聖書:新共同訳聖書「詩編 34編 1~11節」
聖書朗読
34:01【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】/34:02どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。/34:03わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。/34:04わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。/34:05わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。/34:06主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。/34:07この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。/34:08主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。/34:09味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。/34:10主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。/34:11若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「寄り添ってくださる」
音声配信
(要旨掲載 準備中)
祈祷
(祈祷掲載 準備中)
聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 15章 11~17節」
聖書朗読
15:11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 15:12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 15:13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 15:14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15:15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 15:16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 15:17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「喜びが満たされる」
(要旨掲載 準備中)
祈祷
(祈祷掲載 準備中)
聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 1章 18~20節」
聖書朗読
01:18論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。/01:19お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。/01:20かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「共にある交わり」
40年ほど前、「パウロへの新しい視点(New perspective on Paul)」という神学の流れが、英米から出てきた。もちろん、その考えは、今までの新約聖書の研究の積み重ねから出てきたものである。その考えの重要な位置にいた学者の本から、私は聖書の読み方に多大な影響を与えられた。新約聖書の学問だが、パウロの時代のユダヤ教を問い直し、ユダヤ教の再評価を行うことにより、パウロに対する新しい視点が見だされたのである。
そこで重要なのが、キリスト教はユダヤ教をどのように理解していたのかということである。皆さんはユダヤ教を、あるいは旧約聖書をどのように理解しておられるであろうか。「旧約聖書は怖い。なぜなら神の裁きが記されているからだ。そこでは、神から与えられた律法を守らなければならない。律法は掟であり、掟を守ることができなければ神に裁かれ、律法を厳しく守っていれば神の救いに与る。」といたtイメージがあるのではないだろうか。すなわち、律法を守ることによって救われる。そこで旧約聖書は、人間の行為が重要になっているという理解である。一方、キリスト教は神から恵みが注がれると理解する。ユダヤ教は自力救済であり、キリスト教は恵みの宗教である。正直に言って、それがそれまでのキリスト教から見るユダヤ教への理解であったといえるであろう。その理解の仕方を再評価しているのである。
律法とは何か。「パウロへの新しい視点」の代表的な理解では、ユダヤ教も恵みの宗教であると考える。そして、人は神の一方的な選びの恵みによって神との契約に招かれ、契約を結んだ者として、それに相応しい行いをすることが期待される。しかし、人間は弱く罪を犯してしまうことがある。そこで罪の赦しの手段を神は与えてくださった。人は罪を犯しても、悔い改めと神殿での祭儀により、罪が赦されて契約に留まることができる。神との関係はこのように継続される。そこで「律法の行いは救いを勝ち取るためでなく、契約に留まるためのものである」というのである。契約に留まるとは、神との関係が継続するということである。それが「パウロへの新しい視点」で最も重要な本に記されている。罪を犯しても、赦しの手段を神は与えてくださる。確かに、年に一度の赦しの祭儀が、律法で規定されている。それは重要なことである。私は旧約聖書を読み、面白いと思ったことがある。神は神に背く者を裁くが、抜け道を用意して下さり、必ず助けてくださると旧約聖書を理解した。神が抜け道を、必ず救いの道を与えてくださるという私の理解を、「パウロへの新しい視点」の考えにも支持されたように思った。
