主日礼拝メッセージ要旨

2020/01/19 降誕節第4主日礼拝

礼拝メッセージ:福島 純雄 牧師「天に上げられたイエス」  MP3再生(メッセージ要旨 掲載準備中)

聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 1章 1~11節」 01:01-2 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。 01:03イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 01:04そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 01:05ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」 01:06さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 01:07イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 01:08あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 01:09こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 01:10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 01:11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


2020/01/12 降誕節第3主日礼拝

礼拝メッセージ:福島 純雄 牧師「我は道なり真理なり生命なり」 1.6節「私は道であり、真理であり、命である」とある。とくに「私は道である」との言葉に心を向けてゆきたい。イエス様が「私は道である」という言葉に込めたのは、弟子たちに対して、また私たちに対して「あなたがたには道があるのだ」ということだと思う。弟子たちは、イエス様が「心を騒がせるな」と言った(1節)ことからわかるように、心を騒がせ不安だったのである。「道」ということで言えば、自分たちの前に、果たして進むべき道があるのか、ちゃんと進んでゆけるのかという不安で一杯だったのだと思う。
 13章から「最後の晩餐」と呼ばれる場面が始まる。イエス様は、ここで直接十字架の死について言及していない。しかし何かただならぬことがイエス様の身に起ころうとしていることを繰り返し語っている。13章33節では「私が行く所にあなたたちは来ることができない」と、また36節には、ペトロに「私の行く所に、あなたは今ついてくることはできない」と言ったことが書かれている。これを聞いてペト口は「あなたのためなら命を捨てます」と答えた。ペトロは、イエス様がはっきりと語らなくともイエス様についてゆこうとすれば命を捨てなければならないのだと直感的に感じることができたのであろう。ペトロは、「あなたのためなら命を捨てます。命を捨てることになってもあなたについてゆきます」と言った。しかしイエス様は繰り返し「そうはできない」と明言したのである。イエス様が行こうとしていたところは、弟子たちにもまた私たちにも、自分の力では、また「今は」、どうしてもついていけないところなのだと告げられているのである。
 このことに、弟子たちは十字架の出来事の後、はっきりと直面することになった。イエス様を十字架の上で失った後、自分たちはどのようにしてこれから進んでいったらよいのか全くわからない状態に置かれた。恐らくこれは、この福音書の書かれた西暦100年頃の時代も同じだったのだろうと想像できる。この福音書を書いたヨハネと黙示録を書いたヨハネが同一人物かどうかは定かではない。別人だとしても、同じ時代に同じ教会に属していた近しい人物であったことは確かだとされている。ヨハネによる黙示録が書かれたとき、この福音書の著者ヨハネはローマ皇帝のドミティアヌスによって捕らえられパトモス島に幽閉されていた。紀元95年頃のことである。それからその後200年にわたって続くローマ帝国あげてのクリスチャンへの迫害がはじまってゆくのだった。信徒たちは、心を騒がせざるを得なかったのである。「自分たちの前には道があるのだろうか、この難儀な時代をちゃんと歩んでゆける道があるのだろうか」と。

