくれない。院長から帝王切開の可能性もあると言われ、私はサインをした。最後にもう一回頑張ろうと院長が言ってくださり、帝王切開せず出産することができた。はじめての出来事だったので、私は慌てふためくだけだった。そして、祈ることしかできなかった。出産は命がけであることと神秘的であることを私は思った。そして、神に感謝したことを今でも覚えている。その日は、洗足木曜日だった。神も痛みをもってこの世を創られ、また、痛みをもってイエスをこの世に遣わし、人間を生かし、導いてくださっていることを私は感謝した。
本日の聖書箇所、詩編34編に共に心を傾けたいと思う。2~4節は、神への讃美の促し、5~7節は、神による救いの体験と感謝である。そして、8~11節が神の恵み深さが記されている。詩編34編から、神がいかなる方なのか、裁き主ではなく、恵み深い方であることを知ることができるであろう。
1節にあるのは表題である。8節とサムエル記上21章13節にある言葉との間の関連を発見し、後からこの表題が付けられたのではないかと考えられる。一方、詩編34編とサムエル記の内容的関連は不明である。そのことから1節は考慮せず、2節以下に心を傾けたいと思う。
2節に「讃美を歌う」とあるように、讃美へと促している。3節後半に「貧しい人よ」とある。金銭的に貧しい人のことであろうか。ここでは、経済的な意味もあるが、社会的にも差別され、正当な裁判を受けられず、それ故に神にすがる他に生きる道のない人たちを指している。裁判を受けられないのは、人として生きるための権利を失っているといえるであろう。3節、7節の「貧しい人」を「苦しむ人」、「虐げられている人」、「憐れな人」と訳している聖書もある。この箇所では、苦しみの中にある人々に主を讃えよと促しているのである。それはなぜなのか。
5節に「わたしは主に求め 主は答えてくださった。おびやかす者から常に救い出してくださった」とある。5節以下は、救いの経験を記している。7節には「この貧しい人が世に求める声を主は聞き」とある。神は私たちの声、いや、叫びを聞いてくださるというのである。そのことは重要であると思う。そこには私たちの喜びがあるのではなかろうか。神は、私たちの苦難の声を聞いてくださる。つまり、神はいつも私たちと共にいてくださる。それだけではなく、私たちの声を聞く、見守ってくださっている。そして、苦難から救ってくださるのである。そこでは、もしかしたら出エジプトのような出来事を思いうかべているのかもしれない。エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民の叫びを聞き、神はエジプトから脱出させ、約束の地へと導いてくださった。もちろん、それぞれの人が経験した神の救い、恵みを思い起こしてもよい。いや、詩編の作者と思いを重ね、自分に起きた神の救い、恵みを思い起こし、神を讃美すべきだと思うのである。
そこで、9節の「味わい、見よ」とは、何を味わうのであろうか。空腹のときに神様が与えてくださった食べ物であろうか。この「味わえ」とは「経験によって得る」という意味で用いられている。この詩の文脈では、神の報復、救済を通して与えられる賜物としての命、平和を求めることと理解できる。難しいことは考えず、私たちが経験した神による救いを思うことといってよいであろう。
次に10節、「主を畏れ敬え」とある。神を畏れる。私たちは神を畏れるべきであると思う。畏れるとは、ただ怖いということだけではない。神こそこの世を創られた全能者である。私たちはなぜ神を畏れるのであろうか。神は見えない。そして、神は何でもできる。つまり、私たちには想像もできない力を神はもっておられるからである。だからこそ、畏れる。私たちは目に見えない、想像もできない力の前では、畏れるしかない。私たちには予想ができないからである。畏れとは、良い意味では私たちを生かし、導いてくださる力である。悪い意味で恐れることもある。恐れで思いつくのが、自然に対しではなかろうか。自然は、食物、空気など与えてくれる一方、災害も起こす。人間には予想できないアクシデントが起こる。神はその自然を創り、また、自然以上の力をもっている。そこで神を畏れることこそ私たち人間の基本的なあり方だと思うのである。畏れること、それは神を実感することだと思う。そして、神を畏れることによってこそ、生まれつき利己的で、自己中心的な存在である私たちがへりくだり、謙虚に生きることができる。偉大な力を持つ神の前でへりくだることによって、友と共に、互いに支え合い平和へと歩むことができるのではなかろうか。本日の詩編34編を通して、私たちは偉大で全能者である神に叫び求めることができることを知る。それこそ、神から与えられた恵みであり、賜物であると私は思うのである。
さて、先週は、千葉の南、先々週は能登半島で大きな地震があった。神こそ苦難の叫びを聞いてくださる。一方、私たちは無事と、これからの歩みを祈り、出来ることを考えることが何よりも大切だと思う。私たち人間は、弱い者にすぎない。だからこそ互いに支え合い、助け合い生きることが大切である。一方、自然災害など様々な災害にあったとき、私たちは悪いことをした罰が下ったと考えてしまう。その感覚は、決して悪いことではないと思う。というのは、それは謙虚な姿勢でもあるからである。一方、地震が起こったとき、誰かが悪いことをしたから罰が降ったとは、神罰だとは、他者や公には述べるべきではないと思う。一見、謙虚だが、それは裁きでしかないからである。というのは、自然災害は神の裁きではないからである。神は、応報原理ではないと私は信じている。少なくともイエスは応報原理を述べなかった。ここで私たちが覚えるべきは、7節の「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった」ということであろう。この詩編の作者には、人生の幸・不幸のすべてを応報思想に還元しない信仰がある。19節に「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」とある。次のような訳がある。「主は砕かれた者に寄り添い、霊の打ちのめされた者たちを救われる」である。神が私たちの声を聴いてくださり、私たちを救ってくださることに条件などない。神は、応報原理で導くのではない。なぜなら私たちの神、独子イエスは、ただ愛なる方、恵み深い方だからである。神は恵み深く、私たちを愛し、お導きくださることを、本日の詩編から確信したいと思う。苦難の中にこそ、神は私たちの声を聞いてくださる。つまり、私たちの切なる祈りを聞いてくださり、寄り添ってくださるのである。神こそ私たちの希望である。ただ神を信じ、神により頼み、そして、友と支え合いながら生きたいと思う。
祈祷 全知全能の神様 私たちは弱く、利己的なものです。神は、私たちといつも共にあり、私たちの声を聞き、苦難の中、寄り添ってくださります。そして、救いへと導いてくださいます。私たちはあなたに祈ることができます。ここにこそ希望があります。どうか神を畏れ、隣人と支え合いながら、神を讃美し歩みたいと思います。神こそ私たちの救いです。どうか、この喜びを多くの人と分かち合うことができますように。そのため、私たちをお用いください。能登半島、千葉県の南部で大きな地震が起こり、また、その後も小さいながらも様々な場所で地震が起こっています。被災された方々、不安の中にある方々を支え、お守りください。争いは人間の欲でしかないと思います。どうか、自己欲ではなく隣人を愛する心を持ち、違いに受け入れ合う平和な世となりますようお導きください。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友、介護看病をされている方をお支えくださいますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 15章 11~17節」
聖書朗読
15:11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 15:12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 15:13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 15:14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15:15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 15:16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 15:17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「喜びが満たされる」