さて本日は、イザヤ書1章18節からである。1節から見てゆきたい。1節には、イザヤがエルサレム神殿でこれを読み上げたとある。そこで2節以下は、イザヤが預かった神の言葉になろう。神はイスラエルの民を育てたが、しかし、背いた。そこで、異国の民によって町々は焼き払われ、イスラエルの地は荒廃した。そして、娘シオンつまりエルサレムが残った。逆に他の町々は滅ぼされたということである。イザヤが活動した南ユダは、アッシリアによって荒廃したことが示されているといえる。紀元前8世紀、アッシリアは、イスラエルにも勢力を伸ばした。イスラエルは、既に南ユダと北イスラエルに分裂していた。北イスラエルは、シリアと同盟を組みアッシリアに抵抗した。そこで北イスラエルは南ユダに同盟を申し入れた。しかし、南ユダは拒んだ。その結果、北イスラエルとシリアの同盟が南ユダを攻めた。南ユダは、アッシリアに助けを求めた。南ユダは助かったが、そのことにより南ユダはアッシリアの属国になったといえるであろう。アッシリアはエルサレム神殿にアッシリアの神の像を置くということもした。その後、南ユダはアッシリアと戦い、敗北寸前にまで至ったが、エルサレムは奇跡的に助かった。それが2~9節の背景であると考えられる。実は、2~9節は、イザヤの活動の後半の出来事が最初に記されていると理解できる。実際、イザヤが預言者となる記事は、6章に記されてる。つまりイザヤ書の最初は、後の南ユダの悲劇的な状況が記されていると考えられる。
10~17節を見よう。そこはユダヤ教祭儀に対する批判である。この箇所は、時代が戻り、イザヤが預言者になった頃のことではないかと考えられる。ウジヤ王の治世は、神に従順で栄えていた。しかし、それが災いしたのである。イザヤはウジヤが死んだ年に、預言者になった。まだ繁栄の名残があった。繁栄によって富を持つ者が傲慢になったのではないかと考えられる。倫理的、社会的な不正をしながら捧げものをした。具体的にはわからない。もしかしたら、弱者を犠牲にして富を得た。あるいは犠牲を救いの手段としてしまった。救われるために犠牲を捧げた。大切なのは罪を思い、神に心から悔い改めることである。神の愛を信じ、罪を思い悔い改め、心から赦しを願うことこそが大切なのである。一方、犠牲が赦しの手段になり、悔い改めの心がない。神は、捧げものを求めているのではなく、内面を見ておられるということである。
神に頼むのではなく、同盟を大国と結び平和を得ようとした。この世的な考えである。また、犠牲を赦しの手段とした。心からの悔い改めはなく、偽善として捧げものをした。それらを神は、イザヤを通して警告していたのである。では、その箇所に救いはないのか。
そこで18節を見よう。「論じ合おうではないか、と主は言われます」とある。失礼かもしれないが、とても面白いと思う。神が、私たちに話し合おうと述べてくださっている。緋は、明るく濃い紅色であっても白くなることができると神は教えてくださっている。また、神に従うことによって大地が実る、救われる。逆にかたくなに背くなら、剣によって、神は異邦の民を用い、神の民を荒廃させるというのである。
9節を見よう。10節にもあるが、ソドムとゴモラとの記載がある。ソドムとゴモラは、神に背くということを象徴的に示している。創世記18章でソドムとゴモラの罪がひどいので、神は滅ぼすと述べた。するとアブラハムは、神と駆け引きをして、10人ソドムに正しい人がいれば滅ぼすことはやめてくれるようにとの約束ができた。神は滅びを望むのではない。しかし、正しい者はいなかったので、ソドムは滅ぼされた。そこで9節を見ると「わずかでも生存者を残されなかったなら」とある。神はわずかではあるが生存者を残したのだと理解できると思う。そこに、わずかだが、神の恵みがある。それは、18節以下でも見ることができると思う。神は、「論じ合おうではないか」と、神から救いの手を差し伸べてくださっている。悔い改めへと導いてくださっている。それだけではない。明るく濃い紅色であっても白くなることができると述べておられる。つまり神は、どのような重い罪さえも赦してくださる力を持っている。人間のいかなる罪、神への背きも、神は赦してくださるのだと述べているのである。人間のどんな罪よりも、神の愛は大きいといえるであろう。
私たち人間は弱く、そのため神に背いてしまうことがある。だから、律法には年に一度の赦しの儀式がある。それは神の愛を示しているといえるであろう。また、神は「論じ合おうではないか」と救いの御手を差し伸べてくださるのである。その最も大いなる愛の業こそが、独子イエスをこの世に遣わされた出来事である。神は独子の命を用い、人間を救いへと導きくださったのである。神の愛は人間の罪より大きい。私たちは神の愛を理解し、ただ感謝したいと思う。神は、話し合おうと私たちに救いの手を差し伸べてくださっている。悔い改めへの逃げ道を必ず与えてくださるのである。神の愛、恵みは私たちの想像を絶するほど大きいものであることに気づきたいと思う。
祈祷 愛なる神様 私たち人間は弱く、神に背いてしまうものです。神はまずイスラエルを選び律法を与えられました。そこには赦しの祭儀が規定されています。今日の箇所でも神は、神に背くイスラエルに警告を与えながら、「話し合おう」と救いの道を教え、お導きくださいます。神の愛は、人間の罪より力があり、また、私たちの想像を超えるほど大きいものです。神は、必ず私たちに救いの道を示してくださいます。その最も大いなる出来事こそ独子イエスをこの世に遣わされたことです。どうか私たちが神の大いなる愛に気づくことができますように。また、大いなる愛によって見守られ導かれている喜びを、多くの人と分かち合うことができますようお導きください。争いで被害にあうのは弱者、特に子どもたちです。どうか争いではなく、こどもたちに希望の持てる素晴らしい未来を与えることができますよう指導者、一人一人の賜物をお用いください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。先週、筑波学園教会の定期総会が行われ、新しい歩みとなりました。どうか選ばれた執事を教会に集う方々が支えながら交わり、良き宣教の業を行うことができますようお導きください。ゴールデンウィークになっています。良き安らぎの時になりますように。また、安全に過ごすことができますようお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ローマの信徒への手紙 12章 9~15節」
聖書朗読
12:09愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 12:10兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 12:11怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 12:12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 12:13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 12:14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 12:15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「共にある交わり」
本日は、ローマの信徒への手紙の12章9節以下に心を傾けたいと思う。9節に「愛には偽りがあってはなりません」とある。とても面白い理解があった。逆説的に受け取り、パウロは、人間たちが「愛」とよんでいるものがいかに偽善であるかを、よく知っていたというのである。つまり、人間の愛と神の愛は異なる。異なるということを把握することが大切であると、私は理解した。だからこそ、「悪を憎み、善から離れず」にいることが大切であるといえるであろう。そこで「善から離れず」ではなく、1955年に最終改定された口語訳「善には親しみ結び」という方が優しく、受け取りやすいように思う。1987年の新共同訳を2018年に改定した聖書協会共同訳も「親しみ」と訳している。善に親しむ姿勢を、私たちは持つべきではないだろうか。神との関係も同様なのかもしれない。
10節には「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とある。能力、賜物は人によって異なる。だからといって、優れて価値のある特別な人間がいるわけではない。いや、全ての存在が優れて価値がある。その証拠がイエスの死である。イエスにとって全ての存在、全ての人間が等しく大切である。一人一人が特別であるから自らの命をもって私たちを救ってくださった。イエスは今もなお、私たちの重荷を十字架で共に負ってくださっているのである。私たちは、どのような苦難に置かれても、一人ではない。イエスが共にいてくださるのである。人間は神に愛されるに値する存在である。神が御自分の独り子を死に渡すほどにも、存在する価値がある。私たち一人一人が神に愛され、神にあなたは必要な存在だといわれているのである。
そこで、後半の「優れた者としなさい」を見よう。その言葉の元の意味は「先に立って導く」「道案内する」である。つまり「尊敬を持って互いを導き」という意味に解することができる。自分一人が指導者であると威張るべきではないと受け取れるのかもしれない。手紙の著者パウロは、「相手を自分より前にし」という趣旨で記していると考えられるので、相手をたてる、優れた者とすると訳すことができる。そこで、互いを指導者とする、互いに導く、つまり、神の前において、人間は優劣、高い低いなどない。互いに人格を認めあい、それぞれ持っている賜物を用い、導きあうことが大切なのだと受け取ることができると私は思う。だからこそ、「兄弟愛をもって互いに愛」する。神が一人一人を受け入れてくださっている。だから、私たちも互いに相手を優れた者と受け入れあうべきであるといえるのではないだろうか。
11節に「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」ある。信仰的な姿勢といえよう。燃え尽きてしまってはいけない。神の霊を受け、絶えず燃え続けることが大切である。12節に「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」とある。この「希望」については、終末論的な意味を考えるべきだと思う。パウロは、「神の国の到来は近い」と教えていた。神の国は、世の終わり、終末である。その時、イエスを信じる者は迫害に会うと理解していたのである。キリスト教の初期、原始キリスト教は、ユダヤ教から迫害を受けていた。パウロは、ユダヤ教の律法を堅く守るファリサイ派に属していた。そこでパウロは、イエスが律法をないがしろにしたと理解し、キリスト者を迫害した。しかし、復活のイエスに会い、パウロはイエスこそ唯一の神がこの世に遣わした神の独り子だと気づいたのである。迫害する立場から迫害される立場になったのである。
イエスを救い主と信じる者は、神の国に招かれる。だから、苦難の中でも神を信じ、希望をもって歩むことができる。そこで大切なことは祈りである。祈りは神との対話である。イエスは、神をアッバ、すなわちお父ちゃんと呼び、私たちにも「アッバ父よ」と呼びかけることを赦してくださった。私たちは、親しい関係で神に語り掛けることが、祈ることができるようになった。すなわち、私たちは神の子とされたのである。そこで祈りを通して、私たちは神から力を与えられる。大切なのは、神の子とされたから神に親しく祈ることができるということである。
さて、人間の愛は偽善、利己的かもしれない。一方、神こそが真の愛なる方である。愛とは自分の欲求を満たすことではない。愛は見返りを求めない。無条件に相手を受け入れることだと思う。そこで13と14節には「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」とあり、そして「聖なるものたち」はキリスト者のことだといえるであろう。貧しい者を助け、旅人をもてなすよう努めなさい。それだけではなく、「迫害する者のために祝福を祈りなさい」というのである。それはイエスが述べている。マタイによる福音書5章44節に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とある。そこには究極的な愛が示されていると思う。イエスは十字架上で述べた。ルカによる福音書23章34節に「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」とある。苦難を受けながらも敵を赦す、イエスの姿がそこにある。そこから、祈りについて分かることがある。それは、自分の事だけではなく、隣人の救いを神に願うことができるということである。祈りは愛の業であるとも、私は思う。
そして、15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とある。イエスが行った業、隣人と共に歩んだことを思い起こす。イエスこそ、弱い立場、困っている人のもとに行った。そして十字架の出来事こそ、私たちの重荷を今も共に負ってくださっている救いの業である。つまり、泣く者と共にある出来事であるといってよいであろう。今もなお、イエスは私たちと共にいてくださっているのである。
人間の愛は神の愛とは異なるかもしれない。しかし、イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えてくださった。つまり、私たちを信頼し、私たちに希望を託しているのである。イエスは、私たちに何かができるからではなく、何も根拠もなく信頼して下さっているのである。もし根拠があるなら、神、イエスが私たちを愛してくださっていること、そして、私たちを子どもとして迎えてくだり、神が私たちに愛という賜物を与えてくださっていることである。私たちは、一人一人神から愛という賜物が無条件に与えられたのである。人間の愛は利己的なものかもしれない。しかし、私たちは他者の喜びを自分の喜びとすることができる。そして、他者のために祈ることができる。だからこそ、パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と示したのではなかろうか。利己的な愛が真の愛に近づくのである。互いに優れたものとして受け入れ合う。そして、他者と喜び、悲しみを分かち合うことができる愛を、神が私たち一人一人に与えてくださった。愛し合うことができると、イエスは私たちを信頼してくださっているのである。