2.私は先日「もしも1年後、この世にいないとしたら」という本を買い求めて読んだ。その本の著者は、長くガンセンターの精神科医をしておられる。電車の車内広告で、この本の「『元気な自分でなければならない』という思い込みは苦しい」というある章のタイトルを見て、私はとても心を引かれた。この本に登場する人々は皆、本当に重い、余命数カ月と告げられた人々ばかりである。宣告を受けた時には当然、道を失う。もし道があるとしても、それは到底道とは言えない、ただただ急な坂をころがり落ちて、その途中には痛みや苦しみや悲しみばかりがあり、最後には死という谷底が待ち受けている・・・といった道である。私たちすべては必ず、このような道とは言えないような道を進んでゆかねばならない者である。そこを歩んでゆけるのか、果たして迷わずにちゃんと進んでゆけるのかと私たちは心を騒がせるのである。
 そのような弟子たちまた私たちに対して、イエス様は、まず告げるのである。「私がいる以上あなたがたには道があるのだ」と。「道がないなどということは決してないから安心しなさい」と。そしてこうも言うのであろう。「私があなたがたに指し示す道は、ただ死に向かってころげ落ちるような、ただ命を失う希望の無い道ではなく、命へと至る道なのだ。それがあなたがたに示す真理である。それが死に至る道についての真理なのだ」と。  私たちは今、幸いにして「道が見えない」「道がわからない」という境遇にはいないかもしれない。しかし、森や砂漠や大海原の中で全く道がわからず迷ってしまったならば、その時の不安や恐れはいかばかりであろうか。そのような境遇に、私たちはいつか置かれることになる。道を失った私たちに対して、「大丈夫だ。私が道を知っている。私が道案内をしてやろう。私がいる以上あなたがたに道がないなどということは決してない。そしてその道は、ただ苦しみや死に至るものではなく命へと至る道なのだ。幸いへと至る道なのだ。それこそが本当の道なのだ。嘘いつわりではなく真理の道なのだ」との言葉は、どれほど嬉しいものであろうか。
 「私は道である」と言ったイエス様の姿は、たとえばエベレストのような険しくまだ誰も登ったことのない山の登頂ルートを開拓しようとする人にたとえることができるように私は思う。命をかけて誰も登ったことのない断崖絶壁を登ってゆく。後に続く者のために岩にはハーケン(金属の杭)を打ち込み、それを手懸かり・足掛かりとして残してゆく。さらに必要ならば、そのハーケンにカラビナ(金属のリング)を取りつけ、ザイル(ロープ)を結び付けて、後続者がそれを使って登れるようにしてゆく。そのようにして頂上にたどりつき、そしてまた自分が開拓したルートを辿って後続者のもとに降りてゆき、今度は後続者と自分をザイルで結び付けて先頭に立って再び登頂を始めるのである。2節3節に語られているイエス様の姿とは、まさに十字架の道をたどって父の家へと登り、そのルートを開拓し、そしてまた戻ってきて私たちを先導する姿そのものである。

3.「私は道である」というイエス様の言葉から、さらに私が語りかけられるのは次のようなことである。「私は道である」との文章は「私『が』道である」とも訳すことができる。私の感じるニュアンスとしては、「私『は』道である」と言えば、私が他のものではなく「道である」という点に強調点が置かれていると感じる。しかし「私『が』道である」となると、「私」に強調点が置かれていると感じられるようになる。「私以外の誰も道ではない」というニュアンスである。イエス様が示して下さる道は、あくまでイエス様が指し示し開拓してくださる道なのであって、この世の誰かが勧め願うような道ではない。「もし断崖絶壁や砂漠や大海原のただ中に置かれて道を失わないようにしたいとするならば、私以外の誰の勧める道も通ってはならない。あなたがたが自分自身で望み考えるような道を行こうとしてはならない。もしそのようなことをすれば、あなたがたは必ず道を失うだろう。父の家には行けないだろう。」と、それが6節の最後で「私を通らなければだれも父のもとに行くことができない」という言葉の意味なのである。
 私たち誰もが進みたいと願う道は、重い病気になどならずに本当に平穏無事に人生をまっとうできる道である。しかし多くの人は、そのような道を行くことはできない。2人に1人はガンで死ぬし、6人に1人は認知症になるという。すべての者が自分の望まない断崖絶壁を登ってゆかねばならないのである。それが、私たちが神様の元にゆく上で辿らねばならない道なのである。それが真理なのである。ところが、断崖絶壁を前にしているのに、「これは私の望んでいた道とは違う。私はこんな道は行きたくない」と言ってしまえば、そこで道はなくなる。どこまでも「あなたの願う道」を行こうとすれば、どうしても道を失う。だからイエス様は「私を道としなさい」と言うのである。「あなたの思いや願いを道にしてはいけない」と言うのである。

4.それでは、イエス様が私たちに指し示して下さるところの「私の道」とは、どのような道なのであろうか。そのことは、2節3節に語られている。イエス様がここで言っているのは、イエス様の死が、父なる神様の家に弟子たちや私たちのための家を用意し、私たちをそこへと誘い導いてそこに一緒にいるようになるために不可欠な道だということである。それを突き詰めていえば、イエス様のためのことではないのである。イエス様が父の家にあって、そこで平安に過ごそうということでは全くない。そうではなく、ひたすら後に続く私たちのためなのである。本当にこれがイエス様の言う「道」の意味するところなのだと今回改めて感じさせられた。私たちが普通考える道というのは、自分が行きたいと願う道、自分のための道なのである。しかしイエス様が行く道は、イエス様自身のためのものではないのである。ただひたすら弟子たちや私たちのためのものなのである。それが、イエス様が十字架の死という断崖絶壁に開拓した道なのであり、私たちに指し示された道の根源的な姿なのである。
 イエス様は、確信をもって十字架への道を進んで行った。なぜイエス様は迷わなかったのか、十字架のただ中にもしっかりと進むべき道を見いだしていたのかと言えば、それが後に続く者のためだと知っていたからである。自分のための道を行こうとはしなかったからである。なぜか自分のための道を行こうとすると、それは失われる。しかしその歩みを、後に続く誰かのための手懸かり足掛かりにしようと思うと、なぜか道がはっきりとわかるのである。これこそが「道」というものにおける本当に不思議な真理なのである。
 だから私たちも、目の前に立ちはだかる断崖絶壁を、イエス様に助けられつつではあるが、これを登ることは、後に続く人々の道を作るためなのだと信じて登ってゆけばよいのである。私たちの周りには、厳しい病の中に道を見いだしていった人々が多くいるのである。自分のためということで言えば、残念ながら道はない。自分の命は失ってしまうしかない。しかしそこを行くことが、後に続く者のための道になる。後に続く者のためになると信じて進めば、そこにおのずと道ができる。イエス様が開拓して下さったその道が見えてくるのである。

5.どうしてイエス様は「我は道なり・命なり」ということに結び付けて「我は真理なり」と語たのか。それは、私たちが死という断崖絶壁を登ってゆくときには、そこにある真理を知ることが絶対に不可欠だからなのだと思う。死にゆく時に頼りになるのは真理なのである。そこに命に至る本当の道があるということだけが頼りになるからである。偽りの道や、あやふやな道では、頼りにはならない。
 死については、様々なことが言われる。ある人は死んだら何も残らないすべてが消えてなくなるのだと言う。しかしすべてがなくなるのだとすれば、死に至る断崖絶壁を登ることに何の意味があるであろうか。そのような苦しい歩みをすることに何の意義があろうか。イエス様が教えた真理とは、イエス様がそうであったように、私たちも死という断崖絶壁を登ってこそ父なる神様のもとへ行くのである。死の後にこそ、そのような歩みが続くのである。そしてイエス様が十字架の死という断崖絶壁を登った後に残されたハーケンやザイルは、しっかりと後に登る者への手懸かり足掛かりになる。
 死んで迷う存在があると言われている。恐らくそれも真理ではなかろうか。迷ったままでずっと存在し続けなければならないとすれば、それは本当に苦痛であろう。なぜ迷うのか。それは偽りに頼るからである。自分の道しか見えないからである。断崖絶壁を登ってゆかねばならないのに、それを避けるからである。そのような私たちには「我は道なり」と言って下さるイエス様が不可欠なのである。おのが道を捨ててイエス様の示す道へと進むことが不可欠なのである。

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 14章 1~14節」 14:01「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 14:02わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 14:03行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 14:04わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 14:05トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 14:06イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 14:07あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 14:08フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 14:09イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 14:10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 14:11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 14:12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 14:13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14:14わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


2020/01/05 降誕節第2主日礼拝

礼拝メッセージ:福島 純雄 牧師「サムソンとデリラ」 1.士師記には士師と呼ばれる人々が12人登場する。その中で、私たちが礼拝で触れることができたのはギデオンとサムソンの二人だけだった。そのサムソンについて、前回は13章前半の出生の様子を記した箇所を読んだ。今日は、サムソンの最期の様子を記した箇所である。
 いつごろであったか記憶は定かではない。私が小学生の頃にTVで、このサムソンの生涯を映画にしたものを観た。デリラにだまされた揚げ句にペリシテ人に捕らわれ、目をえぐられて鎖につながれて奴隷にされたサムソンが、最後の最後にその怪力を取り戻して宮殿を崩す様子は、今でも脳裏にくっきりと残っている。私の様子を見た母が、この物語は聖書の中に書かれているのだよと教えてくれたのを覚えている。後にも先にも私が母から聖書のことを聞かされたのはこの一度だけだった。
 子どもだった私が、サムソンの姿のどこに引き付けられたのか。それは極めて単純に、ペリシテ人にひどいことをされたサムソンが、最後に見事に復讐を果たすという、そのどんでん返しの筋に心躍らせたのかもしれない。昔からイスラエルの人々は、このサムソンの物語に、子どもの私がそうであったように心躍らせられ、豊かなインスピレーションを与えられてきたということであろう。それは一体どんなものだったのであろうか。
 昨年、私自身の心に強く残った言葉が「レジリエンス」という言葉である。5月頃に放送された高齢者向けの番組で、この言葉をはじめて耳にした。最近では、レジリエンスに関する本が多く出版され、講演やセミナーなども盛んだそうである。私の見たTV番組によれば、その言葉は回復力や復原力という意味で、人間が逆境の中に置かれてもそれに耐えて、または、はねのけて粘り強く生き延びてゆく力を意味するということであった。昨年末のラジオの特集でも、これからの時代社会を生き延びてゆく上で大切な柱になるものとして、ひとりのコメンテーターが、しきりにこのレジリエンスに言及していた。サムソンの姿こそ、このレジリエンスではないかと感じる。サムソンは最後には、ペリシテ人に復讐をとげ、自らも死んでしまった。しかしサムソンは、騙され、目をえぐられ、奴隷としてこき使われ、笑いものにされても失うことのなかった力、それこそがレジリエンスではなかろうか。

2.聖書には、士師であったサムソンの姿がありのままに記されている。サムソンの生涯を記した13章からの文章を閉じるにあたって16章31節は次のように記している。「彼は20年間、士師としてイスラエルを裁いた」と。彼は20年の長きにわたってイスラエル人の指導者としての役割を果たしたというのである。一体彼は、何をもってそのような働きをしたというのであろうか。
 私たちは、13章から書かれているサムソンの生涯の全てを見てきたのではない。しかし、とにかく書かれていることといえば、サムソンが次から次とペリシテ人に属する女性に一目ぼれをして、そのために、これでもかこれでもかとペリシテ人との間にトラブルが起きていったことである。最初に一目ぼれをしたのは、ペリシテに属するティムナというところの女性だった。その結婚をめぐってサムソンの両親との間や、ペリシテ人との間にトラブルが生じた。それが終わるとすぐに、懲りることもなく同じペリシテに属するガザという町にいた遊女に一目惚れをし、またトラブルが生じた。それでもなお性懲りもなく今度はデリラなのであった。そして最後には、自らの身の上にとんでもない災難を招いた。
 デリラがどのような素性の女性だったかが、16章4節以降に書かれている。彼女は、金に目がくらんでサムソンを同族のペリシテ人に売ろうとすした。デリラは3度もサムソンからその怪力の秘密を聞き出そうとしたがうまくゆかなかった。とうとう4度目に、まんまと秘密を聞き出すことに成功した。サムソンの愚かさにはあきれるほどである。どんな魂胆で彼の秘密を聞き出そうとしていたのか普通の男なら、すぐに気が付くのではなかろうか。それなのに情にほだされて、「来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐え切れず死にそうになり」と16節にある。愚かさも極まって、とうとう怪力の秘密を打ち明けてしまい、まんまとぺリシテ人に捕まって目をえぐられ奴隷にされてしまったのである。
 一体このようなサムソンのどこが「士師」なのか。どこに指導者たるにふさわしい姿があったのか。師記に関しての注解書や解説書は、私の手元にはわずか1・2冊位しかないが、サムソンが女性にだらしなかった点に触れられており、それは指導者としてはふさわしくなかったありさまだと書かれている。そして彼は悔い改めたので、怪力を取り戻したのだと説明されている。しかし、士師記の記述には、どうもそのような意図とは違うものを私は感じてならない。むしろサムソンのそのような、まことに醜く愚かな姿もまた、士師として神様から用いられたところのなくてはならないものだと語っているのではないかと教えられるのである。愚かなところもまた、神様によって用いられたと身をもって指し示すことにおいて、サムソンは士師だったのではなかろうか。
 注目させられたのは14章4節、最初にサムソンは、彼が一目ぼれをしたティムナの女性について、彼の父母にペリシテ人の娘と結婚させて欲しいと頼んだ。父母は反対した。ところがこの両親の反応について14章4節にはこうある。「父母にはこれが主のご計画であり、主がペリシテ人に手懸かりを求めておられることがわからなかった」と。驚くことに、サムソンがこれほど愚かに次々とペリシテ人の女性に一目ぼれをしていったのは、それによって当時イスラエル人を支配していたペリシテ人とサムソンがかかわりを持つようになるための神様の計画だったと聖書は語っているのである。それによって、いろいろなトラブルが起きたが、サムソンがその怪力をふるって、結果的にはイスラエル人をペリシテ人から守る働きをしたのである。それが神様の計画だったというのである。だとすれば、彼がデリラに騙され、ペリシテ人に捕らわれ、目をえぐられて奴隷にされたこともまた、神様の御心だったと言えるのではなかろうか。

3.ダニエルが読み解き、解釈した不思議な言葉に「メネ・メネ・テケ・ウパルシン」という文字があった。それを通して私は、数えられないもの・測られないもの・分けられないものこそが私たちの生きる依り所だと教えられた。イスラエル人をペリシテ人から守る指導者としての働きをしたサムソン、つまりはイスラエル人にとっての依り所となる使命を神様から託されたサムソンにとっては、その女性への惚れっぽさや愚かさ、また粗暴さも、彼が士師としての尊い働きをすることと分けることができないのだと思うのである。すぐに私たちは信仰者のありかたとしてサムソンの女性への態度は愚かでありふさわしくないと断じる。これをゴミであるかのように分別して捨てようとする。彼の父母もそうだった。ペリシテ人の女性を妻にしたいと願った息子の思いを、イスラエル人としてはふさわしくないものとして捨てさせようとした。しかし神様の計画は、そうではなかったのである。
 28節にはサムソンの最後の祈りとして、「ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせて下さい」という言葉が記されている。最後の最後までサムソンという士師を突き動かしてきたのは復讐心だったことがよくわかる。30節には、サムソンがその死をもって、殺した者は生きている間に殺した者よりも多かったとあり、彼の士師としての働きが専ら復讐心からペリシテ人を殺すことにあったのだとわかる。このようなことは到底、神様の指導者として選ばれた者を動かす原動力やその働きとしてはふさわしくないのではないかと誰もが思うであろう。しかし、サムソンについては復讐心もまた彼を士師としてその務めを果たさせるために、とりわけても騙され目をえぐられて奴隷にされてもなおその役割を果たさせるためには、復讐心は欠かすことのできないものだったのではなかろうか。サムソンのレジリエンスにおいては、実はその女性に対する惚れっぽさも愚かさも、そして復讐心さえも、なくてはならないものだったと示されるのである。私たちの心に、ごく自然に生じてくる思い、時には本当に愚かな歩みもまた、神様が私たちを用いられる上で必要なものなのである。私たちがレジリエンスを発揮する上では、愚かさも復讐心のようなものさえも必要なことがあるということである

4.もうひとつ、サムソンの物語全体を通して貫かれているモチーフに、髪の毛を切る切らないということがあった。デリラへの愚かな情に動かされて怪力の秘密を打ち明けてしまい、髪の毛を切られて、サムソンの怪力は失われてしまった。目をえぐられ、鎖の足かせをはめられ、来る日も来る日も牢屋で粉引きをさせられていた。ところがである。このような日々の中でも、22節にあるように、切られた髪の毛はいつの間にか伸びはじめていた。サムソン自身も、ペリシテ人も全く気が付かない内に失われた力が回復していったのである。私は何かそこに、私たちに秘められたレジリエンスの回復力のようなものを感じないわけにはゆかない。
 そもそもサムソンに与えられた怪力の源とは、17節に「母の胎内にいたときから神にささげられ」たことにあるのだと思う。私たちにはサムソンのような怪力はないが、私たちにとっても神様に捧げられた存在であるということは、実はものすごい力をもたらすものだと思うのである。母の胎内にあるときからというのだから、それは先天的なものであって、後天的に私たちが社会や人間関係の中で何をしたからとか、どういう人間だからということに全く左右されない。私たちは、周囲の人や社会からどのように見下げられても、自分は神様の宝なのだと思えることで、いわゆる自尊感情を失うことがないのである。それが私たちにとっての大きな力なのである。
 サムソンがデリラに髪の毛の秘密をもらしたというのは、突き詰めれば神様の宝物であるという先天的な価値を、後天的な人間関係の中でないがしろにし、売り渡してしまったということを意味しているのではなかろうか。親子関係や愛する人々との関係においてこそ、私たちと神様との間柄の中で持っている宝を見えなくさせたり捨てさせてしまったりすることがあるのではなかろうか。サムソンとデリラの出来事は、そのようなことの現れのように感じる。サムソンは、生まれる前から与えられていた宝をデリラに渡ししてしまったがゆえに、その結果として怪力を喪失したのである。
 しかしそれは、完全に失われたわけではなかった。後天的などんな間柄も、生まれる前から神様に与えられた力を奪い尽くすことはできない。一時的にその力を失わせるにすぎない。この世の関係や出来事によって一時的に覆われるにすぎないのである。それが「髪の毛はまた伸び始めていた」という言葉に現れていると思う。本当に象徴的で意味深い言葉だと思う。ペリシテ人の力もデリラのよこしまな情もあらゆる後天的な力も、サムソンの髪の毛が伸びてゆくのを阻止することはできなかったのである。髪の毛は死んだ後でさえ伸びると聞いたことがある。髪の毛が伸びるとは本当にささいなことである。何ら私たちにとっては意味を持たない日常的なことのように思う。しかしそれが切られ、また伸びてゆくということこそが、サムソンのレジリエンスにとって決定的な意味を持っていたのである。私たちが、サムソンのような境遇に置かれたとしても、髪の毛は伸びてゆくのである。そこにはレジリエンスがある。

聖書:新共同訳聖書「士師記 16章 15~31節」 16:15デリラは彼に言った。「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどと言えるのですか。もう三回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった。」 16:16来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、 16:17ついに心の中を一切打ち明けた。「わたしは母の胎内にいたときからナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並の人間のようになってしまう。」 16:18デリラは、彼が心の中を一切打ち明けたことを見て取り、ペリシテ人の領主たちに使いをやり、「上って来てください。今度こそ、彼は心の中を一切打ち明けました」と言わせた。ペリシテ人の領主たちは銀を携えて彼女のところに来た。 16:19彼女は膝を枕にサムソンを眠らせ、人を呼んで、彼の髪の毛七房をそらせた。彼女はこうして彼を抑え始め、彼の力は抜けた。 16:20彼女が、「サムソン、ペリシテ人があなたに」と言うと、サムソンは眠りから覚め、「いつものように出て行って暴れて来る」と言ったが、主が彼を離れられたことには気づいていなかった。 16:21ペリシテ人は彼を捕らえ、目をえぐり出してガザに連れて下り、青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせた。 16:22しかし、彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた。 16:23ペリシテ人の領主たちは集まって、彼らの神ダゴンに盛大ないけにえをささげ、喜び祝って言った。「我々の神は敵サムソンを/我々の手に渡してくださった。」 16:24その民もまたサムソンを見て、彼らの神をたたえて言った。「わが国を荒らし、数多くの同胞を殺した敵を/我々の神は、我々の手に渡してくださった。」 16:25彼らは上機嫌になり、「サムソンを呼べ。見せ物にして楽しもう」と言い出した。こうしてサムソンは牢屋から呼び出され、笑いものにされた。柱の間に立たされたとき、 16:26サムソンは彼の手をつかんでいた若者に、「わたしを引いて、この建物を支えている柱に触らせてくれ。寄りかかりたい」と頼んだ。 16:27建物の中は男女でいっぱいであり、ペリシテの領主たちも皆、これに加わっていた。屋上にも三千人もの男女がいて、見せ物にされたサムソンを見ていた。 16:28サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」 16:29それからサムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探りあて、一方に右手を、他方に左手をつけて柱にもたれかかった。 16:30そこでサムソンは、「わたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい」と言って、力を込めて押した。建物は領主たちだけでなく、そこにいたすべての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった。 16:31彼の兄弟たち、家族の者たちが皆、下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルの間にある父マノアの墓に運び、そこに葬った。彼は二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。


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