今年度の主題聖句は、ローマの信徒への手紙12章15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」である。総会が行われた4月23日は、この聖句による説教をした。その日の礼拝後に、この聖句の続き20節の意味が分からないという質問を受けた。20節「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」前半は、敵を愛せよということでしょう。一方、後半「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」である。炭火は、神の裁きを意味する。訳出されていないが、原文には、20節の最初に「むしろ」という言葉がある。ますます分からない。20節は、旧約聖書の箴言25章21~22節の引用である。次のように理解できる。エジプトの儀礼的慣習から考えると、敵意を親切に迎えることによって、敵は完全に自らを恥じ、私たちの友だちになるであろうということである。パウロはその意味で用いたと言えよう。そこで、面白いことを書いている学者がいた。「やはりパウロという人は、ひどくひねくれている。『敵を愛せ』と端的に言い切ったイエスとの決定的な違いである。」と。思わず笑ってしまった。イエスは、人間に分かりやすく述べてくださっている。また、イエスの言葉こそ、神と同じ力を持っているから、私たちの心に響くのである。
本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書15章11節以下に心を傾けたいと思う。その箇所を愛唱聖句にしている方も少なくないと思う。12節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とある。イエスが私たちに伝えたいことこそ、この言葉だと思う。とても分かりやすい言葉である。13節には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とある。私が洗礼を受けたきっかけとなった聖句である。中学生の時、CSで牧師が次のように話してくださった。知的に障がいのある人が船員をしていた。航海中、彼は船の底に穴があることに気づき、自分の足をそこに入れ、水漏れを防いだ。そのことによって船は無事に港に帰ることができた。港に戻ってから他の船員が彼に気づいた。しかし彼は、既に天に召されていた。そのような内容だったと記憶している。その時に読まれた聖句だった。
イエスは「互いに愛し合いなさい」との掟を述べた後、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と述べた。また、14節には「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とのイエスの言葉が書かれている。互いに愛し合うということ、友のために命を捨てることがイエスの命じる掟であり、それを行ったらイエスは私たちの友となってくださるということなのであろうか。
本日の箇所でイエスは「友のために命を捨てなさい」と命じているのか。いや、決してそうではない。この言葉は、イエスにとって友とはいかなる存在か、そして、誰が友なのかということが示されているのだと思う。私は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉に感激し、私もそのような人間になれればよいと思っていた。しかし、現実的にはかなり難しいと感じている。そこで、重要なのは誰が友のために命を捨てたのかということである。私が大学生の頃、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」が好きな聖句だと述べた時、牧師の連れ合いさんに「それはイエスでしょう」と言われた。私は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉をイエスのことを思わず、ただただかっこいい言葉として受け取っていたのである。当たり前だが、神の独子であるイエスこそ、この世に遣わされ、私たちを愛し、友となって下さり、そして、友のために命を捨てた、つまり、最も大きな愛を示してくださったイエスなのであった。そのことを理解した時、私はそのような愛の業はできないと思ったと同時に、喜びを感じた。イエスこそ私たちの友となってくださったからである。
そこで、「友」という言葉について考えてみたい。旧約聖書では「友」という言葉はどこにあるか。出エジプト記に「友」という言葉が出てきている。出エジプト記は、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しめられている声を神が聞き、モーセを指導者として脱出させ、約束の地に連れていくという話である。出エジプト記33章11節に「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。」とある。神がモーセを友としている、と読める。しかも、旧約聖書においては、神を見る者は死ぬという理解があった。つまり、人間にとって神とは、自分たちとはかけ離れた畏れ敬うべき偉大な存在なのであった。その神が、モーセと顔と顔を合わせるというのである。確かにモーセは偉大な指導者だった。救い主はダビデの子孫からでるというイメージが強いと思う。というのは、旧約聖書でそのように預言されているからである。実際、イエスはダビデの家系の者であった。マタイによる福音書にも、ルカによる福音書にも系図が記されている。一方、旧約聖書、ユダヤ教では、救い主はモーセのような偉大な指導者だという考えがある。確かに、イエスの誕生物語は、モーセの誕生物語に重ねられて記されている。
さて、私が何を言いたいのか。ヨハネによる福音書15章14節では、イエスは私たちを友と呼んでくださるという。そのことはとても重要だと思う。つまり、神がモーセを友としたように、今、イエスが私たちの友になってくださるのである。私たちはモーセのような偉大な存在ではない。しかし、イエスは私たちの友となってくださった。そして、イエスこそ私たちの友として、友のために命を捨ててくださったのである。偉大なモーセと同じように、私たちを招き友となってくださる。それは、とても大きな出来事であり、喜びである。イエスは神の独子、神と同じ権能を持っておられる。しかも、イエスは私たちのことを「僕」とは呼ばないと述べている。それは、私たちに自由を与えてくださっているということに他ならないのである。イエスは、父、神から聞いたことを、私たちに惜しげもなく知らせてくださった。
一方、次のように思うではなかろうか。「互いに愛することができなければ、イエスは友となってくれないのでは」「私は隣人を愛することができるのか」と。そこでもう一度、12節を見たい。「わたしがあなたがたを愛したように」とある。まず、イエスが私たちを愛してくださっているということが前提なのである。イエスが私たちを愛してくださっているからこそ、私たちは互いに愛し合うことができると言えるであろう。私たちはイエスに愛され、友として招かれている。そこで私たちは愛を知っている。私たちは、イエス、神から無条件に愛という賜物を与えられている存在なのである。そのことが前提にある。
そして重要なのは、イエスが私たちを選んでくださったということである。イエスから手を差し伸べてくださっていると言ってもよいであろう。つまり、イエスが私たちに先立って愛し、招いてくださっている。そして、友として命を捨ててくださった。それは、私たち側からではなく、イエスからの働きである。一人の大切な人格として私たちを愛し、友となってくださっているのである。私たちは、イエスの招きに応答したいと思う。イエスの、互いに愛し合う輪に招かれているのである。それこそ私たちにとって、よき知らせであり、喜びである。
祈祷 愛なる神様 御子は、互いに愛し合いなさいと述べられました。また、友のために命を捨てることこそ大いなる愛である、と。一方、私たちはそのような愛の業はなかなかできません。大切なのは、何より先に、神の独子イエスが私たちの友になってくださったこと、そして、友のために命を捨てた方こそイエスであるということです。私たちは既にイエスに愛されてしまっている者です。そして、イエスの互いに愛し合う輪に招かれているのです。どうか、イエスの招きに応えることができますように。また、イエスの互いに愛し合う輪の中に多くの人を招くことができますよう、私たちを用い、強めてください。報復は神がなさることである、と聖書に記されています。どうか争うのではなく、受け入れ、愛し合うことができますようお導きください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。今月誕生日を迎える方、既に迎えられた方の上に主の祝福がありますように。ゴールデンウィークの最終日です。安全に過ごすことができますようお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 1章 18~20節」
聖書朗読
01:18論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。/01:19お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。/01:20かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「共にある交わり」
40年ほど前、「パウロへの新しい視点(New perspective on Paul)」という神学の流れが、英米から出てきた。もちろん、その考えは、今までの新約聖書の研究の積み重ねから出てきたものである。その考えの重要な位置にいた学者の本から、私は聖書の読み方に多大な影響を与えられた。新約聖書の学問だが、パウロの時代のユダヤ教を問い直し、ユダヤ教の再評価を行うことにより、パウロに対する新しい視点が見だされたのである。
そこで重要なのが、キリスト教はユダヤ教をどのように理解していたのかということである。皆さんはユダヤ教を、あるいは旧約聖書をどのように理解しておられるであろうか。「旧約聖書は怖い。なぜなら神の裁きが記されているからだ。そこでは、神から与えられた律法を守らなければならない。律法は掟であり、掟を守ることができなければ神に裁かれ、律法を厳しく守っていれば神の救いに与る。」といたtイメージがあるのではないだろうか。すなわち、律法を守ることによって救われる。そこで旧約聖書は、人間の行為が重要になっているという理解である。一方、キリスト教は神から恵みが注がれると理解する。ユダヤ教は自力救済であり、キリスト教は恵みの宗教である。正直に言って、それがそれまでのキリスト教から見るユダヤ教への理解であったといえるであろう。その理解の仕方を再評価しているのである。
律法とは何か。「パウロへの新しい視点」の代表的な理解では、ユダヤ教も恵みの宗教であると考える。そして、人は神の一方的な選びの恵みによって神との契約に招かれ、契約を結んだ者として、それに相応しい行いをすることが期待される。しかし、人間は弱く罪を犯してしまうことがある。そこで罪の赦しの手段を神は与えてくださった。人は罪を犯しても、悔い改めと神殿での祭儀により、罪が赦されて契約に留まることができる。神との関係はこのように継続される。そこで「律法の行いは救いを勝ち取るためでなく、契約に留まるためのものである」というのである。契約に留まるとは、神との関係が継続するということである。それが「パウロへの新しい視点」で最も重要な本に記されている。罪を犯しても、赦しの手段を神は与えてくださる。確かに、年に一度の赦しの祭儀が、律法で規定されている。それは重要なことである。私は旧約聖書を読み、面白いと思ったことがある。神は神に背く者を裁くが、抜け道を用意して下さり、必ず助けてくださると旧約聖書を理解した。神が抜け道を、必ず救いの道を与えてくださるという私の理解を、「パウロへの新しい視点」の考えにも支持されたように思った。
さて本日は、イザヤ書1章18節からである。1節から見てゆきたい。1節には、イザヤがエルサレム神殿でこれを読み上げたとある。そこで2節以下は、イザヤが預かった神の言葉になろう。神はイスラエルの民を育てたが、しかし、背いた。そこで、異国の民によって町々は焼き払われ、イスラエルの地は荒廃した。そして、娘シオンつまりエルサレムが残った。逆に他の町々は滅ぼされたということである。イザヤが活動した南ユダは、アッシリアによって荒廃したことが示されているといえる。紀元前8世紀、アッシリアは、イスラエルにも勢力を伸ばした。イスラエルは、既に南ユダと北イスラエルに分裂していた。北イスラエルは、シリアと同盟を組みアッシリアに抵抗した。そこで北イスラエルは南ユダに同盟を申し入れた。しかし、南ユダは拒んだ。その結果、北イスラエルとシリアの同盟が南ユダを攻めた。南ユダは、アッシリアに助けを求めた。南ユダは助かったが、そのことにより南ユダはアッシリアの属国になったといえるであろう。アッシリアはエルサレム神殿にアッシリアの神の像を置くということもした。その後、南ユダはアッシリアと戦い、敗北寸前にまで至ったが、エルサレムは奇跡的に助かった。それが2~9節の背景であると考えられる。実は、2~9節は、イザヤの活動の後半の出来事が最初に記されていると理解できる。実際、イザヤが預言者となる記事は、6章に記されてる。つまりイザヤ書の最初は、後の南ユダの悲劇的な状況が記されていると考えられる。
10~17節を見よう。そこはユダヤ教祭儀に対する批判である。この箇所は、時代が戻り、イザヤが預言者になった頃のことではないかと考えられる。ウジヤ王の治世は、神に従順で栄えていた。しかし、それが災いしたのである。イザヤはウジヤが死んだ年に、預言者になった。まだ繁栄の名残があった。繁栄によって富を持つ者が傲慢になったのではないかと考えられる。倫理的、社会的な不正をしながら捧げものをした。具体的にはわからない。もしかしたら、弱者を犠牲にして富を得た。あるいは犠牲を救いの手段としてしまった。救われるために犠牲を捧げた。大切なのは罪を思い、神に心から悔い改めることである。神の愛を信じ、罪を思い悔い改め、心から赦しを願うことこそが大切なのである。一方、犠牲が赦しの手段になり、悔い改めの心がない。神は、捧げものを求めているのではなく、内面を見ておられるということである。
神に頼むのではなく、同盟を大国と結び平和を得ようとした。この世的な考えである。また、犠牲を赦しの手段とした。心からの悔い改めはなく、偽善として捧げものをした。それらを神は、イザヤを通して警告していたのである。では、その箇所に救いはないのか。
そこで18節を見よう。「論じ合おうではないか、と主は言われます」とある。失礼かもしれないが、とても面白いと思う。神が、私たちに話し合おうと述べてくださっている。緋は、明るく濃い紅色であっても白くなることができると神は教えてくださっている。また、神に従うことによって大地が実る、救われる。逆にかたくなに背くなら、剣によって、神は異邦の民を用い、神の民を荒廃させるというのである。
9節を見よう。10節にもあるが、ソドムとゴモラとの記載がある。ソドムとゴモラは、神に背くということを象徴的に示している。創世記18章でソドムとゴモラの罪がひどいので、神は滅ぼすと述べた。するとアブラハムは、神と駆け引きをして、10人ソドムに正しい人がいれば滅ぼすことはやめてくれるようにとの約束ができた。神は滅びを望むのではない。しかし、正しい者はいなかったので、ソドムは滅ぼされた。そこで9節を見ると「わずかでも生存者を残されなかったなら」とある。神はわずかではあるが生存者を残したのだと理解できると思う。そこに、わずかだが、神の恵みがある。それは、18節以下でも見ることができると思う。神は、「論じ合おうではないか」と、神から救いの手を差し伸べてくださっている。悔い改めへと導いてくださっている。それだけではない。明るく濃い紅色であっても白くなることができると述べておられる。つまり神は、どのような重い罪さえも赦してくださる力を持っている。人間のいかなる罪、神への背きも、神は赦してくださるのだと述べているのである。人間のどんな罪よりも、神の愛は大きいといえるであろう。
私たち人間は弱く、そのため神に背いてしまうことがある。だから、律法には年に一度の赦しの儀式がある。それは神の愛を示しているといえるであろう。また、神は「論じ合おうではないか」と救いの御手を差し伸べてくださるのである。その最も大いなる愛の業こそが、独子イエスをこの世に遣わされた出来事である。神は独子の命を用い、人間を救いへと導きくださったのである。神の愛は人間の罪より大きい。私たちは神の愛を理解し、ただ感謝したいと思う。神は、話し合おうと私たちに救いの手を差し伸べてくださっている。悔い改めへの逃げ道を必ず与えてくださるのである。神の愛、恵みは私たちの想像を絶するほど大きいものであることに気づきたいと思う。
祈祷 愛なる神様 私たち人間は弱く、神に背いてしまうものです。神はまずイスラエルを選び律法を与えられました。そこには赦しの祭儀が規定されています。本日の箇所でも神は、神に背くイスラエルに警告を与えながら、「話し合おう」と救いの道を教え、お導きくださいます。神の愛は、人間の罪より力があり、また、私たちの想像を超えるほど大きいものです。神は、必ず私たちに救いの道を示してくださいます。その最も大いなる出来事こそ独子イエスをこの世に遣わされたことです。どうか私たちが神の大いなる愛に気づくことができますように。また、大いなる愛によって見守られ導かれている喜びを、多くの人と分かち合うことができますようお導きください。争いで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。どうか争いではなく、こどもたちに希望の持てる素晴らしい未来を与えることができますよう指導者、一人一人の賜物をお用いください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。先週、筑波学園教会の定期総会が行われ、新しい歩みとなりました。どうか選ばれた執事を教会に集う方々が支えながら交わり、良き宣教の業を行うことができますようお導きください。ゴールデンウィークになっています。良き安らぎの時になりますように。また、安全に過ごすことができますようお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ローマの信徒への手紙 12章 9~15節」
聖書朗読
12:09愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 12:10兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 12:11怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 12:12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 12:13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 12:14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 12:15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「共にある交わり」
本日は、ローマの信徒への手紙の12章9節以下に心を傾けたいと思う。9節に「愛には偽りがあってはなりません」とある。とても面白い理解があった。逆説的に受け取り、パウロは、人間たちが「愛」とよんでいるものがいかに偽善であるかを、よく知っていたというのである。つまり、人間の愛と神の愛は異なる。異なるということを把握することが大切であると、私は理解した。だからこそ、「悪を憎み、善から離れず」にいることが大切であるといえるであろう。そこで「善から離れず」ではなく、1955年に最終改定された口語訳「善には親しみ結び」という方が優しく、受け取りやすいように思う。1987年の新共同訳を2018年に改定した聖書協会共同訳も「親しみ」と訳している。善に親しむ姿勢を、私たちは持つべきではないだろうか。神との関係も同様なのかもしれない。
10節には「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とある。能力、賜物は人によって異なる。だからといって、優れて価値のある特別な人間がいるわけではない。いや、全ての存在が優れて価値がある。その証拠がイエスの死である。イエスにとって全ての存在、全ての人間が等しく大切である。一人一人が特別であるから自らの命をもって私たちを救ってくださった。イエスは今もなお、私たちの重荷を十字架で共に負ってくださっているのである。私たちは、どのような苦難に置かれても、一人ではない。イエスが共にいてくださるのである。人間は神に愛されるに値する存在である。神が御自分の独り子を死に渡すほどにも、存在する価値がある。私たち一人一人が神に愛され、神にあなたは必要な存在だといわれているのである。
そこで、後半の「優れた者としなさい」を見よう。その言葉の元の意味は「先に立って導く」「道案内する」である。つまり「尊敬を持って互いを導き」という意味に解することができる。自分一人が指導者であると威張るべきではないと受け取れるのかもしれない。手紙の著者パウロは、「相手を自分より前にし」という趣旨で記していると考えられるので、相手をたてる、優れた者とすると訳すことができる。そこで、互いを指導者とする、互いに導く、つまり、神の前において、人間は優劣、高い低いなどない。互いに人格を認めあい、それぞれ持っている賜物を用い、導きあうことが大切なのだと受け取ることができると私は思う。だからこそ、「兄弟愛をもって互いに愛」する。神が一人一人を受け入れてくださっている。だから、私たちも互いに相手を優れた者と受け入れあうべきであるといえるのではないだろうか。
11節に「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」ある。信仰的な姿勢といえよう。燃え尽きてしまってはいけない。神の霊を受け、絶えず燃え続けることが大切である。12節に「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」とある。この「希望」については、終末論的な意味を考えるべきだと思う。パウロは、「神の国の到来は近い」と教えていた。神の国は、世の終わり、終末である。その時、イエスを信じる者は迫害に会うと理解していたのである。キリスト教の初期、原始キリスト教は、ユダヤ教から迫害を受けていた。パウロは、ユダヤ教の律法を堅く守るファリサイ派に属していた。そこでパウロは、イエスが律法をないがしろにしたと理解し、キリスト者を迫害した。しかし、復活のイエスに会い、パウロはイエスこそ唯一の神がこの世に遣わした神の独り子だと気づいたのである。迫害する立場から迫害される立場になったのである。
イエスを救い主と信じる者は、神の国に招かれる。だから、苦難の中でも神を信じ、希望をもって歩むことができる。そこで大切なことは祈りである。祈りは神との対話である。イエスは、神をアッバ、すなわちお父ちゃんと呼び、私たちにも「アッバ父よ」と呼びかけることを赦してくださった。私たちは、親しい関係で神に語り掛けることが、祈ることができるようになった。すなわち、私たちは神の子とされたのである。そこで祈りを通して、私たちは神から力を与えられる。大切なのは、神の子とされたから神に親しく祈ることができるということである。
さて、人間の愛は偽善、利己的かもしれない。一方、神こそが真の愛なる方である。愛とは自分の欲求を満たすことではない。愛は見返りを求めない。無条件に相手を受け入れることだと思う。そこで13と14節には「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」とあり、そして「聖なるものたち」はキリスト者のことだといえるであろう。貧しい者を助け、旅人をもてなすよう努めなさい。それだけではなく、「迫害する者のために祝福を祈りなさい」というのである。それはイエスが述べている。マタイによる福音書5章44節に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とある。そこには究極的な愛が示されていると思う。イエスは十字架上で述べた。ルカによる福音書23章34節に「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」とある。苦難を受けながらも敵を赦す、イエスの姿がそこにある。そこから、祈りについて分かることがある。それは、自分の事だけではなく、隣人の救いを神に願うことができるということである。祈りは愛の業であるとも、私は思う。
そして、15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とある。イエスが行った業、隣人と共に歩んだことを思い起こす。イエスこそ、弱い立場、困っている人のもとに行った。そして十字架の出来事こそ、私たちの重荷を今も共に負ってくださっている救いの業である。つまり、泣く者と共にある出来事であるといってよいであろう。今もなお、イエスは私たちと共にいてくださっているのである。
