主日礼拝メッセージ

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2022/11/27 降誕前第4主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「出エジプト記 23章10~13節」  聖書朗読
23:10あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。 23:11しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。 23:12あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。 23:13わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「どの立場に立つのか」  音声配信
 (要旨掲載 準備中)

祈祷  (祈祷掲載 準備中)


2022/11/20 降誕前第5主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(1) 15章 20~34節」  聖書朗読
15:20しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 15:21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 15:22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 15:23ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 15:24次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 15:25キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 15:26最後の敵として、死が滅ぼされます。 15:27「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。 15:28すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。 15:29そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。 15:30また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。 15:31兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。 15:32単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、/「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。 15:33思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。 15:34正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「復活があるのだから」  イエスはユダヤ人であり、最初ユダヤでイエスの救いが述べ伝えられた。イエスが天に召された後、ユダヤ人以外にもイエスの救いが述べ伝えられた。そこで大きな働きをした人こそがパウロだった。コリントの教会は、パウロの宣教によって設立した。私はトルコに旅行したとき、ローマ支配の力を古代遺跡から知った。パウロが異教の神々のもとでイエスの救いを述べ伝えたことを考えると、私は鳥肌が立った。なぜなら誰も知らない土地で、誰も知らない神の救いを述べ伝えることは、想像もできない勇気と信念が必要であると思ったからである。
 人々は復活を信じたであろうか。この手紙を記したのはパウロで、それはイエスが天に召されてから約20年後だったと考えられている。当時は、神の国がすぐに到来すると信じられていた。神の国は神の完全な支配であり、その前に天に召された方々が復活するというのであった。一方、コリントの教会では、聖霊を与えられた自分たちは既に復活しているのだと考える人々が現れた。それらのため教会は混乱した。そこで、パウロは混乱をおさめるためにコリントの教会に手紙を書いた。
 ローマの信徒への手紙5章12節に、パウロは記した。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」と。最初の人間アダムは、楽園において、食べてはいけないと神にいわれていた木の実を食べた。そのことから、人間は罪をもって生まれるようになった。それを原罪という。そしてこの楽園追放の出来事を、アダムが罪を犯したために人間に死が与えられたとパウロは理解した。22節には「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになった。死者の復活も一人の人によって来るのです」とある。イエスは、十字架に掛けられて死に三日目に復活した。アダムによってすべての人が死ぬことになったように、逆に、イエスという神の独り子が死から復活したことにより人間も復活するのであるというのである。20節に「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」とある。「初穂」とは、最初に実った穂であり、神への感謝の献げものである。イエスは、人間の罪を帳消しにするため、自分を初穂とし、十字架を通して神に献げた。そして、復活した。そこで「初穂」とは復活を意味のである。
 パウロは、既に[自分たちは]復活していると主張している者、またその言葉に惑わされている人々に、復活の順番を語った。最初にキリスト、次に、キリストを信じる者たちが復活し、神の国が到来するのである。キリストは、権威、すなわちこの世的な価値観、人を惑わす思想など、神の愛に対する敵をもご自分の支配下に置き、それを神にお渡しする。しかも、最後の敵として死をも、滅ぼすというのである。死は悪が支配する場であり、死を滅ぼすとは死という恐怖、闇から解放するということである。
 コリントの教会の人々を説得するため、パウロは次のように語った。29節「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」と。その箇所は理解が難しい。言葉通りに受け取ると、イエスの救いを知りながら洗礼を受けずに死んだ者は、神の救いに与れないのか、すなわち復活しないのかという不安があったと考えられる。そこで当時、死者の代わりに代理人がこの世において洗礼を受けるということが行われていたと考えられる。死者も代理の洗礼によって神の救いに与ることできる。そこで、代理洗礼を受けた死者はまだ復活していない。何のために代理洗礼を受けたのか。まだ、復活の時ではないのだとパウロは説明した。ただ、パウロは、死者の代理洗礼を喜んで認めていたわけではなかったと理解できる。パウロは、洗礼に魔術的な理解はもっていなかった。代理洗礼については認めてはいたが、勧めもしなかったというところであろうか。また、パウロは、既に復活していると主張しながら、死者の代行洗礼を行っているのは矛盾していないかと指摘したと考えられる。自分の都合のよいように神・イエスを理解していることを、指摘していたといえるであろう。
 31、32節に「兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」とある。この言葉を、私は次のように理解したい。「日々死んでいます」と。パウロはイエスの救いを述べ伝えることによって、さまざまな迫害と苦難にあった。使徒言行録によるとパウロは、リストラにおいて石打で殺されそうになり、他にも人々を惑わしていると訴えられ牢獄に入れられた。そのうえ、パウロには身体的問題もあったと考えられる。また「野獣と闘った」とは、現実ではなく「野獣」とは、そのくらい恐ろしい敵がいたことを意味すると理解できる。つまり、パウロにとってイエスの救いを述べ伝えるという働きは、まさしく命がけであったといえる。
 そして、34節には「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです」とある。この言葉は厳しい。恥じ入らせると述べることにより、パウロは彼らが自分のことしか考えていないという罪と向かい合うことを勧め、そして神の御心、愛はどうであるかを考えるようにと導いていたのである。パウロの言葉は、厳しかったかもしれない。しかし、神の救いへと導きたいという思いがあったからこそ、パウロは、厳しく述べた。その意味で、愛の導きだったと思うのである。
 復活を信じるとは、いかなることであったか。神は、独り子イエスをこの世に遣わした。それは、弱く都合よく利己的になってしまう人間を、ありのまま受け入れてくださり、救いへと導くためであった。多くの人を救いたいという神の愛を知り、パウロは命をかけて神の救いを述べ伝えた。その原動力の一つが復活を信じることだったといえるであろう。パウロは、復活のイエスこそ、この世的な権威、価値観、人々を惑わす考え、死さえも、すべて支配すると言った。これは、この世的な苦難、価値観からの解放を意味する。つまり、復活は希望であるといえよう。わたしたちには、復活という希望をもつことが許されている。復活を信じるということは、将来への希望と同時に、神に応答し、将来に向けて今をいかに生きるかを考えることである。復活こそ、完全な救いである神の国に入ることができる前提の一つである。神の永遠の導きである復活があるからこそ、将来への希望と同時に、神の愛に応答し違いを受け入れ合い、今を大切に誠実に生きることができるのである。現代の私たちは、復活をどのように思っているであろう。しかし、そこにこそ神の愛、イエスの救いがあることを信じたいと思う。つまり、復活という神の国の救いの希望こそ、今を大切に生きる力になるのである。

祈祷  憐れみ深い神さま パウロは、復活、神の国の到来を語りました。それは命がけの出来事です。パウロはなぜ、命がけでイエスの救いを述べ伝えたのでしょうか。それは、すべての人が救いに与る、それが神の御心だからです。神の御心こそ愛です。どうか私たちが復活という希望を持ち、神の愛を多くの人と分かち合うことができますよう、お導きください。また、私たちが神の愛に応答し、互いに愛し合い、受け入れ合うことができますように。そして日々、希望をもって歩むことができますようお導きください。報復は神がなさることだと聖書に記されています。神は、人間同士が殺し合うこと、憎しみ会うことを求めておられません。互いに愛し合うため神は、この世を創られました。どうか憎しみではなく、愛を私たちが行うことができますように。また、争いで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。子どもたちに良い未来を与えることができますように。どうか互いの命を尊重し、手を結びあう世としてください。新型コロナウイルス感染がまた拡大し、第八波がはじまったと言われています。収束しますように。これから寒さが増してまいります。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。神の名を用い、人を不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。新しい命、子どもたちを祝し、お導きください。新しい歩みをはじめられた方々の上に祝福がありますように。次週から、神の独子イエスの誕生を待ち望む、アドベントになります。どうか多くの人と御子の誕生を喜ぶことができますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますよう、お支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/11/13 降誕前第6主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「出エジプト記 3章1~15節」  聖書朗読
03:01モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 03:02そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 03:03モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 03:04主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 03:05神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 03:06神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 03:07主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 03:08それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 03:09見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 03:10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 03:11モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 03:12神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」 03:13モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 03:14神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 03:15神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「在って在るもの」  旧約聖書出エジプト記3章1節によれば、モーセは、ミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていた。そのとき芝の間で燃え上がっている炎の中に、神の使いが現れた。すると主は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った(7節)」と言われた。今から約3300年前、唯一の神を信じるイスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しみの中にあった。神は、イスラエルの苦しみの叫びを聞かれた、いや神自身が民の苦しみを感じながら叫びを聞いたのである。そして、モーセを指導者とし、イスラエルの民をエジプトから脱出させた。神がエジプトから脱出するために指導者としてモーセに使命召命を与えた場面である。神は、イスラエルの先祖であるアブラハムと契約を交わした。その契約のゆえ、神はイスラエルの民を守り、導びいてくださった。そして、8節、神はイスラエルの民をエジプト人から救いだし、乳と蜜の流れる地、豊かな地に連れて行くと約束した。そのため、神はモーセに、エジプトの王ファラオの元に交渉に行けと言ったのである。
 そこでモーセの生い立ちを見たい。モーセが誕生した時代、エジプトでイスラエルの民が増えていることを、エジプトの王ファラオは恐れた。そこで王ファラオは「イスラエルの民に生まれた男の子を一人残らずナイル川に放り込め」と、つまり殺せと命令を出した。しかし、モーセの母は、モーセを助けようと、防水した籠に赤ちゃんのモーセを入れ、ナイル河畔の茂みに置いた。すると、ファラオの娘がその籠を見つけ、自分の子どもとして赤ちゃんを育てることになったのである。モーセは、イスラエルの民として、唯一の神の信じる交わりの中で育ったわけではなかった。王宮で育ち、エジプトの上層教育を受けた。そのような教育を受けたから、モーセは指導者として人々を導くことができたのかもしれない。また、次のようなことがあった。成人したモーセは、イスラエルの民がエジプト人に打たれているのを見た。モーセは、そのイスラエル人を助けるため、エジプト人を殺して死体を砂に埋めた。同胞イスラエルの民を守ろうとしたモーセの姿を見ることができる。一方、後にイスラエル人同士がケンカしているのをモーセが見て止めようとしたとき、イスラエル人に次ように言われた。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」。そのイスラエル人は、モーセがエジプト人を殺したのを知っていた。もしかしたら見ていたのかもしれない。また「誰がお前を我らの監督や裁判官にしたのか」と言ったのである。「誰が、モーセを我々イスラエルの民の監督、指導者としたのか。お前のことを私たちの指導者などと認めない」とも言っていると受け取ってよいと思う。ファラオも、モーセがエジプト人を殺したことを知り、モーセを殺そうとした。そこで、モーセは、ミディアン地方に逃げた。だからモーセは1節にあるように、ミディアンのエトロのもとにいたのである。
 神は、逃げたモーセを、イスラエルの民をエジプトから助け出す指導者とした。そこに神の導きがあると思えてならない。きっとモーセの誕生から、彼を指導者とする導きがあったと考えられる。一方、同胞のイスラエルの民からは「お前は、わたしたちの指導者、上に立つ者などとは認めない」と言われた。モーセを指導者とする神の働きは、私たちには思いもしない導きである。モーセは、エジプト人を殺したとき、もしかしたらイスラエルの民を助けたと思ったかもしれない。しかし、イスラエルの民は、モーセを認めなかった。逆に、モーセがイスラエルの民に認められなかったから、真の指導者になることができたのかもしれない。挫折を味わったモーセ、苦難を経たモーセだったからこそ、イスラエルの民の苦しみを本当に理解することができた。また、そのように挫折し、苦しみを味わったモーセだからこそ、神はモーセを指導者にしたのではないかと、私には思えてならないのである。
 そして神がモーセを指導者にしたというのには、次のような意味があると思う。神は、人間を用いて、この世、歴史に介入する。この世に対して働きかけてくださる。神は、自分勝手に人間に働きかけるのではなく、モーセを指導者とした。人間を用いて、人間と共に、解放の業を行ってくださるのである。そこで重要なのは、神が歴史に介入し、共にイスラエルの民を導くということである。神は歴史の中で共にいてくださるのである。
 実は、モーセは、神から指導者の召命を受けたとき、断ろうとした。13節以下の言葉から分かる。モーセがイスラエルの人々の所に行き「イスラエルの先祖の神が私をここに遣わした」と述べたなら、イスラエルの民は「その神は何か」と質問するに違いなかったとモーセは神に述べた。どうにかして指導者という立場を逃げようとしていたように思う。すると14節、神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とイスラエルの人々に告げなさいと言った。文語訳聖書では「有ってあるもの」、また「わたしはなる、わたしがなるものに」などの訳がある。それが名前であろうか。ヘブライ語ではエフィアシェルエフィである。それは名前でなく、名によって神が人間にとって操作可能となることを拒否する響きを聞きとることができるという理解がある。古代、名前を知るとは相手を支配するという意味があったからである。人間が神の名を知ることにより神を支配、操作可能としてしまう危険を避けた言葉であるというのである。
 一方、神の「わたしはある。わたしはあるというものだ」という言葉には、大きな意味があると理解できる。それは神の存在を示しているのであるという理解である。ヘブライ語エフィの元はハーヤーである。日本語で「ある、いる、なる」と訳せる。英語ではbe動詞、ドイツ語でsein、werdenである。しかし、神はただ「いる、ある」ではない。ヘブライ語のハーヤーは、存在を意味するだけではなく、神が存在することは神が働くということであるという。働きの中に神が存在する。神はいるのではなく、動的、働きかけてくださるということが、ハーヤーという単語にある。だから、神が「有ってあるもの」と述べたのは、ただ名前を述べたのではないのである。それをある人は宣言であると解釈している。救いのために働きかける意志と決断を表明し、共に生きて働く神として、モーセに自己を顕現した言葉であるというのである。
 Be動詞のように存在を表すだけではなく、働きかけてくださるという意味がハーヤーにあるという解釈を、私は学生のときの講義で聞いた。ハヤトロギアである。学生の私は、その解釈を聞き、とても感激したのを今でも覚えている。その後、その解釈を知りたいと思い、本を読んだ。難しくてなかなか理解できなかった。神はただ存在するのではなく、働きかけてくださる方である。それはモーセと出エジプトだけではなく、現代の私たちに対しても同様であると言ってよいであろう。「有ってあるもの」とは、共に生きて救いへと働きかけてくださると神自らが宣言している言葉であ。それが神の存在なのである。それほど心強いことはない。だからこそ、出エジプトという40年の荒れ野の旅を、イスラエルの民は歩むことができたのである。
 私たちは弱く、何もできないと思ってしまうのではなかろうか。モーセは同族から「お前は人を殺した、そんな奴は認めない」と言われた。そのこともあったのであろう。モーセはその後も、弱気に指導者を回避しようとしてたが、最終的にエジプトから脱出するという大きな働きの指導者という召命を受け入れた。その背後には、神が私はあなたと共にいて働く、それがあなたの神なのだという言葉があったからにほかならない。神は今もなお、出エジプトのように歴史のなかにおいて私たちと共に生きて働きかけてくださっているのである。その神を、私たちはただ信じたいと思う。

祈祷  憐れみ深い神さま モーセは偉大な指導者です。しかし、モーセは罪を犯し逃げた過去を持っています。しかも、自分は指導者の器ではないというのです。モーセが優れているのではなく、神がモーセと共にいるから大丈夫だ、と神は言ってくださいます。わたしたちは、弱く、小さい者であると思ってしまいます。しかし、神が必ずわたしたちと共にいて、神の器として用いてくださる事を信じたいと思います。神こそ共にあって救いへと働き、お導きくださる。このことを信じ、苦難にあっても希望をもって歩みたいと思います。また、支えを多くの人と分かち合いたいと思います。 争いは憎しみ、悲しみしか生み出しません。そして、悲しみはなくなることはありません。また、そこで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。どうか子どもたちに良い未来を与えることができますように。主こそ平和の君です。どうか互いの命を尊重し、手を結びあう世としてください。新型コロナウイルス感染がまた拡大しています。収束しますように。秋が深まり、寒くなり、乾燥しています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、入院されている方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。人を不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。新しい命、子どもたちを祝し、お導きください。新しい歩みをはじめられた方々の上に祝福がありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/11/06 降誕前第7主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「フィリピの信徒への手紙 2章10~11節」  聖書朗読
02:10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 02:11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「天上のもの」  フィリピの信徒への手紙に「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあった。「ひざまずき」とは、礼拝することを意味する。天上でも地上でもイエスのもとで礼拝をする。今きっと、天においても讃美の時を持っている。わたしたちも同じように神を讃美することによって、天とつながっているといえるであろう。
 旧約聖書のルツ記2章20節に「ナオミは嫁に言った。『どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。』ナオミは更に続けた。『その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。』」とある。ルツ記の主人公であるルツはモアブ人、イスラエル人から見れば異邦人であった。その義理の母ナオミはイスラエル人だった。ルツの夫、つまりナオミの息子は、若くして死んでしまった。当時、夫が死ねば、義母離れ、自分の故郷に帰ることができた。しかしルツは、ナオミとナオミの故郷で暮らすことを決めたのである。そこでルツは、働かなければならなかった。ボアズが、異邦人のルツに働く場を与えてくれた。そのことを知り、ナオミはボアズが祝福されますようにと言った。後に、ルツはボアズと再婚する。マタイによる福音書のはじめに、イエスの系図がある。ルツは、その中にその名が記されている。
 ナオミは、神のことを次のように示した。「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」と。「惜しまれない」とは「捨てない」というのが元の意味である。そこで、「生きている人にも死んだ人にも慈しみを捨てない」とは、死んだ人を神はいつまでも慈しむと理解できよう。その導きは、永遠であるといってもいいのかもしれない。つまり、神の恵みは、生きている者たちにあるのと全く同じように、死んだ者たちにも与えられるのである。
 キリスト教でいう「福音」とは、良き知らせのことである。では、その良き知らせとはいかなることであろうか。私は、「神、イエス・キリストが全ての人をありのまま受け入れてくださる。その人がその人として、その人らしくいることができるように導いてくださっている。それが福音である」と説明したい。先ほどのフィリピの信徒への手紙やルツ記の言葉から考えると、天においてもその人がその人らしく存在することができるよう神は導いてくださっているであろう。
 さて、宗教改革者のルター、そしてカルヴァンは、天職という考えを持っていた。召命、神から職を与えられるのは祭司、牧師など、神に仕えることだけではなく、一人一人の職業は神から与えられたものであるという考えである。コリントの信徒への手紙(一)7章17節には「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」とある。そこからルターは、天職ということを考えた。カルヴァンも天職という考えを持ち、「どんなにいやがられる卑しい仕事であっても、あなたがそこであなたの召命に従えさえすれば、神の前で輝き、最も尊いものとならぬものはない」と記している。
 わたしの個人的な考え、解釈になってしまうが、神の恵みが、生きている者たちにあるのと同じように、死んだ者たちにも与えられると考えるなら、天においても人間は神によってありのまま受け入れられ、その人らしくいることができ、その人としての場所が与えられているのだと思う。ヨハネによる福音書の14章には、イエスが場所を天に用意してくださると述べたと書かれている。もしかしたら、天においても職が与えられるのかもしれない。洒落のようになってしまうが、まさしく天職である。皆さんは、天に行ってまで働きたくないと思うかもしれない。しかし、この世にいる人々の悲しみをぬぐい去るという仕事が、そのような仕事が与えられたならば、幸せではないだろうか。きっと天におられる方々は、そのようにこの世にある人々が悲しみ続けないように、イエスと共に見守ってくださっているのだと、私は思う。私たちは神に、この世で幸せに暮らすことを望まれていたように、神は天においてもそのことを望んでおられる。
 私たちは、讃美の時を持っている。神を讃美することにより、私たちは天におられる方々と、そして天におられる神によってつながっている。神の恵みが共に注がれていることを信じたい。この世における恵みが天にも行われる。きっと、わたしたちが天の方を思っているように、天におられる方々もこの世にいる一人一人のことを思い、讃美の時をもっているのではなかろうか。神によってつながっている。わたしたちは、神こそ、生きている者にも死んでいる者にも、慈しみを惜しまない、永遠に導いてくださることを信じたいと思う。

祈祷  私たちといつも共にいて永遠にお導きくださる神様 神様は生きている者にも死んでいる者にも慈しみを惜しまず、永遠にお導きくださいます。天におられる方々のことをわたしたちが覚え、それぞれ与えられた愛を感謝する時としてください。天においても、わたしたちを愛し、見守ってくださっていることを信じます。どうか、主イエス、神を通し、天におられる方々と共にあることができると確信させてください。神は、争いを求めていません。そこで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。どうか、子どもたちに良い未来を与えることができますように。そのため指導者たちをお導きください。本日は、召天者記念礼拝を守っています。神の御もとにある方々は、主を通して今、共に讃美の時を守っていると信じます。どうか天にある方々に平安を、地において悲しみの中にある方々に慰めをお与えください。また、礼拝後、墓前礼拝を行います。集おうとされている方々の足をお守りください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。朝晩が寒く、また乾燥しています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。人を不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳、虐待は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。まそのため働かれている方々をお支えください。自然災害によって被災された方々をお支えください。新しい命、子どもたちを祝し、お導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/10/30 降誕前第8主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 11章 33~36節」  聖書朗読
11:33「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。 11:34あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。 11:35だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。 11:36あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「賛美の呼びかけ」  今日はハロウィン、しかしプロテスタント教会としては、明日の宗教改革記念日の方が重要である。本日の讃美歌「神はわが砦(21-377)」は、宗教改革者マルティン・ルターが作った。私の尊敬する先生は次のようにおっしゃっていた。「宗教改革は、信徒が讃美歌を勝ち取った出来事である」と。カトリックでは、聖職者からなる聖歌隊がラテン語で讃美の歌を歌っていた。会衆は、それらの意味が分からず、歌うこともできなかった。しかしルターは、自国語で、しかも当時の流行りの歌のメロディーに聖書の言葉をのせて歌うことができるようにしたのである。私たちが讃美の歌声をあげることができるのは、喜びであるといってよいであろう。会衆が讃美の声をあげることができる。それも信仰者としての証なのではないだろうか。だから下手でもなんでもよい。子どもの讃美歌集に「歌の声は小さくても喜びなさる神さま」という歌詞がある(こどもさんびか改訂版10)。その通りだと思う。讃美する心が何よりも大切なのである。
 本日の聖書箇所、ルカによる福音書の11章33節以下に心を傾けたいと思う。33節にある「穴蔵」を、皆さんはイメージできるであろうか。「地下」、「暗い通路」等と訳している学者もおられる。単純に暗いところをイメージしていただければよいと思う。「升の下に置く」とは、古くなった升でろうそくの火を消したと考えられる。そこで、人気のない穴蔵、ともし火を消す升の下にろうそくをおいても、何も灯さないということである。当時、オリーブ油をともし火のために使用していた。それは家などで、人が生活するために必要な光だった。
 34節に「あなたの体のともし火は目である」とある。マンガのように、目からビームのような光線が出るということであろうか。ある意味、そのようなのである。現代の私たちは、外からの光によって何かを見ることができると理解している。古代、ギリシア・ローマ、ユダヤでは、目が光を放ち、視力は中からの光が外からの光に出会うときに可能となるという理解が一般的だった。古代と現代の認識が異なり、私たちの中に光があると理解していたというのは面白い。そこで考えたいのが、次の「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体が暗い」という言葉である。「澄んでいる」と「濁っている」が対になっている。「澄んでいれば」を直訳すると「純粋」「真心」である。「濁っている」は「悪い」「よこしま」「邪悪」である。そこで「目が澄んでいれば」というのは、二心を持たないこととある人は解釈している。つまり、神、イエスに純粋に心を向けている状態といってよいだろう。
 この箇所で「ともし火」「光」とは何を意味しているのであろうか。旧約聖書サムエル記下22章29節に「主よ、あなたはわたしのともし火/主はわたしの闇を照らしてくださる」とある。また、ルカによる福音書の1章78節には「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」とある。これは救い主の道を整える洗礼者ヨハネの誕生における父ザカリアの預言である。2章32節「異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」の「光」は、救い主、イエスを意味し、暗闇に光を灯す方こそイエスであるというのである。つまり、本日の箇所の「ともし火」「光」こそイエスであるといえるであろう。そこで35節の「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」という言葉は重要であると思う。そこで「あなた」とは、弟子たちを指している。「光が消えてないか調べなさい」というのだから、弟子たちの中に光があるということである。しかし弟子たち自身が光というわけでは決してない。弟子たちの中にある光とは、純粋な目、心でイエスを見ることによって、光であるイエスが弟子たちの中にいるということである。イエスを純粋な目、心もって信じる者にイエスという光に照らされ、心にイエスが共にいてくださる。共にいてくださるイエスこそ信仰といえるであろう。それは、とても重要なことである。そして、光が中にあることによって何ができるのか。36節に「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」とある。「全身は輝いている」、確かにそのように訳すことができるが、意味が曖昧になってしまう。多くの訳が「全体が輝くのである」としている。「全身」ではなく「全体」と訳している。つまり、イエスという光に照らされるように、弟子たちの中に光があればあなたの周りも輝くのである。厳密にいうと弟子たちに述べているので、この「全体」とは教会であるといえる。しかし限定する必要はないだろう。「全体が輝くだろう」とは、そこは未来形として理解できる。そこで、イエスを信じる者はイエスこそこの世に神の愛、救いという光を照らす存在である。イエスという光によって照らされた者は、イエスを信じることによってその人の中に光があり、周りを照らすことができるということがいわれている。つまり、イエスを信じる者は、イエスと同じように、神の愛、救いをこの世に輝かすことができるということなのである。そのようにいえるでしょう。イエスによって神の救い、愛をこの世に現わすという任務が弟子たち、私たちに与えられた。そこにあるのは、イエスの人間に対する信頼であるといえるであろう。「あなたたちの中に光を置き、全体を輝かすことできるのだ」と。
 一方、私たちは神、イエスを裏切ってしまう可能性のある者、いや、自分の利益を求めてしまう弱い存在にしかすぎない。このイエスの言葉は、24節以下の前の「汚れた霊が戻ってくる」、「真の幸い」、「人々はしるしを欲しがる」という話の後に話されていることに意味がある。24節以下、汚れた霊はある人から出て行った。良い場所を探すが見つからない。前にいた人の所に戻ると汚れた霊にとっては以前より住みやすい場所になっていた。そこで自分より悪い汚れた霊を七つ連れてきて住み着いた。そのことによって、汚れた霊に取りつかれた人は以前より悪くなったという話である。その後に本日の話があることが重要である。つまり、私たち人間は、汚れた霊、様々な誘惑に陥り愛を失い、神を裏切ってしまう弱い存在である。その状態が続けば、より汚れた霊が襲ってくる。そうならないためにどうするか。それは神というともし火、イエスという光を私たちの中に宿すべきである。汚れのない純粋な目、心で神、イエスを信じることによってこそ、その人の中に信仰というともし火、光が宿り、汚れた霊は来ないということである。先ほど歌った377番、ルターによる讃美歌も、ある意味同様であるといえるであろう。「神はわがとりで、わが強き盾」、「悪魔世に満ちて、責め囲むとも…主の言葉は悪に打ち勝つ」。つまり、神、イエスを信じる信仰によってこそよこしまな企て、悪魔は私たちに宿ることはなく、追い払う、打ち勝つことができるのである。私たちと共に神、イエスはいてくださる。神我の内にありということである。それほど心強いことはない。しかも本日の聖書箇所では、それだけではなく、神が私たちと共にいてくださることによって、私たちは全体を輝かす、照らすことができる。神の救い、イエスの愛をこの世に現わすことができるのであるというのである。
 もちろん、それは私たちの力ではない。イエス、神が私たちを照らしてくださる。共にいてくださるからである。そして、イエスが私たちの中にいるように歩むことができるのだと、イエスは私たちを導いてくださっているのである。そこにあるのは、イエスの救いと私たちに対する信頼である。私たちはイエスに信頼されているのである。36節の最後の言葉「全体が輝くだろう」を未来形であると述べた。つまり、私たちも輝くことができるよう今導かれている。今、イエス、神が私たちを照らし、共にいてくださるのである。それは、イエスは共にいていつも私たちを照らしてくださるという、イエスの励ましともいえるであろう。それこそ私たちの希望なのではないだろうか。「悪魔世に満ちても悪に打ち勝つ」ことができるのである。私たちは、イエスという愛なる光によって照らされ、私たち自身の中にその光を持っていることができるのである。その光を私たちはこの世に輝かせたいと思う。そのため純粋な目でイエスを見、信じたいと思う。信仰という希望こそ私たちを輝かすのである。

祈祷  私たちといつも共にいてお導きくださる神様 純粋な心でイエス、神を見ることにより、その人の中に光はあるとイエスは述べられました。ここに希望があります。神というともし火、イエスという光が私たちを照らしてくださる。そこで私たち人間は、光ることができる。それは、人間はイエスに倣い生きるということ、そして、イエスがそのように人間を信頼し、導き、励ましてくださっているということです。どうか、いつも共にいて支えてくださり、イエスの光、愛に答えることのできるものとしてください。これこそ希望であり、喜びです。この喜びを多くの人と分かち合うことができますよう強めてください。争いは神が喜ばれることではありません。そこで被害にあうのは弱者、子どもたちです。また、戦争にかり出される兵士も精神を病んでしまいます。被害はその家族にも及びます。一方、指導者は一方的に指示をするだけです。人を殺す武器は一般の民には何も益になりません。どうか主が国々の争いを裁いてください。そして、指導者は剣を鋤とし、槍を鎌とし、争うことを学ばないようお導きください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。朝晩が寒く、また乾燥してきました。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。人を不安に陥れ金銭を搾取すること、洗脳は、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。まそのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/10/23 降誕前第9主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「詩編 148章 1~6節」  聖書朗読
148:01ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。 148:02御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。 148:03日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。 148:04天の天よ/天の上にある水よ主を賛美せよ。 148:05主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。 148:06主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。 148:07地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 148:08火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ 148:09山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ 148:10野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ 148:11地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ 148:12若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。 148:13主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。 148:14主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「賛美の呼びかけ」  早いもので、教会歴は本日から降誕節前に入った。そのことから本日、アドベントの歌を歌った。といってもイエスの誕生を待ち望むアドベントは、11月27日からである。一方で、街を歩いていると、あふれるようなハロウィンの飾り付けが目につく。「ハロウィンとは何ですか?」と聞かれると「あれは西洋お盆のようなもの、けれど本来キリスト教とは関係はありません。現代では、ほぼ民間行事になっていますが・・・」と答えます。先日、朝のある情報番組で、「ハロウィンは日本でいうと何の行事でしょうか?」かとの出題があった。その答えは、「大晦日」とのことだった。ハロウィンはもともとケルト民族の祭りで、10月31日を一年の終わりとし、その夜は秋の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていたそうである。カトリック教会では、聖人の日をそのハロウィンと重ねた。だから私は「西洋お盆」と答えたのです。
 カトリックには、「聖人」と呼ばれる人がたてられている。近年ではマザーテレサが聖人と認定された。有名なところでは聖ニコラウス、サンタクロースである。また聖バレンタインなどがあげられよう。そして、アッシジのフランチェスコという名前を聞いたことがあるかもしれない。アッシジのフランチェスコは、1181年頃、豊かな商人の家に生まれたが、全財産を捨て、何も持たずにイエスの愛に倣う者として生涯を過ごした人である。彼の日々の食事は、自分の労働の報酬として与えられる食べ物のみで、仕事のない時は乞食托鉢によって恵まれるわずかな食べ物だったという。家を持つこともせず、寝るところは無人の小屋か教会の軒下か、さもなければ野原の木陰だったそうである。徹底した無所有を貫きながら貧しい人々、悲しむ人々の友となり、ハンセン病者と共に生き、人々に神の愛とキリストに従うことの喜びを解き続けたのである。有名なのは野の小鳥たちにも説教したと伝えられていることではなかろうか。彼にとってすべては神から頂いたものだった。太陽も、月も、死すらも、神からの賜物だった。彼が、死を前にして訪れたのが、サン・ダミアーノのクララの草庵だった。そこで、有名な「太陽の賛歌」は生まれたのである。「あなたを讃美させてください、私の主よ、あなたのすべての創造物のゆえに、なによりも強大なる太陽のゆえに。太陽は昼であり、太陽によってあなたは光を送ってくださるからです。なんと美しいことか、なんとその陽光の冠は輝くことか。あなたの生きた似姿です、至高の主よ。あなたを讃美させてください、私の主よ、姉妹なる月と星たちのゆえに、あなたは天に月と星を置かれました、何と明るく、尊く、美しいことか。」
 アッシジのフランチェスコの「太陽の讃美」は、詩編148編を基にして作られたと言われている。本日はその箇所に心を傾けたいと思う。まず詩編全体の内容を最初に述べたい。天、太陽、月、星、天の大洋、淵、火、雹、雪、霧、嵐、山、丘、樹木、動物、人間、つまり、神が創られたすべてのものに対し主、神を讃美せよと呼びかけている。次のような解釈がある。「天からの讃美が高きところで始まり、創造主をたたえる被造物世界の一大シンフォニーの幕が切って落とされる」である。創造というと、地球という世界を思い浮かべてしまうかもしれない。しかし神が創られたのは、宇宙全てである。太陽も月も星もすべて神によって創られた。5節に「主は命じられ、全てのものは創造された」とある。旧約聖書の創世記の天地創造、いや天地だけではなく宇宙もすべて神によって創られた。そして、6節には「主はそれらを世々限りなく立て超えない掟を与えられた」とある。つまり、宇宙を含めこの世界は、神の秩序によって保たれているのである。すべて神の御守りのうちに歩んでいるともいえるであろう。そして、全てのものは神の創造の力、栄光を示す。神を讃美しているのであるというのである。
 もしかしたら、「キリスト教は、自然を大切にしない。自然を尊ばない。一方、日本は八百万の神という理解があり、自然、一つ一つに神がいると理解する。だから自然を尊び、愛している」というイメージがあるかもしれない。では、キリスト教は本当に自然を大切にしないのか。決してそうではない。聖書には自然、いや、宇宙を大切にする理解がある。詩編148編もその一つである。先ほど述べた解釈「創造主をたたえる被造物世界の一大シンフォニー」という表現は素晴らしい。つまり、この世にある自然、すべてが一つになり神を讃えている。逆に次のようにも言えるであろう。「然の美しさ感じ、この世を創られた神の偉大さをその美しさから感じることができる」と。つまり、すべて神が創られたものであるからこそ、大切にすべきであるという理解を持つことができる。逆に美しい自然を破壊することは、それを創った神を冒涜することに、神に逆らうことになると思う。私がこの詩編で見たいのは、宇宙、自然、野の獣、海、火、雨など、全ての被造物と共に主を讃美せよといわれていることである。
 一方、11節には王が最初に書かれているので、この世的な地位の順番という理解がある。もしかしたら詳しく地位を記すことにより、人間を中心としているのかもしれない。しかし、諸国の民、君主、地上の支配者、若者、おとめ、老人、幼子となっている。地位の高い順番ではないと私は理解する。そこでは、太陽、獣、人間、王、君主、若者、おとめ、老人、幼子、全てが並列、つまり、神の前においてどれが偉いのではなく平等に主を讃美するといわれていると理解する。しかもシンフォニー、それぞれの役割があるということがここに示されているといえるであろう。決して人間が中心、人間が偉いというのではなく、すべてが神によって創られたものでしかない。アッシジのフランチェスコがすべて神の賜物であり、無所有であると考えたのは、神が神によって創られたもの、すなわち自然を通して生かしてくださるという理解があったからではないかと思うのである。生かされていることを喜び、日々過ごすことこそ神を讃美することなのではないだろうか。花がきれいに咲いている、それは神様を讃美しているのだと思う信仰が大切なのではなかろうか。
 そして、この詩編で面白いのは、「み使いよ、主の万軍よ、主を讃美せよ」と記されていることである。主の万軍、み使い、つまり、天使たちも神に創られたものにしか過ぎない。天使も神を讃美する存在であるということである。
 では、天使が讃美している姿とは、どのように想像されるだろうか。きっと、天使がイエスの誕生を羊飼いに告げ知らせるクリスマスの出来事を思い浮かべるであろう。ルカによる福音書の2章8節以下に記されている。羊飼いが「夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、…『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。』…すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ』…。」クリスマスこそ天使も人間も、いや全ての被造物が神を讃美すべき喜びの出来事なのである。イエスは教えてくださった。「どんなに栄華を極めたソロン王でさえ野の花ほど着飾っていない」と。つまり、神の創られたこの世にある存在は、神に愛され、生かされていてそのままで美しいと述べているのである。神の独子イエスが、この世にある存在すべてはそのままで美しい。ありのままでいいのだと教えてくださっているといえるであろう。人間も、花も、山も、太陽も、月も、獣も、雨も、海も、すべて神が創られた大切な存在である。神は、この世を創られ、全てを見たとき「極めてよかった」と述べた。すべて極めて良い存在なのである。そして、イエスは、あなたはあなたのままで神に愛されている大切な存在である。この世に不必要なものなどない。すべてが必要な美しい存在である。種々の構成物が渾然一体となっている美しい世界だと言う。そして、神は弱い時には慰め、力づけお導きくださる。だからこそ私たちはこの世の創り主を讃美するのである。
 この後に歌う讃美歌223編は、アッシジのフランチェスコが作った「太陽の讃美」を編集し作詞された。作者としてアッシジのフランチェスコの名前が記されている。すべてのこの世にあるものはみな等しく神を讃美する存在である。この世、自然の美しさを見て神の偉大な業を讃美することは、いけないことではない。いや、すべてが神の秩序によって導かれ、すべてものが神を讃美しているのである。そして、神の秩序、導きの中にイエスの誕生があったのである。
 本日は、詩編148編を通して神を讃美することの意味を知ることができた。その最も喜ばしい讃美こそ、御子イエスの誕生である。すべてが神に創られ、生かされ、ありのまま愛されている。この世にあるすべてのものは美しく、神が認めてくださった存在であること、そして決して一人ではないことを感謝して祈りを捧げたい。

祈祷  この世の創り主である愛なる神様 この世界は、すべて神によって創られました。それを極めて良いとあなたは認めておられます。あなたに創られたものがシンフォニーを奏でています。つまりすべて必要な存在で、役割があり、全てあなたが導いてくださっています。どうか私たちが神に創られたものとしてそれぞれを尊重し、大切に思い合うことができますように。それこそ神が喜ばれることです。また、生かされていることを感謝し、神を讃美することができますように。そして、神に良しとされている喜びを多くの人と分かち合うことができますようお導きください。私たちは、このようにすべて神によいとされている者です。だからこそ相手の命を尊重しあい生きるべきです。しかしこの世に争いは絶えません。人と人とが殺し合うことを神は悲しまれます。特に被害にあうのは弱者、子どもたちです。どうかイエスの愛に倣い、全ての人が手を結び歩むことができますようお導きください。また、そのため私たちをお用いください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。朝晩と日中の気温の差が大きくなっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方、これから手術を受けられる方、手術を終えられた方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。神の名を都合よく用い金銭を搾取すること、マインドコントロールによる洗脳、サタンの名を用い人を不安に陥れることは、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。まそのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/10/16 聖霊降臨節第20主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「マタイによる福音書 5章 1~12節」  聖書朗読
05:01イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 05:02そこで、イエスは口を開き、教えられた。 05:03「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 05:04悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 05:05柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 05:06義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 05:07憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 05:08心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 05:09平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 05:10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 05:11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 05:12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「何が幸いなのか」  礼拝の最後の祝祷は、コリントの信徒への手紙(2)13章13節「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」だが私は、言葉を少し変えている。「あなたがた一同」ではなく「私たち一同」と述べている。それは私が先輩牧師の考え方に共感したことによる。神、イエスのみが祝福を与えてくださるのであって、牧師に祝福する力があるわけではない。そして、牧師も神の前で祝福を与えられている一人にすぎないという考えである。その通りだと思った。神、イエスが祝福を与えてくださるとはつまり、いつも共にいてくださるということである。
 マタイによる福音書の5~7章は、山上の説教と呼ばれる。その最初、3~11節までには「幸いである」という言葉がある。まず、「幸い」について考えたい。何が幸せなのであろうか。そこで詩編1編1節の最初を見ると「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず」とある。意味は同じである。祝福しているのである。マタイによる福音書の5章2節に次のような訳がある。「幸いだ、心の貧しい人たち」。文法に違いがあるが、もとのギリシャ語においても祝福の言葉が先にある。英語でも「Blessed are the poor in spirit」という訳がある。イエスは「幸いだ」と祝福しているのである。
 では、「心の貧しい人々」とはいかなる意味なのであろうか。ルカによる福音書にも「平野の説教」といわれている並行記事がある。そこでは「貧しい人々」となっている。6節の「義に飢え渇く人々」も、ルカは「今飢えている人々」と書いており、現実的な貧しさと空腹である。一方、マタイによる福音書では「心の」と精神化されている。では、マタイによる福音書では、どのような意味になるのか。「心の貧しい人々」は、弱い人、悩みある人ということであろうか。「心」はギリシャ語で「プネウマ」、この言葉は「霊」とも訳すことができる。そこで、「幸い、霊の貧しい人々」との訳もある。様々な理解があるが、カトリックのフランシスコ会訳聖書が分かりやすいように思う。「自分の貧しさを知る人」と意訳されている。霊の貧しい人々、神の霊が少ない、不信心ではなく、自分の霊が貧しいと感じ、霊を求めている人々と理解したい。そこで私は「心の貧しい」を「へりくだった」と理解する。7節の「憐れみ深い」に近いといえよう。へりくだった人々、天の国はその人たちのものである。自分の力で生きているのではなく、神に生かされていることを知っている。人を幸福にするものは、自分の力で手に入れられるこの世の富ではなく、祈りによって神から与えられる恵みだけであるということを知っている人といえるであろう。だからこそイエスは、「幸い」と祝福したのである。
 6節の「義に飢え渇く人々」について考えたい。義とは、神の正義、転じて神の救いの働きといえるであろう。解釈史から見ると、プロテスタント教会においては神の義を求めること、と理解しているといってよいであろう。完全に正しい人間などいない。完全である人間はイエスのみである。イエスの完全性を見て自分の欠落を強く感じ、自分の欠けている部分をイエスに求め、満たされる。受動的といえよう。一方、カトリック教会では理解が異なる。カトリックでは人間が神の義を求めるのではなく、義、正義を行うという理解だという。能動的といえるであろう。ユダヤ教的な理解も、義を行うのは人間の側であるというのである。「義に飢え渇く」を、イエスの義を求めるという受動的な理解、また、イエスに倣い義を行うという能動的理解がある。私は、どちらが正しいということはないと思う。かなりの意訳だが、面白い訳である。6節「自分たちのは、神が要求されることを行うことであるとする者は、幸福である」。
 次に3節を見ると、「悲しむ人々は、幸いである」とある。イエスは、悲しむ人を慰めてくださる。一方、この背後にはイザヤ書61章1~4節があると考えられる。イザヤ書61章2~3節には「嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」とある。イザヤ書は、イスラエルの敗北の苦難を嘆き悲しみながら、神の導きを信じ、エルサレム再建に向け力を合わせ歩むということが記されているといってよいであろう。イエスの時代、権力者たちによって作られた制度によって不正義を悲しむ弱い人々が多くいた。イザヤ書から考えると、イエスは悲しむ人々に対して神を信じる民がいかに共に慰め合うか。そこにこそ、イエスの祝福があるのだと示していると理解できる。
 イエスの山上の説教は、「人類の最高倫理」ともいわれる。この「幸い」の句の理解は様々で難しいのだが、私は次のように理解したい。山上の説教といわれるイエスの教えは、厳しいことが記されている。「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」「敵を愛しなさい」「腹を立ててはならない」等である。この幸い句においても、イエスは私たちに倫理的な要求をしていると理解したいのである。
 つまり、「悲しむ人々は幸いである」とは、悲しむ人の立場に立ち、慰めるということである。「義に飢え渇く人々は幸いである」とは、義、神の正義を考え、行うということである。なかなか厳しい、耳が痛い理解である。山上の説教全体のイエスの倫理的要求は、人間の能力を超えている。そこにどのような意味があるのか。その箇所が「山上の説教」といわれることには意味がある。それは、モーセがシナイ山で神から与えられた十戒、つまり、律法の授与が関係していると理解できる。すなわちイエスは、モーセが神から授かった十戒、律法ではなく、イエスが神の教えを新たな救いを完成させているということが意味されているのである。では、律法とは何か。それは神の意思であり、人間がいかに生きるかという神の導きである。それは、神から与えられた賜物なのである。「~せねばならない」という掟ではなく、人間を信頼し、生きる道を示す教えである。
 イエスが山上の説教を語ったのは、人間に対する恵みであるといえよう。人間はいかに生きていくのかという導きである。そこに人間に対する信頼がある。そして重要なのは、この山上の説教で示したことを行ったその人こそがイエスであるということである。そこに救いがある。私たちは、イエスによって救われている。だからイエスに倣い生きていく、その教えとして山上の説教がある。そして、山上の説教の最初に、「貧しい人々は、幸いである」という言葉があることに大きな意味があるように私は思う。人間は、自分の力で生きる者ではなく、神に生かされている者としてへりくだる者である。そこに神の祝福が与えられる。いや、すでに先に祝福が与えられているのである。へりくだるからこそ、悲しみの中にある者と同じ立場に立ち、慰め合うことができる。また、へりくだるからこそ、イエスに倣い、自分は何ができるのか考えることができる。すべての人が神、イエスの前でへりくだることによってこそ、互いに支え合うことができるのではないだろうか。山上の説教こそ、イエスから与えられた恵みである。山上の説教を覚えるとは、イエスから恵みが与えられた、つまりイエスはそのようにしていつも共にいてくださるということを覚えることになる。そして、そこでこそ、イエスは私たちに祝福を与えてくださるのである。イエスが恵みを与えてくださる。それは、いつも人間を覚え、愛し、祈ってくださっているということに他ならない。

祈祷  導き主なる愛なる神様 イエスは倫理的要求として、私たちの歩むべき道を示してくださいました。感謝いたします。一方、私たちは弱く完全にはできないものです。だからこそ、主イエスは自らその教えを実践し、私たちに示してくださいました。へりくだり、イエスに倣い歩むことができますように。特に、隣人にもへりくだり、共に力を合わせることができますよう、お導きください。イエスこそ、新たな教え、救いを完成させてくださり、今もなお私たちと共にいてお導きくださっていることを確信したいと思います。互いに支え合い歩むことができますようお導きください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。天候が不順となっています。どうか、すべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方、これから手術を受けられる方、手術を終えられた方を心身ともにお癒しください。悲しみ、悩み、不安の中にある方々、介護看病をされている方々、一人で暮らされている方々をお支えください。報復は、あなたが行うことで、私たちはあなたにすべてをお委ねすることができる、と聖書に記されています。人間の報復は、悲しみしか生み出しません。どうすれば民が傷つかずに済むのか、指導者同士が話し合うことができますように。一握りの人の利権ではなく、全ての民がその人らしく歩むことができることこそ大切なことです。どうか、そのようにお導きください。自然災害で被災された方々をお支えください。神の名を都合よく用い金銭を搾取すること、マインドコントロールによる洗脳、サタンの名を用い、人を不安に陥れることは神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/10/09 聖霊降臨節第19主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「創世記 32章 23~33節」  聖書朗読
32:23その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 32:24皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 32:25ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 32:26ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 32:27「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 32:28「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 32:29その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 32:30「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 32:31ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 32:32ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 32:33こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神に勝つ」  ヤコブは、神と最初に契約を交わしたアブラハムの孫、父はイサクである。ヤコブにはエサウという兄がいた。エサウとヤコブの母リベカはヤコブを可愛がり、兄エサウではなく、弟ヤコブに、父イサクから祝福を受けさせようとした。祝福とは、家督の継承と共に、家を継ぐ者として神の恵みを継承するという意味があり、一度しか行われない。母リベカとヤコブは年老いて目の見えない父イサクをだましてヤコブを祝福するように仕向けた。ヤコブは祝福を受けたが、兄エサウはヤコブを殺そうとするほど怒った。そこで、ヤコブは故郷を離れなければならなくなった。故郷を離れたヤコブは一所懸命に働き、財を蓄えた。そして20年後、兄エサウに謝りに行こうとした。創世記32章23節以下は、その直前の出来事である。
 ヤコブが兄エサウと会う直前、ヤコブは家族をヤボク川を先に渡らせた。それは、家族に危険がおよばないようにという配慮であったと考えられる。すると、25節「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」というのである。「何者かが」とある。様々な解釈がある。ヤコブが思った通りに「何者か」を、神と理解しておく。神はヤコブに勝てないと思い、ヤコブのももの関節をはずした。しかも、神は「もう去らせてくれ、夜が明けてしまうから(27節)」といったのである。様々な理解があるが、「夜が明ける」とは、長い時間が過ぎたということであろう。するとヤコブは「祝福してくださるまで離れません」と言った。そこで神は「ヤコブではなく、イスラエルと名付ける。神に勝ったからだ」と応えた。ヤコブが「名前を教えてください」と尋ねると、神は「どうして名前を尋ねるのか」と聞き返し、ヤコブを祝福した。また、ヤコブは「わたしは神と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている」と述べ、その地を神の顔を意味する「ペヌエル」と名付けた。「神を見たのに生きている」とは、神を見る者は死ぬという考えが旧約聖書にあったからである。ヤコブが兄エサウと再会する前に、なぜ神が現れたのか、その意味は何かということについて考えたい。
 ヤコブは兄エサウとの再会について、どのような思いを持っていたのであろうか。ヤコブには、まだ許されていないのではないかという不安があった。それは前の10~13節のヤコブの祈りから分かる。「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません(12節)」。状況は異なるが、十字架の前で祈ったイエスの、ゲッセマネの祈りを思い起こす。ヤコブは、兄エサウに再会するのを恐れていた。そこで神に祈った。それは神の導きを求めたといっても、過言ではないと思うのである。
 ヤコブが夜に格闘したというのは、ヤコブの不安の心を意味しているのかもしれない。格闘の末、夜が明けた。つまり、この戦いを通して兄エサウとの再会の不安の気持ちが吹っ切れた。この出来事を通してヤコブは、恐れがなくなり、兄エサウと顔を合わせることができた。
 さて、神は、本当にヤコブに勝てなかったのか。そこに神の恩寵、恵みがあるのではないだろうか。29節で神は述べている。「お前は神と人と闘って勝ったからだ」と。それを、次のように考察した人がいる。ヤコブは内なる人間、すなわち自己に勝ったと理解するというのである。古き自己にうち勝つことによって、神から祝福を受けた。ヤコブは、関節を外された。本来、それは負けを意味するのではなかろうか。しかし、神はわざと負けることによってヤコブを導いた。ヤコブは、古き自分に勝って、新しくされたということを意味するのではなかろうか。そのような神の祝福を得た。また、このヤコブが受けた足の傷は、痛みを伴うものであった。つまりこの出来事は、現実であったということが示されている。それと同時に、次のような意味があるのではなかろうか。それは、神が与えた新たな歩みの一つなのかもしれない。つまり、神に勝ったという自己満足ではなく、神の前で謙虚になるという意味があった。いや、今までの歩みは神の導き、守りであり、そして、怒っている兄エサウに会うための勇気を与えてくださった。それから故郷、それは神の陣営(2節)に入るのに必要な痛みだったのかのかもしれない。新約聖書でパウロは次のように記している。コリントの信徒への手紙(二)12章7節に「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」とある。そこからパウロは癒されることのない病を負っていたと理解できる。しかしその病は神が与えたもので、思い上がらないためのであるというのである。そのときのヤコブにとっても、同様なのかもしれない。神の前で謙虚である。それは兄エサウ、いや、他の人に対しても謙虚なるための痛みとしての教えだったのかもしれない。ヤコブの力だったのではなく、神の導きがあったからこそ、故郷から逃げ出した後も、財を蓄えることができ、そして、兄エサウとの再会の時が与えられた。その再会は、父イサクをだまし、祝福を得たというヤコブの罪とも言えるわだかまりを解消する出来事にもなった。父、兄に対して負っていた重荷を、そこでおろすことができたという導きである。
 わたしは思う。ヤコブ自身が、その20年を通して、そして、兄エサウと再会する前に神と格闘し得たのは、自分は神の祝福なくして生きることはできないということに気づいたということではなかったか。神と自分の関係を改めて知った。ヤコブが父をだまして受けた祝福の、真の意味を知った。古い自分に打ち勝ち、新たなる者となされたのではないかということである。ヤコブは、兄エサウに会う前に神に祈り、神はその祈りを聞き、再会を戸惑っているヤコブに勇気と導きを与えた。いや、それだけではなく、祝福を与えたのである。ヤコブも祝福を求めた。神の祝福の本当の意味を知った。自分は、神の祝福なくして生きることのできない弱い存在である。自分の弱さを知ったときにこそ、神にすべてを委ね、兄エサウにありのままの自分として会うという勇気が与えられたのではなかったか。その出来事は、ヤコブだけではなく、私たちをも導いてくれる。神に導かれ、生かされているということである。私たちも神の祝福を求め、新しい週、新たなる者として歩みたいと思う。

祈祷  恵み深い愛なる神様 私たちは欲により過ちを犯してしまうことがあります。しかし、あなたはそのような私たちを理解しお導きくださいます。ヤコブは兄から父の祝福を奪いました。その結果、故郷から、兄から離れなければならなくなりました。そして、その重荷をずっと負ったままでした。しかし、神は兄に再会する不安な心を拭い去り、しかも新たなる者として祝福してくださいました。私たちも誤った道に向かってしまうことがあります。どうか正しい道へとお導きください。また、どうか私たちの不安の声を聞き、新たなる者としてくださいますように。あなたは私たちを新たなる者としてくださいます。この喜びを多くの人と分かち合うことができますように、私たちをお用いください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。先週の木曜日、金曜日は冬の寒さとなりました。寒暖の差が激しくなっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方、これから手術を受けられる方、手術を終えられた方を心身ともにお癒しください。悩み、悲しみの中にある方々、一人で暮らされている方々をお支えください。人の命を奪うことに正当な理由などありません。悲しみ、憎しみが生み出されるだけです。また、その悲しみを癒されることはありません。被害にあうのは弱い者、子どもたちです。どうかこの世に争いがなくなりますように。そのため指導者をお導きください。自然災害で被災された方々をお支えください。神の名を都合よく用い金銭を搾取すること、マインドコントロールによる洗脳、サタンの名を用いて人を不安に陥れることは、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。またそのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。今月誕生日を迎えられる方の上に主の祝福が豊かにありますように。三連休の中日となっています。よき休みの時になりますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/10/02 聖霊降臨節第18主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヘブライ人への手紙 9章 23~28節」  聖書朗読
09:23このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 09:24なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 09:25また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 09:26もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 09:27また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 09:28キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「一回限りの犠牲」  ヘブライ人への手紙は、いつ誰によって記されたのか、はっきりとは分かっていない。現在では、紀元80~90年代に記されたのではないかと考えられている。ヘブライ人への手紙というからには、ヘブライ人、すなわちユダヤ人キリスト者に対して記されたと考えられる。しかしそれは、後からつけられた題名である。この手紙は、諸教会に対して記された勧告、勧めの言葉といえるであろう。著者をあえて匿名にしたとも考えられている。分からないことだらけである。しかし、それにもかかわらず、私たちを導いてくれる。9章23節以下は、ヘブライ人への手紙においてそこまでに記されたことのまとめ、すなわち著者が言いたかったことの結論である。
 23節に「天にあるもの」と記され、24節には「人間の手で造られた聖所にではなく」とある。ヘブライ人への手紙の著者は、神がおられる天にある神殿こそが本物で、この世にある神殿は天にあるものの写しにしか過ぎないというのである。では、神殿とは何をする場所なのか。そこは神を讃美する場所である。それと同時に、神殿では大切な儀式が行われる。それは罪の赦しの儀式である。一年に一度、大祭司によって行われていた。そこでは人間の犠牲として動物の血がながされていた。しかしそれも天にある神殿で行われる罪の赦しの儀式の写しでしかないというのである。というのは、人間の大祭司が行う罪の赦しは、完全ではないので、年に一度行わなければならない。だから、天地創造、この世が創られてから、人間は度々苦しむのだというのである。
 神の独子イエスがこの世に遣わされた。そして、十字架によって罪の赦しが行われた。イエスこそ天の真の大祭司であり、イエス自身が犠牲として血を流したので、完全な罪の赦しの儀式が行われた。その一回の出来事で、すべての人の罪、過去も今もすべて赦されるというのである。ただ、そこで疑問に思うことがある。イエスはこの世において十字架で殺された。天で行われたのではないと指摘できる。比喩であるとご理解いただきたい。
 重要なのは、人間の大祭司における罪の赦しの儀式は、天の写しなので完全ではない。真の大祭司こそ神の独子イエスであり、イエスはご自分を犠牲にして完全な罪の赦しの儀式を行った。それが天における真の罪の赦しの儀式なのだということである。
 そこで覚えておきたいのは、「一度」という言葉である。まず、イエスの一度の赦しで、全ての罪が赦されるということである。そして、次のような意味がある。イエスがこの世に遣わされたのが、一度だということである。それは、神の独子であるイエスが、この世に肉体として遣わされたということを意味している。肉体として遣わされたということには、次のような意味が含まれている。イエスは、人間として苦しみ、悲しみを経験したということ。人間の罪を見てきたともいえるであろう。罪がなかったのに十字架に掛けられた。それは人間の欲望によってであった。おのれの権威を守るために、民衆から支持されているイエスが邪魔になった。そこで殺した。人間の欲望は、様々な苦難を生み出す。欲は権力という上下関係を生み出す。そして、そこには強者、弱者という構図ができ、苦しみを受ける人々を生んでゆく。イエスこそが弱者の立場に立ち、歩んだ。つまり、人間として人間の罪、苦しみなど、すべて知っておられるのがイエスであるということである。だからこそ、真の罪の赦しを行うことができた。私たちの罪を今もなお負ってくださるのが、人間として苦難を負ってくださったイエスなのである。
 そして、28節には「一度献げられた後、二度目には罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです」とある。それは、神の国、終末、この世の終わりの裁き、救いが述べられている。二度目は、終末を待ち望む人たちのためにイエスは遣わされ、神の国が現れるということである。
 ヘブライ人への手紙の著者は、神の国の到来の預言を、そこで一番に示したかったのであろうか。そうではない。そこにある「ご自分を待望している人々」とは、神を信じるキリスト者である。では、なぜ神の国を待望していると記したのか。当初、神の国がすぐに訪れると信じ、信仰的に活気に満ちあふれていた。しかし、なかなか神の国が到来しないので、待ちくたびれてしまった。また、キリスト者が二代、三代になり信仰的に減退した。そこで著者は、信仰の希望の再活性化を企てたのであると考えられる。確かに、そのようにも考えられるであろう。一方、ヘブライ人への手紙を読む人々は、迫害にあっていたという理解もある。
 私は、次のように理解したい。「ヘブライ人への手紙は、神・イエスを信じ、いま希望をもって歩もうという、励ましの手紙である。」と。私はじつは、聖書全体が励ましの書であると考えている。ヘブライ人への手紙で重要なのは、イエスが一度限りの完全な救いの儀式を行ってくださったということである。つまり、救いの道が私たちに開かれた。開かれたからこそ、神の国がイエスの十字架を通して表れ始めている。そこで大切なのは、神の国が現れ始め、完全な救いの到来を待ち望むという希望が与えられたということである。
 神の独子イエスがこの世に遣わされ、私たちは罪を赦された。十字架の罪の赦しとは、いかなることなのか。罪とは、この世を創られた神を裏切ることである。神に対する罪であるから、赦すことができるのは神のみである。そこで重要なのは、犠牲としてイエスの血を用いなければならなかったということである。旧約聖書のイザヤ書22章14節には、「人間は死ぬまで罪が赦されることはない」と記されている。逆にいうと、人間の罪は、死によってしか赦されることはないということである。神殿では、動物の血が犠牲としてながされた。しかし本来、私たちは自分の血、命をもってしか自分の罪を償うことはできないのである。しかし神は、神の独子イエスの血、命を用いて、すべての人の罪を赦してくださったのである。人間の一度限りの命を、イエスは自分の命によって救ってくださった。つまり、私たちは罪ある者にもかかわらず、生かされているということなのである。神は愛なる方で、私たちをありのまま受け入れてくださっているとも言い換えることができるであろう。
 一方、私たち人間は、それでも、この世において苦しみを負わねばならない。また、愛なる神を忘れる。それは愛を行わないということである。そのような人間に対し、終末に神の国が到来する。すでに表れ始めている。この手紙は、神の国の到来を信じ、神に生かされている者として、希望をもって今を歩もうと述べてくださっているのではないだろうか。つまり、イエスは私たちと共にいて、希望なる新た道を与えてくださったということである。しかも、人間の苦しみ悲しみを知っているイエスが、今もなお私たちと共にいて罪を負ってくださる。その根拠はイエスの十字架である。神はこのように、私たちに関与してくださっているのである。
 ヘブライ人への手紙は、イエスの真の十字架の救いこそ、天における真の神殿における罪の真の赦しの儀式であると述べている。イエスの真の罪の赦しがあるからこそ、私たちは今生かされ、希望をもって歩んでいけるのである。悲しみ、嘆き、迫害にあっても、イエスが共にいてくださる。私たちは真の大祭司イエス、神に新たな希望の歩みが与えられている。神、イエスによって励まされていることを信じ、日々感謝をもって歩みたいと思う。

祈祷  贖い主なる神さま 御子イエスはこの世に遣わされ十字架を通して人間の罪をお赦し下さいました。真の大祭司イエスが、天の神殿でご自分の命を犠牲に血を流し、すべての罪をお赦し下さった。一回のこの出来事に、救いと希望があります。罪ある私たちにも関わらず神、イエスは私たちを生かしてくださり、希望の道を与えてくださっています。どうか、感謝し歩むことができますように。そして、この喜びを多くの人と分かち合うことができますようお導きください。本日は、世界聖餐、世界宣教の日です。現在、聖餐式はパンと葡萄酒を分かち合うことはできません。しかし、主イエスの救いを想起し、神の恵みを世界中の人々と分かち合う時として下さい。そして、神、イエスの救いを多くの人と分かち合うため私たちを強め、お用いください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。寒暖の差が大きくなっています。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方、これから手術を受けられる方を心身ともにお癒しください。悩み、悲しみの中にある方々、一人で暮らされている方々をお支えください。人間は欲深い者です。心の内を見ることはとても辛いことです。どうかイエスがともにあり、私たちが心にある欲を見ることができますように。特に指導者たちが自分の欲と向き合うことができますように。指導者は、民を導くことが何よりもの働きです。どうかそれぞれの国の民がその人らしく歩むことができるよう、指導者を導きください。争いは何も解決にならないことを教えてください。自然災害で被災された方々をお支えください。神の名を都合よく用い金銭を搾取することは、神の求めていることではありません。そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。まそのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。今月誕生日を迎えられる方の上に主の祝福が豊かにありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間、新しい月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/09/25 聖霊降臨節第17主礼拝

聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 14章 3~9節」  聖書朗読
14:03イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 14:04そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。 14:05この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。 14:06イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 14:07貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 14:08この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 14:09はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「仕える姿」  マルコによる福音書14章3節以下の物語は、四つの福音書すべてに記されている。それは皮膚病のシモンのベタニアにあった家に、イエスが行ったときの出来事である。当時、病人は罪を犯した罰であると考えられていた。また、皮膚病の人は隔離されていた。イエスが皮膚病であったシモンの家に行ったということから、イエスが社会的弱者や差別を受けていた者と共におられたということが分かる。エルサレム近郊の町ベタニアのその家でイエスが食事の席に着くと、一人の女性がやってきた。彼女は、非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺をもっていた。それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。ヨハネによる福音書には、女性の名前をマリアと記されている。しかし、マルコによる福音書には記されていない。女性の名を残さなかったのは、マルコが、彼女の名前ではなく彼女の行為を読者の記憶にとどめるべきであると考えたからだと理解できる。
 そこにいた人の何人かが憤慨し、女性の持っていた高価な香油を「300デナリオン以上に売って、貧しい人に施すことができるのに」と叱った。1デナリオンは、1日の賃金にあたる。300デナリオンとは、ひとりの年収に相当すると考えることができよう。それだけ大きな額を、彼女はほんの一瞬で使ってしまった。そこにいた人々はなぜ憤慨したのか。第一に、当時、女性が男性の出席している食事の場に勝手に入ることはなかった。そこから、この女性は当時において社会的に身分の低い者だったと考えられる。憤慨した人々は、その香油が高価なものであったからこそ、貧しい人と分かち合うことが道徳的に正しいと考えたのであろう。持っているものを持っていない人に分えることは、道徳的に正しいといえよう。もちろんユダヤ教でも、貧しい人に施しを行うことは神の思いに適うことであるとして行われていた。
 さて、現代ではどうか。食事の席で、いきなり頭に香油を注がれたなら、どうであろう。誰もが驚き怒るのではなかろうか。しかし、イエスは怒らなかった。それどころか、その女性の行いを褒めたのである。そこには、どのような意味があるのか。その壷または、その器には次のような意味があったと思う。人間が器を両手でかかげて持つということは、自分自身を、その対象の人にささげるという意味がある。つまりその女性の行為は、高価なナルドの香油を捧げたということと共に、彼女自身をイエスに捧げたということを意味している。また、壺を壊したという行為も、女性自身の心をイエスに対して開いたという意味があると考えられる。イエスは「この女性はよいことをしたのだ」と述べた。そこで「よい」と述べたギリシャ語は「カロス」である。その語には、道徳的に良いことをしたという意味がある。憤慨した人たちは、道徳的に正しいことを行うようにと述べたのに対し、イエスは女性の行いは道徳的に正しいのだと答えたのである。また、その女性の行為は、イエスを讃美するものといえよう。イエスに心を開き、そのときその女性ができた最高の捧げもの、もてなしをしたと理解できる。ユダヤ教では、死者を丁重に葬ることを大切にしていた。香油を塗るという行為は、宗教的な行為だったのである。そのときまだ生きておられたイエスに、死者を葬るような作法を行った彼女の行為は、いかがなものであったか。イエスはそれまで幾度か、自身の十字架の死を予告していた。つまり、イエスの言葉に対して心を開き、聞いていれば、イエスが十字架によって殺されることを理解できていたといえる。香油を注いだその女性がそのとき、イエスの十字架の予言をどれだけ理解していたかは分からない。しかし、香油を注ぐという行為は、イエスの十字架の死に対する葬りの準備を行ったといえよう。それは、十字架という神の計画が成し遂げられることを讃美する出来事であった。そのようにイエスは受けとり、女性の行いを褒めた。いや、それだけではなくイエスは「世界中どこでもイエスの救いが述べ伝えられる場所では、この人のしたことは記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃったのである。その女性の香油を注ぐ行為は、イエスに対する信仰の応答のしるしの一つであった。それは信仰者として倣うべき行為なのだと、イエスがそう述べたといってよいであろう。また、イエスは「貧しい人はいつもあなたがたと共にいる」と述べた。わたしは思う。貧しい人に施しを行うことは正しい。一方、その女性は十字架に向かうイエスを讃美していた。その時にしかできないことを行った。十字架によってイエスがこの地上から去った後は、貧しい人に施しを行うことがイエスに対する信仰の応答となるということではなかろうか。マタイによる福音書の25章でイエスは「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言っている。また、旧約聖書申命記15章には「この国に貧しい者はいなくなることがない」とあり、それは「あなたがたは施しを行っているのか」というイエスの問いでもあるように思える。
 4節に「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った」とある。彼らは憤慨しただけでなく「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。(5節)」と言った。「そして、彼女を厳しくとがめた。」とある。かなり厳しく叱ったことが分かる。憤慨し怒った理由の一つとして、それが女性であったからということがあげらあれよう。先ほども述べたが、女性が男性の出席していた食事の場に勝手に入ってきたことが、当時としてはかなり異常だった。一方、イエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか(6節)」と言っている。そこに大きな意味がある。当時はもちろんのこと、男性上位という価値観があった。女性や子どもは、一人の人格と理解されず、奴隷と同じ低い立場に追いやられていたと考えられる。脚を招待する食事の場は、男性の場であった。女性がそこに入ることはゆるされなかった。そのような価値観からの解放が、そこにある。イエスは、子どもに対しても、マルコによる福音書10章で「子どもたちをわたしのところに来させなさい。さまたげてはならない」と述べている。イエスにとって、女性も、子どもも、病人も、奴隷も、みな一人の大切な人格なのであった。それは人間だけではなく、この世にあるものはすべて神によって創られた大切な存在であり、神はそれを養ってくださるということである。男性上位の社会において、イエスはすべての人が平等であると、すべての人にイエス、神への道が開かれていると、すなわち、全ての人が神の愛を受け、救いへと導かれていると示してくださった。イエスは、すべての人をありのまま受け入れ、その存在を肯定していた。この世的な価値観からの解放が、そこには示されていたのである。すべての人に神によって自由が与えられている。自由であるからこそ私たちは、神イエスを讃美し、イエス神に仕えることができるのである。神は、神を讃美すること、神に仕えることを強制してはいない。すべての人が神の前で平等であり、自由を与えられているのである。その喜びに私たちは応答すべきなのである。イエス、神の救いの応答として、その女性は、そのときできることをイエスに対して行った。それは信仰の証の一つであり、感謝の応答だった。だからこそ、記念として世界中で語り伝えられたのではないだろうか。私たちも、イエスによってありのまま受け入れられている。神イエスの前では誰もが愛され、平等なのである。私たちも、この世的な価値観から解放されているのである。その喜びに感謝し、互いの存在を尊重し、神イエスに応答したいと思う。そのことによって差別や偏見はなくなるのである。

祈祷  全知全能なる主なる神さま 私たちは、様々な偏見、差別、この世的な価値観にとらわれてしまいます。神、イエスは、一人ひとりをありのまま愛し、受け入れ、その存在を肯定してくださいます。私たちも、あなたに愛されている者として応答することができますように。また、あなたに愛されていることを確信したときにこそ、隣人を愛し、受け入れ合うことができます。どうか私たち、神、イエスに愛されている者同士が、互いを尊重し、歩むことができますように。台風が2週連続で到来しました。被災された方々をお支えください。世界では異常気象によりかんばつ、水害が行っています。どうかその場にあってお支えください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方、これから手術を受けられる方を心身ともにお癒しください。争いでは何も解決しません。「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」。このことが行われますように。争いで最も被害にあうのは、弱者、子どもたちです。子どもたちによき未来を与えることができますよう指導者を導きください。そのため私たちをお用いください。神の名を用い金銭を搾取することは、神の求めていることではありません。一方、そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。新しい命を祝し、ご家族をお導きください。土曜日から新しい月がはじまります。よき月となりますように。また、そのためこの礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。  この小さき祈り、主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/09/18 聖霊降臨節第16主礼拝

聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(2) 4章 16~18節」  聖書朗読
04:16だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 04:17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 04:18わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「日々新たにされる」  コリントの信徒への手紙(二)4章16節以下に心を傾けたいと思う。16節に「わたしたちは落胆しません」とある。落胆するとは、日本語の意味では、期待通りにならなくて、がっかりすること、失望することである。何に対して失望していないと言っているのか。それは「『外なる人』が衰えても失望することはない」と言うことなのか。「外なる人」とは、肉体を意味している。
 「落胆しない」と訳された元のギリシャ語は「エンカケオー」である。その言葉は、コリントの信徒への手紙(二)の4章1節にも用いられている。そのことから、4章1節以下と16節以下は、同じ主題を扱っていると言える。実は、この「エンカケオー」に「落胆しない」という意味はないと述べている学者がいる。理由として、古典ギリシャ語では「怠慢である。さぼる、さぼって実行しない」という趣旨である。新約聖書のギリシャ語にだけ、それと違う意味を考えるべき特別な理由は何もないというのである。他の学者も、その言葉は元々「悪い(カコス)」状態になることを意味すると記している。そこで「落胆しない」ではなく、「私たちは怠けることなく」、また、「さぼることはしない」と訳しているのである。
 では、4章1節以下では、どのようなことが記されているのか。「私たちを憐れみ、どんなに迫害、苦難の中にあっても、神は見捨てることなく、イエスを通して私たちと共にいて力を与えてくださっている。イエスが十字架で死に復活されたように、私たちにもその復活の力が働いている。そこで、多くの人と神の恵みを分かち合って生きる」というのである。しかも7節には「弱くてもろい『土の器』である私たちにもかかわらず、神は『宝』を『土の器』の中に収めてくださっている」と書かれている。宝とは「キリストの栄光の福音」である。簡単に言えば「イエスの十字架による救い」、「ありのままを受け入れてくださる愛」といって良いと思う。イエス、神の恵みを与えられている者として、神の恵みを多くの人と分かち合うため、「さぼることはしない」と理解することができるであろう。
 コリントの信徒への手紙を記したのは、パウロである。パウロは、元々ユダヤ教のファリサイ派に属し、神を述べ伝えていた。しかし、復活のイエスに出会い、イエスこそがパウロの信じている唯一の神の独り子であるということに気づいたのである。それからイエスの救いを述べ伝えた。そのために、パウロは「さぼることはしない」と自ら鼓舞したと理解できるのではないだろうか。パウロの宣教には、様々な苦難があった。パウロはユダヤ人ではない異邦人だった。イエスが活動したパレスチナではなく、現在のトルコからローマにかけて、イエスの救いを述べ伝えた。イエスを知らない人々に語ることによって被害にあった。また、当時のエルサレム教会から理解されないという苦難もあった。しかしパウロは、どんな苦難な中でも、十字架のイエスが共にいて導いてくださるという強い確信をもって歩んだのである。しかもパウロは、身体的な病気、障害を持っていた可能性がある。それにも関わらず、「さぼることはしない」というのである。「どのような苦難の状況においてもイエスの救いを述べ伝えるのだ」という思いを見ることができる。その前提には、神による導き、励ましがあるということである。神様の恵みに応えようとするパウロが見える。
 「さぼることはしない」とは、厳しい意味ではなく、神の恵みを受けた者として神に対する感謝をもち神の栄光をこの世に現わすように生きようという、いや、そのように生きることができるように、神がイエスを通して恵みを与え、共に歩んでくださっているのだという励ましであると私は理解したい。つまり、信仰、神の救いを与えられていることに対する応答である。
 次にパウロは「『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と述べている。「外なる人」とは肉体である。私たちの肉体は弱まり、滅びる。しかし、「内なる人は日々新たにされる」のである。他方、私たちの肉体は、この世的・悪魔的な誘惑または苦難を受ける。もしかしたら、さぼるということも誘惑なのかもしれない。しかし、「日々新たにされる」のである。そこに大きな意味がある。それは、「この世的・悪魔的な誘惑にさらされていても、私たちはそれ以上に、日々新たにされる。神の恵み・導きが、聖霊を通して、この世的・悪魔的な誘惑、苦難を受ける以上に、事前に与えられている。だから、『内なる人』は負けることがない。神が絶対・永遠であるように、『内なる人』はこの世的・悪魔的な誘惑、苦難に打ち勝つことができる。いや、神、イエスが、すでに打ち勝つよう力を与え、支え、導いてくださっているのだ」である。しかも、その誘惑・苦難は「一時」なのである。それは「一瞬」といってもよい。神の救いは永遠だからである。では、「内なる人」とはいかなることなのか。それは、聖霊が与えられる私たち自身の内の出来事である。心に宿る信仰といっても良いかもしれない。「日々新たにされていきます」も継続的でよいのだが、面白い訳がある。もっと分かりやすく「私たちの内なる人は日に日に新たにされ続けます」という訳である。分かりやすいと思った。というのは、「新たにされる」は、ギリシャ語でアナカイノー。「アナ」と「カイノオー」という単語が組み合わされている。「アナ」とは「反復」、「カイノオー」は「新たにする」を意味し、何度も何度も、その都度、新たにされるという意味合いがあるからである。
 「外なる人」、肉体は衰えても「内なる人」、つまり、聖霊によって私たちの信仰は日々新たにされている。そこに年齢は関係ない。パウロが苦難にあっても神の救いを述べ伝えることができたのは、神による聖霊が何度も何度も、日々、その都度与えられていたからである。それは、私たちも同様である。私たちは日々、その都度、聖霊によって新たにされている。聖霊は見えないが、確かな神の働き、力である。その聖霊が何度も、何度も与えられている。
 本日の礼拝は、敬老祝福礼拝としている。年を重ねられた方々は、その分、日々新たにされてきた。つまり、聖霊を何度も何度も与えられ、応答してこられた方々といえるであろう。その恵みを私たちは覚え、感謝したいと思う。そして、日々、神によって聖霊が与えられてきたということを、私たちは年を重ねられた方々を通して教えてきただき、希望を持つことができるのである。私たちは日々新たにされている。信仰に衰えなどない。主の聖霊が今もなお、ここに注がれている。そのことを確信することこそ、私たちの生きる支え、力、励ましになる。新たなる者とされていることを感謝し、神に応答したいと思う。応答のしるしとしての祈りを捧げたい。

祈祷  全知全能なる主なる神さま あなたは、一人一人に命を与え、その生涯、いや永遠にお導きくださいます。私たちは弱く誘惑される者ですが、あなたはそれ以上に私たちに聖霊を注ぎ新たなる者として守り、お導きくださいます。わたしたちの肉体は朽ちますが、信仰は日々新たにされると信じます。どうか、あなたに生かされていることを信じる力を与え、日々新たなる者としてください。そして、神の恵みを多くの人と分かち合うことができますように。あなたに応答し、感謝をもって日々歩むことができますように。新型コロナウイルス感染が収束しますように。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方を心身ともにお癒しください。台風が到来する季節になりました。今も台風14号が到来しています。どうかそれぞれの場にある方々をお守りくださいますように。被害がこれ以上でないようお導きください。世界では異常気象によりかんばつ、水害が行っています。どうかその場にあってお支えください。三連休の中日となっています。それぞれの場にある方々がよき休みとなりますように。争いは人間の欲でしかありません。互いを尊重し、和解するようお導きください。イエスこそ神と人間の和解をもたらしてくださいました。それは私たちが倣うべき事柄であり人と人との和解の導きでもあります。どうかこの世に争いがなくなりますように。そのため私たちをお用いください。神の名を用い金銭を搾取することは、神の求めていることではありません。一方、そのため悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。お守りください。本当の神と出会うことができますように。また、そのため働かれている方々をお支えください。 新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時を迎えることができますように。金曜日には、茨城地区大会が当教会で行われます。よき学びとなりますように。講師でお越しくださる平良さんの健康をお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/09/11 聖霊降臨節第15主礼拝

聖書:新共同訳聖書「ホセア書 11章 1~9節」  聖書朗読
11:01まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。 11:02わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。 11:03エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。 11:04わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。 11:05彼らはエジプトの地に帰ることもできず
アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。 11:06剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち
たくらみのゆえに滅ぼす。 11:07わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも
助け起こされることは決してない。 11:08ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。 11:09わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の子となる」  新約聖書を読んだことがある私たち、そして、イエスの言葉を知っている私たちは、神を父と呼ぶ。神が父であるとは、親という親しい関係であると理解できるであろう。イエスは、神を「アッバ」と呼んだ。それは、幼子が親しみを込め「おとうちゃん」と呼ぶ言葉である。そして、神の独り子イエスは、主の祈りで「天におられるわたしたちの父よ」と教えてくださった。そこで、私たちも神を「父」と直接呼びかけることが許されたのである。聖書は、神のことを父と教えているのであろうか。実は、旧約聖書では異なっている。「神」と直接呼びかけることさえおこがましい。神は畏れ敬うべき存在であり、神を見ることは死を意味するという理解さえある。あるとき私が、主の祈りについてお話をしたときに、「旧約聖書でも神を父としているのでしょうか」という質問を受けた。「旧約聖書では神を父、親とする考えは基本的にない。しかし『ない』とは言い切れないと私は考えています」と答えた。すると、ある先生から「旧約聖書には神を父と呼ぶ理解はない」と指摘を受けた。確かに基本はそうであるといえるであろう。しかし、本当にそうなのか。
 そこで、本日与えられた聖書箇所、旧約聖書のホセア書11章1節以下に心を傾けたい。1節には「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とある。神は奴隷として苦しんでいたイスラエルの声を聞き、モーセを指導者としてエジプトから脱出させた。イスラエルを「わが子とした」。養子とするという理解である。しかし2節には、「イスラエルは唯一の神と契約を交わしたにもかかわらず、古代パレスチナの民が礼拝した豊作の神バアルを拝んだ」とある。3節にあるエフライムとは、イスラエルの別称である。神はイスラエルの先祖となるアブラハム、また出エジプト記のときに契約を交わして、これを幼い子どものように大切に育て、導き、傷を癒してくださった。
 4節は「愛の絆」でお導きくださる。イスラエルを雄牛にたとえている。「軛(くびき)」は、牛などの首につけ荷車などに結び付ける木の棒の器具である。軛を外さなければ食事ができない。神は軛をはずし、しかも身をかがめて食事を与えてくださった。そのように大切に育ててくださる。そこで、カトリックのフランシスコ会訳聖書を見ると「慈悲の紐(ひも)や愛の絆(くびき)で、わたしは彼らを導いた。わたしは彼らに対しては、赤子を抱き上げて頬ずりする者のようであった。わたしは身をかがめて彼に食べさせた」とある。新共同訳聖書とかなり異なっている。確かに「本文を僅かに修正した」と注釈に記されている。フランシスコ会訳は、神を父、イスラエルを子とする理解に立って訳していると思う。神が人間に頬ずりしてくださる。それほどイスラエルを愛おしい存在だと思っていることが分かる。
 紀元前722年、ホセアが預言活動をした北イスラエルは、エジプトと同盟を組みアッシリアと闘うという期待があった。しかし結局、イスラエルはアッシリアに負けて滅ぼされた。エジプトと同盟を組もうが、アッシリアに負けようが、どちらにしても奴隷という状態になった。政治的駆け引きは、人間の策略にしかすぎない。人間の策略は、自分の力を信じる現れである。それでは問題は解決しないという意味もあるだろう。結局、争いでは解決できず、荒れ果てる。「たわごと」、占いも何も意味はないというのである。7節には、このようにイスラエルは神に背いてしまい自ら滅びたとある。
 しかし、8節に「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」と書かれている。神の愛、思いが最高度に描かれている。申命記に、アダマとツェボイムは、ソドムとゴモラと共に記されている。創世記18章20、21節に「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう』」とある。ソドムとゴモラは、結局、罪深いため、神の裁きを受け滅びに至った。アダマとツェボイムも、同じように神に背いたことによって滅ぼされたということの象徴として、それが8節に記されていると考えることができる。しかし神は、アドマとツェボイムのようにイスラエルを見捨てること、滅ぼすことなどできないというのである。神は、「憐れみに胸を焼かれる」。興味深い言葉である。神が苦しんでおられるということを、そこから見ることができるからである。苦しむほどにイスラエルを愛している。そして、9節には「わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」とある。わたしは神であり、人間ではない。神は聖なる方です。「聖」とは人間とはまったく異なり、完全、絶対的な力を持っておられるということである。それは力だけではなく、愛も同様である。人間の愛と神の愛は比べものにはならない、人間には想像もできないほど大きいといってよいであろう。神は、聖なる方であるから、イスラエルを滅ぼすことなく愛し続けるというのである。
 新約聖書ルカによる福音書の15章でイエスは、放蕩息子のたとえを語っている。親が生きているのに財産を求めた息子は都市の生活にあこがれ、親のもとを離れ、都市で財産を用いて豪遊した。しかし、財産を使い果たすと、誰も彼を助けてくれない。息子は自分の行なったことを悔い改め、親の元に帰った。父は何も言わず喜び息子を抱きしめ、家に迎えた。そのたとえ話は、帰ってきた息子を受け入れる親のたとえである。その親こそ神であり、神の愛が述べられている。「放蕩息子のたとえ」ではなく「放蕩の息子をありのまま受け入れる父親のたとえ」という言い方が正しいと言える。ホセア書11章も、神は裏切ったイスラエルをただ愛し、帰りを待ってくださる。ホセア書でも、神は、人間に対し父と子の関係をもってくださったといえるであろう。
 イスラエルは、神に背き、自分の力、同盟などの政策で、困難な状況を乗り切ろうとした。自分の力を信じたといえよう。しかし、結局、アッシリアに滅ぼされてしまった。神は、居ても立っても居られない。子どもであるイスラエルを愛し、心配した。神は、愛する対象として、この世を創った。そして、弱い民であるイスラエルと契約を交わした。神からの一方的な契約であり、契約の通りに愛し、導いてくださるのである。しかし、イスラエルは神に背き、神ではない神を拝み、神ではなく自分の力を信じた。そのよなイスラエルを、神は子どもとしてくださるのである。ここに大きな意味がある。父と子という関係は、契約以上に、断ち切ることのできない関係と言えるのではなかろうか。親は基本的に、子どもに対して責任を持っている。神は、親としての責任を自ら負ってくださったのである。元来、神と人間は父と子という関係ではない。しかし、神に背いてしまったイスラエルを愛したからこそ、父と子という関係としてくださった。それは、絆を切ることなく、責任をもって神が導いてくださるということである。「父と子の関係」は契約ではなく、愛をもって導く、と理解できるのかもしれない。究極的な救いの関係といえるであろう。つまり「父と子」という関係によって、神の救いの一大転換が起こったのである。
 私たちにも同様である。イエスによって、より父と子という関係が完成した。しかも、イスラエルだけではなく、すべの人が神の子とされたのである。私たちは神の子とされてしまった。切ることのできない絆を、神はもってくださった。一方、私たち自身も、神の子であるという自覚を持つべきなのではなかろうか。子どもとして神に無条件に愛されていることを確信したいと思う。その時、自分自身を受け入れることができ、神に愛されている他者をも受け入れることができるのではないだろうか。また、神の愛に倣い、その愛のもとで生きるという思いを持つことができる。私たちは決して一人ではない。神は、私たちに頬ずりするほど愛してくださっている親なのである。神の無償の愛を理解し、受け取りたいと思う。そのことを理解したときにこそ、私たちの歩みにも一大転換が起こるのである。新たな歩みがはじまるのである。

祈祷  愛なる神さま、わたしたち人間は、あなたに愛されているのにもかかわらず、あなたの愛を忘れ、あなたから離れてしまうことがあります。あなたは、どんなことがあろうとも人間を見放すことなく、責任を持って愛し、導いてくださいます。あなたが私たちを子どもとしての関係・絆を結んでくださったからです。あなたの愛を感謝いたします。わたしたちが神の子として歩むことができますよう、これからもお導きください。そして、私たちが神の子同士として、手を結び歩むことができますように。人と人とが争うことは、神の御心ではありません。神は、互いに愛し合うようこの世を創られました。また、争いで被害にあうのは最も弱い者、子どもたちです。争いは悲しみしか生み出しません。しかも、悲しみは癒されることなく心に残ります。どうか、この世において争いがなくなりますように。わたしたちをお用いください。これから台風が発生する季節になります。11号でも被害が起こりました。それは日本だけではありません。また、世界では大雨による水没、逆にかんばつにより被害が出ています。どうか被災された方々、悲しみの中にある方々、不安の中にある方々をお支えください。これ以上被害が出ないようお守りください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方々、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々に心身ともにお癒しください。お金を搾取することは神の意思ではありません。神の名を用い私腹を肥やす者、そのために悲しみ、苦しみの中にある方々がいます。どうかお救い下さい。新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時を迎えることができるようお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間、一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/09/04 聖霊降臨節第14主礼拝

聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 5章 1~7節」  聖書朗読
05:01わたしは歌おう、わたしの愛する者のために
そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に
ぶどう畑を持っていた。
05:02よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り
良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
05:03さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ
わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
05:04わたしがぶどう畑のためになすべきことで
何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに
なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
05:05さあ、お前たちに告げよう
わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ
石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ
05:06わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず
耕されることもなく
茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
05:07イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑
主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに
見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに
見よ、叫喚(ツェアカ)。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「期待している」  紀元前1000年頃、ダビデによって12部族の統一王国となったイスラエルは紀元前922年、エルサレム神殿のある南ユダと、サマリアのある北イスラエルに分裂した。6章に、イザヤが預言者となる召命記事がある。年代は南ユダを長く治めていたウジヤ王が天に召された紀元前736年頃であると考えられる。南ユダの転換期となる。本日の箇所は、イザヤの召命の前だが、イザヤの歌であるといってよいであろう。またこの頃、ウジヤ王の死と共に、アッシリアが侵略政策を展開し、対外的に緊張した状態でもあった。その状況であるからこそ、神へと導く預言者が必要であった。なお本日の箇所ではイスラエルとユダとに呼びかけているが、一緒にしてイスラエルと述べる。
 政治的に緊張した状態と述べたが、1節に「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を」とある。ぶどう畑の愛の歌と記されているように、愛の歌という明るい記述から始まっている。
 ぶどうにはどのような意味があるのだろうか。現在では、ワインにはポリフェノールが含まれていて、体に良いと言われたりしている。古代オリエントでも、ぶどうの樹は健康と富の象徴とされていた。そして聖書では、ぶどうの樹は選ばれた民の象徴である。ぶどう畑は、天と地を結びつける神の愛のしるしとして、旧約聖書の雅歌などでも用いられている。
 1節に「わたしは歌おう」とある。「わたし」とは、新郎の親友である。次の「わたしの愛する者」とは、新郎である。「私の愛する者は、ぶどう畑を持っていた」のである。ぶどう畑は新婦である。そのような愛の歌である。新郎の親友は預言者イザヤ、後に明らかになるが、畑の持ち主である新郎は神、ぶどう畑の新婦はイスラエルを指している。神とイスラエルはパートナーであったといってよいであろう。ぶどう畑の持ち主は、肥沃な丘を持つ。これはエルサレム、シオンの丘を意味している。2節に「畑をよく耕し、石を除き、見張りの塔を立てる。」とある。つまり、ぶどう畑である新婦イスラエルを大切にし、守っている。そして、ぶどう酒を作るために酒ぶねを掘り、大切に育てたので、よいぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。それは、イスラエルが神に対して不従順であったことを意味する。
 3節から語り手が交代している。語り手は親友からぶどう畑の持ち主、つまり神が語るようになっている。そこで神は、イスラエルに対して裁きを求めた。私はそのように受け取りたいのである。神から与えられた愛と神への背きの歩みを客観的に見るようにと、神はイスラエルに求めているのではないか。4節では、ぶどう畑に対して持ち主はできる限りのことを行ってきた。神は、イスラエルを自分の民として、「これ以上何ができるのか」というくらいに愛を注いできたので、良い実を結ぶことを待った。つまり、イスラエルの民が神と正しい関係を持つよう待った。しかし、イスラエルは、神に背いた。イスラエルは、神に対する背きを認めざるを得ないであろうと言える。
 5節に「そこで神は、ぶどう畑の囲いを取り払い、石垣を崩す」とある。つまり、周りの敵から守るものをすべてなくしてしまう。そうしたなら、敵がぶどう畑、イスラエルを焼き払い、踏み荒らす、崩壊をもたらす。6節で「しかも見捨てる」と神は言うのである。「茨やおどろ」は、荒れ果ててしまうことを象徴する言葉である。イスラエルは敵によって荒れ果ててしまう。そこで、ぶどう畑の持ち主は「雨を降らせるな、と雲に命じる」のである。雲に命令することができるのは、この世を創造されたぶどう畑の持ち主、すなわち神であることが示される。そして、7節では、ぶどう畑の持ち主こそ、万軍の主であることが明らかにされる。主は楽しんでぶどうを植えた。神こそイスラエルの民を選び、育て、良い実を結ぶことを楽しみに待っていた。神との正しい関係にあることを楽しみにした。7節後半は、語呂合わせをしながら、イスラエルを批判している。「主は裁きを待っておられた」と。公平を待ち望まれたと訳したほうが分かりやすいのかもしれない。しかし、流血、争いを行ったといえるであろう。正義を待っておられたのに叫喚、大声で叫んだ。号泣したという訳の方が理解できるかもしれない。イスラエルは、神が期待していたことと違うことを行い、悲しみであふれたのであろう。
 本日の箇所は、愛の歌から始まった。神はイスラエルを選び、関係を正しく持とうと手塩にかけ導き、待った。しかしイスラエルは、神に従わず、号泣した。神の裁きが記されているのであろうか。
 ここでイザヤ書27章4節をみると「わたしは、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば/わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす。」とある。この個所は、黙示的に記されている。黙示とは、神の意思があきらかにされることである。神の裁きがあるが、最終的に神は救いをもたらしてくださると言えるであろう。「茨とおどろ」とは、荒れ果ててしまうことの象徴と述べた。27章4節には、荒れ果てさせようとする者、つまり敵を神は焼き尽くすとある。27章4節は、本日の聖句「ぶどう畑の歌」を念頭に置いて記されたと考えられる。また、マルコによる福音書12章1~12節にも、イエスのぶどう畑のたとえが記されている。ぶどう畑の持ち主が収穫時に収穫を受け取るためぶどう畑に僕を送った。しかし農夫たちは、ぶどう畑を自分たちのものにするため僕を殺した。それを数回行った後、ぶどう畑の持ち主は、自分の一人息子なら農夫は話を聞くだろうと息子をつかわした。しかし、農夫たちはその息子をも殺してしまったというたとえ話である。息子はイエス、僕は預言者である。イスラエルの民は、神の僕である預言者を殺し、しかも、神の独り子イエスさえも殺してしまった。イスラエルの不従順と十字架の予言が記された箇所である。そのたとえ話は、本日のイザヤ書のぶどう畑の歌を思い起こさせる。イエスのたとえ話で、独り子は殺された。
 しかしその死、つまり十字架をも、神は人間の救いに用いた。また、イザヤ書27章4節のように、本日の箇所も神の救いが暗示されているといってよいように思う。というのは、本日の箇所で、最後に神は裁きを述べていないからである。「民は流血し、泣く」で終わっている。そこに、大きな意味があると思う。それはいかなることか。最後に神が裁きを述べていないのは、イスラエルが神に向かうように、花婿が花嫁との関係が上手くいくように、ぶどう畑の持ち主がよい実がなるように待っているように、つまり神は、神に背くイスラエルを信頼し、待ってくださっているということが意味されていると受け取りたい。ぶどう畑の持ち主が手塩にかけてぶどうを育てる。つまり、神がイスラエルの民を愛し、守り、導いてきたことを振り返り見て、神の愛に気づくよう待っていると理解したいのである。
 それは、私たちに対しても同様である。神が無条件に私たちを愛してくださっていることを、私たちは改めて見たいと思う。私たちには、悔い改めることも必要であるが、同時に神の愛なる導きを思い起こすこと、すなわち神の恵みの数を数えることも必要なのである。神は沈黙し、どのような状態になろうとも、私たちに期待し待ってくださっている。そこに神の愛を思う。神に応答したいと思う。応答とは、ただ神を愛し、導きを信じるということである。神の愛を確信し、応答することによって、対外的な緊張を打開できるのではなかろうか。イザヤこそ、人間的な政策ではなくただ神の導きを信じなさいと呼びかけた。神に背くとは、神の導きを信じないで、自分の力で解決しようとする思いである。神は、最も良い道を私たちに示してくださる。過去も今も。神は、私たちが神の導きに従い、正しい関係を持つことを期待してくださっている。その期待に応答したいと思う。

祈祷  いつくしみ深い神様、あなたは、イスラエルを選びただ愛し導きます。しかし、イスラエルは神の導きに反してしまうことがありました。それにもかかわらず神は、イスラエルが神に向かうよう信頼し、待っておられます。1800年前に記されたイザヤ書を通して神の愛を知ります。それは、現代の私たちに対しても同様です。人間は自分の力を信じ、自分の企てによって自ら滅びへと向かってしまいます。どうか私たちが神の愛、導きを改めてみることを通して、神に応答することができますようお導きください。主こそ、私たちと共にいて正しい道へとお導きくださいます。人間は自分の企てにより争いを起こしてしまいます。しかし神が私たちを愛し、共に歩んでくださるように、私たちも隣人と共に歩むことができますように。特に、国の指導者をそのように導き、争いが終わるようにしてください。大型台風の影響で大雨となっています。また、日本だけではなくパキスタンでは国土の三分の一が水没しています。どうか被災された方々、悲しみの中にある方々、不安の中にある方々をお支えください。被害が出ないようお守りください。新型コロナウイルス感染が収束しますように。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方々、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々に心身ともにお癒しください。新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時を迎えることができるようお守りください。 この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間、一か月の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/08/28 聖霊降臨節第13主礼拝

聖書:新共同訳聖書「エフェソの信徒への手紙 2章 1~10節」  聖書朗読
02:01さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 02:02この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 02:03わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 02:04しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 02:05罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 02:06キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 02:07こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 02:08事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 02:09行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 02:10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

礼拝メッセージ:和寺 悠佳 牧師「ここにいる意味」 1 私は現在、キリスト教学校にお仕えしています。日本のキリスト者の人口は非常に少ないのですが、キリスト教学校で学ぶ生徒や学生、そしてそこで働く教職員は、かなりの数になります。それでもキリスト教学校の中でのキリスト者は、少数派です。だからでしょうか、キリスト教学校に働きの場を与えられておりますと、キリスト者である、クリスチャンであるということは、いくらか特別な見方をされているように思えることがあります。学生と話をしていて「クリスチャンの人に会ったことはなかったけれど、先生も普通なんだ」と言われたことがあります。「普通」であることが話題になるのですから、キリスト者であることが、そうではない人から見て「普通」ではない、どこか特別な存在に思われているのかも知れません。
 似たような感覚は、私たちキリスト者自身も持っているのかも知れないと思います。「キリスト者であるのだから、こうあるべきだ」「キリスト者として相応しい生き方をしなければならない」そのように感じた経験を、恐らくほとんどの方がお持ちなのではないかと想像します。キリスト者として相応しい歩みとは何か、何をすることがキリスト者に相応しいのかという問いは、私たちの頭から離れないものだろうと思います。

2 今朝与えられた御言葉には、「あなたがた」「わたしたち」という表現が多く用いられています。「あなたがた」「わたしたち」とは、複数のキリスト者のこと、つまり教会を指しています。教会に連なる私たちに向けて、神様は御言葉を与えてくださっています。
 今朝の御言葉は、「あなたがたは、以前は過ちと罪のために死んでいたのです(1節)」と始まります。「死んでいた」とは、とても強い表現ですが、確かに死んでいたとしか言いようのない状況にあったのが、私たちの歩みかも知れません。なぜ死んでいたのかと言えば「自分の過ちと罪のため」でした。過ちと罪を犯す理由について、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者(2節)」に従ったからだと説明されています。「この世」とは神様に敵対する、神様に従わない世界のことで、「かの空中」とは、私たちが生きているこの世界のことであり、いずれも神様に従わない存在、神様から私たちを引き離そうとする存在を指していると言ってよいでしょう。私たちを神様から引き離そうとする力は確かに存在します。神様のほうを向こうと思っても、それを妨げようとする力は確かに存在する。その力に従ってしまうから、神様から離れてしまうのであり、それが「過ちと罪」だと言われているのです。
 神様から離れてしまう、その経験は、信仰の歩みを続けている者にとっても、無縁なものとは言えないのではないでしょうか。主日の礼拝で、日々の祈りの生活の中で、主の祈りを祈ります。主の祈りでは、「我らの罪をも赦したまえ」と祈ります。私たちには罪がある。だから、その罪を赦してください、と日々の祈りで、祈り続けるのです。私たちは罪がある、それならば、私たちは「死んでいる」存在でしかないのでしょうか。
 もう一度、御言葉に丁寧に聴いてみたいと思います。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです(1節)」と言われていたのでした。まず、「以前は」とあります。「今」の私たちのことを言っているのではなさそうです。「以前は」「死んでいた」と言うのなら、「今」は生きていると言いたいことになるでしょう。また、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者」は、「不従順な者たちの内に今も働く霊(2節)」だとも言われています。「不従順な者」とは、信仰のない者のことです。私たちは自分の信仰のあり方について、胸を張ることはできないかも知れません。けれども、自分には信仰はない、自分は信仰者ではないと言うことは決してできないでしょう。すると、私たち自身は「不従順な者」、信仰を持たない者というわけではなくなります。さらに、3節では「不従順な者たち」は「こういう者たち」と呼ばれ、「わたしたち」とは区別されています。すると「不従順な者たち」とは私たちキリスト者を指しているのではないことになります。
 そのように、1~3節において語られていることは、私たちの姿ではないことになるでしょう。

3 それでは、「以前」でもなく、「不従順な者」でもない、私たちキリスト者のあり方とは、どのようなものなのでしょうか。それが4節以降で語られています。ここに、「今」の、「従順な者」つまり信仰を与えられた者の姿が、示されています。ここに示されているのが、私たちの姿です。もっと正確には、私たちに対して神様が何をしてくださったのかが、記されています。
 神は、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました(5~6節)」。それが、私たちに対して起こっていることです。そこに「共に」という言葉が3回も用いられています。「共に」とは、誰かと「共に」ということです。私以外の誰かの存在があるということです。その誰かとは、もちろん、イエス・キリストです。私たちは、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストと共に復活し、イエス・キリストと共に天の王座に着いている者だと、ここで言われていることになります。私たちは、すでに、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストと共に復活し、さらに、イエス・キリストと共に天の王座についている。私たちは、今や、そのような存在となっている。聖書は、そのように語るのです。
 それでは、私たちは、どのようにしてイエス・キリストと共にいる者とされたのでしょうか。それは、洗礼です。洗礼により、私たちはイエス・キリストと共に生きる者とされました。洗礼により、私たちは、イエス・キリストの復活に共に与る者とされました。洗礼により、私たちは、イエス・キリストのおられる天に、自らの居場所を持つ者とされました。洗礼の出来事は、これほどのことを私たちにもたらしてくれました。洗礼により、私たちは「以前」の「不従順な」あり方とは全く異なる、「今」の「従順な」あり方へと変えられたのです。
 しかも、大切なのは、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです(5節)」と言われていること。「恵み」、つまり、ただ神様のみわざによって、私たちが何もしていないのに、私たちはイエス・キリストと共に生きる者とされた。私たちのあり方が変えられたということです。クリスマスの出来事も、十字架の出来事も、イースターの出来事も、全て父なる神様が起こしてくださったみわざです。私たちには思いもつかないような仕方で、神様は私たちを救ってくださいました。神の御子イエス・キリストを人として地上に生まれさせ、私たちの罪を十字架でイエス・キリストに負わせ、イエス・キリストを復活させて全てに勝利させた。そんな救いの道を誰が思いつくでしょうか。誰も思いつかないから、つまり、私たち人間から出たものではないから、神様から出た、神様のみわざであるから、恵みなのです。
 「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり(4節)」ともあります。神様の「恵み」、私たちを救うみわざは、私たちをこの上なく愛する愛から起こされたことです。「以前は」過ちや罪の中にあった私たちですが、その私たちを神様は愛してくださり、「今は」私たちを、過ちや罪から救い出してくださり、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストと共に復活し、イエス・キリストと共に天の王座に着く者としてくださいました。
 復活とは、死に対する勝利です。聖書は、死は罪の結果だと言っています。すると、キリストと共に復活するとは、私たちが死に対して勝利したということであり、私たちの死の原因である罪の問題が解決されたということになります。そして、キリストと共に天の王座に着くとは、あらゆるものの支配者となる、罪や死であってもそれを支配しているということです。イエス・キリストと共に生き、復活し、天の王座に着くことで、私たちは、聖書が「この世を支配する者」「かの空中に勢力を持つ者」と語る、神様に敵対する存在をも支配する者にされている。そのような存在にも打ち勝つ者とされている。それが、私たちの姿なのだと、聖書は伝えます。私たちのわざではなく、神の愛、恵みによって、そのように変えられた、それが私たちキリスト者なのだと、聖書は告げています。キリストと「共に」とは、このように、私たちのあり方を根本的に変えてしまうことなのです。それが洗礼で起きたことです。
 「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました(8節)」とあります。この部分は、「恵みにより、信仰を通して救われました」と訳すこともできます。今や、神様の恵みが示されました。私たちを、イエス・キリストと共に生き、復活し、天の王座に着く者へと変えてくださったという恵み、神様のみわざが示されました。私たちは、それを「信仰を通して」受け取るだけです。神様の恵みはすでに起こっています。神様の恵みによって、私たちのあり方は変えられました。これが事実です。私たちの思いとは関係なく、私たちの自覚とも関係なく、ただ神様のみわざによって、私たちのあり方は変えられていました。それをただ受け止めるのが、信仰なのです。信仰者、キリスト者のあり方なのです。

4 そのような信仰者、キリスト者とは、「神に造られたもの(10節)」だと言われています。以前の口語訳では「神の作品」と書かれていた箇所です。私たちは、父なる神様に造られた者です。天地を造られた神様は、お造りになったすべてのものをご覧になり、「極めて良かった」と言われました。神様に造られた私たちは「極めて良かった」のです。その私たちは、一度は過ちと罪のために死にました。しかし、神の恵みにより、信仰を通して、イエス・キリストと共に生き、復活し、天の王座に着く者とされました。その私たちは「キリスト・イエスにおいて造られた(10節)」と言われます。
 私たちは、何のために、キリスト・イエスにおいて造られたのか。それは「神が前もって準備してくださった善い業のために」と説明されています。「善い業」と言われています。そこでは「業」「行動」「行い」の話が出てきています。すると、キリスト者としてどのように行動すべきかが言われているようです。
 それでは、「業」「行動」「行い」に着目して、今朝の御言葉を振り返ってみたいと思います。「以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた(3節)」と言われ、イエス・キリストと共に生きる以前の私たちの行動は、「肉の欲望」「肉や心の欲するまま」になされたものだと言われています。これに思い当たることは多いのではないでしょうか。「肉の欲望」。「肉」とは罪へと向かってしまう人間存在を意味しますから、罪という神様からは敵対する存在に従ってしまう私たちのあり方、私たちの行ないを言い表しています。日々の自らの歩みを振り返るとき、「肉の欲望」に従ってしまった、と思われる方も多いことでしょう。
 それでは、「肉の欲望」に従うのが私たちのあり方なのでしょうか。今朝の御言葉は、そのようには語っていません。私たちが救われたのは「行いによるのではありません(9節)」。「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた」「わたしたちは、その善い業を行って歩むのです(10節)」。私たちは、「神の作品」です。私たちが自分で自身を形作ったのではなく、神様が私たちを造ってくださったのです。神様が「善い業のために」、それも「前もって準備してくださった善い業のために」造ってくださったのです。「前もって準備してくださった」と言うのですから、私たちは神様のご計画の中に入れられているということです。私たちが善い業をすることが出来るとか出来ないとかいう話ではなく、神様は、私たちのことを「善い業」をなす者として、ご計画の内に造ってくださっているのです。
 どのような歩みがキリスト者に相応しいのか、どのような業がキリスト者として相応しいのか、私たちはそのことを考えます。自分は、キリスト者として相応しい業や歩みをしているだろうかと、私たちは不安になることがあります。その場合、相応しいか、相応しくないかを決めているのは誰でしょうか。それは、私たち自身です。自分がキリスト者として相応しいか、相応しくないかを判断している時、私たちはキリスト者として判断していることになります。その判断の前にあるのは、キリスト者である私です。
 ここまで、キリスト者、信仰者とはどのような存在であるのかを御言葉から聴いてきました。キリスト者とは、「神の作品」です。信仰者とは、「善い業」をなす「神の作品」です。私たちが相応しい、相応しくないと判断する以前に、私たちはキリスト者とされ、善い業をなすことのできる存在に造られていたのです。
 自分はキリスト者として相応しい業、歩みが出来ているのだろうか、自分はキリスト者として相応しい存在なのだろうか。そう思うことは、自らの信仰のあり方、キリスト者としてのあり方を問うことであり、信仰の歩みにおいて必要なことでしょう。けれども、そこに留まるわけにはいかないのです。自分の問いと判断に従うことはできません。私たちが問う以前に、神様が恵みを与えてくださっています。イエス・キリストと共に生きる、「神の作品」として私たちを造ってくださっています。この、神様の恵み、みわざに目を向けたいと思います。神様の恵みによって、「神様の作品」として造られた私なのですから、「神様の作品」に相応しい「善い業」をなすことができる。それが、私たちに対して、神様がなしてくださったみわざです。神様の恵みです。
 「神は、イエス・キリストにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです(7節)」と聖書は語ります。私たちは、神様の恵み、慈しみによって「神の作品」とされ、「善い業」を行なっています。そのこと、つまり、私たちの存在、キリスト者の存在自体が、神様の恵みを現しているのであり、私たちは、神様の恵みを示すために、洗礼を受けて教会に入れられました。私たちが洗礼を受けたキリスト者として歩んでいること自体が、神様のご計画にかなう、私たちに相応しいあり方なのです。

祈祷  私たちは、あなたに見出されるまで、罪の中におりました。あなたは、愛と憐れみをもって私たちの救いをご計画くださり、御子イエス・キリストの十字架と復活の出来事を起こしてくださり、私たちを神の作品としてくださいました。あなたから与えられたこの恵みに感謝いたします。聖霊によって、あなたの恵みを受け止める信仰をお与えくださり、御子キリストに結んでください。キリストと共に歩む私たちの全てを、あなたの御心にかなうものとして祝してお受けくださり、あなたの恵みを指し示す器として用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン


2022/08/21 聖霊降臨節第12主礼拝

聖書:新共同訳聖書「エフェソの信徒への手紙 5章 21~33節」  聖書朗読
05:21キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 05:22妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 05:23キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 05:24また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 05:25夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 05:26キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 05:27しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 05:28そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。 05:29わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 05:30わたしたちは、キリストの体の一部なのです。 05:31「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 05:32この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。 05:33いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「大切にする」  エフェソの信徒への手紙5章21節以下は、家庭訓と受け取りたいと思う。それは21節から理解できる。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」とある。ここには、今まで教会全体に述べてきたことを、次に個々人への語りかけになるという意図がある。つまり教会訓ではなく、個々の家庭に対する訓戒となる。21節は「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合い」とある。キリストは、私たちとは絶対的に異なる。私たちはキリスト、神を、畏怖すべきであると、恐れ敬うべきであると、それが人間の生きる根底であるといえるのではなかろうか。「キリストに仕えるように、互いに仕え合いなさい」というのである。キリストに仕えるように相手をうやまう、また、イエスの前にいるように謙虚さを抱くと理解したい。
 22節に「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」とある。妻は夫に従うべきであるという。23節には「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです」とある。簡単にいうと、「キリストは教会の主人である」同じように「夫は妻の主人である」ということ、つまり、従属する関係である。確かに、夫に仕えるのではなく、キリストに仕えることが前提となっている。また、キリストは救い主であると、和らげるように記されているが、従属関係は変わらない。エフェソの信徒への手紙は、実際にはパウロの手紙でないとされている。しかしパウロ自身もそのように述べている。コリントの信徒への手紙(一)の11章3節には「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです」とある。コリントの信徒への手紙(一)11章8~9節にも「というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」とある。さらに、続く11節と13節にも「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。…自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか」とある。そのようにパウロも男尊女卑的な発言をしている。
 一方、本日の箇所では「妻を愛しなさい」と述べられているので、異なるのではないかと思ってしまうかもしれない。次のような理解がある。「女は男に従え、男は女を愛せというのだから、この場合の『愛』は上の立場の者が下の立場の者に対する上下関係しか意味しない。それにしてもこういわれると、『愛』という単語がいかにも軽薄になってきます」である。とても厳しい指摘だと思う。わたしはそのように思う。確かに、パウロにも本日の個所にも、男尊女卑があることは免れない。
 そこで考えなければならないのは、当時の社会通念であろう。当時の社会での考えとしては、どうしても、女性は男性に仕えるという理解があった。正直なところ、パウロもキリスト教においても、その社会通念という壁を崩すことはできなかった。言い訳としてだが、当時の社会的考えがあるので、人々に理解できるように記すという意味では、パウロがそのように記したのはやむを得ない。一方、その「やむを得ない」を壊す、つまり、社会通念を超える、それが、イエスであった。
 神の働きを、よく「上から」と述べる。しかし神は、上からはなさらない。26節に「言葉を伴う水の洗いによって」とある。それは洗礼と理解する。27節の「ご自分の前に立たせる」は、最後の審判のことを述べているのではなく、今、現在、すでに教会はキリストにとっては栄光あるものとなっているのだと理解したいと思う。何が言いたいのかというと、イエスは最後の審判以前に、すでに救いを私たちに与えてくださっていたということである。そこに神の愛がある。そこで28節の「夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです」に、自己愛があると指摘することができるであろう。自分を大切にするように、妻を大切にすると理解したい。30節には「わたしたちは、キリストの体の一部なのです」とある。イエスが私たち教会を、体の一部として養ってくださる。同じように、妻を自分の体の一部のように大切にしなさいと理解できるであろう。
 本日の聖書箇所には、当時の社会通念が背景にあり、男尊女卑のような考えがある。そのことを私たちは受入れたうえで、現代的な理解、いやイエスを基にする理解を持たなければならないと思うのである。ルカによる福音書のマリアとマルタの姉妹、マルタはイエスを迎え入れた。マルタはイエスをもてなすため働いた。しかしマリアは、イエスの足元に座り話を聞きいていた。マルタは、イエスに、マリアに手伝うように言って欲しいと言った。しかしイエスは「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と述べた。本日の聖句には、女性は男性に仕えるべきであるとあった。当時、女性は一人の人格と考えられなていなかった。奴隷と同じようにさえ受け取られていた。奴隷は財産でもあったから、人格ではなく物質であった。しかし本日の箇所には、自分の体のように妻を愛しなさいとあった。いや敢えて、妻を大切にしなさいと受け取りたいと思う。それは家庭訓であると最初に述べた。そこにあるのは、人格的な交わりである。つまり、妻との人格的な関係、交わりを持ち、大切にしなさいと述べている。
 それは、31節の括弧の言葉からもうかがうことができると思う。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」は、旧約聖書創世記2章24節の言葉である。アダムとエバが楽園を追放されたことを、私は次のように理解する。人間は、親という楽園から離れ、パートナーと共に苦労、喜びを分かち合い生きていくものであるという教えであると。そこにあるのは、互いに支え合う人格的な交わり、最も小さい共同体の単位としてのパートナーを示している。そのような解釈はないが、21節には「互いに仕えあいなさい」とある。夫婦とは最も小さい共同体である。この共同体は、人間として、人格としての交わり、支え合いが必要である。そこでは、心も体もすべて支えあうために互いに大切にする。そして、最後の「妻は夫を敬いなさい」とは、敬われる者にならなければならないといえるのではないだろうか。キリストこそ恐れ敬う存在、愛されるべき存在として、人間に働きかけてくださっている。キリストが教会の頭であるように、夫が妻の頭であるのなら、キリストの無償の愛に倣うべきである。しかし、キリストのようにはできない。だからこそ、大切にすべきである。つまり、互いの人格を尊重し、大切にしあう。そのように本日の箇所を受け取るべきなのではないだろうか。イエスこそ上からではなく、傍らにいて、共に歩んでくださるのである。
 当時の社会通念を、この手紙は、パウロさえ、超えることができなかった。一方、主に従うように互いに仕えるという意味では、夫も妻も立場は同じであることをパウロは示しているといえるであろう。そのことをイエスは、徹底的に教え、行ってくださった。社会通念を越え、当時、罪人、奴隷、弱い者と同じ立場に立ち、歩まれ、大切にされた。イエスに倣い、互いに尊重し合い、相手を大切にする。そして、本日の箇所でも見てきたように、聖書には互いに大切にしあうことの重要さが記されている。教会、この世においても、その思いを根底とすべきなのではなかろうか。単純ではあるが、最も大切なことだと思う。イエスのように実践したいと思う。

祈祷  愛の源なる神様 パウロは男尊女卑のようなことを記しています。それは、当時の社会通念を持っている言葉です。一方、その内容は、イエスに従い、互いに大切にしあうということです。夫婦は、一番小さな共同体です。どの共同体でも、互いを思いあうことによって成立するのではないでしょうか。どうか、互いに大切にしあいたいと思います。また、その大切にするという思い、姿勢が子ども、隣人に伝わり、この世の人々が互いに大切にしあうことができるようになると信じます。どうかそのようにお導いください。争いを行う。それは欲であり、また、人間の愚かさであるように思います。互いの違いを尊重し、受け入れ合うことの大切さを思います。何よりこの世にあるものは人間の所有ではなく、神のものです。私たちは神の恵みを分かち合うべきです。どうか、全ての人が神の恵みを分かち合うよとなりますように。豪雨が続き、全国で多くの被害が出ています。悲しみの中にある方々を支え、お慰めくださいますように。新型コロナウイルス感染が収束しますように。どうかすべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。ウイルスに感染された方々、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々に心身ともにお癒しください。新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時を迎えることができるようお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/08/14 聖霊降臨節第11主礼拝

聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 9章 38~41節」  聖書朗読
09:38ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 09:39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 09:40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 09:41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「味方として迎える」  讃美歌21の472番には、1節に「朝ごとに主は目を覚まさせ、わたしの耳に語りかける。主の御言葉で、迎える朝、私と共に主はおられる。」とある。この讃美歌は、ルター訳聖書のイザヤ書50章4節を用いている。詩を書いたドイツ人クレッパーの連れ合いとその連れ子の娘は、ユダヤ人だったとのことである。彼が生きていた時代は、ヒットラーの政権下にあった。詩人クレッパーは、作家でもあり、歴史小説を執筆し成功を収め始めた。しかし帝国著作協会は、彼がユダヤ人女性と結婚していたことから彼を除名した。そのためクレッパーは、すべての出版の道を閉ざされた。彼は、その四年後、妻と娘と共に命を絶った。独裁政権の怖さを思う。おそらく帝国著作協会は、ヒットラーに喜ばれると思い、また恐れて、クレッパーを除名した。その裏にあったのは、独裁者への忖度、相手を裁き自分たちの優位性を持とうとする心、また、支配者の権力が自分にあるような錯覚に陥ってしまったのではないか、と想像する。政治的独裁、また、権力者、政権の暴走は本当に怖い、危険だということを知さられる。
 さて、本日の聖書箇所、マルコによる福音書9章38節以下に心を傾けたい。38節に弟子のヨハネの「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」がある。ヨハネは、イエスの弟子の中でもペトロに続く有力な人物の一人であったといえるであろう。というのは、ヨハネはペトロの仲間であり、一緒にイエスの弟子となった人だからである。「やめさせようとしました」とあるが、「やめさせました」とも訳せる。どちらにしても、自分たちこそ真のイエスの弟子であるという思いがあった。ヨハネの特権意識、党派根性丸出しという心の内を見ることができよう。
 イエスは、神の子としての奇跡を行っていた。その力がヨハネ自身にもあるかのように錯覚をした。そして、イエスに選ばれ従う自分は特別で偉いという勘違いもあったのかもしれない。ヨハネは「わたしたちに従わないので」と述べた。本来なら「イエスに従わないので」と言うべきであろう。主語が「私たち」、つまりヨハネ自身にもなってしまっている。「お名前を使って」とある。当時、名前とはその人の力、その人自身と考えられていた。児童文学に、名前を知られると負けるという物語がある。それは、名前を知られることで力が奪われるというような意味があるからである。もちろん、悪魔はイエスの神の力を知っているので、イエスの名を出しただけで逃げ出すということもあった。力があったのはイエスであって、ヨハネや弟子たちではなかった。しかも、イエスの力は愛によって行われたのである。
 一方、39、40節でイエスは言っている。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と。ヨハネには思いもしない言葉だったであろう。イエスは、悪霊に取りつかれている人が、イエスの名前を用いて癒されるのを許した。つまり、弱い者が助かることを優先した。そのため勝手に自分の名前を使われてもよいと考えた。また、イエスの名前を用いる人を信頼した。一方私は、それを次のように理解したい。40節に「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とある。まず、曖昧にイエスの名を用いるものを許したということではなく、徹底的に人々を包み込むイエスの心の広さと柔軟さが、この言葉にある。そして、党派心、特権意識、差別意識を根底から突き崩しているイエスが、そこにおられたということである。実はそれは、イエスの時代の弟子たちではなく、その後、イエスが天に上げられてから後の、原始キリスト教の指導者たちに対する批判であると考えられる。イエスの死後、弟子たちではなく、イエスの弟ヤコブがエルサレム教会を導いた。ユダヤ教による迫害中の導きであったから、大変だったであろう。一方イエスの教えとは異なり、律法主義になっていった。そのうえ、ヤコブの後も、親族が指導者となった。イエスは、血族的な兄弟ではなく、神を信じる者すべてが兄弟姉妹であると述べた。もしかしたら、原始キリスト教会では、指導者の特権意識ができてしまった。また、イエスの弟ヤコブに権力が集中し、その後もそのようになってしまったようにも考えられる。そこでマルコによる福音書は、イエスの言葉を用い、弟子たち、つまり指導者に対して批判的、いや導きを記していると考えられるのである。
 41節に「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」とある。唐突な言葉である。その言葉は、続く42節と結ぶほうがよいという理解もある。飲み水は貴重である。そこで弱っている者に水を与えるということは、相手を思う愛の業である。また、コリントの信徒への手紙(一)の13章3節に「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」とあるように、大切なのは、そこに神、イエスの愛があることであるといえるであろう。そして、重要なのは、どんなに小さな業でも神様は見てくださるということが、41節に意味されている。すなわち、全ての業を神は見てくださっている。だから弟子たち、人間が裁くべきではないといえるのかもしれない。
 本日の箇所でヨハネは、イエスに従っていた。確かにそのことは素晴らしく、大変なことだった。家族から離れ、仕事、いや全てを捨てて、イエスに従った。だからこそ、イエスに従うことに対する思いが強かった、そのことは理解できる。しかし、その思いが特権的、権威的なものになってしまったらどうか。「自分たちは、イエスに選ばれて特別だ。だから自分たち以外のものはすべて排除する。正しいのは自分たちだけである。」と。しかし、私たちは誰もヨハネを批判することはできない。人間には、そのような特権意識を持ってしまうことがある。その考えは、人種差別につながってゆく。「自分たちの人種は素晴らしい」と。ヒットラーは敵を作ること、特権意識を持たせることによって、人々の心を悪い意味で高揚させ、悪い方向へ導いた。それが、ユダヤ人に対する迫害につながった。特権意識、自分たちが正しい、特別だという一方的な思いは、危険である。
 そこでイエスが述べたのは、いかなることであったか。「逆らわない者は、味方である」だった。それは、とても重いと思う。イエスこそ、徹底的に人々を包み込む心の広さと柔軟さがあった。受け入れられることによってこそ、相手も柔軟になるのではないだろうか。私たちこそ、イエスによって受け入れられ、信頼されている者なのである。イエスは、特権を与えたのではなく、また、敵を作りだしたのでもなかった。イエスこそ人間を受け入れ、味方として招き、共に生きてくださる方なのではいか。そこに大きな希望がある。特別な人などいない。互いに受け入れ合い、尊重し合い、イエスの愛を分かち合いたいと思う。そこにこそ平和は生まれるのではなかろうか。

祈祷  愛なる神様、イエスは、敵を作るのではなく相手を受けいれることを教えてくださいました。一方、人間は、特権、特別であると思いこみ、そのため相手を敵視し、裁いてしまうことがあります。裁きではなく、互いに受け入れ、結びつきを作り、共に歩む者となりたいと思います。それこそイエスが示してくださったことです。8月には6日、9日、15日を思います。争いでは何も解決できません。争いで生まれるのは悲しみ、憎しみです。そして、悲しみ、憎しみは何年たっても忘れられることはありません。先の戦争から77年経ちました。しかし悲しみはなくなりません。今も世界では争いが続いています。戦うことは勇気ではなく欲です。戦争をやめる勇気を指導者にお与えください。欲ではなく愛が心に宿るようお導きください。昨日は、台風、そして、東北では大雨が続き、多くの被害が出ています。被災された方々をどうかお支えください。暑い日が続いています。新型コロナウイルス感染増加もとまりません。すべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをどうかお守りください。コロナウイルスに感染された方々、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々に心身ともにお癒しくださいますように。新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時となりますようお導きください。お盆休みとなっています。よきリフレッシュの時となりますように。子どもたちにとってよき夏休みになりますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/08/07 聖霊降臨節第10主礼拝

聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 9章 42~50節」  聖書朗読
09:42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 09:43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 09:44(地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。) 09:45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 09:46(地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。) 09:47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 09:48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 09:49人は皆、火で塩味を付けられる。 09:50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「心に塩水を」  マルコによる福音書9章42節以下に心を傾けたい。新共同訳聖書この章には、十字のようなマークが記されている。44節と46節がない。その2つの聖句は、後から付け加えられたと考えられ、この福音書の最後に記されている。
 さて42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とある。「小さい者」とは、子どものような年齢を指すのではなく、イエスを信じたばかりの者、または、社会的弱者と理解できる。弱者やイエスを信じて間もない者をつまずかせる。神とは異なる方向に導くならば、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによいと、恐ろしいことを述べている。他者との接し方を、私たちも問わなければならないと思う。
 43~47節には「片方の手、片方の足、片方の目が、あなたをつまずかせるなら、それらは無い方がよい」とある。手足は暴力、目は欲望というユダヤ教的考えであるという理解がある。また、「神に従うために妨げとなるものから解放することを目指す」隠喩という理解もある。単純に何か悪い行いをして神に背き、裁かれるよりは、神への背きの原因になるものを根絶した方が無くした方がよいと言えるであろう。48節は、旧約聖書のイザヤ書66章24節の言葉、地獄の描写である。ウジ虫が滅ぼされる者たちを食い尽くすという。想像しただけでも恐ろしい。42節は、「小さな者をつまずかせるなら」と、他者を悪い方向に向かわせてしまうということが前提である。弱い者への配慮がある。しかし、43節は「あなた」となっている。つまり、42節と43~47節は、内容が異なる。43節以下は、自分自身が神に背かないように気を付けることといえるであろう。
 一方、42~47節は、共通して次のように言える。イエスの弟子たちは、イエスが十字架の苦難を予告しているのにもかかわらず、全く理解せず自分たちのことばかり考えていたと。少し前の9章33節以下、イエスが十字架にかけられると予告した直後にもかかわらず、自分たちの中で一番偉いのは誰かと、弟子たちは議論した。弟子たちは、イエスがこの世の王となると考えていた。そこで、権力争い、自分の地位等に心を奪われていたのである。そのような弟子たちを、イエスは厳しく批判した。手や足を「切り捨てなさい」。その発言は、言葉通り受け取るのではなく、それだけ真剣に神の意志を問うべきであるという、つまり、自分たちの欲ではなく、まず、神の意志は何か、神の愛を考えるべきであると、イエスは弟子たちに忠告しているといえるであろう。イエスの愛を理解できない者に、いや、だからこそ忠告し導きくださるのである。
 重要なのは、小さい者をつまずかせてはならないということである。相手のことを思わなければいけない。49節には「人は皆、火で塩味を付けられる」とある。48節と異なり、そこでは「火」は良い意味で用いられている。その「火」は自己犠牲という意味が含まれていると考えられる。イエスの十字架に倣うようにという、弟子たちに対する導きとも理解できる。また、48節は「火」という言葉から「塩」という言葉につなげたいということもあるのだろう。では、「塩」にはいかなる意味があるのか。塩は料理にも、人間にとっても不可欠である。人間は塩なしでは生きていけない。
 聖書で、塩には、次のような意味がある。レビ記2章13節「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」。神に献げる穀物にはすべて塩をかけなさいと記されている。献げものとは、収穫などの感謝と共に、自分たちの日々の罪を赦してもらうため、自分の代わりに神に犠牲を献げるものである。つまり神と人間との契約において、塩は欠かせないものである。次のようにも言える。塩は、人間と神を結びつける象徴的な媒介物であると。すなわち、献げ物に塩味を付けるのだから、互いに共同で塩を食すことにより、パートナー間の契約が成立したということが意味されるのである。
 49節には「人は皆、火で塩味を付けられる」とある。私たちは、塩で味付けされている。つまり、イエスは私たちをパートナーとして契約を交わし、共に歩む者として招き、導いてくださっているといえるであろう。50節には「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」とある。塩味がなくなるとは、イエスが王となり自分たちはよい地位を与えられるに違いないと考える弟子たちに対する批判であるといえるであろう。では、私たちは何によって味をつけるのか。私たち自身の内に塩を持つようにというのである。
 イエスは、弟子たちに十字架の苦難を予告した。十字架とはいかなることか。人間は、歴史の中で神に背き、神の愛を忘れ、自分の欲ばかりを求めてきた。罪とは神に背くことである。神は愛である。つまり、愛を失うことともいえる。神に対する罪なのだから、それを赦すことができるのは神のみである。人間には、神に対して自分の罪を償う力はない。また、罪を償うのは死であるという言葉が、旧約聖書にあった。そこで、イエスは人間の代わりに、自分を神への献げ物として十字架に付けたのである。人間の代わりに献げ物になり、罪を負うということである。自分の命を犠牲にしてまでも人間の罪を負ってくださる愛が、十字架にはある。自分の欲を求めず、人間を愛する故に、人間の罪を負い、救いを与えた。神との関係を修復してくださった。そこで、塩味をつけるとは、そのように考えることができるのではなかろうか。献げものに塩をつける。イエスの十字架が犠牲であるなら、それこそ塩をつけられた献げものである。つまり、塩味を付けなさいとは「イエスという味を付けなさい、イエスの愛、十字架に倣いなさい、イエスに従う者のとなりなさい」という意味である。
 イエスに倣うと、イエスの十字架の苦難のように苦しみを受けるかもしれない。なぜなら、この世は欲望に満ちているからである。しかし、イエスには、塩味が付けられている。また、塩味を付けなさいと教えてくださっている。逆に言うと、私たちは心に塩味、つまりイエスの愛という味をつけることができると、イエスは述べてくださっている。また、塩にはパートナー間の契約関係が成立するという意味がある。イエスと同じ塩味を付けなさいと述べてくださることによって、私たちはイエスのパートナーとしての契約関係に招かれているのである。つまり、わたしたちをパートナーとして、必要としてくださっている。人間はイエスに信頼されているといえるであろう。私たちは、心にイエスという塩味を付けるべき、いや、付けることができると、イエスは私たちを導いてくださっている。だから、イエスは「互いに平和に過ごしなさい」と言っているのである。イエスという塩味を、その愛を心に持つことによってこそ、平和が訪れるのである。それは、相手を思う気持ちなのである。

祈祷  愛なる神様、弟子たちは自分たちの欲で、イエスの本当の愛が見えないことがあります。それは弟子たちだけでなく、私たちも同様です。一方、イエスは私たちを信頼し、パートナーとして招き、イエスに倣い歩むことができると励まし、お導きくださいます。どうか、私たちがイエスの十字架の愛を受け入れ、隣人を愛し、互いに支え合い歩むことができますようお導きください。6日、9日は原子爆弾が落とされた日です。どうか、戦争の過ちを覚えるときとしてください。しかし、世界では争い、また国家間の緊張感が絶えません。どうか指導者がイエスの愛に倣い、最も弱い者の立場に立って、導く者としてください。また私たちも、できることがありましたらお用いください。どうか、すべての人が尊重し合い、パートナーとして手を結び合う世としてください。そして、相手を思いあう平和の世としてください。暑い日が続きます。また、新型コロナウイルス感染増加がとまりません。どうか、すべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。コロナウイルスに感染された方々、病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々を、心身ともお癒しくださいますように。大雨となり多くの被害が出ています。どうか、被災された方々をお支えくださいますように。新しい命を祝し、お導きください。妊娠されている方々、母子とも守り、よき出産の時となりますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/07/31 聖霊降臨節第9主礼拝

聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(2) 6章 1~10節」  聖書朗読
06:01わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 06:02なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 06:03わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 06:04あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 06:05鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 06:06純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 06:07真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 06:08栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 06:09人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 06:10悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「恵みの時」  元総理が殺された。人を殺すことは神の意志ではない。一方、殺害とは別に、このことに関しては、罪を犯させた背後の問題を考えなければならないと思う。他宗教を批判するつもりはない。しかし、カルトと定義できる集団には気を付けるべきである。マインドコロントロールによって都合のよいように従わせる。私はそのことから精神的に病んでしまったある女性に、お会いしたことがある。本当に純粋な彼女の、そこに付け込んでボロボロにし、その人だけでなく家族の一生をも狂わせてしまった。弱みに付け込んで、その人の先祖、その人の家族が悪いことをしたから、悪霊が取り付いているのだと信じ込ませ、そこから救われるためにと高額なものを購入させ、また、高額な献金を強いた。悲しみしか出てこない。
 イエス以外に救い主はいない。イエスはその人が病気になったのは誰のせいでもないと、はっきりと述べている。大切なことは、良いことが起こった時も悪いことが起こった時も、いついかなる時も、神、イエスは私たちと共にいてくださるということである。
 コリントの信徒への手紙(2)の6章1節以下に心を傾けたいと思う。1節、パウロは「神の協力者」と述べている。パウロは、自ら神と共に働く者であると述べ、神からいただいた恵み、与えられた賜物を用いようと言った。2節の括弧は、旧約聖書イザヤ書49章8節の引用である。「恵みの時」は、原文では「神のみ旨にかなった時」である。パウロがよく用いた七十人訳と言われるギリシア語聖書で、その箇所は「恵みの時」と記されているので、新共同訳聖書でも「恵みの時」と訳しているのであろう。では、パウロにとっては、コリントの信徒への手紙(2)を記したときは、「恵みの時」というほど順風満帆、上手くいっていたのか。
 コリントの教会は、パウロの宣教によってできた集会である。一方、パウロがコリントから離れている間に、コリントの教会にパウロの反対者たちが侵入した。この手紙の10章以降では、エルサレムにいる原始キリスト教の責任者、使徒たちと密接な関係にあった人たちが訪れ、パウロの教えに疑問を呈したと考えられる。そのことと関係があるのか。コリント教会にパウロへの反対者が侵入してきて、コリントの人々の心がパウロから離れるという事態が起こった。その侵入者たちは、ある種の力強さ、優秀さを誇り、それによってキリスト者のあるべき姿を基礎づけたと思われる。一方、パウロには何らかの障がいが与えられ、10章10節「私のことを、手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです」と自ら書いている。パウロは力強さ、優秀さがあるようには受け取られていなかったといえるであろう。また、パウロはイエスの逆説「貧しい人は、幸いである」に深く通ずる形で、「十字架の逆説」を一貫させていた。そのことに侵入者たちは反対し、パウロの使徒職を疑問視する態度をとった。パウロに反対の立場をとった。何よりパウロの反対者たちは、イエスの本来の教えから離れてしまったといえるであろう。それらのため、パウロはこの手紙を書いたと考えられる。
 3節から4節の前半に「私たちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」とある。「非難されないように」十分気を付けて、神の救いを述べ伝えている。そして、どんな苦しい状況にあっても「大いなる忍耐をもって」、神の奉仕者であることを証しするというのである。そのように言えるであろう。パウロは、常に変わることなく使徒、キリストの奉仕者として徹していたのである。
 6節と7節には、徳目や心的な諸要素が挙げられている。その中に「聖霊」がある。聖霊は、ここに挙げられているすべての「善」や「徳」の源泉であるという理解がある。例として「寛容」、「親切」は、コリントの信徒への手紙(1)13章の愛の讃歌4節の愛の特質の1番目、2番目として挙げられている。7節最後「左右の手に義の武器を持ち」とは、神と正しい関係を攻撃や防御の武器とするという意味である。神、イエスの愛を思い、神との正しい関係を持つというパウロの立ち位置を見ることができるように思う。
 8節後半から10節は、イエスの福音の逆説、すなわち「貧しい人々は、幸いである(ルカによる福音書6章20節)」や「悲しむ人々は、幸いである(マタイによる福音書5章4節)」、貧しい人々、悲しむ人にこそ、神は救いを賜るといえるであろう。この聖句に代表される逆説と同じ形で、パウロは「十字架の逆説」を一貫させている。人を裁いているようで誠実である。反対者たちたちは、パウロが本当に使徒なのかと疑問視した。つまり、パウロが述べた救いを否定したのであろう。「欺いている」と。しかし、パウロは誠実にイエスの救いを述べ伝えた。パウロが述べ伝える言葉にこそ、イエスの救いがある。パウロの姿はみすぼらしくても、神が与えた弱さであることを受け入れ、生かされている喜びを示した。何も持っていないようで神の恵みをいただいている。いや、神は必要なものを与えてくださる。神の恵みをパウロこそ十分知っていたのである。
 旧約聖書のヨブ記やコヘレトの言葉等から、聖書は、応報思想になりすぎることを警告していることが分かる。イエスに因果応報的な考えはないと、私は思っている。神の教えである律法を破ったから、罰として病気になる、イエスは、そのことを否定した。イエスは神の教えである律法を破ったから病気になったのではないと、はっきりと述べている。11章で「私の弱さにかかわることを誇りましょう」、12章で「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』」と言っている。「だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とパウロは記している。十字架という弱さにこそ、真の救い、神の愛がある。
 パウロの使徒職を疑問視したパウロに反対する人々がいた。パウロを排除しようとしていたといってよいであろう。そのような状況においても、「救いの時」と述べることができたのは、パウロに現れた復活のイエスが、神の救いを述べ伝える責任を与えて下さったという自負がパウロにあるからである。それはパウロの思い込みではなく事実だった。パウロにとって、イエスの救いを述べ伝えるのにふさわしくない時はない。いつでも、どこでも神の愛を述べ伝える。状況が悪いからこそ、きちんとしたイエスの救いを述べ伝えるべきだ、新たなチャンスの時、と思ったのかもしれない。
 さて、「あなた、あなたの先祖が罪を犯したから悪いことが起きている」、「これを買えば罪が許される」とイエスが述べるであろうか。排除するであろうか。イエスが私たちに述べたのは、「私はいつもあなたと共にいる」、「あなたはあなたのままでいいのだ」、「私があなたを受け入れ、認める」、「あなたは私の友である」。イエスはそのように私たちに述べてくださり、また私たちは、いつでも、どこでも、神をアッバ(父ちゃん)と述べ、何でも話すことができる。つまり、祈ることができる。この恵みを、イエスは私たちに与えてくださった。私たちにとって一番の強みは、いつでも、どこでも神に祈ることができるということである。それは、いつでも、どのような状況でも、イエスが必ず共にいてくださり、支えてくださると確信することができるということである。つまり、私たちはいつも「恵みの時」にいるのである。もちろん、悲しいとき、不安なときもある。そのような時にこそ、イエスは共にいてくださる。パウロこそ、このことを確信しているから、今この時が、神のみ旨に適ったとき、恵みの時として、常に変わらずにいることができたのではなかったか。とはいっても、私たちはパウロのように強くない。だからこそ、私たちは互いに支えあうべきだと思うのである。不安に陥れることは、神の意志ではない。私たちはいつもイエスが共にいてくださることを確信し、違いを受け入れあい、支えあい、祈りあいたいと思う。そのことを通して、神がいつもいてくださる。恵みの時であることを確信できるのである。

祈祷  愛なる神様、パウロは反対者たちによって、さまざまな危機がありました。しかし、そのような状況でも恵みの時であると述べ、イエスの救いを述べ伝えることに専念します。パウロは、どのような状況においても、変わらず神の恵みを確信しています。私たちは、悪いことが起こったとき、神の恵みを感じることができずにいます。また、悪いことが起こったときに、誰かが悪いことを行ったからだと応報的な考えを持ちます。しかし神、イエスは、どのような時も、私たちを共にあり、お導きくださっています。どうか日々、神の恵みを確信し歩むことができますようお導きください。また、そのような時にこそ、互いに支え合うことができますように。暑い日々となっています。また、新型コロナウイルス感染も増加しています。すべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。コロナで苦しみの中にある方、病の中にある方、入院、手術後の方々に、心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。重荷を負われている方、悩み、苦しみの中にある方、介護看病をされている方、一人で暮らされている方に主のお支えがありますように。新しい命を祝してください。妊娠されている方、母子ともに主の守り、導きがありますように。大雨が続いています。自然災害で被災された方々をお支えください。争いは、人の欲でしかありません。指導者こそ、その人らしく民を導く者です。そのため他国との和解を目指す者です。どうか争いで被害にあわれている方々をお守りください。私たちにできることがありましたらお用いください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/07/24 聖霊降臨節第8主礼拝

聖書:新共同訳聖書「テモテへの手紙(1) 3章 14~16節」  聖書朗読
03:14わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。 03:15行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。 03:16信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、
キリストは肉において現れ、
“霊”において義とされ、
天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「生きている神」  この教会の前の私の赴任地、甘楽教会には幼稚園がある。そこでの話である。年長組の先生はドッヂボールが好きで、よく子どもたちにドッヂボールをさせていた。20人ほどの子どもたちに対して、次のようなチーム分けをしていた。まず子どもたちを二人組にして、ジャンケンをさせた。次に勝った子ども同士の二人組でまたジャンケンをさせる。それを繰り返して最終的に、一番と二番目に勝った子どもの2チームにする。ジャンケンで一番になった子どもが、まず自分のチームのために一人の子を指名する。次に二番目に勝った子どもが一人を選ぶ。そのように交互に仲間を選んでいく。この方法の良いところは、二つのチームを同じくらいの強さにすることができる。一方、悪い面としては、弱い子が最後まで残ってしまう。
 ある日、タイラくんという子がジャンケンに勝った。彼はいつもは最後まで選ばれないキヨちゃんを最初に選んだ。キヨちゃんは良い子なのに「私は最後まで選ばれない」と言って、いつもいじけてしまっていた。けれどそのときは、一番に選ばれた。キヨちゃんは、とても喜んだ。それだけではない。もともと運動が嫌いな子ではなかったから、そのことで喜び、自信がついたのか、器用にボールから逃げられるようになった。そのうちボールの受け方も投げ方もうまくなっていった。そのとき私は、6歳の子どもから、リーダーとはいかなる存在かを教わった気がした。タイラくんは、弱い者にこそ目を向け、共に歩む姿勢を示し、そして、力を引き出したのである。
 さて本日の聖書箇所、テモテへの手紙(1)の著者はパウロとあるが、そうではない。パウロの死後、それも約40年後、紀元100年前後に記されたと考えられている。その時代には、キリスト教では、教会に仕える者などの職制ができてきていた。つまり、聖職、牧会者が選ばれ、職業となっていた。そこで、テモテへの手紙やテトスへの手紙は、牧会書簡といわれ、聖職への導きが記されていると考えられている。もちろん、信徒への信仰の継承という面もある。
 3章14節以下に心を傾けたい。著者をパウロということでお話をする。14節、パウロはテモテのもとに行きたいが遅れる可能性があるので、神の家、教会でどのように歩むか知ってもらいたいといっている。では、神の家、教会とはいかなる所で、どのように歩むのであったか。15節に「真理の柱であり、土台である生ける教会です」とある。そこでは、教会は真理を柱、土台としているという意味ではない。教会は真理を支え保持するための土台であるとの理解であるというのである。つまり、教会は真理を告げ知らせる、真理をこの世に現わす柱、土台といってよいと思うのである。教会は、キリストの体であるという。そのような意味では、この世にキリストの働きをなし、キリストを現わす場である所こそ、教会であるといえるであろう。16節はじめに「信心の秘められた真理」とあり、正しい神信仰を有している教えの内容という意味であると考えられる。つまり、教会を司る者は、正しい信仰を保持し、導くべきである。では、正しい信仰と何か。
 16節の後半は、讃美歌、あるいは信仰告白であると考えられる。二つの行を一組と考えると、それらは対比していると考えられる。最初は「キリストは肉において現われ」と「霊において義とされ」、肉つまり地と、霊つまり天を、対比している。二つ目「天使たちに見られ」と「異邦人の間で述べ伝えられ」。天使は天に存在するので「天」、異邦人伝道であるから「地」、天と地を対比している。三つめは「世界中で信じられ」は地。「栄光の内に上げられた」。天に「上げられた」のですだから、天を意味する。「地と天」。そこで「地と天」、「天と地」、「地と天」という対比を組合わせていると理解できる。確かに対比しているといえるであろう。では、対比しながら、何を示しているのか。「肉」、「霊」、「天使たち」、「異邦人たち」、「この世」、「栄光」、肉として現れ、聖霊によって復活し、天で天使たちに認められ、異邦人たちに神の愛を述べ伝え、この世で神の愛が信じられ、天に上げられ神の栄光を与えられた。それがイエスの業である。
 しかし本日は柔軟に考えたい。順番は異なるが、2行目「霊において義とされ」は、イエスは聖霊において神に受け入れられ、天的な地位を与えられた。3行目「天使たちに見られ」は「天使たちに現われ」と訳すことができ、受け入れられたというのである。イエスは天的な存在として神に受け入れられ、天使たちにも受け入れられたと、2行と3行目がつながる。4行目「異邦人の間で述べ伝えられ」、5行目「世界中で信じられ」た。4行目の異邦人は、「諸民族」と理解でき、4行、5行はすべての民に告げ知らされ世界中で信じられたといえる。
 では、残りの1行目「キリストは肉において現われ」と6行目「栄光の内に上げられた」は、どうなのか。1行目と6行目が対比的に記されているのだという理解がある。1行目「キリストは肉において現われ」。「キリスト」、つまり神の独り子、天的な存在が、この世に肉、人間として現れた。そして、16節「栄光の内に上げられた」。人間として業をなしたキリスト、そして、天に上げられ神によって栄光を与えられたという対比である。キリストは、肉、つまり人間として全ての人に救いを述べ伝え、天に上げられたと理解できるであろう。そこで、見たいのは「栄光の内に」という言葉である。その言葉は、古代オリエントの王即位式の文体形式の影響を受けていると考えられる。マルコによる福音書16章19節「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」。イエスは天に上げられ、神の右の座についた。王の右の座、あるいは神と共に王の座についたといえるであろう。つまり、この6行目の「栄光の内に上げられ」は、イエスが神から認められた王的支配を象徴している表現であると考えらえるというのである。次のようにも言えるであろう。キリストは天に上げられ神から認めらえた真の王である。つまり、この地も天も、イエス、神に支配されているのであるということである。2,3行目で、天で受け入れられ、4,5行目で地においても信じられた。つまり、1、6行で地と天の真の王であると囲んでいるといえるのではないであろうか。
 そして、大切なのは15節「生ける神の教会」という言葉だと思う。キリストと神は、この世、天の真の王である。この真の王である神の働きを、教会は「生ける神の教会」として、この世において現わしていくといえるであろう。キリスト、神を、この世に生きる存在として現わす。それが正しい信仰であるということではなかろうか。では、真の王としてのキリストとは、いかなる方なのか。
 キリストとは、油注がれた者という意味で、その儀式は元来、王の就任などに行われていた。では、王とはいかなる存在なのか。王とはすべての民を、その人らしく導く者といえるであろう。マルコによる福音書の10章43~45節には「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」とある。また、マタイによる福音書の25章40節には「王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』」とある。イエスこそ仕える者になられ、最も弱い者と共にいてくださるといってよいであろう。キリストこそ天と地の真の王である。それこそ、教会が保持しなければならない信仰の教えである。それは、弱い私たちと思に歩んでくださるキリストである。そして、生ける神の教会として私たちがこの世に現わすべきことこそ、イエスが王としてこの世に現わした救いの出来事である。では、その業と何か。それは、仕える者となる、そして、最も弱い者と共にあり、励ましあうということである。私たちは真の王であるキリストに倣い、歩みたいと思う。そこにこそ真の神の救い、平安が現れるのである。

祈祷  恵み深い神様、御子イエス・キリストは、肉をまとい、人間としてこの世に遣わされました。そして、この世、天の真の王として、神の救いをこの世に現わされ、天に上げられ、聖霊、天使、神に認められ、王の座に着きました。真の王こそ、民と共にあり、弱き者の立場に立って導き、救ってくださる方です。私たちが生きる神の教会として、王としてのキリストの業に倣い、そして、多くの人と神の愛を分かち合うことができますようお導きください。人間は弱いもので、自分より下のものを作り、抑圧してしまいます。それは人間の欲望です。また、その弱さ、欲により、人間は争いをはじめてしまいます。争いで最も被害にあうのは弱者、子どもたちです。どうか、全てのものが平等になり、手をつなぐことができますように、子どもたちによき未来を与えることができますように。暑い日が続きます。また、新型コロナウィルス感染が増加しています。どうか、すべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々のことを覚えます。心身ともにお癒しくださいますように。大雨など自然災害で被災されている方々をお支えください。この礼拝を通して、一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を、すべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場において、その人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/07/17 聖霊降臨節第7主礼拝

聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 8章 14~21節」  聖書朗読
08:14弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 08:15そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 08:16弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 08:17イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 08:18目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 08:19わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 08:20「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 08:21イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「まだ悟らないのか」  (要旨掲載 準備中)


2022/07/10 聖霊降臨節第6主礼拝

聖書:新共同訳聖書「ガラテヤの信徒への手紙 3章 27~29節」  聖書朗読
03:27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 03:28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 03:29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の子とされる」  入院中に、私は病名を医師から聞いていなかった。連れあいが私の妹に送ったLINEを見てはじめて、敗血症という病名を知った。ネット検索して調べたところ、日本でも敗血症で年間10万人の方が天に召されることを知り驚いた。私は病院嫌いで、なかなか行かない。私が今回、夕礼拝の最後に倒れたのは、神の恵みであったと思っている。礼拝堂には、すぐ脈を図り救急車を呼ぶように指示してくださった人がおられた。すぐに119に電話をかけてくださった人がおられた。執事に次々連絡をしてくださった人がおられた。救急隊員が中に入れるように用意してくださった人たちがおられた。もし家で倒れていたらおそらく私は、大丈夫だといって救急車を呼ぶことなく、もっと病状がひどくなってから病院に行ったと思う。そうしたらもっともっと悪化していたであろう。今回、私が最短で退院することができたのは、あの日の夕礼拝に出席されていたみなさん、そして祈ってくださったみなさんのおかげであると本当に思っている。
 さて、6月19日の礼拝祈祷で、新しい命のことを祈った。ある教会員にお子さんが誕生されたことを、少し前に知らされていたからである。その教会員は、私が礼拝堂で倒れたときに救急車を手配してくださった人である。そして入院して2日目、たまたま前の甘楽教会の会員からLINEメールが届いた。以前に、その人のお孫さんが400グラム以下で生まれたことを知らされていた。それには「いろいろな危険がありましたが、5年がたち、元気に過ごしています。いつも祈りに覚えて下さり有り難うございます。」という文章に動画が添えられていた。病気で弱くなっていたせいもあったと思う。私は、神が与えてくださる命の尊さ、神の祝福を思い、涙が溢れた。そこで、ある聖句が頭に浮かんだ。それは、天地創造の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。また、「天にある星の数のようにあなたの子孫は増える」という言葉だった。その言葉は、創世記にある。信仰の父と呼ばれたアブラハムに対する神の約束、祝福である。神は、アブラハムと契約を交わした後、「あなたを多くの国民の父とする」とも述べている。命、それは神の大いなる祝福の一つであることを、私は改めて実感した。
 さて、そこから私は、さらにガラテヤ書が頭に浮かんだ。皆さんは、信仰義認、イエスを信じる信仰によって義とされるということをご存じだと思う。パウロの手紙は、新約聖書に13通ある。現在では、そのうち本当にパウロが記したのは、7通であると考えられている。その中で、パウロはイエスを信じる信仰によって議されると記した。信仰義認といわれている。では、なぜパウロは信仰義認を考え、記したのか。ある学者は次のように考えた。イエスはユダヤ人で、キリスト教は最初、ユダヤ人に告げ知らせた。そして、復活のイエスがパウロに現れた。ユダヤ教のファリサイ派に属し、宣教を行っていたパウロは、自分が信じている唯一の神こそイエスをこの世に遣わされたということに気づいた。そして、パウロは、イエスの救いをユダヤ人ではない異邦人に告げ知らせた。一方、ユダヤ人キリスト者は、選民意識を持ち、律法に記されている割礼、食物規定、安息日を大切にしていた。そこで、割礼を受けていない、食物規定、安息日、つまり律法を守らない異邦人キリスト者に対して、ユダヤ人キリスト者はよい思いを抱いていなかった。選民意識を持っていたユダヤ人に対して弱い立場にあった異邦人キリスト者を守るため、律法を守ることではなく信仰によってこそ義とされると、真のイスラエルの民となるのであると、パウロは説いたと理解できるというのである。また、ある学者が記した本には、パウロが伝えたいのは信仰義認ではないと書かれていた。伝えたいのは、すべての人が神とアブラハムとの契約に入ることができるということであり、その説明のために信仰義認があるという説を唱えた。その理由が、本日与えられた聖句である。私はとても刺激を受けた。信仰義認がパウロの大切な主張の一つであると学び、そうだと思っていた。しかし、当たり前だと思っていたことを前提に聖書を読むのではなく、まっしろな状態で聖書を読んだとき、新たなるメッセージが与えられると知った。アブラハムと神との契約は聖書の最初、創世記17章に記されている。その契約のゆえに神は、アブラハムの子孫であるユダヤ、イスラエルの民を必ず守ると言ったのである。
 信仰義認はすべての人がアブラハムと神との契約に与ることができるというための説明であるという理解に、なぜ私は納得したのか。それは旧約聖書の文書の並べ方に、そのような理解があるからである。キリスト教とユダヤ教において、旧約聖書の文書の並び方は異なっている。そもそも、ユダヤ教では旧約聖書とは呼ばない。最初の創世記~申命記のモーセ五書までは、キリスト教もユダヤ教も同じである。その次、ヨシュア記~列王記までが異なっている。ユダヤ教では、ルツ記はもっと後ろに位置している。つまり、ユダヤ教では、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記となっている。この編集の理由は、ユダヤ、イスラエルの民は歴史で何度も神を裏切っているが、アブラハムとの契約のゆえに必ず神はユダヤ、イスラエルの民を救ってくださる。そこには、アブラハムと神との契約に帰ってくる。そのことが前提として編纂されているという理解がある。つまり、アブラハムと神との契約はユダヤ、イスラエルの民にとって、重要な神との関係の中心といえるのではないだろうか。パウロは、元々ユダヤ教ファリサイ派の宣教者であり、聖書をよく知っている立場だった。だからこそ、旧約聖書で神との関係に欠かせないアブラハムと神との契約を中心に考え、大切に扱うのは当たり前のことではないか。パウロが主張したいのは、アブラハムと神との契約にすべての人が招かれているのは確かではないかと私は思ったのである。
 そこで重要なのは、パウロが否定したことは、ユダヤ人の選民意識であるということである。そのように考えることができるのではなかろうか。神は、ユダヤの民が優れているから契約を交わしたのではなく、最も小さいく弱い民であるから選んだと旧約聖書に記されている。神がユダヤの民を選んだことは、威張ること、自慢することではない。いや、パウロは選民意識を否定した。それはひとくくりにした民という概念ではなく、すべての人を救うといことである。そして、神はアブラハムと契約を交わしたように、一人一人と契約を交わすということではなかろうか。星のように子孫が増える。それはひとくくりにした子孫ではなく、星によってその輝きがすべて異なるように、一人一人の異なる人格を神は尊び、一人一人をし、契約を交わしてくださる。パウロは、イエスを信じる前、ファリサイ派としてイエスを信じる人々を迫害した。イエスを信じる者は律法を守っていない、ないがしろにしたと考えたからである。しかし、神は律法を守ることを大切にしたのではなく、人間がいつも神を覚えて日々過ごすことを大切にし、そのために律法を与えた。律法は、一人一人がその人らしく生きることができるようにという神の導き、恵みでもある。パウロは、その恵みに気づき、律法を守ることではなく、神が一人一人を愛してくださる。その応答として神を信じる。一人一人が神に向き合うことの大切さを教え、かつ、神が一人一人を愛してくださることを示した。神は、一人一人と契約を交わしてくださる。一人一人に命を吹き込み祝福し、導いてくださるのである。
 私は今回、入院するほどの病気にかかったことによって、一人一人に祝福をもって神が命を与え、その命を尊び、導いてくださることに改めて気づかせていただいた。本当に、その喜びを感じ、涙を流した。一人、一人、その人として神は私たちと接し、愛し、導いてくださる。一人一人、神との契約に招いてくださる。その契約は、神が永遠であるように永遠である。そして、神は一度契約した者がどのようになろうとも忘れず導いてくださる。決して契約を打ち切ることはなさらない。パウロ、いや、聖書は、私たちにそのことを教えてくださっていると改めて確信した。一人一人の命を尊ぶ神の愛を確信していただければ嬉しく思う。そして、神の愛を多くの人と分かち合いたいと思う。

祈祷  愛なる神様、あなたは、一人一人を祝し、命を与えてくださいました。そして、命を大切にしてくださいます。それゆえ、神とアブラハムとの契約にユダヤ人だけではなく、御子イエスを通してすべての人を招いてくださいました。私たちは神と無条件に契約を交わすことができます。それは、永遠に神の守りのうちにあるということです。神は、一人一人を愛し、お導きくださいます。このことを多くの人と分かち合いたいと思います。神の愛する命を奪うことは神の御心ではありません。兵士は命令で争いに行かなければならない。それは兵士にとってさえも、怖いことです。しかも、そこで最も被害にあうのは弱者、子どもたちです。どうか争いがなくなりますように。互いに手を結びあう世として下ださい。新しい命の上に祝福がありますように。入院し、手術を控えている友のことを覚えます。どうか成功しますように、癒しの御手を差し伸べてください。暑い日々となっています。熱中症など心配されます。また、コロナウイルス感染も増加傾向にあります。どうか、すべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。自然災害で被災された方々をお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/07/03 聖霊降臨節第5主礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヘブライ人への手紙 12章 1~13節」  聖書朗読
12:01こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 12:02信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 12:03あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 12:04あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 12:05また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 12:06なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 12:07あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 12:08もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 12:09更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 12:10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 12:11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12:12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 12:13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

礼拝メッセージ:陣内 厚生 牧師「信仰の創始者また完成者」  皆さんは、この数か月というものを、どのような思いをもってお迎えになられましたでしょうか。かつて我が国の指導者たちが、いいえ私たちが日本の歴史を作り上げてきたのでありまして、私たちはその身近な歴史に責任をもって生きている存在に他ならないということを知らされているのであります。まして、キリスト者たる私たちには、明らかな問題意識と方向性、さらには展望が与えられていると言わなければなりません。今朝は、本日の聖句によって、そのことを考えてみたいと思っております。
 我々の日本の教会は、きわめて小さな集団であります。しかしキリスト教は、その前史を含む旧約の時代以来という歴史の長さにおいては、他の宗教の及ぶところではないものを持っております。小さな集団ではありますが、それを問題としないほどに、はるかに大きな伝統と豊かさを持っているのであります。聖書のいう歴史の中心とも言うべきイエス・キリストの到来と、その意味、神様の救済のドラマのなかに登場してきた人々の群像には、実に目を見張るものがあります。
 ヘブライ人への手紙の著者は、実際にはどのような人物だったのかはわかっておりません。そのことをはじめ、この手紙には、解明のできていない点が多々あるのです。それにもかかわらず、この手紙はイスラエル民族の歴史を顧みさせ、イエス・キリストの到来の意味を、必然のことと考える立場をとってきました。その点では、実に明快で一貫しているのです。つまりヘブライ人にとって、イエス・キリストは大祭司という存在であると位置付けているのです。神様は最愛の独り子をこの世に遣わし、その子イエス・キリストに責任と特権とを負わせ給いました。そのうえで、それに対応すべき人間の側の責任と特権とを教え伝えているのです。
 さて、旧約時代の信仰の先達の名前が出て参ります。彼らは、イエス・キリストを知りませんでした。それにもかかわらず、ちゃんと信仰をもって神様に従った人々でありました。11章には、それら登場人物の名が出てきております。彼らは、約束のものは手に入れませんでした。けれども、遥か遠くにその約束を望み見て、喜びの声をあげ、地上においてはよそ者であり、仮住まいの者であることを公にし、天の故郷を渇望したのです。それは、次のように言うことができます。信仰の報いは直ぐには現わされず、時間と空間の外において、遠き地を望見させるということ。そして、信仰は常に信仰者の一団を形成するということ。また同時期にではないながら歴代の信仰者の系譜、つまり「おびただしい証人の群れ」に囲まれているということです。この手紙の著者は、円形劇場の観衆を思い起しているのでしょう。私たちは、毎年行う「永眠者記念礼拝」において先達の写真を並べます。あたかも、彼ら先達が観客席を埋め尽くしているように。信仰者の一団、おびただしい証人の群れとは、そのように考えてみることができるのではないでしょうか。
 キリスト者たるものは、その観衆の注目の中にあって、懸命に競争を走り抜かねばならない、しかも決勝点をしっかりと見定めた走りをしなくてはならないのです。つまり、キリスト者の人生は漫然とではなく、先へ先はと進む巡礼の人生であります。ゴールは、他ならぬイエス・キリストであり、キリストの御前に出て、受け止めて頂くことが目標であります。
 しかし、そこには障害があります。最悪の障害は「重荷」であり、「絡みつく罪」であります。それらをどのようにして振り払っていくか、それが難問であります。私たちには、罪や重荷があり、それらが信仰の足を引っ張っているのです。私たちは、それらを気にする余り、中途半端な不安になったり、諦めたり、妙に妥協して安堵したりしているのです。しかし、それでは真の解決にはならないのです。私たちは、自身の生きているその影を飛び越えることはできません。実にそれは、ここにいる私たち一人ひとりを見ればわかるのです。私たちのなかに、誰が疲れた人、諦めた人、失望した人、悲しんでいない人がいるでしょうか。この世では高みにある権威的な者が何か頼りがいがあると思われ、それを仰ぎ見ることもしたが、しかしそれは制限された高みであるに過ぎないとわかると、疲れ果ててしまうのです。そこに、何か人生の分岐点ともいうべきポイントがあるのです。「かなぐり捨てる」ということには、証人たちの既に実現されている実例があります。「かなぐり捨てる」にふさわしい手ごたえがありそうです。それには、賭けるに値するものがあるのです。
 イエス・キリストは天においても地においても、一切の権能をもつ主であることを信じるべきであります。しかし、私たちの重荷や罪を良く見ると「十字架、私たちの生の影を形成する恥は担われ、取り去られた」という福音を聞くことを許されるのです。「あなたの重荷や罪は、もはやあなたのものではなくなるために、イエスが贖ってくださった。」たとえ、それが私たちを取り囲んでいても、それはただあるだけに過ぎません。主であり勝利者であるイエスがいて下さるゆえに、私たちにとっては脅威ではありません。そのことこそが、大きな力となるはずなのであります。
 もう一つは、「忍耐強く」ということです。それも奨めの一つであります。勝利者イエス・キリストを知ったならば、この忍耐は何かをつかもうとするための喜びの戦いに変わっていることを知るでありましょう。それは祝福に満ち、平和で希望に溢れた戦いであります。毎日、「神様はキリストにあって、この世とご自分を和解させてくださった」ということを真実たらしめることであります。私たちは、主が勝ち獲た勝利の実りをつかむために、そこにいるだけで良いのです。
 そして、イエスを仰ぎ見ようではありませんか。そのイエスは、自らの喜びを捨て、十字架の死をもって贖いを成就させ給いました。耐え抜かれたイエスであればこそ、私たちの贖い主となられたのです。「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです(2章18節)」。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神様の子イエスがあたえられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです(4章14,15節)」。イエスは信仰の創始者、完成者であられます。その祭壇にパルピットがあります。「α(アルファー)」と「Ω(オメガ)」があるのです。すなわち、初めであり終わりであります。すべてを解決して下さる方であられ、その全てなのであります。
 次に「信仰を鍛える」ということについて考えてみたいとと思います。私たちの教会は、信仰の喜びを発信すると共に、信仰を強化することも試みようではありませんか。信仰を鍛えるには、私たちは如何にすべきでしょうか。この手紙の著者は言います。「イエスの苦しみと比較するとき、今のあなた方の苦しみは、物の数ではない。イエスはあなた方のために、このようなことをされた。あなたはイエスのために、何をするのか。」と。求められているのは、高価な代価が払われたことへの私たちの応答であります。今の苦難、それは訓練として神様から与えられたものであります。父親が子を訓練するように、霊の父、神様は私たちをそれぞれに鍛えて下さるのです。手紙の著者は、「人生の苦難は神様が与える訓練であり、その訓練は私たちを傷つけるものでなく、最高の益をはかるものであると思いなさい」と言っています。そのことについては、様々な受け止め方があると思います。最もふさわしい受け止め方は、困難を愛の訓練と考える人の場合でありましょう。訓練はことごとく神様の愛から出たものでありまして、私たちの信仰の益を計ってのことであります。そのことを知るならば、私たちの自己憐憫、怒り、反逆、不平は消えるでありましょう。
 最後に、私が体験したことをお話したいと思います。私は20代の後半から60歳まで、山口県宇部市において伝道牧会を経験いたしました。そこは炭鉱の町であったため、在日の朝鮮人・韓国人が現在も2300人ほど住んでいるところです。市内には在日大韓教会もあります。ある時、一人の朝鮮総連の青年が聖書の勉強をしたいとして求道し、数か月後に洗礼を受けました。私たちは喜び、教会も彼を歓迎いたしました。しかし、一年ほど経ったとき、同朋や組織から厳しい非難が集中し、彼は精神的に追い込まれてしまいました。「先生、信仰をやめていいですか?」と言ってきたのです。私は彼を引き留め、「いまは辛いかも知れないけれど、君の存在と君の信仰が周りから必要とされるときが必ず来る。いまは忍耐し、時を待って下さい。」と申し上げました。その後、私は宇部から東京に転任しました。その4~5年後に、記念行事に呼ばれて宇部に参りました。その時、何と彼の母親が満面に笑みを浮かべて、私を迎えてくれたのです。洗礼を受けた彼女が、本当に幸せそうに教会で奉仕している姿を私に見せてくれたのです。私は神様の大きな恵みを知りました。主は生きておられ、今も働いておられることを知らされたのです。


2022/06/26 聖霊降臨節第4主礼拝

聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(1) 2章 1~5節」 02:01兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 02:02なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 02:03そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 02:04わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 02:05それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

礼拝メッセージ:本田 真也 執事「共にいてくださる」  (要旨の掲載はありません)


2022/06/19 聖霊降臨節第3主礼拝

聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 4章 23~31節」  聖書朗読
04:23さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。 04:24これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。 04:25あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。 04:26地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』 04:27事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。 04:28そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。 04:29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。 04:30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 04:31祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「力を与えてくださる方」  私が大学院1年生のときの8月の一か月間、夏期伝道の実習を札幌の月寒教会で行わせていただいた。それは、本当に良い学びとなった。私にとって教会での説教は、そのときがはじめてだった。そのとき司式をしていただいた教会役員が、緊張をしている私が聖壇に上がる直前、「大胆に福音を語ってください」と私に言ってくださった。その一言で緊張が和らいだ。私なら「大丈夫、聴衆をかぼちゃだと思って」と声をかけたかもしれない。聖書箇所を思い出し、神さまが共にいてくださる。聖霊が導いてくださるということを改めて心に置き、説教を語ることができた。本当に感謝している。
 使徒言行録の使徒とは、イエスの12弟子といってよいであろう。イエスが天にあげられてからエルサレムにおける使徒を中心とするキリスト者の集まりは、原始キリスト教団といわれる。使徒言行録は、イエスが天に上げられた後の使徒たちの働きが記されている。前半は、ペトロを中心とした働きといってよいであろう。また、使徒言行録は聖霊による導きが中心にあると言ってよいと思う。それはペンテコステの出来事からもうかがうことができるであろう。
 弟子のペトロとヨハネはエルサレム神殿に行き、イエスの名によって足の不自由な人を癒し、イエスの救いを語った。一方、神殿の秩序を乱す者としてペトロとヨハネは捕らえられ、ユダヤの議員、長老、大祭司、その一族、つまりユダヤの権力者が集まり、取り調べを受けた。そこで、ペトロはイエスの救いを証言した。彼らの行いは良いものであり真実だったので、罰せられることはなかった。しかし二人は、もう誰にも話さないようにと権力者から脅されて釈放された。それが、本日の箇所の前の話である。つまり、当時、イエスを信じる者たちは、ユダヤ教権力者たちから行動を慎むよう圧力をかけられていた。迫害されていたのである。
 使徒言行録4章23節には、ペトロとヨハネは、釈放され仲間の所に帰ったとある。彼らは、取り調べを受けた出来事すべてを仲間たちに話した。そして、心を一つにした。「心を一つにし」とは、原始キリスト教団の模範的一致を示している。迫害、苦難の中でこそ一致が必要なのである。そして、神に向かって声を上げた。祈ったのである。神は、この世を創った。神は、この世の支配者といえるであろう。神は、ダビデを通して預言した。25節の途中からの二重括弧は、ダビデが作ったとされる旧約聖書詩編2編1、2節の引用である。ダビデは、紀元前1000年頃活躍した人で、イスラエル12部族を統一した文武両道、信仰の厚い王であった。詩編のそれは、王の即位に用いられた詩であると考えられる。詩編2編は、キリスト教においては、救い主、メシアの預言と理解され、クリスマスの時期に読むこともある。「諸国の民」とは、イスラエルの12部族の人々を意味していると考えられる。そこでイスラエルの民ではない異邦人、イスラエルの民、すなわちすべての民が、騒ぎ立ち、空しく声をあげたというのである。それは何を意味するのか。異邦人は父なる神の存在とその業を知らずに傲慢になり、また、イスラエルの民はこの世を創った絶対者である神を知っていながら、神の意思を見ず、独子イエスを迫害した。そして26節の「地上の王たち」とは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスやユダヤ州総督ポンテオ・ピラトを指している。当時、イスラエルはローマの支配下にあった。次の「指導者たち」とは、ユダヤ教の祭司長たちである。彼らは団結して神とその独子イエスに逆らう。つまり、イエスの十字架の出来事を、ダビデは詩編2編で預言していたというのである。十字架とは、イエスが民衆から王となると支持を受けたことに嫉妬したユダヤ教権力者によってなされた出来事といえるであろう。一方、28節では、イエスの十字架の出来事は神の計画であったとも言っている。
 そこで考えたいことがある。ユダヤ教は、異邦人と食事を一緒にとると汚れると考えていた。と言うのは彼らは、異邦人はユダヤ教の掟である律法を守っていないので罪がある、汚れていると考えていたからである。ユダヤ教権力者たちは、そのような考えを持ちながらも、自分たちの欲のためには異邦人であるローマのピラトをも利用したのである。自分たちの欲のため団結する。神を見ず、ただ自分の欲望にしがみついている。権力者たちの傲慢、横暴を思う。それは、心を一つにしたのではなく、欲望を一つにしたと言えるのかもしれない。ダビデは油を注がれて王となった。油注がれる、ヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストである。つまり、元来王とは神から油注がれ祝福を受け、役割を与えられ、神に代わりこの世において民を導く存在である。民を導くという意味では、ユダヤ教権力者たちも指導者として同様の立場だったと言えるであろう。それにも関わらず、神の思いではなく自分の思いばかりを考えた。しかも、元来手を結ぶことがないローマと手を結び、神の子であるイエスを殺した。それだけではなく、ユダヤ教権力者たちはイエスを信じる者たちをも迫害した。そこで、ユダヤ権力者たちはペトロとヨハネを脅した。ユダヤ教権力者たちは、エルサレム神殿、つまりユダヤの民の信仰を守るため、人々を惑わすキリスト者を罰したという理解である。しかしその考えは、自分たちの欲望を隠すための言い訳だったといえるのではないだろうか。神の意思を思わない過ちがそこにあるように思う。
 イエスの救いを述べ伝えることによって迫害を受けるという状況において、イエスを信じる者は何を求めたのであろうか。祭司長、ユダヤ教権力者から脅されている状況である。私なら、「私たちの命をお守りください、また、私たちを迫害する者を罰してください」と祈ったであろう。弟子たちを中心とするイエスを信じる者たちは、自分たちを守って欲しい祈ったのではなく、「大胆にみ言葉を語ることができるように」と祈り、神の力を求めたのである。それは、ともても驚くべきことである。自分たちの身を守るのではなく、神の救いを多くの人々に告げ知らせるため大胆にみ言葉を語ることができるようにと、神に求めた。自分たちの救いではなく、多くの人が救われるために祈った。それは、指導者としての真の願いといえるであろう。
 その「大胆に」という言葉が「正々堂々、また、堂々」と訳されていることがある。正々堂々、自分たちの行為が正しい、つまり、み言葉、イエスの救いを語ることこそ正しいという思いが、使徒たちにあったと理解できるであろう。神の意思を思い、正しいことを行っていると確信している。その思いは大切である。圧力、迫害では人を屈することはできないのである。
 本日の聖句は、誰より牧師であるわたしに勇気をくれる。また、キリスト者にとっても勇気づけられる聖句であると思う。なぜ、勇気づけられるのか。31節の最後に「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」とある。神、イエスこそ祈りの言葉を聴いてくださるのである。人々は、聖霊に満たされて祈り求めたとおり、大胆に神のみ言葉を語りだした。神、イエスは、いつも私たちと共にいて導きくださり、わたしたちの祈りの声を聞き、そのときに必要な力をお与えくださっている。だからこそ、私たちは勇気づけられ、一つになり、何をも恐れることなく神を讃美することができる。神は、私たちの声を聞きくださり力を与えてくださるのである。そのことを確信し、心を一つにし、福音を大胆に語り、イエスの救いを多くの人と分かち合いたいと思う。

祈祷  恵み深い神様、イエスが天に上げられた後、弟子たちはイエスの救いを述べ伝えました。一方、弟子たちは、ユダヤ教の権力者たちから迫害にあっていました。そこで彼らが祈り求めたのは、大胆にみ言葉を語ることができるようにとの祈りでした。神は、その声を聞いてくださり、力をお与えくださいました。イエス、神の救いを分かち合うことが最も大切であり、そのことによって多くの人は救いに与ることができます。どうか、現代の私たちも、大胆にみ言葉を語ること、また、イエスの愛をこの世に現わすことができますよう力をお与えください。心を一つにして歩みたいと思います。いま争いが終わりません。人と人とが争うことをあなたは求めません。争いは、憎しみを生み出し、平和は生み出されません。ただ悲しみが残るだけです。どうか、争いではなく、手を結び歩む世としてください。そのために私たちをお用い下さい。自然災害で被災された人々をお支え下さい。病の中にある友、入院をしている友の上に心身共に癒しの御手を差し伸べてください。新しい命を与えられたご家族の上に主の祝福がありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますようにお導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り、主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/06/12 聖霊降臨節第2主日(子どもの日・花の日)礼拝

聖書:新共同訳聖書「申命記 6章 1~9節」  聖書朗読
06:01これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。 06:02あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。 06:03イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。 06:04聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 06:05あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 06:06今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 06:07子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 06:08更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 06:09あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「継承すべきこと」  14年前の8月のこと、父から連絡があった日のことを思い出す。医師から祖父が危険な状態だと言われたとのことだった。長女は生後5か月を過ぎていたので、家族一緒にその病院へ行った。祖父はICUにいるとのことだった。きっと危険な状態だろうと覚悟をしてICUに入った。すると、手をあげた祖父が「おう、秀樹か」というではないか。拍子抜けしたし、驚きもした。それどころか、祖父にとってはその日が初対面のひ孫を、祖父は抱っこしたいというのだった。私は長女を支えて祖父が無理なく抱っこができるようにした。すると祖父は満面の笑顔で長女をしばらく抱いていた。そのように嬉しそうな顔をした祖父を、私はあまり見たことがなかった。私は今でもそのときの写真を大切に保存している。祖父が元気そうに見えたので、次は一緒にお酒を飲もうと約束し、当時、牧会していた代官山に帰った。しかし二日後、祖父は天に召された。93歳だった。その時に、以前に父からよく聞かされていた話を思い出した。私たち家族は、私が2歳近くまで祖父母と同居していた。祖父は、2歳上の兄と手をつなぎ、赤ちゃんだった私をおんぶして、毎朝散歩に出かけたそうである。散歩の途中で祖父はいつも兄にあんパンを買い与えた。それで兄は太ったのだと、父は話していた。また、いつも私と兄を風呂に入れるのは祖父だった。絶対に、その役を譲らなかったそうである。祖父の話になると、私はいつも長女に「あなたは皆から愛されているのだよ」と、その話を聞かせる。
 さて、申命記とは、日本語で申(かさ)ねて命じるという意味がある。しかし申命記とは、勘違いからこの訳になった。それが実は内容的には適していて、エジプト脱出以来の出来事を振り返り、イスラエルの人々に、律法の精神をもう一度、教え諭している本だと覚えることができるのである。
 では、その律法とはいかなるものか。律法を守ればと救われるということなのか。律法とは、神の意思である。神は十戒、すなわち律法をイスラエルの民に与えた。人間からすると、十戒は、律法は神から授かった賜物、恵みである。律法を守ることによって契約を結んでくださった神が共にいてくださるということ、神が恵みをくださることを覚えながら日々の生活をおくるものであるといえよう。本日の箇所からも、それをうかがうことができる。申命記の6章8節9節にあるように、ユダヤ教では、頭、腕につける小さな箱がある。それはテフィリンという。その中に、本日の箇所と他の聖句が記された紙を入れている。また、イスラエルではホテルの部屋にもあるが、戸口に小さな箱をつけている。それをネズサといい、本日の聖句が記された紙が納めらえている。神がいつも共にあるということである。そのように律法は、守らなければならないという掟ではない。そこにあるのは、神の人間に対する愛と信頼といってよいであろう。
 申命記6章4節以下は、ユダヤ教において重要な聖句の一つである。十戒の要約ともいえよう。十戒の第一の掟は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、つまり、唯一の神を意味している。マルコによる福音書の12章29節以下には、「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』とある。第二の掟は、「『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」とイエスが述べている通りである。
 本日の申命記の箇所は、「シェマ」という。4節の「聞け」という言葉が、ヘブライ語でシェマだからである。一方、その「聞け」は、命令形で記されている。続く5節も、「あなたの神、主を愛しなさい」と命じている。神は、私たちに神を愛することを強制しているのであろうか。その愛は、人情や親切、情愛に留まらず、契約を忠実に守る姿勢、また、その意味で人の真心や真実で偽りのない心をいう。私たちは、掟を忠実に守り、真実で偽りのない心で神に向き合わなければならないといえるであろう。しかし、私たちにそのようなことができるのであろうか。
 聖書には、人間が神に背く姿が多く記されている。創世記には、神がアブラハムと契約を交わしてくださったことが書かれている。神の側から契約を結んでくださった。人間と共にあることを、人間を救うことを、神が自ら契約という形で縛ったのである。そのような理解があった。ルツ記を除く創世記から列王記下まで、イスラエルの民は神に背いてばかりいることが記されている。しかし、神は、アブラハムとの契約の故に、必ずイスラエルを救ってくださる。アブラハムの契約を原点と意図して、創世記から列王記を編纂しているのである。その理解を、私はとても気に入っている。それは、神と人間との関係を分かりやすく示していると思うのである。もちろん、神と人間との関係は、他の箇所にも記されている。12小預言書のひとつホセア書は、愛と真実の預言者ともいわれている。ホセア書の11章8~9節、エフライムとはイスラエルのことである。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」。旧約聖書学者の関根正雄は、ホセア書に記されている神の愛、つまりイスラエルは神を何度も裏切ったが、神は愛し、必ず救ってくださった。この愛を前提として、申命記のそ箇所の「あなたの神、主を愛しなさい」という言葉があるのだというのである。
 「聞け、イスラエルよ」と記されている。現代にとってイスラエルとは、神を信じる者のことであるといってよいであろう。なぜなら、神の独り子イエスこそ、神の愛はすべての人に注がれているのであるということを教えてくださったからである。イエスは、第一の掟として「唯一の神を愛しなさい」と、私たちに教えてくださっている。何かをしたから神は私たちを愛してくださっているというのではなく、創造主として無条件に私たちを愛してくださっている。だからこそ、私たちは神を愛することができるのである。大切なことは、まず私たちが愛されていることを確信すること。そして、7節にあるように私たちは、私たちの子どもたちに、繰り返し繰り返しそれらの言葉を語り聞かせるべきではないだろうか。神はあなたのことを無条件に愛してくださっている。だから神を信じ、神を愛するのだよと。そして、神を愛する者こそ、隣人を愛することができるのである。現代の私たちも、その言葉を聞き、そして、多くの人たちに述べ伝え、神の愛を分かち合い、継承したいと思うのである。また、そのことによって神の愛は広がっていくのである。

祈祷  愛の源なる神様 申命記には律法が記されています。律法は、守らなければならない掟ではなく、人間が神の御意思、御恵みを覚え、それを支えに歩んでいくことができるものです。神は、この世、人間をただ愛してくださっています。そのことが前提です。私たちは、愛されていることを確信し、その愛を多くの人と分かち合い、継承していきたいと思います。どうか、そのため、強め、お用いください。争いが開始されると、やめるという時をなかなか持つことができません。争いをやめることには勇気と決断が必要です。そして、そこで最も必要なのは民を愛し、守るということです。争いは憎しみ、悲しみしか生み出しません。争いで悲しみ、不安の中にある人々を守り、お支えください。そして、争いをやめる勇気と愛をお与えくださいますように。私たちにできることがありましたらお用いください。病の中にある方、検査入院をされている方、心身共にお癒しください。本来は、こども日・花の日礼拝の日ですが、この状況で子どもたちと共に讃美を守ることができません。イエスはこどもを招かれます。どうか、共に讃美できる日が早く来ますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧をお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますよう、共にいてお支えください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/06/05 聖霊降臨節第1主日(ペンテコステ)礼拝

聖書:新共同訳聖書「詩編 122編 1~9節」  聖書朗読
122:01【都に上る歌。ダビデの詩。】主の家に行こう、と人々が言ったとき
わたしはうれしかった。 122:02エルサレムよ、あなたの城門の中に
わたしたちの足は立っている。 122:03エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い 122:04そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。 122:05そこにこそ、裁きの王座が
ダビデの家の王座が据えられている。 122:06エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。 122:07あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」 122:08わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」 122:09わたしは願おう
わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「平和の使者」  皆さんは、イスラエルに行かれたことはあろうか。私は18年前に行った。今もそうだが、イスラエルはパレスチナとの間に問題を抱えている。パレスチナ自治区に大きな壁を作り、行き来ができないようにしている。私が行った1か月前には、エルサレム市街地でバスのテロがあり、行っている間にもテルアビブへの攻撃があった。その時に、ガイドをしてくださったのは日本人だったが、エルサレムに住みユダヤ教徒として生活しているとのことだった。イエスが、その十字架の死の前に祈ったゲッセマネにも行ってきた。そこでガイドが、お土産をこの人から買ってくださいと男性をバスに入れた。彼は、障がいをもつパレスチナ人だった。そこでは争いがあるため観光客が少ない。困っているから彼から買ってほしいと、ガイドは話してくれた。また、イエス誕生の地であるベツレヘムは、パレスチナ自治区のため壁がある。そのような状況なので治安が悪く、観光客はベツレヘムに行かない。そのガイドは、ベツレヘムのそのような商売をするパレスチナ人とも通じていて、危ないことにならないようにイエス誕生の地に連れて行ってくれた。その後、そこの店でお土産を買った。店の人は観光客が来ないので困っていたとのことであった。そのガイドから私は、宗教、民族を超え困っているときにこそ助け合う人と人との関係を大切にすること、平和を望むことを、あらためて教えていただいた気がした。
 本日はペンテコステである。イエスが天に上げられた後、エルサレムに集まった弟子たちに聖霊が降り、イエスの救いを述べ伝える力が与えられたことを覚える時である。教会の誕生日ともいわれている。そこからイエスの救いが世界に広まったのである。
 旧約聖書の詩篇122編に心を傾けたいと思う。最初に「都に上る詩」とある。都とは神殿のあるエルサレム、つまり、巡礼を意味している。巡礼とは、宗教の聖地等にお参りすることといってよいだろう。エルサレム神殿には元来、モーセが神から頂いた十戒の刻まれた石板があった。また、神の命令によりアブラハムが、息子イサクを神にささげようとした場所、モリヤこそエルサレムである。つまりそこは、神がいる場所といってよいのかもしれない。
 聖書にある教え、律法には巡礼が定められている。本日の詩編の箇所で、まず見たいのは、巡礼という旅に1人ではなく仲間と共に行くということである。そして、エルサレム神殿にいることを喜んでいるのである。このような理解がある。「今、城門の所にいる詩人は、巡礼の仲間たちと出会いの瞬間を、喜びをもって回想するところから作品を始めている」。友と一緒に神を讃美できることの喜び、といってもよいかもしれない。今年の年間聖句である詩篇133編に連なるともいえる。イエスは述べた。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。3節を見ると「すべては結び合い」とある。イスラエル12部族の民が一つとなるといえるであろう。5節には「裁きの王座」とあるが、「公正の座」と訳した方がいいという理解もある。正しい神がおられる座と理解したいのである。
 この詩編で特徴的なのが、6節以下「平和、平安」を求めているということである。では、誰の平和を求めているのであろうか。6節以下の「あなた」は、エルサレムを指している。エルサレムの平和が求められている。昔からイスラエル、エルサレムは争いの多い場所である。イスラエルは、ペルシア湾からパレスチナにおいての肥沃の三日月地帯の端、また、ペルシア、アッシリア、エジプトなど大国に挟まれた戦争の絶えない土地なのである。聖書には争いが多く記され、敵を撃破する神の勝利などが記されている。しかし、この詩編の箇所には、そのような争いではなく、エルサレム神殿に集う民の和合への願いが語られているのである。
 この詩編の箇所は、民族統合、唯一の神、その神殿を前にして平和への願いを表明しているのである。そこで注目したいのは、先ほど述べたように、イスラエル12部族が一つとなること、つまりこの詩人の信仰には、歴史や伝統に深く根ざしながらも、単なる伝統や習慣を乗り越えていこうとする極めて人間的なものが現れていることがうかがえるということである。友のためにエルサレムはある。そのような信仰の在り方が、遠く隔たった時と所に生きている我々の心にも訴えている。旧約聖書の神は、イスラエルの民と契約を交わした。また、イエスを通しての神との契約の対象は、イスラエルにとどまらず、全ての人になった。つまり、神の民とはイスラエル12部族だけではなく神を信じるすべての民なのである。そして、イエスが述べた通り、神は神を信じる者と共にある。教会こそ神がおられる場所であり、祈りの地なのである。
 ペンテコステにおいて、エルサレムに集まるイエスの弟子たちに聖霊が降り、イエスの救いを述べ伝える力が与えられた。詩編122編は、エルサレムの平和を求めるということではなく、神を信じる者たちが互いに平和を求める場こそが神殿であるということ、そして神が求めておられることこそ、すべての人の和合という平和であると教えているといえるであろう。弟子たちがエルサレムから旅立ち、イエスの救いを述べ伝えた。それは神の求める平和を述べ伝えることであるといってもよいであろう。現代の私たちも、弟子たちと同じように聖霊が与えられている。友と共に平和を祈り求めたいと思う。友のことを祈るために教会はある。そのことによってこそ一つになるのである。

祈祷  恵み深い愛なる神様 ペンテコステ、弟子たちに聖霊が降り、宣教の力が与えられた日です。神を讃美するとは、神の愛する友と平和を求めることであると信じます。なぜなら平和であることによって、その人がその人としていることができるからです。弟子たちに聖霊が注がれたように、私たちにも聖霊が与えられています。私たちは、友のことを覚え、平和を祈るべきです。しかし、この世では争いが絶えません。どうか、指導者たちの心にあなたの愛を与え、その民がその民らしく歩むことができるようお導きください。また、病にかかっている方々に心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。私たちにできることがありましたらお用いください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場において、その人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/05/29 復活節第7主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 45章 1~7節」  聖書朗読
45:01主が油を注がれた人キュロスについて
主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り
国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ
どの城門も閉ざされることはない。
45:02わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし
青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り
45:03暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる
わたしは主、あなたの名を呼ぶ者
イスラエルの神である、と。
45:04わたしの僕ヤコブのために
わたしの選んだイスラエルのために
わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが
あなたは知らなかった。 4
5:05わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが
あなたは知らなかった。
45:06日の昇るところから日の沈むところまで
人々は知るようになる
わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。
45:07光を造り、闇を創造し
平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「災いを創造する神」  イザヤ書45章1節に記されているキュロスとは誰か。ペルシアの王である。彼に油が注がれる。「油注ぐ」とは、ヘブライ語でマーハーシーアハ、メシア、ギリシア語ではキリスト、つまり、救い主を意味する。本当にペルシア王のキュロスがメシア、救い主なのか。イザヤ書が記された時代、油注がれた者に「救い主」という意味はまだなかった。当時、「油注ぐ」とは、王の就任を示していた。神が選び、召した者に対して油を注ぎ、王とする。つまり王は、神から民を導くよう委託された者といっていいであろう。では、なぜペルシア王がイエスラエルの神から油注がれたのか。
 紀元前1,000年頃、ダビデによってイスラエル12部族統一王国となった。しかし紀元前922年、イスラエルは、エルサレム神殿のある南ユダと北イスラエルに分裂した。紀元前722年、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、紀元前586年、南ユダは、バビロンによって滅ぼされた。このとき多くの上層階級の人がバビロンに連れていかれた。それをバビロン捕囚という。それから約50年後、ペルシアがバビロンを滅ぼした。バビロンに連れていかれたユダの民はそのことによって解放され、エルサレムへの帰還、神殿再建等の希望を持つという歴史がある。
 本日の聖書箇所では、まだイスラエルはバビロンの支配下にあった。神がペルシアのキュロス王に油を注いだとは、ユダの民を解放させるためであった。唯一の神はユダの民が神に従わなかったので、バビロンを用いてこの民を罰した。しかし神は、ただ罰せられる方ではなかった。神とアブラハムとの契約によって、ユダの民は神の守りの内にあった。神は罰するが、一方、契約のゆえにユダの民を忘れることなく、異邦のペルシア王クロスを用いて救ってくださった。
 神はこの世を創造した神である。バビロニアの王もペルシアの王も、神が創造した被造物にしかすぎない。神はあらゆるものを用いて、契約を交わしたユダの民を導く。ペルシアの王は唯一の神に創られた者にしか過ぎない。神こそ唯一、絶対であるということが分かる。1節は、王の就任を示し、神がペルシア王キュロスを、ユダの民を救うために任命した。
 2節は、キュロスを用いユダの民を救うということ、また、キュロスに唯一の神を知らせると言うことが記されている。一方、キュロスは、唯一の神を認識しなかったということが、4節から記されている。3節、暗闇に置かれた宝、隠された財宝とは、バビロンの宝の倉の財宝であると考えられる。6節、「わたしは主、ほかにいない」と記されている通り、唯一神のほかに神はない。唯一の神であると自ら明らかにされ、すべての人が神を知るようになるというのである。
 さて、本日の箇所には疑問に思う言葉がある。それは7節「光を作り、闇を創造し、平和を造り、災いを創造する者」である。そこでは単純に、光と闇、平和と災い、相対するものを記している。つまり、最後にあるように「すべてを作る者」こそ神であるということを示しているといえるであろう。また、ペルシアのゾロアスター教の神と唯一の神、またキュロスとバビロニアを比喩的に記している。つまり、神でない者、それは闇、災いに陥る。真の神は、光、平和である。また、唯一の神に用いられたキュロスは光、平和、バビロニアは闇、災いということを比喩的に述べているなどと考えることができる。
 一方、疑問に思うというのは、神は災いをも創造したのかということである。神は本当に災いを創造したのか。実は、それはとても難しい議論となろう。というのは、神は義、正しい方である。その正しい方が災いを創造するのかと。災いを創造する神、それは神について人間が語ること、考えることの限界、神学の限界を突き破っていると記している解釈があった。たしかにその通りだと思う。わたしは単純に考えたい。確かに人間の理解には限界がある。それは当たり前のことである。人間は神ではない。人間が神を理解することなどできないのである。そこには絶対的な違いがある。人間にできるのは、神に語り掛けること、神を讃美することである。神は、敵をも用いて導く、また、他の神を信じるペルシア王キュロスさえ用いてユダの民を救う。それは人間の理解を越えている。実際、人間は知らないことだらけである。人間には禍だが、この世的には必要なものがあるのかもしれない。一方、神が災いをも創造したのなら、人間を襲う災いも神は支配しているので、必ず救いへと導きくださると理解できるのではないだろうか。災いをも創造する神とは、人間には思いもしない出来事が起こったとしても、人間には思いもしない出来事を通して必ず救いへと導いてくださるということが意味されているのではないだろうか。そのように考えると、わたしたちの希望、救いとなる。神が災いを創造するとは、神はすべてを支配しているということであり、どんな苦しいことがあっても、神は必ず救いへと導いてくださる。他の神を信じ、唯一の神を認識できないペルシア王キュロスを用いたように、人間には思いもしない方法で救いへと導いてくださる。その顕著なことがイエスの十字架である。神こそ、すべてを支配し、全てを用いて導いてくださる方であると理解したいのである。神は人間の理解を越えている。その神が、必ず私たちと共にいて導いてくださる。だからこそ神を信じ、神にすべてを委ねることができるのである。

祈祷  全知全能の神様 わたしたちには、様々な災いが降り注ぎます。しかし、あなたは災いをも創造しました。それは、この世のすべてがあなたの支配の中にあり、どのような災いでもあなたは必ず救いへとお導きくださると理解します。私たちは神を理解するはできません。あなたは私たちの想像を超えるほどの方であり、また、想像を超える愛なる方です。どうか、災い、苦しみの中にある方々をお支えくださいますように。一方、人間が災いを起こしてしまうことがあります。その一つが、争いです。争いは神の御心ではなく、人間の欲望にしかすぎません。そして、そこに救いはありません。また、国の指導者こそ、その民がその民らしく歩むことができるよう仕える者です。そのようにお導きください。また、自然災害で被災された方々をお守りください。私たちにできることがありましたらお用いください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン


2022/05/22 復活節第6主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ローマの信徒への手紙 8章 22~27節」 08:22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 08:23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 08:24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 08:25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 08:26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 08:27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「どうしたら祈れるの?」  嬉しい知らせが届いた。以前に筑波学園教会の教会員だったある方からの、結婚の案内のお手紙である。その中に「新型コロナ等の時勢なので、ご無理はなさらず、お祈りのうちに覚えていただければありがたく存じます」と記されていた。祈りの大切さを思った。祈られているというのは支えになる。祝福にもなる。祈りは、自分のことはもちろん、相手のことを思うことができる。しかも、全知全能の神にお委ねすることができるのである。それほど力強いことは他にない。
「祈りは魂の呼吸である」と、また「最大の罪は祈らないことである」と記している祈りの本があった。祈るとは、神との会話である。「祈りは魂の呼吸である」と、そして「最大の罪は祈らないことである」と記している祈りの本があった。祈らないとは、神を忘れている状態であるといえるであろう。一方、わたしたちは祈れないときがあるのではなかろうか。
 祈りは、イエスがわたしたちに下さった恵みである。ローマの信徒への手紙の8章15節には「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とある。聖霊によって導かれ、神の子とされるのである。そして、わたしたちは、「アッバ」、子どもが「お父ちゃん」と呼ぶ親しさで、神に呼び掛けることが、イエスによって赦されている。祈りはイエスの、神の招きといえるのかもしれない。
 では、聖霊とはいかなるものであろうか。聖霊は、目に見えない神・イエスの働きである。一方、わたしたちは、祈りの言葉が聴かれるのか、疑ってしまうかもしれない。ヨハネの黙示録の3章20節に「見よ、わたしは戸口にたって、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」とある。わたしたちが心の戸を開くのを、神は戸口に立ち、待ってくださっているのである。わたしたちが神に祈ろうと思うより前に、神は深い関心をわたしたち一人一人に向けてくださっている。ローマの信徒への手紙8章15節にあったように、わたしたちは神の子とされる霊を受けた。わたしたちは神の子であり、神は全てを知り、わたしたちが祈ることを待ち続けてくださっている。つまり、神は、わたしたちとの会話を楽しみにされているのである。子どもとの会話、交わりを楽しみにしない親がいるであろうか。交わりを喜ぶ、それが神の思いなのである。
 わたしがいた甘楽教会には幼稚園があった。あるとき、年少3歳の子どもが、わたしに「どうして『イエスさまのお名を通して』というの?」と聞いてきた。素晴らしい。ヨハネによる福音書の16章23節にあるように「あなたがたが何かを父に願うならば、父はわたしの名によってこれを与えられるであろう」と、イエスが約束してくださったからである。
 一方、何を祈っていいか分からない。上手く祈れないと思われる方もいるであろう。しかし、気にする必要はない。神はわたしたちの心を、わたしたち以上にご存知なのである。その上で、神はわたしたちが語りかけることを求めておられる。それでも、祈るというのは難しいと、恥ずかしいと思われるかもしれない。しかし、祈れないときには「祈れません」と神に述べればいいのである。それが祈りなのである。なぜなら神に語りかけ、苦しいという心の内を神に開いているのだから。
 では、上手に語るため祈りに訓練が必要なのであろうか。そこで、本日の聖書箇所のローマの信徒への手紙8章26~27節を見ると「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」とある。神・イエスの働きである聖霊が、人間の弱い言葉を神にふさわしい言葉に通訳し、神へと送ってくださるといえるであろう。その「霊自らが、言葉では表せないうめきをもって」という言葉を、どのように理解すべきなのであろうか。22節に、「被造物がうめき、生みの苦しみに味わっている」とある。被造物が人間の罪の巻き添えを食っているという理解がある。そして23節の「贖い」は、律法違反の罪の贖いではなく、それを越えた全人格的な贖いと理解できる。完全な救い、といえるであろう。被造物、わたしたち人間が救いを待ち望んでいるのを、神はご存じである。つまり、人間を含め被造物の苦難は、この世を創られた神の苦難であるといえるであろう。神こそ「言葉では表せないうめき」を知っておられる。そこで、被造物、人間の言葉にならない深い悲しみ、痛み、苦しみをも神は理解し、神の働きである聖霊が共にうめき、取り成してくださると受け取りたい。だからこそパウロは、聖霊抜きの祈りは不可能であるというのではないだろうか。
 わたしたちは、自分が祈っていると思っているのではないか。しかし、そうではなく神との会話である祈りは、聖霊によって導かれる出来事なのである。祈ろうという思いこそ、神の導きである。だからこそ、わたしたちの祈りは、神に聴かれているのである。特に顕著なのは、神の御前における礼拝の祈り、讃美の言葉である。
 26節にあるように、「聖霊が祈ることができるように内側から導いてくださっている」、「弱いわたしたちを助けてくださっている」のである。「弱い」とは、罪ある、すなわち神に背く、神の愛を忘れてしまうということである。そのような弱いわたしたちを、聖霊が共にうめき、助け、わたしたちの言葉を神に語りかけるにふさわしくしてくださる。祈る言葉を、聖霊が与えてくださるのである。だから、祈りに良し悪しなどない。神はわたしたち一人一人の言葉を、喜んで聴いてくださる。日々、祈りたいと思う。

祈祷  いつくしみ深い神様、あなたは、いつもわたしたちの心の戸口に立ち、祈ることを待ってくださっています。また、わたしたち、被造物のうめきを知り、共にうめき祈るべき言葉をお与えくださいます。そのように、神の子としてわたしたちをお招きくださいます。どうか、わたしたちのうめきを知り、祈る言葉を与えてくださいますように。特に、苦しみの中にある方々の声を聞き、お支え、お導きくださいますように。争いは、神の御心ではなく、最も弱い者こそが被害にあいます。どうか、まずその方々をお守りください。また、争うことをやめさせる力、勇気を指導者たちの心にお与えください。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。アーメン


2022/05/15 復活節第5主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ペトロの手紙(1) 2章 1~10節」 02:01だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 02:02生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 02:03あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 02:04この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 02:05あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 02:06聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 02:07従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、 02:08また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。 02:09しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 02:10あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神のものとなった民」  ペトロの手紙(1)が記された時代、この手紙を読むキリスト教徒は社会的に苦難を受けていた。そこでペトロは、苦しみの中にあっても神を信じ、イエスに倣い正しいことを行おうと述べている。イエスの受けた苦難を、共に負うという恵みとして受け入れようと教えているのである。また、正しいことを行っていれば、いつか人々も理解し、結果的にキリスト教は社会に浸透し、社会を変革してゆくことになるだろうという希望を、著者ペトロはキリスト者に示している。
 本日は、ペトロの手紙(1)の2章1節以下に心を傾けたいと思う。「石」という言葉が目に留まるのではなかろうか。パウロもローマ書9章33節で、イザヤ書を引用し「「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。(6節)」と記している。また、イエス自身も、マルコによる福音書の12章10節で、詩編を引用し「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。(7節)」と述べている。ペトロの手紙でも、同様に旧約聖書をその箇所引用している。そこでも「石」は両義的な意味を持っている。建築物において石は、土台などとして中心的な働きをなす。一方で、道にある石によって人はつまずいてしまうことがある。ユダヤ人たちはイエスを信じなかった。つまり、ユダヤ人にとってイエスは神へと導くものではなく、つまずきであった。
 しかし、シオン、エルサレムにおけるイエスの十字架を計画した方こそ神であり、そこに救いがある。またイエスは、罪人として処刑されたが、十字架が救いとなり、信仰、救いの礎になった。そのように苦難を受けたイエスが、信仰、救いの頭石になったのである。神は苦難を通して、救いへと導いてくださる。だから、イエスを信じる者も「生きた石」としてイエスに倣いなさいと、ペトロは述べているのである。ペトロ自身、イエスから「ペトロ」すなわち「岩」と名付けられた。ペトロはイエスに述べたように、イエスを信じる者たちを信頼し、「生きた石」になるよう呼び掛けていると言えるであろう。
 では、イエスに倣うとは、いかなることであろうか。10節にホセア書を引用し、この手紙を読む者たちや苦難にあっている者たちを、神は憐れんでくださると記している。「憐れむ」とは、相手の立場になって同情し、行動をすることである。つまり父なる神はその御子を、人と同じ肉をまとわせてイエスとしてこの世に与えたことによって、真の憐れみを示し、この神の御子イエスを受け入れることによって、同様にして神の子となり、「神の民」とされたのである。大変なことだが、神、イエスを信じる者こそ、イエス、神の憐れみに倣うべきであると言えるのではなかろうか。
 一方、そのように苦難にあっている者に「イエスに倣い歩みなさい」という言葉は、厳しいように思える。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です(9節)」。この言葉は、王の系統、しかも祭司という特別な権威をキリスト者には与えられるということであろうか。そこでは特別な権威ではなく、神がイエスを信じる者の側にいてくださるということを意味しているのである。選ばれた民、苦難にあっている者たちにとって、それは励ましの言葉となる。神が選び、神の民として守り導いてくださるといえるであろう。
 「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです(9節)」。神、イエスは、暗闇から光の中へと招き入れてくださった。暗闇、どのように歩むべきか分らない状況から、歩むべき道を光によって照らし、招いてくださったのである。つまり神は招いてくださる方であり、その招きに条件などはない。招くというのだから、一人ひとりをよしとし、肯定して下さってということに他ならないと思うのである。
 そこでもう一度9節を見ると、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と書かれている。それはイエスの存在を表す称号として用いられる言葉である。イエスは、王、祭司、預言者、聖なる方、神の子などと呼ばれた。神を信じる者も、祭司、聖なる者、神のもの、つまりイエスと同じ称号が与えられる。イエスと同じ存在として、神はわたしたちを招き、受け入れて下さるということである。「わたしたちもイエスと同じ神の子とされる」といっても過言ではないと思う。しかも「神のものとなった」。神を信じる者は、神のものとして大切にされ、愛されていると言っていいであろう。
 今回この聖句を読み、なぜ食事、パンでなく、「乳(2節)」なのかと思った。皆さんは、どのように思われるであろうか。赤ちゃんのように、まず求めなさいということであろう。そのような解釈があった。「初歩的な教え」である。わたしは、そのように理解した。この手紙を読む人々は、ユダヤ人ではなく、異邦人が多かったと考えられる。つまり、神、イエスに出会ったばかりの人たちである。または、初心、神に出会ったときのように救いを求めるべきだということか。同時に、赤ちゃんには乳が必要なように、神はいま必要な栄養をお与え下さるということなのではないかと思ったのである。神を信じる者たちを憐れみ、いま必要な恵みを神はお与えくださる。恵みを求めなさい。神は、わたしたちを憐れみ、いま必要な恵みをお与えくだる。そして、神の民として導いてくださる。現代のわたしたちに対しても同様である。神は、神の民としてわたしたちを招き、憐れんでくださっている。神の恵みを求め、イエスに倣い歩みたいと思う。そのことによってこそ、すばらしい世となるのである。

祈祷  憐れみ深い神様、あなたは、御子イエスに苦難を与え、十字架にけられました。それは、今もなおわたしたちの苦難を共に負って下さっているということです。どうか、苦難の中にある一人一人と共にありますように。そして、その場においてイエスに倣うことができますように。また、そのため、いま必要な恵みを与え下さい。イエスに倣い歩むことにより、この世に神の栄光を表すことができます。それは神の愛がこの世に満ちることであり、この世はきっとよき方向へと歩むことができるようになります。どうか、わたしたちをそのためにお用いください。特に、この世の指導者の心に愛を満たし、争いを止め、手を結び歩むことができますように。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げ致します。アーメン


2022/05/08 復活節第4主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネの手紙(1) 4章 13~21節」 04:13神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。 04:14わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。 04:15イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。 04:16わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 04:17こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 04:18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 04:19わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 04:20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 04:21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の戒め」  ゴールデンウィークは、祈祷会を休みにしていただいた。小学生3年生の息子が、東京の地下鉄メトロが大好きなので乗りに出かけた。つくばを8時頃に出て、5時40分に帰宅するまでの間、食事の1時間を除いてずっと路線を変えながら地下鉄に、ただ乗っていた。なぜ息子が地下鉄が、それもメトロが好きなのかは分からない。新幹線の方がかっこいいと感じるように思うが、息子は一番好きなのはメトロとのことである。それを本人も説明できない。神様が人間に与えてくださった賜物に、好き、好奇心、興味を持つということがあると思う。そこから学びが生まれる。賜物なのだから、好き、興味を持つことに理由などいらないと思う。小さな赤ちゃんを見たときに、ほとんどの人がかわいいと思う。そこに理由などいらない。かわいいと思える賜物を与えてくださった。神様は一人一人に様々な賜物をくださる。その創造の業は本当に素晴らしいと思う。ただ感謝するのみである。
 さて、日本においてキリスト教、キリスト者は、一般的に良いイメージを持たれていると思う。優しいとか、隣人を愛するなど。一方、全ての人を愛することなどできない。だからキリスト者になれないという意見を聞いたことがある。
 本日の聖書箇所のヨハネの手紙は、ヨハネによる福音書と同様に、愛という言葉が多く記されている。「神は愛です」。そのことから本日の箇所を好きな聖句としている方も多いと思う。13節に「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内に留まって下さることが分かります」とある。わたしたちの心というより、この世、そして、教会という共同体であると理解できる。それは、神から離れてしまうこの世的な中に、神が入ってくださるということであり、神の霊を通して神の愛、導きをわたしたちは知ることができる、気づくということに他ならないということである。それは、また、わたしたちの希望になる。
 15節に「イエスこそ神の子であると告白する者は、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまる」と記されている。「その人の内」とある。12、13節には「わたしたちの内」と複数形で記されている。だから教会等の共同体、この世の内と理解できる。一方、15、16節は、単数形、ある人の内に神がとどまってくださるという。そこでは、キリスト者、人間と神との相互内在性を述べている。これは、2章18節以下に記されていた「反キリスト」が教会内部を惑わしているという背景があると理解できる。そして、18節の「恐れ」とは、世の終わり終末の到来が背景にある。「世の終わりに神の裁きがある。また、惑わす者たちが現れる。しかし神を信じる者は、心の内に神がいてくださるので恐れることはない」というのである。
 16節に「神は愛です」とある。最初にキリスト教、キリスト者は一般に良いイメージを持たれていると述べた。神は愛であるから神を信じる者も愛なる人であるというイメージがあるのだろう。本当にそうであろうか。本日の箇所の最後にも「神を愛する人は兄妹を愛すべきです。これが神から受けた掟です」と記されている。神を信じるわたしたちは、その掟として「愛さなければ」ならないのであろうか。
 わたしは「掟」という言葉に躓きを感じる。「掟」には、行わなければならないというイメージがある。では、神は、愛することをわたしたちに強制しているだろうか。その言葉は「掟」のほかに「戒め、委託」と訳すことができる。「戒め」とは、罪を犯さないよう注意するという厳しい意味である。「委託」という言葉を聞くと、そこに信頼関係があるというイメージがある。神は、わたしたちを信頼し、愛しなさいと述べている。確かに信頼されていることは嬉しい。しかし愛さなければならないことには変わりない。そこで考えたい。「神は愛です」。つまり、愛の源は神である。その神が、わたしたちの内にいてくださる。その箇所を調べていると、「愛とは何か」との問いのこたえが「賜物」であるという解釈があった。愛される資格などない人間であるにもかかわらず、神はわたしたちを愛してくださっている。弱く、欠けのある人間を、ありのまま受け入れてくださっているのである。その愛ゆえに独り子をこの世にお遣わしになった。そして、神の前に立つことができるようにしてくださったのである。そのため独り子に苦難を負わせた。独り子イエスの苦しみ、痛みは神様自身の痛みである。痛みを負うほどこの世を愛してくださった。わたしたちは神にいやおうなしに愛されてしまっている存在なのである。それだけではなく愛を賜物として与えられてしまったのである。愛された者だからこそ愛することができる。「兄弟を愛する」の前提は、まず神によって愛され、愛がわたしたちの内に賜物として与えられているということなのである。先ほど、反キリストがヨハネの教会を惑わしていると述べた。それによって教会で分裂が起こりそうである。内部分裂こそが危険である。だからこそ「兄弟を愛しなさい」と記されている。この世、教会等共同体の内、それだけではなくわたしたちの心の内にも神がいてくださる。神に愛される資格もないわたしたちにも関わらず、神はわたしたちの内にいてくださる。わたしたちが愛するのではなく、愛する力を神がすでにわたしたちに与えてくださっているのである。争うこと、分裂することは神の意志ではない。なぜなら、神は愛だからである。愛こそ、和解する力、一つになる力なのではないだろうか。また、愛することによって神がわたしたちの内にいてくださることを実感することができる。わたしたちが愛するのではなく、愛なる神が共にいて、愛する力を与えてくださる。愛は神との共同作業であるといえるであろう。愛することから大きな力、働きが生まれる。神から愛という賜物を与えられていることを確信したいと思う。それほどに大きな支えは他にない。

祈祷  愛の源なる神様、神様は愛です。すべての愛は神様から出ています。わたしたち一人一人、神様から愛をいただいています。だからわたしたちは他の人を愛することができます。愛することは掟ではなく神様から頂いた賜物です。わたしたちは神様から愛されてしまっている存在です。そして、愛するということによって神様、イエスさまがわたしたちの内にいてくださることを気づくことができます。どうか、神様が与えてくださった最も大切な愛という賜物を用いることができますようにお導きください。そして、この世にも争いなど分裂ではなく、和解と一致が待たされますように。そのためわたしたちをお用いください。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この小さき祈り主の御名を通して御前にお献げいたします。アーメン


2022/05/01 復活節第3主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 10章 7~18節」 10:07イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 10:08わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 10:09わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10:10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 10:12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 10:13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 10:14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 10:15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 10:16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 10:17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 10:18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「私は良い羊飼い」  羊飼いに皆さんはどのようなイメージを持っておられるであろうか。のどかな牧草地で羊たちを見守っているほのぼのとした姿ではないだろうか。旧約聖書の詩編23編4節に「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」とある。羊飼いたちが持っている鞭と杖は、羊を強盗、また狼などの獣から守るための武器である。羊飼いは、羊の群れを毎朝牧場へ連れ出して草を食べさせ、水を与え、夕方には囲いに連れ帰るだけではなく、昼夜を分かたず、野獣や盗賊から群れを守っていた。それは危険が伴う仕事だったと考えられる。
 本日のヨハネによる福音書10章7節以下でイエスは「羊飼いである」と述べ、また羊を守るために命をも惜しまないとも述べている。羊のために命を捨てるというのは、当時の羊飼いとしては、ありうる出来事と考えられる。羊飼いたちが、夜に焚き火をし、羊の番をするとういうのも、獣から羊を守るために、寝ずに番をしていたのである。羊の持ち主に忠実であればあるほど命をかけて羊を守る。それは羊に対して責任を果たすということである。
 ヨハネによる福音書の10章7節でイエスは「わたしは羊の門である」と、そして11節では「わたしは良い羊飼いである」と自分のことを形容している。ヨハネによる福音書において特徴的なことの一つである。イエスは自分を証しするとき「わたしは……である」というふうに述べ、自分を定義する。その言葉の背後には、旧約聖書で神が自身を明らかにしたときの言葉があると考えられる。神は、出エジプト記やイザヤ書で、自身を明らかにするとき、「わたしは……である」といっている。イエスも神と同様の言い方で自身の存在を明らかにした。それは、わたしたち人間に対してイエスが、どのような存在であるかを宣言したといえる。
 宣言するとは、どのような意味があるのか。ひとつに自分がどのようなものであるかを明らかにしている。また、イエスがわたしたちに自分を開いているといえる。そして、宣言したということで考えられるのは、責任が伴うということである。現代では、選挙のときには、立候補者は公約を宣言する。「わたしが当選したあかつきには・・・を行います。だから、皆さん投票してください」と宣言する。それは、公に宣言しているのだから、責任が伴うということであり、ある意味では契約であるといえるのではないだろうか。ところが、人間は弱いもので、公約をあやふやにし、守らないことがある。しかし、神、また、その一人子イエスは異なる。わたしたちに宣言したことを必ず成し遂げてくださるのが神、その独り子イエスである。イエスが「わたしは……である」と宣言したということは、イエス、神の救いが成し遂げられるということを意味する。神は、人間を創った。そこには人間に対する責任が伴う。神は、その責任として人間を導く。また、神はアブラハムと契約を結んだ。神は、人間との救いの契約に自ら縛られたともいえよう。神の側から契約を破ることはない。神は導き手である救い主の到来を人間に約束した。神は、神の権能を与えイエスによって約束を果たした。いや、それは、現在形で今もなお行われているのである。
 イエスは、「わたしは良い羊飼いである」と宣言した。つまり、イエスこそ、神が遣わした人間を導く羊飼いであるということである。神の約束がイエスによって成し遂げられた。そして旧約聖書で、神が自身を明らかにした言葉と同じ言葉を用いてイエスは、自分こそ神が約束した救い主であると宣言しているのである。わたしたちにとって、これほど力強い宣言はない。
 イエスは「わたしは…である」と、自分自身を定義している。それは、ヨハネによる福音書において、様々な場面で見ることができる。イエスは、命のパンであり、世の光であり、羊の門であり、良い羊飼いであり、復活であり、道であり、真理であり、命であると証し、宣言している。
 なぜ、イエスは、そのように自分を明らかにしたのであろうか。「わたしは……である」というのは、偽者を前提としている。9節の「盗人」、12節の「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人」は、自分たちの思いによって神から離れている人々であると理解できる。「盗人」は、当時キリスト者を迫害していたユダヤ権力者たちであると考えられる。「自分の羊を持たない雇い人」とは様々な解釈があるが、私は誤った導きを行っているキリスト教指導者と受け取りたいと思う。つまり、門であるイエスをきちんと理解せず、自分たちの思いを中心に置いてしまった人々である。しかしこのわたしたちも、そのような過ちに陥ってしまうことがある。だからこそ大切なのは、イエスを通して神と向き合うことなのである。
 決してイエスは人間を置き去りにはしない。イエスの心にあるのは、いかに人間を正しい道に導くかということに他ならない。13節に、悪い羊飼いは「羊のことに心をかけていない」と記されている。逆に言えばイエスは、常にわたしたちに心をかけてくださっているのである。
 イエスこそ、わたしたち人間のために命をかけ、救いに導いてくださっている方である。わたしたちは、自分の命をも投げ捨て守ってくださるイエスを信じたい。イエスは、そのために自分を定義する言葉を用い、何をする者かを宣言してくださった。イエスこそ良き羊飼いなのである。イエスがわたしたちに心をかけ、自ら開かれたように、わたしたちもイエスに心を開き、善き羊飼いであるイエスの導きに従いたいと思う。

祈祷  ご在天の恵み深い神様、あなたは、人間と契約され、約束された救いを成就してくださり、今もなおわたしたちを救いに導いてくださっています。御子イエスは、ご自分を様々な言葉で言い表されました。あなたは、イエスとはどのような方であるか、救いに導いてくださる真の方とはいかなる方かをわたしたちに知らせるため導いてくださっています。わたしたちが、御子とわたしたちの関係をより深く考え、そして、その導きに気づくことが出来ますようお導きください。この世にあなたの愛が満たされますようにここに集うわたしたちをお強め用いくださいください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン


2022/04/24 復活節第2主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 20章 19~23節」 20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 20:22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「平和があるように」  19節にある「その日」とは、十字架につけられ死んだイエスが三日目に蘇りマグダラのマリアの前に現れた日のことである。それは日曜日の朝の出来事であった。弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、家の戸に鍵をかけていた。そのユダヤ人たちとはユダヤ教権力者たちで、イエスを迫害し十字架につけるよう扇動した者たちである。イエスの弟子たちは、イエスが迫害され十字架につけられたように自分たちも迫害されるのではないかとおびえ、不安を抱き隠れていたのである。彼らをわたしたちは批判できるであろうか。彼らに対し恐れずイエスの救いを述べ伝えるべきであるとわたしたちはいえるであろうか。弱いわたしはきっと弟子たちと同じことをするに違いないと思う。批判はできない。一方、彼らは最も偉大な力を忘れていた。つまり、鍵をかけていたというのは、この世の力に対しおびえ不安になってしまったということ、そして神とその独り子イエスの力を理解していなかったということである。彼らは、闇の中にいたといえるであろう。
 そこにイエスが入ってきた。イエスにとってこの世の鍵など何の効力もない。イエスは闇の中にある弟子たちのもとに来てくださった。それこそが、わたしたちにとっての希望である。そこにイエスを信じる共同体、すなわち教会とはいかなるものであるかがよく表れていると思う。教会に、わたしたちの真ん中にイエスはいつもいてくださるのである。同じようにイエスは、わたしたちの心の鍵を解き、心の真ん中に入ってくださるのである。イエスは「あなたがたに平和があるように」と述べた。そのことばは、イスラエルの日常の挨拶である。イエスは十字架で釘打たれた手、槍で刺されたわき腹を弟子たちに見せた。イエス自ら、十字架につけられたイエスであるとことを明らかにされた。弟子たちの心を理解し、自ら弟子たちの不安を取り除いてくださった。イエスこそ、わたしたち人間より先に声をかけ、自身を開いてくださるのである。そして、神の救いを述べ伝える責任を与え、息を吹きかけたのである。ヘブライ語で聖霊は、もともと「息」という意味を持っていた。宣教へと派遣するため、聖霊を弟子たちに注いだ。つまりそれが、ペンテコステの出来事である。そこで宣教の業として罪の赦しを弟子たちに委ねたのである。それはすばらしいことである。そのように言えるであろう。弟子たちにイエスの持つ罪の赦しの権能を与えた。逆に弟子たち、そして、イエスを信じる者は、隣人を赦すことができるのだとイエスがいってくださっている。そこにあるのは、無条件の信頼である。弟子たちは信頼されている。嬉しいと同時に重要な責任である。イエスは、鍵を閉めた弟子たちを決して叱ることなく、ありのまま受け入れてくださった。弟子たちは既に赦されていたのである。救いに与っていた。赦された者こそ赦すことができるのである。
 さて、本日わたしは、イエスが弟子たちに述べた「あなたがたに平和があるように」という言葉に注目したい。それはヘブライ語で「シャローム」である。確かに、古くからイスラエルの民が用いている挨拶である。一方、イエスはそこで二度もその言葉を述べている。ヨハネによる福音書で「シャローム」は、イエスと深いかかわりのある言葉なのである。弟子たちとの別れの告別説教といわれる箇所がある。14章27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」、16章33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。そこに平和、シャロームが用いられている。既に弟子たちはイエスから平和、つまり、支え、力を受けているといえるのではないだろうか。そしてイエスが弟子たちに、そしてわたしたちに対して与える平和は、一時的なはかないものではない。いついかなる時も与えられ、かつ、永遠にかかわるものなのである。イエスは、弟子たちに息、聖霊を吹きかけた。つまりイエスが世に勝っているように、弟子たちもイエスにより既に世に勝ち、心を騒がせることもおびえる心配もないと聖霊の働きを通して導かれている。イエスがいつも一緒にいてくださるということを示しているのである。聖霊とは目に見えないイエスの働きといってよいであろう。
 実は、当時の教会の人々も、ユダヤ教からの迫害を受けていた。だからそれらのイエスの言葉は、当時の教会の人々にとっては、たとえ迫害にあっても信仰をもって歩むための勇気づけ言葉だったのである。それはわたしたちにも与えられている。そしてそれは、闇から光へと導いてくださるイエスの導きでもある。創世記、天地創造で人が息吹を吹きかけられ生きる者となったように、闇から光に歩むことができる新たな創造、新たなる者としての歩みの力をイエスが弟子たちに与えてくださったということなのである。そして、弟子たちがイエスから罪の赦しの権能、述べ伝えられた福音、救いを現代のわたしたちも与えられている。つまり、わたしたちも復活のイエスに赦され、救いを述べ伝える力、新たなる者とされ闇から光へと歩むための息吹、祝福が与えられているということなのである。いまのわたしたちも様々な状況にある。喜びの救いを知らされ、ありのまま受け入れられた者として、その喜びを多くの人と分かり合いたいと思う。その喜びの救い、福音を多くの人と分かち合うことによってこそ、この世に真の平和が訪れるのである。

祈祷  愛なる神様、あなたは独り子をこの世にお遣わしになり、私たちの罪を赦し、不安、おびえ、重荷を共に負ってくださいます。それだけではなく闇から光へと希望の道を示し、新たなる者としての力をお与えくださっています。どうか、復活のイエスが、真ん中に立ち、全ての人と共にありお導きくださいますように。そして、この喜び、平安を多くの人と分かち合うことができますよう私たちを神の御用のためお用いください。また、世界では争いが起こっています。指導者に真の愛を示し、真の平安へと歩むことができますようお導きください。  地震がありました。不安の中にある方々をお支えください。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリスト御名を通して御前にお献げいたします。アーメン


2022/04/17 復活日(イースター)礼拝

聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(1) 15章 1~11節」 15:01兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 15:02どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 15:03最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 15:04葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 15:05ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 15:06次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 15:07次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 15:08そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 15:09わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 15:10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 15:11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「復活の証人」  コリントの信徒への手紙はパウロによって記された。パウロはユダヤ教の教えである律法を厳守するファリサイ派に属していた。キリスト教は律法をないがしろにすると考え、キリスト者を迫害していた。しかし復活のイエスがパウロに現れたことにより、パウロはイエスこそが唯一の神の子、救い主であると信じイエスの救いを宣教する者となった。
 1節に「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」とある。福音とは良き知らせであり、パウロにとって良き知らせである救いは、イエスの十字架と復活にあった。4節などから十字架と復活は、神によってなされた救いの業であること理解できる。
 では、イエスの復活は、本当の出来事なのか。3節以下が復活の証拠、根拠である。聖書とは旧約聖書のことである。そこでパウロが、どの箇所を示したのかは明確でなく、旧約聖書全体であるといえるであろう。また、3節はイザヤ書53章、4節はホセア書6章などからの引用と考えられる。十字架、復活の出来事は旧約聖書に預言され、イエスによって成し遂げられたとパウロはいう。5節以下に、復活のイエスと出会った人の名前が記されている。ケファとは、使徒ペトロのことである。復活のイエスは、ケファ、12弟子に現われ、その後500人以上の兄弟たちに同時に現われた。また、イエスの兄弟ヤコブ、全ての使徒にも現われたとある。そして8節、パウロは復活のイエスと出会ったと自分のことを付け加えている。「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現われた。」「月足らずで生まれた。」それらは西洋語諸訳の伝統としての日本語訳である。その言葉は「早産」あるいは「流産」と二つの説がある。ある学者は、「月足らずで生まれた」ではなく、流産、死産を支持し「生まれそこない」と訳している。それは現代では差別語だが、古代人のパウロには差別語という感覚はなかった。もちろん、神はすべての人を祝福し命を与えたので、生まれそこないなどいないのである。パウロは、ひどい言葉を用い自分を表した。つまり、パウロは自分を卑下し、罪人であると自覚していたということである。
 復活のイエスがパウロに現れ、パウロは本当の救いを知った。それはイエスの十字架による罪の赦しであった。律法を守らなければ救われない、律法を守るという自分の行為によって救われるという考えから離れ、パウロはありのままを受け入れてくださる神の恵みのみによって救われることを知った。つまりパウロは、復活のイエスによって変えられたのである。新たなる者とされたのである。
 10節に「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです」とある。パウロは、自分の力でイエスの救いを述べ伝えたのではなく、すべてが神の働き、恵みであると述べている。復活のイエスに出会ったパウロは、決して自分を誇らない者となったのである。
 コリントの教会の人々は、パウロを通して復活のイエスに出会い、救いに与り、新たなる者とされた。コリントの教会の人々もまた、神ではないものを神と信じていた。パウロの宣教により誤った道から引き出され、真の道へと導かれたのである。
 4節に「復活した」とある。これはキリストが復活した状態であるということを意味している。つまりそれは、過去の出来事が今も継続しているということである。復活のイエスは、今もパウロと共にあり、パウロに恵みを注ぎ、復活の証人として用いている。また、キリスト教徒を迫害していたという罪を、重荷を、十字架のイエスがパウロと共に負ってくださっている。それと同じようにわたしたちは、パウロを通して復活のイエスと出会い、復活のイエスによってありのまま受け入れられ、新たなる者とされ、そして、復活のイエスの証人として用いられているのである。
 パウロは以前、自分こそ律法を完全に守り、救われると確信していた。しかし、復活のイエスに出会ったことによって、その根底が崩された。律法を守るという自分の力によって救われるのではなく、神の恵みによって、イエスの十字架によってのみ救われるということを知らされた。自分は生まれそこないであると自覚したパウロだからこそ、神ではないものを信じ、誤った道を歩んでいる人々の心を理解し、真の道、神へと導くことができたのではないだろうか。キリスト者を迫害した者であるにもかかわらず、いや、そのような者であったからこそ神は、パウロを用いた。そこにあるのは神の大いなる愛、神の一方的な恵みに他ならない。なぜなら、パウロが欲したのではないから、復活のイエスがパウロに現れ、罪の赦しを知らしめたからである。わたしたちも自分の力ではなく、神の前で謙虚になりたいと思う。復活のイエス、神は、わたしたちに思いもよらない恵みを一方的に注いでくださる。神の恵みこそわたしたちを生かす力であり、救いである。イエスが復活したように、わたしたちも復活の恵みに与り新たな者として神の、イエスの恵みの証人として歩みたいと思う。

祈祷  いつくしみ深い神様、復活のイエスは、キリスト者を迫害していたパウロに現れました。そこにこそ神の一方的な恵があります。パウロは、自分の力ではなく、神の恵みによって救われると気づきました。わたしたちは、パウロを通して復活のイエスと出会い、罪赦され、新たなる者とされます。わたしたちもパウロのように復活のイエスの救いを多くの人と分かち会うことのできる者としてください。争いで悲しみの中にある方々を覚えます。特に子どもたちの上に主の豊かな恵みがありますように。指導者が横暴ではなく神に生かされている者として謙虚になりますように。また、新型コロナウィルスが収束しますように。主の復活の恵みがすべての人にありますようにお願いいたします。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリスト御名を通して御前にお献げいたします。アーメン


2022/04/10 棕櫚の主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 14章 32~42節」 14:32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 14:33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 14:34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 14:35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 14:36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 14:37それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 14:38誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 14:39更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 14:40再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 14:41イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 14:42立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「祈り」  本日は棕櫚の主日といい、イエスがエルサレムに入城し、十字架へと向かったことを覚える日である。マルコによる福音書の14章32節以下は、ゲッセマネの祈りと呼ばれる箇所である。その祈りの後すぐ、ユダの裏切りによってイエスは捕らえられた。イエスは病人を癒し悪霊を追い払うなどの奇跡を行って、人々からはユダヤの王となると期待されていた。そこでユダヤ教の権力者たちは嫉妬し、また自分たちの地位が脅かされていると思い、イエスを捕え、殺そうと計画したのである。それが十字架の出来事である。  最後の晩餐を終えたイエスは祈るために、ゲッセマネという場所のオリーブ山に弟子三人を連れて行った。そこでイエスはひどく恐れ、もだえ始めた。そして弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と語った。
 イエスは、これから起こる拷問と十字架という苦難を「無くしてください」と3回以上祈った。しかもイエスは弟子たちから離れ祈っていた。それは、静かに誰にも邪魔されずに神に語りかけ、神と一対一で向かい合った。わたしたちはそこから少しでも、イエスの苦しみを理解しようとすることができるのではかろうか。拷問、そして十字架という苦しみの中で死なねばならない、しかもそれが間近に迫っていた。苦しみを受け、死ぬときを知っていたという恐ろしさ。そのようなことが、わたしたちに耐えられるであろうか。
 そこにはイエスの弱さが記されている。拷問と死刑を前にした者の死に向かう姿であるともいえるであろう。人間は弱く、死に対して恐れと不安を感じる存在だと思う。神の子であるにもかかわらず、イエスは人間として死を受け入れなければならない。人間にとって絶対といえるのは、神は全知全能であるということと、わたしたちは死ぬべき存在であるということである。神の独り子であるイエスでさえ死に対して恐れを感じ、死を受け入れるため何度も祈っている。わたしは、ゲッセマネの祈りのイエスの姿をそのように受け取りたい。イエスは、わたしたちに弱い姿を見せることによって、苦難のときに何が大切なのかを示してくださっている。
 イエスは拷問と十字架に対して「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈った。御心、神の意思とは、イエスの死を指しているのであろうか。そうではないと私は思う。人間の死を神が求めるであろうか。イエスは、人間の罪をその身に負い十字架に掛けられた。神は、殉教をわたしたちに求めておられるのであろうか。そのようなことはない。神は、天地を創造し、一人ひとり人間に命の息吹を注いだ。命を与える神が、人の死を望むはずがあない。そこでの御心とは「人間を救いへと導くこと、愛に生きること」ではないだろうか。イエスの「御心に適うことが行われますように」との祈りは、「神の愛に従い生きる者としてください、わたしを神の御用のために用いてください」ということであると受け取りたい。イエスは、どのような状況にあろうとも神、その愛に従って生きた。神の愛に従い生きる者としてイエスは、弱さをわたしたちに見せてくださっているといえるのではなかろうか。イエスは、弟子たちに「死ぬばかりに悲しい」と弱音を吐き、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」と悩み祈った。そしてその場に、弟子たちを連れて行ったのである。それは、人間に弱さを隠さず見せてくださるためであると思うのである。「わたしは、神の独り子であるが、わたしイエスは人間として弱さを持っていて、拷問、十字架という苦難を恐れる存在なのだ」と、わたしたちに示してくださっていると受け取りたいのである。つまり、人間は弱い存在なのだと。まさにそのような重要なときに、弟子たちは寝てしまった。イエスは、寝ていた弟子たちに「心は燃えても、肉体は弱い」と語った。それは、イエスが弟子たちを叱ったということなのであろうか。弟子たちを励ましたのではないかと、わたしは思うのである。「人間は、弱い存在であるが、弱いことは悪くない、だから自分の弱さを知り、弱さを受け入れ生きていけばいいのだ」と。イエスご自身も自分の弱さを人間に示してくださった。そして、イエスがその弱さの中で行なったのが、神との会話、祈りだったのである。イエスは、ご自身の弱さを隠すことなく神に向かい、ありのままを述べた。そして神は、嘆きを受け入れてくださっていたのである。
 「人間は、決して強い存在ではない。だからこそ神に祈ること、語りかけることが許されているのだ。苦難、悩みに襲われるとき、いやどのような時も神に祈りなさい。それほどの支えは無い、神は祈りを通してわたしたちと共に居てくださるということを確信させてくださり、そして、力と支え、すなわち、前に歩くよう導いてくださるのだ。祈りによって神の意思、愛を知ることができる」と、このゲッセマネの祈りを通してイエスは教えてくださっているのではないだろうか。
 イエスは、十字架へと向かうその苦難の中で自らの弱さを隠すことなく、ありのままわたしたちに示してくださることによって、「わたしも弱さを持っているのだ」と、眠ってしまう弟子たち、そして、弱いわたしたちを受け入れてくださっているのではないだろうか。イエスは、わたしたち人間の弱さを受け入れてくださり、弱いからこそ神に祈ることの大切さ、いや、神に祈るという力を教えてくださっている。イエスは、その祈りを通して神への祈りに招いてくださっているのである。

祈祷  慈しみ深い神さま、御子イエス・キリストは、あなたの御心に従うため、祈りのときを持ちました。そこで人間としての弱さを見せています。人間は弱い者であるとわたしたちを受け入れると共に、祈りこそ人間を支える大切なものであると教えてくださっています。わたしたちは祈ること、あなたに語りかけることを許されていますことを感謝します。また、自分のことだけではなく他者のことを思い、祈ることのできる者とならしめてください。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。アーメン


2022/04/03 受難節第4主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 10章 32~34節」 10:32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 10:33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 10:34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「決断」  マルコによる福音書10章33節以下でイエスは、自分の苦難と復活を予言している。その苦難の予言は、三度目になる。イエスは自分が受ける苦難を知っていたのである。しかも、そこでは十字架のことは言っていないが、他の箇所で詳しく苦難の出来事を述べている。イエスはユダの裏切りによって、ユダヤ教の祭司長たちや律法学者たちに売り渡されることになる。ユダヤ教の権力者の祭司長、律法学者たちは、イエスが人々から王になると期待されていることをねたんでいたと考えることができる。そしてイエスは、当時ユダヤを支配していたローマから派遣されていたユダヤ総督に引き渡され、鞭打たれ、裁判の結果十字架にかけられた。
 弟子たちは、イエスの十字架の予言を既に聞いていた。イエスがなぜエルサレムに向かうのかを、少しでも弟子たちは理解しているべきだった。しかし32節で、イエスが先頭に立ちエルサレムへ向かおうとすると弟子たちは、驚いたというのである。そこに弟子たちの無理解が示されている。弟子たちにはイエスの行いがまったく理解できていなかったのである。
 一方、32節には「従う者は恐れた」と記されている。驚く弟子たちに対して、恐れ従う者たちがいたということである。そこでは敢えて驚く弟子と恐れ従う者を区別していると考えることができる。従う者たちは、イエスがエルサレムに向かうことが悪いことだと察知できたのかもしれない。というのは、エルサレムはユダヤ教の中心地であり律法学者や祭司たちの活動の中心地でもあった。それまでイエスを陥れようとエルサレムから律法学者、祭司たちがイエスの元に来た。今度は、逆にイエスがエルサレムに向かうというのだから、恐れたというのは当然のことと考えられる。推測にしかすぎないが、この恐れた者たちは女性であると考えることができる。イエスが十字架にかけられるその場にいたのは、弟子たちではなくイエスの母マリア、マグダラのマリアなど女性たちだった。そこでイエスがエルサレムに向かうことが恐ろしいこと苦難であることに気付いたにもかかわらず、イエスに従った者たちがいた。その人々は、どんなことがあろうともイエスに従うということを決断した人々であったといえるであろう。イエスに従うことこそが、神の思いに適うことであると考え、決断したといえるのではないだろうか。
 さて、32節の前半には「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」とある。イエスは、先頭に立って進んだのである。指導者として、人々を導くイエスが先頭に立つのは当たり前のことと思われるかもしれない。しかしここでは、あえて「先頭に立って」と記されていることに意味があると思う。イエスは、「エルサレムに行けば苦難に会う、そこには十字架の死刑という苦しみが待っている」ということを知っていた。それにもかかわらず、先頭に立って進んだ。そこにイエスの固い意志と決断が表されている。つまり、十字架という苦難を受けることが神の意志であり、イエスは神の意志に従う。神の求めていることが何か考え、知り、決断した。その背後にあるのは、十字架によって全ての人の罪を共に負うという神の愛の業である。イエスは、神の愛、思いを理解し、決断したのである。
 一方、「イエスが先頭に立って」ということにこそ意味があると思うのである。イエスは先頭に立ち、弟子たちをイエスの苦難の場に連れて行った。それは、イエスがこれから行うことを、弟子たちが理解できるよう導いている。それは、イエスと共に歩むことの意味を知るということ、そして、苦難を共に負うことの意味を知るということである。イエスは、十字架を通して人間の重荷、苦難を共に負ってくださった。イエスは弟子たちに、隣人の苦難を共に負うことの意味を伝えようとしていたのではないかと思うのである。つまり、イエスの愛の業の意味、それに倣うということである。
 わたしたちも、このイエスの決断に倣うべきだと思う。何が神の意志、何が神の思いなのか考え決断をする。決断することの一つに信仰を告白する、洗礼を受けるということが上げられると思う。もちろん神は、愛をわたしたちに注ぎ、導いてくださっている。同時に神は、人間に自由を与えてくださっている。人間には、神を信じない、神に背くという自由もある。そこで、神の愛を知っている者としてわたしたちは、どうするかの決断をするときがあるのではないだろうか。洗礼を受けるということだけではない。日々の生活の中で、何が神の思いなのか考え、決断すべきなのである。その決断の判断の基準こそ、イエスの愛の業なのである。わたしたちはイエスの愛に倣い、決断をしたい。
 最後に一つ加えさせていただきたい。神は、わたしたちが考え、決断したことを否定しない。それはわたしたちを信頼しているからである。もしそれが善い結果を生み出さなくても、神は叱りはしはないであろう。きっと、そのときわたしたちを受け入れてくださる。だから、わたしたちはまた前に歩むことが出来るのである。それこそが、神の愛であり、イエスの十字架の業こそ、誤りを犯してしまうわたしたちを受け入れ、新たに歩むよう導いてくださる出来事なのである。無理解であり、十字架を前に逃げ出した弟子たちも、その後、イエスの愛の業を述べ伝える決断をした。神、イエスは、失敗した弟子たちを受け入れ、歩む力を与えてくださる。わたしたちは、神、イエスに愛されている者として、神の思いは何かを常に考え、イエスに倣い決断する者となりたいと思う。

祈祷  愛なる神さま、御子イエス・キリストは、苦難が待ち受けていることを知っているのにも関わらず、決断しエルサレムに向かわれました。イエスが受ける苦難は、神の意思であり、人間を救いに導く神の業です。イエスこそ、神の意思に従い、愛の業を行われました。わたしたたちは、イエス、神の愛を理解できない時があります。しかし神の思いを考え、イエスに倣い決断することができますようお導きください。そして、もしわたしたちが失敗した時には、どうかあなたが受け入れ、再び歩む力を全ての人にお与えください。4月になり新しい歩みが始まりました。それぞれの歩みを祝してくださいますように。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。アーメン

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