19 Feb. 2012 降誕節第9主日礼拝
12:10その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。 12:11エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。 12:12エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。 12:13どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」 12:14アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。 12:15ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。 12:16アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。 12:17ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。 12:18ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。 12:19なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」 12:20ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。
12 Feb. 2012 降誕節第8主日礼拝
04:02わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 04:03なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。 二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 04:04主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 04:05あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 04:06どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 04:07そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
4節に「主において常に喜びなさい。」とあります。喜ぶことが私たち信仰者に与えられた最大の義務ではないかと思います。
しかし、喜べないことも多いのです。どうすれば、常に喜ぶことができるでしょうか。
3節には「福音のためにわたしと共に戦ってくれた」とあります。
福音は喜びの知らせという意味ですが、そのためには戦いが不可欠なのだということではないでしょうか。
困難が襲ってきたとき、最初から諦めるしかないというのではなく、もし戦うことができるなら、それは希望です。
手段がなく、最初からギブアップというのでは、希望がまったくないのです。
また、この戦いには、「共に戦ってくれる」戦友が不可欠であることも、パウロは語っています。
教会の友こそが、困難なときに、喜びを得るために共に戦ってくれる戦友です。
困難自体がなくなることはないかもしれませんが、共に苦しみ共に泣いてくれる友がいることが喜びなのです。
もう一つ、喜ぶための秘策として「広い心」という言葉が5節に示されています。
これは、閉じられていない心の状態を意味しています。
苦しみや悲しみに私たちの心は取り囲まれていますが、神様とイエス様、そして聖霊との間においては、閉じ込められてはいないのです。
そこはオープンです。そこから必ず人知を越えた神の平和が私たちに与えられています。
このように私たちと神様とをつなげ、閉じ込められたときにもそこに風穴をあけ、私たちに必ず喜びを与えて下さいます。
その、何よりものよりどころが「祈り」であると6節に語られています。
5 Feb. 2012 降誕節第7主日礼拝
04:31イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
04:32人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
04:33ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
04:34「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
04:35イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
04:36人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
04:37こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
04:38イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
04:39イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
04:40日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
04:41悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
イエス様が悪霊を追い出したこと、病人を癒されたことが記されています。
今から2000年も前の時代には、いろいろな病気の原因など、ほとんど分かっていなかったでしょう。
そんな時代の迷信として一蹴することもできると思うのです。
しかし今でも、不治の病やなかなか解決できない家族のトラブルなどを抱えた人が、祈祷師とか霊能力者などと言われる人たちを頼りにして、法外な金品を取られてしまったという話を聞くことがあります。
したがって、聖書に記されたこの出来事を、単に迷信として片付けてしまうことはできないと思うのです。
もちろん、いたずらに悪霊を恐れるようなことは、してはいけないのですが・・・。
34節と41節に、悪霊の言葉が記されています。
悪霊はイエス様がどんなお方なのかを分かっており、そうでありながら、イエス様を拒んでいます。
不思議なことに悪霊は、神様のすばらしさがいっぱいに満ちているのがイエス様であると、知っているのです。
私たちも、そのことが心の底から分かったとしたら、どうしてイエス様を拒むことがありましょう。
むしろ、どんなに阻まれても、神の聖が満ちているこの方に近づき、接しようとするはずです。
私たちは、そのようにしてイエス様につながり、神の聖を頂いている存在ですから、私たちには悪霊は取りつくことができません。
聖霊を注がれている者に、悪霊は住み着くことはできないのです。
29 Jan. 2012 降誕節第6主日礼拝
12:01主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
12:02わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
12:03あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
12:04アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
12:05アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
12:06アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
12:07主はアブラムに現れて、言われた。
「あなたの子孫にこの土地を与える。」
アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
12:08アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
12:09アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
バベルの塔の物語の最後には「主がそこから彼らを全地に散らされた」とあります。
散らされた者の代表として、また散らされることをしっかりと自身の信仰において受け止めることのできた人として、アブラハムという人物が登場してきます。
まず1節には「主はアブラハムに言われた」とあります。
アブラハムはどうして突然自分に語りかけてきた存在を「神」であると信じることができたのでしょう。
それは、はるか大昔から、彼の先祖であるノアの信仰が、家の宗教というような形でずっと継承しされてきたことが、根底にあるからではないかと想像します。
もしかしたら形骸化していた信仰だったかもしれません。
しかしあることをきっかけとして「生きた信仰」へと変化したのではないでしょうか。
その出来事というのが、11章の最後に記されている妻サライの不妊と父テラの死ではなかったかと思うのです。
跡継ぎが与えられないまま父を失ったアブラハムは、はじめて真剣に神様と向かい合い、淘汰のではないでしょうか。
自分たちの家族の将来はどうなるのか、父に代わってこの家族を導く私はどこへ向かえばよいのか、と。
悩みの中で神様を呼ぶとき、神様はかならずこたえてくださいます。
神様のこたえはどこから出発してどこへ向かうのかを指し示すものでした。
「生まれ故郷・父の家」とは、たとえば私たちが留まっていたいと思う安住の地を表わしています。
しかし神様は私たちに、そこから出発せよとおっしゃるのです。
どこへ向かうかというと、聖書には「私の示す地」と書かれているだけです。
神様がここで具体的な地名を告げてはいないのです。
それは、ある意味ではどこでもよいということなのです。
ただそれがどこであっても、それが神様の示す地であると信じ、そこに至れば神様に祝福をいただけると信じて出発すればよいのです。
22 Jan. 2012 降誕節第5主日礼拝
03:17兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。 03:18何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 03:19彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 03:20しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 03:21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 04:01だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
17節でパウロは「わたしに倣う者となれ」と言っています。さらに「わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と言っています。
パウロがこのように語ったのは、フィリピ教会の人々の目が、パウロたちではなく伝道者たち(18節でパウロは「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」と酷評)に向けられていたという現実があったからでした。
彼らは自分たちを、完全な者だと豪語し、非の打ちどころのない者だと吹聴していました。
パウロの弟子のテモテにしてもエパフロディトにしても、伝道者として未熟であったり病弱であったりでしたし、またパウロ自身も伝道の働きに支障があるほどのとげを負っていました。
彼らは、非だらけの伝道者でした。
パウロは、そんな自分たちをお手本とせよと言い、彼らを倣ってはならないと言うのです。それはいったいなぜなのでしょうか。
パウロはイエス様を、たとえて言うならよい主人やよい主治医のような「また救ってくださる方」として信じることのできるすばらしさに
3章8節で言及していました。
だとすれば私たちは、その召使いであり患者であるということになります。
そのどこに素晴らしさがあるというのでしょう。
しかし、実際に病気になった人、自分では自分のことをどうにもしようがなくなってしまった辛さを体験したことのある人には、この素晴らしさがよくわかるものなのです。
パウロが酷評した伝道者たちは確かに非の打ちどころのない人たちかもしれませんが、この辛さを知らない人たちです。
19節の「腹を神とし」とは、そういうおのれを頼りとできるありさまなのです。
イエス様は、そのようなお方ではありませんでした。
十字架の出来事とは、つきつめれば、イエス様が自分で自分を救えない境遇に身を置かれたことです。
そんなイエス様を神様はお救いになったのですから、その現れこそが復活なのです。
15 Jan. 2012 降誕節第4主日礼拝
04:16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
04:17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
04:18「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
04:19主の恵みの年を告げるためである。」
04:20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
04:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
04:22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
04:23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
04:24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
04:25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
04:26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
04:27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
04:28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
04:29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
04:30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
イエス様は、イザヤ書61章1~2節を朗読され、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。
人々の感想として「その口から出る恵み深い言葉に驚いて」と書かれていますから、恐らくイエス様が人々に話されたことは、まず何よりも神様の恵みが皆に注がれているのだ、ということであったに違いありません。
貧しい人たちや病人たち、捕らわれの身の人々にも神様の恵みが注がれている、ということは、いったいどのような形で実現しているのでしょうか。
かの大震災から10が月余りが過ぎて、いま雇用保険が切れる人たちが出始めているとのことです。
また、10万人以上の人たちが失業状態にあると報道されています。
そのような境遇にある人々も、このイエス様のみことばによって神様の恵みが注がれていると言い得るのでしょうか。
そういう状況に置かれているとき、私たちは「神様の恵みなど注がれてはいない」と考えます。
しかしイエス様が言われているのは「そういうあなたがたにこそ恵みが注がれている、そのことに私を通して気づきなさい」ということなのです。
イエス様が、そのことの目に見えるモデルなのです。
そのイエス様がイザヤの言葉を語るのですから、本当なのです。
イザヤの言葉は「主の霊が私の上に」で始まっています。
主の恵みとは聖霊のことです。
イエス様は、そもそも聖霊によってマリヤ様に宿られました。
人として生まれ、様々な苦しみを経験されました。
そのこと自体が、聖霊の宿りの結果として起きたということ、まさしく神様の恵みが注がれていることなのだと気づきなさいと、私たちに語りかけているのです。
8 Jan. 2012 降誕節第3主日礼拝
11:01世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:02東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:03彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:04彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:05主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:06言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:07我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:08主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:09こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
1節に「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」とありますが、これは文字通りの意味ではなく「同じ価値観を抱いていた」という意味でしょう。
どういう価値観だったかというと、彼らはみな大洪水を生き延びたノアの子孫ですから、彼らは「いかにして災いにあわないか」あるいは「災害から遠い地で安住できるか」ということだったと思います。
それは2節、3節の記述ににじみ出ています。
シンアルの平野というのは、かの世界四大文明の発祥地であるチグリス・ユーフラテス川に囲まれた肥沃な場所で、定住するには地味の豊かなよい土地です。
しかし、よく洪水が起きたところでもありますので、洪水に備えて堅固な町や家が必要でした。
だから、レンガやアスファルトでの工夫をしたのです。
このような聖書の記述は、決してただの荒唐無稽な物語ではなく、人類の歴史に合致している事柄なのです。
今の人類は、わずか数万年前にアフリカを出発した数十人単位の家族にさかのぼることがわかっています。
(これはまさしくノアの家族と重なります。)
その家族が、幾多の困難や災いに直面しつつ、それを乗り越えて今の人類となっているのです。
したがって私たちもまた、今なおノアの子孫と同じ価値観を抱いている存在と言えるのです。
それは、できうる限り災いから遠い地で安住することであり、さらには4節に書かれているように、より高くより豊かな社会を築いて生活を守ろうとすることなのです。
しかし神様は天から降ってきて、生き延びるうえでこのような価値観しか抱けない私たちに、まったく違う価値観を与えてくださったのです。
「降って」というみことばが、じつに意味深く感じられます。
「上に上に」ではなく「下る」価値観もあることを私たちに示しているのです。
1 Jan. 2012 降誕節第2主日礼拝
03:10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
03:11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
03:12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。
何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
03:13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
03:14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
03:15だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。
しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
03:16いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
12節と15節に「完全な者」という言葉があります。
ギリシャ語の原文では、テレイオスという言葉です。
これはテロス(目標・到達点)から派生した言葉で、既にゴールに到達した如く自足し、何ものにも動かされない境地に到達した人をあらわす言葉でした。
当時のギリシャ・ローマ世界では、理想的とされた状態で、自分はまさしくそういう者だと豪語する伝道者たちがおり、フィリピ教会の人々は、そのような伝道者に牧師として来て欲しいと願っていたようでした。
しかしパウロは、これらの伝道者のことを「犬ども」と言って激しく非難しているのです。
もし私たちの信仰がテレイオスといわれる境地に侵食されてしまうと、信仰の大黒柱がダメになってしまうというのです。
3章8節には「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」とあります。
パウロは、イエス様を私の主人として、また救い手として信じるということに尽きるといっているのです。
私たちは、良い主人の僕(しもべ)であり主治医によって救われる患者に過ぎません。
僕や患者にすぎないというのは、まさにテレイオスな状態とは正反対、何一つ自分自身では足りていない者です。
しかし、そこにこそ喜びがあり、慰めがあるというのが、私たちの信仰の大黒柱なのです。
10節以下には、「キリストとその復活の力とを知り」、「その死の姿にあやかり」とあります。
要するに「イエス様の十字架の死と復活のすばらしさ」なのです。
ご自身を無にされた姿、またイエス様を裏切り閉じこもることしか弟子たちをものともせずに平安や喜びをお与えになったイエス様、この方のこのありようこそが私たちの到達点なのです。
私たちは、この目標をめざしてマラソンランナーのように走るのです。
03:01では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。
同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
03:02あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
03:03彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。
わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
03:04とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。
だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
03:05わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。
律法に関してはファリサイ派の一員、
03:06熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
03:07しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
03:08そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
03:09キリストの内にいる者と認められるためです。
わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
03:10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
03:11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
61:01主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
61:02主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知して
嘆いている人々を慰め