人間の愛は神の愛とは異なるかもしれない。しかし、イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えてくださった。つまり、私たちを信頼し、私たちに希望を託しているのである。イエスは、私たちに何かができるからではなく、何も根拠もなく信頼して下さっているのである。もし根拠があるなら、神、イエスが私たちを愛してくださっていること、そして、私たちを子どもとして迎えてくだり、神が私たちに愛という賜物を与えてくださっていることである。私たちは、一人一人神から愛という賜物が無条件に与えられたのである。人間の愛は利己的なものかもしれない。しかし、私たちは他者の喜びを自分の喜びとすることができる。そして、他者のために祈ることができる。だからこそ、パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と示したのではなかろうか。利己的な愛が真の愛に近づくのである。互いに優れたものとして受け入れ合う。そして、他者と喜び、悲しみを分かち合うことができる愛を、神が私たち一人一人に与えてくださった。愛し合うことができると、イエスは私たちを信頼してくださっているのである。
本日はこの礼拝の後に、一年の歩みを反省し、そして、新しい一年の歩みを決める教会総会が行われる。今年度の主題聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」である。教会に集う者こそ、神に愛され、赦され、信頼されていることに気づいた者である。神、イエスを中心とする交わりこそ、「共に喜び、共に泣く」ことを可能とする。なぜなら、イエスが共におられるからである。そして、神、イエスが共におられる集まりこそ、礼拝である。礼拝を通してこそ、神から愛という賜物が豊かに与えられる。私たちはイエスに倣い、共に喜び、共に泣く親しい仲間として互いに導き合い、愛し合い、支え合いならがこの新しい年度歩みたいと思う。そして、この恵みを、この地で多くの人たちと分かち合いたいと思う。そこにこそイエスは私たちと共にいてくださるのである。
祈祷 愛なる神様 パウロは、神、イエスが私たちを愛してくださっているということ、一人一人の命が尊いこと、そして、互いに愛し合うよう教えてくださっています。私たちの愛は神の真の愛と異なるかもしれません。しかしイエス、神は私たちが互いに愛し合うことができることを信頼し、導いてくださっています。どうか、イエスに倣い共に喜び、共に泣き、互いに支え合う交わりとしてくださいますように。そして、この喜び、愛をつくばで分かち合うことができますお導きください。私たちは争い合うためではなく、互いに愛し合うために命が与えられました。互いの命を尊重し合い、手を結ぶ平和な世としてください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。礼拝後、筑波学園教会の定期総会が行われます。一年を悔い改め、良き一年の歩みを決めるときなりますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 16編 1~11節」
聖書朗読
16:01【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。/16:02主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」/16:03この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。/16:04「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」/16:05主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。/16:06測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。/16:07わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。/16:08わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。/16:09わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。/16:10あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/16:11命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「復活とは」
詩篇16編に心を傾けたいと思う。1節に「ミクタム。ダビデの詩」とある。「ミクタム」とは、いくつかの解釈があるが、正直言って、意味はよく分かっていない。そして、ダビデの詩とある。これも様々な理解があるが、レビ人であったユダヤ教の司祭が作者であるといえよう。この詩編は、原文に不完全な部分があったことから、解釈が学者によって異なるところがある。本日は、新共同訳の分け方とは異なる分け方で読んでみたい。
1~2節は、祈りと告白からなる導入部である。「あなたを避けどころとする」とは、神に信頼して生きることを意味している。そして、神こそ「わが幸い」と告白している。それが、この詩編の主題であるといえよう。それ以降は、様々な言い方で、その主題を語っていっている。
3~4節、この部分が不完全なために様々な解釈がある。ユダヤ教においても、異教の神々を崇拝していた指導者たちがいた。その箇所とは異なるが、旧約聖書において、ヨシア王の宗教改革と呼ばれる出来事があった。改革の一つに、神殿における異教的要素を排除したことがあげられる。本日の箇所でも、異教の神々の崇拝に走る指導者たちを批判し、自分たちは異教の祭儀を行わないと誓ったと考えられる。5~6節は、昔から神によって土地が与えられたこと、神から与えられた恵み、つまり嗣業を神に讃美している。7~9節は、神と共に生きることこそ正しい歩みであるということを述べている。10~11節は、神による救いと喜びを述べている。魂を死に渡さず、命の道を知らせてくださる神こそ、喜びの基であると神を讃えて詩が終っている。
さて、昨年度私は基本的に、日本キリスト教団の聖書日課を用いて、礼拝と祈祷会を行ってきた。教団の聖書日課には、日曜日は旧約聖書2箇所、新約聖書2箇所が掲げられている。本日もその聖書日課から聖書箇所を選んだ。復活、イースターの翌週の本日に、詩編16編が与えられているのは、どうしてなのか。それは、次のような理由だと考えられる。使徒言行録2章、また13章に、詩編16編10節が引用されている。使徒言行録2章1節以下は、ペンテコステ、聖霊降臨の話である。イエスが天に上げられた後、ペンテコステの日に、弟子たちが集まっていた。すると聖霊が注がれ、イエスの教えを述べ伝える力が与えられた。続く14節以下で、弟子のペトロが説教を語る。そこでは復活のイエスのことが語られた。イエスの復活は、旧約聖書においてダビデが預言したというのである。そこで、聖書日課が引用したのが、詩編16編10節だったのである。ダビデが預言した方こそがイエスであり、イエスが復活したことによって、その詩編の預言が成し遂げられたというのである。13章にも同様に用いられている。使徒言行録が記された時代、イエスを信じる者は詩編16編10節を復活の預言であると理解していた。宗教改革者カルヴァンの詩編の注解書でも、詩編16編10節をイエスの復活の預言であると解釈している。
では、詩編16編10節は、本当にイエスの復活を預言していたのであろうか。そこで、使徒言行録2章31節における詩編16編の引用の言葉を読んでみたい。「彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない」とある。本日の詩編16編10節に「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」とある。前半の使徒言行録の「陰府に捨てておかれず」と、詩編「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく」は、ほぼ同じ内容であると受け取れるであろう。しかし、後半使徒言行録の「その体は朽ち果てることがない」と、詩編の「あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」は、意味が異なる。使徒言行録は、ギリシア語聖書の七十人訳を用いている。詩編16編10節で「墓穴」と訳されている言葉は、言語のヘブライ語の「朽ちる」から派生した語である。そこで「朽ちる」と訳すと、死からの復活の思想を読み取ることができる。七十人訳聖書は、そのようになっている。「朽ちる」と訳し、使徒言行録のペトロは、詩編16編10節がイエスの復活を預言していると理解し、用いたのである。
では、詩編16編の本来の意味はどうなのか。実は、復活を意味していないと考えられるのである。そこでは「朽ちる」ではなく「墓」を意味しているので、復活ではないと理解できる。また、10節の「陰府」は、病苦や危害による絶望的状況の比喩的表現であり、そこでは死を意味しているのではないと考えられる。そして、続く11節の「生命の道」も、永遠の生命に至る道を意味してはいない。詩編16編は、最初の段落での祈り「私を守ってください」、そして「あなたの他にわたしの幸いはありません」の告白に応えるように、最後の段落である10節と11節で、死の危険から守り、喜びあふれる地上の生命を約束する神を讃えているのである。つまり、生かすという約束をしてくださる神を讃えているのである。最初に述べた通り、神が共にいて生かしてくださる「幸い」の告白なのである。
では、詩編16編は、復活とまったく関係ないのであろうか。そこで、私たちにとってイエスの復活とはいかなることかを考えたいと思う。イエスは十字架に掛けられ、死に、陰府にくだった。そのことにより陰府は、神に対立する闇ではなくなり、イエス、神の支配の領域になった。だから、死を恐れる必要はなくなったのである。死はイエスの支配の領域になり、人間は死ぬとイエス、神のもとに行くといえるであろう。イエスはまさしく死に勝利したのである。そして、イエスが復活したように、死んだ者は死に、闇に縛られるのではなく、神の国の到来においてイエスと共に復活するのである。言い過ぎかもしれないが、死の領域は天国となり、神の国への待合室といえるのかもしれない。
復活の意味は、それだけではないと思う。死とは、いかなる意味を持つのだろうか。旧約聖書においては、死は神との断絶、神との関係が切れることであると考えられている。イエスの十字架は、人間の罪をイエスが贖ってくださる出来事であり、神と人間との和解の出来事であるといえる。つまり、人間は神と共に生きる者とされた。イエスの十字架は一回だけの出来事、つまり、この一回で、全ての人が神と関係を回復し、これからも人間と神の関係は終わることはないのである。そのような意味で、私たちは死を克服したのである。しかも神、イエスの導きは、神の国の到来につながる。神が、その独り子イエスをこの世に遣わしたのは、この世を愛するゆえであった。人間が神と正しい関係に生きるようにしてくださるためであった。イエスの復活は、神の国が到来する時に、私たち人間も復活するという希望である。死は神の支配の領域になり、そこは闇ではなくなった。イエスは死に勝利した。それと同時に、イエスの十字架においては、神と人間との和解が示された。つまり、イエスの十字架により、神はいついかなる時も、私たちと共にいてくださるということである。イエスが復活したように、私たちも新たなる者として、神と共に今を生きることができる。神が共にいてくださるのだから、私たちは何も心配することはないともいえるであろう。復活とは、この詩編16編がまさしく述べている神による「幸い」である。私たちにとって、神が共にあり導いてくださることほど、幸いなことはない。また、もしかしたら、神が共にてくださるということこそ嗣業、神から与えられた恵みではないだろうか。私たちは何も心配せず、神にすべてを委ね、今を大切に生きることができるのである。つまり、復活の恵みこそ、今を生きる希望、力を与えられた出来事であると私は信じている。私たちは、命の道を教えてくださる神が共にいてくださるという幸いを覚え、主の御顔を仰ぎ、日々歩みたいと思う。
祈祷 独子をこの世にお遣わしになられた導き主なる神様 あなたは、旧約聖書にける契約、律法の授与、新しい契約の約束、救い主の預言を通し、独り子イエスをこの世にお遣わしになり、その業、特に十字架、復活を通して、救いを示してくださいました。それは、いつも私たちと共にいてお導きくださる。その導きは永遠であるという、幸いの約束です。本日は詩編16編を通して、そのことを知ることができました。あなたがただ私たちを愛し、共に、お導きくださることを、感謝いたします。いついかなる時も、あなたが共にいてくださることを感謝し、あなたを見上げて歩むことができますよう、お導きください。そして、この幸いを多くの人と分かち合うことができますよう私たちをお用いください。争いで被害にあうのは弱いものです。また、相手を攻撃するのは弱さを隠すためなのかもしれません。どうか互いの弱さを受け入れ合い、手を結ぶ平和な世となりますようお導きください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。次週には、筑波学園教会の定期総会が行われます。一年を悔い改め、良き一年の歩みを決めるときなりますようお導きください。先週は、御子イエス・キリストの復活を祝いました。どうかすべての人に復活の恵みが与えられますように。また、新しい歩みを始めた方々をお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 24章1~12節」
聖書朗読
24:01そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 24:02見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 24:03中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 24:04そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 24:05婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 24:06あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 24:07人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 24:08そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 24:09そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 24:10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 24:11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 24:12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「何度も何度も」
本日はイースター、復活祭である。イエスが十字架につけられて死に、三日目に復活した。皆さんは、エルサレムに行ったことがあろうか。エルサレムには聖墳墓教会というイエスの墓といわれる場所がある。また、近くの場所では、2000年前の墓が発掘された。ある教派は、そこがイエスの墓であると考えているようだ。そこには「イエスは復活したので、ここにはいない」と英語で書かれた看板が置かれている。当時の墓は岩を横に堀り、入り口には、大人一人では動かすことのできないくらいの大きな石の円盤でふたをしていた。その墓にも石のふたがあった。
本日は、ルカによる福音書の24章1節以下に心を傾けたい。十字架の死から三日目、ユダヤ教の教え、すなわち律法に規定されていた安息日が、休まなければならない時が明けたので、婦人たちは準備しておいた香料を持って、埋葬したイエスに塗るために、墓に行った。遺体に香料を塗ることは、家族が行うことであった。婦人たちはイエスの家族ではなかった。しかしここからイエスが、すべての人を家族として招き、家族として接し、愛してくださったということを知ることが出来る。
婦人たちが墓に行くと、入り口の石の円盤が動かされていた。婦人たちは墓の中に入った。するとイエスの遺体は見当たらなかった。途方に暮れていると、輝く衣を来た二人が現れた。それは、天使であったと言ってよいだろう。なぜ、天使は二人だったのか。律法であった旧約聖書の申命記19章15節に、「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」とある。その出来事を立証するために、二人の天使がいたのである。5節以下にその証言がある。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と。神は、天使を二人遣わし、イエスの復活を告げた。ガリラヤでのイエスの言葉が、9章22節に書かれている。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と。9章44節、18章32~33節も同様の内容である。つまりイエスは三度も復活を予告した。天使たちは、婦人たちが思い出すことができるように導いたのである。
さて、そこでは婦人たちが墓に行ったことが重要である。なぜならイエスを墓に埋葬したのは、ユダヤ最高法院議員のヨセフと婦人たちだったからである。婦人たちはイエスの死を確認し、墓に埋葬した。イエスは、決して死んだふりをしたのではなかった。確実に人間として死んだ。埋葬した婦人たち、つまりイエスの死についての二人以上の証言が、そこでは成立していたのである。次に、埋葬した婦人たちは、イエスの遺体がないことを見て確認した。そして、二人の天使がイエスの復活を伝えた。二人の天使に伝えられた言葉を、二人以上の婦人が聞いた。墓は空で、天使たちがイエスの復活を述べた。婦人たちは天使に会い、イエスの復活を聞いた。イエスの死と復活が、婦人たちによって立証されたのである。
墓から帰った婦人たちは、そのことを他の婦人や11人のイエスの弟子に知らせた。しかし11人の弟子たちは「たわ言のように思ったので、婦人たちを信じなかった」のである。それまで弟子たちは、イエスを信じ共に歩んできた仲間であった。弟子たちは、イエスが招いた家族同様の存在であったのに、婦人たちの話を信じなかった。12節に、ペトロは立ち上がって走っていったとある。ペトロだけは確認しようとした。一方、次のような理解がある。12節は、本来ルカによる福音書にはなかったが、後で書き加えられたというのである。実際、以前の口語訳聖書には12節を、後から書き加えられたと考えて括弧に入れている。私が持っている英語の聖書では、12節は削除されている。様々な意見がある。本日は、付加されたと受け取る。12節が後から書き加えられたと考えると、ペトロを含め弟子たちは、墓で天使に会ったという婦人たちの証言だけでなく、イエスが復活したことをも信じなかった、理解できなかったのである。ルカによる福音書は、弟子たちを権威的に記しているが、この箇所では弟子たちがイエスの復活を理解できないでいたことを記しているのである。
そこで、イエスが12歳の時の出来事を思い起こす。それは2章41節以下に記されている。イエスの両親、ヨセフとマリアは過越し祭に、毎年神殿のあるエルサレムに旅をした。祭りが終わり両親は帰路についた。しかし、イエスはエルサレムに残っていた。そのことに気づかず両親たちが、すでに一日分歩いてしまったときに、二人はイエスがいないことに気付いた。両親は探し回り、エルサレムに引き返すと、少年イエスは神殿の境内で学者たちと討論をしていたとうのである。母マリアは「心配をかけて」と、イエスを叱った。すると少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と述べた。神殿は、神が臨在する場所である。イエスを身ごもった時、マリアはおなかの子が神の子であると告げ知らされ、受け入れた。それにもかかわらず、そのときマリアは、イエスが神の子であり、神殿には神がおられるから大丈夫であるということに気づいていなかった。つまり、そのときのマリアもイエスの力を理解できていなかったのである。
弟子たちも、イエスが神の子であり、復活すると三度も予告していたにもかかわらず、信じることが出来なかった。いや、まったく理解していなかった。それだけではなく、弟子たちは、墓に行った婦人たちのことも相手にしなかった。
それらのことから、私は次のように理解したい。イエスの少年時代の話、イエスの十字架、復活の出来事は、そのように弱い人間の姿が重複されているといえるのではないか。そこで人間は、神、神の子、復活をすぐに理解することが出来ない。自分たちの理解でしか物事を受け入れることが出来ない。目で見えるものしか信じることが出来ない。つまり、人間とは弱い存在である。その結果、何度も神を疑い、裏切ってしまう。しかし、理解できなくても何度も繰り返し、分かるように神は、イエスは導いてくださる。つまり、人間の立場に立ち、人間の弱さを受け入れ、導いてくださる神の愛、イエスの愛がそこに示されていると思うのである。実際、その後、復活のイエスは弟子たちに現われたのである。
私は信仰とは、らせん階段のようなものであると思っている。上がっているようで上がらない。同じこと繰り返す。それでも、少しずつでも前に進めばいいのではないか。それが人間、また信仰なのではなかろうか。神、イエスは、弱い人間をよくご存じで何度も過ちを繰り返す人間を愛し導いてくださる。イエスが三度も復活を予告したにもかかわらず、信じることのできなかった弟子たちのことさえも、イエスは受け入れ、導き、用いてくださった。
イエスの復活は、人間の弱さを受け入れてくださり、人間の立場に立ち、導いてくださる神の、イエスの愛がある。そして空の墓にこそ、イエスの復活の希望がある。空の墓は、復活の希望の象徴なのである。私たちは復活のイエスに出会うことはできない。しかし、信じることができる時を、必ずイエスは与えてくださる。イエスの復活は、弱い私たちを受け入れてくださるイエスの、愛の象徴的な出来事なのである。そこに私たちの希望がある。弱い私たちを信じることができるように、何度も何度も導いてくださるのが復活のイエスなのである。私たちはイエスのその導きにより、新たなものとされるのである。それこそが復活の恵みなのではないだろうか。
祈祷 愛なる神様 本日は、イースター、独子イエス・キリストの復活を祝う時を持っています。婦人たちが香油を塗りに行くとイエスの遺体はありませんでした。イエスは三度も復活を予言されています。一方、報告を聞いた弟子たちは信じません。人間の弱さを思います。この弱い人間を受け入れてくださる愛が、復活にあると思います。信じることができない人間を何度も何度もイエスは受け入れ、お導きくださいます。このことを信じたいと思います。この導きこそ、復活であると思います。どうか弱い私たちを受け入れてください。また、私たちも互いの弱さを受け入れ合うことができますようお導きください。互いを受け入れある平和な世となりますように。そして、イエスの復活と共に私たちの歩みをあたらなるものとしてくださいますように。特に新しい歩みをはじめられた方を支え、祝してください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り、主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヘブライ人への手紙 10章 1~10節」 10:01いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。 10:02もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。 10:03ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。 10:04雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。 10:05それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。 10:06あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。 10:07そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」 10:08ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 10:09次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 10:10この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「御心を行うために」
本日は、棕櫚の主日である。エルサレムには神殿があり、ユダヤ教の中心地だった。そこはつまり、イエスに敵対するユダヤ教の権力者がいる場所だった。一方、民衆はナツメヤシ、棕櫚の枝をふり、イエスをエルサレムに迎えた。その歓迎とは反対に、イエスがエルサレムに入ったのは、十字架に掛けられるためであった。
この世における罪の赦しの祭儀は、エルサレム神殿の奥にある至聖所という場所で大祭司によって行なわれていた。そこでは人間の代わりに、雄牛や雄山羊などの血を犠牲として神に捧げた。一方、旧約聖書に記されていた教え、すなわち律法は不完全であった。罪の赦しの祭儀を、真の大祭司イエスが、天にある真の神殿において行い、完全なものとしてくださった。そのことがヘブライ人への手紙に記されている。それはいかなることなのか。
本日は、ヘブライ人への手紙の10章1節以下に心を傾けたい。ユダヤ教の教え、律法に記されている祭儀は、影のようなものにしか過ぎず、実体はないという。そのように言えるであろう。この世で行われる祭儀は、天にある真の神殿の真の祭儀の写しであると、真似にしか過ぎないというのは、もしこの世の祭儀が完全なものであるなら、実際に罪そのものがなくなっている。そうだとするならば、当然、罪の意識もなくなる。つまり、罪の赦しを願う祭儀を行う必要はなくなるはずだ。しかし、実際には年毎、年に一度罪の赦しを願う祭儀を行っているではないか。家畜などの血では、罪を取り除くことなどできないと言うのである。血は生命の象徴である。私たちが負うべき罪の罰の代わりに、雄牛や雄山羊の命を代わりとする。それは律法に規定されている。つまり、神が定めたことだから、正しい祭儀である。雄牛や雄山羊の血を用いるのは、人間が働き所有したもの、つまり財産の一部を神に捧げること。だから、その意味では人間自身が痛みを伴うことになると思う。だから、家畜の血を用いるというのは正しいかもしれない。しかし、次のように考えることができるのではないだろうか。他の生き物の命を自分の代わりにするというのは、人間の都合の良い考えではないかと。
5節以下には「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」とある。
5節以下の『(括弧)』は、旧約聖書詩篇40編7~9節の言葉である。ヘブライ人への手紙10章8節以下に、その言葉の意味が解釈されている。神は、もともといけにえを望んではいなのだと言うのである。そこで「私たちのために、体を備えてくださいました」なのである。イエス・キリストがこの世にやって来たのは、その体を犠牲として神に捧げるためであった。それは、神の意志を神の独子イエス・キリストが行うために、この世に来られたのである。そのことが詩編40編で、既に預言されていた。イエス自身がそのように述べたではないかと言うのである。
そこでヘブライ人への手紙の著者は、次のように考えた。イエスは、完全な赦しの祭儀を行なうためこの世に来られた。その出来事こそが十字架の出来事である。そこで複雑なのは、十字架の出来事は、この世の出来事である一方、真の祭儀は天で行われる。十字架の出来事は、神の意志である。人間は、自分の力で神に対する罪を無くすことはできない。そこで、人間の罪を赦すために、イエスの血という犠牲が必要だった。一方、ヘブライ人への手紙の著者は、天にある真の神殿で真の罪の赦しの祭儀が行われたと言うのである。それは、イエスが天に上げられてから真の大祭司として、人間と神とを取り次いだのであると理解できるであろう。
神は、そもそもいけにえを望んでいなかったというのである。マタイによる福音書は、神殿祭儀を重視するユダヤ教の在り方を批判して、この世に現実に生きる人間の倫理に重きを置こうとしていた。山上の説教を思い出していただければわかるであろう。右の頬を打たれたら左の頬を出しなさいとあった。祭儀を重視することに対する批判は、預言者の一部や詩編の一部にも見られる。ヘブライ人への手紙の著者は、マタイによる福音書とは直接関係ないとはいえ、神はそもそもいけにえを望んでいないという基本の姿勢は共通していると考えられる。やはり家畜の血を私たちの代わりに犠牲とするというのは、人間の都合の良い考え方なのかもしれない。一方で神は、独り子イエスを犠牲にした。それは神自身、痛みを伴う出来事だったはずである。
ヘブライ人への手紙の著者には、イエスの十字架について、犠牲という理解があったのであろう。一方で、私はあまり「犠牲」という言葉は用いたくはない。用いるとするなら、イエスのみである。犠牲という言葉は、戦争などでも、人間の都合よい使い方ができるからである。そこで、犠牲について考えたい。昨年、マタイによる福音書を中心にした主の祈りに関する本が出版された。
犠牲、英語では「サクリファイス」である。この言葉は、「神聖化する」という意味のラテン語「サクルム・ファケレ」に由来する。神に対する贈り物や食事を神聖化するということである。私たち人間は、お互いの関係を維持・回復するために贈り物や食事を利用する。そして、人間は神に対しても、まったく同じことをするというのである。それが犠牲である。つまり、犠牲は私たちの罪の代わりという理解ではなく、贈り物であるというのである。とても面白い理解だと思った。すなわち、十字架のイエスの犠牲は神からの贈り物なのである。
イエスの十字架とは、いかなることだったのか。イエスが民衆から王になると期待されたことに対する権力者の嫉妬、または自分たちの地位を脅かす存在として、イエスを敵視した権力者の暴力的行為。それが十字架といえるのではなかったか。十字架は、人間の罪、欲を映し出している一方、イエスは人間の欲からなる暴力行為としての十字架に対して無抵抗、非暴力だった。それこそが神の本質であると言えるのかもしれない。イエスの死こそ、私たち人間が真に生きるための出来事だったのである。イエスこそ隣人のために生きた。人を生かすことがイエス自身の死の意味だったのではなだろうか。イエスの十字架は、生と死を尊いものとしたのである。
そのように理解すると、イエスの犠牲はまさしく「贈り物」だったのではないかと思ったのである。イエスの十字架は、生きるとはいかなることかを私たちに示してくださった出来事ではないだろうか。命とは尊いものだからこそ、大切にしなければならない。イエスは、一人一人の命を尊いものと理解した。一人一人の命は何にも変えることのできない大切なものであり、一人一人が唯一無二の存在であることを、十字架を通して教えて下さった。そして、イエス自身が犠牲となって、十字架につけられた。そのことによって、私たちは神と正しい関係を持つことができたのである。十字架は、イエス・キリストの死を神聖化するだけではなく、イエス自身をも神聖化する。それと共に、聖なる贈り物を私たちが与えられた。それは罪深い私たちが生かされるということである。少し危険な言い方だが、私たちを聖としてくださったと言えよう。それは神と同じ存在という意味ではなく、神、イエスと共に生きる存在としてくださったということである。神と正しい関係になった。それこそが、イエスからの贈り物である。そして、それに応えるために、私たちはイエスに倣い、義しく生きようと欲するのではないだろうか。つまり、いかに生きるかという問いかけが、イエスの十字架にあると思うのである。
神はいけにえを欲するのではなく、私たち人間が神と正しい関係にあることを欲せられた。それこそが神の御心なのではないだろうか。そのため、イエスは十字架につけられたのである。私たちは、この最も喜ばしい贈り物を受け取り、イエス、神に応答したいと思う。
祈祷 独子をこの世に遣わされたほどこの世を愛された神様 御子イエスは本日、エルサレムに入られました。それは苦難を負う出来事です。そして十字架に向かわれます。しかし、それは隣人を愛すること、つまり私たち人間が人間として歩むための贈り物でした。私たちが神、イエスの愛を確信し、イエスに倣い、隣人を愛し、互いの命を尊重し合うことができますように。それこそが、十字架の愛に対する私たちの応答であると思います。次の金曜日はイエスの受難日です。十字架に掛けられるイエスの愛を確信できますように。互い愛し合うため命は与えられました。互いの命を尊重し合うことができますように。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。4月になりました。それぞれ新しい歩みを始めていると思います。どうかそれぞれの新しい歩みを祝し、お導きくださいますように。また、教会の新しい一年の歩みを祝してくださいますように。今月、誕生日を迎えられる方を祝してください。次週は、イースター、イエスの復活を祝います。多くの方と御子の復活を祝うことができますように。集うとしている方々の健康をお支えください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、本日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン