主日礼拝メッセージ

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2022/08/07 聖霊降臨節第10主礼拝

聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 9章 42~50節」  聖書朗読
09:42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 09:43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 09:44(地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。) 09:45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 09:46(地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。) 09:47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 09:48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 09:49人は皆、火で塩味を付けられる。 09:50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「心に塩水を」  音声配信
 (要旨掲載 準備中)


2022/07/31 聖霊降臨節第9主礼拝

聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(2) 6章 1~10節」  聖書朗読
06:01わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 06:02なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 06:03わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 06:04あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 06:05鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 06:06純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 06:07真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 06:08栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 06:09人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 06:10悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「恵みの時」  元総理が殺された。人を殺すことは神の意志ではない。一方、殺害とは別に、このことに関しては、罪を犯させた背後の問題を考えなければならないと思う。他宗教を批判するつもりはない。しかし、カルトと定義できる集団には気を付けるべきである。マインドコロントロールによって都合のよいように従わせる。私はそのことから精神的に病んでしまったある女性に、お会いしたことがある。本当に純粋な彼女の、そこに付け込んでボロボロにし、その人だけでなく家族の一生をも狂わせてしまった。弱みに付け込んで、その人の先祖、その人の家族が悪いことをしたから、悪霊が取り付いているのだと信じ込ませ、そこから救われるためにと高額なものを購入させ、また、高額な献金を強いた。悲しみしか出てこない。
 イエス以外に救い主はいない。イエスはその人が病気になったのは誰のせいでもないと、はっきりと述べている。大切なことは、良いことが起こった時も悪いことが起こった時も、いついかなる時も、神、イエスは私たちと共にいてくださるということである。
 コリントの信徒への手紙(2)の6章1節以下に心を傾けたいと思う。1節、パウロは「神の協力者」と述べている。パウロは、自ら神と共に働く者であると述べ、神からいただいた恵み、与えられた賜物を用いようと言った。2節の括弧は、旧約聖書イザヤ書49章8節の引用である。「恵みの時」は、原文では「神のみ旨にかなった時」である。パウロがよく用いた七十人訳と言われるギリシア語聖書で、その箇所は「恵みの時」と記されているので、新共同訳聖書でも「恵みの時」と訳しているのであろう。では、パウロにとっては、コリントの信徒への手紙(2)を記したときは、「恵みの時」というほど順風満帆、上手くいっていたのか。
 コリントの教会は、パウロの宣教によってできた集会である。一方、パウロがコリントから離れている間に、コリントの教会にパウロの反対者たちが侵入した。この手紙の10章以降では、エルサレムにいる原始キリスト教の責任者、使徒たちと密接な関係にあった人たちが訪れ、パウロの教えに疑問を呈したと考えられる。そのことと関係があるのか。コリント教会にパウロへの反対者が侵入してきて、コリントの人々の心がパウロから離れるという事態が起こった。その侵入者たちは、ある種の力強さ、優秀さを誇り、それによってキリスト者のあるべき姿を基礎づけたと思われる。一方、パウロには何らかの障がいが与えられ、10章10節「私のことを、手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです」と自ら書いている。パウロは力強さ、優秀さがあるようには受け取られていなかったといえるであろう。また、パウロはイエスの逆説「貧しい人は、幸いである」に深く通ずる形で、「十字架の逆説」を一貫させていた。そのことに侵入者たちは反対し、パウロの使徒職を疑問視する態度をとった。パウロに反対の立場をとった。何よりパウロの反対者たちは、イエスの本来の教えから離れてしまったといえるであろう。それらのため、パウロはこの手紙を書いたと考えられる。
 3節から4節の前半に「私たちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」とある。「非難されないように」十分気を付けて、神の救いを述べ伝えている。そして、どんな苦しい状況にあっても「大いなる忍耐をもって」、神の奉仕者であることを証しするというのである。そのように言えるであろう。パウロは、常に変わることなく使徒、キリストの奉仕者として徹していたのである。
 6節と7節には、徳目や心的な諸要素が挙げられている。その中に「聖霊」がある。聖霊は、ここに挙げられているすべての「善」や「徳」の源泉であるという理解がある。例として「寛容」、「親切」は、コリントの信徒への手紙(1)13章の愛の讃歌4節の愛の特質の1番目、2番目として挙げられている。7節最後「左右の手に義の武器を持ち」とは、神と正しい関係を攻撃や防御の武器とするという意味である。神、イエスの愛を思い、神との正しい関係を持つというパウロの立ち位置を見ることができるように思う。
 8節後半から10節は、イエスの福音の逆説、すなわち「貧しい人々は、幸いである(ルカによる福音書6章20節)」や「悲しむ人々は、幸いである(マタイによる福音書5章4節)」、貧しい人々、悲しむ人にこそ、神は救いを賜るといえるであろう。この聖句に代表される逆説と同じ形で、パウロは「十字架の逆説」を一貫させている。人を裁いているようで誠実である。反対者たちたちは、パウロが本当に使徒なのかと疑問視した。つまり、パウロが述べた救いを否定したのであろう。「欺いている」と。しかし、パウロは誠実にイエスの救いを述べ伝えた。パウロが述べ伝える言葉にこそ、イエスの救いがある。パウロの姿はみすぼらしくても、神が与えた弱さであることを受け入れ、生かされている喜びを示した。何も持っていないようで神の恵みをいただいている。いや、神は必要なものを与えてくださる。神の恵みをパウロこそ十分知っていたのである。
 旧約聖書のヨブ記やコヘレトの言葉等から、聖書は、応報思想になりすぎることを警告していることが分かる。イエスに因果応報的な考えはないと、私は思っている。神の教えである律法を破ったから、罰として病気になる、イエスは、そのことを否定した。イエスは神の教えである律法を破ったから病気になったのではないと、はっきりと述べている。11章で「私の弱さにかかわることを誇りましょう」、12章で「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』」と言っている。「だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とパウロは記している。十字架という弱さにこそ、真の救い、神の愛がある。
 パウロの使徒職を疑問視したパウロに反対する人々がいた。パウロを排除しようとしていたといってよいであろう。そのような状況においても、「救いの時」と述べることができたのは、パウロに現れた復活のイエスが、神の救いを述べ伝える責任を与えて下さったという自負がパウロにあるからである。それはパウロの思い込みではなく事実だった。パウロにとって、イエスの救いを述べ伝えるのにふさわしくない時はない。いつでも、どこでも神の愛を述べ伝える。状況が悪いからこそ、きちんとしたイエスの救いを述べ伝えるべきだ、新たなチャンスの時、と思ったのかもしれない。
 さて、「あなた、あなたの先祖が罪を犯したから悪いことが起きている」、「これを買えば罪が許される」とイエスが述べるであろうか。排除するであろうか。イエスが私たちに述べたのは、「私はいつもあなたと共にいる」、「あなたはあなたのままでいいのだ」、「私があなたを受け入れ、認める」、「あなたは私の友である」。イエスはそのように私たちに述べてくださり、また私たちは、いつでも、どこでも、神をアッバ(父ちゃん)と述べ、何でも話すことができる。つまり、祈ることができる。この恵みを、イエスは私たちに与えてくださった。私たちにとって一番の強みは、いつでも、どこでも神に祈ることができるということである。それは、いつでも、どのような状況でも、イエスが必ず共にいてくださり、支えてくださると確信することができるということである。つまり、私たちはいつも「恵みの時」にいるのである。もちろん、悲しいとき、不安なときもある。そのような時にこそ、イエスは共にいてくださる。パウロこそ、このことを確信しているから、今この時が、神のみ旨に適ったとき、恵みの時として、常に変わらずにいることができたのではなかったか。とはいっても、私たちはパウロのように強くない。だからこそ、私たちは互いに支えあうべきだと思うのである。不安に陥れることは、神の意志ではない。私たちはいつもイエスが共にいてくださることを確信し、違いを受け入れあい、支えあい、祈りあいたいと思う。そのことを通して、神がいつもいてくださる。恵みの時であることを確信できるのである。
祈祷  愛なる神様、パウロは反対者たちによって、さまざまな危機がありました。しかし、そのような状況でも恵みの時であると述べ、イエスの救いを述べ伝えることに専念します。パウロは、どのような状況においても、変わらず神の恵みを確信しています。私たちは、悪いことが起こったとき、神の恵みを感じることができずにいます。また、悪いことが起こったときに、誰かが悪いことを行ったからだと応報的な考えを持ちます。しかし神、イエスは、どのような時も、私たちを共にあり、お導きくださっています。どうか日々、神の恵みを確信し歩むことができますようお導きください。また、そのような時にこそ、互いに支え合うことができますように。暑い日々となっています。また、新型コロナウイルス感染も増加しています。すべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。コロナで苦しみの中にある方、病の中にある方、入院、手術後の方々に、心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。重荷を負われている方、悩み、苦しみの中にある方、介護看病をされている方、一人で暮らされている方に主のお支えがありますように。新しい命を祝してください。妊娠されている方、母子ともに主の守り、導きがありますように。大雨が続いています。自然災害で被災された方々をお支えください。争いは、人の欲でしかありません。指導者こそ、その人らしく民を導く者です。そのため他国との和解を目指す者です。どうか争いで被害にあわれている方々をお守りください。私たちにできることがありましたらお用いください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/07/24 聖霊降臨節第8主礼拝

聖書:新共同訳聖書「テモテへの手紙(1) 3章 14~16節」  聖書朗読
03:14わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。 03:15行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。 03:16信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、
キリストは肉において現れ、
“霊”において義とされ、
天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「生きている神」  この教会の前の私の赴任地、甘楽教会には幼稚園がある。そこでの話である。年長組の先生はドッヂボールが好きで、よく子どもたちにドッヂボールをさせていた。20人ほどの子どもたちに対して、次のようなチーム分けをしていた。まず子どもたちを二人組にして、ジャンケンをさせた。次に勝った子ども同士の二人組でまたジャンケンをさせる。それを繰り返して最終的に、一番と二番目に勝った子どもの2チームにする。ジャンケンで一番になった子どもが、まず自分のチームのために一人の子を指名する。次に二番目に勝った子どもが一人を選ぶ。そのように交互に仲間を選んでいく。この方法の良いところは、二つのチームを同じくらいの強さにすることができる。一方、悪い面としては、弱い子が最後まで残ってしまう。
 ある日、タイラくんという子がジャンケンに勝った。彼はいつもは最後まで選ばれないキヨちゃんを最初に選んだ。キヨちゃんは良い子なのに「私は最後まで選ばれない」と言って、いつもいじけてしまっていた。けれどそのときは、一番に選ばれた。キヨちゃんは、とても喜んだ。それだけではない。もともと運動が嫌いな子ではなかったから、そのことで喜び、自信がついたのか、器用にボールから逃げられるようになった。そのうちボールの受け方も投げ方もうまくなっていった。そのとき私は、6歳の子どもから、リーダーとはいかなる存在かを教わった気がした。タイラくんは、弱い者にこそ目を向け、共に歩む姿勢を示し、そして、力を引き出したのである。
 さて本日の聖書箇所、テモテへの手紙(1)の著者はパウロとあるが、そうではない。パウロの死後、それも約40年後、紀元100年前後に記されたと考えられている。その時代には、キリスト教では、教会に仕える者などの職制ができてきていた。つまり、聖職、牧会者が選ばれ、職業となっていた。そこで、テモテへの手紙やテトスへの手紙は、牧会書簡といわれ、聖職への導きが記されていると考えられている。もちろん、信徒への信仰の継承という面もある。
 3章14節以下に心を傾けたい。著者をパウロということでお話をする。14節、パウロはテモテのもとに行きたいが遅れる可能性があるので、神の家、教会でどのように歩むか知ってもらいたいといっている。では、神の家、教会とはいかなる所で、どのように歩むのであったか。15節に「真理の柱であり、土台である生ける教会です」とある。そこでは、教会は真理を柱、土台としているという意味ではない。教会は真理を支え保持するための土台であるとの理解であるというのである。つまり、教会は真理を告げ知らせる、真理をこの世に現わす柱、土台といってよいと思うのである。教会は、キリストの体であるという。そのような意味では、この世にキリストの働きをなし、キリストを現わす場である所こそ、教会であるといえるであろう。16節はじめに「信心の秘められた真理」とあり、正しい神信仰を有している教えの内容という意味であると考えられる。つまり、教会を司る者は、正しい信仰を保持し、導くべきである。では、正しい信仰と何か。
 16節の後半は、讃美歌、あるいは信仰告白であると考えられる。二つの行を一組と考えると、それらは対比していると考えられる。最初は「キリストは肉において現われ」と「霊において義とされ」、肉つまり地と、霊つまり天を、対比している。二つ目「天使たちに見られ」と「異邦人の間で述べ伝えられ」。天使は天に存在するので「天」、異邦人伝道であるから「地」、天と地を対比している。三つめは「世界中で信じられ」は地。「栄光の内に上げられた」。天に「上げられた」のですだから、天を意味する。「地と天」。そこで「地と天」、「天と地」、「地と天」という対比を組合わせていると理解できる。確かに対比しているといえるであろう。では、対比しながら、何を示しているのか。「肉」、「霊」、「天使たち」、「異邦人たち」、「この世」、「栄光」、肉として現れ、聖霊によって復活し、天で天使たちに認められ、異邦人たちに神の愛を述べ伝え、この世で神の愛が信じられ、天に上げられ神の栄光を与えられた。それがイエスの業である。
 しかし本日は柔軟に考えたい。順番は異なるが、2行目「霊において義とされ」は、イエスは聖霊において神に受け入れられ、天的な地位を与えられた。3行目「天使たちに見られ」は「天使たちに現われ」と訳すことができ、受け入れられたというのである。イエスは天的な存在として神に受け入れられ、天使たちにも受け入れられたと、2行と3行目がつながる。4行目「異邦人の間で述べ伝えられ」、5行目「世界中で信じられ」た。4行目の異邦人は、「諸民族」と理解でき、4行、5行はすべての民に告げ知らされ世界中で信じられたといえる。
 では、残りの1行目「キリストは肉において現われ」と6行目「栄光の内に上げられた」は、どうなのか。1行目と6行目が対比的に記されているのだという理解がある。1行目「キリストは肉において現われ」。「キリスト」、つまり神の独り子、天的な存在が、この世に肉、人間として現れた。そして、16節「栄光の内に上げられた」。人間として業をなしたキリスト、そして、天に上げられ神によって栄光を与えられたという対比である。キリストは、肉、つまり人間として全ての人に救いを述べ伝え、天に上げられたと理解できるであろう。そこで、見たいのは「栄光の内に」という言葉である。その言葉は、古代オリエントの王即位式の文体形式の影響を受けていると考えられる。マルコによる福音書16章19節「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」。イエスは天に上げられ、神の右の座についた。王の右の座、あるいは神と共に王の座についたといえるであろう。つまり、この6行目の「栄光の内に上げられ」は、イエスが神から認められた王的支配を象徴している表現であると考えらえるというのである。次のようにも言えるであろう。キリストは天に上げられ神から認めらえた真の王である。つまり、この地も天も、イエス、神に支配されているのであるということである。2,3行目で、天で受け入れられ、4,5行目で地においても信じられた。つまり、1、6行で地と天の真の王であると囲んでいるといえるのではないであろうか。
 そして、大切なのは15節「生ける神の教会」という言葉だと思う。キリストと神は、この世、天の真の王である。この真の王である神の働きを、教会は「生ける神の教会」として、この世において現わしていくといえるであろう。キリスト、神を、この世に生きる存在として現わす。それが正しい信仰であるということではなかろうか。では、真の王としてのキリストとは、いかなる方なのか。
 キリストとは、油注がれた者という意味で、その儀式は元来、王の就任などに行われていた。では、王とはいかなる存在なのか。王とはすべての民を、その人らしく導く者といえるであろう。マルコによる福音書の10章43~45節には「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」とある。また、マタイによる福音書の25章40節には「王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』」とある。イエスこそ仕える者になられ、最も弱い者と共にいてくださるといってよいであろう。キリストこそ天と地の真の王である。それこそ、教会が保持しなければならない信仰の教えである。それは、弱い私たちと思に歩んでくださるキリストである。そして、生ける神の教会として私たちがこの世に現わすべきことこそ、イエスが王としてこの世に現わした救いの出来事である。では、その業と何か。それは、仕える者となる、そして、最も弱い者と共にあり、励ましあうということである。私たちは真の王であるキリストに倣い、歩みたいと思う。そこにこそ真の神の救い、平安が現れるのである。
祈祷  恵み深い神様、御子イエス・キリストは、肉をまとい、人間としてこの世に遣わされました。そして、この世、天の真の王として、神の救いをこの世に現わされ、天に上げられ、聖霊、天使、神に認められ、王の座に着きました。真の王こそ、民と共にあり、弱き者の立場に立って導き、救ってくださる方です。私たちが生きる神の教会として、王としてのキリストの業に倣い、そして、多くの人と神の愛を分かち合うことができますようお導きください。人間は弱いもので、自分より下のものを作り、抑圧してしまいます。それは人間の欲望です。また、その弱さ、欲により、人間は争いをはじめてしまいます。争いで最も被害にあうのは弱者、子どもたちです。どうか、全てのものが平等になり、手をつなぐことができますように、子どもたちによき未来を与えることができますように。暑い日が続きます。また、新型コロナウィルス感染が増加しています。どうか、すべての人の健康、特に年を重ねた方、子どもたちをお守りください。病の中にある方、入院をしている方、治療を受けている方々のことを覚えます。心身ともにお癒しくださいますように。大雨など自然災害で被災されている方々をお支えください。この礼拝を通して、一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を、すべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場において、その人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/07/17 聖霊降臨節第7主礼拝

聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 8章 14~21節」  聖書朗読
08:14弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 08:15そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 08:16弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 08:17イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 08:18目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 08:19わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 08:20「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 08:21イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「まだ悟らないのか」  (要旨掲載 準備中)


2022/07/10 聖霊降臨節第6主礼拝

聖書:新共同訳聖書「ガラテヤの信徒への手紙 3章 27~29節」  聖書朗読
03:27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 03:28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 03:29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の子とされる」  入院中に、私は病名を医師から聞いていなかった。連れあいが私の妹に送ったLINEを見てはじめて、敗血症という病名を知った。ネット検索して調べたところ、日本でも敗血症で年間10万人の方が天に召されることを知り驚いた。私は病院嫌いで、なかなか行かない。私が今回、夕礼拝の最後に倒れたのは、神の恵みであったと思っている。礼拝堂には、すぐ脈を図り救急車を呼ぶように指示してくださった人がおられた。すぐに119に電話をかけてくださった人がおられた。執事に次々連絡をしてくださった人がおられた。救急隊員が中に入れるように用意してくださった人たちがおられた。もし家で倒れていたらおそらく私は、大丈夫だといって救急車を呼ぶことなく、もっと病状がひどくなってから病院に行ったと思う。そうしたらもっともっと悪化していたであろう。今回、私が最短で退院することができたのは、あの日の夕礼拝に出席されていたみなさん、そして祈ってくださったみなさんのおかげであると本当に思っている。
 さて、6月19日の礼拝祈祷で、新しい命のことを祈った。ある教会員にお子さんが誕生されたことを、少し前に知らされていたからである。その教会員は、私が礼拝堂で倒れたときに救急車を手配してくださった人である。そして入院して2日目、たまたま前の甘楽教会の会員からLINEメールが届いた。以前に、その人のお孫さんが400グラム以下で生まれたことを知らされていた。それには「いろいろな危険がありましたが、5年がたち、元気に過ごしています。いつも祈りに覚えて下さり有り難うございます。」という文章に動画が添えられていた。病気で弱くなっていたせいもあったと思う。私は、神が与えてくださる命の尊さ、神の祝福を思い、涙が溢れた。そこで、ある聖句が頭に浮かんだ。それは、天地創造の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。また、「天にある星の数のようにあなたの子孫は増える」という言葉だった。その言葉は、創世記にある。信仰の父と呼ばれたアブラハムに対する神の約束、祝福である。神は、アブラハムと契約を交わした後、「あなたを多くの国民の父とする」とも述べている。命、それは神の大いなる祝福の一つであることを、私は改めて実感した。
 さて、そこから私は、さらにガラテヤ書が頭に浮かんだ。皆さんは、信仰義認、イエスを信じる信仰によって義とされるということをご存じだと思う。パウロの手紙は、新約聖書に13通ある。現在では、そのうち本当にパウロが記したのは、7通であると考えられている。その中で、パウロはイエスを信じる信仰によって議されると記した。信仰義認といわれている。では、なぜパウロは信仰義認を考え、記したのか。ある学者は次のように考えた。イエスはユダヤ人で、キリスト教は最初、ユダヤ人に告げ知らせた。そして、復活のイエスがパウロに現れた。ユダヤ教のファリサイ派に属し、宣教を行っていたパウロは、自分が信じている唯一の神こそイエスをこの世に遣わされたということに気づいた。そして、パウロは、イエスの救いをユダヤ人ではない異邦人に告げ知らせた。一方、ユダヤ人キリスト者は、選民意識を持ち、律法に記されている割礼、食物規定、安息日を大切にしていた。そこで、割礼を受けていない、食物規定、安息日、つまり律法を守らない異邦人キリスト者に対して、ユダヤ人キリスト者はよい思いを抱いていなかった。選民意識を持っていたユダヤ人に対して弱い立場にあった異邦人キリスト者を守るため、律法を守ることではなく信仰によってこそ義とされると、真のイスラエルの民となるのであると、パウロは説いたと理解できるというのである。また、ある学者が記した本には、パウロが伝えたいのは信仰義認ではないと書かれていた。伝えたいのは、すべての人が神とアブラハムとの契約に入ることができるということであり、その説明のために信仰義認があるという説を唱えた。その理由が、本日与えられた聖句である。私はとても刺激を受けた。信仰義認がパウロの大切な主張の一つであると学び、そうだと思っていた。しかし、当たり前だと思っていたことを前提に聖書を読むのではなく、まっしろな状態で聖書を読んだとき、新たなるメッセージが与えられると知った。アブラハムと神との契約は聖書の最初、創世記17章に記されている。その契約のゆえに神は、アブラハムの子孫であるユダヤ、イスラエルの民を必ず守ると言ったのである。
 信仰義認はすべての人がアブラハムと神との契約に与ることができるというための説明であるという理解に、なぜ私は納得したのか。それは旧約聖書の文書の並べ方に、そのような理解があるからである。キリスト教とユダヤ教において、旧約聖書の文書の並び方は異なっている。そもそも、ユダヤ教では旧約聖書とは呼ばない。最初の創世記~申命記のモーセ五書までは、キリスト教もユダヤ教も同じである。その次、ヨシュア記~列王記までが異なっている。ユダヤ教では、ルツ記はもっと後ろに位置している。つまり、ユダヤ教では、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記となっている。この編集の理由は、ユダヤ、イスラエルの民は歴史で何度も神を裏切っているが、アブラハムとの契約のゆえに必ず神はユダヤ、イスラエルの民を救ってくださる。そこには、アブラハムと神との契約に帰ってくる。そのことが前提として編纂されているという理解がある。つまり、アブラハムと神との契約はユダヤ、イスラエルの民にとって、重要な神との関係の中心といえるのではないだろうか。パウロは、元々ユダヤ教ファリサイ派の宣教者であり、聖書をよく知っている立場だった。だからこそ、旧約聖書で神との関係に欠かせないアブラハムと神との契約を中心に考え、大切に扱うのは当たり前のことではないか。パウロが主張したいのは、アブラハムと神との契約にすべての人が招かれているのは確かではないかと私は思ったのである。
 そこで重要なのは、パウロが否定したことは、ユダヤ人の選民意識であるということである。そのように考えることができるのではなかろうか。神は、ユダヤの民が優れているから契約を交わしたのではなく、最も小さいく弱い民であるから選んだと旧約聖書に記されている。神がユダヤの民を選んだことは、威張ること、自慢することではない。いや、パウロは選民意識を否定した。それはひとくくりにした民という概念ではなく、すべての人を救うといことである。そして、神はアブラハムと契約を交わしたように、一人一人と契約を交わすということではなかろうか。星のように子孫が増える。それはひとくくりにした子孫ではなく、星によってその輝きがすべて異なるように、一人一人の異なる人格を神は尊び、一人一人をし、契約を交わしてくださる。パウロは、イエスを信じる前、ファリサイ派としてイエスを信じる人々を迫害した。イエスを信じる者は律法を守っていない、ないがしろにしたと考えたからである。しかし、神は律法を守ることを大切にしたのではなく、人間がいつも神を覚えて日々過ごすことを大切にし、そのために律法を与えた。律法は、一人一人がその人らしく生きることができるようにという神の導き、恵みでもある。パウロは、その恵みに気づき、律法を守ることではなく、神が一人一人を愛してくださる。その応答として神を信じる。一人一人が神に向き合うことの大切さを教え、かつ、神が一人一人を愛してくださることを示した。神は、一人一人と契約を交わしてくださる。一人一人に命を吹き込み祝福し、導いてくださるのである。
 私は今回、入院するほどの病気にかかったことによって、一人一人に祝福をもって神が命を与え、その命を尊び、導いてくださることに改めて気づかせていただいた。本当に、その喜びを感じ、涙を流した。一人、一人、その人として神は私たちと接し、愛し、導いてくださる。一人一人、神との契約に招いてくださる。その契約は、神が永遠であるように永遠である。そして、神は一度契約した者がどのようになろうとも忘れず導いてくださる。決して契約を打ち切ることはなさらない。パウロ、いや、聖書は、私たちにそのことを教えてくださっていると改めて確信した。一人一人の命を尊ぶ神の愛を確信していただければ嬉しく思う。そして、神の愛を多くの人と分かち合いたいと思う。
祈祷  愛なる神様、あなたは、一人一人を祝し、命を与えてくださいました。そして、命を大切にしてくださいます。それゆえ、神とアブラハムとの契約にユダヤ人だけではなく、御子イエスを通してすべての人を招いてくださいました。私たちは神と無条件に契約を交わすことができます。それは、永遠に神の守りのうちにあるということです。神は、一人一人を愛し、お導きくださいます。このことを多くの人と分かち合いたいと思います。神の愛する命を奪うことは神の御心ではありません。兵士は命令で争いに行かなければならない。それは兵士にとってさえも、怖いことです。しかも、そこで最も被害にあうのは弱者、子どもたちです。どうか争いがなくなりますように。互いに手を結びあう世として下ださい。新しい命の上に祝福がありますように。入院し、手術を控えている友のことを覚えます。どうか成功しますように、癒しの御手を差し伸べてください。暑い日々となっています。熱中症など心配されます。また、コロナウイルス感染も増加傾向にあります。どうか、すべての人、特に年を重ねられている方、子どもたちの健康をお守りください。自然災害で被災された方々をお守りください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますように支え、お導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。 アーメン


2022/07/03 聖霊降臨節第5主礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヘブライ人への手紙 12章 1~13節」  聖書朗読
12:01こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 12:02信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 12:03あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 12:04あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 12:05また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 12:06なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 12:07あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 12:08もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 12:09更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 12:10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 12:11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12:12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 12:13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

礼拝メッセージ:陣内 厚生 牧師「信仰の創始者また完成者」  皆さんは、この数か月というものを、どのような思いをもってお迎えになられましたでしょうか。かつて我が国の指導者たちが、いいえ私たちが日本の歴史を作り上げてきたのでありまして、私たちはその身近な歴史に責任をもって生きている存在に他ならないということを知らされているのであります。まして、キリスト者たる私たちには、明らかな問題意識と方向性、さらには展望が与えられていると言わなければなりません。今朝は、本日の聖句によって、そのことを考えてみたいと思っております。
 我々の日本の教会は、きわめて小さな集団であります。しかしキリスト教は、その前史を含む旧約の時代以来という歴史の長さにおいては、他の宗教の及ぶところではないものを持っております。小さな集団ではありますが、それを問題としないほどに、はるかに大きな伝統と豊かさを持っているのであります。聖書のいう歴史の中心とも言うべきイエス・キリストの到来と、その意味、神様の救済のドラマのなかに登場してきた人々の群像には、実に目を見張るものがあります。
 ヘブライ人への手紙の著者は、実際にはどのような人物だったのかはわかっておりません。そのことをはじめ、この手紙には、解明のできていない点が多々あるのです。それにもかかわらず、この手紙はイスラエル民族の歴史を顧みさせ、イエス・キリストの到来の意味を、必然のことと考える立場をとってきました。その点では、実に明快で一貫しているのです。つまりヘブライ人にとって、イエス・キリストは大祭司という存在であると位置付けているのです。神様は最愛の独り子をこの世に遣わし、その子イエス・キリストに責任と特権とを負わせ給いました。そのうえで、それに対応すべき人間の側の責任と特権とを教え伝えているのです。
 さて、旧約時代の信仰の先達の名前が出て参ります。彼らは、イエス・キリストを知りませんでした。それにもかかわらず、ちゃんと信仰をもって神様に従った人々でありました。11章には、それら登場人物の名が出てきております。彼らは、約束のものは手に入れませんでした。けれども、遥か遠くにその約束を望み見て、喜びの声をあげ、地上においてはよそ者であり、仮住まいの者であることを公にし、天の故郷を渇望したのです。それは、次のように言うことができます。信仰の報いは直ぐには現わされず、時間と空間の外において、遠き地を望見させるということ。そして、信仰は常に信仰者の一団を形成するということ。また同時期にではないながら歴代の信仰者の系譜、つまり「おびただしい証人の群れ」に囲まれているということです。この手紙の著者は、円形劇場の観衆を思い起しているのでしょう。私たちは、毎年行う「永眠者記念礼拝」において先達の写真を並べます。あたかも、彼ら先達が観客席を埋め尽くしているように。信仰者の一団、おびただしい証人の群れとは、そのように考えてみることができるのではないでしょうか。
 キリスト者たるものは、その観衆の注目の中にあって、懸命に競争を走り抜かねばならない、しかも決勝点をしっかりと見定めた走りをしなくてはならないのです。つまり、キリスト者の人生は漫然とではなく、先へ先はと進む巡礼の人生であります。ゴールは、他ならぬイエス・キリストであり、キリストの御前に出て、受け止めて頂くことが目標であります。
 しかし、そこには障害があります。最悪の障害は「重荷」であり、「絡みつく罪」であります。それらをどのようにして振り払っていくか、それが難問であります。私たちには、罪や重荷があり、それらが信仰の足を引っ張っているのです。私たちは、それらを気にする余り、中途半端な不安になったり、諦めたり、妙に妥協して安堵したりしているのです。しかし、それでは真の解決にはならないのです。私たちは、自身の生きているその影を飛び越えることはできません。実にそれは、ここにいる私たち一人ひとりを見ればわかるのです。私たちのなかに、誰が疲れた人、諦めた人、失望した人、悲しんでいない人がいるでしょうか。この世では高みにある権威的な者が何か頼りがいがあると思われ、それを仰ぎ見ることもしたが、しかしそれは制限された高みであるに過ぎないとわかると、疲れ果ててしまうのです。そこに、何か人生の分岐点ともいうべきポイントがあるのです。「かなぐり捨てる」ということには、証人たちの既に実現されている実例があります。「かなぐり捨てる」にふさわしい手ごたえがありそうです。それには、賭けるに値するものがあるのです。
 イエス・キリストは天においても地においても、一切の権能をもつ主であることを信じるべきであります。しかし、私たちの重荷や罪を良く見ると「十字架、私たちの生の影を形成する恥は担われ、取り去られた」という福音を聞くことを許されるのです。「あなたの重荷や罪は、もはやあなたのものではなくなるために、イエスが贖ってくださった。」たとえ、それが私たちを取り囲んでいても、それはただあるだけに過ぎません。主であり勝利者であるイエスがいて下さるゆえに、私たちにとっては脅威ではありません。そのことこそが、大きな力となるはずなのであります。
 もう一つは、「忍耐強く」ということです。それも奨めの一つであります。勝利者イエス・キリストを知ったならば、この忍耐は何かをつかもうとするための喜びの戦いに変わっていることを知るでありましょう。それは祝福に満ち、平和で希望に溢れた戦いであります。毎日、「神様はキリストにあって、この世とご自分を和解させてくださった」ということを真実たらしめることであります。私たちは、主が勝ち獲た勝利の実りをつかむために、そこにいるだけで良いのです。
 そして、イエスを仰ぎ見ようではありませんか。そのイエスは、自らの喜びを捨て、十字架の死をもって贖いを成就させ給いました。耐え抜かれたイエスであればこそ、私たちの贖い主となられたのです。「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです(2章18節)」。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神様の子イエスがあたえられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです(4章14,15節)」。イエスは信仰の創始者、完成者であられます。その祭壇にパルピットがあります。「α(アルファー)」と「Ω(オメガ)」があるのです。すなわち、初めであり終わりであります。すべてを解決して下さる方であられ、その全てなのであります。
 次に「信仰を鍛える」ということについて考えてみたいとと思います。私たちの教会は、信仰の喜びを発信すると共に、信仰を強化することも試みようではありませんか。信仰を鍛えるには、私たちは如何にすべきでしょうか。この手紙の著者は言います。「イエスの苦しみと比較するとき、今のあなた方の苦しみは、物の数ではない。イエスはあなた方のために、このようなことをされた。あなたはイエスのために、何をするのか。」と。求められているのは、高価な代価が払われたことへの私たちの応答であります。今の苦難、それは訓練として神様から与えられたものであります。父親が子を訓練するように、霊の父、神様は私たちをそれぞれに鍛えて下さるのです。手紙の著者は、「人生の苦難は神様が与える訓練であり、その訓練は私たちを傷つけるものでなく、最高の益をはかるものであると思いなさい」と言っています。そのことについては、様々な受け止め方があると思います。最もふさわしい受け止め方は、困難を愛の訓練と考える人の場合でありましょう。訓練はことごとく神様の愛から出たものでありまして、私たちの信仰の益を計ってのことであります。そのことを知るならば、私たちの自己憐憫、怒り、反逆、不平は消えるでありましょう。
 最後に、私が体験したことをお話したいと思います。私は20代の後半から60歳まで、山口県宇部市において伝道牧会を経験いたしました。そこは炭鉱の町であったため、在日の朝鮮人・韓国人が現在も2300人ほど住んでいるところです。市内には在日大韓教会もあります。ある時、一人の朝鮮総連の青年が聖書の勉強をしたいとして求道し、数か月後に洗礼を受けました。私たちは喜び、教会も彼を歓迎いたしました。しかし、一年ほど経ったとき、同朋や組織から厳しい非難が集中し、彼は精神的に追い込まれてしまいました。「先生、信仰をやめていいですか?」と言ってきたのです。私は彼を引き留め、「いまは辛いかも知れないけれど、君の存在と君の信仰が周りから必要とされるときが必ず来る。いまは忍耐し、時を待って下さい。」と申し上げました。その後、私は宇部から東京に転任しました。その4~5年後に、記念行事に呼ばれて宇部に参りました。その時、何と彼の母親が満面に笑みを浮かべて、私を迎えてくれたのです。洗礼を受けた彼女が、本当に幸せそうに教会で奉仕している姿を私に見せてくれたのです。私は神様の大きな恵みを知りました。主は生きておられ、今も働いておられることを知らされたのです。


2022/06/26 聖霊降臨節第4主礼拝

聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(1) 2章 1~5節」 02:01兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 02:02なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 02:03そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 02:04わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 02:05それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

礼拝メッセージ:本田 真也 執事「共にいてくださる」  (要旨の掲載はありません)


2022/06/19 聖霊降臨節第3主礼拝

聖書:新共同訳聖書「使徒言行録 4章 23~31節」  聖書朗読
04:23さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。 04:24これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。 04:25あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。 04:26地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』 04:27事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。 04:28そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。 04:29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。 04:30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 04:31祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「力を与えてくださる方」  私が大学院1年生のときの8月の一か月間、夏期伝道の実習を札幌の月寒教会で行わせていただいた。それは、本当に良い学びとなった。私にとって教会での説教は、そのときがはじめてだった。そのとき司式をしていただいた教会役員が、緊張をしている私が聖壇に上がる直前、「大胆に福音を語ってください」と私に言ってくださった。その一言で緊張が和らいだ。私なら「大丈夫、聴衆をかぼちゃだと思って」と声をかけたかもしれない。聖書箇所を思い出し、神さまが共にいてくださる。聖霊が導いてくださるということを改めて心に置き、説教を語ることができた。本当に感謝している。
 使徒言行録の使徒とは、イエスの12弟子といってよいであろう。イエスが天にあげられてからエルサレムにおける使徒を中心とするキリスト者の集まりは、原始キリスト教団といわれる。使徒言行録は、イエスが天に上げられた後の使徒たちの働きが記されている。前半は、ペトロを中心とした働きといってよいであろう。また、使徒言行録は聖霊による導きが中心にあると言ってよいと思う。それはペンテコステの出来事からもうかがうことができるであろう。
 弟子のペトロとヨハネはエルサレム神殿に行き、イエスの名によって足の不自由な人を癒し、イエスの救いを語った。一方、神殿の秩序を乱す者としてペトロとヨハネは捕らえられ、ユダヤの議員、長老、大祭司、その一族、つまりユダヤの権力者が集まり、取り調べを受けた。そこで、ペトロはイエスの救いを証言した。彼らの行いは良いものであり真実だったので、罰せられることはなかった。しかし二人は、もう誰にも話さないようにと権力者から脅されて釈放された。それが、本日の箇所の前の話である。つまり、当時、イエスを信じる者たちは、ユダヤ教権力者たちから行動を慎むよう圧力をかけられていた。迫害されていたのである。
 使徒言行録4章23節には、ペトロとヨハネは、釈放され仲間の所に帰ったとある。彼らは、取り調べを受けた出来事すべてを仲間たちに話した。そして、心を一つにした。「心を一つにし」とは、原始キリスト教団の模範的一致を示している。迫害、苦難の中でこそ一致が必要なのである。そして、神に向かって声を上げた。祈ったのである。神は、この世を創った。神は、この世の支配者といえるであろう。神は、ダビデを通して預言した。25節の途中からの二重括弧は、ダビデが作ったとされる旧約聖書詩編2編1、2節の引用である。ダビデは、紀元前1000年頃活躍した人で、イスラエル12部族を統一した文武両道、信仰の厚い王であった。詩編のそれは、王の即位に用いられた詩であると考えられる。詩編2編は、キリスト教においては、救い主、メシアの預言と理解され、クリスマスの時期に読むこともある。「諸国の民」とは、イスラエルの12部族の人々を意味していると考えられる。そこでイスラエルの民ではない異邦人、イスラエルの民、すなわちすべての民が、騒ぎ立ち、空しく声をあげたというのである。それは何を意味するのか。異邦人は父なる神の存在とその業を知らずに傲慢になり、また、イスラエルの民はこの世を創った絶対者である神を知っていながら、神の意思を見ず、独子イエスを迫害した。そして26節の「地上の王たち」とは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスやユダヤ州総督ポンテオ・ピラトを指している。当時、イスラエルはローマの支配下にあった。次の「指導者たち」とは、ユダヤ教の祭司長たちである。彼らは団結して神とその独子イエスに逆らう。つまり、イエスの十字架の出来事を、ダビデは詩編2編で預言していたというのである。十字架とは、イエスが民衆から王となると支持を受けたことに嫉妬したユダヤ教権力者によってなされた出来事といえるであろう。一方、28節では、イエスの十字架の出来事は神の計画であったとも言っている。
 そこで考えたいことがある。ユダヤ教は、異邦人と食事を一緒にとると汚れると考えていた。と言うのは彼らは、異邦人はユダヤ教の掟である律法を守っていないので罪がある、汚れていると考えていたからである。ユダヤ教権力者たちは、そのような考えを持ちながらも、自分たちの欲のためには異邦人であるローマのピラトをも利用したのである。自分たちの欲のため団結する。神を見ず、ただ自分の欲望にしがみついている。権力者たちの傲慢、横暴を思う。それは、心を一つにしたのではなく、欲望を一つにしたと言えるのかもしれない。ダビデは油を注がれて王となった。油注がれる、ヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストである。つまり、元来王とは神から油注がれ祝福を受け、役割を与えられ、神に代わりこの世において民を導く存在である。民を導くという意味では、ユダヤ教権力者たちも指導者として同様の立場だったと言えるであろう。それにも関わらず、神の思いではなく自分の思いばかりを考えた。しかも、元来手を結ぶことがないローマと手を結び、神の子であるイエスを殺した。それだけではなく、ユダヤ教権力者たちはイエスを信じる者たちをも迫害した。そこで、ユダヤ権力者たちはペトロとヨハネを脅した。ユダヤ教権力者たちは、エルサレム神殿、つまりユダヤの民の信仰を守るため、人々を惑わすキリスト者を罰したという理解である。しかしその考えは、自分たちの欲望を隠すための言い訳だったといえるのではないだろうか。神の意思を思わない過ちがそこにあるように思う。
 イエスの救いを述べ伝えることによって迫害を受けるという状況において、イエスを信じる者は何を求めたのであろうか。祭司長、ユダヤ教権力者から脅されている状況である。私なら、「私たちの命をお守りください、また、私たちを迫害する者を罰してください」と祈ったであろう。弟子たちを中心とするイエスを信じる者たちは、自分たちを守って欲しい祈ったのではなく、「大胆にみ言葉を語ることができるように」と祈り、神の力を求めたのである。それは、ともても驚くべきことである。自分たちの身を守るのではなく、神の救いを多くの人々に告げ知らせるため大胆にみ言葉を語ることができるようにと、神に求めた。自分たちの救いではなく、多くの人が救われるために祈った。それは、指導者としての真の願いといえるであろう。
 その「大胆に」という言葉が「正々堂々、また、堂々」と訳されていることがある。正々堂々、自分たちの行為が正しい、つまり、み言葉、イエスの救いを語ることこそ正しいという思いが、使徒たちにあったと理解できるであろう。神の意思を思い、正しいことを行っていると確信している。その思いは大切である。圧力、迫害では人を屈することはできないのである。
 本日の聖句は、誰より牧師であるわたしに勇気をくれる。また、キリスト者にとっても勇気づけられる聖句であると思う。なぜ、勇気づけられるのか。31節の最後に「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」とある。神、イエスこそ祈りの言葉を聴いてくださるのである。人々は、聖霊に満たされて祈り求めたとおり、大胆に神のみ言葉を語りだした。神、イエスは、いつも私たちと共にいて導きくださり、わたしたちの祈りの声を聞き、そのときに必要な力をお与えくださっている。だからこそ、私たちは勇気づけられ、一つになり、何をも恐れることなく神を讃美することができる。神は、私たちの声を聞きくださり力を与えてくださるのである。そのことを確信し、心を一つにし、福音を大胆に語り、イエスの救いを多くの人と分かち合いたいと思う。
祈祷  恵み深い神様、イエスが天に上げられた後、弟子たちはイエスの救いを述べ伝えました。一方、弟子たちは、ユダヤ教の権力者たちから迫害にあっていました。そこで彼らが祈り求めたのは、大胆にみ言葉を語ることができるようにとの祈りでした。神は、その声を聞いてくださり、力をお与えくださいました。イエス、神の救いを分かち合うことが最も大切であり、そのことによって多くの人は救いに与ることができます。どうか、現代の私たちも、大胆にみ言葉を語ること、また、イエスの愛をこの世に現わすことができますよう力をお与えください。心を一つにして歩みたいと思います。いま争いが終わりません。人と人とが争うことをあなたは求めません。争いは、憎しみを生み出し、平和は生み出されません。ただ悲しみが残るだけです。どうか、争いではなく、手を結び歩む世としてください。そのために私たちをお用い下さい。自然災害で被災された人々をお支え下さい。病の中にある友、入院をしている友の上に心身共に癒しの御手を差し伸べてください。新しい命を与えられたご家族の上に主の祝福がありますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。私たちが日々、感謝と喜びをもって歩むことができますようにお導きください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り、主イエス・キリストに御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/06/12 聖霊降臨節第2主日(子どもの日・花の日)礼拝

聖書:新共同訳聖書「申命記 6章 1~9節」  聖書朗読
06:01これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。 06:02あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。 06:03イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。 06:04聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 06:05あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 06:06今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 06:07子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 06:08更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 06:09あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「継承すべきこと」  14年前の8月のこと、父から連絡があった日のことを思い出す。医師から祖父が危険な状態だと言われたとのことだった。長女は生後5か月を過ぎていたので、家族一緒にその病院へ行った。祖父はICUにいるとのことだった。きっと危険な状態だろうと覚悟をしてICUに入った。すると、手をあげた祖父が「おう、秀樹か」というではないか。拍子抜けしたし、驚きもした。それどころか、祖父にとってはその日が初対面のひ孫を、祖父は抱っこしたいというのだった。私は長女を支えて祖父が無理なく抱っこができるようにした。すると祖父は満面の笑顔で長女をしばらく抱いていた。そのように嬉しそうな顔をした祖父を、私はあまり見たことがなかった。私は今でもそのときの写真を大切に保存している。祖父が元気そうに見えたので、次は一緒にお酒を飲もうと約束し、当時、牧会していた代官山に帰った。しかし二日後、祖父は天に召された。93歳だった。その時に、以前に父からよく聞かされていた話を思い出した。私たち家族は、私が2歳近くまで祖父母と同居していた。祖父は、2歳上の兄と手をつなぎ、赤ちゃんだった私をおんぶして、毎朝散歩に出かけたそうである。散歩の途中で祖父はいつも兄にあんパンを買い与えた。それで兄は太ったのだと、父は話していた。また、いつも私と兄を風呂に入れるのは祖父だった。絶対に、その役を譲らなかったそうである。祖父の話になると、私はいつも長女に「あなたは皆から愛されているのだよ」と、その話を聞かせる。
 さて、申命記とは、日本語で申(かさ)ねて命じるという意味がある。しかし申命記とは、勘違いからこの訳になった。それが実は内容的には適していて、エジプト脱出以来の出来事を振り返り、イスラエルの人々に、律法の精神をもう一度、教え諭している本だと覚えることができるのである。
 では、その律法とはいかなるものか。律法を守ればと救われるということなのか。律法とは、神の意思である。神は十戒、すなわち律法をイスラエルの民に与えた。人間からすると、十戒は、律法は神から授かった賜物、恵みである。律法を守ることによって契約を結んでくださった神が共にいてくださるということ、神が恵みをくださることを覚えながら日々の生活をおくるものであるといえよう。本日の箇所からも、それをうかがうことができる。申命記の6章8節9節にあるように、ユダヤ教では、頭、腕につける小さな箱がある。それはテフィリンという。その中に、本日の箇所と他の聖句が記された紙を入れている。また、イスラエルではホテルの部屋にもあるが、戸口に小さな箱をつけている。それをネズサといい、本日の聖句が記された紙が納めらえている。神がいつも共にあるということである。そのように律法は、守らなければならないという掟ではない。そこにあるのは、神の人間に対する愛と信頼といってよいであろう。
 申命記6章4節以下は、ユダヤ教において重要な聖句の一つである。十戒の要約ともいえよう。十戒の第一の掟は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、つまり、唯一の神を意味している。マルコによる福音書の12章29節以下には、「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』とある。第二の掟は、「『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」とイエスが述べている通りである。
 本日の申命記の箇所は、「シェマ」という。4節の「聞け」という言葉が、ヘブライ語でシェマだからである。一方、その「聞け」は、命令形で記されている。続く5節も、「あなたの神、主を愛しなさい」と命じている。神は、私たちに神を愛することを強制しているのであろうか。その愛は、人情や親切、情愛に留まらず、契約を忠実に守る姿勢、また、その意味で人の真心や真実で偽りのない心をいう。私たちは、掟を忠実に守り、真実で偽りのない心で神に向き合わなければならないといえるであろう。しかし、私たちにそのようなことができるのであろうか。
 聖書には、人間が神に背く姿が多く記されている。創世記には、神がアブラハムと契約を交わしてくださったことが書かれている。神の側から契約を結んでくださった。人間と共にあることを、人間を救うことを、神が自ら契約という形で縛ったのである。そのような理解があった。ルツ記を除く創世記から列王記下まで、イスラエルの民は神に背いてばかりいることが記されている。しかし、神は、アブラハムとの契約の故に、必ずイスラエルを救ってくださる。アブラハムの契約を原点と意図して、創世記から列王記を編纂しているのである。その理解を、私はとても気に入っている。それは、神と人間との関係を分かりやすく示していると思うのである。もちろん、神と人間との関係は、他の箇所にも記されている。12小預言書のひとつホセア書は、愛と真実の預言者ともいわれている。ホセア書の11章8~9節、エフライムとはイスラエルのことである。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」。旧約聖書学者の関根正雄は、ホセア書に記されている神の愛、つまりイスラエルは神を何度も裏切ったが、神は愛し、必ず救ってくださった。この愛を前提として、申命記のそ箇所の「あなたの神、主を愛しなさい」という言葉があるのだというのである。
 「聞け、イスラエルよ」と記されている。現代にとってイスラエルとは、神を信じる者のことであるといってよいであろう。なぜなら、神の独り子イエスこそ、神の愛はすべての人に注がれているのであるということを教えてくださったからである。イエスは、第一の掟として「唯一の神を愛しなさい」と、私たちに教えてくださっている。何かをしたから神は私たちを愛してくださっているというのではなく、創造主として無条件に私たちを愛してくださっている。だからこそ、私たちは神を愛することができるのである。大切なことは、まず私たちが愛されていることを確信すること。そして、7節にあるように私たちは、私たちの子どもたちに、繰り返し繰り返しそれらの言葉を語り聞かせるべきではないだろうか。神はあなたのことを無条件に愛してくださっている。だから神を信じ、神を愛するのだよと。そして、神を愛する者こそ、隣人を愛することができるのである。現代の私たちも、その言葉を聞き、そして、多くの人たちに述べ伝え、神の愛を分かち合い、継承したいと思うのである。また、そのことによって神の愛は広がっていくのである。
祈祷  愛の源なる神様 申命記には律法が記されています。律法は、守らなければならない掟ではなく、人間が神の御意思、御恵みを覚え、それを支えに歩んでいくことができるものです。神は、この世、人間をただ愛してくださっています。そのことが前提です。私たちは、愛されていることを確信し、その愛を多くの人と分かち合い、継承していきたいと思います。どうか、そのため、強め、お用いください。争いが開始されると、やめるという時をなかなか持つことができません。争いをやめることには勇気と決断が必要です。そして、そこで最も必要なのは民を愛し、守るということです。争いは憎しみ、悲しみしか生み出しません。争いで悲しみ、不安の中にある人々を守り、お支えください。そして、争いをやめる勇気と愛をお与えくださいますように。私たちにできることがありましたらお用いください。病の中にある方、検査入院をされている方、心身共にお癒しください。本来は、こども日・花の日礼拝の日ですが、この状況で子どもたちと共に讃美を守ることができません。イエスはこどもを招かれます。どうか、共に讃美できる日が早く来ますように。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました新しい一週間の心の糧をお与えください。そして、それぞれ散らされた場においてその人らしく歩むことができますよう、共にいてお支えください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/06/05 聖霊降臨節第1主日(ペンテコステ)礼拝

聖書:新共同訳聖書「詩編 122編 1~9節」  聖書朗読
122:01【都に上る歌。ダビデの詩。】主の家に行こう、と人々が言ったとき
わたしはうれしかった。 122:02エルサレムよ、あなたの城門の中に
わたしたちの足は立っている。 122:03エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い 122:04そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。 122:05そこにこそ、裁きの王座が
ダビデの家の王座が据えられている。 122:06エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。 122:07あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」 122:08わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」 122:09わたしは願おう
わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「平和の使者」  皆さんは、イスラエルに行かれたことはあろうか。私は18年前に行った。今もそうだが、イスラエルはパレスチナとの間に問題を抱えている。パレスチナ自治区に大きな壁を作り、行き来ができないようにしている。私が行った1か月前には、エルサレム市街地でバスのテロがあり、行っている間にもテルアビブへの攻撃があった。その時に、ガイドをしてくださったのは日本人だったが、エルサレムに住みユダヤ教徒として生活しているとのことだった。イエスが、その十字架の死の前に祈ったゲッセマネにも行ってきた。そこでガイドが、お土産をこの人から買ってくださいと男性をバスに入れた。彼は、障がいをもつパレスチナ人だった。そこでは争いがあるため観光客が少ない。困っているから彼から買ってほしいと、ガイドは話してくれた。また、イエス誕生の地であるベツレヘムは、パレスチナ自治区のため壁がある。そのような状況なので治安が悪く、観光客はベツレヘムに行かない。そのガイドは、ベツレヘムのそのような商売をするパレスチナ人とも通じていて、危ないことにならないようにイエス誕生の地に連れて行ってくれた。その後、そこの店でお土産を買った。店の人は観光客が来ないので困っていたとのことであった。そのガイドから私は、宗教、民族を超え困っているときにこそ助け合う人と人との関係を大切にすること、平和を望むことを、あらためて教えていただいた気がした。
 本日はペンテコステである。イエスが天に上げられた後、エルサレムに集まった弟子たちに聖霊が降り、イエスの救いを述べ伝える力が与えられたことを覚える時である。教会の誕生日ともいわれている。そこからイエスの救いが世界に広まったのである。
 旧約聖書の詩篇122編に心を傾けたいと思う。最初に「都に上る詩」とある。都とは神殿のあるエルサレム、つまり、巡礼を意味している。巡礼とは、宗教の聖地等にお参りすることといってよいだろう。エルサレム神殿には元来、モーセが神から頂いた十戒の刻まれた石板があった。また、神の命令によりアブラハムが、息子イサクを神にささげようとした場所、モリヤこそエルサレムである。つまりそこは、神がいる場所といってよいのかもしれない。
 聖書にある教え、律法には巡礼が定められている。本日の詩編の箇所で、まず見たいのは、巡礼という旅に1人ではなく仲間と共に行くということである。そして、エルサレム神殿にいることを喜んでいるのである。このような理解がある。「今、城門の所にいる詩人は、巡礼の仲間たちと出会いの瞬間を、喜びをもって回想するところから作品を始めている」。友と一緒に神を讃美できることの喜び、といってもよいかもしれない。今年の年間聖句である詩篇133編に連なるともいえる。イエスは述べた。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。3節を見ると「すべては結び合い」とある。イスラエル12部族の民が一つとなるといえるであろう。5節には「裁きの王座」とあるが、「公正の座」と訳した方がいいという理解もある。正しい神がおられる座と理解したいのである。
 この詩編で特徴的なのが、6節以下「平和、平安」を求めているということである。では、誰の平和を求めているのであろうか。6節以下の「あなた」は、エルサレムを指している。エルサレムの平和が求められている。昔からイスラエル、エルサレムは争いの多い場所である。イスラエルは、ペルシア湾からパレスチナにおいての肥沃の三日月地帯の端、また、ペルシア、アッシリア、エジプトなど大国に挟まれた戦争の絶えない土地なのである。聖書には争いが多く記され、敵を撃破する神の勝利などが記されている。しかし、この詩編の箇所には、そのような争いではなく、エルサレム神殿に集う民の和合への願いが語られているのである。
 この詩編の箇所は、民族統合、唯一の神、その神殿を前にして平和への願いを表明しているのである。そこで注目したいのは、先ほど述べたように、イスラエル12部族が一つとなること、つまりこの詩人の信仰には、歴史や伝統に深く根ざしながらも、単なる伝統や習慣を乗り越えていこうとする極めて人間的なものが現れていることがうかがえるということである。友のためにエルサレムはある。そのような信仰の在り方が、遠く隔たった時と所に生きている我々の心にも訴えている。旧約聖書の神は、イスラエルの民と契約を交わした。また、イエスを通しての神との契約の対象は、イスラエルにとどまらず、全ての人になった。つまり、神の民とはイスラエル12部族だけではなく神を信じるすべての民なのである。そして、イエスが述べた通り、神は神を信じる者と共にある。教会こそ神がおられる場所であり、祈りの地なのである。
 ペンテコステにおいて、エルサレムに集まるイエスの弟子たちに聖霊が降り、イエスの救いを述べ伝える力が与えられた。詩編122編は、エルサレムの平和を求めるということではなく、神を信じる者たちが互いに平和を求める場こそが神殿であるということ、そして神が求めておられることこそ、すべての人の和合という平和であると教えているといえるであろう。弟子たちがエルサレムから旅立ち、イエスの救いを述べ伝えた。それは神の求める平和を述べ伝えることであるといってもよいであろう。現代の私たちも、弟子たちと同じように聖霊が与えられている。友と共に平和を祈り求めたいと思う。友のことを祈るために教会はある。そのことによってこそ一つになるのである。
祈祷  恵み深い愛なる神様 ペンテコステ、弟子たちに聖霊が降り、宣教の力が与えられた日です。神を讃美するとは、神の愛する友と平和を求めることであると信じます。なぜなら平和であることによって、その人がその人としていることができるからです。弟子たちに聖霊が注がれたように、私たちにも聖霊が与えられています。私たちは、友のことを覚え、平和を祈るべきです。しかし、この世では争いが絶えません。どうか、指導者たちの心にあなたの愛を与え、その民がその民らしく歩むことができるようお導きください。また、病にかかっている方々に心身ともに癒しの御手を差し伸べてください。私たちにできることがありましたらお用いください。この礼拝を通して一週間の罪を赦し、今日から始まりました一週間の心の糧をすべての人にお与えください。そして、それぞれ散らされた場において、その人らしく歩むことができますようお支えくださいますように。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン


2022/05/29 復活節第7主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「イザヤ書 45章 1~7節」  聖書朗読
45:01主が油を注がれた人キュロスについて
主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り
国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ
どの城門も閉ざされることはない。
45:02わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし
青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り
45:03暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる
わたしは主、あなたの名を呼ぶ者
イスラエルの神である、と。
45:04わたしの僕ヤコブのために
わたしの選んだイスラエルのために
わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが
あなたは知らなかった。 4
5:05わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが
あなたは知らなかった。
45:06日の昇るところから日の沈むところまで
人々は知るようになる
わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。
45:07光を造り、闇を創造し
平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「災いを創造する神」  イザヤ書45章1節に記されているキュロスとは誰か。ペルシアの王である。彼に油が注がれる。「油注ぐ」とは、ヘブライ語でマーハーシーアハ、メシア、ギリシア語ではキリスト、つまり、救い主を意味する。本当にペルシア王のキュロスがメシア、救い主なのか。イザヤ書が記された時代、油注がれた者に「救い主」という意味はまだなかった。当時、「油注ぐ」とは、王の就任を示していた。神が選び、召した者に対して油を注ぎ、王とする。つまり王は、神から民を導くよう委託された者といっていいであろう。では、なぜペルシア王がイエスラエルの神から油注がれたのか。
 紀元前1,000年頃、ダビデによってイスラエル12部族統一王国となった。しかし紀元前922年、イスラエルは、エルサレム神殿のある南ユダと北イスラエルに分裂した。紀元前722年、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、紀元前586年、南ユダは、バビロンによって滅ぼされた。このとき多くの上層階級の人がバビロンに連れていかれた。それをバビロン捕囚という。それから約50年後、ペルシアがバビロンを滅ぼした。バビロンに連れていかれたユダの民はそのことによって解放され、エルサレムへの帰還、神殿再建等の希望を持つという歴史がある。
 本日の聖書箇所では、まだイスラエルはバビロンの支配下にあった。神がペルシアのキュロス王に油を注いだとは、ユダの民を解放させるためであった。唯一の神はユダの民が神に従わなかったので、バビロンを用いてこの民を罰した。しかし神は、ただ罰せられる方ではなかった。神とアブラハムとの契約によって、ユダの民は神の守りの内にあった。神は罰するが、一方、契約のゆえにユダの民を忘れることなく、異邦のペルシア王クロスを用いて救ってくださった。
 神はこの世を創造した神である。バビロニアの王もペルシアの王も、神が創造した被造物にしかすぎない。神はあらゆるものを用いて、契約を交わしたユダの民を導く。ペルシアの王は唯一の神に創られた者にしか過ぎない。神こそ唯一、絶対であるということが分かる。1節は、王の就任を示し、神がペルシア王キュロスを、ユダの民を救うために任命した。
 2節は、キュロスを用いユダの民を救うということ、また、キュロスに唯一の神を知らせると言うことが記されている。一方、キュロスは、唯一の神を認識しなかったということが、4節から記されている。3節、暗闇に置かれた宝、隠された財宝とは、バビロンの宝の倉の財宝であると考えられる。6節、「わたしは主、ほかにいない」と記されている通り、唯一神のほかに神はない。唯一の神であると自ら明らかにされ、すべての人が神を知るようになるというのである。
 さて、本日の箇所には疑問に思う言葉がある。それは7節「光を作り、闇を創造し、平和を造り、災いを創造する者」である。そこでは単純に、光と闇、平和と災い、相対するものを記している。つまり、最後にあるように「すべてを作る者」こそ神であるということを示しているといえるであろう。また、ペルシアのゾロアスター教の神と唯一の神、またキュロスとバビロニアを比喩的に記している。つまり、神でない者、それは闇、災いに陥る。真の神は、光、平和である。また、唯一の神に用いられたキュロスは光、平和、バビロニアは闇、災いということを比喩的に述べているなどと考えることができる。
 一方、疑問に思うというのは、神は災いをも創造したのかということである。神は本当に災いを創造したのか。実は、それはとても難しい議論となろう。というのは、神は義、正しい方である。その正しい方が災いを創造するのかと。災いを創造する神、それは神について人間が語ること、考えることの限界、神学の限界を突き破っていると記している解釈があった。たしかにその通りだと思う。わたしは単純に考えたい。確かに人間の理解には限界がある。それは当たり前のことである。人間は神ではない。人間が神を理解することなどできないのである。そこには絶対的な違いがある。人間にできるのは、神に語り掛けること、神を讃美することである。神は、敵をも用いて導く、また、他の神を信じるペルシア王キュロスさえ用いてユダの民を救う。それは人間の理解を越えている。実際、人間は知らないことだらけである。人間には禍だが、この世的には必要なものがあるのかもしれない。一方、神が災いをも創造したのなら、人間を襲う災いも神は支配しているので、必ず救いへと導きくださると理解できるのではないだろうか。災いをも創造する神とは、人間には思いもしない出来事が起こったとしても、人間には思いもしない出来事を通して必ず救いへと導いてくださるということが意味されているのではないだろうか。そのように考えると、わたしたちの希望、救いとなる。神が災いを創造するとは、神はすべてを支配しているということであり、どんな苦しいことがあっても、神は必ず救いへと導いてくださる。他の神を信じ、唯一の神を認識できないペルシア王キュロスを用いたように、人間には思いもしない方法で救いへと導いてくださる。その顕著なことがイエスの十字架である。神こそ、すべてを支配し、全てを用いて導いてくださる方であると理解したいのである。神は人間の理解を越えている。その神が、必ず私たちと共にいて導いてくださる。だからこそ神を信じ、神にすべてを委ねることができるのである。
祈祷  全知全能の神様 わたしたちには、様々な災いが降り注ぎます。しかし、あなたは災いをも創造しました。それは、この世のすべてがあなたの支配の中にあり、どのような災いでもあなたは必ず救いへとお導きくださると理解します。私たちは神を理解するはできません。あなたは私たちの想像を超えるほどの方であり、また、想像を超える愛なる方です。どうか、災い、苦しみの中にある方々をお支えくださいますように。一方、人間が災いを起こしてしまうことがあります。その一つが、争いです。争いは神の御心ではなく、人間の欲望にしかすぎません。そして、そこに救いはありません。また、国の指導者こそ、その民がその民らしく歩むことができるよう仕える者です。そのようにお導きください。また、自然災害で被災された方々をお守りください。私たちにできることがありましたらお用いください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン


2022/05/22 復活節第6主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ローマの信徒への手紙 8章 22~27節」 08:22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 08:23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 08:24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 08:25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 08:26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 08:27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「どうしたら祈れるの?」  嬉しい知らせが届いた。以前に筑波学園教会の教会員だったある方からの、結婚の案内のお手紙である。その中に「新型コロナ等の時勢なので、ご無理はなさらず、お祈りのうちに覚えていただければありがたく存じます」と記されていた。祈りの大切さを思った。祈られているというのは支えになる。祝福にもなる。祈りは、自分のことはもちろん、相手のことを思うことができる。しかも、全知全能の神にお委ねすることができるのである。それほど力強いことは他にない。
「祈りは魂の呼吸である」と、また「最大の罪は祈らないことである」と記している祈りの本があった。祈るとは、神との会話である。「祈りは魂の呼吸である」と、そして「最大の罪は祈らないことである」と記している祈りの本があった。祈らないとは、神を忘れている状態であるといえるであろう。一方、わたしたちは祈れないときがあるのではなかろうか。
 祈りは、イエスがわたしたちに下さった恵みである。ローマの信徒への手紙の8章15節には「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とある。聖霊によって導かれ、神の子とされるのである。そして、わたしたちは、「アッバ」、子どもが「お父ちゃん」と呼ぶ親しさで、神に呼び掛けることが、イエスによって赦されている。祈りはイエスの、神の招きといえるのかもしれない。
 では、聖霊とはいかなるものであろうか。聖霊は、目に見えない神・イエスの働きである。一方、わたしたちは、祈りの言葉が聴かれるのか、疑ってしまうかもしれない。ヨハネの黙示録の3章20節に「見よ、わたしは戸口にたって、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」とある。わたしたちが心の戸を開くのを、神は戸口に立ち、待ってくださっているのである。わたしたちが神に祈ろうと思うより前に、神は深い関心をわたしたち一人一人に向けてくださっている。ローマの信徒への手紙8章15節にあったように、わたしたちは神の子とされる霊を受けた。わたしたちは神の子であり、神は全てを知り、わたしたちが祈ることを待ち続けてくださっている。つまり、神は、わたしたちとの会話を楽しみにされているのである。子どもとの会話、交わりを楽しみにしない親がいるであろうか。交わりを喜ぶ、それが神の思いなのである。
 わたしがいた甘楽教会には幼稚園があった。あるとき、年少3歳の子どもが、わたしに「どうして『イエスさまのお名を通して』というの?」と聞いてきた。素晴らしい。ヨハネによる福音書の16章23節にあるように「あなたがたが何かを父に願うならば、父はわたしの名によってこれを与えられるであろう」と、イエスが約束してくださったからである。
 一方、何を祈っていいか分からない。上手く祈れないと思われる方もいるであろう。しかし、気にする必要はない。神はわたしたちの心を、わたしたち以上にご存知なのである。その上で、神はわたしたちが語りかけることを求めておられる。それでも、祈るというのは難しいと、恥ずかしいと思われるかもしれない。しかし、祈れないときには「祈れません」と神に述べればいいのである。それが祈りなのである。なぜなら神に語りかけ、苦しいという心の内を神に開いているのだから。
 では、上手に語るため祈りに訓練が必要なのであろうか。そこで、本日の聖書箇所のローマの信徒への手紙8章26~27節を見ると「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」とある。神・イエスの働きである聖霊が、人間の弱い言葉を神にふさわしい言葉に通訳し、神へと送ってくださるといえるであろう。その「霊自らが、言葉では表せないうめきをもって」という言葉を、どのように理解すべきなのであろうか。22節に、「被造物がうめき、生みの苦しみに味わっている」とある。被造物が人間の罪の巻き添えを食っているという理解がある。そして23節の「贖い」は、律法違反の罪の贖いではなく、それを越えた全人格的な贖いと理解できる。完全な救い、といえるであろう。被造物、わたしたち人間が救いを待ち望んでいるのを、神はご存じである。つまり、人間を含め被造物の苦難は、この世を創られた神の苦難であるといえるであろう。神こそ「言葉では表せないうめき」を知っておられる。そこで、被造物、人間の言葉にならない深い悲しみ、痛み、苦しみをも神は理解し、神の働きである聖霊が共にうめき、取り成してくださると受け取りたい。だからこそパウロは、聖霊抜きの祈りは不可能であるというのではないだろうか。
 わたしたちは、自分が祈っていると思っているのではないか。しかし、そうではなく神との会話である祈りは、聖霊によって導かれる出来事なのである。祈ろうという思いこそ、神の導きである。だからこそ、わたしたちの祈りは、神に聴かれているのである。特に顕著なのは、神の御前における礼拝の祈り、讃美の言葉である。
 26節にあるように、「聖霊が祈ることができるように内側から導いてくださっている」、「弱いわたしたちを助けてくださっている」のである。「弱い」とは、罪ある、すなわち神に背く、神の愛を忘れてしまうということである。そのような弱いわたしたちを、聖霊が共にうめき、助け、わたしたちの言葉を神に語りかけるにふさわしくしてくださる。祈る言葉を、聖霊が与えてくださるのである。だから、祈りに良し悪しなどない。神はわたしたち一人一人の言葉を、喜んで聴いてくださる。日々、祈りたいと思う。
祈祷  いつくしみ深い神様、あなたは、いつもわたしたちの心の戸口に立ち、祈ることを待ってくださっています。また、わたしたち、被造物のうめきを知り、共にうめき祈るべき言葉をお与えくださいます。そのように、神の子としてわたしたちをお招きくださいます。どうか、わたしたちのうめきを知り、祈る言葉を与えてくださいますように。特に、苦しみの中にある方々の声を聞き、お支え、お導きくださいますように。争いは、神の御心ではなく、最も弱い者こそが被害にあいます。どうか、まずその方々をお守りください。また、争うことをやめさせる力、勇気を指導者たちの心にお与えください。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。アーメン


2022/05/15 復活節第5主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ペトロの手紙(1) 2章 1~10節」 02:01だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 02:02生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 02:03あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 02:04この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 02:05あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 02:06聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 02:07従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、 02:08また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。 02:09しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 02:10あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神のものとなった民」  ペトロの手紙(1)が記された時代、この手紙を読むキリスト教徒は社会的に苦難を受けていた。そこでペトロは、苦しみの中にあっても神を信じ、イエスに倣い正しいことを行おうと述べている。イエスの受けた苦難を、共に負うという恵みとして受け入れようと教えているのである。また、正しいことを行っていれば、いつか人々も理解し、結果的にキリスト教は社会に浸透し、社会を変革してゆくことになるだろうという希望を、著者ペトロはキリスト者に示している。
 本日は、ペトロの手紙(1)の2章1節以下に心を傾けたいと思う。「石」という言葉が目に留まるのではなかろうか。パウロもローマ書9章33節で、イザヤ書を引用し「「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。(6節)」と記している。また、イエス自身も、マルコによる福音書の12章10節で、詩編を引用し「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。(7節)」と述べている。ペトロの手紙でも、同様に旧約聖書をその箇所引用している。そこでも「石」は両義的な意味を持っている。建築物において石は、土台などとして中心的な働きをなす。一方で、道にある石によって人はつまずいてしまうことがある。ユダヤ人たちはイエスを信じなかった。つまり、ユダヤ人にとってイエスは神へと導くものではなく、つまずきであった。
 しかし、シオン、エルサレムにおけるイエスの十字架を計画した方こそ神であり、そこに救いがある。またイエスは、罪人として処刑されたが、十字架が救いとなり、信仰、救いの礎になった。そのように苦難を受けたイエスが、信仰、救いの頭石になったのである。神は苦難を通して、救いへと導いてくださる。だから、イエスを信じる者も「生きた石」としてイエスに倣いなさいと、ペトロは述べているのである。ペトロ自身、イエスから「ペトロ」すなわち「岩」と名付けられた。ペトロはイエスに述べたように、イエスを信じる者たちを信頼し、「生きた石」になるよう呼び掛けていると言えるであろう。
 では、イエスに倣うとは、いかなることであろうか。10節にホセア書を引用し、この手紙を読む者たちや苦難にあっている者たちを、神は憐れんでくださると記している。「憐れむ」とは、相手の立場になって同情し、行動をすることである。つまり父なる神はその御子を、人と同じ肉をまとわせてイエスとしてこの世に与えたことによって、真の憐れみを示し、この神の御子イエスを受け入れることによって、同様にして神の子となり、「神の民」とされたのである。大変なことだが、神、イエスを信じる者こそ、イエス、神の憐れみに倣うべきであると言えるのではなかろうか。
 一方、そのように苦難にあっている者に「イエスに倣い歩みなさい」という言葉は、厳しいように思える。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です(9節)」。この言葉は、王の系統、しかも祭司という特別な権威をキリスト者には与えられるということであろうか。そこでは特別な権威ではなく、神がイエスを信じる者の側にいてくださるということを意味しているのである。選ばれた民、苦難にあっている者たちにとって、それは励ましの言葉となる。神が選び、神の民として守り導いてくださるといえるであろう。
 「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです(9節)」。神、イエスは、暗闇から光の中へと招き入れてくださった。暗闇、どのように歩むべきか分らない状況から、歩むべき道を光によって照らし、招いてくださったのである。つまり神は招いてくださる方であり、その招きに条件などはない。招くというのだから、一人ひとりをよしとし、肯定して下さってということに他ならないと思うのである。
 そこでもう一度9節を見ると、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と書かれている。それはイエスの存在を表す称号として用いられる言葉である。イエスは、王、祭司、預言者、聖なる方、神の子などと呼ばれた。神を信じる者も、祭司、聖なる者、神のもの、つまりイエスと同じ称号が与えられる。イエスと同じ存在として、神はわたしたちを招き、受け入れて下さるということである。「わたしたちもイエスと同じ神の子とされる」といっても過言ではないと思う。しかも「神のものとなった」。神を信じる者は、神のものとして大切にされ、愛されていると言っていいであろう。
 今回この聖句を読み、なぜ食事、パンでなく、「乳(2節)」なのかと思った。皆さんは、どのように思われるであろうか。赤ちゃんのように、まず求めなさいということであろう。そのような解釈があった。「初歩的な教え」である。わたしは、そのように理解した。この手紙を読む人々は、ユダヤ人ではなく、異邦人が多かったと考えられる。つまり、神、イエスに出会ったばかりの人たちである。または、初心、神に出会ったときのように救いを求めるべきだということか。同時に、赤ちゃんには乳が必要なように、神はいま必要な栄養をお与え下さるということなのではないかと思ったのである。神を信じる者たちを憐れみ、いま必要な恵みを神はお与えくださる。恵みを求めなさい。神は、わたしたちを憐れみ、いま必要な恵みをお与えくだる。そして、神の民として導いてくださる。現代のわたしたちに対しても同様である。神は、神の民としてわたしたちを招き、憐れんでくださっている。神の恵みを求め、イエスに倣い歩みたいと思う。そのことによってこそ、すばらしい世となるのである。
祈祷  憐れみ深い神様、あなたは、御子イエスに苦難を与え、十字架にけられました。それは、今もなおわたしたちの苦難を共に負って下さっているということです。どうか、苦難の中にある一人一人と共にありますように。そして、その場においてイエスに倣うことができますように。また、そのため、いま必要な恵みを与え下さい。イエスに倣い歩むことにより、この世に神の栄光を表すことができます。それは神の愛がこの世に満ちることであり、この世はきっとよき方向へと歩むことができるようになります。どうか、わたしたちをそのためにお用いください。特に、この世の指導者の心に愛を満たし、争いを止め、手を結び歩むことができますように。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げ致します。アーメン


2022/05/08 復活節第4主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネの手紙(1) 4章 13~21節」 04:13神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。 04:14わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。 04:15イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。 04:16わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 04:17こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 04:18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 04:19わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 04:20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 04:21神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「神の戒め」  ゴールデンウィークは、祈祷会を休みにしていただいた。小学生3年生の息子が、東京の地下鉄メトロが大好きなので乗りに出かけた。つくばを8時頃に出て、5時40分に帰宅するまでの間、食事の1時間を除いてずっと路線を変えながら地下鉄に、ただ乗っていた。なぜ息子が地下鉄が、それもメトロが好きなのかは分からない。新幹線の方がかっこいいと感じるように思うが、息子は一番好きなのはメトロとのことである。それを本人も説明できない。神様が人間に与えてくださった賜物に、好き、好奇心、興味を持つということがあると思う。そこから学びが生まれる。賜物なのだから、好き、興味を持つことに理由などいらないと思う。小さな赤ちゃんを見たときに、ほとんどの人がかわいいと思う。そこに理由などいらない。かわいいと思える賜物を与えてくださった。神様は一人一人に様々な賜物をくださる。その創造の業は本当に素晴らしいと思う。ただ感謝するのみである。
 さて、日本においてキリスト教、キリスト者は、一般的に良いイメージを持たれていると思う。優しいとか、隣人を愛するなど。一方、全ての人を愛することなどできない。だからキリスト者になれないという意見を聞いたことがある。
 本日の聖書箇所のヨハネの手紙は、ヨハネによる福音書と同様に、愛という言葉が多く記されている。「神は愛です」。そのことから本日の箇所を好きな聖句としている方も多いと思う。13節に「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内に留まって下さることが分かります」とある。わたしたちの心というより、この世、そして、教会という共同体であると理解できる。それは、神から離れてしまうこの世的な中に、神が入ってくださるということであり、神の霊を通して神の愛、導きをわたしたちは知ることができる、気づくということに他ならないということである。それは、また、わたしたちの希望になる。
 15節に「イエスこそ神の子であると告白する者は、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまる」と記されている。「その人の内」とある。12、13節には「わたしたちの内」と複数形で記されている。だから教会等の共同体、この世の内と理解できる。一方、15、16節は、単数形、ある人の内に神がとどまってくださるという。そこでは、キリスト者、人間と神との相互内在性を述べている。これは、2章18節以下に記されていた「反キリスト」が教会内部を惑わしているという背景があると理解できる。そして、18節の「恐れ」とは、世の終わり終末の到来が背景にある。「世の終わりに神の裁きがある。また、惑わす者たちが現れる。しかし神を信じる者は、心の内に神がいてくださるので恐れることはない」というのである。
 16節に「神は愛です」とある。最初にキリスト教、キリスト者は一般に良いイメージを持たれていると述べた。神は愛であるから神を信じる者も愛なる人であるというイメージがあるのだろう。本当にそうであろうか。本日の箇所の最後にも「神を愛する人は兄妹を愛すべきです。これが神から受けた掟です」と記されている。神を信じるわたしたちは、その掟として「愛さなければ」ならないのであろうか。
 わたしは「掟」という言葉に躓きを感じる。「掟」には、行わなければならないというイメージがある。では、神は、愛することをわたしたちに強制しているだろうか。その言葉は「掟」のほかに「戒め、委託」と訳すことができる。「戒め」とは、罪を犯さないよう注意するという厳しい意味である。「委託」という言葉を聞くと、そこに信頼関係があるというイメージがある。神は、わたしたちを信頼し、愛しなさいと述べている。確かに信頼されていることは嬉しい。しかし愛さなければならないことには変わりない。そこで考えたい。「神は愛です」。つまり、愛の源は神である。その神が、わたしたちの内にいてくださる。その箇所を調べていると、「愛とは何か」との問いのこたえが「賜物」であるという解釈があった。愛される資格などない人間であるにもかかわらず、神はわたしたちを愛してくださっている。弱く、欠けのある人間を、ありのまま受け入れてくださっているのである。その愛ゆえに独り子をこの世にお遣わしになった。そして、神の前に立つことができるようにしてくださったのである。そのため独り子に苦難を負わせた。独り子イエスの苦しみ、痛みは神様自身の痛みである。痛みを負うほどこの世を愛してくださった。わたしたちは神にいやおうなしに愛されてしまっている存在なのである。それだけではなく愛を賜物として与えられてしまったのである。愛された者だからこそ愛することができる。「兄弟を愛する」の前提は、まず神によって愛され、愛がわたしたちの内に賜物として与えられているということなのである。先ほど、反キリストがヨハネの教会を惑わしていると述べた。それによって教会で分裂が起こりそうである。内部分裂こそが危険である。だからこそ「兄弟を愛しなさい」と記されている。この世、教会等共同体の内、それだけではなくわたしたちの心の内にも神がいてくださる。神に愛される資格もないわたしたちにも関わらず、神はわたしたちの内にいてくださる。わたしたちが愛するのではなく、愛する力を神がすでにわたしたちに与えてくださっているのである。争うこと、分裂することは神の意志ではない。なぜなら、神は愛だからである。愛こそ、和解する力、一つになる力なのではないだろうか。また、愛することによって神がわたしたちの内にいてくださることを実感することができる。わたしたちが愛するのではなく、愛なる神が共にいて、愛する力を与えてくださる。愛は神との共同作業であるといえるであろう。愛することから大きな力、働きが生まれる。神から愛という賜物を与えられていることを確信したいと思う。それほどに大きな支えは他にない。
祈祷  愛の源なる神様、神様は愛です。すべての愛は神様から出ています。わたしたち一人一人、神様から愛をいただいています。だからわたしたちは他の人を愛することができます。愛することは掟ではなく神様から頂いた賜物です。わたしたちは神様から愛されてしまっている存在です。そして、愛するということによって神様、イエスさまがわたしたちの内にいてくださることを気づくことができます。どうか、神様が与えてくださった最も大切な愛という賜物を用いることができますようにお導きください。そして、この世にも争いなど分裂ではなく、和解と一致が待たされますように。そのためわたしたちをお用いください。この礼拝を通して一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この小さき祈り主の御名を通して御前にお献げいたします。アーメン


2022/05/01 復活節第3主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 10章 7~18節」 10:07イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 10:08わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 10:09わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10:10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 10:12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 10:13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 10:14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 10:15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 10:16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 10:17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 10:18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「私は良い羊飼い」  羊飼いに皆さんはどのようなイメージを持っておられるであろうか。のどかな牧草地で羊たちを見守っているほのぼのとした姿ではないだろうか。旧約聖書の詩編23編4節に「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」とある。羊飼いたちが持っている鞭と杖は、羊を強盗、また狼などの獣から守るための武器である。羊飼いは、羊の群れを毎朝牧場へ連れ出して草を食べさせ、水を与え、夕方には囲いに連れ帰るだけではなく、昼夜を分かたず、野獣や盗賊から群れを守っていた。それは危険が伴う仕事だったと考えられる。
 本日のヨハネによる福音書10章7節以下でイエスは「羊飼いである」と述べ、また羊を守るために命をも惜しまないとも述べている。羊のために命を捨てるというのは、当時の羊飼いとしては、ありうる出来事と考えられる。羊飼いたちが、夜に焚き火をし、羊の番をするとういうのも、獣から羊を守るために、寝ずに番をしていたのである。羊の持ち主に忠実であればあるほど命をかけて羊を守る。それは羊に対して責任を果たすということである。
 ヨハネによる福音書の10章7節でイエスは「わたしは羊の門である」と、そして11節では「わたしは良い羊飼いである」と自分のことを形容している。ヨハネによる福音書において特徴的なことの一つである。イエスは自分を証しするとき「わたしは……である」というふうに述べ、自分を定義する。その言葉の背後には、旧約聖書で神が自身を明らかにしたときの言葉があると考えられる。神は、出エジプト記やイザヤ書で、自身を明らかにするとき、「わたしは……である」といっている。イエスも神と同様の言い方で自身の存在を明らかにした。それは、わたしたち人間に対してイエスが、どのような存在であるかを宣言したといえる。
 宣言するとは、どのような意味があるのか。ひとつに自分がどのようなものであるかを明らかにしている。また、イエスがわたしたちに自分を開いているといえる。そして、宣言したということで考えられるのは、責任が伴うということである。現代では、選挙のときには、立候補者は公約を宣言する。「わたしが当選したあかつきには・・・を行います。だから、皆さん投票してください」と宣言する。それは、公に宣言しているのだから、責任が伴うということであり、ある意味では契約であるといえるのではないだろうか。ところが、人間は弱いもので、公約をあやふやにし、守らないことがある。しかし、神、また、その一人子イエスは異なる。わたしたちに宣言したことを必ず成し遂げてくださるのが神、その独り子イエスである。イエスが「わたしは……である」と宣言したということは、イエス、神の救いが成し遂げられるということを意味する。神は、人間を創った。そこには人間に対する責任が伴う。神は、その責任として人間を導く。また、神はアブラハムと契約を結んだ。神は、人間との救いの契約に自ら縛られたともいえよう。神の側から契約を破ることはない。神は導き手である救い主の到来を人間に約束した。神は、神の権能を与えイエスによって約束を果たした。いや、それは、現在形で今もなお行われているのである。
 イエスは、「わたしは良い羊飼いである」と宣言した。つまり、イエスこそ、神が遣わした人間を導く羊飼いであるということである。神の約束がイエスによって成し遂げられた。そして旧約聖書で、神が自身を明らかにした言葉と同じ言葉を用いてイエスは、自分こそ神が約束した救い主であると宣言しているのである。わたしたちにとって、これほど力強い宣言はない。
 イエスは「わたしは…である」と、自分自身を定義している。それは、ヨハネによる福音書において、様々な場面で見ることができる。イエスは、命のパンであり、世の光であり、羊の門であり、良い羊飼いであり、復活であり、道であり、真理であり、命であると証し、宣言している。
 なぜ、イエスは、そのように自分を明らかにしたのであろうか。「わたしは……である」というのは、偽者を前提としている。9節の「盗人」、12節の「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人」は、自分たちの思いによって神から離れている人々であると理解できる。「盗人」は、当時キリスト者を迫害していたユダヤ権力者たちであると考えられる。「自分の羊を持たない雇い人」とは様々な解釈があるが、私は誤った導きを行っているキリスト教指導者と受け取りたいと思う。つまり、門であるイエスをきちんと理解せず、自分たちの思いを中心に置いてしまった人々である。しかしこのわたしたちも、そのような過ちに陥ってしまうことがある。だからこそ大切なのは、イエスを通して神と向き合うことなのである。
 決してイエスは人間を置き去りにはしない。イエスの心にあるのは、いかに人間を正しい道に導くかということに他ならない。13節に、悪い羊飼いは「羊のことに心をかけていない」と記されている。逆に言えばイエスは、常にわたしたちに心をかけてくださっているのである。
 イエスこそ、わたしたち人間のために命をかけ、救いに導いてくださっている方である。わたしたちは、自分の命をも投げ捨て守ってくださるイエスを信じたい。イエスは、そのために自分を定義する言葉を用い、何をする者かを宣言してくださった。イエスこそ良き羊飼いなのである。イエスがわたしたちに心をかけ、自ら開かれたように、わたしたちもイエスに心を開き、善き羊飼いであるイエスの導きに従いたいと思う。
祈祷  ご在天の恵み深い神様、あなたは、人間と契約され、約束された救いを成就してくださり、今もなおわたしたちを救いに導いてくださっています。御子イエスは、ご自分を様々な言葉で言い表されました。あなたは、イエスとはどのような方であるか、救いに導いてくださる真の方とはいかなる方かをわたしたちに知らせるため導いてくださっています。わたしたちが、御子とわたしたちの関係をより深く考え、そして、その導きに気づくことが出来ますようお導きください。この世にあなたの愛が満たされますようにここに集うわたしたちをお強め用いくださいください。この小さき祈り主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン


2022/04/24 復活節第2主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「ヨハネによる福音書 20章 19~23節」 20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 20:22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「平和があるように」  19節にある「その日」とは、十字架につけられ死んだイエスが三日目に蘇りマグダラのマリアの前に現れた日のことである。それは日曜日の朝の出来事であった。弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、家の戸に鍵をかけていた。そのユダヤ人たちとはユダヤ教権力者たちで、イエスを迫害し十字架につけるよう扇動した者たちである。イエスの弟子たちは、イエスが迫害され十字架につけられたように自分たちも迫害されるのではないかとおびえ、不安を抱き隠れていたのである。彼らをわたしたちは批判できるであろうか。彼らに対し恐れずイエスの救いを述べ伝えるべきであるとわたしたちはいえるであろうか。弱いわたしはきっと弟子たちと同じことをするに違いないと思う。批判はできない。一方、彼らは最も偉大な力を忘れていた。つまり、鍵をかけていたというのは、この世の力に対しおびえ不安になってしまったということ、そして神とその独り子イエスの力を理解していなかったということである。彼らは、闇の中にいたといえるであろう。
 そこにイエスが入ってきた。イエスにとってこの世の鍵など何の効力もない。イエスは闇の中にある弟子たちのもとに来てくださった。それこそが、わたしたちにとっての希望である。そこにイエスを信じる共同体、すなわち教会とはいかなるものであるかがよく表れていると思う。教会に、わたしたちの真ん中にイエスはいつもいてくださるのである。同じようにイエスは、わたしたちの心の鍵を解き、心の真ん中に入ってくださるのである。イエスは「あなたがたに平和があるように」と述べた。そのことばは、イスラエルの日常の挨拶である。イエスは十字架で釘打たれた手、槍で刺されたわき腹を弟子たちに見せた。イエス自ら、十字架につけられたイエスであるとことを明らかにされた。弟子たちの心を理解し、自ら弟子たちの不安を取り除いてくださった。イエスこそ、わたしたち人間より先に声をかけ、自身を開いてくださるのである。そして、神の救いを述べ伝える責任を与え、息を吹きかけたのである。ヘブライ語で聖霊は、もともと「息」という意味を持っていた。宣教へと派遣するため、聖霊を弟子たちに注いだ。つまりそれが、ペンテコステの出来事である。そこで宣教の業として罪の赦しを弟子たちに委ねたのである。それはすばらしいことである。そのように言えるであろう。弟子たちにイエスの持つ罪の赦しの権能を与えた。逆に弟子たち、そして、イエスを信じる者は、隣人を赦すことができるのだとイエスがいってくださっている。そこにあるのは、無条件の信頼である。弟子たちは信頼されている。嬉しいと同時に重要な責任である。イエスは、鍵を閉めた弟子たちを決して叱ることなく、ありのまま受け入れてくださった。弟子たちは既に赦されていたのである。救いに与っていた。赦された者こそ赦すことができるのである。
 さて、本日わたしは、イエスが弟子たちに述べた「あなたがたに平和があるように」という言葉に注目したい。それはヘブライ語で「シャローム」である。確かに、古くからイスラエルの民が用いている挨拶である。一方、イエスはそこで二度もその言葉を述べている。ヨハネによる福音書で「シャローム」は、イエスと深いかかわりのある言葉なのである。弟子たちとの別れの告別説教といわれる箇所がある。14章27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」、16章33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。そこに平和、シャロームが用いられている。既に弟子たちはイエスから平和、つまり、支え、力を受けているといえるのではないだろうか。そしてイエスが弟子たちに、そしてわたしたちに対して与える平和は、一時的なはかないものではない。いついかなる時も与えられ、かつ、永遠にかかわるものなのである。イエスは、弟子たちに息、聖霊を吹きかけた。つまりイエスが世に勝っているように、弟子たちもイエスにより既に世に勝ち、心を騒がせることもおびえる心配もないと聖霊の働きを通して導かれている。イエスがいつも一緒にいてくださるということを示しているのである。聖霊とは目に見えないイエスの働きといってよいであろう。
 実は、当時の教会の人々も、ユダヤ教からの迫害を受けていた。だからそれらのイエスの言葉は、当時の教会の人々にとっては、たとえ迫害にあっても信仰をもって歩むための勇気づけ言葉だったのである。それはわたしたちにも与えられている。そしてそれは、闇から光へと導いてくださるイエスの導きでもある。創世記、天地創造で人が息吹を吹きかけられ生きる者となったように、闇から光に歩むことができる新たな創造、新たなる者としての歩みの力をイエスが弟子たちに与えてくださったということなのである。そして、弟子たちがイエスから罪の赦しの権能、述べ伝えられた福音、救いを現代のわたしたちも与えられている。つまり、わたしたちも復活のイエスに赦され、救いを述べ伝える力、新たなる者とされ闇から光へと歩むための息吹、祝福が与えられているということなのである。いまのわたしたちも様々な状況にある。喜びの救いを知らされ、ありのまま受け入れられた者として、その喜びを多くの人と分かり合いたいと思う。その喜びの救い、福音を多くの人と分かち合うことによってこそ、この世に真の平和が訪れるのである。
祈祷  愛なる神様、あなたは独り子をこの世にお遣わしになり、私たちの罪を赦し、不安、おびえ、重荷を共に負ってくださいます。それだけではなく闇から光へと希望の道を示し、新たなる者としての力をお与えくださっています。どうか、復活のイエスが、真ん中に立ち、全ての人と共にありお導きくださいますように。そして、この喜び、平安を多くの人と分かち合うことができますよう私たちを神の御用のためお用いください。また、世界では争いが起こっています。指導者に真の愛を示し、真の平安へと歩むことができますようお導きください。  地震がありました。不安の中にある方々をお支えください。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリスト御名を通して御前にお献げいたします。アーメン


2022/04/17 復活日(イースター)礼拝

聖書:新共同訳聖書「コリントの信徒への手紙(1) 15章 1~11節」 15:01兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 15:02どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 15:03最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 15:04葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 15:05ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 15:06次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 15:07次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 15:08そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 15:09わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 15:10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 15:11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「復活の証人」  コリントの信徒への手紙はパウロによって記された。パウロはユダヤ教の教えである律法を厳守するファリサイ派に属していた。キリスト教は律法をないがしろにすると考え、キリスト者を迫害していた。しかし復活のイエスがパウロに現れたことにより、パウロはイエスこそが唯一の神の子、救い主であると信じイエスの救いを宣教する者となった。
 1節に「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」とある。福音とは良き知らせであり、パウロにとって良き知らせである救いは、イエスの十字架と復活にあった。4節などから十字架と復活は、神によってなされた救いの業であること理解できる。
 では、イエスの復活は、本当の出来事なのか。3節以下が復活の証拠、根拠である。聖書とは旧約聖書のことである。そこでパウロが、どの箇所を示したのかは明確でなく、旧約聖書全体であるといえるであろう。また、3節はイザヤ書53章、4節はホセア書6章などからの引用と考えられる。十字架、復活の出来事は旧約聖書に預言され、イエスによって成し遂げられたとパウロはいう。5節以下に、復活のイエスと出会った人の名前が記されている。ケファとは、使徒ペトロのことである。復活のイエスは、ケファ、12弟子に現われ、その後500人以上の兄弟たちに同時に現われた。また、イエスの兄弟ヤコブ、全ての使徒にも現われたとある。そして8節、パウロは復活のイエスと出会ったと自分のことを付け加えている。「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現われた。」「月足らずで生まれた。」それらは西洋語諸訳の伝統としての日本語訳である。その言葉は「早産」あるいは「流産」と二つの説がある。ある学者は、「月足らずで生まれた」ではなく、流産、死産を支持し「生まれそこない」と訳している。それは現代では差別語だが、古代人のパウロには差別語という感覚はなかった。もちろん、神はすべての人を祝福し命を与えたので、生まれそこないなどいないのである。パウロは、ひどい言葉を用い自分を表した。つまり、パウロは自分を卑下し、罪人であると自覚していたということである。
 復活のイエスがパウロに現れ、パウロは本当の救いを知った。それはイエスの十字架による罪の赦しであった。律法を守らなければ救われない、律法を守るという自分の行為によって救われるという考えから離れ、パウロはありのままを受け入れてくださる神の恵みのみによって救われることを知った。つまりパウロは、復活のイエスによって変えられたのである。新たなる者とされたのである。
 10節に「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです」とある。パウロは、自分の力でイエスの救いを述べ伝えたのではなく、すべてが神の働き、恵みであると述べている。復活のイエスに出会ったパウロは、決して自分を誇らない者となったのである。
 コリントの教会の人々は、パウロを通して復活のイエスに出会い、救いに与り、新たなる者とされた。コリントの教会の人々もまた、神ではないものを神と信じていた。パウロの宣教により誤った道から引き出され、真の道へと導かれたのである。
 4節に「復活した」とある。これはキリストが復活した状態であるということを意味している。つまりそれは、過去の出来事が今も継続しているということである。復活のイエスは、今もパウロと共にあり、パウロに恵みを注ぎ、復活の証人として用いている。また、キリスト教徒を迫害していたという罪を、重荷を、十字架のイエスがパウロと共に負ってくださっている。それと同じようにわたしたちは、パウロを通して復活のイエスと出会い、復活のイエスによってありのまま受け入れられ、新たなる者とされ、そして、復活のイエスの証人として用いられているのである。
 パウロは以前、自分こそ律法を完全に守り、救われると確信していた。しかし、復活のイエスに出会ったことによって、その根底が崩された。律法を守るという自分の力によって救われるのではなく、神の恵みによって、イエスの十字架によってのみ救われるということを知らされた。自分は生まれそこないであると自覚したパウロだからこそ、神ではないものを信じ、誤った道を歩んでいる人々の心を理解し、真の道、神へと導くことができたのではないだろうか。キリスト者を迫害した者であるにもかかわらず、いや、そのような者であったからこそ神は、パウロを用いた。そこにあるのは神の大いなる愛、神の一方的な恵みに他ならない。なぜなら、パウロが欲したのではないから、復活のイエスがパウロに現れ、罪の赦しを知らしめたからである。わたしたちも自分の力ではなく、神の前で謙虚になりたいと思う。復活のイエス、神は、わたしたちに思いもよらない恵みを一方的に注いでくださる。神の恵みこそわたしたちを生かす力であり、救いである。イエスが復活したように、わたしたちも復活の恵みに与り新たな者として神の、イエスの恵みの証人として歩みたいと思う。
祈祷  いつくしみ深い神様、復活のイエスは、キリスト者を迫害していたパウロに現れました。そこにこそ神の一方的な恵があります。パウロは、自分の力ではなく、神の恵みによって救われると気づきました。わたしたちは、パウロを通して復活のイエスと出会い、罪赦され、新たなる者とされます。わたしたちもパウロのように復活のイエスの救いを多くの人と分かち会うことのできる者としてください。争いで悲しみの中にある方々を覚えます。特に子どもたちの上に主の豊かな恵みがありますように。指導者が横暴ではなく神に生かされている者として謙虚になりますように。また、新型コロナウィルスが収束しますように。主の復活の恵みがすべての人にありますようにお願いいたします。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリスト御名を通して御前にお献げいたします。アーメン


2022/04/10 棕櫚の主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 14章 32~42節」 14:32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 14:33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 14:34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 14:35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 14:36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 14:37それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 14:38誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 14:39更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 14:40再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 14:41イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 14:42立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「祈り」  本日は棕櫚の主日といい、イエスがエルサレムに入城し、十字架へと向かったことを覚える日である。マルコによる福音書の14章32節以下は、ゲッセマネの祈りと呼ばれる箇所である。その祈りの後すぐ、ユダの裏切りによってイエスは捕らえられた。イエスは病人を癒し悪霊を追い払うなどの奇跡を行って、人々からはユダヤの王となると期待されていた。そこでユダヤ教の権力者たちは嫉妬し、また自分たちの地位が脅かされていると思い、イエスを捕え、殺そうと計画したのである。それが十字架の出来事である。  最後の晩餐を終えたイエスは祈るために、ゲッセマネという場所のオリーブ山に弟子三人を連れて行った。そこでイエスはひどく恐れ、もだえ始めた。そして弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と語った。
 イエスは、これから起こる拷問と十字架という苦難を「無くしてください」と3回以上祈った。しかもイエスは弟子たちから離れ祈っていた。それは、静かに誰にも邪魔されずに神に語りかけ、神と一対一で向かい合った。わたしたちはそこから少しでも、イエスの苦しみを理解しようとすることができるのではかろうか。拷問、そして十字架という苦しみの中で死なねばならない、しかもそれが間近に迫っていた。苦しみを受け、死ぬときを知っていたという恐ろしさ。そのようなことが、わたしたちに耐えられるであろうか。
 そこにはイエスの弱さが記されている。拷問と死刑を前にした者の死に向かう姿であるともいえるであろう。人間は弱く、死に対して恐れと不安を感じる存在だと思う。神の子であるにもかかわらず、イエスは人間として死を受け入れなければならない。人間にとって絶対といえるのは、神は全知全能であるということと、わたしたちは死ぬべき存在であるということである。神の独り子であるイエスでさえ死に対して恐れを感じ、死を受け入れるため何度も祈っている。わたしは、ゲッセマネの祈りのイエスの姿をそのように受け取りたい。イエスは、わたしたちに弱い姿を見せることによって、苦難のときに何が大切なのかを示してくださっている。
 イエスは拷問と十字架に対して「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈った。御心、神の意思とは、イエスの死を指しているのであろうか。そうではないと私は思う。人間の死を神が求めるであろうか。イエスは、人間の罪をその身に負い十字架に掛けられた。神は、殉教をわたしたちに求めておられるのであろうか。そのようなことはない。神は、天地を創造し、一人ひとり人間に命の息吹を注いだ。命を与える神が、人の死を望むはずがあない。そこでの御心とは「人間を救いへと導くこと、愛に生きること」ではないだろうか。イエスの「御心に適うことが行われますように」との祈りは、「神の愛に従い生きる者としてください、わたしを神の御用のために用いてください」ということであると受け取りたい。イエスは、どのような状況にあろうとも神、その愛に従って生きた。神の愛に従い生きる者としてイエスは、弱さをわたしたちに見せてくださっているといえるのではなかろうか。イエスは、弟子たちに「死ぬばかりに悲しい」と弱音を吐き、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」と悩み祈った。そしてその場に、弟子たちを連れて行ったのである。それは、人間に弱さを隠さず見せてくださるためであると思うのである。「わたしは、神の独り子であるが、わたしイエスは人間として弱さを持っていて、拷問、十字架という苦難を恐れる存在なのだ」と、わたしたちに示してくださっていると受け取りたいのである。つまり、人間は弱い存在なのだと。まさにそのような重要なときに、弟子たちは寝てしまった。イエスは、寝ていた弟子たちに「心は燃えても、肉体は弱い」と語った。それは、イエスが弟子たちを叱ったということなのであろうか。弟子たちを励ましたのではないかと、わたしは思うのである。「人間は、弱い存在であるが、弱いことは悪くない、だから自分の弱さを知り、弱さを受け入れ生きていけばいいのだ」と。イエスご自身も自分の弱さを人間に示してくださった。そして、イエスがその弱さの中で行なったのが、神との会話、祈りだったのである。イエスは、ご自身の弱さを隠すことなく神に向かい、ありのままを述べた。そして神は、嘆きを受け入れてくださっていたのである。
 「人間は、決して強い存在ではない。だからこそ神に祈ること、語りかけることが許されているのだ。苦難、悩みに襲われるとき、いやどのような時も神に祈りなさい。それほどの支えは無い、神は祈りを通してわたしたちと共に居てくださるということを確信させてくださり、そして、力と支え、すなわち、前に歩くよう導いてくださるのだ。祈りによって神の意思、愛を知ることができる」と、このゲッセマネの祈りを通してイエスは教えてくださっているのではないだろうか。
 イエスは、十字架へと向かうその苦難の中で自らの弱さを隠すことなく、ありのままわたしたちに示してくださることによって、「わたしも弱さを持っているのだ」と、眠ってしまう弟子たち、そして、弱いわたしたちを受け入れてくださっているのではないだろうか。イエスは、わたしたち人間の弱さを受け入れてくださり、弱いからこそ神に祈ることの大切さ、いや、神に祈るという力を教えてくださっている。イエスは、その祈りを通して神への祈りに招いてくださっているのである。
祈祷  慈しみ深い神さま、御子イエス・キリストは、あなたの御心に従うため、祈りのときを持ちました。そこで人間としての弱さを見せています。人間は弱い者であるとわたしたちを受け入れると共に、祈りこそ人間を支える大切なものであると教えてくださっています。わたしたちは祈ること、あなたに語りかけることを許されていますことを感謝します。また、自分のことだけではなく他者のことを思い、祈ることのできる者とならしめてください。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。この祈り主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。アーメン


2022/04/03 受難節第4主日礼拝

聖書:新共同訳聖書「マルコによる福音書 10章 32~34節」 10:32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 10:33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 10:34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

礼拝メッセージ:上原 秀樹 牧師「決断」  マルコによる福音書10章33節以下でイエスは、自分の苦難と復活を予言している。その苦難の予言は、三度目になる。イエスは自分が受ける苦難を知っていたのである。しかも、そこでは十字架のことは言っていないが、他の箇所で詳しく苦難の出来事を述べている。イエスはユダの裏切りによって、ユダヤ教の祭司長たちや律法学者たちに売り渡されることになる。ユダヤ教の権力者の祭司長、律法学者たちは、イエスが人々から王になると期待されていることをねたんでいたと考えることができる。そしてイエスは、当時ユダヤを支配していたローマから派遣されていたユダヤ総督に引き渡され、鞭打たれ、裁判の結果十字架にかけられた。
 弟子たちは、イエスの十字架の予言を既に聞いていた。イエスがなぜエルサレムに向かうのかを、少しでも弟子たちは理解しているべきだった。しかし32節で、イエスが先頭に立ちエルサレムへ向かおうとすると弟子たちは、驚いたというのである。そこに弟子たちの無理解が示されている。弟子たちにはイエスの行いがまったく理解できていなかったのである。
 一方、32節には「従う者は恐れた」と記されている。驚く弟子たちに対して、恐れ従う者たちがいたということである。そこでは敢えて驚く弟子と恐れ従う者を区別していると考えることができる。従う者たちは、イエスがエルサレムに向かうことが悪いことだと察知できたのかもしれない。というのは、エルサレムはユダヤ教の中心地であり律法学者や祭司たちの活動の中心地でもあった。それまでイエスを陥れようとエルサレムから律法学者、祭司たちがイエスの元に来た。今度は、逆にイエスがエルサレムに向かうというのだから、恐れたというのは当然のことと考えられる。推測にしかすぎないが、この恐れた者たちは女性であると考えることができる。イエスが十字架にかけられるその場にいたのは、弟子たちではなくイエスの母マリア、マグダラのマリアなど女性たちだった。そこでイエスがエルサレムに向かうことが恐ろしいこと苦難であることに気付いたにもかかわらず、イエスに従った者たちがいた。その人々は、どんなことがあろうともイエスに従うということを決断した人々であったといえるであろう。イエスに従うことこそが、神の思いに適うことであると考え、決断したといえるのではないだろうか。
 さて、32節の前半には「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」とある。イエスは、先頭に立って進んだのである。指導者として、人々を導くイエスが先頭に立つのは当たり前のことと思われるかもしれない。しかしここでは、あえて「先頭に立って」と記されていることに意味があると思う。イエスは、「エルサレムに行けば苦難に会う、そこには十字架の死刑という苦しみが待っている」ということを知っていた。それにもかかわらず、先頭に立って進んだ。そこにイエスの固い意志と決断が表されている。つまり、十字架という苦難を受けることが神の意志であり、イエスは神の意志に従う。神の求めていることが何か考え、知り、決断した。その背後にあるのは、十字架によって全ての人の罪を共に負うという神の愛の業である。イエスは、神の愛、思いを理解し、決断したのである。
 一方、「イエスが先頭に立って」ということにこそ意味があると思うのである。イエスは先頭に立ち、弟子たちをイエスの苦難の場に連れて行った。それは、イエスがこれから行うことを、弟子たちが理解できるよう導いている。それは、イエスと共に歩むことの意味を知るということ、そして、苦難を共に負うことの意味を知るということである。イエスは、十字架を通して人間の重荷、苦難を共に負ってくださった。イエスは弟子たちに、隣人の苦難を共に負うことの意味を伝えようとしていたのではないかと思うのである。つまり、イエスの愛の業の意味、それに倣うということである。
 わたしたちも、このイエスの決断に倣うべきだと思う。何が神の意志、何が神の思いなのか考え決断をする。決断することの一つに信仰を告白する、洗礼を受けるということが上げられると思う。もちろん神は、愛をわたしたちに注ぎ、導いてくださっている。同時に神は、人間に自由を与えてくださっている。人間には、神を信じない、神に背くという自由もある。そこで、神の愛を知っている者としてわたしたちは、どうするかの決断をするときがあるのではないだろうか。洗礼を受けるということだけではない。日々の生活の中で、何が神の思いなのか考え、決断すべきなのである。その決断の判断の基準こそ、イエスの愛の業なのである。わたしたちはイエスの愛に倣い、決断をしたい。
 最後に一つ加えさせていただきたい。神は、わたしたちが考え、決断したことを否定しない。それはわたしたちを信頼しているからである。もしそれが善い結果を生み出さなくても、神は叱りはしはないであろう。きっと、そのときわたしたちを受け入れてくださる。だから、わたしたちはまた前に歩むことが出来るのである。それこそが、神の愛であり、イエスの十字架の業こそ、誤りを犯してしまうわたしたちを受け入れ、新たに歩むよう導いてくださる出来事なのである。無理解であり、十字架を前に逃げ出した弟子たちも、その後、イエスの愛の業を述べ伝える決断をした。神、イエスは、失敗した弟子たちを受け入れ、歩む力を与えてくださる。わたしたちは、神、イエスに愛されている者として、神の思いは何かを常に考え、イエスに倣い決断する者となりたいと思う。
祈祷  愛なる神さま、御子イエス・キリストは、苦難が待ち受けていることを知っているのにも関わらず、決断しエルサレムに向かわれました。イエスが受ける苦難は、神の意思であり、人間を救いに導く神の業です。イエスこそ、神の意思に従い、愛の業を行われました。わたしたたちは、イエス、神の愛を理解できない時があります。しかし神の思いを考え、イエスに倣い決断することができますようお導きください。そして、もしわたしたちが失敗した時には、どうかあなたが受け入れ、再び歩む力を全ての人にお与えください。4月になり新しい歩みが始まりました。それぞれの歩みを祝してくださいますように。今日、集うことのできない友を覚えます。あなたの御前にあるのはここに集う私たちだけではなく、ここに集うことのできない友もそれぞれの場においてあなたを讃美するときを持っています。また今、全世界で行われている礼拝の上、御前にある方々にあなたの上に聖霊を注ぎ、全ての人が心を一つに合わせ讃美する時としてください。そして、この一週間の罪をあなたが赦し、今日から始まりました一週間の心の糧を一人一人にお与え、それぞれの場に遣わし、その人がその人らしく歩む事ができますようお支えください。アーメン

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