本日はこの礼拝の後に、一年の歩みを反省し、そして、新しい一年の歩みを決める教会総会が行われる。今年度の主題聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」である。教会に集う者こそ、神に愛され、赦され、信頼されていることに気づいた者である。神、イエスを中心とする交わりこそ、「共に喜び、共に泣く」ことを可能とする。なぜなら、イエスが共におられるからである。そして、神、イエスが共におられる集まりこそ、礼拝である。礼拝を通してこそ、神から愛という賜物が豊かに与えられる。私たちはイエスに倣い、共に喜び、共に泣く親しい仲間として互いに導き合い、愛し合い、支え合いならがこの新しい年度歩みたいと思う。そして、この恵みを、この地で多くの人たちと分かち合いたいと思う。そこにこそイエスは私たちと共にいてくださるのである。
祈祷 愛なる神様 パウロは、神、イエスが私たちを愛してくださっているということ、一人一人の命が尊いこと、そして、互いに愛し合うよう教えてくださっています。私たちの愛は神の真の愛と異なるかもしれません。しかしイエス、神は私たちが互いに愛し合うことができることを信頼し、導いてくださっています。どうか、イエスに倣い共に喜び、共に泣き、互いに支え合う交わりとしてくださいますように。そして、この喜び、愛をつくばで分かち合うことができますお導きください。私たちは争い合うためではなく、互いに愛し合うために命が与えられました。互いの命を尊重し合い、手を結ぶ平和な世としてください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。礼拝後、筑波学園教会の定期総会が行われます。一年を悔い改め、良き一年の歩みを決めるときなりますようお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「詩編 16編 1~11節」
聖書朗読
16:01【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。/16:02主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」/16:03この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。/16:04「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」/16:05主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。/16:06測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。/16:07わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。/16:08わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。/16:09わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。/16:10あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/16:11命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「復活とは」
詩篇16編に心を傾けたいと思う。1節に「ミクタム。ダビデの詩」とある。「ミクタム」とは、いくつかの解釈があるが、正直言って、意味はよく分かっていない。そして、ダビデの詩とある。これも様々な理解があるが、レビ人であったユダヤ教の司祭が作者であるといえよう。この詩編は、原文に不完全な部分があったことから、解釈が学者によって異なるところがある。本日は、新共同訳の分け方とは異なる分け方で読んでみたい。
1~2節は、祈りと告白からなる導入部である。「あなたを避けどころとする」とは、神に信頼して生きることを意味している。そして、神こそ「わが幸い」と告白している。それが、この詩編の主題であるといえよう。それ以降は、様々な言い方で、その主題を語っていっている。
3~4節、この部分が不完全なために様々な解釈がある。ユダヤ教においても、異教の神々を崇拝していた指導者たちがいた。その箇所とは異なるが、旧約聖書において、ヨシア王の宗教改革と呼ばれる出来事があった。改革の一つに、神殿における異教的要素を排除したことがあげられる。本日の箇所でも、異教の神々の崇拝に走る指導者たちを批判し、自分たちは異教の祭儀を行わないと誓ったと考えられる。5~6節は、昔から神によって土地が与えられたこと、神から与えられた恵み、つまり嗣業を神に讃美している。7~9節は、神と共に生きることこそ正しい歩みであるということを述べている。10~11節は、神による救いと喜びを述べている。魂を死に渡さず、命の道を知らせてくださる神こそ、喜びの基であると神を讃えて詩が終っている。
さて、昨年度私は基本的に、日本キリスト教団の聖書日課を用いて、礼拝と祈祷会を行ってきた。教団の聖書日課には、日曜日は旧約聖書2箇所、新約聖書2箇所が掲げられている。本日もその聖書日課から聖書箇所を選んだ。復活、イースターの翌週の本日に、詩編16編が与えられているのは、どうしてなのか。それは、次のような理由だと考えられる。使徒言行録2章、また13章に、詩編16編10節が引用されている。使徒言行録2章1節以下は、ペンテコステ、聖霊降臨の話である。イエスが天に上げられた後、ペンテコステの日に、弟子たちが集まっていた。すると聖霊が注がれ、イエスの教えを述べ伝える力が与えられた。続く14節以下で、弟子のペトロが説教を語る。そこでは復活のイエスのことが語られた。イエスの復活は、旧約聖書においてダビデが預言したというのである。そこで、聖書日課が引用したのが、詩編16編10節だったのである。ダビデが預言した方こそがイエスであり、イエスが復活したことによって、その詩編の預言が成し遂げられたというのである。13章にも同様に用いられている。使徒言行録が記された時代、イエスを信じる者は詩編16編10節を復活の預言であると理解していた。宗教改革者カルヴァンの詩編の注解書でも、詩編16編10節をイエスの復活の預言であると解釈している。
では、詩編16編10節は、本当にイエスの復活を預言していたのであろうか。そこで、使徒言行録2章31節における詩編16編の引用の言葉を読んでみたい。「彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない」とある。本日の詩編16編10節に「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」とある。前半の使徒言行録の「陰府に捨てておかれず」と、詩編「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく」は、ほぼ同じ内容であると受け取れるであろう。しかし、後半使徒言行録の「その体は朽ち果てることがない」と、詩編の「あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」は、意味が異なる。使徒言行録は、ギリシア語聖書の七十人訳を用いている。詩編16編10節で「墓穴」と訳されている言葉は、言語のヘブライ語の「朽ちる」から派生した語である。そこで「朽ちる」と訳すと、死からの復活の思想を読み取ることができる。七十人訳聖書は、そのようになっている。「朽ちる」と訳し、使徒言行録のペトロは、詩編16編10節がイエスの復活を預言していると理解し、用いたのである。
では、詩編16編の本来の意味はどうなのか。実は、復活を意味していないと考えられるのである。そこでは「朽ちる」ではなく「墓」を意味しているので、復活ではないと理解できる。また、10節の「陰府」は、病苦や危害による絶望的状況の比喩的表現であり、そこでは死を意味しているのではないと考えられる。そして、続く11節の「生命の道」も、永遠の生命に至る道を意味してはいない。詩編16編は、最初の段落での祈り「私を守ってください」、そして「あなたの他にわたしの幸いはありません」の告白に応えるように、最後の段落である10節と11節で、死の危険から守り、喜びあふれる地上の生命を約束する神を讃えているのである。つまり、生かすという約束をしてくださる神を讃えているのである。最初に述べた通り、神が共にいて生かしてくださる「幸い」の告白なのである。
では、詩編16編は、復活とまったく関係ないのであろうか。そこで、私たちにとってイエスの復活とはいかなることかを考えたいと思う。イエスは十字架に掛けられ、死に、陰府にくだった。そのことにより陰府は、神に対立する闇ではなくなり、イエス、神の支配の領域になった。だから、死を恐れる必要はなくなったのである。死はイエスの支配の領域になり、人間は死ぬとイエス、神のもとに行くといえるであろう。イエスはまさしく死に勝利したのである。そして、イエスが復活したように、死んだ者は死に、闇に縛られるのではなく、神の国の到来においてイエスと共に復活するのである。言い過ぎかもしれないが、死の領域は天国となり、神の国への待合室といえるのかもしれない。
復活の意味は、それだけではないと思う。死とは、いかなる意味を持つのだろうか。旧約聖書においては、死は神との断絶、神との関係が切れることであると考えられている。イエスの十字架は、人間の罪をイエスが贖ってくださる出来事であり、神と人間との和解の出来事であるといえる。つまり、人間は神と共に生きる者とされた。イエスの十字架は一回だけの出来事、つまり、この一回で、全ての人が神と関係を回復し、これからも人間と神の関係は終わることはないのである。そのような意味で、私たちは死を克服したのである。しかも神、イエスの導きは、神の国の到来につながる。神が、その独り子イエスをこの世に遣わしたのは、この世を愛するゆえであった。人間が神と正しい関係に生きるようにしてくださるためであった。イエスの復活は、神の国が到来する時に、私たち人間も復活するという希望である。死は神の支配の領域になり、そこは闇ではなくなった。イエスは死に勝利した。それと同時に、イエスの十字架においては、神と人間との和解が示された。つまり、イエスの十字架により、神はいついかなる時も、私たちと共にいてくださるということである。イエスが復活したように、私たちも新たなる者として、神と共に今を生きることができる。神が共にいてくださるのだから、私たちは何も心配することはないともいえるであろう。復活とは、この詩編16編がまさしく述べている神による「幸い」である。私たちにとって、神が共にあり導いてくださることほど、幸いなことはない。また、もしかしたら、神が共にてくださるということこそ嗣業、神から与えられた恵みではないだろうか。私たちは何も心配せず、神にすべてを委ね、今を大切に生きることができるのである。つまり、復活の恵みこそ、今を生きる希望、力を与えられた出来事であると私は信じている。私たちは、命の道を教えてくださる神が共にいてくださるという幸いを覚え、主の御顔を仰ぎ、日々歩みたいと思う。
祈祷 独子をこの世にお遣わしになられた導き主なる神様 あなたは、旧約聖書にける契約、律法の授与、新しい契約の約束、救い主の預言を通し、独り子イエスをこの世にお遣わしになり、その業、特に十字架、復活を通して、救いを示してくださいました。それは、いつも私たちと共にいてお導きくださる。その導きは永遠であるという、幸いの約束です。今日は詩編16編を通して、そのことを知ることができました。あなたがただ私たちを愛し、共に、お導きくださることを、感謝いたします。いついかなる時も、あなたが共にいてくださることを感謝し、あなたを見上げて歩むことができますよう、お導きください。そして、この幸いを多くの人と分かち合うことができますよう私たちをお用いください。争いで被害にあうのは弱いものです。また、相手を攻撃するのは弱さを隠すためなのかもしれません。どうか互いの弱さを受け入れ合い、手を結ぶ平和な世となりますようお導きください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。悲しみ、不安、悩みの中にある友をお支えくださいますように。次週には、筑波学園教会の定期総会が行われます。一年を悔い改め、良き一年の歩みを決めるときなりますようお導きください。先週は、御子イエス・キリストの復活を祝いました。どうかすべての人に復活の恵みが与えられますように。また、新しい歩みを始めた方々をお導きください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ルカによる福音書 24章1~12節」
聖書朗読
24:01そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 24:02見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 24:03中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 24:04そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 24:05婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 24:06あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 24:07人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 24:08そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 24:09そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 24:10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 24:11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 24:12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「何度も何度も」
本日はイースター、復活祭である。イエスが十字架につけられて死に、三日目に復活した。皆さんは、エルサレムに行ったことがあろうか。エルサレムには聖墳墓教会というイエスの墓といわれる場所がある。また、近くの場所では、2000年前の墓が発掘された。ある教派は、そこがイエスの墓であると考えているようだ。そこには「イエスは復活したので、ここにはいない」と英語で書かれた看板が置かれている。当時の墓は岩を横に堀り、入り口には、大人一人では動かすことのできないくらいの大きな石の円盤でふたをしていた。その墓にも石のふたがあった。
本日は、ルカによる福音書の24章1節以下に心を傾けたい。十字架の死から三日目、ユダヤ教の教え、すなわち律法に規定されていた安息日が、休まなければならない時が明けたので、婦人たちは準備しておいた香料を持って、埋葬したイエスに塗るために、墓に行った。遺体に香料を塗ることは、家族が行うことであった。婦人たちはイエスの家族ではなかった。しかしここからイエスが、すべての人を家族として招き、家族として接し、愛してくださったということを知ることが出来る。
婦人たちが墓に行くと、入り口の石の円盤が動かされていた。婦人たちは墓の中に入った。するとイエスの遺体は見当たらなかった。途方に暮れていると、輝く衣を来た二人が現れた。それは、天使であったと言ってよいだろう。なぜ、天使は二人だったのか。律法であった旧約聖書の申命記19章15節に、「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」とある。その出来事を立証するために、二人の天使がいたのである。5節以下にその証言がある。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と。神は、天使を二人遣わし、イエスの復活を告げた。ガリラヤでのイエスの言葉が、9章22節に書かれている。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と。9章44節、18章32~33節も同様の内容である。つまりイエスは三度も復活を予告した。天使たちは、婦人たちが思い出すことができるように導いたのである。
さて、そこでは婦人たちが墓に行ったことが重要である。なぜならイエスを墓に埋葬したのは、ユダヤ最高法院議員のヨセフと婦人たちだったからである。婦人たちはイエスの死を確認し、墓に埋葬した。イエスは、決して死んだふりをしたのではなかった。確実に人間として死んだ。埋葬した婦人たち、つまりイエスの死についての二人以上の証言が、そこでは成立していたのである。次に、埋葬した婦人たちは、イエスの遺体がないことを見て確認した。そして、二人の天使がイエスの復活を伝えた。二人の天使に伝えられた言葉を、二人以上の婦人が聞いた。墓は空で、天使たちがイエスの復活を述べた。婦人たちは天使に会い、イエスの復活を聞いた。イエスの死と復活が、婦人たちによって立証されたのである。
墓から帰った婦人たちは、そのことを他の婦人や11人のイエスの弟子に知らせた。しかし11人の弟子たちは「たわ言のように思ったので、婦人たちを信じなかった」のである。それまで弟子たちは、イエスを信じ共に歩んできた仲間であった。弟子たちは、イエスが招いた家族同様の存在であったのに、婦人たちの話を信じなかった。12節に、ペトロは立ち上がって走っていったとある。ペトロだけは確認しようとした。一方、次のような理解がある。12節は、本来ルカによる福音書にはなかったが、後で書き加えられたというのである。実際、以前の口語訳聖書には12節を、後から書き加えられたと考えて括弧に入れている。私が持っている英語の聖書では、12節は削除されている。様々な意見がある。本日は、付加されたと受け取る。12節が後から書き加えられたと考えると、ペトロを含め弟子たちは、墓で天使に会ったという婦人たちの証言だけでなく、イエスが復活したことをも信じなかった、理解できなかったのである。ルカによる福音書は、弟子たちを権威的に記しているが、この箇所では弟子たちがイエスの復活を理解できないでいたことを記しているのである。
そこで、イエスが12歳の時の出来事を思い起こす。それは2章41節以下に記されている。イエスの両親、ヨセフとマリアは過越し祭に、毎年神殿のあるエルサレムに旅をした。祭りが終わり両親は帰路についた。しかし、イエスはエルサレムに残っていた。そのことに気づかず両親たちが、すでに一日分歩いてしまったときに、二人はイエスがいないことに気付いた。両親は探し回り、エルサレムに引き返すと、少年イエスは神殿の境内で学者たちと討論をしていたとうのである。母マリアは「心配をかけて」と、イエスを叱った。すると少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と述べた。神殿は、神が臨在する場所である。イエスを身ごもった時、マリアはおなかの子が神の子であると告げ知らされ、受け入れた。それにもかかわらず、そのときマリアは、イエスが神の子であり、神殿には神がおられるから大丈夫であるということに気づいていなかった。つまり、そのときのマリアもイエスの力を理解できていなかったのである。
弟子たちも、イエスが神の子であり、復活すると三度も予告していたにもかかわらず、信じることが出来なかった。いや、まったく理解していなかった。それだけではなく、弟子たちは、墓に行った婦人たちのことも相手にしなかった。
それらのことから、私は次のように理解したい。イエスの少年時代の話、イエスの十字架、復活の出来事は、そのように弱い人間の姿が重複されているといえるのではないか。そこで人間は、神、神の子、復活をすぐに理解することが出来ない。自分たちの理解でしか物事を受け入れることが出来ない。目で見えるものしか信じることが出来ない。つまり、人間とは弱い存在である。その結果、何度も神を疑い、裏切ってしまう。しかし、理解できなくても何度も繰り返し、分かるように神は、イエスは導いてくださる。つまり、人間の立場に立ち、人間の弱さを受け入れ、導いてくださる神の愛、イエスの愛がそこに示されていると思うのである。実際、その後、復活のイエスは弟子たちに現われたのである。
私は信仰とは、らせん階段のようなものであると思っている。上がっているようで上がらない。同じこと繰り返す。それでも、少しずつでも前に進めばいいのではないか。それが人間、また信仰なのではなかろうか。神、イエスは、弱い人間をよくご存じで何度も過ちを繰り返す人間を愛し導いてくださる。イエスが三度も復活を予告したにもかかわらず、信じることのできなかった弟子たちのことさえも、イエスは受け入れ、導き、用いてくださった。
イエスの復活は、人間の弱さを受け入れてくださり、人間の立場に立ち、導いてくださる神の、イエスの愛がある。そして空の墓にこそ、イエスの復活の希望がある。空の墓は、復活の希望の象徴なのである。私たちは復活のイエスに出会うことはできない。しかし、信じることができる時を、必ずイエスは与えてくださる。イエスの復活は、弱い私たちを受け入れてくださるイエスの、愛の象徴的な出来事なのである。そこに私たちの希望がある。弱い私たちを信じることができるように、何度も何度も導いてくださるのが復活のイエスなのである。私たちはイエスのその導きにより、新たなものとされるのである。それこそが復活の恵みなのではないだろうか。
祈祷 愛なる神様 今日は、イースター、独子イエス・キリストの復活を祝う時を持っています。婦人たちが香油を塗りに行くとイエスの遺体はありませんでした。イエスは三度も復活を予言されています。一方、報告を聞いた弟子たちは信じません。人間の弱さを思います。この弱い人間を受け入れてくださる愛が、復活にあると思います。信じることができない人間を何度も何度もイエスは受け入れ、お導きくださいます。このことを信じたいと思います。この導きこそ、復活であると思います。どうか弱い私たちを受け入れてください。また、私たちも互いの弱さを受け入れ合うことができますようお導きください。互いを受け入れある平和な世となりますように。そして、イエスの復活と共に私たちの歩みをあたらなるものとしてくださいますように。特に新しい歩みをはじめられた方を支え、祝してください。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り、主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン
聖書:新共同訳聖書「ヘブライ人への手紙 10章 1~10節」 10:01いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。 10:02もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。 10:03ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。 10:04雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。 10:05それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。 10:06あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。 10:07そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」 10:08ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 10:09次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 10:10この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。
礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「御心を行うために」
本日は、棕櫚の主日である。エルサレムには神殿があり、ユダヤ教の中心地だった。そこはつまり、イエスに敵対するユダヤ教の権力者がいる場所だった。一方、民衆はナツメヤシ、棕櫚の枝をふり、イエスをエルサレムに迎えた。その歓迎とは反対に、イエスがエルサレムに入ったのは、十字架に掛けられるためであった。
この世における罪の赦しの祭儀は、エルサレム神殿の奥にある至聖所という場所で大祭司によって行なわれていた。そこでは人間の代わりに、雄牛や雄山羊などの血を犠牲として神に捧げた。一方、旧約聖書に記されていた教え、すなわち律法は不完全であった。罪の赦しの祭儀を、真の大祭司イエスが、天にある真の神殿において行い、完全なものとしてくださった。そのことがヘブライ人への手紙に記されている。それはいかなることなのか。
本日は、ヘブライ人への手紙の10章1節以下に心を傾けたい。ユダヤ教の教え、律法に記されている祭儀は、影のようなものにしか過ぎず、実体はないという。そのように言えるであろう。この世で行われる祭儀は、天にある真の神殿の真の祭儀の写しであると、真似にしか過ぎないというのは、もしこの世の祭儀が完全なものであるなら、実際に罪そのものがなくなっている。そうだとするならば、当然、罪の意識もなくなる。つまり、罪の赦しを願う祭儀を行う必要はなくなるはずだ。しかし、実際には年毎、年に一度罪の赦しを願う祭儀を行っているではないか。家畜などの血では、罪を取り除くことなどできないと言うのである。血は生命の象徴である。私たちが負うべき罪の罰の代わりに、雄牛や雄山羊の命を代わりとする。それは律法に規定されている。つまり、神が定めたことだから、正しい祭儀である。雄牛や雄山羊の血を用いるのは、人間が働き所有したもの、つまり財産の一部を神に捧げること。だから、その意味では人間自身が痛みを伴うことになると思う。だから、家畜の血を用いるというのは正しいかもしれない。しかし、次のように考えることができるのではないだろうか。他の生き物の命を自分の代わりにするというのは、人間の都合の良い考えではないかと。
5節以下には「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」とある。
5節以下の『(括弧)』は、旧約聖書詩篇40編7~9節の言葉である。ヘブライ人への手紙10章8節以下に、その言葉の意味が解釈されている。神は、もともといけにえを望んではいなのだと言うのである。そこで「私たちのために、体を備えてくださいました」なのである。イエス・キリストがこの世にやって来たのは、その体を犠牲として神に捧げるためであった。それは、神の意志を神の独子イエス・キリストが行うために、この世に来られたのである。そのことが詩編40編で、既に預言されていた。イエス自身がそのように述べたではないかと言うのである。
そこでヘブライ人への手紙の著者は、次のように考えた。イエスは、完全な赦しの祭儀を行なうためこの世に来られた。その出来事こそが十字架の出来事である。そこで複雑なのは、十字架の出来事は、この世の出来事である一方、真の祭儀は天で行われる。十字架の出来事は、神の意志である。人間は、自分の力で神に対する罪を無くすことはできない。そこで、人間の罪を赦すために、イエスの血という犠牲が必要だった。一方、ヘブライ人への手紙の著者は、天にある真の神殿で真の罪の赦しの祭儀が行われたと言うのである。それは、イエスが天に上げられてから真の大祭司として、人間と神とを取り次いだのであると理解できるであろう。
神は、そもそもいけにえを望んでいなかったというのである。マタイによる福音書は、神殿祭儀を重視するユダヤ教の在り方を批判して、この世に現実に生きる人間の倫理に重きを置こうとしていた。山上の説教を思い出していただければわかるであろう。右の頬を打たれたら左の頬を出しなさいとあった。祭儀を重視することに対する批判は、預言者の一部や詩編の一部にも見られる。ヘブライ人への手紙の著者は、マタイによる福音書とは直接関係ないとはいえ、神はそもそもいけにえを望んでいないという基本の姿勢は共通していると考えられる。やはり家畜の血を私たちの代わりに犠牲とするというのは、人間の都合の良い考え方なのかもしれない。一方で神は、独り子イエスを犠牲にした。それは神自身、痛みを伴う出来事だったはずである。
ヘブライ人への手紙の著者には、イエスの十字架について、犠牲という理解があったのであろう。一方で、私はあまり「犠牲」という言葉は用いたくはない。用いるとするなら、イエスのみである。犠牲という言葉は、戦争などでも、人間の都合よい使い方ができるからである。そこで、犠牲について考えたい。昨年、マタイによる福音書を中心にした主の祈りに関する本が出版された。
犠牲、英語では「サクリファイス」である。この言葉は、「神聖化する」という意味のラテン語「サクルム・ファケレ」に由来する。神に対する贈り物や食事を神聖化するということである。私たち人間は、お互いの関係を維持・回復するために贈り物や食事を利用する。そして、人間は神に対しても、まったく同じことをするというのである。それが犠牲である。つまり、犠牲は私たちの罪の代わりという理解ではなく、贈り物であるというのである。とても面白い理解だと思った。すなわち、十字架のイエスの犠牲は神からの贈り物なのである。
イエスの十字架とは、いかなることだったのか。イエスが民衆から王になると期待されたことに対する権力者の嫉妬、または自分たちの地位を脅かす存在として、イエスを敵視した権力者の暴力的行為。それが十字架といえるのではなかったか。十字架は、人間の罪、欲を映し出している一方、イエスは人間の欲からなる暴力行為としての十字架に対して無抵抗、非暴力だった。それこそが神の本質であると言えるのかもしれない。イエスの死こそ、私たち人間が真に生きるための出来事だったのである。イエスこそ隣人のために生きた。人を生かすことがイエス自身の死の意味だったのではなだろうか。イエスの十字架は、生と死を尊いものとしたのである。
そのように理解すると、イエスの犠牲はまさしく「贈り物」だったのではないかと思ったのである。イエスの十字架は、生きるとはいかなることかを私たちに示してくださった出来事ではないだろうか。命とは尊いものだからこそ、大切にしなければならない。イエスは、一人一人の命を尊いものと理解した。一人一人の命は何にも変えることのできない大切なものであり、一人一人が唯一無二の存在であることを、十字架を通して教えて下さった。そして、イエス自身が犠牲となって、十字架につけられた。そのことによって、私たちは神と正しい関係を持つことができたのである。十字架は、イエス・キリストの死を神聖化するだけではなく、イエス自身をも神聖化する。それと共に、聖なる贈り物を私たちが与えられた。それは罪深い私たちが生かされるということである。少し危険な言い方だが、私たちを聖としてくださったと言えよう。それは神と同じ存在という意味ではなく、神、イエスと共に生きる存在としてくださったということである。神と正しい関係になった。それこそが、イエスからの贈り物である。そして、それに応えるために、私たちはイエスに倣い、義しく生きようと欲するのではないだろうか。つまり、いかに生きるかという問いかけが、イエスの十字架にあると思うのである。
神はいけにえを欲するのではなく、私たち人間が神と正しい関係にあることを欲せられた。それこそが神の御心なのではないだろうか。そのため、イエスは十字架につけられたのである。私たちは、この最も喜ばしい贈り物を受け取り、イエス、神に応答したいと思う。
祈祷 独子をこの世に遣わされたほどこの世を愛された神様 御子イエスは今日、エルサレムに入られました。それは苦難を負う出来事です。そして十字架に向かわれます。しかし、それは隣人を愛すること、つまり私たち人間が人間として歩むための贈り物でした。私たちが神、イエスの愛を確信し、イエスに倣い、隣人を愛し、互いの命を尊重し合うことができますように。それこそが、十字架の愛に対する私たちの応答であると思います。次の金曜日はイエスの受難日です。十字架に掛けられるイエスの愛を確信できますように。互い愛し合うため命は与えられました。互いの命を尊重し合うことができますように。地震など自然災害で被災された方々を守り、復興へとお導きくださいますように。すべての人の健康をお守りください。病の中にある方、治療受けられている方心身ともに癒しの御手を差し伸べてくださいますように。4月になりました。それぞれ新しい歩みを始めていると思います。どうかそれぞれの新しい歩みを祝し、お導きくださいますように。また、教会の新しい一年の歩みを祝してくださいますように。今月、誕生日を迎えられる方を祝してください。次週は、イースター、イエスの復活を祝います。多くの方と御子の復活を祝うことができますように。集うとしている方々の健康をお支えください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人がその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン