主日礼拝メッセージ

2024/07/21 聖霊降臨節第10主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 32章 15~20節」  聖書朗読
32:15ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。/32:16そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。/32:17正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。/32:18わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。/32:19しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。/32:20すべての水のほとりに種を蒔き/牛やろばを自由に放つあなたたちは/なんと幸いなことか。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の霊」  説教音声
 (要旨掲載 準備中)


2024/07/14 聖霊降臨節第9主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「詩編 54編 1~9節」  聖書朗読
54:01【指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。/54:02ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。】/54:03神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください。/54:04神よ、わたしの祈りを聞き/この口にのぼる願いに耳を傾けてください。/54:05異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ/54:06見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。/54:07わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。/54:08主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します。/54:09主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「魂を支える方」  詩編54編は、第二ダビデの詩集である。2節に「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」とある。これはサムエル記上の23章14節以下の物語を踏まえている。ダビデは神の導きにより、戦いに勝ち進んだ。人々は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」とダビデを称賛した。一方、王サウルはダビデに嫉妬し、怒り、ダビデを殺そうとした。サムエル記上の23章14節以下は、神がサウルからダビデを守るという出来事である。詩編54編5節の「命をねらっている」という言葉が、サムエル記上23章の表現に似ていたので結び付けたと考えられる。サウルから逃げているダビデが救いを願う祈りと理解したのであろう。しかし、詩編54編は、ダビデの救いの祈りの詩ではない。1~3節は、後から付け加えられたのである。
 それでは詩編54編は、いかなる詩なのであろうか。この詩編は救いを求める個人の祈り、と言ってよいであろう。3節の「裁いて下さい」は、神の助けを期待して神の判決に身を委ねている。つまり3~4節は、救いを求め、祈りを聞いて欲しいと懇願している。というのは5節で敵の攻撃にさらされているからである。6節は、神に対する信頼を表している。7節では、敵の滅びを願う。8~9節は、救いの感謝を表すためささげものをし、讃美することを、神への約束として表現している。
 さて、児童文学の「ゲド戦記」をご存じであろうか。本日の詩編を読み、『ゲド戦記Ⅰ「影との闘い」』を思い出した。私が読んだのは30年以上前なので、ほとんど忘れてしまっていた。しかし、最後の場面を思い出した。主人公ゲドは、ダニーという少年だったが、魔法使いの弟子になり、ゲドという真の名前を付けられた。先生の留守の時、ゲドが魔術書を読むと、暗黒の影の塊が現れた。ゲドはその影と闘うことになるという話である。最後、ゲドは影と名前を言い合う。それは同じ「ゲド」であり、勝ち負けはなく、ゲドと影はひとつになる。これは古代からある「名」に対する考えを用いている。古代から、相手の真の名を知られた者は自由を奪われ、思いのままにされてしまうと考えられていた。名前にその人自身、またその人の力があるという理解でよいと思う。そこで、勝つためゲドは影の名前を言った。このような古代の名に対する理解を児童文学で用いている。ちなみに、この『ゲド戦記Ⅰ「影との闘い」』は、ゲドの人間としての成長を物語っている。人間は良い面だけではなく、自分の悪い面をも自分のものとして受け入れることが大切である。光と影は、一つであるということであろう。そのことを受け入れた時、人は成長できるということだと思う。実は、聖書にこそ「名」に対する力が記されている。
 聖書でも、名前はその所有者の本質的な特性をあらわしていると考えられている。そのことを前提にして、詩編54編を見る。3節に「神よ、御名によって私を救い力強い御業によって、私を裁いて下さい」とある。そして、8節には「主よ私は自ら進んでいけにえをささげ恵み深いあなたの御名に感謝しています」とある。3節では「御名によって」と「力強い御業によって」とが対に用いられている。ここで、名は地上における神の働きを意味し、働きに示される神の意志と力を一つにしている。対になっているのだから「御名によって」とは「力強い御業によって」ということであり、だから「私を救い」出してくださいと願うことできる。「神の名」に働き、力がある。それならば、私たちは神の名を用いてなんでも願い、適えることができるのであろうか。つまり、「神の名」を呪術的な力として用いていいのかということである。
 旧約聖書には、神の名を出すのは畏ろしいことであるという理解がある。ヘブライ語では唯一の神を「ヤハウェ」という。アルファベットの4つの子音でYHWHと記される。ユダヤ教では、この四文字を神聖なものと理解し、発音してはならないものと考えられていた。そのため、聖書朗読の際、神聖四字は、「主」を意味する「アドナイ」という、代わりの呼び名を用いて置き換えられた。それほど神の名は偉大なのである。
 また、預言者エレミヤは次のように述べている。「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない(エレミヤ書7章4節)」と。どう理解すべきであろうか。「主の神殿」、「ヤハウェの家、神殿」とも訳すことができる。エレミヤの時代、神殿に対して迷信的、呪術的に願っていた。そこでエレミヤは、自分の都合よく、むなしい言葉で神に願い、祈ってはいけないと警告したのである。神の名を唱えるときも同様である。祈り、神の名によって願う時、神との正しい信頼関係が必要なのである。なぜなら神の名は、神の働き、力そのものだからである。
 次のように言えるであろう。「神の名を知っている者は、神、神の偉大さを知っている」と。一方、私たちから神を知ることはできない。正しく言えば、神が自らを人間に開き、示して下さったことによって、私たちは神を知ることができるのである。では、神はどのように神の名を私たちに示して下さったのか。イザヤ書42章8節にある「わたしは主、これがわたしの名」は、「わたしはヤハウェ、これがわたしの名前」と訳すことができる。神自ら示して下さらなければ、私たちは神の名、いや、神の偉大さも知ることはできないのである。
 本日の箇所、詩編54編は、始めと終わりに神の「御名」という言葉が記されている。つまり、詩編54編には、神の「御名」への関心がある。54編は「あなたの御名によって私をお救い下さい(3節)」という祈りではじまり、締めくくりとなる讃美の約束は「あなたの御名に感謝します(8節)」である。また、9節には「主は苦難から常に救い出してくださいます」とある。この言葉は「主」ではなく「それ」が元の言葉であり、「それ」とは「御名」つまり、「神の名」であるという理解がよいであろう。まさしく最後の9節で、「神の御名」は苦難から常に救い出してくださるというのである。「神の御名」とは、神自身、神の力を指す。特に「主、ヤハウェ」という名は、民を救うために「共にいる」ことを指すのである。このように理解すると「神の名」によって祈ることは、畏れ多いことである。一方、大いなる恵みであるとも言えるであろう。神は「神の名」によって祈ることを私たちに許して下さっているのである。詩編54編は、「神の名」を唱えることにこそ救いがあり、希望があるということを教えてくれていると言ってよいのではなかろうか。
 それは神の民であるユダヤ、イスラエルの民だけなのであろうか。そうではない。新約聖書のヨハネによる福音書に「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである(15章16節)」とある。イエスは、イエスの名を通して神に求めることを許して下さっているのである。イエスこそ神と同じ権能、力を持っておられる。イエスがイエスの名に通して神に祈ることを許して下さった。次のように言えるであろう。「人間としての苦難、喜びを知っているイエスが、私たちのために常に神に執り成してくださる」と。イエスはこの聖句で表明しているのである。そこには希望がある。イエスが私たちと神とを執り成して下さる。そのことによって、私たちの祈りは神に聞き入れられるのである。新約聖書は、イエスの名を通して私たちが神に祈ることができることを教えてくれている。いや、イエスは神に祈りなさいと、私たちを招いているのである。
 詩編54編は、神の力であり、共にいてお導きくださる神の働きである御名によって祈ることができることを、私たちに教えていると言ってよいであろう。神の御名を用いて祈ることができることこそ恵みである。「神の名、イエスの名」を用いることを、神は私たちに許して下さった。私たちは神に信頼されていると言えるであろう。私たちは神、イエスの信頼に答えるべきではないか。祈りとは交わりでもある。神は神自身の力、働きである神の御名を私たちに教えて下さり、神との交わりに招いて下さっている。それこそが、私たちの魂を支えて下さる力である。私たちは、神の御名、イエスの御名によって祈りたいと思う。それは神の偉大な力、愛をいつも覚えるということなのである。

祈祷  独子イエスをこの世にお遣わしになり救いを示された愛なる神様 名前は、その方自身、また、その方の力を示します。特に、神の御名は、働き、共いてくださることが意味されています。私たちは神の御名を用いて祈ることが許されています。神は私たちに祈るように、つまり、神との交わりに招いてくださっている。詩編54編から、このことを知ることができます。また、イエスはご自分の名を通して神に執り成して下さると表明してくださいました。祈りは必ず神に届けられるという希望がここにあります。祈ることによって一人でなく、いつも神が共にいて下さり、支えられ、そして、前に歩む力が与えられます。どうか私たちが神の恵みを覚え、いついかなる時も神に顔を向け祈ることができますようにお導きください。暑い日々が続いてたと思っていたら、急に大雨となる。気候の変化が大きな時となっています。体調を維持するのが難しい時となっています。様々なウイルス等の病気が流行っているそうです。どうか、全ての人、特に歳を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にあり治療を受けられている友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しい命を宿られている方々、母子共に守り、良き出産のときをお与えください。大雨で土砂崩れなど、自然災害で被災された方々を支え、復興へとお導きください。争いは悲しみ、憎しみという負の連鎖しか生み出しません。互いに受け容れ合い、愛し合うことによってよき連鎖が起こります。神は、人と人とが争うことを求め、天地を創造されたのではありません。どうか、この世に平安を来たらせてください。三連休の中日となっています。よきリフレッシュの時となりますように。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン


2024/07/07 聖霊降臨節第8主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 5章 19~30節」  聖書朗読
05:19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 05:20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。 05:21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。 05:22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 05:23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 05:24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 05:25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。 05:26父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。 05:27また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。 05:28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 05:29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 05:30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「永遠の命」  新約聖書ヨハネによる福音書5章19節以下に共に心を傾けたいと思う。19節に「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」とある。父である神の働きを子であるイエスは行うことできる。20節に「父は子を愛して、ご自分のなさることすべて子に示されるからである」とある。神は、イエスを愛し、自分の業を示した。すなわち神は、神の業をイエスが行うことできるようにしたといえるであろう。しかも神は「大きな業」をイエスに示したというのである。21節に、神もイエスも死者を復活させることができるということが書かれている。なぜなら26節に「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」とある。ヨハネによる福音書の1章1~3節には「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。…万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とある。言こそイエスである。イエスは神と共に天地を創造されたことが意味されている。つまり、神とイエスは同じ権能、同じ力を持っているのである。
 22節に「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」とある。「裁き」という言葉から、私たちは終末の裁きを思いうかべるであろう。世の終わり、イエスが復活し、救われる者と救われない者とを裁く。神の国に入る者は救われる。この箇所でイエスは終末の裁きを述べているのであろうか。
 本日の聖書箇所は、終末をとなえるユダヤ教の理解とキリスト教の理解とが異なると考える学者がいる。22節に「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」とある。25節には「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」とある。22節に、神は裁きを行わず、神の独子イエスが裁くとあり、25節ではその裁きとは今であるというのである。終末ではなく今、裁きを行うというのである。いろいろな理解があるが、ヨハネによる福音書では、終末の裁きという考えが薄いという理解がある。22節、25節のイエスの言葉から考えると、世の終わりは、終末の裁きはないとも読める。28節、29節と矛盾しているといえるが、28節、29節は後から付け加えられたと理解できる。先ほど述べたように、22節の、「神は裁きを行わない」、「独り子イエスに任せる」、「そのイエスの裁きは今」は、何を示しているのであろうか。イエスとの出会いが裁きとなっている。それはイエスを信じるか否かということである。私たちは、イエスと出会いどのような姿勢をとるべきなのかということである。ギリシャ語における裁きとは、否定的なことだけではなく、元来、正しく判断するという意味を持つ言葉であった。そのことから考えると、イエスの裁きとは、罰することだけではなく、正しく判断すること、判断に伴い救いへと導いてくださることであるとも言えるであろう。
 では、イエスの救いとは何であろうか。24節に「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」とある。私たちは永遠の命を得ることができるとイエスはいうのである。ここで永遠について考えたい。「永遠」、簡単に言うと、終わりがないことといえるであろう。では、神が永遠であるとはいかなることなのか。古代教父アウグスティヌスは著書『告白』のなかで次のように記している。「あなたの年は恒常不変であるから、全てが同時に存在している」と。また、「神のよわいは今日という日である」と。時間、年という単位は、人間が考え出したものにしかすぎない。神は、時間、歴史の流れに拘束されていない。それを超越している。アウグスティヌスが記しているように、神はこの世の時間の上に存在しているので、どのような時代にも同時に存在している。大学生の頃、神について先生の説明に納得したことがある。時間の始まりと終り、この世の歴史が一本線であるとする。始まりの時があって、終りの時がある。では、この中で神は何処に位置するのか。神は、人間の歴史を囲んでいると考えられるという。だから、どの時代にも神は介入できる。どの時代にもいる。それが神の永遠であるという理解である。神は、時の流れの上に存在している。
 そこで、神の独子イエスも永遠なのか。イエスは神と共にこの世を創ったのだから、神と同じ権能、力を持っておられる。つまり、イエスも永遠であると言えるであろう。では、イエスは自分のことを何と述べているのか。27節に「裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」とある。イエスはご自身のことを「人の子」と呼んでいた。では、「人の子」とはいかなる意味なのか。私は、ヨハネの「人の子」について述べるのを避けてきた。というのはまだ、私の中でしっかり理解できていないからである。「人の子」は旧約聖書のダニエル書に出てくる。黙示文学において「人の子」は、人間を超越した領域を働き場とし、悪しき者を裁く宇宙的な裁き主として描かれている。ヨハネによる福音書でも、そのような面がある。しかし、それにとどまらないといえる。「人の子」について、「全時的人の子」と述べている学者がいる。この言葉自体、私は理解できていない。次のように記されていた。「むしろあの全時的人格としてのイエス・キリストの「今」、それゆえに過去,現在,未来のあらゆる時を内包した「全時的今」なのです」と。「全時的」とは、文字通り過去、現在、未来すべての時のことを示していると思う。すなわち、イエスの内にすべての時間、過去、現在、未来がある。先ほど、大学生の時の説明と似ているのではないかと思う。つまり、イエスは時間、この世すべてを包んでいるということである。イエス自身が永遠である。永遠であるイエスが、2000年前に人の姿をとって介入なさった。なんだか難しい話である。この世を創造した神は、この創造のすべてを包んでおられるといってもよいであろう。  一方、「「人の子」という単語そのものに特別な意味があるというのではなく、単に「一人の人である私」というだけの意味であって、「ただ、ヨハネによる福音書のイエスは、自分自身のことを述べる時に「人の子」を主語とする言い方を好むということなのである」と記している学者もいる。一方、私は、「人の子」について、イエスとはイエスという唯一の存在であると理解したいのである。つまり、「人の子」とは、福音書に記されている通り人間であり、超越者であり、私たち人間には想像もできない力、愛によって救ってくださる方である。だからこそ歴史を包んでいる方が、この歴史に介入して下さる。これが今、私が理解する「人の子」である。
 そこで、25節を見ると「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」とある。「死」とは神、イエスから離れることを意味していると理解したい。逆に、「死」ではなく「命」とは何か。「命」とは神、イエスと正しい関係にあることを意味していると理解する。神、イエスと正しい関係にあることによって、私たちは今、永遠である神、イエスと交わりを持つことができる。つまり、私たちは今、永遠に属しているのである。それは、何か。私たちは、今すでにイエスと、神と正しい関係を持つことによって生かされているということ、愛されているということである。
 一方、イエスは2000年前に歴史に介入したのであり、現代の私たちはイエスの愛、導きを直接受けているわけではないと思うかもしれない。しかし、そうではない。ヨハネによる福音書は、紀元90年代に記されたと考えられている。イエスが活動したのは、紀元30年ごろである。その差60年。しかし、この著者、または、この福音書を読んでいた人々は、イエスの出来事が決して60年前の出来事ではなく、いま自分たちにも現れていると理解していたのである。イエスの出来事と自分たちを重ねていた。つまり、イエスは、永遠なる神と等しい方として、いつ、どのような時代、時間にも救いの御業を示されるということである。永遠なる方イエスは、今から2000年前に誕生し、十字架に掛けられただけではなく、今もなお、私たちに対して働きかけてくださっている、共に歩んでくださっているのである。先ほどのアウグスティヌスの神の説明は、時間を超越し、どの時代にも共にいてくださるというものであった。つまり、今ここに神、イエスは私たちに救いの御手を差し伸べてくださっているということなのである。その働きを聖霊という。永遠とは、超越、歴史を包んでいると私は理解している。そこで、いついかなる時も神、イエスは聖霊という働きでこの世に介入してくださるのである。今もなお、私たちは永遠である神、イエスによって見守られているということである。
 神と等しい方、永遠なるイエスは2000年前に目に見える姿で現れ、永遠に属すよう私たちを招いてくださっている。今も聖霊によってその業が行われている。今もイエスは私たちに働きかけてくださっているのである。
 永遠が、今日この時に現れている。つまり、私たちは今日というこの時に、イエスによって永遠の命という救いに招かれている。イエスの裁きとは、罰することではなく救いへと至らせる判断である。神、イエスは歴史を超越し、いつでも、どこにいて私たちに聖霊を通して導き、また、時に共に泣き、共に喜び、共に歩んでくださっているのである。それは神、イエスが永遠だからである。私たちはこのそとを信じたいと思う。それこそが希望となるのである。

祈祷  この世の創り主なる神様 御子は、神の愛をこの世に示すために2000年前に遣わされました。イエスは神の独子であり、神と同じ権能を持っておられます。その方が人間の姿をとってこられました。ここに愛があります。それは私たちと共に喜び、泣き、共に歩み、そして、救いへとお導きくださるためです。一方、イエスは神と同じ権能を持っておられる。それは永遠であるということです。神、イエスは時間、この世を超越され、歴史を内に持っておられます。そこで、今、聖霊を通して私たちに働きかけ、救いへとお導きくださっています。その働きこそ神の独子イエスによってしかなすことはできません。きっとそのことをイエスは「人の子」と表現していると私は理解します。「人の子」イエスにこそ救いがあります。どうかイエスが示し、導いてくださっている救いを信じ、希望をもって日々歩ませてください。そして、その喜びを多くの人と分かち合うことができますように。梅雨は明けていませんが、暑さ厳しい日が続いています。また、大雨も降りっています。自然災害で被災された方々をお守りください。特に、能登半島地震から半年が過ぎていますが、復興が進んでいません。どうか私たちも能登の方々を覚えたいと思います。そして、復興のために私たちをお用いください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友、手術を受けられる友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しい命を宿られている方々、母子共に守り、良き出産のときをお与えください。争いは欲でしかないと思います。どうか指導者が最も弱い民の立場に立ち、導くことができますように。和解へとお導きください。そして、子どもたちに希望ある将来を与えることができますように。今月誕生日を迎える方々の上に主の豊かな祝福がありますように。天に召された方のことを覚えます。どうか天において主の平安がありますように。地において悲しみの中にあるご家族をお慰めください。この礼拝を通して先の一週間、一か月の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン


2024/06/30 聖霊降臨節第7主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 25章 1~12節」  聖書朗読
25:01主よ、あなたはわたしの神わたしはあなたをあがめ/御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された/遠い昔からの揺るぎない真実をもって。/25:02あなたは都を石塚とし/城壁のある町を瓦礫の山とし/異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう。/25:03それゆえ、強い民もあなたを敬い/暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。/25:04まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨/25:05乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。/25:06万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。/25:07主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/25:08死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。/25:09その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。/25:10主の御手はこの山の上にとどまる。モアブは主の下に踏みにじられる/わらが踏みつけられて堆肥の山にされるように。/25:11モアブはそこで手を広げる/泳ぐ人が泳ごうとして手を広げるように。しかし、巧みな手の業を重ねても/主はその誇りを打ち倒される。/25:12主はお前の城壁の砦と塔を砕き/打ち倒して地の塵に伏させる。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「弱い者の砦」  本日の聖書箇所、旧約聖書イザヤ書25章1節以下に心を傾けたい。1~5節は、預言者的感謝の歌である。それは信頼に満ちた告白といえるであろう。そこで1節を見ると、まず、神への感謝を捧げている。そして後半「あなたは驚くべき計画を成就された」とある。この「驚くべき計画」とは何か。旧約聖書で起きた出来事から考えると、奴隷だったイスラエルの民が解放され、神の約束の地が与えられた出エジプトの出来事であろうか。また、神から契約という恵みが与えられた出来事であろうか。アブラハムと神との契約など、その契約のゆえに、神はアブラハムの子孫であるイスラエルの民を導いたのである。そして、もう一つ、終末、世の終わりに神の国が到来するという未来の出来事を指しているということがあげられる。
 正直言って、どれが正しいのか分からない。今回私は、終末、神の国の到来と受け取りたい。神の国とは、神の完全な支配といえるであろう。神は愛であるから、愛に満ちた所といって良いと思う。その驚くべき救いの計画が行われるということである。2節には、神を信じない異邦の民、その都、その行政の中心である宮廷は神によって滅ぼされ、がれきの山となり、再び建てられることはないとあることから、3節では強い民も神を敬い、どんなに荒ぶる国の人々も神を畏れるというのである。4節にある「弱い者」とは、神を信じる民のことを指していると考えられる。次のように言えるのかもしれない。神は強い民の神になるのではなく、弱いからこそ、その民の神となるのである。だから神は弱い者、苦難に会う者の砦となり、守ってくださる。また、どんなひどい豪雨であっても神は壁となり豪雨をはね返して下さる。つまり、神の守りがあるということである。5節に、神は暑さから守ってくださり、異邦の騒ぎをも静めてくださるとある。紀元前587年、南ユダ、神の民は、バビロニアよって滅ぼされた。それ以降、異国の民の支配下で、神を信じる民が苦難を受けていたことが、この箇所の背後にあるとも考えられる。神を信じる民の具体的な苦難を思い起こさせながら、苦難のなか神が共にいて下さり、そして、救いへとお導きくださるということが、ここに示されているといえるであろう。
 そして、6節~10節前半、「この山」とは、シオン、つまり神殿のあるエルサレムを意味している。エルサレムでの祝宴において、神は、最もおいしい脂身とぶどう酒をもって、全ての者をもてなすという情景がこの箇所に描かれている。ここで特に見たいことは、祝宴に招かれるのが神の民イスラエルだけではなく、全ての民であるということである。そして、シオン、エルサレムに招かれるとは、巡礼を意味すると考えられる。巡礼とは聖地、聖なる場所に行くことである。巡礼、つまり聖なる地に行き聖なる方、神を讃美すると言えるであろう。エルサレムは神殿があり、神のおられる場と考えられていた。祝宴が巡礼であるということは、神を賛美するということ、全ての民が神との交わりに入るということが意味されている。すなわち、全ての民が神に受け入れられているということである。7節にあるように、「主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼ」すというのである。ここにある「包んでいた布、あるいは、覆っていた布」とは、いかなることなのか。4節に「暑さを避ける」とある。暑さから守るため覆う布だったのか。5節から考えると、神の裁きから守るための布であったか。私は次のように受け取りたい。それは視界を遮る布であると。どのような意味かというと、真の神を見ることができないように覆われていた布であった。つまり、異邦人はこのように目がさえぎられていたので、真の神を見ることができなかった。しかし、今はすべての民が真の神を見ることができるようになる。それは本当に見るということではなく、神の前にあって神を信じることができるようになるということと私は理解する。
 そして、8節に「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる」とある。同じような聖句を聞いたことがあるだろう。まず、「恥」という言葉について考えたい。聖書で「恥」は、神の恵みからはずれた状態などが考えられる。ここでは、先ほど述べた紀元前587年、南ユダがバビロニアに滅亡されたことだと考えられる。では、負けたことが恥なのか。異邦人に支配され、また、首都バビロンに連れて行かれ、よそ者として生きなければならなかった。それだけでなく異邦の地、異邦人による支配の中で、真の神を讃美できない状況にあった。そのような神の恵みの下にいられない状態を「恥」と考えたのではないかったか。主なる神は、そのような悲しみの顔から涙をぬぐい、自分の民の恥をぬぐってくださる。つまり、神はバビロニアの支配から解放してくださる。そして、シオン、神殿のあるエルサレムに、すべての民を招き祝宴を開く。8節最初の「永久に」と訳された旧約聖書の言語ヘブライ語は、アラム語とシリア語では「勝利」を意味している。つまり、アラム語、シリア語の場合、「死は勝利に飲み込まれる」という意味になる。イエスはアラム語を話していた。「死は勝利に飲み込まれる」とは、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)15章55節の括弧「死は勝利にのみ込まれた」と同じであるといって良いであろう。つまり、コリントの信徒への手紙(一)は、イザヤ書25章8節からの引用なのである。では、コリントの信徒への手紙(一)は、どのようなことを示しているのか。神の国が到来した時、死んだ者は復活し、永遠の命に与ることができる。つまり、死ということがなくなる。死が勝利に飲み込まれるとは、神の国の完成を示しているのである。
 8節に「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい」とある。神は、覆いを取り去られた顔に、まだ涙が残っているのであれば、それをことごとく拭ってくださり、エルサレムで支配に就くための祝宴に参集した人々の心の痛みを和らげてくださるのである。そのことは何を意味しているのか。先ほど述べたように神は、神の祝宴にすべての人を招いてくださる。祝宴は巡礼を意味し、神への讃美、つまり神との交わりである。8節においても、神が涙を拭い去ってくださるのだから、神との交わりと言えるであろう。「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい」は、ヨハネの黙示録21章4節で引用されている。ヨハネの黙示録は、ローマによる迫害の中にあったとき、神の国の到来する時には神の完全な救いが訪れるからと、そのときに神を信じる者は神の国に入ることができ、永遠の命に与るといって、迫害されているキリスト者を励ました。そして、それは、8節最初「死を永久に滅ぼしてくださる」という出来事になるというのである。死を滅ぼしてくださる。つまり、神の被造物は死から免れる。その出来事こそ、神の国の到来なのである。神は愛なる方である。神の国が神の完全な支配の場であるなら、神の国は愛に満ちている。そこは神の愛に満ち、神との交わり、そして、平和な場である。神の平和に与る喜びと言えるであろう。だからこそ、9節「見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍」るとなるのだと思う。
 私は最初、この箇所は終末、神の国の到来を示しているのではないかと述べた。それは、救いの預言といえるであろう。この箇所は、私たちに多くのことを教えてくれていると思う。聖書、ユダヤ教、キリスト教のイメージには、選民思想がある。ユダヤ教は、神の民であるユダヤ人、イスラエル人のみが救われると教えている。また、キリスト教においても信じる者は救われる。その意味では、選民、選ばれた民のみが救われるという理解になる。確かに8節に「ご自分の民の恥を地上から拭い去ってくださる」とあるように、神は神の民が神の恵みを与えられないという苦難から救って下さると記されている。それはバビロン捕囚からの解放を意味していると述べた。しかし、7節には全ての民を神の祝宴に招いてくださるとも書かれている。私は次のように理解する。神は選んだ民のみを救う方ではない。神は、神の恵みを求める者を拒むことはなく、十分にお与えくださるということである。逆に、神の恵みを人々からさえぎるものを、ことごとく拭い去ってくださるのである。また、4節においては、神は弱い者の砦であると、つまり、神は、弱い者こそを救って下さるという。神は、全ての者の神であり、弱い者こそを助け、そして全ての民を愛してくださるということがここに示されているのではないだろうか。バビロニアに負け、多くの人がバビロンに連れていかれた。そのような希望のない時、神は共にいて救いへと導いてくださった。それだけではなく、真の神を知らない人々、弱い人々をも招くのである。そのことを、この世に示してくださった方、実現してくださった方こそ神の独子イエスである。イエスは、ヨハネによる福音書3章16節で次のように述べている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私は本日の箇所からイエスの救いを見出すことができると思った。神の愛の業をこの世において行ってくださった方こそ、イエスである。つまり、神は、自分の偉大な計画を成し遂げてくださるのである。それこそ、全ての人を救って下さるということである。本日の箇所こそ、すべての民を招くという神の愛が示されていると言えるのではないだろうか。私たちは、この神の愛のもとで生かされているのである。そこに神の私たちに対する支え、励ましがある。私たちは神の愛を確信し、希望と喜びをもって日々歩みたいと思う。

祈祷  愛なる神様 私たちは弱い者です。あなたは弱い私たちの砦となり、苦難のとき守りお導きくださいます。しかも、あなたはアブラハムと契約を交わし、イスラエルの神となられましたが、それは神の計画の一部であり、神は独子イエスを通し全ての者を招き、全ての者の神としてお導きくださっています。その導きは、神の御計画によります。しかも、完全なる救いである終末における神の国に、私たちをお招きくださいます。あなたに愛され、守られ、導かれていることを、私たちが確信することができますように。そして、この希望、喜びを多くの人と分かち合うことができますよう、私たちを強め、お用いください。梅雨になり大雨となっています。被災された方々を支えてください。また、今週は暑くなる予報です。寒暖の差が大きく体調の崩しやすい時となっています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友、手術を受けられる友のことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しいあゆみの準備の中にある友の上に主の導きがありますように。命は尊いものです。それを奪うことは神の意志ではありません。また、争いは自然をも破壊します。神は、人間同士が愛し合い、また、人間にこの世界を守るように責任を与えました。私たちは神の愛を思い、人に対し、この世に対し責任を持つべきです。争いは、その反対の行為だと思います。どうか、神の愛に倣い歩むことができますように。本日、午後、茨城地区祈祷会が石岡教会で行われます。茨城地区にある諸教会・伝道所の課題を共に担う良き祈りの時となりますようお導きください。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間、明日から始まる新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン


2024/06/23 聖霊降臨節第6主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「詩編 126編 1~6節」  聖書朗読
126:01【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。 126:02そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。 126:03主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。 126:04主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。 126:05涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 126:06種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「喜んで家に帰る」  6月17日~18日に行われた東日本同信伝道会の一泊研修会に参加できたことを皆さんに感謝したい。その研修会で私は、喜びをもって家に帰ってきた。まず、約10年ぶりに、先輩後輩たちに会えた。また、講演会によって勇気づけられた。そして、講演を聞き、本日の聖書の箇所とつながると思った。実は今回、参加人数が少ないから参加しないかと先輩から連絡があり、はじめてその研修会があることを知った。私のところに案内が届いていなかったのである。そのようなことから、内容をあまり知らずに参加した。たまたまであるが、本日の詩編126編と講演会で私が受け取ったことがつながった。それで私は、本日の説教ができると確信し、喜んで家に帰ってきた。神のなさることは不思議である。様々なことで、弱い私を助けてくださる。
 研修会では、カトリック宇部教会司祭の片柳弘史先生が主題公演でお話しくださった。片柳先生は、マザー・テレサのもとに行き、司祭になることを勧められ、司祭になった方である。多くの本を出されている。先生のお話しをお聞きすることができてほんとうに良かった。講演会の主題は「道は必ず開かれる~カトリック教会の現状と展望~」だった。今回の研修会の全体的な内容は、二日目の主題「教会の危機と展望」にあった。少子高齢化による教会員数の減少に加え、新型コロナウイルスによって危機がより深刻になっていったことに対して、どのように歩もうかということである。実は、そのとは、プロテスタント教会に限った危機ではなく、カトリック教会も同様であるというのである。そこで片柳先生が、その危機に対しての現状と展望をお話しくださったのである。片柳先生は、講演の中で一冊の雑誌を見せてくださった。その雑誌「週刊東洋経済」は、ちょうど一年前に出版されたものであった。「宗教消滅危機」という特集が組まれていた。キリスト教界だけでなく、仏教など日本にある宗教が危機的な状況であるというのである。その雑誌の記事で、檀家さんの減少により一人の住職がいくつものお寺を兼務するということが、しかも、お寺の維持、管理に費用が掛かり大変であるということ。また、小さいお寺は大きなお寺に飲み込まれていく現状。そして、葬儀のあり方、お墓のあり方の変化により、ビジネス的にも成り立たなくなっていること。・・・などなど、様々な点からの宗教の危機が記されていた。そのような状況において、片柳先生が現在行っていることをお話ししてくださった。この講演会で重要であると思ったのは、マザー・テレサの言葉だと私は受け取った。一つは、マザー・テレサの遺言とあり「あなたたちの中に、まだイエスと本当に出会っていない人がいるのではないかと心配です。一対一で、あなたとイエスだけでということです。わたしたちは聖堂で時を過ごしていますが、あなたたちは、イエスが愛をこめてあなたたちを見ているのを自分の魂の目でことがありますか。あなたたちは、本当に生きているキリストを知っていますか。本によってではなく、心の中でイエスと共にとどまることによって。あなたたちは、イエスが語りかける愛情のこもった言葉を聞いたことがありますか」である。もう一つ「イエスを愛する喜びを、いつも心に持っていなさい。そして、その喜びを出会う全ての人と分かち合いなさい」である。今回、私が思ったのは、危機であると不安になるのではなく、イエスとの出会いを喜ぶということ、そして、この喜びをもって一日一日を歩もうということ、イエスの恵みを述べ伝えることだと受け取った。もちろん、マザー・テレサのようには、困っている人を助けることはできないかもしれない。しかし、ただ神を信じ、イエスとの出会いを喜び歩む、イエスは私たちをありのまま受け入れてくださるという恵みを、お与えくださったからである。私は、イエスとの出会い、その恵みを喜び分かち合うということを改めて思う時を持つことができた。危機的状況においてこそ、イエスに出会えた喜びを覚えるべきである。そして、その恵みを語ることによって、きっと神がよい方向へとお導きくださると思ったのである。
 私は、楽観的なのであろうか。実際、私自身も前向きにとらえ過ぎていると思う。では、聖書にはどのように記されているのか。そこで、本日の箇所、旧約聖書詩編126編に心を傾けたいと思う。1節に「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった」とある。「捕われ人を連れ帰られる」を「運命を転ぜられたとき」と訳している聖書がある。どちらにしても、ここでは紀元前538年、バビロン捕囚からの解放を意味しているのではないかと考えられている。南ユダはバビロニアに負け、多くの人が首都バビロンに連れていかれた。それから約50年後、バビロニアは、ペルシャに負け、そのことによって、バビロンに連れていかれたイスラエルの民は解放された。古代人は「夢」を神のお告げと受け取った。神のお告げであるから、必ず実現するということを、その解放の夢を見ている人のようになったというのである。
 2節と3節は、同じ内容であると言えよう。神が苦難から救って下さる。そこでは「神が、大きな業を成し遂げられた」と、喜びの歌が国々に満ちるであろうというのである。私は解放の喜びの歌こそ、神への讃美であると理解したい。そして、4節では再び、1節のように神に助けを求める祈願、すなわち、祈りの叫びが置かれている。「捕らわれ人を連れて帰ってください」という言葉を「運命を転じてください」と訳している聖書がある。
 では、なぜ二回、同じようなことを祈願したのか。私は次のように理解したい。先ほども述べたように、南ユダはバビロニアによって負け、多くの人がバビロンに連れていかれた。それをバビロン捕囚という。しかし、約50年後、バビロニアはペルシャに負け、イスラエルの民は解放された。そして、エルサレムに帰った人々は神殿を再建した。しかし、エルサレムは荒れ果てていたので、簡単に神殿を再建できなかった。エルサレム神殿再建には25年もの年月がかかった。すなわち解放されたと思っても、また苦難があった。この一連の出来事を1節と4節が示していると私は理解したい。だから、4節は、「捕らわれ人を連れて帰ってください」というより、「運命を転じてください」という言葉の方がよいように思う。つまり、思いもしない大転換が神によって起こるということが、ここでは示されているのである。
 そして、5節に「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる」とある。「涙」は、苦難、苦しみを意味する。苦難の中でも種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。旧聖書において「種蒔き」と「刈り入れ」は、人生における因果応報を説明するための比喩になっていることが多くある。例えばヨブ記の4章8節「わたしの見てきたところでは/災いを耕し、労苦を蒔く者が/災いと労苦を収穫することになっている」である。災いを蒔く者は、苦難を受けることになると言う。ヨブは正しい人であったにもかかわらず苦難に陥った。そこで、ヨブの友であるエリファズは、ヨブを諭そうとして語った。ヨブが悪いことをしたからと、災難の原因を暗示しようとした。そして、神に赦しを請うべきだと。箴言11章18節には「慈善を蒔く人の収穫は真実」とありまた、箴言22章8節には「悪を蒔く者は災いを刈り入れる」とあることなどがあげられる。では、本日の詩編も因果応報が述べられているのであろうか。そうではない。詩編126編は、神が苦難から転換してくださるということが言われている。それは因果応報ではなく、ただ神がそのようにお導きくださるということである。6節に「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる」とある。泣きながら出て行った人は、喜びのうたを歌いながら帰ってくるのである。そこで重要なのは「泣きながら」ということである。イザヤ書25章8節「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい」とある。その言葉は、新約聖書の最後ヨハネの黙示録21章4節にも引用されている。私たちには涙をぬぐってくださる方がいるということである。つまり、苦難は苦難で終わることはない。苦難の中に共にいて救って下さる方がいるということである。イエスは述べている。ヨハネ福音書16章20節で「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。イエス自身が、涙の中で種を蒔き続けたのである。イエスは、種まきのたとえを述べておられる。
 本日の詩編126編は、古代から神を信じる者たちに、励ましと慰めを与えてつづけてきた。つまり、どんな苦難においても、必ず神による大転換が起こるという、希望がここに記されているのである。私たちは苦難において、必ず神を、神の独子イエスが共にいてくださることを信じたいと思う。神、イエスは、涙をことごとく拭い去ってくださる。どんな苦難、危機的な状況においても、神は、イエスは、大転換、救いへとお導きくださるということである。私たちは神、イエスの導きを信じ、喜びをもって日々歩みたいと思う。そして、神、イエスに出会った喜びを多くの人と分かち合いたいと思う。

祈祷  恵み深い主なる神様 私たちは危機、苦難において希望をなくしてしまいます。時には、神なんていない。どうして自分ばかりが苦難にあうのかと嘆くこともあります。また、私が悪いことをしたから苦難にあうのだとも考えてしまいます。しかし、苦難の中にこそ神、イエスは共にいてお支えくださっている。いや、それだけではなく、その状況を転換してくださいます。つまり、苦難を救いへとしてくださいます。私たちはこのことを信じ、イエスが私たちといつも共にいて涙をぬぐってくださること、苦難から転換してくださることを確信したいと思います。そして、この喜びを多くの人と分かち合いたいと思います。来週には梅雨に入ると予報されています。体調の崩しやすい時です。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちをお守りください。これから大雨の季節となります。災害も懸念されます。どうかお守りください。また、自然災害などで被災された方々をお支えください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友などのことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しいあゆみの準備の中にある友の上に主の導きがありますように。争いは人間の欲でしかないと思います。人と人とが殺し合うことを神は求められません。神を愛し、隣人を愛することこそ人間の歩みの基です。どうか互いの違いを受け入れ、全ての人が手を結ぶ世としてください。本日午後3時より下館教会牧師就任式があります。下館教会、付属こども園、両者に集う方々、就任される先生たちの上に主の祝福がありますように。この礼拝を通して先の一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の歩みの心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン


2024/06/16 聖霊降臨節第5主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 3章 1~8節」  聖書朗読
03:01ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。 03:02すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。 03:03彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。 03:04ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 03:05その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、 03:06ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 03:07そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 03:08躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「最も重要な掟」  私の家族は、私が1歳位まで、祖父・祖母の家に住んでいた。祖父はやんちゃな人で、祖母は大変苦労したようである。その祖父は、毎日赤ちゃんの私をおんぶし、私の兄と手をつなぎ、散歩に出かけた。また、赤ちゃんの私をお風呂に入れるのはいつも祖父だったそうである。父は、それを祖父が誰にも譲らなかったと言っていた。私の祖父は、今から16年前、93歳で天に召された。父から、祖父が死にそうなので会いたいならすぐに来なさいと電話があった。私は、生後5ケ月の長女を連れて群馬の病院に行った。長女にとっては、初めての遠出だった。覚悟を決めICUに入ると、祖父は「おう、秀樹」と私にいった。私は「元気じゃないか」と思った。祖父は、ひ孫である長女を見ると、抱っこしたいといった。それはできないと言い、長女を祖父のベッドに寝かせ、一緒に写真を撮った。祖父は満面の笑顔だった。翌日、祖父は一般病棟に移った。しかし、その翌日、天に召された。長女は、初ひ孫ではなかったが、まるで長女に会うために、その時まで頑張ってくれたかのようだった。私は、祖父からお小遣いをもらうことはほとんどなかったが、祖父から一番大切なものをもらったと思っている。
 さて本日の聖書箇所、使徒言行録3章1節以下は、イエスが天に上げられた後の話である。イエスの弟子たちは、神さまから力を与えられて、イエスのことを述べ伝える新しい歩みをはじめるようになった。
 イエスの弟子ペトロとヨハネが祈るために、エルサレム神殿に行った。神殿の「美しい門」に、生まれた時から足の不自由な人が運ばれてきた。足が不自由なのは、その人が悪いことをしたからでも、親が悪いことをしたからでもない。それは誰かが悪いということはない。しかし聖書の時代には、足の不自由な人には仕事がなかった。仕事ができないので、お金を持っていない。そこで、神殿に運んでもらい、神殿に来る人たちに施しを求めた。神殿に来る人は、神さまを信じている人であったから、困っている人を助けることは神様が喜ぶことで、良いことだと教えられていた。お金を稼げたことも神さまの恵みであると考え、神さまが与えてくださった恵みを困っている人に分けることはよいことだと考えていた。だから、足の不自由な人は、神殿の門に座り、来る人に施しを求めていたのである。
 さて、そこにペトロとヨハネが来やってきた。足の不自由なその人は、ペトロとヨハネを見ると、施しを求めた。ペトロは「わたしを見なさい」と言った。足の不自由な人は、何かもらえるだろうと期待したであろう。そこでペトロは「わたしには金や銀はないが」と語った。そのとき、足の不自由な人は残念に思ったかもしれない。お金を持っていないとペトロが言ったからである。当時のキリスト教では、みんなのお金などをすべて一つに集め、そのお金でみんなの食べる食事など必要なものを買っていた。つまり、個人でお金を持っていることはなかったのである。しかし、ペトロは「持っているものをあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ちあがり、歩きなさい」と言った。イエスの名とは、イエスの力といってよいであろう。そして、ペトロは足の不自由な人の手を握り、立ち上がらせた。
 足の不自由な人は、40歳ほどだった。つまり、生まれてから40年もの間、自分の足で立ち、歩いたことがなかった。しかしそのとき、立ちあがり、踊り、歩くことができた。それは、思いもしないことだったであろう。その人は、歩く事をあきらめていたと思う。その人は、お金より素晴らしいものをもらった。
 ペトロは「わたしの持っているものをあげよう」と言った。ペトロは一部ではなく、持っているものをおしみなくあげたのである。では、ペトロが持っていたものとはなんであったか。それは、イエスに守られ、愛されていたということである。ペトロはイエスと出会い、イエスに、そして神さまに愛されていることを知った。そして、イエスに従うという新しい人生が与えられたのである。今、ペトロはイエスの愛を、足の不自由な人に分け与えた。そうすると、足の不自由な人は今までとは違う、新しい人生を始めることができた。それは足が治ったということだけでなく、イエスが共にいて、守り支えてくださるということ、私たちを愛してくださるイエスとの出会いであった。
 イエスは、目の前に困っている人がいると、その人に話しかけ、病気を治し、友だちになった。それはイエスの愛、優しさである。弟子のペトロは、愛をいっぱいイエスからもらった。だからペトロは、目の前で困っている足の不自由な人に、イエスの愛を分けた。
 愛、優しさはお金で買うことはできない。しかし、私たちの心には、すでに愛、優しさがある。それはイエスによって与えられている。イエスがみなを愛しているからである。みなの心には愛、優しさがある。だから、愛、優しさを多くの人と分かちあいたいと思う。それは、分かち合うほど大きくなるのである。

祈祷  神さま 本日は、子どもと大人が一緒に礼拝をまもる「子どもの日・花の日礼拝」です。本日、みなで礼拝を守れることを感謝いたします。イエスさまは私たちを愛してくださいました。そのことによって、私たちの心にも愛、優しさがあると信じます。愛は分かち合うほど、大きくなります。どうか、私たちがイエスさまの愛、優しさを他の人と分かち合うことができますよう、お導きください。これから夏本番になります。既に暑さが日に日に増しています。体調の崩しやすい時です。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友などのことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。また、大雨も懸念されます。世界でも自然災害が起こっています。被害が出ないようお守りください。被災された方々をお支えください。争いにおいて被害に会うのは弱者、特に子どもたちです。どうか子どもたちをお守りください。全ての子供たちに素晴らしい未来を与えることが大人、特に指導者の責任だと思います。どうか手を結びあう平和な世としてください。本日は、礼拝後にミニバザーが行われます。楽しい時になりますように。一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン
 幼児祝福のお祈りをします。サムエル記上1:27~28ハンナはいいました。「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。祈り命を与えてくださる神よあなたは、この幼な子を、かけがえない宝として、この世界に送り出してくださいました。尊い幼児の誕生を心から感謝いたします。主なる神よ、この幼ない子(ひろむくん)の生涯を、御手の内において下さい。そして、いついかなる時にも、あなたの祝福で満たしてくださいますように。恵み深い神よ、あなたはこの父母(家族)に、この幼な子をおゆだねになりました。どうか、その養育に関わる者たちが、命の息吹を吹き込んで下さったあなたへの畏れをもって、この幼な子を育てることができますように。また、あなたが必要なものすべてをお与えくださり、この子が神からも人からも愛され、神にも人にも仕える者となりますように。この幼な子がこの子らしく生涯を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン


2024/06/09 聖霊降臨節第4主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 5章 19~30節」 05:19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 05:20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。 05:21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。 05:22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 05:23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 05:24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 05:25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。 05:26父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。 05:27また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。 05:28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 05:29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 05:30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

礼拝メッセージ:飯岡 洋介 牧師「最も重要な掟」  (要旨の掲載はありません)


2024/06/02 聖霊降臨節第3主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 3章 1~15節」  聖書朗読
03:01さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 03:02ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 03:03イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 03:04ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 03:05イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 03:06肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 03:07『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 03:08風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 03:09するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 03:10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 03:11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 03:12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 03:13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 03:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 03:15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「新たに生まれる」  本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書3章1節以下に、共に心を傾けたいと思う。ユダヤの議員であったニコデモが夜、イエスのもとに来た。「議員」とは、直訳は「指導者」である。当時のユダヤの最高法院の「議員」あるいは、指導的地位にいたラビとも取れる。つまり、ユダヤにおいて地位のあった人と言えよう。ここでは、ニコデモが「夜に来た」ということに注目したい。なぜニコデモは、夜にイエスのもとに来たのか。忙しいからであろうか。人の目を盗んで、夜暗くなってから来たという理解がある。議員というユダヤ社会において、地位のある人がエルサレム神殿の祭司たちに従うのではなく、イエスに従うというのは、立場的にありえないといえよう。12章42節には「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」とある。そのことから、ニコデモが「夜」にイエスを訪ねた理由は、自分の社会的地位を守るためであると考えられる。  では、ニコデモは何のためにイエスの元に来たのか。2節で、ニコデモは「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言っている。ニコデモはイエスに「ラビ、神のもとから来た教師」と呼びかけた。ここでの「教師」という言葉は、出エジプトのモーセのような指導者を意味していたという解釈がある。ニコデモは、イエスのしるし、奇跡を通して、神が共におられることを確信したというのである。イエスは次のように述べた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。イエスは、ニコデモの心を見通していたのであろう。ニコデモが望んでいたのが、神の国に入ることだろうと。神の国とは、神の完全な支配、完全な救いといえるであろう。神の国が訪れるとき、そこは入ることができる者とできない者とを神が裁く、決める、と考えられていた。ニコデモは、神の国の救いに入ることを望み、夜イエスのもとに来たといえるのではなかろうか。そのため、ひっそりと人目を盗み、夜に来た。  本日の箇所のイエスとニコデモの会話は、成立していないと私は思う。3節の「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」の「新たに」とは、直訳では「上から」である。そして、8節に「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」とある。「風」は、原典のギリシャ語では「プネウマ」である。プネウマは、新約聖書で「霊」とも訳される言葉である。2000年前のユダヤ人にとって、風とか霊とか呼んでいたものは、そもそも同一のものだという感覚であったのではないかという理解がある。風は空気であり、空気には酸素、二酸化炭素、窒素などが含まれている気体という現代の理解は、2000年前の人々にはなかった。そこで、呼吸によって人間に入り出たりしているものもプネウマであり、外で吹いている風もプネウマの働きなのであった。2000年前の古代の人々にとっては、風と霊という区別はなく、自分たちを生かしている働き、つまり人知を超える見えない働きに対して、「プネウマ」という感覚を持っていたと理解できるのではないかというのである。古代の人々を、現代の私たちが馬鹿にできるであろうか。現代でも天気予報は完全ではない。地震の予測なども難しい。人知を超える働きを私たちはもっと感覚として感じ、持つべきなのではないだろうか。  さて、イエスが、「新たに生まれなければ」と述べた時、ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と問うた。「新たに生まれる」というイエスの言葉を、ニコデモは母の胎内に入って新たに生まれると考えた。つまり、生まれ変わるとは肉体的な事柄だと、ニコデモは理解した。そこから、次のように考えることができるのではないだろうか。  ニコデモは、イエスを教師と呼びんだ。それはエジプトで奴隷の状態であった人々を、約束の地へと導いたモーセのような指導者を意味していたと考えられる。イエスの時代、ユダヤはローマによって支配されていた。ニコデモは、ローマからの解放を求めていたのではないか。そこで、奇跡を行うイエスに期待を寄せた。しかも、イエスは神の国の到来を述べ伝えていた。ニコデモはローマからの解放と、神の国のおとずれを一緒していたのかもしれない。また、ニコデモは、夜にイエスのもとに行った。それはイエスに期待を寄せていたことがばれると、社会的地位を奪われる可能性があったからであろう。ニコデモは自分の社会的地位にも固執していたし、またローマからの解放、救いも求めていた。つまり、ニコデモは自分の願望、願いを求め、イエスのもとに来た。イエスを、自分に都合のよい指導者であると理解していたのではないだろうか。また「夜」には、次のような理解がある。ヨハネによる福音書は、「霊と肉」、「光と闇」という二元論的な記し方をしている。イエスは光であり、この世は闇である。一方、イエスの元にいない、イエスを信じない、理解できないことを「闇」だと示している。そこでニコデモが「夜」に来たというのは、イエスのことを理解できていないことを示していると思うのである。  「新たに生まれる」は、「上から生まれる」とも訳せる。「上」、それは「天」、つまり神と受け取れるのかもしれない。そして、先ほども述べたように「風は思いのままに吹く」。風は、人知を超えた働きである。つまり、神の働きである。神の思いのまま、神の意志、導きがプネウマを通してあると考えると、どうであろうか。イエスがニコデモに教えたことは、自分の救い、願望をただ望むのではない。それは、自己欲にしか過ぎない。また、「新たに生まれる」のは、自分が母の胎内に戻ることではない。すべて、上からの働きによって、つまり、風、霊である人知を超える神の働きによって、新たに生まれ変えられるのであるということを、イエスは示したのではないだろうか。  そのように理解した時、イエスとニコデモの会話がずれているということも納得がいくように思う。イエスはあくまでも上におられ、上から下へと働いてくださる神が、主語である。つまり、すべて神がこの世を導いてくださる。この神にすべてを委ねたときにこそ、新たに生まれることができる。そして、風がいつもそよいでいるように、神の働きがいつもあり、その流れは救いへと導いてくださっているということが分かる。つまり、神がいつも共にいること、神の働きをただ信じるべきであるのだとイエスは述べた。一方、ニコデモは自分の救いのみを念頭に置いていた。自分が救われるには、自分の社会的地位を守るには、自分が神の国に入るには、それらのために何をすればいいのか。主語がすべて「自分」である。主語が違うのだから、イエスとニコデモの会話が成立しないといえる。  私たちが新たになるとは、私たちの働きではなく、上からの神の導きに他ならない。私たちには神の働きがいつも風のように注がれている。つまり、日々霊によって導かれていることを知ることによって、新たな者とされていることに気づくのではなかろうか。  イエスは「私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」と語った。イエスは、天地創造の時から神と共にあったと、1章に記されている。つまり、イエスは天において神と共にあり、神のことを知っておられる唯一のお方である。そのイエスが、この世に来てくださった。そのイエスの言っていることを受け入れない限り、神のことを知ることはできないのである。自分の願望だけを話し求めても、それは天にある事柄でもなければ、神の意志でもない。神の導きがあることに気づかなければ、天から来たイエスとの会話が成立しない。それが本日の箇所の出来事であると、私は思うのである。  霊は、風のように注がれている。つまり、息をするように私たちは霊に与かっているのである。霊とは、神の目に見えない働きである。つまり、私たちはいつも神の働きのうちに生かされている。そのことに気づいたときにこそ、自分の願望ではなく、ただ神の導きがあることを理解できる。つまり、神の霊によって新たにされていることを私たちは受け入れることができるのである。  私たちが、何かをするから、何かができるから新たにされるのではなく、霊なる神の恵みによって私たちは新たな者とされているのである。イエスこそ、目に見えない霊という神の導きを、この世に示してくださった。このイエスの働きが霊によって現代の私たちにも与えられているのである。私たちは超越的な方、命をお与えくださった方のもとで生かされ、導かれているのである。つまり、神はいつも私たちと共にいてくださっている。そこにこそ一番の支えがある。生きる勇気が与えられるのである。私たちは、イエスの言葉を受入れ、神に生かされ、導かれ、新たなる者とされていることに気づきたいと思う。

祈祷  私たちの導き主なる神様 私たちは、つい自分の都合のよい神、自分が何をしたら救われるのかを求めてしまいます。しかし、神は、風がいつも吹いているように聖霊を注ぎ、私たちを生かしてくださっています。つまり、私たちは神によって日々新たなるものとされている存在です。どうか、「私」ではなく「神」を主語と考え、神の導きがいつもあることを確信させてください。私たちは、日々、新たなるものとされ、主の守り、愛の内に生かされています。どうか、この救い、恵みを多くの人と分かち合うことができますよう強めてください。梅雨の季節になります。先日は台風の影響で大雨となりました。これからも大雨による被害が懸念されます。世界でも自然災害が起こっています。被害が出ないようお守りください。被災された方々をお支えください。梅雨、体調の崩しやすい時です。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友などのことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。天地創造において人間が作られたとき、世界を支配させると述べられました。それはこの世を正しく導く責任です。私たちは神が創られた世界に対して責任を与えられました。それは、人間同士が愛し合い、この世にあるすべての存在がそのものらしく過ごすことができる責任です。一方、争いはその反対の出来事です。命を奪い合い、しかも、この世界に対しても被害をもたらすという、神の意志に反することです。どうか、神の愛に倣い、互いに受け容れ合い、命を大切にするよう人間、特に指導者をお導きください。新しい月が始まりました。今月誕生日を迎える方を祝し、よき一年になりますようお導きください。今年は、茨城YMCA30年周年です。これからも主の導きがありますように。この礼拝を通して、この一週間、先月の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン


2024/05/26 聖霊降臨節第2主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 17章 12~14節」  聖書朗読
17:12災いだ、多くの民がどよめく/どよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ/騒ぎ立つ大水の騒ぎのように。/17:13国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる/山の上で、もみ殻が大風に/枯れ葉がつむじ風に追われるように。/17:14夕べには、見よ、破滅が襲い/夜の明ける前に消えうせる。これが我々を略奪する者の受ける分/我々を強奪する者の運命だ。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「運命の大転換」  5月19日に、ドジャーズの大谷選手が逆転サヨナラヒットを打ったと報じられた。私たちは、大逆転というのが好きなのではなかろうか。私も好きである。一方、人生においての転換というのは、苦しいものではないだろうか。私は福祉の仕事をしようと考えて、大学に入学した。東北学院大学文学部キリスト教学科では、福祉の資格も取れた。聖書のこと、神の愛について学び、その愛をもって福祉にたずさわれたならばと考えていた。大学に入るとどうであったか。キリスト教学科というくらいだから、基本的に牧師育成機関だったのである。多くが牧師になるため入学した。その中には、福祉あるいは一般企業への就職を考えていた者も数名いた。入学当初、私はその数名の同級生と「ここは牧師養成機関だよ。どうしよう」とよく話していた。私は悩んだ。実際、友だちと一緒に、福祉の先生に相談にいった。そのころ私は「牧師にはならない」と、ずっと言い張っていた。一方、友だちや先輩たちとの交わりは楽しいものだった。二つ上の先輩が3人、夜に集まっているところに、私もよく加わらせてもらった。その一人が2.11集会にお招きした白河教会牧師でありカルト脱会支援をおこなっている竹迫先生である。そして、特にお世話になったのが、当時同じ教会に通っていた先輩である。その先輩が4月から、いわきの教会に赴任したので、竹迫先生に声をかけ、会いに行ってきた。いわきに赴任したその先輩は、筋ジストロフィーという病気を患っている。私を含め3人で会うのは、学生時代以来だった(そこに、この教会のTさんの義理の弟さんがいれば全員集合だった。)この先輩たちとの出会いは、私にとってとても大きなものだった。特に、病気を患っているその先輩は当初、日立系のプログラミング会社で働いておられた。当時の給料としては、一般より高かったそうである。それなのに、なぜその職を辞し、牧師になろうとしたのか。私には不思議であった。竹迫先生も、統一教会から脱会したばかりであった。本当に不思議な出会いだと、私は今でも思っている。高校生3年生の時に私は、担任の先生から「牧師になりたいなら同志社神学部の推薦入学に推薦することもできる」と言われた。しかし私は「絶対、牧師にはならないので、けっこうです」と答えたのを、今でも覚えている。さまざまな出会いが、私を牧師という道に導いてくれた。今でも自分が皆さんの前で語っているのを不思議に思っている。牧師としての能力などない者が、神によって用いられているとしか思えない。神は私に、自分が思いもしない運命の転換を与えてくださるのだと思わずにはいられない。人間のはかりごとや計画など、あてにならないということなのかもしれない。
 さて、本日与えられた聖書箇所イザヤ書17章12節以下に共に心を傾けたいと思う。12節に「災いだ、多くの民がどよめくどよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ騒ぎ立つ大水の騒ぎのように」とある。聖書において、海は諸民族の浮き沈み、栄えたり、おとろえたりするという象徴として用いられている。そこで13節を見ると「国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる」とある。諸国民に対し、神はいかりの声だけで負けさせるというのである。13節後半も同様である。「枯れ草」とは、あざみの一種と考えられている。それは小さな茂みのようになる植物で、枯れた後、茎がもとから折れて玉のように丸まり、風に吹かれて転がって、種を蒔き散らすそうである。つまり、大風によって丸まった枯れ草が吹き飛ばされ転がっていくように、神は敵を破滅させるということである。そのように神は大いなる力をもってエルサレムを守り、敵を追い散らす。どんなに人間的な繁栄をもたらし、どんなに武力が強くても神の前では何もかなわない。神の力の偉大さがここに記されているといってよいと思う。
 そこで、14節を見ると「夕べには、見よ、破壊が襲い」とある。つまり、夕べ、大群の敵が襲い、危機的な状況に陥っている。しかし、「夜の明ける前に消え失せる」、朝にはその敵の大群がいなくなっている。「これが我々を強奪する者の受ける分我々を強奪する者の運命だ」。つまり、神のいるエルサレム、南ユダを神は偉大な力で守ってくださる。だから敵が攻め入って来ても大丈夫だ。唯一の神を信じる者に敵対する者の運命は、神に裁かれるというのである。
 この箇所は紀元前701年の出来事を示しているのではないかという理解がある。南ユダは、アッシリアの属国だった。しかし、アッシリアの勢力が弱くなると、南ユダは属国関係を破棄した。そこで南ユダのヒゼキヤ王は、バビロニア、エジプトと関係を結び、南パレスチナ諸国と反アッシリア同盟を組む。一方、アッシリアは勢力を取り戻し、シリア・パレスチナの鎮圧を開始し、次々と諸国を屈服させた。さらにアッシリアは、同盟軍を支援するためにきたエジプト軍をも撃破した。その後、アッシリアは南ユダに侵入し、町々を征服した。そして、最後にエルサレムを包囲した。エルサレムは絶体絶命の危機に陥った。すると転換が起こった。主の使いがエルサレムを包囲しているアッシリア軍の多くを滅ぼした。そして、アッシリア軍は退却したというのである。イザヤ書37章36~37節に、同じ内容として列王記下19章35~36節に「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた」とある。今日の箇所は、そのことを示していると理解できる。つまり、危機の中にある神の民に、神による運命の転換が起こるということが示されているのである。一方、この箇所は終末、世の終わりにおける神の業であるという理解もある。実は、イザヤは、先ほど説明した反アッシリア同盟に反対していた。イザヤは、ただ神のみを信頼し、外国の力に頼ってはならないと警告したのである。
 さて、今、私は旧約聖書神学者である並木浩一先生と、学生時代に並木先生の講義を受けた小説家奥泉光さんの対話本『旧約聖書がわかる本』を読んでいる。アモス書5章21節に、「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない」とある。神は、社会的正義をなおざりにして、祭りに熱を入れることを退けるというのである。祭りは神に献げ物をし、神を喜ばせるものである。また、祭りは神との合一体験など、人間的陶酔の経験を行う。そして、祭りが政治に結び付くと祀るものの権威が増大する。統治者が神をまつる祭祀権を握ると、祀る者が祀られるものよりも偉くなる傾向が生まれる。祭儀を行う者が自分の都合の良いように祭り、神名をもちいるという権力を持つということであろう。その例として大和朝廷、ペルシアをあげている。一方、ペルシア時代以降において、イスラエルは祭祀の権力が政治の統治権力として強化されることはなかったというのである。というのは、祭司権力よりも、実際に人々をまとめる力を発揮したのは、律法の定めに従う行動にあったからだというのである。私は、この律法理解をはじめて知った。確かに、バビロンによってエルサレム神殿が滅ぼされ、神殿祭儀ができない時代があった。そこで私は、イスラエルの民を一つにしたのは律法であると理解していた。一方、政治と祭儀というところまで私は考えていなかったのである。また、この本に「ユダヤ教が始めた礼拝は、本質を言えば、祭祀(神をまつること)を必要としない。礼拝は神を讃美することで、人間の神支配へのアンチテーゼとしてなりたつ。だから礼拝では指導者が修行を積んで神もしくは仏に近づく資格を得ているという発想がない。参加者も陶酔によって神に近づく必要がない」と記されていた。唯一の神は、祀られる神ではなく、讃美される神である。献げ物が大切ではなく神を信じること、神との関係が大切である。祭儀は、祭儀を行う者が特別な存在となる。そこで祭儀を行う人の権威が強くなる。そうではなく、人間は律法を通して唯一の神との関係、つながりを持つことができる。だから儀式を行う指導者の権威は必要ないということであろう。それは、イエスの名を通して祈ることができるということに通じるように、私は思う。私自身、牧師に権威があるのではなく、神に権威があると思っている。
 イザヤが私たちに示しているのも、似ているのではないかと思った。私たちはただ神を信じ、神により頼むことができる存在にしか過ぎない。そこに神の力が働く。人間的な力を過信してはいけない。権力者が、この世的な同盟を組むことは滅びに至るのである。人間的な繁栄は、永遠ではない。神の叱咤、怒りの声だけで、私たちは消え去ってしまうのである。この世的なはかりごとは神の前においてすべて拭い去られる。つまり、人間的なはかりごとは神によって転換がおこる。神に対する信頼こそが私たちを平安へと導くのであると、イザヤは教えているのではないだろうか。イエスの十字架も大転換だと私は考える。民衆に王となるとイエスは期待された。そのことに対して権力者たちはイエスに嫉妬し、また、地位が奪われるのではないかと考えた。そこで、権力者たちはイエスを十字架に掛ける計画を立てた。そして、この世の裁判でイエスは敗北し、十字架刑に決まった。つまり、イエスはこの世的権力に負けた。イエスの十字架は、この世的権力の象徴かもしれない。しかし、十字架というこの世的敗北を、神は人間を救う業へと転換したのである。イエスが十字架を負うことにより人間の罪を負い、人間は神と正しい関係へと導かれている。この世的権力は神の前では無力であるということが示されている。そこにあるのは、真の愛である。人間を愛するゆえに、神はこの世的敗北、危機的状況も、救いへ転換してくださる。そこに必要なのは、イザヤが示したように、ただ神を信じるということである。本日の箇所イザヤ書は、神こそ苦難の中にあっても私たちを救いへとお導きくださる。そこで大切なのは人間的はかりごと、この世の権力ではなく、ただ神を信頼することである。神こそ人間の思いをはるかに超える偉大な力を持って救いへとお導きくださる方であるのだと教えてくれているのである。私たちはただ神のみを信頼し、神のみを信じたいと思う。

祈祷  私たちを無条件に愛し、お導きくださる主なる神様 イザヤは、危機の状況において救ってくださるのは神のみである。人間のはかりごと、計略ではなく、ただ神を信じることを示しました。今日の箇所は、危機的状況において神は運命の転換をしてくださる。つまり、危機の状況においても、神は偉大な業で救ってくださるということを示しています。私たち人間はこの世的な計略をたててしまいます。また、人間的な策略に満足してしまいます。神こそ危機の状況において救ってくださる方です。その力は人間の範疇を越えます。私たちが神を信頼し、神により頼み日々歩むことができますようお導きください。梅雨の季節になります。近年は集中的な豪雨となり被がを多くでています。世界でも自然災害が起こっています。どうか被災された方々をお支えください。被害が出ないようお守りください。梅雨、体調の崩しやすい時です。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、リハビリを行われている友、手術後の経過を見ている友などのことを覚えます。心身ともにお癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。この世は争うために創造されたのではなく、互いに愛し合うために、神によって命の息吹が注がれました。また、人間による戦争は、自然に対して害をもたらします。人間は、この世に対し神から責任が与えられた存在です。どうか互いの存在、命、互いの違いを認め合う世としてください。特に弱い者、子どもたちをお守りくださいますように。今週は関東教区総会が行われます。御心にかなうものとなりますように。この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン


2024/05/19 聖霊降臨節第1主日(ペンテコステ)礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 14章 15~27節」  聖書朗読
14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 14:16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 14:17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 14:18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 14:19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 14:20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 14:21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 14:22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 14:23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 14:24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 14:25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 14:26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 14:27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「霊の到来の約束」  本日は、五旬祭とも言う「ペンテコステ」という日である。五旬祭は、過越しの祭りから7週後のユダヤ教三大祭りの一つである。キリスト教で考えると、ペンテコステはイエスの復活から50日目である。40日の間、復活のイエスはおられた。そして天に上げられた。使徒言行録の2章に、「五旬祭のとき弟子たちが集まっていると、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たちの上にとどまった」とある。そして一同は、聖霊に満たされ、様々な国の言葉で語るようになった。それがキリスト教のペンテコステの出来事である。つまり、聖霊が注がれたことによってイエスに救いを述べ伝える力が与えられたのがこの日である。宣教の始まりだから、教会の誕生日とも言われる。ペンテコステに与えられたイエス、神の救いを述べ伝える力、神による働きを「聖霊」といってよいであろう。では、聖霊と霊とは異なるのか。新共同訳聖書の凡例の(2)に、「新約聖書において、底本の字義通り「霊」と訳した箇所のうち、「聖霊」あるいは「神の霊」「主の霊」が意味されていると思われる場合に“”(“霊”と表記)を付けた」とある。つまり、新約聖書で“霊”と記しているものは聖霊を意味しているということである。ギリシャ語で「霊」は、「プネウマ」である。プネウマのもとの意味は息、呼吸、風である。そこで「霊」とは、目に見えないが感じることができ、また、息、つまり、私たちを生かしてくださる働きと言ってよいのかもしれない。一方、「霊」という言葉は、なかなか理解するのが困難である。それは日本語だけではないん。新約聖書釈義辞典に「プネウマの意味を定義する際に注意しなければならないのは、ドイツ語のガイストには、「霊=実体のない存在(幽霊)」や、「霊=理解力/理性」などの意味が様々結びついているため、ガイストという一般に広まっているドイツ語訳は、しばしば、理解の障害となっていることである」と記されている。日本語も同様であると思う。
 そこで本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書14章15節以下に心を傾けたいと思う。この箇所は、13章31節から始まるイエスの晩餐の席における弟子たちへの第一の告別説教の後半の部分である。イエスは、13章21節以下で、ユダの裏切りを予告した。そして18章では、その予告のとおり、イエスは逮捕されることになる。そこで、イエスは弟子たちと別れる前に説教をしたのである。イエスは弟子たちに、何を語ったのか。13章34節に、イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語ったとある。14章15節には、イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と語ったとある。イエスは新しい掟を与え、イエスを愛しているなら掟を守っているのだと教えたのである。
 さてイエスはその後、捕らえられ、十字架にかけられる。つまりこの時、イエスと弟子たちの別れが迫っていた。だからこそ、イエスは弟子たちに語ったのである。16節に「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とある。イエスと弟子たちは、別れなければならない。そこで弟子たちが心配しなくてよいように、正しい道を歩むことができるように、父なる神にお願いし、弁護者を遣わしてもらう。しかも、その弁護者は永遠に共にいるというのである。
 では、この「弁護者」とは何なのか。「弁護者」とは、ギリシャ語では「パラクレートス」である。「よんでこられた者、呼びかけられた者」が元の意味である。助けを求めて呼びかける相手を指す。また、パラクレートスは法廷用語として用いられ、その場合「弁護者」である。多くの日本語訳聖書は、「弁護者」と訳している。他に「助け手」という訳もある。その方がわかりやすいかもしれない。17節には、弁護者とは、「真理の霊」、「霊」、26節では「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」であるとイエスは言っている。弁護者とは、イエスが天に召された後に遣わされる聖霊・霊・真理の霊なのである。つまり、使徒言行録に記されているペンテコステの出来事で、注がれた舌のような霊と弁護者は同じであるといってよいと思う。聖霊・霊・真理の霊を、イエスが天に上げられてから遣わされる。その霊は宣教の助け手として弟子たちと共にいてくださるというのである。
 では、弁護者とイエスとは異なる別の存在なのであろうか。確かに17節には「この方」とイエスは述べているので、イエスとは異なる存在であるように読める。私は次のように理解する。それは、イエス自身が弁護者であるということである。というのは、イエスは26節で「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と述べている。イエスは、神の権能、神と同じ力を持って人間を正しい道、神の救いへと導いてくださった。イエスは、人間の姿を取り、人間に見ることができ、触れることのできる形で弟子たちを導いた。しかし、そこで語られている弁護者は、目に見えるのではなく、目で見ることはできない霊の働きとして、イエスが教えたように、またイエスが話したことを思い出させ、弟子たちを導くというのである。イエスは十字架につけられて死に、天に上げられた。だからといって、神の働きがそれで終わるというのではない。イエスが天に上げられてからは、弁護者、すなわち真理の霊が、弟子たちをイエスと同じように導き共にいてくださるというのである。つまり、弁護者とは目に見えないイエスの働き、といってよいであろう。弟子たちに、「あなたたちに私イエスが見えない日が来る。しかし、大丈夫だ。私は永遠にあなたがたと共にいる」とイエスは語った。イエスは「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる(20節)」と述べた。それは「神を信じる者には、いつも神、イエスが共にいてくださるのだ。それは聖霊、霊、真理の霊、つまり、弁護者という助け手があなたたちと共にいて導くからだ」と私は理解する。神、イエスを信じる者は神の内にいて、また、信じる者の内に神はいてくださる。イエスは弟子たちに「あなたがたをみなしごにはしておかない」と励まし、支えてくださっているのである。弁護者の到来は、イエスが天に上げられてからである。そのように弁護者とは、イエスがこの世で行ったことをそのまま目に見えない姿で行ってくださる方である。弁護者が行うことは、イエスの導きと同じである。なぜなら、イエスの救いの業は十字架において完成したからである。その完成した業を、弁護者は継続して行うというのである。だから、弁護者の業は、イエスの業と同じなのである。それは、神の業だからである。
 では、弁護者という聖霊・霊・真理の霊が、使徒言行録に記されているペンテコステにおいて集まっている弟子たちに注がれた聖霊と同じであるなら、それは弟子たちだけに注がれるものであり、現代の私たちには注がれないのであろうか。いや、そうではない。16節に「永遠にあなた方と一緒にいる」とあるように、弁護者の働きは永遠なのである。それはイエスの業が十字架で完成し、その救いがすべての人にあるように、今もなお継続し、弁護者の働きは現代の私たちに対して行われているのである。
 さて、私は大学生の時に教会学校のスタッフをしていた。私は小学校5年生と6年生を担当していた。その教会では、クリスマスイブ礼拝の前に、教会学校によるクリスマス劇を行っていた。そのため、5年生と6年生は、教会に一泊して練習をしていた。その教会には、礼拝堂の下の地下に暖房用ボイラー室があったが、私が通っていた当時は、すでに使用されていなかった。誰も地下にいかないので、余計に怖さを感じた。その一泊会で、肝試しとして夜に、地下に行こうということになった。そのとき5年生のある子が「イエス様を信じていれば幽霊なんて見ないよね」と言い、私は「その通り」と答えたのを覚えている。そして、それは素晴らしい信仰告白だと私は思った。イエスは悪霊を制した。だからイエスを信じる者は幽霊など見ないのである。
 悪魔の誘惑に打ち勝ち、悪魔はイエスに刃向かわないことが新約聖書に記されている。また、イエスは十字架によって陰府に行き、悪を支配した。そこで、次のように言えるのではないだろうか。神、イエスが支配しているこの世に、悪霊はもういない。霊とは神の霊であり、その他に霊はない。もし悪霊があるとするなら、それはこの世、つまり人間の欲である。人間の欲こそ最も身近にある恐ろしい力、罪の力である。しかし、イエスは新しい掟を与えてくださった。神が私たちを愛してくださっているように、私たちも互いに愛するという掟を与えてくださった。そして、神は、弁護者、霊を私たちに注ぎ、支え、互いに愛し合うという正しい道、人間が生きるべき道へと手助けし、導いてくださる。そこで大切なのは、神を信じるということである。なぜなら、神が私たちを愛してくださっているからである。イエスこそが、そのことを教えてくださった。イエスの導きは、今もなお、弁護者という聖霊によって行われているのである。だからこそ私たちは、神の愛を多くの人と分かち合う、つまり、互いに愛し合うことができる。それは神の愛を分かち合うという私たちが行うべき宣教の業なのである。
 今もなおイエスの目に見えない働き、弁護者、助け手として霊が私たちに注がれ、導かれている。私たちはそのことを確信し、父なる神、子なるイエス、聖霊なる三位一体である主を信じたいと思う。私たちは弁護者、助け手によって守られ、導かれ、生かされているのである。

祈祷  愛なる神様 今日はペンテコステ、弟子たちに宣教の力が与えられた日です。イエスは、天に上げられた後、神に頼んで弁護者である聖霊、真理の霊を遣わしてくださると述べられました。また、その働きは永遠であるというのです。現代の私たちも霊を注がれ、導かれ、神の愛を分かち合う力を与えられています。どうか、互いに愛し合うという神の愛の業を、私たちが行うことができますように。互いに愛し合うことこそ宣教の業であると信じます。どうか、そのため私たちを支え、今、ペンテコステのこのとき弁護者である霊をお与えくださいますように。神が望まれていることは争うことではなく、互いに愛し合うことです。争いは人間の欲でしかないと思います。そこでは憎しみ、悲しみしか生み出しません。どうか神の愛に倣い、互いの命、人格を尊重しあうことができますように。指導者をそのようにお導きください。日本、世界で地震、大雨などの自然災害が起こっています。どうか、被災された方々を支え、生きる力をお与えください。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、体調を崩されている友、手術を受け、リハビリを行っている友のことを覚えます。心身ともに癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン


2024/05/12 復活節第7主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「詩編 46編 2~12節」  聖書朗読
46:02神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。/46:03わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/46:04海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ/46:05大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。/46:06神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。/46:07すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。/46:08万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ/46:09主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。/46:10地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。/46:11「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」/46:12万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「帰還への希望」  旧約聖書詩篇46編は、神が共にいてくださるということによって恐怖の中にあっても安心することができるという信仰が詠われている。紀元前6世紀、エルサレム神殿のあった南ユダは、バビロニア帝国によって滅ぼされた。多くのユダの民がバビロニアに連れて行かれた。しかし、それから約50年後、バビロニア帝国がペルシアによって滅ばされたことにより、ユダの民はバビロニアから解放された。この詩編46編は、その解放以降に記されたと考えられる。この詩編の背後には「シオン神学」がある。シオンとは、エルサレムのことである。シオン、すなわちエルサレムは、全地の支配者「神」の住まいであり、聖なる都シオンは世界の中心であるという、また、シオンにおられる神は世界の秩序を乱す王たちを撃破するという、そのような考えを権力者たちは都合よく用いて、ユダの民の信仰を助長させたと考えられる。一方、権力者たちはエジプトに軍事的援助を求め、バビロニアの撃退をはかった。つまり、南ユダの権力者は、ユダの民に対し、神がいるから大丈夫だと扇動し、一方、他国と軍事同盟を結ぶこの世的な戦略を行った。そこにあったのは、神の名を自分に都合よく用い、民を危険な方向に導いたというごまかしである。それは第二次世界大戦、いや今もメディア、SNS(インターネット)を用いて、マインドコントロールのように民を誤った方向に扇動し、争いを行わせるということは、ありえるのではないだろうか。南ユダは権力者による間違った導きによって、バビロニアに負けたのである。そこで、この詩編46編には、どのような意味が、どのような導きがあるのであろうか。
 この詩編の冒頭で、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と詠われている。ここにあるのは、神に対する絶対的な信頼である。権力者たちの都合の良い導きではない。2~4節までは、天地を創造された神が海や大水などを支配する姿が描かれている。自然に対しても私たちは神を避けどころ、逃げ場とすることができるから、恐れることはないというのである。
 5~8節、川は生命の豊かさの象徴であるとの考えが書かれている。神は豊かな生命の源泉であるから、その住まいである神の都は、確かな潤いのある理想の都として描かれているのである。そして、他の国々がいかに騒ぎ立ち争いを起こすとも、神の都は神の住まいであるから揺らぐことはないと詠われているのである。2~4節は、自然界のことだが、5~8節は歴史世界へと移り、自然を制する神が地上の国々をも鎮める歴史の神でもあるということが示されている。そこで世界の創造主、支配者である神に対して、詩編の著者は冷静に信頼をおいているのである。
 そして、最後の9~12節を見よう。まず10節には「地の果てに至るまで戦争を止めさせる」と神の業が讃えられている。先ほどの7節には、「すべての民、国々は揺らぐ」と記され、戦争が示されていたが、戦いは神によってこの地上からなくなるのだと、だから、地上のすべての民は、真の神をあがめなければならないと、9節~12節では告げられている。それは、平和を告げる預言のようにも受け取れる。
 先ほど、この詩編はバビロニア捕囚からペルシアによって解放された時期に記されたと述べた。ペルシアによってバビロニアから解放され、軍事的な考えは薄れ、それに代わって非武装が、そしてユダヤの民は神に立ち返るようにという考えがもたれるようになった。このときに詩編46編は記されたと考えられる。だから、9節以下は神の民が平和を堅く待ち望んでいる姿が記されている。同時に、この詩編は神こそ「地の果てに至るまで戦争を止めさせる方」、平和の神として讃えていると読むことできるのである。
 次のように言えると思う。神こそ真の避けどころ、私たちの砦であり、神はいつも私たちと共にあり守ってくださる。神への絶対的な信頼、そして、神こそ私たちに平和をもたらしてくださる方、その力を持っている方であるという信仰がこの詩編にはあると私は受け取りたい。争いの無い平和な世こそ、私たちが待ち望んでいることなのではないだろうか。そこで、大切なのは、9~10節にある「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」ということである。神は、争いを止めてくださる。しかも、弓を砕き、槍を折り、盾を焼く。つまり、非武装がここで詠われているのである。神はこの世における争いを求めない。いや、神は武具をなくし、争いを止めるというのである。ユダの権力者は、神の名を用い、民を争いへと扇動した。それは神の名を自分たちに都合よく用い、民をだましたにしか過ぎない。神は、争いを求めているのではないということに、ユダの民、詩編46編の著者は気づいていたといえるであろう。
 まさしく神の独子こそ、次のように述べています。新約聖書マタイによる福音書5章43~44節に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とある。また、5章39節には「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」とある。まさしく非武装を、イエスは訴えていたのではなかったか。イエスが山上の説教で述べた教えは、本当に厳しい。右のほほを打たれたときにやり返すのではなく、左のほほを出すことなど、私にはできない。敵を愛し、敵のために祈りなさいと、敵とは、私たちの日常的な事柄として述べるなら、嫌いな人といえるのかもしれない。私たちは、自分を苦しめる嫌いな人のために祈ることができるであろうか。嫌いな人を愛することができるであろうか。それはとても難しいと思うのである。私はウェルター・ウインクという学者が記した「イエスと非暴力 第三の道」という(2003年に書かれた)本を思い出した。この本には、非暴力こそ相手にとって最も困る対処の仕方であり、また、もっとも有効的な攻撃であるということが記されている。そこでは、敵を愛するということに対して、次のように記されていた。「『敵を愛せ』とは、敵もまた神の子であることを認めることです。敵もまた自分が正しいと信じています。彼らにとってはわたしたちが、その価値観、ライフ・スタイル、そして富を脅かす存在として映るがゆえに、わたしたちを恐れるのです。わたしたちが敵のことを鬼のように思い、恐ろしい名前をつけ、極悪のものとみなすとき、回心を可能とする神のあのよきものが彼らのうちにも宿っていることを否定することになります。そのとき、わたしたちは神を演じ、彼らの名前を命の書から消しているのです」と。この言葉は、私にとって衝撃的だった。私たちは、自分が正しいと決めつけ相手を批判してしまう。しかし相手も同じように自分が正しく、相手が間違っていると考え、また相手を恐れ敵対している。私たちが、間違っていると言って相手を裁くことによって、私自身が神のように振舞ってしまっていると言えるのかもしれない。しかし、裁くことができるのは神のみなのである。そして、私たちが相手を恐れるように、相手も私たちを恐れている。そして攻撃する。それは、相手を神の愛する存在であると受け入れていないことであると言えるであろう。そして、相手が回心するということを、神を信じるときが来るという神の業を信じていない。相手も神によって愛が与えられていることを忘れているから、攻撃してしまうのかもしれない。相手を攻撃してしまう。神に対する信頼が欠如していると言えるのではないだろうか。そして、相手を攻撃することによって、私たち自身が神から離れてしまう。同時に、相手にも神を信じるということ、回心する機会から離れさせてしまっているのである。
 私たちは、敵、嫌いな人を愛することができない弱い存在である。しかし、だからといって攻撃する必要は無い。それは神の愛、神の業を信じていないことなにもなる。ただ、神を信じるその思いを持つことによって、相手を攻撃することはなくなるであろう。なぜなら相手も神の愛する者であり、きっと神が回心へと導いてくださるからである。そこから和解への歩みが始まるのではないだろうか。私たちは、すべてを神に任せ、祈るべきなのである。
 よく「武力による抑止」と言われる。本当に武力を強くすることによって抑止になるのであろうか。今もなお争いが続いている。そこに起るのは憎しみ、悲しみの連鎖でしかない。そのことにより、争いは終わることはない。
 自分たちが正しいと決め付けてしまうことがある。そして、この世は、神にすべてを委ねることができないことによって、武力、基地をより増やしてしまう。その武力を用い、人を傷つけ、環境を破壊する。争い、憎しみあうことからは、何も生み出されない。大切なのは、ただ神の業を信じ、神にすべてを任せるという信仰である。神こそ、私たちと共にいてくださり、私たちの避けどころとなり、そして、私たちを平和へと導いてくださるのである。平和の神、和解の神にすべてを任せたいと思う。そのために、イエス・キリストはこの世に遣わされたのではなかったか。イエスこそ、人間と神とを和解してくださった。そして、人間同士を和解へと導いてくださっているのである。神にお任せするとは、神が私たちを守ってくださるから戦いに勝つということではない。すべてを、この世の創り主なる神に任せることにより、非暴力、非武装になり、この世に争いはなくなる。そして、全てものとの和解がおこるのである。そのことを本日の詩編46編は、私たちに教えてくれているのではないだろうか。私たちはただ神を信じたいと思う。

祈祷  憐れみ深い主なる神様 私たちには欲があります。そのためあらゆるものを欲し、時には自分を正当化し敵を作り出します。そして、争いになる。南ユダの指導者たちは、神の名を用い、民を扇動し、この世的な戦略によって争いました。その結果、敗北し民は苦難に陥りました。神は、争いを求めていません。神こそ私たちの避けどころ、私たちを愛し、守ってくださっています。そのことをイエスは私たちに教えてくださいました。イエスこそ非暴力、非武装です。そして、人間と神、人間と人間の和解を導いてくださいます。どうか、私たちは全知全能である平和の神を信じたいと思います。この世の歴史において争いのない時代はありません。ローマの信徒への手紙(12:19)には「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と記されています。どうか、この世の指導者が真に神を信じ、他国との和解へと歩むことができますようお導き下さい。自然災害で被災された方々を支え、元の生活に戻ることができますようお導きください。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、体調を崩されている友、手術を受け、これからリハビリを行う友のことを覚えます。心身ともに癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。草房誠二郎さんが天に召されました。天における主の平安がありますように。悲しみの中にあるご家族をお慰めください。この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン


2024/05/05 復活節第6主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 16章 25~33節」  聖書朗読
16:25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。 16:26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。 16:27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。 16:28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」 16:29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。 16:30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」 16:31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。 16:32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。 16:33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「イエスの勝利宣言」  水曜日の聖書研究祈祷会では、ローマの信徒の手紙を学んでいる。そこで皆さんとの話すことが私にとって、とても楽しい時となっている。話し合うことにより、様々な理解が浮かび、分かち合うことができる。
 ある仏教入門書に、仏教は個人主義であるとあった。というのは、仏教は「悟り」だからだというのである。悟ることそれ自体が、自分が真理を会得することだからというのである。では、キリスト教は何か。私は、外部からの働きによって気づかせてもらうことだと考えている。それを「気づき」と私は述べている。「招き」と言ってもいいのではないかと思う。どうしようもない私でも、イエスは神のもとに招いてくださる。そのことに気づくことが、キリスト教ではないかと思っている。
 さて、ヨハネによる福音書16章25節以下に共に心を傾けたいと思う。25節にあるように、イエスはこれまで「たとえ」を用いて話したと述べている。「今までたとえで語ってきたが、これからはそうではない」という意味である。たとえは、相手に対しては、相手が理解しやすいように語ると思う。しかし弟子たちにとって、たとえはなぞのようで理解できなかったということなのであろう。そこで、イエスは「はっきり父について知らせる時が来る」というのである。26節の「その日」とはいつであろうか。それは、イエスが復活した日である。次のようにもいえるであろう。イエスとはいかなる方か、弟子たちが気づいたときであると。では、その日にはどうなるのか。それはイエスの名によって願うことになるというのである。
 願いとは祈りである。祈りとは神との対話である。それは、応答関係を持つと言えるであろう。つまり祈りとは、人格神という認識を、私たちに与えてくれるのである。では、イエスはどうであったか。イエスは、祈りを大切にしていた。祈るため、山に登った。また、十字架刑を目前にして、イエスはゲッセマネで祈っておられた。神と話したのである。どうしてイエスは、十字架という苦難、死に向かう前に祈ったのか。ゲッセマネの祈りは、神の意志を問うことを、十字架という神の計画を受け入れる決断のための祈りであった。本日の説教を考えるに際し、次のように思った。イエスには十字架による死が迫っていた。マタイによる福音書の26章39節には、イエスが「父よ、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と三度祈ったことが書かれている。イエスは十字架という死を前にして不安の中にあり祈ったのだと私は思う。不安の中でイエスが求めたのは、父なる神が共にいてくださることではなかったか。イエスは、祈りを通して神が共にいてくださることを確信し、勇気づけられ、十字架に向かったのだと私は考えた。
 イエスの名を通して祈るとは、イエスを通して神に直接語りかけることが赦されたという意味がある。また、32節に「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしを一人にするときが来る」とある。イエスは、その後すぐ、ユダの裏切りによって捕らえられ、十字架につけられ処刑されることになる。イエスが捕らえられると、弟子たちはイエスのもとから離れ逃げてしまった。そのことをイエスは予告していたのである。弟子たちは、イエスと一緒にいた自分たちも共犯者として捕らえられると思ったのだろうか。弟子たちは恐れ、イエスのもとから去ってしまった。きっとそのとき、弟子たちは自分の弱さを知ったであろう。そして、イエスが捕らえられ十字架刑によって天に召された。確かにイエスは復活したが、再び神のもとに挙げられた。つまり、弟子たちは、肉体のイエスと離れなければならなかった。そこで、イエスの名を通して祈ることに意味がある。つまり、祈りは神との対話である。「イエスの名を通して」とは、イエスは天に上げられ目に見えない。しかしイエスは、イエスの名を通して神と人間とをつないでくださる。つまり、イエスの名を通して祈るその祈りの場に、イエスは必ず共にいて下さり、神と人間とをつなぐという恵みをお与えくださるのである。イエスは神を「父」と呼んだ。同じように、イエスの名を通して、私たちもより神と近い関係にいることができる。神とイエスが父と子という関係であるように、イエスの名を通して私たちも神と父と子という関係に招かれるということである。だからこそ、イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。(33節)」と述べたのではなかろうか。イエスは、この後、天に上げられた。イエスは目に見えない状態になり、弟子たちは不安に陥ったであろう。しかし、そうではない。祈りを通してイエスは共にいて下さるのである。
 さて、ヨハネによる福音書が記された時代、キリスト教徒はユダヤ教から迫害を受けていた。ヨハネによる福音書の著者は、自分たちの状況とイエスと弟子たちの出来事を重ね、この福音書を記した。イエスが「あなたがたには世で苦難がある(32節)」と言っている通りなのである。だから、イエスが弟子たちに語った言葉は、同時にヨハネによる福音書を読むその人自身にも語られていると読むことができる。確かに、イエスの言葉は、弟子たちだけではなく、普遍的に私たちに語りかけてくる。ヨハネによる福音書では、特にこの書を読む人々は、自分たちの状況とイエス、弟子たちの出来事を重ね合わせ、自分のこととして読んでいる。イエスの名を通して父なる神に祈ることによって、イエス、神が共にいてくださる。だから勇気を出しなさいと、イエスはヨハネの教会の人々、そして、現代の私たちに述べ、支えてくださっているのではないだろうか。
 ヨハネによる福音書が記されたのは、イエスが十字架にかけられてから60年以上もたった時代である。その時代、イエスと直接出会ったことのある人は、もうほとんどいなかったであろう。いや、イエスの弟子たちと交わりを持った人さえもいなかったのではなかろうか。そのような意味においても、ヨハネによる福音書の著者、また読者は、肉体のイエスと出会ったことのない人々であった。彼らには、人間イエスを見たこともなければ、イエスの奇跡に触れたこともなかった。イエスは、だからこそ、神は愛してくださっているということ、そしてイエスの名を通して祈れば、イエス、神は共にいてくださるのだと教えて下さっているのではないだろうか。
 現代の私たちも、肉体のイエスと出会うことはできない。そのような意味では、不安を持ち、懐疑的になってしまうかもしれない。だからこそ、そのような私たちに、ヨハネによる福音書は語りかけている。そこで、33節にある「わたしは既に世に勝っている」との勝利とは、いかなることなのであろうか。
 28節をもう一度見ると「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」とある。イエスは、天におられる神のもとから出て、世に来た。このことが重要なのである。イエスは、神の独子として神と同じ権能、力を持っているということである。だからこそ、どのような迫害、苦難にあっても、イエスはいついかなる時も祈りを通して共いて、私たちの声を神に届けてくださるのである。次のようにも言えるであろう。私たちの苦難をイエス、神が聴いてくださる。つまり、イエス、神が私たちの苦難を共に負ってくださっているということである。
 ヨハネによる福音書の教会は、イエス、弟子たちと同じようにユダヤ教から迫害を受けていた。しかし、イエスの名による祈りを通して苦難を、重荷を、神、イエスは共に負い、支えてくださったのである。
 そこで、30節を見ると「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」とある。イエスが勝利を宣言された理由を、この言葉から考えたいと私は今回思った。イエスが何でも知っているということは、この世を創った神からイエスはすべてを与えられている。この世を創られた神が何でもご存じであるように、イエスも何でもご存じであるということである。つまり、イエスこそ神の権能を持つ神の独子であることを弟子たちは信じたのである。先ほど述べたように、イエスこそ神の独子であるからこそ、イエスの名を通して祈る祈りは神に聞き届けられる。イエスの名による祈りを通して、神、イエスはいつも共にいてお支えくださることを、私たちは確信することができる。神が共にいて支えてくださる。支えられている者として、私たちは互いに支え合うことができるのではなかろうか。それは、神の愛を分かち合うということである。イエスが宣言したのは、弟子たちがイエスこそ神の独子であると信じたからではなかったか。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と。それはイエスの弟子、ヨハネによる福音書の教会の人々の信仰告白だったのではないだろうか。イエスこそ神の独子であると私たちが信じることによってこそ、祈ることができ、神の愛の分かち合いがこれからも行われていくのである。ユダヤの民衆は、イエスが王となると期待した。そのことに対してユダヤ教指導者たちは自分たちの地位が脅かされるのではないかと考え、イエスを十字架にかけた。そこで、十字架は罪を映し出す鏡といえるであろう。
 イエスは、神は、いつも共にいて私たちの祈りを聴いてくださっているのである。なぜなら神、イエスは私たちを愛してくださっているからである。イエスは勝利を宣言した。私たちはイエス、神が私たちを愛してくださり、共にいてくださることに気づき、確信し、神の愛を多くの人と分かち合いたいと思いう。

祈祷  愛なる神様 イエスは、イエスの名によって祈るよう教えて下さいました。イエスの名によって祈るとは、神の独子が共にいて、私たちの言葉を神に届けてくださるということです。神はこの世を愛しているからこそ、イエスをこの世に遣わし、イエスの名によって祈ることをおゆるしくださいました。イエス、神は祈りを通して共にいて、お支えくださいます。私たちも苦難の友と共にいて、支え合いたいと思います。それは神の愛を分かち合うことです。神の愛の分かち合いは、この世がどんなに欲にまみれても継続します。愛なる神が共にいてくださるからです。私たちはイエスが勝利を宣言されたように、神の愛を多くの人と分かち合いたいと思います。暑く、また、寒暖の差が大きくなっています。すべての人の健康をお守りください。病の中にある友、体調を崩されている友、手術を受け、これからリハビリを行う友のことを覚えます。心身ともに癒しください。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。世界各地で自然災害が起こっています。どうか被災された方々をお支えください。争いは欲望でしかないと思います。どうか争いを止めてください。また指導者が最も弱い立場に立ち、寄り添い歩むことができますように。連休も後半となっています。休みを取られている方をその場においてお守りください。この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間、新しい一か月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して神様にお捧げいたします。 アーメン


2024/04/28 復活節第5主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 14章 1~3節」  聖書朗読
14:01まことに、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び/彼らの土地に置いてくださる。寄留の民は彼らに加わり/ヤコブの家に結び付く。/14:02もろもろの民は、彼らをその土地に連れて来るが、イスラエルの家は、主の土地で、もろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとする。かつて、彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐げた者が彼らに支配される。/14:03主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「帰還への希望」  先週、県内で最大震度4の地震が起こった。夕食がすみ、一休みしていたころだった。そのとき、私の連れ(妻)は、まっさきに最近飼い始めたオカメインコを守ろうとした。オカメインコは、地震など突然の刺激に弱く、パニックを起こすようである。一方、私の10歳の息子はそのときトレイにいた。彼は慌ててリビングにもどり、テーブルの下に隠れた。やがて地震がおさまり、息子は、連れ(妻)に「どうして血のつながっている息子を助けに来なかったのか」とうったえた。インコに嫉妬し、怒ったということである。インコは、飼い始めたばかりで、まだ赤ちゃんのような状態であり、また家に来て1週間だった。だからインコがパニックにならないように、連れ(妻)は、先にインコの方に行ったと息子に説明した。私の息子は翌日の朝まで機嫌を損ねていたようだった。それは私の息子に限ったことではないように思う。親の愛は自分のものであると、自分は特別に愛されていると思っている。自分が誰かにとって特別な存在だという思いを欲することは、誰にでもあると思う。愛されているという思いは自己肯定につながり、それはよいと思うのである。一方、その思いが、排他的にならないようにと思う。
 さて、新共同訳聖書イザヤ書の14章1~2節の小見出しは「イスラエルの回復」である。この小見出しと、そのための区切りは、後からつけらえたものである。例えば、前の口語訳聖書に小見出しはなかった。新共同訳聖書には、凡例が記されている。その4に、小見出しの説明として「本文内容区分ごとの概括的な理解を助ける趣旨から、一部の書を除き、小見出しをゴシック体で示した。小見出しは本分ではない。」とある。私の考だが、小見出しを気にせず読んでいただくのがよいように思う。読んで分からない場合、小出しを参考とするのが、または見つけたい聖句の目印として小見出しを用いるのがよいと思う。本日の箇所は、1節と2節で分けてあるが、岩波訳聖書では、1~23節を一つのまとまりとしている。また、日本語訳の七十人訳聖書は、1~3節としている。では、岩波聖書訳ではどのような小見出しになっているのかというと、「バベルの嘲笑歌」である。新共同訳聖書で3~23節は「バビロンの滅亡」、新協会訳聖書では1~23節の小見出しが「バビロンの滅亡」である。このように訳によって分け方、小見出しは異なっている。
 バビロンは、紀元前587年に南ユダ王国を滅ぼした。逆にいうと、バビロンに負けたことにより、イスラエルの民である南ユダは国を失った。しかも、地位の高い多くの人がバビロンに連れていかれたのである。それをバビロン捕囚といいう。一方、約50年後にバビロンは、ペルシャによって滅ぼされた。そのことによって南ユダの民は解放された。本日の箇所の後の、イザヤ書14章4節後半~23節は、敗れたバビロン王に対するあざけりの歌となっている。だから小見出しによっては、バビロンに対する嘲笑歌となる。例えば、4節後半は、「ああ、虐げる者は滅び、その抑圧は終わった。」とバビロンによる支配が終わったことを喜んでいる。6~8節はバビロンが滅びたから、全世界いやレバノン杉さえも喜びの声を放つというのである。本日の箇所は、バビロンに対するあざけりの詩の序文といってよいであろう。
 旧約聖書イザヤ書14章1節以下に心を傾けたいと思う。1節に「まことに主はヤコブを憐れみ再びイスラエルを選び彼らの土地に置いてくださる」とある。ヤコブは、創世記にでてくる人物である。ヤコブが神と格闘をした後、創世記32章29節には「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」とある。つまり、本日の箇所において、ヤコブはイスラエルを意味している。主、つまり神はイスラエルを憐れみ、選び、約束の土地に置いてくださる。先ほども述べたが、イスラエルの民である南ユダはバビロニアに負け、多くの人がバビロンに連れていかれ、神殿のあるエルサレムは荒廃した。そこで、神はバビロンをペルシャによって負けさせ、イスラエルの民を解放し、再びイスラエルの民を約束の地エルサレムに戻らせ、生活するように導くというのである。
 2節にある「もろもろの民」、つまりイスラエルの民以外の人々も、その土地に連れて来られた。連れて来られた人々は、イスラエルの民を捕囚として連れて虐げた敵である。その敵の人々は、イスラエルの民の奴隷となった。そして、神から与えられた約束の地は、憩いの土地となるというのである。そこには、イスラエルの民に対する神の救いが示されている。イスラエルの民は、バビロンに敗北し異邦の国バビロンに連れていかれ、バビロンの支配下で生活を送った。バビロンに負けたイスラエルの民は、神に見捨てられたと感じていたであろう。しかし、神はイスラエルの民を見捨てることはなく、改めて選んだ。そして、神の憐みの時が続くというのである。これは、唯一の神を信じていたイスラエルの民にとって喜びであった。
 一方、次のようにも理解できる。イスラエルの民は、バビロンに負けたことにより、滅ぼされ奴隷のようになった。しかし、約50年後、バビロンがペルシャに負けたことにより、立場が逆転した。つまり、この箇所は、復讐の話であると理解できる。イスラエルの民は神の民であり、神の民を攻撃したバビロンは滅びる。そして、イスラエルの民は救われるのだ。つまり、この箇所はナショナリズム、国粋主義を示している。確かに、そのように読むことができるであろう。争いに負け苦しみの中にあるとき、敵を憎み、立場が逆転するような救いを求める気持ちは理解できる。一方、旧約聖書全体が、イスラエルの民のナショナリズムという思想に満ちているわけではない。イスラエルの民、また預言者イザヤはバビロンに負けたことに対して、次のような理解を持っていた。イスラエルの民がバビロンに負けたのは、イスラエルの民自身が神を裏切ったからだ。そこで、この世の創り主なる神はイスラエルの罪を罰するため神の道具としてバビロンを用いたのだとの理解である。それはイザヤの理解である。一方、そのような理解を受け入れることのできないイスラエルの民もいた。実は、本日の箇所は、イザヤの言葉ではなく、後から付け加えられたと理解できる。
 では、私たちは、ナショナリズムを、選民としての意識を持っているイスラエルの民を非難すべきなのであろうか。いや、決してそうではないと思う。私たちも、そのように神に特別愛されているという思いを欲し、また持っていると思う。それは悪い思いだと、私は思わない。神の愛を受け取っているからである。そこで、本日の箇所で見たい言葉がある。1節後半に「寄留の民は彼らに加わりヤコブの家に結び付く」とある。ここに出てくる「寄留の民」とはいかなる人々だったのか。イスラエルは、アッシリアに負けた。そこで他の地域に逃げた人々がいた。きっとバビロンに負けた時にも、他の地域に逃げた人々もいたであろう。それを離散の民という。その離散の民のことを、寄留の民の一部であるという理解がある。つまり、離散のイスラエルの民と合流する。しかし、寄留の民はそれだけではない。いや、寄留の民とは、唯一の神の律法を守り、神を自らの神として受け入れて、神の民イスラエルに加わった外国人の意味合いがある。つまり、寄留の民とはイスラエルの民ではないが、唯一の神を信じる外国人なのである。その寄留の民は「ヤコブの家」、すなわちイスラエルの民に加わると、エルサレムで共に居住するというのである。私はここに、私たちの救いがあると思う。確かに、イスラエルの民に加わるという言い方は、イスラエルの民が上位にいるように思う。しかし、私はそうではなく、唯一の神を信じる人々こそ、イスラエルの民であると受け取りたいのである。つまり、ここにナショナリズムを越える理解があると私は見たいのである。
 そして、そのことを示してくださった方こそ、神の独子イエスであると思うのである。イエスは、すべての民を招いた。それはイスラエルの民だけではなかった。また、ユダヤ教宗教指導者たちから罪人とされていた人々をも招いた。そこに本来の神の意志があると思うのである。イスラエルの民こそ、その歴史の中で神を裏切った。旧約聖書の歴史物語を次のように私は理解する。イスラエルの民は神を裏切るが、アブラハムとの契約のゆえに何があっても見捨てることなく、神はイスラエルの民を導かれたという内容である。その導きは、血族的なイスラエルの民だけにとどまらず、神を信じる者に対する導きである。いや、イエスこそ全ての人を神の民として招いてくださった。私たちも神の民としてイエスに招かれているのである。
 新約聖書におけるパウロの手紙もそのことを記していると思う。人間は、神に対して罪を犯している。神に愛されているにもかかわらず神を裏切り、神の愛を忘れ欲望のままに生きてしまう。しかし、イエスの十字架によりすべての人が神へと招かれている。それこそイエスの恵みであるとパウロは示している。
 イスラエルの民は、自分たちこそ神の民であり、神に愛され、神によって救われる特別な民であると理解していた。そのナショナリズムは、本日の箇所から見ることができる。しかし、それでも神の大いなる愛をも、その箇所から見ることができると思うのである。「寄留の民」はイスラエルに加わるという言葉である。ナショナリズムを記しているが、それでも神の愛を隠すことはできない。神はイスラエルの民だけを特別としているのではなく、神を信じる者を必ず救ってくださる。いや、神を信じる者こそがイスラエルの民であると言えるであろう。新約聖書を通してイエスの恵みを示された私たちは、そのことに気づくべきである。つまり、神は特定の民、特定の人のみを愛し救うのではない。神は全ての人をご自分の民として導かれるのである。そのことをこの世に示された方こそ、神の独子イエス・キリストなのである。
 3節に「主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日がくる」とある。確かにそれはバビロンの支配から解放されることを示している。しかし、現代の私たちにとって、それはイエスによる救いの業ではなかろうか。イエスはその生涯を通して救いを示された。とくに十字架によって私たちの罪を共に負い、この世的な苦悩、欲望から私たちを解放し、神と共に歩むため新たなる者として導いてくださっているのである。本日の箇所は、イスラエルの民がバビロニアの支配から解放され、エルサレムへの帰還の希望が示されている。同じように、神は私たちを忘れることなく、必ずお導きくださる。私たちはただ神の導きを信じたいと思う。神を信じることこそ、私たちの希望となる。また、この喜びを多くの人と分かち合いたいと思う。

祈祷  慈しみ深い主なる神様 イスラエルの民は、何度も神を裏切りました。しかし、神は必ずイスラエルの民を救ってくださいます。そのイスラエルの民とは血族的な意味ではなく、神を真に信じる者たちのことである、と私は理解します。今日の箇所でも寄留の民を神は招きます。また神の独子イエスこそ、全ての者を招いてくださっています。どうか、私たちが神を信じ、神の救いを確信し、希望をもって日々歩むことができますようお導き下さい。また神の導きという希望を多くの方々と分かち合いたいと思います。世界各地で地震、自然災害が起こっています。苦難、不安の中にある方をお支えください。そのため私たちをお用いください。寒暖の差が大きくなっています。全ての人、特に年を重ねられている方、幼い子供たちの健康をお守りください。病の中にある友を心身ともにお癒しください。手術を受けられる友のこと覚えます。どうか成功しますように。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。報復は神のなさることであると聖書に記されています。どうか指導者が人間的な策略ではなく、神の愛に倣うことができますように。ゴールデンウィーク、事故など起こらぬようお守り、よき休みとしてください。一週間歩み御前に集いました。今日、集うことのできない友のことを覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場、Zoomなどにおいてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美するときとしてください。そして、この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間、また今秋から始まる新しい月の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく日々歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン


2024/04/21 復活節第4主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ペトロの手紙(1) 4章 7~11節」  聖書朗読
04:07万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。 04:08何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。 04:09不平を言わずにもてなし合いなさい。 04:10あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 04:11語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「互いに仕え合う」  先週、鳥専門のペットショップに行ったところ、良い出会いがあった。オカメインコを新たな家族として我が家に迎えることとなった。娘が10年以上前からペットを飼いたいといっていた。そこで今年、誕生日プレゼントとしてインコを迎えることになったのである。県外のペットショップに午後から出かけたので、帰りが遅くなってしまった。いつもなら息子が、お腹がすいたと言い始める。しかしこのときは、息子は何も言いださなかった。途中、お菓子屋さんがあったので「寄ろうか」と言っても息子は、「インコが車の中ではかわいそうだから、早く家に帰ろう」と断った。そのインコは姉のためであったが、息子もこのインコを「可愛い」といって、迎えることを喜んだ。「可愛い」という気持ちは、お腹がすいたという思いを越え、自分のことよりもインコのことを思う気持ちになったのである。私は驚きとともに嬉しい気持ちになった。相手を想う気持ちを、インコを通して息子が持った。これからも、相手を想う気持ちが、より強くなってゆけばと思った。余談だが、あまりにも可愛がりすぎて「私が世話をする」と姉弟喧嘩が起こるのは、勘弁してほしいところである。  さて、ペトロの手紙(一)には、ローマ帝国による迫害、あるいは地域社会からキリスト者が迫害されていたという背景があると考えられる。当時、キリスト者は少数だった。そこで、当時のキリスト者はどのように歩んだのか。  7節に「万物の終わりが迫っています」とある。つまり、世の終わり、裁きの時、神が救われる者と裁くものとを分けるとの、その出来事が迫っているという警告である。しかし、ペトロの手紙(一)の全体としては、終末の到来を強く警告しているわけではない。この個所でも終末の到来を強調しているのではないと考えられる。ここでは終末がすぐ来るということを示すことによって、今行うべきことを強調していると考えられる。それは、心をこめ愛し合うこと、「愛は多くの罪を覆う(8節)」こと、もてなし合うとこと、そして、「互いに仕えなさい(10節)」ということである。つまり、手紙を読む人々に、神を中心とする愛によるつながりを強調するため、終末の到来を出しているのではないかと私は考える。困難の中にこそ、神は私たち人間と共にいてくださる。そして、神を中心とし支え合うことによって、その困難を乗り越えることができる。そのことを、迫害の中にある当時の教会の人々に示していたといえよう。  8節に「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」とある。迫害、中傷にあっているとき、大切なのはキリスト者同士が支え合うということではなかろうか。だからこそ、心を込めて愛し合うことが必要となる。そのことによって、苦難を乗り越えることができると思う。  9節には「不平を言わずにもてなし合いなさい」とある。旅人を丁重にもてなすことが当時のしきたりだった。それは、相手を受け入れるという姿勢といって良いのではなかろうか。それは、キリスト者同士のもてなしと考えられる。  10節に「賜物を生かして互いに仕えなさい」と、11節後半には「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」とある。そこでペトロは「賜物を生かして」と言っている。私たちは、神から命を与えられた。そのとき一人一人に賜物が与えられている。賜物とは、神からいただいたものである。命こそ神から与えられたものである。つまり、私たち一人一人が神から必要とされ命を与えられ、賜物を与えられているのである。しかも、次のように記されている。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい(10節)」。すべての人が自分の賜物にふさわしく、それを用いて互いに仕え合い、隣人を愛しなさいと示しているといえるのではなかろうか。  ペトロの手紙(一)の4章7節以下に記されている愛とは、内向けの愛といってよいであろう。つまり、教会内における愛である。それは仕方がないと思う。当時のキリスト教は迫害を受けていたからである。だからこそ、教会の内部において一致団結を図るため、教会内の結束を強めるため、内向きの愛を記している。つまり支え合いなのである。  一方この手紙は、それだけでは終わらないと私は理解している。キリスト者は力を合わせ一致団結し、イエスに従い、イエスの愛に倣う。イエスの愛に倣うことによる業は、この世においても正しい行いである。正しい、愛なる歩みを行うことによって、迫害している人々もきっとキリスト教を理解してくれるという思いがある。つまり、内部の結束を強めることによって神の愛をこの世に現わすことを目指したと理解できないかと私は考えるのである。  そのことは現代の日本、今ここにいる私たちにとっても同様であると思う。ペトロの手紙の時代より現代の日本の方が、キリスト教は認知されているであろう。一方で、それでもキリスト者は、少数である。そこで、私たちは何をすべきなのか。私たちは神から一人ひとり賜物が与えられている。それを自分のためではなく、他者のために用いることが大切なのである。その時、重要なのが「互いに仕え合うこと」だと思う。つまり、私たち共同体のことを、相手のことを考え、互いに何を行えばいいのかを分かち合い、行っていく。そのことによって、私たちの教会の歩みはひとつとなっていくのである。一人の力は弱いかもしれない。しかし、私たちが「互いに仕え合うこと」によって大きな力となっていくのではないだろうか。私たちはイエス、神の愛に倣いたいと思う。イエスこそ一人ではなく、共同体として歩んだ方であった。いや、共にあることの大切さを教えてくださった。イエスには、12人の弟子がいた。イエスが天に上げられた後も、12弟子を中心とする仲間がいた。であればこそイエスの弟子たちは、イエスの救いを述べ伝えることができたのではなかったか。  またイエスは、神の愛を必要としている人々と共にいた。共にいるということこそ大切なのではなかろうか。私たちにも教会の友がいるということが大切なのである。それは神を讃美する仲間である。そのため、まず礼拝を中心にして、神の愛を受け、また、神から与えられる恵み、賜物を確信したいと思う。神は私たち一人ひとりに賜物、恵みをお与えくださっている。そして、その賜物を「互いに仕え合う」ために用いたいと思う。そのことによってこそ、私たちは一致団結し、神、イエスの愛をこの世に現わすことができるのである。  さて本日は、礼拝後に総会が行われる。私は今年度の聖句をペトロの手紙(一)の4章10節「「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」とした。教会標語を「互いに仕え合う共同体」としたいと考えている。昨年の5月から新型コロナウイルス感染症は、5類移行となった。それに伴い、様々なことが世間的にも通常の状態となってきた。筑波学園教会も少しずつ通常の状態に戻ってきた。そこで、改めて、神から与えられた賜物を互いのために用いあい、教会においてよき交わりを持ちたいと私は考えている。そのことによってこそ団結し、宣教を行うことができると私は考えるからである。  宣教にこそ、人と人との交わりが必要である。この交わりの中に神、イエスがいてくださるのである。イエス、神の愛をこの地で多くの人と分かち合いたいと思っている。また、正月には能登半島沖地震が起こり、海外でも地震、噴火、また、先日は愛媛・高知において震度6弱の地震が起こった。教会が団結することによってこそ、外部に対する働きも行うことができると思う。教会内部において、また、外部においても「互いに仕え合う共同体」として今年度歩みたいと思う。相手を思うことによって、また、互いの賜物を用い合うことによってこそ、神の愛はより大きなものとなるからである。

祈祷  いつくしみ深い神様 神は、一人一人に賜物をお与えくださいました。それは、わたしたちを信頼し、神の業に招いてくださっているということです。わたしたちが、賜物を確信し、互いに、そして、社会に仕えることのできるものとしてください。先日は、愛媛・高知、台湾で地震、そして、海外で噴火、大雨も起こり、新しい年から自然災害が多くなっているように思います。どうか被災された方一人一人共にいてくださいますように。希望の道を照らしてください。わたしたちにできることがありましたらお用いください。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友を心身ともにお癒しください。手術を控えている友を支え手術を行うため体調を整えてくださいますように。今、病床にある方を覚えます。どうか、主の癒しがありますように。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。争いは負の連鎖を起こし、悲しみ、憎しみしか起こりません。そこで被害にあるのは弱い者、特に子供たちです。子どもたちに素晴らし将来を与えるため戦争を止め、互いに手を結ぶ世としてください。新しい歩みをされた方々のことを覚えます。どうか新しい歩みの上に主の導きがありますように。特に、施設に入所された方のことを覚えます。どうか環境に慣れ、良い日々を過ごすことができますように。礼拝後に、教会定期総会を行います。どうか、御心に適うようお導きください。一週間歩み、御前に集いました。今日、集うことのできない友のことを覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場で、またオンラインにおいて、あなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊、祝福を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美するときとしてください。そして、この礼拝を通して、一週間の罪あなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン


2024/04/14 復活節第3主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「詩編 145編 1~21節」  聖書朗読
145:01【賛美。ダビデの詩。】わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。 145:02絶えることなくあなたをたたえ/世々限りなく御名を賛美します。 145:03大いなる主、限りなく賛美される主/大きな御業は究めることもできません。 145:04人々が、代々に御業をほめたたえ/力強い御業を告げ知らせますように。 145:05あなたの輝き、栄光と威光/驚くべき御業の数々をわたしは歌います。 145:06人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。 145:07人々が深い御恵みを語り継いで記念とし/救いの御業を喜び歌いますように。 145:08主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。 145:09主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。 145:10主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ 145:11あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。 145:12その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。 145:13あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。 145:14主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。 145:15ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。 145:16すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 145:17主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。 145:18主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし 145:19主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。 145:20主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。 145:21わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「あなたの奇跡を歌います」  大学での講義でのこと。学生8名ほどのクラスで、教授が「あなたにとって奇跡とは何か」と質問した。そこで一人ずつ答えていった。私は「私という存在が今ここにあること」と答えた。命を与えられたことこそ奇跡であり、神からの賜物であると考えていたからである。基本的に、その考えは高校生の頃から、今でも変わっていない。皆さんにとって奇跡とはいかなることであろうか。
 昨年度から、詩編を月に一度、説教で用いている。本日の日本キリスト教団の聖書日課は、詩編145編1~9節である。本日は145編の最後の21節までに、共に心を傾けたいと思う。詩編のこの箇所は、「アルファベット詩」とも言われている。「いろはうた」のようになっている。そのことは最初に括弧書きで記されている。文の頭文字が「アルファベット」の順で記されているからである。しかし、日本語に訳すときには、そうはできない。145編が、アルファベット詩であることなどから考えると、個人的な詩であると考えられる。それでも、個人だけのことを詠っているのではないということが、145編の特徴としてあげられる。
 4節には、「人々が、代々に御業をほめたたえ」とある。神をほめたたえるということを、世代から世代へと受け継いでいくということが意味されている。神への褒めたたえは個人のことではなく、受け継いでいくものであるということである。また、10節「主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ」とある。ここでは、すべての被造物、神によって創られたものが共同体として並んでいるというのである。私たち神によって創られたものは、すべての存在が神の前では同等であり、神によって慈しみを受け、生かされているといってよいであろう。神によって創られたすべてのものには上下関係などない。すべてが神に愛されている存在として共に生きるということである。また、15~16節には「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます」とある。神は、すべての生きものに食べ物を与えてくださるというのである。
 では、神は、いかなる方なのか。最初に「わが王、神よ」との呼びかけがある。また、13節に「あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に」とある。11~13節に「主権」とある。それは「王権」とも訳すことができる。つまり、神は、この世を創った方として、この世に対して王としての権威を持っておられる。この世を支配されているのは王である神なのだということである。だから、1節に「わが王」とある。それも145編で特徴的なことであるといえよう。
 では、その王権とは、いつからいつまでなのであろうか。1節に「世々限りなく」とあるように、神の王としての支配は永遠であるということである。だからこそ、4節には代々に御業をほめたたえるとあり、わたしの世代だけが神をほめたたえるのではなく、その後の世代にも神をほめたたえることを継承すべきであるというのである。
 神の支配とはいかなるものなのか。8~9節に「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちています。主はすべてのものに恵みを与え/作られたすべてのものを憐れんでくださいます」とある。神の支配は強制的な権力ではない。恵みに満ちあふれ、憐れみ深く、慈しみに満ちている。8節に「忍耐強く」とある。他の訳では「怒るにおそい」また、「怒らず」とも。神は、怒る方ではないというのである。そこからも、神とはいかなる方かを伺うことができる。神は、この世にあるものを愛し、生かし、お導きくださる。
 本日の箇所を私が選んだのには理由がある。それは、本日の説教題の「あなたの奇跡を歌います」である。それは、5節後半の詩文で、他の学者の訳である。新共同訳聖書では、4節後半「驚くべき御業を告げ知らせますように」である。多くの訳が「驚くべき業、不思議な業」としている。直訳でもそうなるであろう。一方、「奇跡」という訳は他にはなかった。日本語訳で「奇しき業」というのが、それに近いといえるであろう。なぜ、「奇跡」と訳したのか疑問に思った。そこで、その言葉を説教題とした。「奇跡」と訳した理由は、結局わからなかった。5節の「あなたの不思議なみ業の言葉」の「不思議なみ業」は、出エジプトの奇跡を思わせる語、例えば出エジプト記の3章5節「わたしは自ら手を下し、あらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。」の「驚くべき業」にあたる。私なりには、そのように理解した。奇跡は日本語の辞書でも「神の示す思いがけない力」と記されている。そもそも神の行われることは、人間には理解できない不思議なもの、いや、人間には計り知れないことである。神を人間の考え、人間の範疇で理解することなどできない。神こそ偉大な方である。人間は、無から何かを創り出すことはできない。しかし、神は無からこの世を創り出した。それだけではない。人間は神に従う者として創られた。それにもかかわらず、人間は神に背いてしまった。そのような人間を、神は怒らず、慈しみ、恵みを与え、生かしてくださっている。神の業の背後には、無償の愛があるといっても過言ではないであろう。私は思う。神の業一つひとつが人間にとって奇跡であると。7~8節に対して、次のような理解がある。「つまり、神の憐みには限界がないということであり、どのような場、状況においても神の憐みは届くということです」。これは、人間にとって大きな希望であり、救いであると思う。
 そして、この救いをこの世に現わした方こそ、神の独子イエス・キリストである。13節に「あなたの主権ははとこしえの主権/あなたの統治は代々に」とある。先ほども、神の支配は永遠だと示された。13節は、ダニエル書3章33節後半「その御国は永遠の御国であり、支配は代々に及ぶ。」など、アラム語では同じあるという。それは黙示文学を通じ、イエスの宣教における「神の国」につながり、福音の中心をなすというのである。つまり、そこにはイエスが宣べたことが示されている。
 それだけではない。詩編145編は、ユダヤ教において、神讃歌の代表として、日毎の讃美の祈りに用いられていたようである。そこで、次のような理解があった。イエスが弟子たちに与えた「主の祈り」が、詩編145編と通ずる面をもっているというのである。まず「主の祈り」のはじめ「御名があがめられますように」が、21節「世々限りなく聖なる御名をたたえます」と重なり合う。「御名をあがめる」とは「御名を聖とする」という意味だからである。11~13節に反復される「あなたの主権」と、主の祈り「み国をきたらせたまえ」の「み国」がギリシア語では同一となる。先ほどの13節の説明とも重なるであろう。そして、「日毎の糧を与えたまえ」という「主の祈り」の言葉は、15節「あなたはときに応じて食べ物をくださいます」と響き合う。正直言うなら、詩編145編が「主の祈り」の直接的な下敷きになったとは言えないであろう。しかし、詩編145編が当時のユダヤ教徒の間で広く口ずさまれていたとすれば、両者の間のこのような関連は決して偶然でなかったとうということである。この理解はとても面白いと思う。
 詩編145編は、新約聖書に通じる、いや、イエスに通じると言ってよいのではないかと思うのである。イエスが述べた「神の国」、また、弟子たちに教えた「主の祈り」に通じる。それだけではなく、イエスは神の愛を述べ伝えた。「神は忍耐強い」、そして、神は慈しみ深く、その慈しみはどこにいても届く。この神の愛は、イエスの業に通じると思う。ユダヤ教の権力者たち、いや、弟子たちでさえイエスを理解できなかった。それでもイエスは忍耐強く、慈しみをもって導いた。そして、なぜイエスが奇跡を行ったのかということにも通じるように思う。つまり、イエスの業は、人間には思いもしない神の不思議な業である。詩編145編がイエスに通じるのではなく、イエスの業こそ旧約聖書から行われている神の業であり、神への信仰をイエスが継承するために、この世に遣わされ私たちに神の愛を教えて下さったのである。そのように言えるであろう。それは、イエスの業、奇跡が、十字架において示されている。その背後には、神の無償の愛がある。敵をも愛し、赦す十字架こそが奇跡に他ならないように思う。人間には思いもよらない神の奇跡、神の不思議な業、神の恵み、慈しみを、私たちは今も受けていると確信すべきなのである。神の偉大な業を信じた時にこそ、人間は取るに足りないものであると、神の前ではすべてのものが同じであり、神に生かされてしまっているものにすぎないと思うことができる。そのように謙虚になることができる。この理解は大切である。人間自身の過大評価という罠におちいることから避けることができるからである。神の不思議な業、奇跡、愛を確信した時にこそ、私たちはただ神に生かされているものに過ぎない。食べ物も神が与えてくださる。食物、神の愛を私たちは自分だけのものにせず、多くの人と分かち合うものであると思うことができる。神、その独り子の不思議な業、奇跡を信じ、神の王としての主権、この世は神のものであり、神の導きによってなっているのだと気づくべきなのである。私たちは神に生かされてあることを知ったとき、神によって創られたすべてのものと共に、共同体として謙虚に歩むことができる。きっとそこには争いはなくなるであろう。神の大いなる働きをただ信じることこそ私たちの希望であり、また、よりどころなのである。神に従い、全てのものと共に歩むものになりたいと思う。そこにこそ、平和が訪れる。神こそ歴史の中で私たちを生かし、導いてくださっているのである。

祈祷  恵み深い神様 あなたはただ私たちを愛し、その大いなる御業によってお導きくださっています。神の業は私たち人間には思いもしない大いなるもの、奇跡です。また、神は全ての者を愛し、生かしてくださっています。私たちが神の前で謙虚になり、この世にある全ての者と共に歩むことができますよう、お導きください。神の御業を信じることこそ希望、そして、生きる支えになります。また、その業をこの世に現わしてくださった方こそ独子イエスです。どうか、この喜びを多くの人と分かち合うことができますように。そのため私たちをお用いください。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友を心身ともにお癒しください。手術を控えている友を支え、手術を行うため体調を整えてくださいますように。今、病床にある方を覚えます。どうか、主の癒しがありますように。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。出産を控えている方、母子ともに守りください。どうかこの世に争いがなくなりますように。争いにどんな理由などありません。それは言い訳にしか過ぎないと思います。神は争うためにこの世を創られたのではありません。神の愛によってこの世は創られました。どうかすべての人、特に指導者たちに神の愛を注ぎ、その愛に従って判断することができますように。新しい歩みをされる方々のことを覚えます。どうか新しい歩みの上に主の導きがありますように。新しい命を祝し、お導きください。一週間歩んで御前に集いました。今日、集うことのできない友のことを覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場、Zoomなどにおいてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊、祝福を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美するときとしてください。そして、この一週間の罪、昨年度の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間、明日から始まる新しい年度の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。 アーメン


2024/04/07 復活節第2主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 21章 15~25節」  聖書朗読
21:15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 21:16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 21:17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 21:18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 21:19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。 21:20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。 21:21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。 21:22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 21:23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。 21:24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。 21:25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「愛しているか」  私が以前読んだ本には、ペトロを過小評価すべきではないと記されていた。私たちはイエスの弟子ペトロに対して、どのようなイメージがあるだろうか。ペトロのイメージは、お調子者であろう。イエスが湖の上を歩いていると、自分もイエスさまの元まで歩かせてくださいと求め、歩いた。しかし途中で恐れ、沈んでしまった。イエスが十字架を預言すると、「そのようなことは言ってはいけません」とペトロはイエスをたしなめ、そのことで怒られた。また、イエスがペトロに、「明日の朝まで三度私のことを知らないと言うだろう」と予告したが、「決してそんなことはありません」とペトロは否定した。しかし結局、イエスが裁判にかけられている時、周りの人から「おまえはイエスの仲間だろう」と問われると、ペトロは「イエスのことなど知らない」と三度も述べてしまった。そのようなことから、ペトロの人間的な弱さを見ることができる。一方、ヨハネによる福音書によれば、イエスが捕らえられた時、ペトロが剣を出して兵士の耳を切ったと報告されている。それは、イエスを守る勇敢な弟子の姿である。しかしペトロは、イエスが十字架にかけられるという預言を理解していなかった。イエスは武力に対して無抵抗だった。そのことを理解していなかったペトロの姿が書かれている。
 私は、そのようにお調子者で弱く、イエスのことを理解できなかったペトロが、とても好きである。ペトロは弟子たち、いや、私たち人間の代表といえるであろう。では、本当にペトロは弱く、無理解でお調子者だったのか。そうではない。イエスが十字架に付けられ、復活し、その後イエスが天に挙げられてから、ペトロは原始キリスト教団の中心人物となっていった。しかし、聖書を読んで、次のように思われるかもしれない。原始キリスト教団の中心エルサレム教会は、その後、イエスの弟ヤコブが中心人物となった。また、ユダヤ人以外の伝道の中心人物はパウロである。
 ペトロの権威は弱くなり、またその活動の力もなくなったのであろうか。いいえ、私たちはペトロを過小評価してはいけないと思う。例えば、カトリックのローマ教皇は、ペトロの後継者であることを宣言している。カトリックで一番上に立つ教皇は、パウロでもイエスの弟ヤコブでもなく、ペトロの宣教の後を継いでいるのである。そこからペトロの影響力、働きを想像できると思う。また、ペトロの権威が聖書に特別記されていないのは、ペトロが決して独裁的な指導者ではなかったということの表れなのかもしれない。ユダヤ主義になり異邦人にも割礼を受けさせるべきだと唱えていたキリスト者に対して、ペトロはユダヤ人にも負いきれなかった律法のくびきを異邦人にも負わせるべきではないと異邦人伝道を擁護した。ペトロは様々な立場を受け入れるという姿勢を持っていたと考えられる。イエスの弟子ペトロを見ることは、イエスを見ることになるのと思う。
 さて、ペトロとは、一見お調子者で弱く、イエスを理解していなかったように見受けられる。しかし本当にそうだったのか。ペトロのそれは、ある時までであったと私は考える。その時とはいつであったか。
 本日は、ヨハネによる福音書21章15節以下が与えられた。復活したイエスが、7人の弟子に現れ、一緒に漁に行き、そして、食事の後のことである。復活のイエスは、ペトロに「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問うた。他の誰よりもイエスを愛しているかと問うたのである。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。するとイエスは「わたしの子羊を飼いなさい」と伝道の責務をペトロに委託した。再びイエスはペトロに「わたしを愛しているか」と問うた。ペトロは、さきほどと同じように答えた。イエスもまた「羊を飼いなさい」といった。そうすると再び、つまり三度目、イエスは「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と問うた。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。するとイエスは「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と述べたのである。その言葉の後半「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」とある。「両手を伸ばして」とは、十字架に架けられた姿を意味していると理解できよう。そこで、ペトロがこれから受ける迫害と殉教の死をイエスは予告していたのである。ただ、この解釈には反対している学者もおられる。
 さて、イエスは、意地悪なのか。ペトロに三度も「わたしを愛しているか」と問うた。ペトロは信頼されていないのではと不安になったのではなかろうか。次のような意味があったと考えられる。イエスは、ペトロが三度、イエスのことを知らないと言うだろうと予告した。その通りペトロは、イエスとの関係を三回も否定したのである。イエスが本日の箇所で三回「わたしを愛しているか」と問うたのは、ペトロが三度「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えたことによって、イエスのことを三度知らないといった罪を赦しているのだと、ペトロがイエスを裏切ってしまったという重荷を帳消しにしているのだと受け取れことができる。だからこそ三度イエスはペトロに問うた。
 同時に、私は次のように考える。イエスの最初と二度目の「愛しているか」という問いの愛は「アガペー」つまり、見返りを求めない神の愛を用いた。それに対してペトロの述べた愛は「フィレオー」であり、それは兄弟間の愛である。しかし、イエスは三度目の「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」は、ペトロが答えた愛「フィレオー」という言葉を用いて問うたのである。現代の解釈では、そこでアガペーとフィレオーの違いはなく、単なるギリシャ語の言い回しだという理解が正しいとされている。
 しかし、最後にイエスがペトロの用いた言葉「フィレオー」を用いて質問したことに意味があったように私には思えてならない。イエスはペトロの立場に立ち、ペトロと同じ視線で、いや、ペトロが真にイエスの問いに答えることができるように「わたしを愛しているか(フィレオー)」と述べたのではないかと。そのときペトロは、イエスの愛に気づいたのではなかったか。弟子たちの足を洗ったイエス、助けを最も必要としている者の側に、貧しい人々の立場に立ち、その重荷を共に負ってくださったイエス、そしてすべての者の友となってくださったイエスのことをペトロは思い出した。ペトロは、自分の重荷をイエスが負ってくださり、そして、イエスを裏切ってしまったという罪が今赦されたと確信した。だからこそ、イエスが予告したようにその後、迫害にあってもペトロは、イエスの愛を述べ伝えることができたのである。つまり、この三回の、イエスがペトロに「愛しているか」と問うた出来事から、ペトロの新しい歩みが始まった。いや、復活のイエス・キリストがペトロを赦し、新しい歩みを始める力をお与えくださった。ペトロもイエスと共に復活したのである。だから、ペトロはイエスによって赦され、受け入れられたことによって様々な立場を受け入れることができるようになったと私は想像するのである。
 その出来事は、決してペトロだけのものではなかった。ペトロは、弟子たちの代表、いや、私たちの代表なのである。イエスは、私たちの罪に対してもペトロと同じように赦しを与え、それだけではなく前に歩むよう力づけてくださる。「フィレオー(わたしの友よ、あなたはわたしを愛しているか)」とイエスは私たちに今、問うているのではなかろうか。先週は、イエス・キリストの復活を祝った。それはペトロに新たな歩みの励ましを与えたように、私たちにもイエスの復活の恵みが与えられたのである。だからこそイエスの赦し、復活こそわたしたちの希望なのである。私たちも新たなる者とされたという希望である。私たちはペトロと同じように復活のイエスに従う者になりたいと思う。

祈祷  愛なる神様 復活のイエスは、ペトロに三度「愛しているか」と問われます。それは、ペトロが三度イエスとの関係を否定した罪を赦すためです。イエスは、私たちにも問うています。そして、復活のイエスは、ペトロ、私たちの罪をお赦しくださり新しい歩みへの力を与えてくださいました。それは、復活のイエスと共にわたしたちも復活し、新たなるものとされることであると信じます。台湾で大きな地震が起こりました。能登半島地震でもまだまだ困難の中にある方がいます。苦しみ、悲しみの中にあるかたがたをお支えください。季節の変わり目、天候が不安定になっています。どうかすべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。病の中にある友を心身ともにお癒しください。手術を控えている友を支え、手術を行うため体調を整えてくださいますように。悩み、悲しみ、不安の中にある友、介護看病をされている友、一人で暮らされている友、教会に集うことのできない友をお支えください。新しい命のうえに、主の祝福とお導きがありますように。争いで被害にあうのは弱い者です。どうかすべての人が手を結び歩む事ができますように。学校、仕事など新しい歩みをはじめられた方々のことを覚えます。どうか新しい歩みの上に主が共にあり、祝し、お導きくださいますように。一週間歩み御前に集いました。今日、集うことのできない友のことを覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場において、あるいはオンラインで、あなたを讃美するときを持っていることを覚えます。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの祝福があり、全ての人が心を一つに合わせ讃美するときとしてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わしてください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。 アーメン


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